日米安保密約の全容判明「核寄港は事前協議せず」

 朝鮮有事での出撃も、米国務省文書に明記

      2000年08月30日 朝刊  ページ PG1     写   2080字

1960年の日米安保条約改定の際に日米両政府が結んだ秘密合意の全容が、米国の研究機関が入手した米国務省文書から明らかになった。秘密合意は、核兵器を積んだ米艦船が日本に寄港したり、朝鮮半島有事で米軍が日本国内の基地から出撃したりする場合には、日本との事前協議は必要ないとの内容を明記している。事前協議方式は安保改定の柱で、日本の主体的な判断を保証しているはずだが、肝心のところで骨抜きになっていたことを意味する。秘密合意は、これまでも故ライシャワー駐日大使ら元米当局者の証言や関連の米外交文書から存在が指摘されたが、日本政府は一貫して否定してきた。しかし、条約交渉を担当した国務省のファイルから合意内容そのものを含む文書が出たことで、密約の存在は動かせなくなった。

この文書は、米国立公文書館で機密解除された国務省北東アジア部のファイル「議会用説明資料集(コングレッショナル・ブリーフィング・ブック)」の中にあった。ワシントンで情報公開に取り組んでいる民間研究機関ナショナル・セキュリティー・アーカイブ(NSA)が昨年秋に入手したが、その直後に「安全保障」上の理由で再び非公開となった。米政府が60年6月、上院に安保条約の批准を求めた際、ハーター国務長官用の説明資料としてつくったとみられる。
このうち秘密合意の内容を示すのは、密約の全体像を記した「日米安保条約に関連して結ばれた非公開合意の要約」、日米の交渉結果をまとめた「討議記録」、米国の立場から論点を整理した「日米安保における事前協議方式の解説」の3点だ。
「討議記録」は、新たに導入される事前協議方式について、「米軍機の日本飛来、米海軍艦艇の日本領海並びに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」と記載。核搭載の有無を問わず改定前の旧安保条約下で行われていた艦船の寄港などを協議の対象から外した。
この合意に基づき日米は63年、事前協議の対象となる「核の持ち込み」は核兵器の陸揚げ・貯蔵に限るという解釈を確認した。佐藤栄作首相が67年に「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の非核三原則を表明したが、密約に変更はなかった。国是となった非核三原則のうち、3番目の「持ち込ませず」は当初から空洞化していたことになる。
「事前協議方式の解説」は、朝鮮半島有事への対応として、安保条約発効後に開かれる第1回日米安保協議委員会で藤山愛一郎外相が「在韓国連軍が武力攻撃を受けた場合には、戦闘作戦行動のために在日米軍基地の使用を認める」と発言すると明記。朝鮮半島についての密約は、外相の発言として議事録に盛り込まれる段取りになった。
いずれの場合も、討議記録や議事録という形で密約が残されており、外交交渉で通常取り交わされる交換公文の書式をとっていない。だが、藤山外相とマッカーサー駐日大使がイニシャルで署名しており、政府間の合意として拘束力があることには変わりはない。発覚しても「密約の存在」を否定できるように日本側がこういう形式を求めたという舞台裏が、沖縄返還関連の別の米外交文書の中で明かされている。
事前協議は、旧安保条約にあった不平等性を改めるため、日本側の要求で60年改定時に安保に付随する交換公文として設けられた。米軍の配置・装備の重要な変更や、日本から出撃する米軍の戦闘作戦行動について米国が事前に日本と協議する仕組みだ。日本政府はこれにより米側に異議を申し立てる「対等性」が確保されたとしていた。
しかし、米国は表向き、日本の主張する事前協議方式を受け入れながらも、密約で核搭載艦の寄港や朝鮮半島への出撃の自由を確保していた。密約の全体像が明るみに出たことで、日本の非核政策の位置づけなど、外交・安全保障について根本的な論議の見直しを求める声が出そうだ。
◆「密約ない」外務省見解――藤崎一郎外務省北米局長の話
日米安保に密約は一切存在しない。これが日本政府の一貫した立場である。こういう文書のひとつひとつについて米政府に問い合わせたり、政府が調査したりすることはない。
     ◇            ◇
◆安保条約に関連して結ばれた非公開合意の要約
1 事前協議−討議記録(秘)
 交換公文の形になった事前協議をより正確に定義する秘密の解釈である。その趣旨は、米国が事前協議の義務を負う「配置」とは、核兵器と大型ミサイルの日本への持ちこみに限定する。また、同じく事前協議の義務を負う「行動」とは、日本から日本外に対して行われる戦闘作戦行動に限定する。(「事前協議の解説」を参照)
2 事前協議−安全保障協議委員会議事録(極秘)
 この秘密の取り決めにより、日本は米国に対して、朝鮮半島で共産主義勢力が再び攻撃をしかけた際には米軍が在日米軍基地からただちに反撃することにあらかじめ同意を与える。(「事前協議の解説」を参照)
3 行政協定第26条に基づく共同合同委員会の合意−議事録(取り扱い注意)(略)
4 米軍基地の権利と請求権の放棄−議事録(取り扱い注意)(略)
5 相互防衛援助協定(非機密)(略)

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「事前協議の解説」(米外交文書)
       2000年08月30日 朝刊  ページ PG2         629字

1 日本との協議が必要な項目(秘)
 A 日本から日本国外の地域に行われる戦闘作戦行動
 B 日本への核兵器の持ちこみ
 C 日本への中・長距離ミサイルの持ちこみ
 D 日本における中・長距離ミサイルを含む核兵器基地の建設
 E 米軍の日本への配置における重要な変更
2 事前協議に関する大統領の保証(非機密)
 (1960年1月19日のアイゼンハワー米大統領と岸信介首相との共同コミュニケから抜粋)
 「大統領は首相に対し、日米安保条約の下における事前協議にかかる事項については米国政府は日本国政府の意思に反して行動する意図のないことを保証した」
3 日本との協議が必要とされない項目
 A 兵たん・補給のための日本国内の基地の使用(非機密)
 B 日本から米国または極東の他の地域への米軍及び装備の移動(非機密)
 C 米国の艦船及び航空機の日本国内の港、基地への立ち寄り。装備の内容は問わない(秘)
 D 核以外の兵器の日本への持ちこみ。核弾頭を積まない短距離ミサイルも含む(秘)
4 すでに終了した事前協議の取り決め(極秘)
  新安保条約が効力を発した後に行われる最初の日米安保協議委員会で、藤山外相は日本政府の見解として次のように述べる。「在韓国連軍に対する攻撃によって生起する緊急事態において、国連統一司令部の下で在日米軍が戦闘作戦行動を緊急にとる必要がある際には、在韓国連軍が休戦協定に違反する武力攻撃を撃退できるように、例外的な対応として日本の米軍基地を利用してもよい」

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核の「抜け道」今も――

《解説》編集委員・本田優 日米安保密約の全容判明
       2000年08月30日 朝刊  ページ PG3         1648字

米国立公文書館で見つかった国務省の「議会用説明資料集(コングレッショナル・ブリーフィング・ブック)」は、対等な日米関係をめざした日本にとって「安保条約改定の核心」だったはずの事前協議の仕組みを、すべて明らかにしている。「これまで1度も米国から事前協議を持ちかけられたことはない」(外務省幹部)のも道理で、最初から大きな抜け穴が作られていたのである。
この資料集は、英文レターサイズで厚さ約1.5センチ。安保条約の条文とその分析、公開する合意の要約、非公開とする合意の内容と要約、事前協議の解説、想定問答集などからなる。1960年に締結された日米安保条約の全容そのものと言える。

●時代は冷戦

事前協議は、米軍による極東有事の際の日本の施設、区域使用に「日本の意思」(当時外務省安保課長の東郷文彦氏)を反映させる目的で考えられた。
当時は東西冷戦のまっただなか。米ソ両国は核開発競争にしのぎを削り、58年夏には中国が金門島を砲撃、米国の第七艦隊が台湾海峡に出動していた。
「米国の戦争に日本が巻き込まれる」という懸念や、日本の主体性を求める声が、野党だけでなく、自民党にも少なくなかった。
事前協議は公式には、岸信介首相とハーター米国務長官による交換公文に盛り込まれた。「米軍の日本への配置、装備の重要な変更、日本からの戦闘作戦について、米国は日本と事前に協議する」という趣旨だ。
今回見つかった資料集によると、事前協議の細部が当初から詰められ、米国が事前協議を持ちかけなければならないのは、(1)日本からの戦闘作戦行動(朝鮮有事の場合を除く)(2)核兵器、中・長距離ミサイルの持ち込みとその基地建設(核搭載航空機、艦船の寄港・通過を除く)(3)日本への兵力配置の変更――の3点に限られた。
この内容の一部は、条約締結の8年後、政府が国会の追及を受けて明らかにした。だが、2つの除外の場合(カッコ内)は今も否定し続けている。それが密約なのだ。
なぜ、密約は結ばれたのか。米外公文書を丹念に追跡し、今回の資料集と照合すると、密約の軌跡がとぎれとぎれに浮かび上がってくる。
●2つの密約
密約の1つ、朝鮮有事再発の場合の日本からの出撃では、58年に始まった条約交渉の当初から日米の意見が食い違った。
米側は事前協議なしの出撃を既得権と主張した。日本側は「国民や国会に受け入れられない」と反論した。
この交渉は条約締結の大詰めまで続いたが、最終的には、「事前協議の解説」にあるように、新条約発効後の第1回安保協議委員会で、藤山愛一郎外相が「例外的な対応」として日本からの出撃をあらかじめ認める見解を示すことが決まった。その内容は、藤山外相とマッカーサー米駐日大使の「朝鮮議事録」として残された。
もう1つの密約は、すでに核搭載の艦船が日本に寄港・通過してきた米軍の意向と、日本の世論の強い反対をどう扱うかという問題だった。「討議記録」で「現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない」とあるように、現状維持を決めた。日本はいわば暗黙の了解を与えたわけだ。
●看板が必要
占領色の濃い旧安保条約を改定するだけで精いっぱいだった当時の日本政府には、米国の冷戦戦略に変更を迫るような交渉は難しかった。といって、合意内容をそのまま公表するわけにもいかなかった。
59年暮れ、山田久就外務事務次官(当時)がマッカーサー大使に語った言葉が米外交文書にある。
「事前協議は条約改定の核心である。国民が、米国は日本の関与しない米国の戦争で、同意なしに日本への核持ち込みや日本からの戦闘作戦行動を起こそうとしているという印象を持てば、自民党の分裂、岸内閣の崩壊につながり……」
自民党内の基盤もぜい弱だった岸内閣にとって、「事前協議」は、たとえ看板倒れでも必要だったのだ。
大使と藤山外相が2つの密約の入った「朝鮮議事録」と「討議記録」にイニシャルで署名したのは、60年1月6日。日米安保条約締結の13日前だった。
問題は、その虚構が今も厳然と残されていることだ。

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安保、米に主導権 米公文書と高官インタビュー(同盟半世紀)
       2000年08月30日 朝刊 017ページ 特設B     写   11199字

 戦後の日米関係の根幹を支えた日米安全保障条約は来年九月、締結から半世紀の節目を迎える。敗戦・占領期から、「対等なパートナー」の時代へ。太平洋をはさむ日米をつなぎとめた条約は、どのように生まれ、変容したのか。一貫して主導権を握った米国は、どのような戦略をもっていたのか。機密解除された米公文書と、米政権中枢にいた高官四十人への取材をもとに「同盟半世紀」を再現した=敬称略。(編集委員・本田優、外岡秀俊、政治部・三浦俊章)

 ○非武装方針を転換 冷戦
 「講和条約を結び、総司令部を解消すべきだ。今や機は熟した」
 その言葉が発端だった。
 一九四七年三月十七日。日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)の元帥マッカーサーは、記者会見でそう語った。占領の建設段階は終わった。一年以内に、対日講和交渉を始めよ、というのである。
 講和後の日本をどう設計するか。世界に打電された元帥の発言は、それまで欧州に目を奪われていた米政権の関心を日本に呼び戻した。元帥の構想は、戦後も米ソ協調が続くという前提で、講和後の日本を国連管理下に置くとしていた。
 だが戦後の米国内では、別の潮流が生まれていた。ソ連への不信感である。
 米大統領トルーマンが東地中海の共産主義化を防ぐ「トルーマン・ドクトリン(注<1>)」を発表したのは、元帥会見の五日前。米国は「冷戦」に向けて大きくかじを切ろうとしていた。
 日本を非武装化し、民主化させる初期占領方針は、このころから、厳しい批判にさらされていく。先頭に立ったのは、その年五月に設置された国務省政策企画室の室長ジョージ・ケナンだった。長くソ連に勤務し、いち早く冷戦の動きをかぎ取ったケナンは、国務省中枢で地球規模の「封じ込め政策」を立案した。
 講和を急がず、まずは日本の経済を再建せよ。ソ連が敵対するなら、その時は再軍備も考える。彼は、日本を自由主義陣営に引き留め、対ソ戦略に布石を打つよう主張していた。
 四八年三月、来日したケナンはマッカーサーと三度会談する。元帥は沖縄の重要性を力説した。
 「沖縄に十分な兵力を置きさえすれば、アジア大陸からの陸海共同作戦の展開を阻止するために、日本本土を必要とはしない」(ケナンの会談記録)
 沖縄を要さい化すれば、日本は防衛できる。それがマッカーサーの「日本中立化」政策の核心だった。
 だが米陸軍省の考えは違った。陸軍は、沖縄は当然として、本土にも海・空軍基地を確保し、日本の警察力を強化することが望ましい、と考え始めていた。
 講和後の措置についてはとりあえず結論を保留したまま、ケナンは冷戦に向けて占領政策を再編する報告をまとめる。これをもとに十月、極秘の国家安全保障会議(注<2>)文書(NSC13/2)が採択された。
 「ソ連の侵略的な共産主義拡大政策によって引き起こされた深刻な国際情勢に照らし、米国は現時点で講和条約を急ぐべきでない」
 経済復興を目標として各種改革に歯止めをかける。
 対日占領政策は正式に転換された。

 ○米軍駐留を「望む」形に 朝鮮戦争
 だがマッカーサーは、しばらくはこの政策転換に抵抗し、日本の中立化を主張した。四九年三月のインタビューでこう語った。
 「戦争が起こった場合、米国は日本が戦うことを欲しない。日本の役割は太平洋のスイスとなることだ」
 その秋中国では共産党が政権を握った。冷戦がアジアでも輪郭を表し、米英の空気は緊迫した。トルーマンは翌五〇年四月、国務省顧問ダレスを、対日講和問題の担当に任命する。国務省、国防総省は講和後、本土にも米軍が駐留する案を練り始めた。
 その年六月、来日したダレスに、マッカーサーは新たな案を示す。日本の「軍国主義」を封じるポツダム宣言を、ソ連の脅威から日本を守ると読みかえ、講和後も連合国を代表して米軍が駐留しようという。
 元帥も「本土に米軍を置く」立場に変わり、米国の足並みはそろった。六月二十三日のことだ。二日後、アジアの歴史が変わった。朝鮮戦争のぼっ発である。
 このころ日本側にも、呼応する動きが出ていた。
 「講和後も、米軍を日本に駐留させる必要がある。もし米側から申し出にくいなら、日本側からオファー(提案)するような持ち出し方を研究してもよろしい」
 朝鮮戦争の約二カ月前、蔵相池田勇人はワシントンで、ひそかに米高官ドッジに伝えた。吉田茂首相の密使である。会談記録はすぐにダレスに回された。
 単独講和か全面講和か。当時の国内議論は二分されていた。早期講和を急ぐ保守は、西側陣営と協調し、米軍駐留を受け入れることで安全を確保しようと考えた。初期の占領政策の遺産を引き継ぐ革新は、対米依存を脱却し、対立する東西の調和を図ることに新憲法の理奪廚鯆未犬篤苴フ捷颪蓮⊃觜圓垢戮\殿腓頁ぬ海魘νC靴討い襦廖・袈綰・涎遏∨・討靴深鸛蠡臺神桔Г老鎧・・憤嫐9腓い悗猟餽慨兇・蕕修譴泙濃箸錣譴覆・辰拭崙洩繊廚箸いΩ斥佞鮟蕕瓩道箸辰拭まA NAME="13" HREF="#14">安保強化路線は、七九年末のソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけにさらに進んでいく。八一年に登場した米レーガン政権は、軍拡路線に拍車をかけた。「新冷戦」と言われる時代が到来した。
 日米同盟のひとつの頂点が、首相中曽根康弘と大統領レーガンがファーストネームで呼び合った「ロン・ヤス関係」だ。米国が「槍(やり)」で日本が「盾」の役割を果たす分業が決まり、日本はシーレーン防衛(注<4>)を引き受けた。さらに米ソ武力衝突の際は「海上自衛隊がソ連の潜水艦を攻撃し、その間に米軍が航空母艦でカムチャツカ半島を攻撃する分担」(元海軍長官レーマンの証言)まで決められた。
 「日米は運命共同体」(中曽根首相)と言い切った日本の協力ぶりは「戦争に訴えても勝てないということをソ連に明確に伝えるシグナル」(元国防長官ワインバーガーの証言)ととなえられた。しかし、ソ連の崩壊とともに、日米安保は一転、その存在意義を問われるようになる。

 ○「アジアの脅威」に備え 再定義
 共通の敵が消えたあと同盟をどう維持するのか。冷戦後の安保はまったく新しい課題に直面した。「ソ連の通常戦力と対峙(たいじ)していた欧州と異なり、アジアの脅威は多様。同盟が危機に瀕(ひん)しないように全力を尽くした」(元国務長官ベーカーの証言)
 しかし、冷戦終結の八九年からソ連崩壊の九一年は日本はバブル経済の真っ最中。一方の米国は財政と国際収支の「双子の赤字」を抱え、ソ連に代わる脅威は日本だという声が米国内に満ちていた。九一年の湾岸戦争で日本が百三十億ドルの財政支援をしたにもかかわらず、人的貢献が乏しいと非難を浴びたのも、こうした背景があったからだ。
 日本が自立志向を強め、日米同盟が漂流するのではないかとの恐れが膨らんでいった。そこに登場したのが、ハーバード大教授からクリントン政権入りしたジョセフ・ナイだった。
 国家情報会議(NIC)議長を経て国防次官補に就任したナイは、米国の立場から三つの要因があったと回想する。「第一に朝鮮半島の安全保障。第二に米国が日本を貿易の競争相手と見るだけで、地域を安定させる同盟の役割を評価していないことへの心配。三番目が、強大化する中国がそのパワーをどう使うか不明なため日米安保の仕組みを維持しようとの考慮だ」
 九三年から九四年にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑が東アジアを揺さぶる。元米大統領カーターの訪朝で危機は回避されたが、日米の防衛協力の中身が詰まっていないことが痛感され、危機意識が両政府間の安保協議を加速した。
 九五年二月にまとまった国防総省の「東アジア戦略報告」(ナイ報告)は、東アジアの米軍の兵力十万人を将来も維持すると明言、中国には「封じ込め」ではなくて「関与」政策を提言、日米関係を「アジアにおける米安全保障政策のくさび」と位置付けた。以後、同年十一月の新防衛計画の大綱、翌九六年四月の「日米安全保障共同宣言」に至るまで、日米の担当者が草稿を交換して文案を練り上げるという、これまでにない緊密な協力作業を繰り返した。「周辺有事」に備える新ガイドラインも、九九年五月には日本の関連法が成立。再定義の一連の作業が終わった。
 しかし、舞台は回りつづける。二十世紀最後の二〇〇〇年六月、朝鮮半島では初の南北首脳会談が実現。朝鮮半島危機を想定して再定義された安保は、再び新たな局面を迎えている。
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 (注<1>)ドクトリン 米大統領が、主に外交政策の分野で打ち出す一般原則や主義。トルーマンは「いかなる侵略も米国防にかかわる」とみなして対ソ封じ込め路線をとり、冷戦政策を進めた。アイゼンハワーは、英仏の撤退で生まれる「権力の真空」を埋めて中東の安全を守るというドクトリンを唱えた。ニクソンは一九六九年、米国がすべての責任を負うのでなく、同盟・友邦国に自助の努力を促して対等な協力関係(パートナーシップ)を築く「ニクソン・ドクトリン」を唱え、沖縄返還に合意した。
 (注<2>)国家安全保障会議(NSC) トルーマンは四七年、安全保障について外交、軍事、内政の関連省庁が協力し、大統領に総合政策を勧告するため国家安全保障会議を設立した。最初は国務長官らのほかに三軍長官が出席したが、後に国防長官が軍を代表し、新設された米中央情報局(CIA)長官、副大統領らも加わった。歴代大統領によって比重の置き方は違うが、大統領を補佐する幕僚的な機関として、安保政策に大きな役割を果たした。
 (注<3>)日米防衛協力のための指針 「旧ガイドライン」と言われる。自衛隊と米軍との実戦的な協力関係を初めて示した。(1)侵略を未然に防止するための態勢(2)日本に対する武力攻撃に際しての対処行動(3)日本以外の極東における事態で日本の安全に重要な影響を与える場合の日米間の協力――を挙げ、それぞれの共同作戦計画の研究、共同訓練実施を定めた。しかし、(3)の作業は進まず、一九九七年の新ガイドラインまで持ち越された。
 (注<4>)シーレーン防衛 八一年五月に首相鈴木善幸が訪米中に表明、日米間で具体的な研究が進められた。一〇〇〇カイリまでは日本が責任を負い、一〇〇〇カイリ以遠は米軍に期待する。日本側は単なる「航路帯」と国内向けに説明していたが、米側では軍事作戦上の補給路の防衛分担と位置付けていた。

 ◇復帰前も安保支えた沖縄
 沖縄に日米安保条約が適用されたのは、一九七二年の復帰時からだ。だが沖縄は、それ以前も安保を支える重要なかなめだった。
 五一年の講和条約で沖縄は本土と切り離された。米統治下にある沖縄の基地は、米軍が確実にあてにできる太平洋の拠点だった。
 五二年八月、米国家安全保障会議(NSC)は「将来日本が、本土の基地使用を著しく制限・排除する可能性があるため、琉球・小笠原の基地を長期に保持する必要がある」という文書(NSC125/2)を採択した。国防総省は翌九月、次のような見解をまとめた。
 「沖縄は、全アジアを最大爆撃半径におさめ、ロシア南部に達する理想的位置にある。地上軍も主要中継地としてあてにしている」
 アイゼンハワーは五四年一月、沖縄基地の無期限保持を宣言した。
 五六年には沖縄で反基地の「島ぐるみ闘争」が起きる。国務省は危機感を募らせたが、首相岸信介が安保改定を求めると、軍が巻き返した。翌年六月、日米首脳会談前日に、大統領を囲む会議でダレスはいった。
 「もし米国が日本での立場を放棄するなら、いっそう沖縄にとどまる理由がある」。安保改定で本土の基地使用が制限されれば、自由に使える沖縄の比重は高まるという理屈だ。
 ダレスは岸に宣言した。
 「日米と自由諸国防衛のため、沖縄の支配を放棄するいかなる可能性もない」
 安保改定によって日米は「事前協議」の仕組みを作った。実際はこの制度にも密約があったが、安保の適用から外れた沖縄では、表向きも完全な基地の自由使用が認められた。
 こうして沖縄はベトナム戦争への出撃基地、核貯蔵基地として使われた。だが、六五年前後から在日米大使館は、復帰運動の激しさに気づく。同年七月、国務省と軍の会議で大使ライシャワーは、「沖縄問題は七〇年以前に爆発点に達するだろう」と警告した。
 七〇年から、安保条約は一年の事前通告で失効することになっていた。安保条約を維持し、しかも沖縄での権益をいかに確保して返還交渉を進めるかが、米側の戦略目標となる。
 六九年の就任直後、ニクソンは沖縄返還の検討を命じ、五月二十八日、国家安全保障決定(NSDM−13)が作成された。
 日米安保の継続を前提として、「(1)通常兵器による最大限の基地の自由使用を求める(2)緊急時の核の貯蔵・通過権を保持しつつ、交渉の最終段階で大統領は核兵器の撤去を考慮する」という内容である。
 日米は「核抜き本土並み」の沖縄返還に合意したが、ここでも「密約」の疑惑が指摘されている。
 返還交渉で佐藤栄作の密使を務めた元京都産業大教授・若泉敬は生前、有事に沖縄への核再持ち込みを認める密約があった、と証言した。六九年十一月の日米首脳会談で、合意議事録二通が作成されたが、その内容は機密扱いのままになっている。一通は核の再持ち込み、もう一通は基地の自由使用に関する保証だった可能性がある。

 ◇63年に日米秘密会議発足
 一九六三年四月三日。東京・赤坂にあった米軍用施設「山王ホテル」に防衛問題を担当する日米両政府の高官がひそかに集まった。
 外務省アメリカ局長安藤吉光「このグループの存在を完全に秘密にしていただきたい」
 駐日公使エマーソン「漏洩(ろうえい)がないようにあらゆる措置をとりましょう」
 防衛研究グループ。後に英語の略称でDSGと呼ばれる政策調整機関がこうして生まれたことが、米国務省文書で明らかになった。扱ったテーマは、東アジアにおける脅威の認識、自衛隊の役割の定義、米国から輸入すべき装備、後方支援など多岐にわたった。国務省文書によると少なくとも同年九月までに四回の会合が開かれている。これほど広範囲の防衛協力を話し合う常設機関が設けられたのは初めてのことだった。
 背景には中国の核開発(中国は翌六四年に原爆の実験に成功)に対する日米共通の懸念、そして日本の防衛費を増やして米国の装備品を輸入させ、国際収支を改善しようという米側の思惑があった。

 だが、協議を始めると次々に難問にぶつかった。
 エマーソン「研究を進めるため、いくつか作業委員会をつくりましょうか」
 防衛庁防衛局長海原治「防衛庁で知っているのは、私と事務次官、統合幕僚会議議長、防衛参事官の四人だけだ。作業委員会をつくると機密が漏れる」
 ときの防衛庁長官の耳にさえ報告がいっていないということだった。「日本側の極端な秘密主義が共同研究の妨げになるかもしれない」(在日米大使館から国務省あて電報)
 各論はさらに難航した。防衛力整備計画の修正を求める米側に、「いまのような構成の内閣では非常に難しい」「防衛庁はとても弱い役所なんです」(海原)と回答した。米国が日本の東と南五〇〇カイリに及ぶ水域における哨戒、偵察、対潜水艦作戦の遂行を求めるなど、米軍と協力する形で自衛隊の任務の明確化を迫ると、「そのような包括的定義が必要か日本政府は疑問視している」(安藤)。とうとう米国務省は「はっきりいって日本側の対応には落胆した」(在日米大使館あて電報)と表明するに至った。
 米国が求めたのは、日本周辺のシーレーン防衛にしろ、後方支援にせよ、後の八〇−九〇年代に日米で決めた防衛協力の原型にあたる。六〇年代前半、安保闘争に象徴される政治の「嵐(あらし)」が過ぎ、池田内閣の所得倍増計画が注目されていた当時の日本社会では、とても受け入れられる内容ではなかった。

 <日米安保の歩み>
    年・ 月
 1945・ 8 ポツダム宣言受諾。敗戦
   46・ 3 チャーチル英前首相「鉄のカーテン」演説
   47・ 5 日本国憲法公布
   49・10 中華人民共和国成立
   50・ 6 朝鮮戦争ぼっ発
   50・ 7 マッカーサー連合軍最高司令官が警察予備隊創設を指令
   51・ 9 対日講和条約と日米安保条約に調印
   54・ 7 防衛庁、自衛隊が発足
   56・10 日ソ共同宣言調印、国交回復
   60・ 1 新安保条約調印
   60・ 5 新条約を衆院本会議で強行可決
   60・ 6 デモ隊が国会突入し、東大生樺美智子さん死亡。アイゼンハワー米大統領の訪日中止、岸信介首相が退陣表明
   64・ 8 トンキン湾事件。米のベトナム軍事介入本格化。政府が米原潜の寄港受け入れを決定
   67・12 佐藤栄作首相が衆院予算委員会で非核三原則を表明
   69・11 沖縄の核抜き本土並み返還で合意
   70・ 6 日米安保条約が自動延長
   71・ 7 ニクソン米大統領、翌年の中国訪問を発表
   72・ 5 沖縄の施政権返還
   72・10 田中角栄首相が訪中。日米共同声明で国交正常化
   75・ 4 サイゴン陥落。ベトナム戦争終結
   78・ 8 日中平和友好条約調印
   78・11 「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」決定
   79・12 ソ連のアフガニスタン侵攻
   81・ 5 鈴木善幸首相がシーレーン防衛を表明
   83・ 1 中曽根康弘首相が「日米は運命共同体」「日本列島は浮沈空母」などと発言
   89・12 マルタで米ソ首脳会議。冷戦集結
   90・ 8 イラクがクウェート侵攻
   91・ 1 湾岸戦争ぼっ発
   94・ 6 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑をめぐる危機がカーター元米大統領訪朝で回避
   95・ 9 沖縄で米海兵隊員による少女暴行事件
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ライシャワー大使公電(要旨) 「持ち込み」… それは日本領土への配置を意味
       2000年08月30日 朝刊  ページ SJ          1012字

1963年4月4日、ライシャワー駐日大使がラスク米国務長官に送った公電の要旨は次の通り。
私は4月4日、人目を避けるため大使公邸での朝食会で大平正芳外相と会い、大平氏との間で秘密の「討議記録」の解釈に関し、現行の米国側説明の線に沿って完全な相互理解に達した(米国の解釈と秘密記録の存在自体、いずれも大平氏にとっては明らかにニュースだった)。
米国が「イントロデュース(持ち込み)」という言葉に固執している意味をはっきり説明し、それは日本の領土上に配置したり設置したりすることを意味すると説明した。大平氏は、日本はこれまでこの言葉をこのような限定された意味で使ったことはなかったが、今後はそうすると述べた。私は大平氏と秘密の「討議記録」の2a項と2c項の英文のテキスト(日本文はない)をあらためて検討した。
大平氏の反応はすばらしかった。彼は、米国が「イントロデュース」という言葉であらわそうとした意味を、自分が(そして多分池田勇人首相も)理解していなかったことを認めた。しかし、それが明らかになったことにショックを受けている様子を見せなかった。
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◆日米安保条約・討議記録(秘)――東京、1959年
1 条約第6条の実施に関する交換公文草案のための参照として、以下のとおり実施する。
 「米軍の日本への配置における重要な変更、装備における重要な変更並びに日本から行われる戦闘作戦行動(前記の条約第5条の規定に基づいて行われるものを除く)のための基地として日本国内の施設および区域の使用は、日本政府との事前協議の主題とする」
2 同公文は検討され理解されたものとして以下の諸点を作成した。
a 「装備における重要な変更」とは、中・長距離ミサイルならびにそれらの基地を含めて核兵器の日本への持ちこみを意味すると理解されるが、例えば、核兵器を積まない短距離ミサイルを含む核以外の兵器の持ち込みはそれに該当しない。
b 「戦闘作戦行動」とは、日本から日本以外の地域に行われる戦闘作戦行動を意味する。
c 「事前協議」は、重要な配置の変更を除き、米軍の日本への配置、ならびに装備における変更、また米軍機の日本飛来、米海軍艦艇の日本領海ならびに港湾への進入に関する現行の手続きに影響を与えるものと解釈されない。
d 交換公文において、米軍の部隊ならびに装備の日本からの移動に際して「事前協議」を必要とするとは解釈されない。