狭い庭と広い空 おおだんともあき
−わたし自身(3)− 新雪の下だより NO.4(1973.7.10 発行) より

 一昨年のことを書いている。ちょうど丸二年になる。五月の中旬から六月いっぱいは、立派な病人だった。そのとき、わたしの心に去来したことを、思い出して書いているのである。
 むかし、「忘却とは忘れ去ることである」といったセリフがはやった。どんな番組だったかおぼえていないが、たしか日本国中を呻らせたスレチガイ・ラジオドラマの冒頭に出てくる言葉であった。
 さて、二年たつと、忘れるものだ。病床でのあのつらさ、あの哀切さ、あの不安。深いところに見えない心の傷あとは残っているけれど、二年の歳月は、わたしの意識の表面では、それをすっかり過去のものとしてしまっている。

 狭い庭に面したみすぼらしみすぼらしい部屋にねていて、一日中桜の木かげをながめ暮した。いや、その木かげに身をよこたえているような気持ちでねていた。
 そして、オレはいったいなにをするために生きているのか、何を頼りに生きているのか、と、自ら問わずにいられなかった、そこまでを、前号に書いた。



 それを書き継ぐつもりで筆をとったのだが、実は、二年前の想い出などにわたしの心を向わせない環境が、いまわたしを取りまいている。予定通りに筆は進まないのである。
 とにかく立派な部屋だ。
 音楽が鳴っている。ベェトゥベンのカカドウ変奏曲といって、作品百二十一のaのピアノ三重奏曲である。
 広い部屋にジュウタンが敷きつめてあり、外からの音は何一つきこえてこない。
 北に向って三メートル四方もある、大きな窓がつくられてあり、一枚ガラスをとおして広い景色がみえる。
 みどりの高原だ。ところどころ起伏があり、樹木の深い縁がそのなかに点在して、変化をつけている。

−1−


 高原の向うは尻上りで、晴れていれば、おそらく富士山がどっしりそびえているのであろう。
 ここは裾野市にある帝人の富士研修所。ソーシャル・ルームという名の部屋である。
 しかも、他に誰もいない。私ひとりで、音楽をきき、外の景色を味わって、午前中の二時間を過しているのである。
 神戸を出たのが、六月十一日の午後であった。茨城県の鹿島へゆき、十四日のひるまで滞在。それから、新宿へ出て出版のことでいろいろ打合せをする。

 その夜は東京の川島家に一泊。医学書院の乾氏や山口氏。それに朝日新聞科学部の長倉氏などがやってきて、深夜までワァワァやる。飲んで、食って、笑って、諭談風発。楽しみの極てあるが、彼らはそのなかで結構仕事をしているのだ。
 突然、ひとりがいいだした。
 「人間ばホロビル」
 どう、これ。これを朝日でやってくれないかなあ。
 「人間はほろびる」
 ほんとうだよ。ほろびるよ。何が悪いとか、この問題というんじゃあ、ねぇんだなぁ。全体的に、ホロビルんだよ。
 「このままでは、ホロビル」
 でもね、ホロビちゃあ、こまるんだ。このままムザムザとホロビたくないやね。

   いやいや、ホロビても、いいじゃあ、ねぇのかなぁ。
 やっぱり、いけねえよ。ホロビルのは、いけねえ。

 若い三人がワァワァやってるのを、川島夫妻とわたしの三名は、言葉少く、きいている。
 彼ら、いまを盛りと活動している連中には、人間全体のホロビが問題になる。が、われら初老のものには、ワタシ個人のホロビが、もうすぐ目の前に立っているのだ。

−2−


 その翌日、わたしはこのすばらしい研修所にきた。
 さて、今日の午後から、十八日の午後まで、少し烈しい学習会を持つ。集まる人数は二十名ぐらいだが、学習会が始まると、もうゆっくり景色をみていることもできなくなるだろう。
 さて、人間はホロビル。そのまえに、わたし自身がホロビル。それまでに、どうしてもしておきたいことは何であろうか。

 昨日、東京駅で列車を待っているとき、ふと気が向いて
「ひとりでも生きられる」
(瀬戸内晴美 著)
を買った。あちらこら読みちらして、著者に手紙をかこうかしらなどと柄にもないことを考えている。
 感銘を受けたのである。
 わたしは「ひとりでは生きられない」という書物をかきたいとおもう。それを、この書物の横にならべてみたい。
 「ひとりでも生きられる」
 「ひとりでは生きられない」
 この二つの命題のあいだに、人生の真実を感じ取る以外にない、といいたいのだ。

 カカドウ変奏曲が終ったので、レコードをさがしてみる。田園交響曲がある。レコードが傷んでいて、雑音が多いけれど、それでも、いい。この広大なみどりの高原のながめと、田園交響曲が、とてもよく似合うのだ。

(昭和四十八年六月十五日朝)

新雪の下だより NO.4
(1973.7.10 発行) より転載

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