「教育基本法の理論」における教育権

                    古山明男

                     転載引用は御自由にどうぞ (商業的な場合を除く)
                     
青字は本文からの引用

 日本の教育法制と行政は、教育権の問題を掘り下げませんでした。そのため、文部省の発言権が異様に大きく、教員、親、生徒の発言権が保障されない制度が半世紀も続きました。これが、教育の自律的運営を妨げています。田中耕太郎は「教育基本法の研究」(昭36)の中で教育権の問題を大きく取り上げて、研究しています。
 このような内容が、教育基本法の基盤として考えられていたことに、教育関係者は驚愕されるかもしれません。田中耕太郎は、親の教育権を国に優先させ、私学を教育の本源であって、国家運営の教育も私学に近づけなければいけないとしています。
 教育改革をせまられている現在、この研究を紹介し、多くの方に共に考えていくことは、大切なことだと思います。


 田中耕太郎は、第一次吉田内閣の文部大臣として、教育基本法制定を推進しました。文部大臣として教育基本法をまとめた後、昭和25年から10年間、最高裁判所長官に在任して教育の世界から離れますが、その間に、教育の法的理論をまとめた「教育基本法の理論」をまとめ、昭和36年に出版します。
 この本は、教育の本質を明らかにし、教育基本法の意味を明らかにした、重要な研究です。
 われわれを、画一的な教育から連れ出してくれるものでもあります。


 その教育権に関する理論は、両親と家庭に基礎的な教育権があるとしています。この内容を紹介します。


教育基本法の理論 第3章 教育関係

 第1節 緒論

 教育は異なる二人格者間の相互関係である。複数の教師と多数の教え子がいる場合においても二人の間の関係である。 ( p140 )

 教育が二人格者間の相互関係であるという性質は重要です。教室で、教師側は集団を相手にしていると思っていても、それぞれの生徒にとっては、「先生が自分に〜と言った」「先生が自分に〜をした」と捉えています。教育は、教育者と生徒間の二者関係として生徒に伝わっています。

 ここで、田中耕太郎は教育の考察から自己教育を除外し、以後教育を、教育者と生徒の関係として論じます。
 これは、自己教育を無視したものではなく、他人教育が終了したのちに、自己教育によって人格完成の過程を続けることが、教育の目標であるとしています。

 なお古山は、自己教育は幼児にも存在し、あらゆる他者教育は自己教育の援助であるという立場をとっています。教育者と被教育者が存在する「教える」関係のみを教育とするのは、教育を狭めすぎていると考えます。


 本論の目的とするところは、教育をめぐって生ずるところの、教育関係者間の権利義務の関係を明確にすることにある。 ( p142 )
 

 田中は、ふたたび教育の性質を考察します。

 教育は人間相互の関係であり、そうしてそれは教育者が被教育者に対しある権威(道徳的または学問的の教育内容について)を以てこれを指導する関係である。

 その関係の特徴とするところは、

 第一に教育者がなんらかの意味で、徳性、学問、技能、経験等の点において被教育者に優越していること。

 第二に教育者は被教育者に対し、報酬を伴うや否やにかかわりなく、犠牲と愛を以てこの活動をするものである。
 教育は、一般の交換契約型の契約と異なり、その倫理的性質が顕著である。

 このような権威と愛による関係は、利益社会には存在しないか希薄です。それは共同体において見出し得るものです。共同体のもっとも純粋なものは家族です。そこで家族と教育との関係を考察しなければなりません。

 一男一女の愛による終生間の結合である婚姻は、当然子女の誕生およびその養育と教育とを予想している。従って婚姻はその本質の中に、生まれてくる子女の教育を含んでいる。

 そこから生まれてくる子女は他の動物の場合と異なって長期の扶助を必要とし、しかもその扶助たるや単なる肉体的の扶養のみならず、教育をもふくんでいる。

 自己の後継者を養成し、人類社会の発展に貢献することは、両親の崇高な義務でなければならない。要するに婚姻と家族の理念の中には、必然的に子女の教育を包含しているのである。

 このような家族共同体は、人類のはじめからあり、国家に先行するものです。家族は自然法上の存在であり、国家といえどもこれは廃止したり破壊するのを企てることは許されません。多くの国家は、家族の保護を重要視しています。家族の保護を規定した憲法を持つ国は多数あります。

 日本国憲法では、旧来の戸主中心の家族制度が廃止されたが、積極的に家族の意義を認め、保護、保障することをしなかった。しかし、憲法の真意はそうではなく、国家構成の単位としての家族的紐帯の意義を否定するどころか、十分これを承認しているものと解せざるを得ない。

 我々は家族の本質からして、家族が保障されなければならず、さらにその本質的機能の一部を形成している両親の子女に対する教育権もまた、当然の帰結として保障されなければならないと考えるのである。



 第2節 教育権
  第1款 教育権の基礎


 田中耕太郎は、まず、教育の本質について簡潔に述べます。短いものですが、ここに教育のもっとも本質的な性質が示されています。
 これはたいへん重要な性質で、学校のあり方そのものに触れるものです。


 ・文化的なものである。
 ・個人的活動である。
 ・教育者と被教育者の関係は内面的なものである。
 ・法律が介入するものではない。
 ・支配するのは法則は教育学の原理による。
 ・自主性をもっている。

 「しかし教育は教育者と被教育者という二個の人格者の関係であり、社会的面をもっていることを否定できない。そうしてその社会的面の一部分は法秩序によって支配されなければならない。」

 個人としては教育者、被教育者、その両親。団体としては国家、地方公共団体、教会等は、教育に利害関係を持っているため、発言権を持ち、責任も負っています。
 これらの者の相互の関係が法秩序で整えられないと、ある者の発言権が不当に増大して、教育に悪影響を及ぼしかねません。

 このように教育に関する権利義務を明確にすることは、教育に対して、法律で介入することにはあたりません。これは、教育の内容には関係しない外部的な条件にすぎません。それは、家族が道徳や情義で支配されていても親族法が存在することと同じです。

 「教育に関する事項は、家族に関するそれのように、人間性と人間の使命に密接に関係しているから、根本において自然法にその基礎をおいている。」

 次に田中は、教育権は何を意味するかを明確にします。これは、形式を明らかにしようとするものです。

 一 教育を受ける者の権利、または教育の請求権。主体は被教育者。

 二 教育をする権利または権能。主体は教育者。

このふたつをとりあげ、教育権はふつう、二を指すものとします。これが、さらに二つのものを意味しているとします。
 1 教育者が、自己の教育的活動を他の個人や団体に承認させる権利。
 2 教育者が被教育者に教育上の従順を要求する教育的権威

 この2の説明として

 これは、教師であることや親であることに基づく、地位的なものである。人格や知識が優れていることによる事実上の影響力とは異なる。教育するという責任を果たすために必要なものであり、限界を超えれば権威の濫用である。

 地位的な権利は、国家をはじめすべての社会において存在しなければならない原理。
 権威という言葉は、一般人に反感を起こさせるが、権威はあらゆる価値実現に必要であり、自由と矛盾対立するものではない。
 教育者の事実上の権威と地位的な権威が相伴って存在してこそ教育の目的を完全に達成できる。教育にあたって、教え子の自由と自発性を尊重しなければならない。
 教育者は、自らの権威を否定するか、無反省に振り回す二つの誤りのいずれかに陥らないように努めなければならない。
 政治的変化、科学技術の発達により、従来の権威一点張りの教育は時代に合わなくなった。教師と教え子のいっそう深い人格的接触を通じて、権威に対する信頼感を喚起させることが必要。

 両親の実定法上の根拠としては、民法820条がある。両親の教育権に関しては盲点として研究されないままでいる。

 教育をする権利は両親のみが持つのではない。国家。キリスト教国においては教会。おたがいの限界や、順位が問題にならなければならない、として田中は、教育権の具体的考察に入ります。
 ここで田中耕太郎は、まず、根底的な疑問を提出します。

 我々は教育権そのものの根本に立ち入って考察しなければならない。
 およそ人間は自由であり、他人の干渉を受けないで己の欲するままに生活する自由と権利を有するものとするならば(もちろん他人の権利や自由を侵害しない範囲内において)、教育を受けると否とは各自の自由であるのが当然である。
 自己に対する教育権者が、あるいは両親にしろあるいは国家や教会にしろ、別に存在することは、特別の理論的基礎を必要とすることになる。
 トルストイは、人間が何故に人間を罰し得るかを問題とした。教育を与えることは刑罰と異なって恩恵であるが、しかし恩恵といえどもこれを強制して課することについては同様の問題が存在する。
 この故に我々は人間が何故に人間に対して教育権を有するかを問題
としなければならない。(p150)

 この疑問を提出してから、田中耕太郎は、ドイツの学者の間にあった諸説を紹介します。
(1) 所有権説
 教育権は、子どもが所属するところの者にある。
 子どもが両親に属するならば両親に、国家に属すると見れば国家に、またこの両者に属すると見れば両者に属する。
 ローマにおいては家長権が絶大であり、子どもは家長が所有していた。
 理想国家建設を急ぐ諸国家では、子どもを両親にまかせると旧社会が温存されると見て、子どもをできるだけ両親から引き離した。学校等によって子どもを直接に国家に属させて、考えと行動を教えた。
 この学説は間違っている。子どもも人格者であり、財産権の対象ではない。
子女は権利の客体ではなく、その主体である。

(2) 決定説
  子どもがなんらかの社会におかれている事実自体が、教育権の基礎となる。その社会は、人間をその社会に目的に適合するように教育する権利がある。家族、階級、国家、民族、人類、教会などである。
 この説は、教育の社会的方面の説明はできるが、個人的方面の説明ができない。教育の個人的方面はその社会的方面の基礎をなすものであり、従って前者を度外視しては教育権を基礎づけ得ない。

(3) 効果説
 教育上の理念と任務を、もっとも効果的に果たすことができる制度が
もっとも大きな教育権を持っている。
 これは、必然的に学校あるいはなんらかの教育機関が教育権を持つ
ことになる。家族や教会もその中に数えられる。教育上の効果をあげ
得る能力が判断の基準になる。

(4) 授権説
 子どもが将来達し得る理想的人格から、教育権が委譲されている。子どもは自分自身の理想に達するために、正常に教育され、援助を得ることを必要としている。子どもは教育の権力が存在することを、合理的に希望せざるを得ない。
 田中は、この見解に対し、教育の内容と形式が他律的なものであることに背馳するとしています。
 私は、この授権説は大きな真理を含んでいると考えています。なぜ教育がなされるかは、子どもの委任によると考えるのが妥当です。
 とくにシュタイナー教育は、転生輪廻する魂が地上の肉体的存在になるときに適切な教育が必要であるという考え方をとっています。その教育は子どもの魂からの委任によるとするのが適切です。

(5) 後見説
 弱者を庇護し指導することは強者の義務であり、かつ権利である。

(6) 管理者説
 教育者は、客観的諸価値(人道の理念)の管理者と認められる。客観的諸価値を教育によって実現することが、教育者が教育権を持つ理由である。

(7) 権力否定説
 ルソーの、「エミール」における主張がそうである。

 田中は、以上の諸説を、多くのものは一部の真理をもつが、いずれも完全とは認め難いとします。
 そして、両親がもっとも適切な教育管理者であるとします。

 両親は子女を扶養する義務を負担すると同様にかれらを適当に教育する義務を負担する。これは種族保存の本能の完成である。この義務は両親が直接には子女に対して負担するものであるが、その根源においては神に対して負担するものである。かような両親の義務に対応して、子女の側における、教育をうける権利が存在しているのである。
 しかし子女の教育をうける権利は、教育をうけるや否やを任意に決定する自由を意味しない。教育をうけることはかれらの権利であり同時に義務である。
 子女のこの義務に対応して、教育をなす両親の権利が存在する。両親は子女が好むと否とを問わず、もちろんその意思に反してもーーもっともこのことは子女の年齢に相応して個別的な考慮を必要とするがーー子女を教育する権利を有する。両親のこの権利に、子女の側における服従の義務や畏敬の義務が対応するのである。
 両親の教育権は、....何人といえども両親がかれらの子女を教育することを妨げることができず、したがって両親の同意を得ないでその子女に教育をなし、とくに両親の教育方針と異なる教育を施すことを得ない。 ( p153-154)

 私は両親が教育の管理者としてもっとも適切であることには賛成です。両親の教育方針と異なる教育を、国家といえども強制できないとする考えは、きわめて重要です。
 いっぽう、子どもと親との関係では、まず両親の教育をする義務があり、そこから子どもの教育を受ける権利が存在するとすることには同意できません。子どもにも人格があり、個の尊厳が尊重されることを基盤とすべきです。子どもの側の権利がまず存在し、それに応えて両親の義務と権利が発生しているとすべきです。
 子どもは信頼できる大人に従おうとする本能をもっています。これは、義務として課されるべきものではありません。むしろ、信頼できない大人を信頼できないと意思表示することを可能にすることによって、ほんとうの信頼関係が築かれるようにすべきです。
 子どもが心から畏敬の念を持てる大人に出会えることは、たいへんに重要なことです。大人はそのための努力を惜しむべきではありません。しかし、それが子どもの側の「畏敬の義務」に置き換わった時、教育の退廃が起こります。自然な畏敬の念を抱けない者に対して畏敬を強要されることになるからです。
 服従と畏敬の念は、強制的に作り上げられてはなりません。これは、儒教を文化的風土として持つ社会では、とくに強調されなければならないと思います。キリスト教においては、倫理は内面的なものとされるため、外面的に押し付けられた服従や畏敬に疑問を持つことが正当化される契機があります。しかし、儒教は外形から先に作り上げるため、真の信頼と畏敬の念が失われていることに気がつきにくいものです。
 儒教伝統の強い日本において、服従と畏敬の念を義務として押し付けることがいまだに横行しています。これは、社会の腐敗をもたらします。いっぽう、儒教的世界観に対する反発として、子どもが大人に従いたいこと、畏敬の念をもてる大人を求めていることが忘れられがちです。日本の教育はこの両極の間を揺れ動き、適切な地点を見出していないと思われます。

 国際条約が、子どもの「教育への権利」を根底においていることは、たいへん深い洞察に基づいています。ヨーロッパにおける、長い教育権をめぐる争いを経てたどりついた結論は、教育権の基盤を子どもにおき、両親の教育選択権によって、子どもの権利を保障することでした。


  第2款 両親の自然法的教育権

 教育権はその起源を家族に発し、両親に属する。両親の教育権は人間性の中に深く根ざしているところの人類普遍の原理である自然法上の権利である。

 ドイツのワイマール憲法第120条は、両親の教育についての最高の義務および自然的権利を承認し、そうして国家には青少年の保護のための監視権を与えているのみである。

 また西ドイツ基本法第6条第2項は「子の養育および教育は両親の自然の権利であって、なによりも先に両親に課せられた義務である」とする。

 また教会法法典第1013条と第1372条や、カトリック系諸国の憲法であって家族の保護と両親の教育権を認めているものは、すべて自然法に立脚しているのである。

 なお世界人権宣言第26条第3項が「親がその子どもに施されるべき教育の種類を選択するについて、優先的の権利を有する」といっているのも、両親の自然法的教育権を認めているものと解することができる。

 私は日本法に教育権の自然法的性格に関して直接の規定を欠くにしても、理論上これを承認せざるを得ないと考えるものである。

 両親の教育権が自然芳情の権利であるところからして、これについては憲法が基本的人権に与えている保障がこれにも与えられると見なければならない。憲法にかかげている人権や自由の目録は決して網羅的のものではなく、両親の教育権のごとき、人権に属するものと認めなければならない。従って両親の教育権は不可侵であり、永久の権利として現在および将来の国民に与えられたところのものである。(憲11条参照)

 田中耕太郎は、自然法的教育権を否認する諸思想の考察にはいる。まずふたつに大別する。
一 自由主義の家族哲学
 両親は子女に対し教育上の権利はもつことができず、成年に達しない子女に信仰を教え込むことは禁止される。これは「教育の中立性」(教育のすべての宗教からの中立)と「家庭教育の中立性」の理論である。

 しかし両親と子女とは愛によって結びついており、従って子女に人生において最も大切な生活態度である、正不正、善悪を区別する根本原理を教える両親の権利を否定することは到底承認し得ないところである。

 我々は真理と虚偽とに対し中立ではあり得ない以上、子女に真理と信ずるところを教える権利を有しまた教える義務を負うているものでなければならない。

 田中は、極端な自由主義の立場では、教育そのものが否定され、両親の教育権も問題とされないとする。

二 国家による教育の主義
 この中にも二つに区別される。

1 個人主義的傾向
 教育の意義を認めるが、家庭の教育を重視せず、教育を個人から国家に移管する。協同の福祉の実現者である国家が両親に代わって子女の世話をする。
 1923年のジュネーブ宣言(児童の権利に関する宣言)は、家庭教育や両親による教育の権利義務について触れず、個人主義てきな特徴をもっていた。
 日本の児童憲章(1951)は、家庭で育てられることの重要性について触れている。
 1959年に国連総会が採択した「児童の権利宣言」第6条は、「両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下でそだてられなければならない」としている。

2 国家絶対主義的傾向
 国家が家族に代わって子女を教育する権利義務があるとします。

 古山は、戦前の日本の義務教育は国家絶対主義であったと考えています。戦後も国家絶対視は終ったものの、国家運営の教育は絶対視されていました。両親と家庭による教育権は過小評価され、学校教育法によって規定された学校への就学と文部省指導要領が絶対視されていました。

 古代においてはプラトンが、国家による教育を求めていました。

 フランス革命期にダントンは「子女は彼らの両親に所属する以前に共和国に所属」するとし、ロベスピエールは「祖国は彼の子女を養育する権利と義務を有し、この預かり者を家族の誇りや個人の偏見に委ねることはできない」としました。

 近代でも、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア、社会主義国において同様の方向が主張されます。

 我々はかような、自然法にもとづくところの家族の意義と両親の教育権の否定が、真の人間性正しいヒューマニズムの精神に背反するものであり、人間生活および人類社会にはなはだしい不幸と害悪をもたらすものと認めざるをえない。

 古山は、戦前の日本は、忠孝の倫理によって家庭のあり方と国家への忠誠を同時に成り立たせることができたため、家庭教育を直接には否定せずに国家主義教育が成り立っていたと考えます。それを示しているのが教育勅語です。教育勅語は直接に国家への忠誠を求めるより、儒教的倫理観のもとに家庭を重要視しています。
 戦後においても、教育を国家的人材養成の手段と考える思想と、これに反発して個人主義を先鋭に打ち出す思想が対立し、愛情と個人の尊厳に基づく家庭を形成して教育の基盤とすることがあまり進行しませんでした。教育が人格形成から大きく離れ、学力と学歴を求めることに置き換わりました。

 両親の自然法的教育権の否定の風潮は、現在社会における家族の崩壊の傾向によって拍車をかけられている感がある。

 現代社会生活の複雑化および文化の各分野における専門化は、教育内容を極端に特殊化し、それに伴って学校教育や社会教育が家庭教育に対し占める比重を、従って教育に対する国家の干与を著しく増大することはこれを認めざるを得ない。しかしそれにしても教育がその根本において両親の任務に属し、教育権が如何なる場合においても両親の手元に存することは否定し得られないのである。


  第3款 教育権の種類

 田中耕太郎は、子どもに対する教育権を二つに分けます。本源的なものと、伝来的(二次的)なものです。親の教育権を、本源的なものとし、他の教育権者は、両親の委託によって教育を行うものとしました。

 本源的教育権は、神からして両親に与えられている、人間性に由来する不可侵、不可譲な教育権である。
 これに反し伝来的教育は上に述べた両親以外の者が有する教育権である。


 国家の教育権について。
 国家は、学校を設置して大規模に教育を行い、義務教育制度を実施して強制的に教育をしている。
 しかし、教育活動は、第一次的な国家目的ではない。かりに教育のすべてを家庭と私立学校に委ねる国があったとしても、それは国家であることをさまたげないではないか。実際に国家の運営する学校で教えていることは、家庭教育と大いに共通している。私立学校でも、内容はあまり変わらない。
 国家が公民の教育を重視するのは当然だが、これも家庭や私立学校で教えることができる。
 両親が一定の年齢に達した子どもの教育を他人に委ねる必要が起こるのは、人類文化が進展し、学問や技術の発達が両親の教育能力の及ぶところではないためである。社会生活も複雑になり、人間が国民や公民として尽くすべき義務も広がりつつある。他人に教育を委ねることは、社会訓練上ものぞましい。
 したがって、両親が教育を重要なものと考えるなら、教育の一部について他人の協力を要請するのは、両親の当然の義務である。

 義務教育は子女を平均の国民または公民に育て上げるために両親が国家に対して負担する義務であるが、しかしそれは両親の教育義務の内容の一部をなすものと見なければならない。

 しかしながら両親がいかに広範に教育を他人に委ねるにしても、それは両親が自己の有する本源的教育権を他人に譲渡することを意味するものではない。

 古山は、この論旨からは、義務教育の内容に両親が納得できないなら、国家が提供する以外の教育を選べるとするのが妥当であると考えます。両親は教育の義務を負っていますが、国家提供の教育は、教育義務を果たす手段として提供されるものであって、強制であってはなりません。それは、両親の本源的教育権を侵します。実際に、国家提供の義務教育が子どもを苦しめるものであったり、洗脳的であったときには、両親の本源的教育権によって他の教育を選べないと危険です。
 このことを国際人権A規約(社会権規約)第13条は、「父母が公の機関によって設置された学校以外の学校を児童のために選択する自由」として法的に保障しています。

 田中耕太郎は、私学の考察に入ります。
 私学の自由は民主主義国家において原則的に保障されなければならない。それは宗教の自由に酷似している。それは、公教育の単なる補充と見るべきではない。

 むしろ、教育が文化的活動の一種として本来民間のイニシアティーブにまつべき性質のものであるところからして、教育の本来の面目は私学に存するというも過言ではないのである。

 私学が官学に対して有する特色は、その学校の教育上の主義主張やその創設者の人格、信念等が伝統的な学風を形成していることである。欧米諸国で、多くの著名な私立学校は、特定の宗教的立場をかかげたものである。

 1925年6月1日のオレゴン学校事件に関するアメリカ連邦裁判所の注目に値する判例がある。
「この連邦内のすべての政府が基礎をおくところの、自由の基本理論によれば、如何なる国家権力といえども子供達に公の教師のみから教育を受けることを強制することによって、子供達を標準化することを排除する。子どもは国家の被造物にすぎぬものではない。子どもを養いそうしてその運命を導くところの者は、附加された義務を承認し、かつ子供をそれに準備するところの、高貴な義務に対応するところの、権利を有する」

 私学といえども、まったく自由ではありえない。集団教育の社会的重要性のためである。学校教育は、宗教よりも定型化の程度が強い。それにしても、私学は官学より広い自由を享有する。

 私学は、官学との平等を主張するだけではいけない。私学は固有の使命を自覚しなければならない。
 その自覚というのは、私学が官学よりもその教育上の使命の遂行において一層本質的なものをもっているということである。換言すればそれは国家や公共団体の行う教育もその本質においては私学のそれに接近しなければならぬということである。そうしてこのことは私学の有する家庭教育的な特異性に由来するのである。



 公立学校であっても、教師と生徒の関係は、家庭教師や私学の教師と教え子の関係と同じである。
 そこに支配するのは官僚主義ではなくして、愛情、尊敬および従順の精神である。そうしてそのしかる所以は、国家や公共団体の機関である学校当局もまた、両親からその子女の教育を委託された者であるからである。


 第3節 教育請求権

 国家は一般に教育を奨励、助長することをその任務とする。それは教育を独占してはならないが、家庭教育を保護し、私学制度や社会教育を奨励するとともに、みずから学校の設備を設け、家庭教育や私学教育の足らないところを補うことは近代文化国家の重要な機能の一つに属する。

 国家に対して国民がもっている教育を受ける国民の権利は、どのようなものか。これは、教育をなす権利の意味ではなく、教育請求権である。

「すべて国民は、法律の定むるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(憲法第26条第1項)

 田中耕太郎は、この権利を国に対する請求権と捉えている。しかし、教育権をもつものは本源的には国ではないのだから、国が絶対的に義務を負うとするわけにはいかない。それを田中はこう説明する。

 この教育の請求権は近代国家の文化的福祉的国家任務に由来するものである。従ってそれがたとえ憲法第3章において基本的人権とともに規定されているにしても、これと同様な自然法的性格を有するものではなく、国家の文化的任務を明かしたのにとどまる。

 勤労の権利に対し、国家の任務は完全雇用の目標に向かって努力し、失業者の出ないような政策を取ることである。
 これと同様に、教育を受ける権利は、教育の機会を与えられることを国家に請求する権利と解しなければならない。
 国家がこの責任を果たすために必要な予算的措置を講ずる努力を怠らず、教育を受けることを欲する国民の要望に応えなければならないというだけにとどまるのである。

 国家は単に家庭教育を奨励するとか、みずから社会教育を実施するとかだけで以てこの請求権を満足させたことにはならない。国家は法律で以て学校制度を定め、ある程度までの学校に国民がその子女を就学修業せしめる権利を有することを定めなければならないのである。


 しかし、義務教育が定められている小・中学校について、田中はこの請求権の完全な実現が認められているとしています。

 教育の請求権には、「能力に応じる」ことが条件としてついています。これは、普通教育よりも高等教育において問題になってきます。

 田中耕太郎は、教育権を論じたこの第3章の中で、憲法26条第2項についてまったく触れていません。
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育はこれを無償とする」(憲法第26条第2項)
 古山は、この第2項は、本源的な教育権をもつ両親に対して、教育の義務を明らかにしたものと解すべきだとします。義務を定めた以上、その機会を十分に提供し、経済的な困難を生じないようにすることは当然です。
 両親が本源的な教育権をもつとするならば、両親が家庭において普通教育を行い、あるいは教育機関を自由に設置できることは、当然です。国の責務は、そのような労苦を払いきれない人のために教育の機会を提供することです。
 国の提供する教育がすべての人に受け入れられるものと限らないのは当然のことです。国家が定める教育を提供する教育機関のみを学校と認め、その学校への就学を強制した学校教育法は、実施後半世紀を経て、さまざまな問題に直面しました。国家運営の教育は、柔軟性に乏しく、提供できる教育の幅を広げることには限界があります。




 論者による評価

 田中耕太郎による、教育の本質の洞察は、まことに深く、「教育基本法の理論」は、教育と法律の関係を論じるものとして、世界最高水準であると言えます。アメリカ側より高い水準にありました。
 しかし、田中はその教育基本法の理論における論旨を、学校教育法を論じるときに適用しなかったし、学校教育法によって実現した日本の教育の現実も見過ごしました。田中耕太郎は、立場上現実と妥協したと考えています。半世紀後に、われわれは、重大な教育問題に直面することになりました。
 学校教育法の条文中にある就学義務と、督促に応じなかったときの罰金は、教育を狭い枠の中に閉じ込めました。

 教育が、文化現象であり、私的な性格を有するものであるとするならば、家庭教育の自由、私学設立の自由は原則的に認められなければなりません。
 しかし、学校教育法は、学校教育の内容を一律に定め、ある年齢以上での家庭での教育を認めず、私学の教育内容と組織構成に干渉しています。学校教育法に付随する文部科学省令は、私学に必要な施設を決めて、現実には数十億以上の金がないと設立できないものとしました。そのように限定された学校のみを学校とし、そこへの就学義務を定めたのですから、これは、教育が文化現象であることを否定したに等しいものです。実質的に教育を受けることのできない人がたくさん生み出されました。

 学校は、宗教よりは公的な性格を帯びるので、多少の基準は必要とされたかもしれませんが、学校の設置と運営は自由でなければなりません。教育は家庭と私学が本来的なものであり、国家運営の教育は、それを補充するものなのです。古山は、家庭教育と私学に対して国家は内容に干与すべきではなく、その社会生活的側面だけが、法による秩序形成の対象になるべきだと考えています。
 また、学校教育は本源的教育権者である親の委託によって生じるものです。それが委託であることを明らかにし、委託を取りやめる権利は保障されなければなりません。そうでなければ、学校は教育を独占してしまい、親の意見に耳を傾けなくなります。

 なお、日本の学校教育法体制がきわめて不備なものであるにも関わらず、国際人権A規約(社会権規約)第13条と、子ども権利条約は、より整った法的環境を提供しています。
 その中核にあるのは「教育への権利」です。これは被教育者が自分に合った教育を受ける権利です。教育の主体を子どもにおくことで、教育上の問題を一気に解決しています。社会権規約13条は、教育選択権と、教育機関設立の自由を保障し、これによって、親の教育権も十分に保障しています。
 社会権規約と子どもの権利条約は、日本が批准していますが、実質的に無視されてきたものです。今後の教育改革を考えるとき、この二つの条約にそって教育環境を整えることが重要です。

(2003-4-14)

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