自民党の悲願達成、しかし時代はすでに変わっていた
 教育基本法改正は、自民党結成以来の悲願である。教育基本法改正をやれば、憲法改正への途も開けるからである。
 半世紀をかけて自民党は、教育基本法改正にたどりついた。

 しかし、時代はすでに変わっていたのではないか。自民党の教育観は、当時の社会情勢を映しただけの生きた化石ではないのか。憲法改正は、すでにルートに乗りつつあり、教育基本法改正を絶対的に必要とする状況ではない。そういう時代になって、ほとんど改正のための改正と言っていいような教育基本法改正をやった。

 ところが、教育はさまざまな問題を抱え込み、教育としての具体的な対応を必要としている。左翼押さえ込みのために作った55年型システムが堅牢すぎて、時代への対応能力を奪っているのである。教育問題の原因は、教育基本法にあるのではない。

 現在の教育問題に対し、「国を愛する」、「公共心」などというような標語ではどうしようもない。そんな標語で解決するくらいなら、教育問題はとっくに解決している。自民党のかなりの人は、悪いことは日教組のせいで、教員がだらしがないから教育問題が起こるのだ、くらいに考えているようだ。だから、教育問題の原因と対策が見えてこないのである。

 高度成長期の教育は画一的でもよかった。しかし、成熟社会になってきて、一人一人を尊重し、実情に対応した教育が求められるようになった。この流れは、日本だけでなく国際的にある流れであり、日本の対応だけが特に遅れているのである。

 しかし、自民党は「民主主義教育」を毛嫌いし、文科省を通じて教育を中央集権的にコントロールすることにあまりに慣れていた。民主主義政党にしては、信じられない政策である。教員と生徒と保護者の自主性に基づいて教育を作っていくやり方を知らなくて、「規範」「責任」ばかり叫ぶのである。それで、個性対応型、実情対応型の教育を具体化できないのである。

具体案なしの理念鼓吹
 教育基本法改正は、教育問題に対しての切り札ではない。国会答弁を聞いていても、政府は教育問題解決のための具体案を持ち合わせているわけではない。
 改正の要旨を翻訳すれば、「国を愛する心を持ち、文科省の指揮監督能力を強めれば、うまくいきます」と読める。そこから先の具体策は乏しい。

 教育基本法改正は、従来にない条文を作り、時代に対応しました、というのがウリである。幼児教育、社会教育、大学教育、家庭教育など、大幅に条文を増やしている。(資料1 改正案対照表) 

 しかし、よく検討すると、これらはすべて下位法で済むことばかりで、これらを教育基本法に盛り込まなければ教育改革ができないという必然性はない。
 教育基本法の条文数を大幅に増やしたのは、明らかに、「こういうことにも対応するようになります」と表現して、支持基盤を広げるためである。
 しかし、住民側の権利や、行政側の対応義務としてはっきり書くことをしなかったから、行政がやりやすいことだけが実行され、ほんとうに困った人への実情無視が横行するであろう。

 教育基本法(1947年法)の第2条に「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」という文言がある。これは便利な条文である。この文言を後ろ盾にすれば、どんな立法も施策も可能である。教育基本法の条文を増やす必然性はなかった。直接に下位法を作れるのである。

 政府がほんとうに解決策を持っているなら、その実現のために下位の法律の変更を先にやるであろう。そのために教育基本法を変える必要が生じたから、変えさせてくれ、とお願いしてくるだろう。

 教育基本法の22年法は、法律は最小限に留めるべきだという抑制があるが、改正案ではその抑制がない。そのため、新しい教育基本法は、法律らしくない法律になり、政党の掲げるスローガンに近い。

上からの改革の限界
 現場をよく見れば、教育が、会議と書類で窒息し、規則・慣習の数々で縛られているために実情対応できなくなっていることがわかる。文科省や教育委員会がなにか改革しようとすると、現場では書類と会議とばかり増えるのである。資料2は、杉並の民間出身校長藤原和博氏が、上からの改革で現場がいかに忙しくなるかを書いたよい資料である。(資料2)

 現在の法制的な課題は、「教育に問題があったとき、当事者がどのように声を上げることができ、どのように解決することができるか」の道筋を作ることである。この視点から教育法制を読み解くと、現在の教育システムがトンデモ物であることがわかる。教員、保護者、生徒のそれぞれの正式な意見表明権と運営参加権がないのである。
 そのため、教育委員会や文科省は実情を知ることすら難しい。

 ”いじめ問題”が典型であろう。いじめ問題では、大問題が頻発してから関係者が実情調査に駆け回っている。いじめは、そもそも教師の目をかいくぐって巧妙に行われるものが多く、教師―校長ラインに依存していては、実情把握すら難しいであろう。

法律は価値観に立ち入るべきではない
 教育では、現場にいない人間がきれいごとの理念や標語で指揮する「標語運営」が多い。「標語運営」は、組織が巨大すぎるときと、素人が指揮を執るときによく起こる。

 今回の改正の第2条(教育の目標)も国家ぐるみの「標語運営」である。である。現場を知らない政治家たちがけっこうな教育目標を作り、あとは行政機構と現場に実行責任をかぶせるだけになる。

 これらの目標は、教育哲学であり、法律にするのは問題がある。法律の常識として、法律がこんなに価値観に立ち入るべきではない。法律は万人に対する強制力として働くからである。「豊かな情操と道徳心」など法定目標としても、それを教える方法も評価する技術もありはしない。

自民党と文科省の取引
 教育基本法改正で、権限関係の規定に触れていて、現実的な影響力が大きいのは、16条(教育行政)と17条(教育振興基本計画)である。簡単に言うと、文科省権限の強化である。

 今回の教育基本法改正が成り立ったのは、自民党と文科省の妥協が成り立ったためである。自民党は昔から教育基本法改正をやりたかった。それが長らく実現しなかったのは、文科省がイデオロギー問題に手を出したがらなかったからと、現行の教育基本法で特に問題は生じていなかったからである。
 それが、教育基本法改正へと動き出したのは、自民党と文科省の間に妥協が成立したためである。自民党は「愛国心」を明記したかったし、文科省は「教育振興基本計画」をやりたかったので、取引が成立した。

 文科省には文科省の仕事があり、そのための権限は必要である。しかし、文科省は教育の内容と方法からは手を引いたほうがいいと思う。地方と学校に裁量権を移譲し、その上で条件整備の官庁としての文科省を整えるべきである。文科省にはとくに、予算獲得の力量が必要である。
 しかし、地方自治と学校裁量権の整備をしないまま文科省の権限強化をやったので、これから中央集権の弊害があまりに強くなるであろう。

 今回の教育基本法改正は、教育問題解決のために作られたものではない。自民党の政治目的と、文科省の権限ほしさで生まれたものである。とうぜん、あたらにいろんな問題を噴出させることになるだろう。それは、現場が自主性を持てなくて実情対応できないタイプの問題であろう。

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教育からの発想ではない改正 ――教育基本法

06年12月2日 古山明男 (引用・転載・リンクを歓迎 但し商業的利用を除く)

07年2月15日 ”改正案”を”改正”と置き換えることを中心に、一部を修正