狭い庭と広い空 おおだんともあき
−わたし自身(2)− 新雪の下だより NO.3(1973.2.25 発行) より

本格的な病床生活
 一昨年になる。久し振りで本格的な病気をした。
 忘れもしない五月の九日のことであった。兵庫県立の厚生専門学院へ朝から学習指導に出かけていた。午後になると身体がだるく、遠和感がして、どうもタダゴトでないように感じた。家に帰ってすぐお医者さんにゆくと、「これはどうもホンモノらしい」という診断。翌日の和歌山行きにドクター・ストップがかかった。
 それから寝ついて、一ケ月は重症患者、あと数ケ月は療養患者として、結局四ケ月ばかりは一人前の病人として過した。まことに久し振りの本格的な病床生活であった。


病気と縁が切れぬ人生
 二十才代から、病気で寝つくのは馴れていたばずだ。何しろ入院生活延ぺ八年、手術三回、……というふうに考えてくると、わが家で三月や四月寝るぐらい、何ほどのことがあろうと、いえぱいえるのである。
 しかし、そうではなかった。断固として、そうではなかった。四十の半ぱにして病臥することは、わたしにはこたえた。ここ五、六年入院せずにすんできたため、わたしは「そろそろ、病気抜けしてきたにちがいない。案外年がいって、病気とは縁切りでゆけるかもしれぬ」などと、期待をしていたのだ。そして、多忙と、東奔西走の生活のなかで、自分の人生が「病気を背負いつつ生きるぺき運命」を負うていることを忘れようとしていたのだ。 


 そうか。やっぱり、オレの人生から、病気というやつは、消えてはくれないのだ」
 それは、まことにつらい、厳しい、苛烈な認識であった。ここ暫くは、まあまあ一人前に働いている。二十才代はマイナスであった。他人の世話になるぱかりであった。
 三十代で、やっと自分の生活ができるようになった。しかし、それでも一人前とはいえなかった。何かしら自分の本筋を求めてウロウロしてきた。
 四十代になって、やっとこれがわが行く道といったようなものが見えてきた。この道をゆくかぎり、多忙も過労もものかは、病気もまた避けてくれるような期待をいだいてきたのだ。

−1−



ぜいたくな患者教育
 心臓の裏手に直径5センチぐらいの蜂の巣状の病巣がある。二十五年まえに最初に肺結核になった、そのときの病巣が気管支拡張を起して変形している。そこがどうも地雷源となっているらしい。
 近くのお医者さんの向井先生にお世話になった。早朝に飛んできて頂いたこともあった。午後一時か二時ごろ、先生が往診してくれるのが、一日の最大の日課になった時期もあった。
 歩けるようになると、百メートルほどの向井医院にゆき、度々レントゲン写真をとり、その解説を詳しくきかせてもらった。とくに断層写真を毎月のようにとってもらって、その変化を調べていただいた。何枚もの写真を前に並ぺて、先生の解説をきくのであった。
 わたしは実にぜいたくな患者教育を受けたのであった。


庭に向って臥す
 狭い家であった。とにかく座敷とよぱれる六畳の部屋に、わが病床はしつらえられた。
 縁側から狭い庭がある。狭いけれど、この庭は家にくらぺてぐっと上等で、大きな桜の木をはじめ、ビワ、カキ、イチジクの木、それにアジサイ、ボケ、水仙、あやめ、またカンナ、バラ、パンジー、雪柳、こでまりといった花が植えられている。
 第一、芝生があるのだ。この家のよさば庭にある。いや、その庭と空の広さにある。その空に桜の木が深いかげをつくる。ついひと月まえ、わたしたちはその桜の花の下にテーブルをおき、椅子を持ちだして、花見の宴をひらいたのだ。
 葉桜の木かげをたのみつつ、わたしは重症患者としての毎日を暮した。


世のモノオト
 寝ているしかない。いや、なおって活動できるようになるかどうか、確たる約束はない。
 そうした病床生活のなかで、あらためて発見したのは、世のモノオトであった。
朝はやくに必ずきこえる新聞配達のバイクの音。うらの家の犬の鳴声。牛乳屋さんの配達の音。それから近所に住む人の足音。何日かたつうちに、わたしはその足音のききわけさえできるようになった。
 寝床の向きを変えてもらう。すると、空の景色がちがい、桜の木かげの姿がちがってみえるのだ。庭の生垣の向うを通る人の見え工合さえちがってくる。
 子どもたちの遊ぶ声。
「あれは、どこの子」
 とわたしは家族のものたちにきいておぼえた。
 それから、裏の方からピアノの音。音楽の練習。
 さまざまの世のなかの音を、じっとききながら、わたしは自分の心のなかの声にも、耳を澄まさずにはいられなかった。

−2−


わが心の声
 なおらないかもしれぬ。このまま、立ち上れないかもしれない。
 いや、そこまで悪くはなくても、二年や三年は寝ていなくてはならぬかもしれない。
 手術しないといけない、などということになったら、どうする。そいつは、イヤだ。
 そのあいだ、家族のものたちは、どうして生活するんだ。半年ぐらいなら、何とかなるだろう。一年ともなると、どうにもなるまい。
 とつおいつ、わが胸のなかで自問自答する。症状の重いころは、何考えても悲観的になった。なあに、もうすぐ働けるようになるさ。そんな答えはどこからもきこえなかった。

 やはり、はやくなおりたかった。もう十年は、一人前に働かせてほしい。心からそう祈った。そう祈らずにはいられなかった。
 そう祈らずにはいられぬ自分に気づいたとき、そのこと自体を問いかえす気持ちが起きた。
 なぜなんだ。なぜ、もう十年働きたいのだ。
 自分の仕事をもつとやりとげたいからか。
 いや、ちがう。どうせ、このオレの仕事なんぞ、たいしたことでもありやしない。もし、それがほんとに価値があるものなら、誰か別の人がやりとげるであろうさ。
 それでは、家族にたいする愛情からか。そういわれると、面映ゆい。「愛」という言葉は、わたしにとっては、摘象的で立派すぎる。そんなんじやあないんだ。かりにお前は妻や子を愛するが故に、もっと生きたいのか、といわれると、いやいや、それほどでもないんですよ。と頭をかきかき、引き下りたくなる。

「病気を背負って生きる人生」という覚悟は、本来できてきたはずでは、なかったか。片肺で生き、骨抜きで生きている。そんなことは、百も承知のわが家族ではなかったか。とりわけ、わが家の主婦なぞは、そんな頼りないテイシュであるとわかった上で結婚し、子を生んだはずであった。いまさら、病気されては困る、死んでは困ると叫ぱれても、そんな期待に応えられる身であろうはずはない。
 毎日毎夜、久し振りの重症患者の生活のなかで、わたしは考えつづけたのだ。
 いったい、わたしは何のために生きているのだろう。これだけは、というものが、何かあるのだろうか。(次号につづく)


新雪の下だより NO.3
(1973.2.25 発行) より転載

−3−


【表紙へもどる】