わがままほうだい
おおだんともあき
−わたし自身(1)−
新雪の下だより No.2 (1973.2.25 発行) より


 何を書こうか、と考えつづけている。他に沢山書かねばならぬ原稿がたまっているのだが、ややもすると心は、この「新雪の下だより」の原稿にゆく。
 別にこれといった義務も決められた主題もあるわけではない。わたしの思うまま、考えるままを、書きたいように書いたらいいのである。
 「わたし自身」を書いてみたいというのが結論である。


 最近、いたるところ建築ブームで、木材の高値のために建築費が上ったとか、列島改造論のために地価が値上りしたといいながら、家の新築、建て直し、改造が、どんどん進んでいる。わたしの家から仕事場までわずか

五、六百メートルのあいだに最近、どれほどの建築が進んでいるか。まことに、世をあげての住宅建築ブームである。


 実はわたしは自分の家を持っていない。家族の住む住居と仕事場の二つを持っているが、いずれも借り家であって、家賃を払っている。大家さんにたいして「店子」の身分である。
 わたしの知己友人のうち、こんな情ない境涯のものは少ないのではあるまいか。ヨワイ40の半ばをすぎて、自分の家一軒建てることができない。アワレデ無力ナワタシ、まことみずからを憐れみ、かつ自嘲の気持ちも動く。

 わたしはハタチ代を病気で暮した。ふつう一番活動的である時期を、わたしは病床に呻吟し、しかもそこで生涯いえぬ傷あとを背負いこんだ。
 年30になって、やっと生活のたたかいをはじめたのだが、文字通り「病気を背負いつつ生きる」生活であった。
 「まあ、病気、病気で生きてきたことを考えたら、この程度でも、よくやってきた、と認めてくれよ、な」
 家族のものに、正直こういって承認を求める言棄である。


 ところで、2月のはじめ長野へ2泊3日の旅行をした。もちろん仕事のための往来で、1時間の余分の時間もなかったが、新幹線と中央線、信越線の車中の時間にめぐまれた。それだけ

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ではない、木曾川の谷や信州の山々のすばらしい景観にめぐまれた。
 車窓からみえるすばらしい自然の景色のなかには、そこに住んでいる人たちの姿もうかがえた。多くの新しい家も建っていた。
 わたしのいまの住まいは海岸近くにある。わが家からちょっと出ると、すぐ前に明石海峡をへだてて淡路島がみえる。巨大な前方後円墳の五色塚にのぼって、大阪湾から明石海峡、さらにハリマ灘を見渡すならば、これはやはり日本的景観の代表の一つであろう。
 しかし、とわたしは思う。かりにわたしが自分の家を建てるならば、あるいは、もしこの生活をやめて静かな引退の生活を暮すとすれば、それはやはり「山に向かっての生活」でありたい、と。
 信州の山々を車中から仰ぎつつ、わたしはこれらの山を眺めつつ生活することを夢みた。

そして、そこに、わたし自身が建てたわが家のたたずまいを想像した。


 さらに車中での思いはつづく。
 ほんとに、病気、病気の連続だった。ちょっと元気でやってきたとおもうと、倒れる。再起不可能じゃないか、などと噂されることもあった。それは全くのヨタヨタ生活といってよかった。
 だが、それにしても、とわたしは指折りかぞえてみる。
 かりに健康な人の3分の2しか働けなかったと仮定しても、10年から12,3年は、実質働いたことになろうではないか。
 十年一世代である。十年以上一生懸命働いた。病気以外のときには、たしかにマジメに燃えて身を入れて働いた。
 だのに、オレは、家一軒建てる

ことができないできた。そして走りゆく列車のなかから、想像上のわが家を、北アルプス前景において、満足を夢みているにすぎない。あな、あわれや。


 長野駅を出て帰途についたのは、2月5日の午後4時の特急しなのに乗ってであった。しばらくすると、田毎の月で有名なウバステの景観、さらに菩光寺平のひろがりと白雪におおわれたその山並が左手にみえてきた。列車はそこから二つほどトンネルをこえて、松本平へ抜ける。こんどは右手に、北アルプスの山々がみえてくる。
 夕陽は西に沈んで、北アルプスの山々は、すべてシルエットになってそびえていた。
 「山はいいなあ」
 山の姿を朝夕みて暮す生活に

−2−


あこがれたのである。
 塩尻を出たあとは、もう夜のとばりがおりて、木曾谷の景色はヤミに沈んだ。
 思いはもう一度、自分自身にもどる。


 考えてみると、この15年、一度も真剣に住居のことを考えたことがなかった。わが土地、わが家を、どうしても持とう。そのためにどうするか。そうした目標、そうした計画と努力を、一切せずに、この15年を暮してきたのだ。何とウカツな。何たるタイマン。
 最近の若い人たちのあいだでは、「30ニシテ家立ツ」という風潮があるらしい。
 わたしは、30にしてはじめて自分の生活をはじめたのであり、それも重荷を背負った二分の一人前の力で出発したのであった。

せめて40にしてサマヨワナクテよいわが家をつくる目標ぐらいは立てればよいのに。
 この世で生活している。妻子をもち、家庭を営んでいる。
 自分の土地と家をまず所有しようというのが、当然の第一歩ではないか。
 何と、わたしの視野には、そんなものは、全然なかった。生活の安定をうち立てるために、イヤでもキライでも、手を汚しても、泥水をかぶっても、金もうけをやり、地位をたかめる。家長として当然のことを、わたしはほとんど全く考えてこなかった。
 ここまで思い及んだとき、わたしはあらためて愕然とした。


 正直いって、わたしはオカネというやつがほしい。財産があれば、と思うことも多い。さらに、

地位があるということは、なかなかに楽しいことであって、決していやなものではない。
 だが、わたしにはそれにたいする執着心が欠けている。最近わたしは、この欠落は重要な人間的欠落だということに気がついてきた。
 「あなたは、ほんとにゼイタクな人ですねえ」
 と、わたしを知る人をして何度も叫ばせたむかしのことを思い出すのである。
 若い時から、「好きなこと以外はしない」ことをモットーとして生きてきた。
 まして、生き死にばかりのハタチ代を切り抜けてきたあとは、いよいよその気持ちが強くなってきた。
 「この身体で、好きなこと以外はしないで、生きてゆくこと」
 これがわたしのモットーであった。

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 残念ながら、土地や家をもつことがわたしの「好きなこと」のなかにはいっていなかったのだ。


 「好きほうだい」
 「ぜいたくざんまい」
 今までの私自身の生きかたをふりかえってみると、こういう言葉がうかんでくる。
 「ぜいたく」といっても、間違えないでいただきたい。お金も地位も時間もあって、好き勝手に暮している、という意味ではない。そういう意味なら、わたしほどに貧しいものはない。
 むしろ、あれほど貧しい生活のなかで、なお「好きなこと以外には何もしない」で「生きてきた」のだ。金も地位も何もなくて、しかも家庭をもち、妻子を養いつつ、「いやなことはしないできた」といえば、それほど「ぜいたく」なことがあるであろうか。

 しかも、難病を背負ってきたのだ。元気で、力が余っていて、生活に何の不安もない。そんな身の上で、好き勝手をしてきたのなら、ごく普通のことであろう。生存さえおびやかされながら、なおまだイヤなことはイヤなんだと強情張ってきたのは、われながらエライものだとおもうのである。家が持てなくても、土地が買えなくても、こいつはどうにも仕方がないなあ、と自分に向ってウナズク以外にないのである。
 一昨年の夏、わたしは久しぶりに病臥した。高熱、咳、痰と立派な症状が何日も続き、はては人手をかりて身体を起してもらわねばならぬほどになった。
 昨年の夏は、また、老眼鏡をかけだすという事件があった。これは、やはり、わたしにとって、老年がもうすぐ目の前にきていることを認めさせるエポックメイキングな意味があった。

 あと何年生きられるか。不自然な事故死は別として、わたしの余命は何年あるのか。これがわたしの真剣な問題である。
 ここまで、ワガママ、好き勝手に生きてきた。いや、どうにもそれしか生きようがなかったのだ。これからも、そう生きるしかしかたがなかろう。
 スミマセン。最敬礼。

 
 
 
 
新雪の下だより No.2
(1973.2.25 発行) より転載

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