ゲーム研究室


確率の理論


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「その3.カメはうさぎに勝ったのか?」

<問1>「1本だけはずれくじの入った100本のくじがある。 100人で順番に引くとしよう、何番目に引くのが有利であろうか?」

 <解答>まず最初の1本目であるが、はずれる確率1/100であるので、 ほとんど0に等しいので「絶対に」はずれない(宝くじの1億円があたらないのと同じ理由)。 同様に2番目もはずれる確率はほとんど0に等しいのではずれを引くことは「絶対に」ありえない。 しかしこれを繰り返していくうちに、次第に確率は上がってきて、 「これくらいなら、引いてもおかしくないな」と思われる頃になってくると、 誰かがはずれを引いてしまい、以後ははずれはもう無いので、はずれを引く確率は0になる。 つまり、最初のほうと、最後のほうで引くのが有利(というより「絶対」大丈夫)であり、 真ん中辺で引くのが不利ということになる。

 この問題の場合、確率が変化するので、 いつかは誰かがはずれを引いてしまうが100面ダイスで考えると話しはまた違ってくる。 そこで次の問題を考える。

 <問2>「100の目をはずれとした100面ダイスを100人で順番に振るとき、 何番目に振るのが有利であろうか?」

 <解答>はずれる確率は常に1/100で0に等しいので、何番目に振ろうと「絶対に」はずれない。 つまりこの場合全く平等と言える。
 しかしこれには条件がある。いかに100面ダイスといえども、 100個まとめて振ったら1個くらいは100の目が出てしまう。 それと同じで、連続して100回振った場合は1回くらいはずれが出てしまうのである。 この辺が実に微妙なとこなのであるが、つまり、 前の人が振った後にすぐ振るのではなく「十分な」時間をおいた後振らなければ危険なのである。 しかもこの場合、たとえ違うサイコロに変えて振ったしても危険度は減らないので注意してもらいたい。
 こういうことを書くとA氏が「サイコロが忘れるのを待っているのか」とか 「サイコロ同志話し合っているのか」とか聞いてくるのに決まっているのだが、いうまでもなくそうではない。 毎回訴えているように記憶装置のついたサイコロや、話すサイコロなんて私の知る限りどこにも売っていないからである。

 注1)A氏:ゲーム界の重鎮、某氏、確率はあまり詳しくない。 前回および前々回登場したA氏と同一人物である。

 ここまで読んで、読者が疑問に思うと考えられる点について解説しておこう。  まず問題になるのは、「100の目がでる確率が0に等しいなら、 同様に考えれば99がでる確率も0であり、以下同様に98、97と続き、 ついにでる目はなくなってしまうのではないか」ということであろう。
 しかし良く考えていただきたい。 100の目は「はずれ」なのであるから、確率1/100で0に等しいのであって、 99や98の目は「はずれ」ではないのであるから、はずれない確率99/100の内の一部なのである。 99/100といえばこれはもう「絶対」であるから99や98は出てもおかしくない。 もしどうしても99の目を出したくなかったら、100の目のはずれを解除して、 99がはずれと宣言するしかない。
 つまり、数字が重要なのではなく「はずれない」が「はずれ」の99倍強いことが大事なのである。
 ここで「99倍強い」=「100回に1回勝つ」と思ってはいけない。
 例えば、99倍の速さを持ったものとレースをして勝てることがあるだろうか。 100回どころか10000回やっても無理であろう。 しかし、ここで皆さんの脳裏にはある事件が思い出されたのではないだろうか?
 「ウサギとカメ」である。
 紀元前4076年、圧倒的速さを誇るウサギがカメに敗退するというレースがあった。 その後カメのドーピングが発覚し記録は取り消しになったが、 そのときですら速さの比は50倍だったという。
 どうやら1/51あたりから注意が必要らしい。

(その他の疑問に関する補足)
 問1の解答において「これくらいなら引いてもおかしくない」頃というのは一体いつなのか?
 問2の解答において「十分な時間」というのは一体どれくらいなのか?
 他に疑問点を考えればいくらでもあるような気がするが、重要なのはこの2つであろう。 実はこの2つの疑問は同じシステムから成っており、すなわち答えは1つで足りる。 「その人しだい」がその答えである。
 これくらいなら起こってもおかしくないとか、これくらいなら十分な時間とかいうのは、人それぞれである。 そしてこれが結果にも反映される。
 つまり、サイコロを振る本人が「そろそろはずれそうだ」とか「まだ十分時間がたってない」 と思ったらはずれるのであり、「まだ大丈夫」とか「もう十分な時間だ」 (注:けっして「もうサイコロが忘れた頃だ」ではない)と思えば、はずれないのである。
 本人が「はずれない」思っても、見ている人がそう思わない事もある。 この場合振った本人は「はずれなかった」ことを確認するが、 見ている人は「はずれた」ことを確認するというとても奇妙なことが起こる。 これはどちらかが勘違いをしていたり、嘘をついているわけではない。 たいへん意外なことであるが、振った本人と見ている人とで違う結果を得るということが現実に起こりうるのである。 (これは確率相対性理論と呼ばれ、19世紀初頭にコペルニクスが証明した)
 読んでみると非常に重要な定理であることが分かると思うが、残念なことに一般にはあまり知られていない。
 ゲーマーがよく喧嘩をするのはこのためである。

[[[[読者のページ]]]]
(私の確率理論について、いちゃもん、いいがかり等のある方はご連絡下さい。 当コーナーにてお答えいたします)
(注:この文は会報掲載時(1995)のものです。現在は受け付けておりません。)

私の記事を読んだある読者から「出目平均化の法則と矛盾しているのではないか」との意見をいただいた。
 確かに6をたくさん振るとだんだん確率が下がるという出目平均化の法則と、 今までに6をたくさん振った人はこれからも6を振りやすいという打率理論は一見矛盾しているように思える。 しかも両方とも私が書いているので「いい加減なことを書くな!」という声があがるのももっともなことである。
 「出目平均化の法則が掲載されたのは7月号であり、打率理論が掲載されたのは12月号である。 この5カ月の間に数学が進歩したのだ。」と説明したらその読者は納得していたが、そうではない。 この二つの理論は全く矛盾しないのである。 賢明な読者諸氏はもうお分かりのことかと思うが、すべてのサイコロの出目は平均化へ向かうのであるが、 特定の個人に限定すると出目は必ずしも平均化しないのである。 つまり、6を振りやすい人や、2と5を振りやすい人など様々な人間がいて、 トータルすると出目は平均化されるのである。
 ここで問題がある。生まれてはじめてサイコロを振ったとき6が出たとしよう。 この人にとって今のところ6を振る率は10割であるから、 打率理論によると次も10割の確率で6を振ることが期待できる。 つまり以後永遠に6を振るのであろうか?
 そうではない。野球に規定打席数というものがあり年間403回打席にたっていないと、 たとえ10割ヒットを打っていたとしても打者として認めてもらえないのと同様に、 サイコロだって規定回数振っていないとどんなに6を振っていても偉くないのである。 しかも野球の打率が毎年数え直しになる(この現象を一般に「リセットされた」という)のと同様に、 サイコロの場合でも頻繁にリセットされる。 リセットされてから数えはじめて規定回数をクリアしないと、それまでの実績が評価されない。 規定回数に達したときに、例えば6をちょうど10割振っていたら、つぎからは必ず6を振ることができる。 10割未満なら以後サイコロを振る度に確率は変化し、そしてこの連鎖反応(マルコフ連鎖2)は、 次にリセットされるまで続いていく。
なお、この10割振者(ある目を10割の確率で振る人)は有史以来まだ確認されていない。
 しかし、この連鎖反応には特例がある。 野球には普通の打率のほかに得点圏打率というものがあり、 3割打者でもチャンスになると突然4割打ったりする人と2割しか打てなくなる人などがいる。 それと同様に6を振る確率がたとえ9割であっても、 本当に6を必要とするときに振れるかどうかはわからないのである。

 (補足)マルコフ連鎖1とは、「サイコロで6が出る確率は以前の出目にかかわらず、 常に同じ確率すなわち常に1/6である。」というものであり、前述のマルコフ連鎖2と相反する理論である。
 マルコフ連鎖1の証明として一般的なものは「サイコロには記憶装置が付いていないから」だとか「サイコロはお話ししないから」などという程度のものであり、 この理論がいかにいいかげんなものか分かるであろう。 そしてみなさんが背理法というものを知っていてば、マルコフ連鎖2の正しさが理解できたことであろう。

 名越康裕(なこしやすひろ、ボードウォーク・コミュニティー会員)


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