一日中教審東京会場発表で、学術的な部分に触れることができませんでした。そのために、発表を補う論考を、中央教育審議会委員に閲覧してもえるよう、文科省担当者に送ったのがこの文章です。送ってから、どうなったかは、まったく知りません。


教育の目的を法律で定めることについて

 田中耕太郎(東大法学部教授、文部大臣、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事)は、教育基本法の生みの親と言うべき人です。田中耕太郎は、自らが関わった教育基本法を解説した「教育基本法の理論」(1951 有ひ閣)の緒論において、教育の目的について、次のように結論しています。

 「私は個人的には、国家が法律を以て間然することない教育の目的を明示することは不可能に近いことと考えるものである。それは国家の目的を法律学的に示すことが不可能なのと同様である。憲法が国家目的を条文中に明示することをせず、ただ前文において民主憲法の政治理念を宣明しているにとどめているごとく、教育基本法も第1条と第2条は前文的のもととし、第3条からはじまるものとする方がよかったのではあるまいか。」

 しかし、第1条と第2条が作られた理由について、田中は次のように述べます。

 「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代わるべきものを制定し以て教育者に拠りどころを与える主旨に出ていたのである。」

 つまり、教育基本法の草案が練られていた昭和21年には、学校も教育者も、教育勅語に基づいた国家主義教育以外はまったく知らず、教育勅語を単に廃止することは、混乱をもたらすことが予想されました。そのため、教育勅語廃止後の精神的空白を埋めようとして、教育基本法が作られました。それが、歴史的事実です。
 しかし、教育基本法で、教育の目的と方針を定めたことは、その時代の必要に応じた過渡期的性格のものであり、本来、法律が教育の目的や方針に立ち入るべきでないことを田中は主張しています。

 田中は、教育がどのような目的で行われるか、あらゆる考察を重ねます。そして、いろいろな価値や規範が衝突するとき、どのように解決するかの問題を提示します。「精神と肉体、個人と社会、道徳と芸術、民族主義と世界主義」というような根本問題から、「ヒューマニスティックな教養と職業教育、自由と規律、智育、徳育、体育」など具体的な問題まで、価値が衝突する場合に調和は可能か。価値の間の序列は定められるのか。
 そして田中は次のように序説を終えます。

 「これらの諸問題の解決を法に求めることは期待できない。のみならずそれは法の使命の範囲外の事柄である。我々はそれを教育哲学に求めなければならない。そうしていかなる教育哲学を我々が採用するかは、我々の哲学的立場、宗教、世界観等をはなれては決定できないのである。教育基本法がきわめて漠然と抽象的に「人格の完成」といっているものに、教育者は教育哲学と自己の識見によって解釈をあたえなければならない」

 つまり、「人格の完成」の内容に関しては、法律の立ち入るべき領域ではなく、それは教育哲学と教育者に任されることであるとしているのです。

 このことは、世界人権宣言における「人格の完全な発展」、社会権規約における「人格の完成」、児童の権利条約における「児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発展させること」についても同様であり、その内容に関しては、法律が立ち入るべきではありません。

 どのような人格の完成を目指すかは、哲学、宗教、社会習俗、民族的文化的伝統、芸術、思想、教育などの領域から立ち現れて来るものです。またそれが、文化的な伝播によらず、法によって定められるなら、たちまちに形骸化します。たとえば、戦前の「愛国心」は法律によって教えられたために、敗戦による政体変化だけで、消滅してしまいました。

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