| 1996年11月12日、広島県戸河内町、もう熊といえば里で食うだけ食って山に帰っているはずなのだ。それがこの熊ときたら、この季節に現れて庭先の柿の木からずり落ちた。その拍子に後ろ足を幹が3本別れている間に挟んでしまった。 起き上がる力もない哀れな熊は、危険を心配する役場の職員をよそに数十人も押し寄せた村人のさらし者になった。左後足を木にはさまれ仰向け様に動くことのできないこの熊は、手の届くような距離からたくさんの人のカメラに収まった。 私が県の林務課の職員と駆けつけたときには、すでに村人の好奇心と熱気は冷め、二三の人影が残るだけだった。熊の処理は役場の仕事である。熊は麻酔され、計測を終えたのち奥山に放たれる。県では動物の扱いに慣れた獣医師が麻酔を実施する。私が呼ばれたのは麻酔した後、治療が必要かどうかの判断のためである。 熊は吹き矢から放たれたダートが命中し心地よく眠った。熊の脇にロープを回して柿の木の幹に付けた滑車に通す。さすがにこの作業に入ってまた人が集まりはじめた。その人たちの力も借りていったん熊を吊り上げて、絡まった後足を外すことができた。 「ゆるしてやるんか。ここらへんでゆるすなよ。」 村人の一人が私に問いかける。「もっとよく調べてからでないと・・・」などとうすら返事を返しながら、私は「ゆるす」という言葉の中に、都会に暮らす自分が持つことのできない「人と動物の関わり」を感じていた。 動物園で働く私は野生の傷ついた動物をたくさん保護する。多くは瀕死の動物で死んでしまう。運良く治すことができた動物は放してやる。きびしい野生の生活が危ぶまれる身体に障害が残った動物も放さなければならないことがある。「捨てに行ってくるからな」などと、まともにしてやって放せない自分を揶揄するように言い置いて、保護動物を放しに出かけることもある。 「捕まえる」「放す」「保護する」「捨てる」、いずれも物理的に動物を私の支配下においたり、管理外とする事務的な言葉だ。だが「ゆるす」は不思議な言葉だ。動物が人に迷惑をかけたので捕まえたが、それにもかかわらず無罪放免にしてやろうというのだ。事務的な言葉ではないし、第一論理的な言葉ではない。けがをしたから保護する、悪いから捕まえる、治ったから放す、手に負えないから捨てる、これは理屈が通る。しかし、ゆるすは悪いことをしたのにゆるして放すのである。「から」と「のに」ではまるきり逆の関係である。 庭先に熊が来て、人の命が脅かされようというのにゆるす気持ちになれるのは、いったいどのような心境なのであろうか。村人は熊を人格化していると見える。熊を日常的に出会う主体的な性格の持ち主と感じている。都会の私たちが自然を守ろう、熊を守ろうというときには、熊は物語の主人公やアイドルに対するような仮想的な対象である。反して村人にとって熊は常日頃、そこにいる奴だからこそ許せるのだ。「いる」ことを認めているのだ。 「ゆるす」という言葉の不思議さは、小さなころ聞かされたおとぎ話を思い出すからかもしれない。心のやさしいおじいさんやおばあさんが、雀や鼠を救ったりゆるしてやる話がたくさんある。都会のない古の人々は野生動物を人格のある対象とだれもが感じていたに違いない。動物がバーチャルではない自然に暮らす人々の動物に対する思いは、今や都会人には理解できない感覚があるようだ。
|