07年3月13日 古山明男  (引用・転載・リンクを歓迎 但し商業的利用を除く)

学力テスト問題の見落としは ――地教行法改正
この稿で取り上げた"調査権"は、結局、地教行法改正案には盛り込まれなかった。(4月15日追記)

いじめ問題の調査にとどまらない


 教育3法の改正を中教審が答申した。戦後体制の脱却を掲げる首相の推進で、中教審は異例の短期間で結論を出した。しかし、内容は戦後の文科省指導体制の根幹にメスを入れたものではなく、かえって補強する方向に向かった。

 教員免許法以外は小幅な改正であったが、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(通称:地教行法)の改正案骨子には、気がつかれにくいが影響の大きいものががある。

 それは、4.教育に関する国の責任の果たし方 の中にある
 ○ 教育委員会や学校等の教育機関は、文部科学大臣・都道府県教育委員会が行う調査に協力するものとすること。
という項目である。(資料)

 調査協力の法制化が出てきたのは、いじめ問題に関して、学校や教育委員会に隠蔽体質があったためであろう。
 さらに、北海道で、道教委のいじめ実態調査に対して北海道教職員組合(北教組)が協力しないよう指示した問題が自民党政府を強く刺激したことも、影響しているであろう。(資料) 自民党は、日教組問題に過敏に反応することが多い。

学力の悉皆調査は画一化を招く

 調査に協力することが法制化されれば、それはあらゆる調査に応じる義務になる。その場合特に、学力調査が問題になる。あらゆる教育委員会や学校が、学力調査を拒めなくなる。

 学力調査を実施するときの理由として、かならず「実態を知り今後の資料にする」ことが言われる。それは学力調査の本来の目的である。しかし、現実の学力テストは本来の意味だけでは使われない。学力テストは学校同士を競争させて学力アップをはかるための手段として使われる。学力テストは、よほど十分な配慮がないかぎり、価値観の画一化と、学校間の格差拡大を招く。

 そもそも教育のもっとも重要な成果は、数値化することがきわめて難しい。そのため、数値化された資料が現れると、かえって唯一の客観的資料になる。皆が数値に飛びつき、教育の数値化が起こる。とくに、日本の公立学校は、学校を知らない行政機関の権限が大きいから、数値で比較されると弱いであろう。

 また、すべての学校に学力テストを課して学力不振校を見つけたとして、その学校に的確な援助をし、人員や予算を注入できる考え方や仕組みは確立されていない。実際は、「お前はダメだから頑張れ」と言うだけではないのか。これは、学力不振校の退廃をもたらし、格差をますます大きくする。

 学力テストの目的が実態を知ることなら、統計的に有意な数のサンプル調査をすれば十分である。悉皆実施は、画一化と格差の拡大をもたらす。

学力テスト、現在は任意参加
 現在の学力テストは任意参加である。この4月に行われる学力テストに、公立学校でも犬山市教育委員会は不参加を表明した。私立学校では、参加率62%であった。(資料)

 最近は、学力以外の教育価値を優先させる学校も存在する。私立学校の中には、オルタナティブ系の学校も存在する。すべての学校の価値観を一律化しない配慮は重要である。教育価値観を一律化していると、時代や社会の変動があったとき、雑草的な強さがなくなる。

 学力テストを活用したい学校や教育委員会に対しては学力テストの利用便宜を図ればよい。しかしすべての学校に強制すべきではない。学力テストを任意参加にとどめることは、重要である。

 教育再生会議の第一次報告の中に、「全国学力調査」をすることの提言はある。ではなぜ、はっきり学力調査と言わずに地教行法の中に、そっと入っているのか理解に苦しむ。審議にあたる人たちが気づいていないのではないかと思うが、承知の上でそっと忍び込ませてあるのだという説もある。 (資料)

隠蔽体質は構造的なもの

 いっぽう、学校と教育委員会の隠蔽体質について言えば、これは国の調査、監督権を強めることで改善される問題とは思えない。監視されるほどに、不祥事発覚を恐れるのが、人間の組織の常だからである。
 また、国の調査に応じる義務を確立したところで、文科省はしょせんは教育委員会を通してしか実情を把握することはできないのだから、報告がただのきれい事なのかそうでないかの判断はできない。
 国の監督権を拡大するより、地方分権と学校自治のほうからやらないと、教育の改善は難しいであろう。

 教育の実情がなかなか把握されないのは、学校の上司にあたる機関が「自分は第三者であるから自分に監査を任せろ」と言うためである。これでは隠蔽体質はなくならない。まるで、会社の会計監査を、社長と部長でやっているようなものである。

 教育委員会は、学校の管理責任を負っている機関である。だから、学校に不祥事があれば、それはすなわち教育委員会の不祥事でもある。教育委員会に隠蔽体質が生まれるのは、自然なことである。
 また、文科省も指導要領をはじめとして、法令や通知・通達によって学校を実質的に指揮しており、実質的に責任を負う。文科省は教育運営の第三者というよりは、実質的に第一者である。

 教室は密室であり、ほんとうに何が起こっているのか知っているのは、教師と子どもだけである。必要とされるのは、教師と子どもが実情を訴えることのできる、教育委員会から独立した専門的第三者機関である。ただし、イギリスのオフステッドのような第三者監督機関は学校をますます萎縮させるだろう。
 学校での人権侵害を許さず、学校を安心して学べる場にすることは、日本の学校の緊急課題である。教育委員会や文科省に任せず、被害者が駆け込める機関と、人権保護法制をつくるべきである。


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