Prep. 1 ディゴリー・カークについて

 ディゴリー・カーク(のちのカーク博士)とポリー・プラマーの生まれ年については、魔術師のおいの最初の章を参照してみます。
 まず、シャーロック・ホームズが活躍していた背景は80年代から90年代であり発行は87年でした。宝島は83年に発行されました。ナルニアへ行ける子供たちの年齢はおそらく10歳前後であり、かつ少なくても83年発行の宝島を読んでいる年齢であるわけですね。 バスタブルの子供たちの宝捜しの発行は99年。
 つまり「魔術師のおい」の時間の今現在はそれ以降でなければなりません。したがって、きりよく1900年を現在とし、それから単純に12年前をディゴリーの生まれ年、11年前をポリーの生まれ年となっています。
 ディゴリー・カークは幼年期をイギリスの片田舎で育ち、自分の子馬を持ち、庭には小川が流れていたようで、どうやら典型的な英国庭園を持った家に住んでいたようです。英国式の庭園は、自然を利用していて、かつノン・パークでもないため、維持するのが大変だとか・・・。でもフランス式の整形庭園より、風景的な英国庭園の方がわたくしは好きです。
 父親はインドの会社へと単身赴任しています。この頃のイギリスのサラリーマンの典型かもしれません。
 母親は病気だったために、父親とはいっしょに行けなかったようです。よってディゴリーもイギリスに残ることになったようです。そして、病気の養生ならば田舎で、だれかお手伝いを雇った方がよいものを、わざわざ都会のロンドンへと移させたのは、いよいよ病状が悪化し、田舎の医者では埒があかなかったせいなのかもしれません。
 イギリスからインド・・・というと小公女セーラちゃんを思い出すのですが、彼女もまたインドへ行く両親と別れて寄宿学校へ入れられてしまいます。どんなにお金持ちでも子供はイギリスへ残していくということは、インドは教育機関がまだ思うほど整っていなかったせいなのかもしれませんね。
 そして、ディゴリー少年と母親のメイベルはロンドンに住んでいる叔父と叔母(メイベルの兄と姉)のもとへと身を寄せます。ここには女中さんがいて、仕事もしない叔父が十分暮しているのでそれなりにお金はあったのではないかと推測されます。ケタリー家は大おばあ様(ディゴリーから数えて)のルフェイが妖精の血をひいている最後の人間であり、もしもルフェイが子供を残していなくても、その気質はアンドルーに感じる所があったようすです。ということは血筋的にはディゴリーにも伝わっていた可能性もありますが、ディゴリーが妖精のチカラを発揮した記述はありません。
 冒険の後、父親がカーク伯父の遺産を相続して、ディゴリーたちはその後ロンドンを離れます。父親はその時、義兄であるアンドルーも屋敷に引き取ります。そのカーク伯父の屋敷はのちの物語に出てくる゛由緒正しい有名なお屋敷"だそうなので、カーク伯父は爵位かなにかを持っていたのかもしれません。
 その後、ディゴリーが中年になってから、ケタリー家を買い取り、嵐で倒れてしまったリンゴの木でたんすを作ります。1940年代に入ってから、晩年のディゴリーは父親が譲ってくれた遺産を手放すほどの貧乏になったようなので、もしかすると私財をなげうって研究するような分野の学者だったのかもしれませんし、太平洋戦争の頃なので、戦火の巻き添えになったのかもしれません。独身で過ごしたのか、奥さんもいないようなので、ペヴェンシー4兄弟とのつながりは彼らの父親を介していると思われます。

 さて、ポリーですが、ディゴリーが田舎の屋敷に引っ越した後もたびたび交流があったようです。が、ポリーとディゴリーがいっしょになったという後日談はありません。「さいごの戦い」にすこし登場するだけですが、彼女の存在がカーク博士の人格を形成した要因であることは疑う余地もありませんね。ふたりは永遠によき友人だったようです。

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挿し絵については岩波書店ナルニア国ものがたりより選び、引用しました。
ナルニア国ものがたり 全7巻 C・S ルイス作 ポーリン・ベインズ絵 瀬田貞二訳岩波書店