一日中教審東京会場での発表
 (2002年11月30日)

 やっと順番がまわってきました.あと一人です(笑)。
 中教審で教育基本法をいじるというので、じゃあってんで、とにかく田中耕太郎に当たらなきゃならない。しばらく当たったんですよ。
 田中耕太郎という人は、昭和21年の文部大臣で、教育基本法の生みの親です。アメリカが教育勅語はどうしてもだめだというので、田中耕太郎はじめ日本側が、じゃその後の精神的空白をどうするんだ、何か必要じゃないか、それで作ったのが教育基本法です。
 田中耕太郎さんは、教育基本法を大体作ったあと、吉田茂に突然パーンとクビ切られちゃって、自分はそのあと最高裁のほうに行っちゃうんですよ。それから10年間、この人教育に対して全く発言してないんです。最高裁長官が政治に何か言っちゃまずいですよね。
 ところがこの人、その間にね、延々と教育の理論書いてるんですよ。
『教育基本法の理論』ていうこんな、ものすごい(と、手で厚さを示す)本があるんです。もし教育基本法をいじるんでしたら、是非これ読んでいただきたいと思うんです。とてつもない優れた内容の本でしてね。単なる法律の条文解釈ってことじゃなくて、ほとんど哲学、それから教育の歴史に3分の1当てているという、とんでもない深い本なんです。
 これ一言でまとめるのは非常に難しいんですけども、あえてまとめますとね、「教育は文化現象である」。精神領域に属するものである。法によって規定していくもんじゃないと。実は教育基本法は、これが底に流れている。
 ただ、さりとて、田中さんはやはりバランス感覚がある人で、「ここはどうしても法律ででやらなきゃならない」という部分はあるわけですね。そこは、ちゃんと「それはかくかくしかじかだ」と明確な理由を付けてやっているんです。
 教育基本法を変えるか変えないかのどういう結論出すか、それはもう我々がやっていくことなんですけどね、田中耕太郎の枠組みの捉え方は非常にすばらしいので、もし教育基本法を検討するのでしたら、『教育基本法の理論』という本です。もう絶版になってるんですけど、探せばどこかで見つかると思います。

 子どもの公共意識とか、規範という話が出ています。私ね、千葉市で私塾をやってまして、補習もやってる、受験指導もやってる。それからフリースクールでもって不登校の子どもらともやっている。あと専門学校で教壇に立ったりもしてんです。
 子どもが嫌なものに出会うと、それはもう、ガチャガチャしててねえ。子どもが授業聞いてないのは、これはすごいもんでしてね。学校の先生方の悩みわかるんですよ。どうしたらいいか。いろんな方法があります。ほんとにいろんな方法あります。

 一つの方法は、やっぱり規範をうち立てることです。
 (まじめな先生の真似。)
「ああ、じゃね、3ページ。開けてある? うん、そこの最初の文字、大事ね」
「あ、こっち見てくださいね」(恐い言い方ではない)
「あ、寝ちゃだめ」 こういう方法もあります。

 生徒と友達になっていく方法もあります。
 (くだけた、友好的な先生の真似)「おはよ。3ページよ。今日はそっからやっからよ。いい。あけて」
「うむ、おまえ眠い? あ、いいから、いいから、寝てな、寝てな」。
(まわりの生徒に対して、寝ている生徒のことを)「覚まさせなくていいからな」
「じゃ、いこうか」。こういう方法もあります。 

 特に小学校の低学年になると、これはもう、一言でいって、馬耳東風です。規範意識を立てればなんとかなるっていう人たちいるんだけど、叱ってなんとかなるんだったら、とっくになんとかなってます。(笑)
 馬耳東風も、これもやはり大別して二つ原因ありましてね。
 一つは、ご家庭とか、学校できちんと規範意識が成り立ってない場合です。やっぱり、「やっぱり先生の言うことをきいてるもんだよ」とか、「ちゃんと言うもんだよ」とか、こういうのが成り立ってないと授業はできないです。
 もう一つは、叱られすぎちゃって、言われすぎちゃってこう…(手で、右の耳から左に抜けるジェスチャー)。いちばん手を焼く子どもたちは、この叱られ過ぎちゃってる子たちなんですよ。
 こんなのをパーっと持って……(と、子どもの真似をして、手元の紙を高くかざし、走り回る)
(先生の真似)「きみ、だめだよ」
「ウワァァーン」(と、子どもは聞く耳を持たず、騒ぐだけ)
そうすると親御さんが来まして、
(母親の真似。せき込んだ話し方)「いや、うちの子がまたご迷惑申し上げまして、ほんとに申し訳ありません。ほんとにうちの子ときたらいつもこうなって、私、いつも厳しく言って聞かせてるんですけど……」(子どもに視線が行って)「トシオ、トシオったら、コラッ、ちゃんとご挨拶なさいッ。アアーッ(叫ぶ)、またもう……。」 こういうふうに叱ってるから、お子さんが馬耳東風になっちゃってるわけ。

 こういうお子さんの場合にはね、馬耳東風のことを問題にして向かってくんじゃなくて、別な次元から人間関係を作ってくわけです。
 これ、ほんの一例です。まだまだいくらでも方法あります。
 それから、話が通じない原因は子どもをじいっと見ない限りわからないです。

 私、中教審のこと新聞読みましてね、自主性を育てろだの、愛国心だの、公共心だのね。なんでもいいよ、それどころじゃないよ。(笑)
 要するにね、小学生あたりでは、うまくいかない原因は、大人の頭でっかち。どのような理論もってきましてもね、頭でっかちの人はだめです。
 今、チョット動いてみせましたけどもね、こんな次元だということを言いたかったんです。
 動かない方法もあります。私のほうがじいっとして、何も言わないでじいっとして、四、五十分後には静かな雰囲気を漂わせる方法もあります。

 それから高校生ぐらいの年齢になりましたら、「大人の頭でっかちはいけない」の反対です。精神のきらめきみたいなのを見せなきゃいけない。
(静かに立ち、じゅうぶんな間を置く)
「君たち」
(間)
「人間だよ」
(間)
 これで、何を説明してもいないんだけどさ、このとき、僕がこの一言の中に自分なりの思いを十分込めていると、何か伝わるんです。これを、誰かのマネをした言葉でやったら、ダメなんです。その先生が生きているほんとうの精神というものが、大事です。
 こういうものを法律でやられると、ちょっと....
 私なんか塾だから、なんでも勝手にできるんですよ。でも、法律で決められたら、大事なものを伝えられない。私の上に、教育委員会がいない。校長先生がいない。私は子どもだけに責任をとる。親御さんだけに責任をとる。私が失敗すれば、むこうがやめてくれるから、大怪我負わすこともない。
 これが、法律で決められる立場だったら、私にはとてもまともなことはできない。


 だから先生方を見て、ほんとに可哀相だと思う。
 あらゆる要求、中教審から、文部省から、教育委員会から、校長さんから、親から何から全部、現場の先生に要求されてる。現場の先生は正反対のことが要求されているんです。
「優しくて、厳しい」(笑)
 あれじゃあね、先生たちまいっちゃう。


(「ピーピー」とブザーの音、「時間ですので終わらせてください」)
アッ、ごめんなさい。
 すみません、これ読んどいてください。説明が全部いきませんでしたから。(と、原稿を示す。コピーは、委員に渡されている)

 「教育を受ける権利」じゃなくて、「教育への権利」だというのは国連で言ってまして、世界的にその流れなんですよ。
(小冊子をかざしながら)私、こういう冊子を作りました。これ法的拘束力のあるものです。「教育を受ける権利」じゃなくて、子どもを主体としなきゃいけないというものです。
 これは、国連の人権委員会のほうから、出ています。
(委員のほうを向いて)ちょっと後でお渡ししますので、ひとつ読んでください。
 どうもありがとうございました。



{ 中村委員の質問に答えた部分 }
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 『教育への権利』というのは、「ライト・トゥ・エテュケーション」の訳語で、今まで人権が教育の手に及んでいないじゃないか、教育が一方通行過ぎるじゃないかと、国連が言い出しまして、古い文言に新しい意味を込めたんです。最初は単純な意味だったのを、「受ける側の権利だ」と言いまして、『教育への権利』についてまとめた声明文が国連から出ています。
 その中から2カ所ばかり、私の記憶の中からなんですけど、挙げます。
 一つは、子どもが学校に行っているからといって、子どもの『教育への権利』が保障されたわけではない。ほんとうにその子が自分に合った教育を手に入れてこそ、『教育への権利』が満たされたのであるとしています。
 もう一つは、国家が義務教育が行われるようにする責務を負っているんですけれども、これは往々似して国が全部運営することだというふうに誤ってとられている。そうじゃなくて、全体として国民がほんとうに満足いく教育が行き渡ること、これが大事だ。そういうふうにするのが国家の仕事なんだということです。
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