季刊かすてら・2003年夏の号

◆目次◆

軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

イエロー・ケーキ・ルムバ

 南西アフリカの小国マビシタマウの祭の踊歌。曲名は1994年頃、ゲカヤツムタ・ケコリヒャタがレコード化したときの命名で、マビシタマウでは単に「踊歌」という事が多い。踊りを「カヌンゾ踊」と呼ぶ。カヌンゾはマビシタマウ語で「狂人じみた」の意。1982年頃、アジアから来た油絞りの職人が歌と踊りとを伝えたという。
 マビシタマウは国というよりも村に近い小国で、1975にアンゴラが独立した際ほとんどどさくさに紛れて独立した。独立以前は焼畑農業と放牧、狩猟採集という生活形態で特別な産業はなく、地下資源も発見されておらず周辺国に重要視されなかったため、さしたる武力闘争もなく、むしろ取り残されるような形で独立を果たした。自給自足的な経済で、貧しいが餓える者はない、ある程度安定した社会であった。
 農作物の輸出によってわずかな外貨を稼ぎ、急がずに豊かさを目指すというのがキギテザ初代大統領の計画であったが、1988年、ウラン鉱脈が発見されると状況は一変する。ウランの採掘権は環境に充分な配慮をする事を条件にヨーロッパの企業に貸し付けられ、何もしなくても政府に莫大な利益をもたらした。国民の税金は無料になり、道路が整備され各地に学校と病院が建設された。ところが、土着のアニミズム的な信仰により無駄を嫌い質素を好むマビシタマウ国民は都市型の開発を好まず、それ以上の経済的物質的豊かさを求めなかった。大統領は農業技術研究の他、学問や芸術などの文化政策に力を入れたが、あり余る外貨は使い切れなかった。日本企業の勧めにより、首都に八十階建の超高層ビルディングを建設したのは1992年の事だった。地下一階と地上二階は市場に、最上の六階は各種政府機関が入ったが残りは一部が倉庫にされた以外は空室のまま現在に至っている。
 イエロー・ケーキ・ルムバの「マビシタマウの地下には宝が眠っている」という元歌は、この地方の代表的民謡『ゲンジョ・シーヴ(精霊の歌)』の歌詞の転用。この「宝」は元々農作物を育てる肥沃な土地の事であったが、イエロー・ケーキ・ルムバではもちろんウランの事である。
 カヌンゾ祭は祖先の霊を迎える、日本で言えばお盆に相当する祭である。ビル建設以来、この祭は参加者が地上から最上階までイエロー・ケーキ・ルムバを歌い、カヌンゾ踊を踊りながら登り、また地上に降りて来るという形式になった。エレベータを使わず、広い階段を登り降りするので全行程は四日かかる。祭の間、ビルの各階には出店、宿泊施設、大道芸人、見世物小屋などが立ち並ぶ。がらんとした高層ビルが年に一度だけ活況を示す時である。

●虚事番外編・ゲノム助詞●

「今日は何ですか」
 虚事の案が出ないのよ。新之輔も手伝って。
「はあ。で、どんなお題ですか」
 新しい助詞を考える。
「文法を作るんですね。『こんな助詞があったら変だ』」
 そう。
「助詞って何でしたっけ」
 事典を引いてみようか。『てにをは』の事だな。常に他の語の後にくっついて使われる付属語の一種で活用を持たない。二つの語句の間で用いて前件と後件の関係付けをしたり、一つの語句の後に用いて意味付けを行う機能を持つみたいだな。
「それじゃ接続詞とどう違うのです」
 何だろう。文節の頭に立つ事がない、って事かな。助詞は語句同士の関係や意味を付け、接続詞は文同士のそれ。
「句と文って境界が曖昧ですよね」
 文法を厳密に定義付けたり論理的に構造化したりしようとすると、たいてい曖昧な部分が出て来ちゃって挫折するよね。
「人間の脳の仕組みが『曖昧さを許す』ようにできているのでしょうね」
 寛容な脳。あんまり厳密に整然としていたら息苦しいし、曖昧さを残しておかないと柔軟なしなやかさがなくなっちゃう感じもするしね。まあ、最後に『。』が付いてるのが文、という事にしておこう。
「『。』なんか。その。気に。なれば。どこにでも。付けられ。ますけど。極端な事を言えば、文節の区切りでなくても、単語の途中でも、『ん』や『っ』の前にだって付けられる」
 そういう事を言い出したら切りがない。
「そうですね。もっと極端に音の途中、母音と子音の間に…」
 もう止せ。
「助詞にはどんな種類があるのですか」
 事典によるとだな、橋本進吉と言う人は十種類に分類した。
「誰です」
 会った事ない。国語学者だそうだ。事典は便利だ。『文節』という概念を考え出した人らしい。助詞の分類は次の十種類。
(1)接続助詞: 用言にのみついて接続する。見テ帰る、聞けバ話す、安いカラ買う、見るガ見えない、など。前件が後件の成立条件・理由などである関係を示す。
(2)並立助詞: 種々の語について接続する。桜ト梅、犬ヤねこ、京都カ大阪、兄ダノ姉ダノ、右にヤラ左にヤラ、打つナリけるナリ、など。事物の間の対照・並列・選択などを示す。
(3)連体(準副体)助詞: 種々の語について体言に続く。私ノ本、海からノ風など。前件が後件の事物への限定であることを示す。
(4)格助詞: 体言にのみついて用言に続く。花ガ咲く、花ヲ見る、都ニ住む、都ヘ上る、都カラ下る、など。前件の事物が後件の作用に対して主・目的・場所・道具等々である事を示す。
(5)係助詞: 種々の語について用言に続く。雨にハあわない、それでコソ男だ、雪よりモ白い、君ダッテわかる、など。一文の中でその文節が、種々のニュアンスで強調すべき問題点をもつ事を示す。
(6)副助詞: それ自身では切れ続きが明らかでないが、連用語の用法と体言の用法とをもつ。君ダケに話す、君にダケ話す、男マデが泣く、酒バカリのむ、など。作用の及ぶ範囲程度を限定して示す。
(7)準体助詞: 体言の資格を与える。長いノがいい、君ノを見た、五つホドに切る、など。
(8)準副助詞: 副詞の資格を与える。寝ナガラ読む、我ナガラおかしい、着たママ入る、など。(7)と(8)は準用助詞。助詞か形式名詞かの問題がある。
(9)終助詞: 一文を終止完結する。行くカ、行くナア、行くヨ、帰りナ、帰るナ、など。疑問、詠嘆、勧誘、禁止など、話し手の陳述様式を示す。
(10)間投助詞: 文節を切るが、必ずしも文を終止しない。それでネ、私がサ、これをデスネ、食べるサ、など。相手の注意の要求(文脈の誘導)、相手への態度などを表す。自立して感動詞となる物がある。
「英語の前置詞にも似てますね。具体的にどんな物を考えているのです」
 ゲノム助詞とか。
「何じゃそれは」
 いや、俺にも判らんけど。ゲノムの機能を果たすような助詞。あるいは品詞。
「ゲノムって何でしたっけ」
 生物一個体分の遺伝子の一揃い。
「よく『ヒトゲノム』っていう言い方をしますよね。この時、例えば僕とかすてらさんとでは当然遺伝子に違いがある訳ですが、そこの所を吸収した一般化はどうなっているのですか。つまり、かすてらゲノムや新之輔ゲノムではないヒトゲノムが成立する要件と言うか」
 そんな難しい事、俺に聞かれても判らんよ。ただヒトゲノムが全て読み取られたと言うからにはそこん所も当たりがついているんだろうなあ。それとも、訳も判らず闇雲に三十億個のAGCTの塩基配列を書き取ったというだけか知らん。
「それじゃあ、ゲノム助詞の機能を考えましょう。とりあえず、十種類の助詞に一つ一つ当てはめてみましょうか。音が必要ですね」
『ゲノ』で良いんじゃない。
「また安易な」
 最初に『ゲノム助詞の接続助詞的用法』。
「用言に接続して、前件が後件のゲノムになっている関係を示す」
 具体的にどういう事だ。
「判りませんよそんな事」
 ゲノムになっているという事は設計図になっているという事かな。
「自己組織化して個体を形作る。用例としては『見ゲノ帰る』。どういう事ですか」
 見る事が帰る事の設計図になっている。あるいは見る事が帰る事を自己組織化的に発生させる。
「地図を見て帰り道を探しているのでしょうか」
 見終わったから帰るという事じゃないの。ライブとか。
「つまんないですね。普通過ぎて」
 こういうのはどうかな。『見てしまったら帰らずにはいられない』
「ははあ。『見る』という行為が『帰る』という行為を誘発するのですね。そういう印があるのかな。帰巣本能を起動させる鍵になっている形。『リング』のビデオみたいですけど」
 帰るという行動を選択しているという意識すらない。帰るのが当然だという事すら思わない。もう他の選択肢は思い浮かばない。自動的に帰り始める。本能。そうか、本能も遺伝子に書き込まれているんだよな。
「ゲノムが決定するのは形態だけではなく、行動も含まれている。と言うか、形態と行動は別々の事じゃあないのですよね。目がなければ見る事もできない訳だし」
 構造と機能を分けて考えちゃうのは人間の脳の癖だろうな。ある行為を誘発する形って人間にあるのかな。昆虫なんかには一杯あるけど。若い男が女の裸を見たら勃起しちゃうとか。あ、でもそれは後天的な学習か。形その物が行為を誘発するんじゃなくて、形から性行為を連想するのか。美味そうな料理の写真見たら涎が出るけど、欧米人が納豆や梅干見ても涎は出ないもんな。狼に育てられた少年は人間の女で欲情するのかな。性欲がないはずはないよな。
「どうなんでしょう。ただ、女の裸で欲情するというのは必ずしも後天的とは言えませんよね」
 どういう事。
「子供が人間社会の中で成長することはゲノムには折り込み済みでしょう」
 ああそうか。それに合わせて遺伝子は設計されているはずだよな。ゲノムは個体じゃなくて環境も含めた種として考えなくちゃいけないのか。
「昆虫などは、行為のほとんどが遺伝的に決定されている。つまり、ある刺激に対してある行為が自動的に起こる。ゲノムが行動を決定している。そのため、限られた特定の環境でしか生きる事ができない。刺激が変わってしまうからです。それに対して人間はほとんどあらゆる環境に適応する事ができる。極地や宇宙でも生きる事ができる。これは脳という極端に可塑的な器官を使って、状況に合わせて行動を変える事ができるからです」
 つまり神経系がゲノムの機能を一部肩代わりしている。
「そうです。そして、脳を含めた神経系も設計図はゲノムに書かれている。可塑的な器官を使って多様な環境に合わせた柔軟な行動をとる事も遺伝子に書き込まれている」
 ははあ。行動を決定しない事を決定している。そして、遺伝子は脳を作るが脳は遺伝子を作らない。作らなかった。これまでは。
「そうですね。これからは変るかもしれませんね。既に遺伝子治療は始まっていますし。話を助詞に戻しましょう。そうするとゲノム助詞は『遺伝的に決定されている』という事を示すのでしょうか」
 他の用例を考えてみよう。『聞くゲノ話す』聞いたら話す本能。
「そういう人いますよね」
『安いゲノ買う』
「安いと買わずにはいられない。使わなくても買う。これもいますねえ。でも遺伝的じゃあないですよね」
 そうだな。行為の自動化は、女の裸の例でも判る通り学習でも起こるもんな。パブロフの犬。
「いや。案外遺伝的に決定されているかも知れませんよ。年寄りが若者に説教するのとか」
 エジプトの古代文字を解読したら『近ごろの若い者は…』って書いてあったんだって。
「『見るゲノ見えない』。肉眼の目では見えない」
 心の目で見よ。禅問答みたいだな。何かありがたい事を言っているようにも、単なる言葉遊びのようにも聞こえる。
「目で見える電磁波の周波数は限られているって事じゃないんですか」
 そんな。身も蓋もない。次の用法は並立助詞。並列関係を表すとしたら、相互に設計図であるような関係、という事かなあ。
「相互に誘発し合う。遺伝子から形態を推測するという事はできるのでしょうけど、形態から遺伝子を逆算する事ってできるのかなあ」
 家を作るための設計図じゃなくて、設計図を描くための家。地図なんかはブツが先にあって後から図面を作るけど。
「目的の設定によって原因と結果が入れ替わる。一般的に『遺伝子が先にあって形態は後から作られる』ような印象を持ちますけど、遺伝子って細胞の中でしか働かないんですよね。遺伝子だけが先にあるなんて事はあり得ない。鶏と卵で、還元論的に分けて考え出すとどっちも意味がなくなっちゃう」
 面白いな。並列的だけど、対称的な二元論とは違う。
「確かに男と女、天と地、というような関係ではありませんね。並列的という事で言うと、一つのゲノムから二種類の形態ってできないのですか」
 形態を止まった瞬間の物として考えれば、一つの遺伝子から複数の形態というのは有り得る。塩基配列を読み出す位置をずらす事で同じ配列から二種類の蛋白質を作る微生物がいるらしい。そんなアクロバティックなトリックじゃなくても、芋虫と蝶とかな。しかし、時間や環境条件を含めて考えると、発生や成長過程のどの時点でどのような形態が発現するか、どのような環境の時どんな形態になるか、という事は遺伝的に決定されていて、その意味ではゲノムには一つの形態しか書き込まれていない。
「じゃあ、一つの形態から複数のゲノムは」
 人間などの複雑な生物の場合、ゲノムには使用されない余剰部分もたくさんあるから、その部分の多様性は無限と言っても良いけど、お前の言っているのはそういう事じゃないだろ。
「はい」
 うーん。一つのアミノ酸に対応する塩基配列は複数あるから、それを入れ換えても同じ蛋白質はできるけど、それを『異なるゲノム』と呼んで良いかどうか。
「同じ機能を持つ異なる蛋白質、というのもあるでしょうね。そうすると、機能も構造もそっくりだけど、使用されている蛋白質は全然違うという事もありそうですね。クローンってゲノムは一つですよね。一卵性双生児とか」
 双子なんか持ち出さなくても植物にはたくさんあるよ。植物は個体の概念が曖昧で、よく竹は一斉に花を付けて枯れるなんて言うけど、一斉に枯れるんじゃなく、林全部が一個体なんだ。じゃあ、並立助詞としての『ゲノ』は『同じゲノムを持つ二個体』という事か。
「『一郎ゲノ二郎』と言えば、一郎と二郎がクローンである事を表す。クローン技術を使えば、ローレンツ変換なんか使わなくても双子のパラドックスができますね」
 発生時期をずらすんだな。
「歳の離れた双子」
 ♪ひとにぃん、きかれりゃぁん、お前のことをおぉん…。(「花街の母」作詩/もず唄平、作曲/三山敏)
「歌わなくて良い」
 次ぎは連体助詞。種々の語に付いて体言に続く。前件が後件の事物への限定である事を示す。連体格を表す格助詞に含める事もあるみたいだね。主に『の』を使って
所在や所有を表す。
「接続助詞が用言を限定したのに対して体言を限定するのですね。『私ゲノ本』と言えば、その本は私のゲノムの発現した物である、という意味になる」
 わはは。ゲノムの書いた本。
「塩基配列をいきなり表現に変換した現代芸術はありそうですね」
 ゲノムって、読み出した人に何か権利があるんじゃなかったっけ。
「逆に芸術表現を塩基配列に変換したりとか」
『失われた時を求めて』を塩基配列に変換して発生させたらどんな生物になるか。
「『フィネガンズ・ウェイク』なら何かできそうな」
 できん、できん。『海ゲノ風』と言ったら、海がゲノムで風はその発現という事になるのかなあ。
「当たり前過ぎてつまらないですね。それに『原因と結果』の言い換えに過ぎない。海のゲノム、風のゲノムっていう言葉はちょっと詩的で良い感じですけど」
 海の形や海流、大気の運動なんかは安定した動きを毎年繰り返している訳だから、何か遺伝子のような『同じ状態を維持するために受け継がれて行く物』がありそうな気もするけど。
「でもそれは力学的な『均衡状態』みたいな物で、遺伝子のような形のある物ではないでしょう。フィードバック機構というか恒常性(ホメオスターシス)と言うか。むしろ遺伝子の方がそういう『力学的均衡状態』の変化の一つなんじゃないですか」
 流行のカオスとか自己組織化とかいうやつだな。
「オートポイエーシス」
 海のゲノム風のゲノムか。星のゲノム、宇宙のゲノム。
「決定論的な考え方だと、宇宙の始まりから終わりまでのシナリオは、宇宙が始まった時点で全部ゲノムに書いてある」
 でも、不確定性原理とかカオスとかゆらぎとかを用いると、決定論は成り立たなくて、非線形的な世界になるんだろう。複雑系というのは大雑把に言うとそういう話だろ。
「どうなんでしょう。理論的には全ての素粒子の動きを捉えて計算すれば、世界は決定論的な物として記述できるんじゃないですか。実際問題としては量が膨大過ぎてできないというだけで。まあ、この辺の問題はミクロの世界の不確定性をマクロの相対性理論とどう統一するか、という問題が解決されないと結論は出ないのでしょうが」
 どうして欧米人は決定論と自由意志の問題にこだわるんだろうな。世界が決定論的であろうとなかろうと、俺の人間観や世界観は変わらんのだが。
「それはやっぱりこの世をお創りになった天にまします方と、審判の時に約束されている救済の問題に関係あるのではないでしょうか。僕にも良く判りませんけど」
 ゲノム助詞の示す意味や関係という時、原因と結果の比喩以外の手口ってないのかな。
「進化、という切り口がありますよね。進化っていうとどっちかに進んで行こうとする力のような印象を持ちますけど、現実には遺伝子は闇雲に多様になろうとしているだけですよね。突然変異は全く無作為に起こる訳ですから。全方位的に多様化して、その中で環境に適応した者だけが生き残る。進化の他には、親子という観点。遺伝というのはそもそも親と子が似るという事ですから。進化と遺伝。変化しようとする性質と同じであろうとする性質。生命のこの二重性」
 虚事でそんな高尚な話を扱う気はないよ。
「そうでしょうね」
 体言の後にくっついて用言を限定するのが格助詞。用言に対して主体や目的を表す。
「例えば『花ガ咲く』と言えば、『咲く』という述語に対して『花』が主語である、動作の主体である事を表している訳ですが、『花ゲノ咲く』と言った時それは何を表しているのですか」
 鼻毛の咲く。
「馬鹿野郎」
『原因と結果』の比喩を禁じ手にすると難しいね。『花は咲くという性質を持っている』という事かな。
「なかなか僕たちの期待している『意外な展開』になりませんね」
 題材の選び方を失敗したかも知れん。
「僕たちの頭が悪くなっているのじゃないですか」
 可能性は高いな。悪くなったのではなく、元々悪かったのに漸く気付いた可能性もある。
「『花ヲ見る』と言った時には述語に対して目的である事を示していますが、『花ゲノ見る』と言ったら何を示しているのでしょう」
 受動的な表現になるけど、花は見られようとして美しく咲く、という事かな。見られる事が花のゲノムの意図である。人に見られたいのではなく虫にだけど。
「繁殖したいのですね」
 セックスしたくて美しく着飾る。
「何の話ですか」
 いや。ゲノムの目的って結局繁殖なのかなあ。
「生態系みたいな事を考えると、循環する生命圏全体の維持、のようにも考えられますけど」
 地球というメインシステムがあって、生物はそのサブシステムになっていて全体を構成している。そして、地球も太陽系のサブシステムで、太陽系も銀河系のサブシステムだ。
「全ては宇宙という大きな系の部分である。そこまで行くと手塚治虫の『火の鳥』みたいになっちゃいますけど」
 生命が存在する事も何らかの、宇宙とか地球とかの『意図』みたいなもんが働いてんのかなあ。
「生命っていうのは、エネルギー過剰による局所的な負のエントロピーの蓄積でしょ。余剰エネルギーを生命という形で消化している。エネルギーのごみ処理」
 また、身も蓋もない事を。
「エネルギーのごみが恋愛したりセックスしたり歌を歌ったり小説を書いたりしている」
 確かに娯楽、スポーツや芸術やさまざまな遊びは『余剰の消化』という感じがしないでもない。生命もゲノムも芸術も全ては余剰、無駄という事か。
「無駄という言葉にはもう『価値』が入り込んじゃっているから。価値は世界や存在にあるのではなく、人間にある物でしょう。宇宙はただあるがままにあって、世界には本質的に価値はない。そこに価値があって欲しいと思うのは人間の勝手な願望ですよね」
 価値って何だ。
「辞典を引いてくださいよ」
 そうか。『主体の欲求を満たす客体の性能』って書いてある。
「ぎりぎり遡ると『生理的に快である』って事じゃないですか」
 なんかお前が言うと全てから情緒が剥ぎ取られる。
「情緒を剥ぎ取ろうとするのも一つの情緒って言うか、心的傾向ではありますけどね。中立的な客観主義じゃなくて、アンチロマンチシズム」
 客観主義だって一つの『主義』だからな。何の話してたんだっけ。
「ゲノムあるいは生命の目的は繁殖する事か」
 ああそうか。『目的』っていうとおかしくなるけど、方向としては『進化』っていう矢印もあるよな。
「進化は、形態を受け継ぐ装置としてDNAやRNAを産み出した時点で必然でしょうね。つまり、遺伝子は変化し易い。突然変異で無作為に変化する。多様な形態が産み出され、結果として自然選択を受ける」
 自然選択というと弱肉強食の競争原理みたいな印象があるけど、本当に競争なら一種類が支配して他は滅びるはずだけど、実際には恐ろしく多様な生物がいる。
「種同士が競争しているのじゃなくて、生態系が全体として安定した状態になるように落着き所を探していくのでしょうね」
 生態系が自分を維持しようとするフィードバック機構と、生物個体のそれは相似になっているよな。
「そういう事言い出すとまた『火の鳥』になっちゃうから。生物が繁殖を目的に生きているように見えるのも、別に進化に『そうなろうとする意図』がある訳じゃありませんよね」
 そうだな。進化の過程では繁殖力の強い物も弱い物も無作為に生まれているんだ。ただ結果としては当然の事ながら繁殖力の強い方が生き残っていくというだけの話だ。ゲノムの面白さは、生物の複雑な形態が抽象化された形でしまわれているという事にあるよな。
「DNAは抽象じゃありません。具体的な物質です」
 でもデジタルデータだから。
「まあ、言ってみれば四進数ですけど」
 なんかこう、具体的な物が抽象化されたり、抽象的な物から具体的な物が出て来たりする感じが出せないかなあ。
「一揃い全部だっていう感じも欲しいですよね」
 そうそう。こいつを受精卵に突っ込んで子宮に押し込んでやれば人間が一個出来上がる、みたいな。
「そんな乱暴な。種とか卵みたいな感じでしょうか。上手に育ててやれば完全な物が一個出来上がる。海の種とか風の種とか」
 地球の種とか宇宙の種とか。
「思想の種とか表現の種とか。滅びの種とか」
 何じゃそれは。
「上手に育ててやれば完全な物が一個出来上がる」
 世界は今せっせと水や肥料をやっている最中かも知れんな。係助詞は種々の語に付いて用言に続く。一文の中でその文節が、種々のニュアンスで強調すべき問題点を持つ事を示す。
「『雨にハ遭わない』と言ったら、他の物には遭うかも知れないが、雨にだけは遭わないと強調している訳ですが、『雨ゲノ遭わない』あるいは『雨ゲノ遭う』と言ったらどんなニュアンスで強調してる事になるのですか」
 ゲノム的に遭わない、あるいは遭う。
「判りませんよ」
 俺もだ。自分の行く手に、抽象化された雨、雨のゲノムはない、という事かなあ。
「抽象化されない具体的な雨はあったりして。雨のゲノムって何でしょうね」
 天気予報は禁じ手なんだよな。何だろう。雨の種。
「種が降って来たりして」
 精液が。
「二階で窓開けて自慰をしているのですね」
 夏の風物詩。それで下で女が股開いて受け止めたりして。
「曲芸か。『それでコソ男だ』と言った時『コソ』は『それ』という行為と『男』である事の関係性の深さを強調している訳ですが、『それゲノ男だ』と言ったら何が強調されているのですか」
 その行為は後天的な男性性、ジェンダーによる物ではなく先天的な男性的本能による物だ、という事かなあ。
「社会的役割か生物的生理かって見分けるの難しいですよね。フェミニズムでも問題になる所ですけど」
 曖昧だから強調したくなるんだな。昆虫の行動はほとんどゲノムに支配されているけど、人間の行動はゲノムに支配される所と脳に支配される所が混ざり合っている。仮にこれを本能と理性と呼ぶと、『それゲノ男だ』は理性ではなく男の本能が行動を支配してる感じがするぞ、という事を示しているのじゃないかな。
「『雪よりモ白い』という言い方は、白さを強調している訳ですね。雪は引き合いに出されただけで、白い物なら何でも良い。『雪ゲノ白い』と言った時、雪を引き合いに出して何を強調しようとしているのか」
 ゲノム的である事だろ。
「ゲノム的であるというのはどういう事ですか」
 情報化されているという事かなあ。
「言葉とはどう違うのでしょう」
 言葉は意味を表し、ゲノムは形態を表す。形態だって意味の一種か。言葉は伝達の手段になる。
「ゲノムだって世代間で伝達されるじゃないですか。交尾だって伝達の一種と言えなくはないでしょう。ウィルスによる遺伝子組替えとか。対応関係の絶対性じゃないですか」
 どういう事?
「言葉と意味の関係は恣意的ですよね。必然性がないと言うか。例えば『魚』という字は元は象形文字だったのかも知れませんが、今漢字を知らない外国人がこの字を見て鯉や鮒を連想する事はまずあり得ませんよね。つまりこの形が鰓で呼吸し鰭で泳ぐ水棲の脊椎動物の一群を指し示す必然性は何もなく、たまたまそうなっているに過ぎない」
 そうか。それに対してゲノムと個体形態の関係は必然と言うか絶対だ。だから言葉は多義的になり、時代と共に意味が変わったりするが、ゲノムの表す形態は変る事がない。一対一対応だ。それじゃあ『雪ゲノ白い』は唯一絶対性を強調しているのか知らん。雪の白はいろいろあるが、この白はこれ一種類しかない。
「何だか『ゲノムを巡る四方山話』になってしまって、ちっとも肝心の『奇妙な助詞』にたどり着きませんね」
『君ダッテ判る』と言ったら、『君』は他の人よりも条件として判りにくい立場にいるけれども、それでも判るはずだ、という事だよな。『君ゲノ判る』は?
「判る事が遺伝的に決定されている」
 判らざるを得ない。
「数学の公理とか、基本的な科学の法則とか、ゲノムに組み込まれていて生まれつき知っていたら便利ですよね」
 科学的には便利だが、他の可能性を思い付きにくくなって、表現としてはマイナスだな。
「ゲノムに組み込まれていないから言語の種類もこんなにたくさんある訳ですけど、言語がたくさんある事に意味はあるのでしょうか」
 その環境に適した言語、というのはあるだろう。雪なんか話にしか聞いた事がないような南国では、雪を表す言葉は一種類しかない、極端な場合には雪という語彙がなかったりするけど、雪国に行くとその微妙な性質や状態の違いを言い分けるさまざまな言葉があったりするだろう。良く判らんけど、語彙だけじゃなく文法でも同様な事はあるんじゃないかな。逆に言語が思考や行動や文化に影響したり制限したりする事もあるのだろうけど。
「ヨーロッパの言葉で名詞には全て、男性、女性、中性のいずれかの性が備わっているのがありますけど、ああいう人たちは僕たちとは世界の見方、あるいは見え方が違っているだろうな、という気はしますよね。僕たちは物を見てそれが男性か女性か意識する事は少ないですものね」
 そうだな。これは養老孟司先生がおっしゃっていた事なんだけど、フランス語には『懐かしい』に相当する語彙がないんだって。大長編小説『失われた時を求めて』は、懐かしい感じを表現しようとして書かれたのじゃないか、って言ってた。
「日本語なら一言で済む事を。その言語では言い表せない語彙って他にもあるでしょうね。言葉がないという事は概念がないという事ですよね。特に動詞は思考の形態に大きな影響を与えそうな感じがします。僕たちが今やっている事は、ありもしない語彙のありもしない概念を捏造する事ですが。逆にどんな言語にも普遍的に存在する語彙は何でしょう」
 伝達の道具だから人称代名詞は必ずあるんじゃないかな。私、あなたがなかったら会話しにくいだろう。
「会話と言う概念がそもそも僕たちとは違っていたりして」
 それ面白過ぎ。個々の単語や文法に普遍性はなくても、言語全体の基本的な枠組みみたいな事は共通なんじゃないかな。
「語彙でも文法でもない枠組みって何ですか」
 いや、俺にも良く判らんけど、人類という種としては脳の言語野の基本的な構造は同じだろ。成長過程で繋ぎ変わって行くシナプスは個々に違うにしても、おぎゃあと生まれた時はおおよそ同じ。
「そうでなかったら外国語を学ぶという事がそもそも不可能ですよね」
 例えばさ、美しさの内容は時代や文化によって異なるけど、美しさに似た価値概念を持たない文化というのは聞いた事がない。つまり、人間の脳、心と言っても意識と言っても良いけど、そういう物は内容には普遍性がないが形式には普遍性がある。言語にもそういう事が言えるのではないか。
「ははあ。チョムスキーのなんとか文法というのは、そういう事を言っているのでしょうか」
 知らん。
「生まれつき知っている、という事で言えば、猫を高い所から落っことしても必ず足から着地する、というのは、空中でどう姿勢を変化させれば足がどっちを向くかという力学を知っている訳ですよね、先天的に」
 まあそうだな。言葉で理解している訳じゃねえだろうけど。
「猫が爪で数式書いているのは見た事ありませんからね」
 言葉でないとすればなんだ。
「ゲノム」
 ゲノムは知性か。
「養老先生は『形態は認識である』とおっしゃっていましたけど」
 ブスは何を認識してああなったんだ。例えば
「あっ。ここで個人名をあげないでください。人間の顔は他の動物に比べると変化が大きいですよね。いろいろな顔がある。これはおそらく人間にとって顔は生きる上であんまり役に立っていないどうでも良い部分だからです。手の形にあんまり大きな変化があったら物が掴めなくなったりして困るけど、顔なら目が離れていようが鼻がめり込んでいようがたいして困らない。逆に言うと、他の哺乳類は顔が生きる上で重要な役割を果たしているのですね。鼻や耳といった感覚器官の果たしている役割が人間よりもずっと大きいのでしょう。多くの哺乳類では髭も重要な感覚器官ですし。一般的に言って男性よりも女性の方が体型の変化が少ない傾向があります。これは統計的な資料を持ち出さなくてもたいていの人はああそうだな、と思うくらい普通の事です。これはなぜか」
 子供を産むという機能のためだ。男にはその条件がないから変化が大きくなるんだな。つまり、女性に比べると体型なんぞはどうでも良い。
「そうです」
 確かに形態は何かを認識している感じはするな。知性としてのゲノム。ん? だとすると形態、すなわち表現と認識は同じ物か。
「まあ、表現されない認識は認識していないのと同じですから」
 あ、お前内面の存在を認めない派?
「認めないと言うか、内面があるけど表現しない人と、内面がない人がいたとして、どちらも僕には同じにしか見えないでしょう。本人にとっては違うのかもしれませんけど、僕にとっては同じです」
 リアリストだねお前。
「何を今さら」
 じゃあさ、コンピュータの会話プログラムは。見かけ上内面があるように見えるけど、実はどういう言葉に対してどういう反応をするかという手順があるだけ、というのと内面があるのとは同じな訳?
「僕にとっては同じです」
 言い切るね。
「だって同じじゃないですか。かすてらさんと同じように反応するロボットがいれば、かすてらさんは要らないでしょう。もう既に要らないような気もしますけど。そもそも神経系というのは、目や耳のような感覚器官から入って来た入力に何らかの操作を加えて筋肉を使って運動として出力する、入力・操作・出力、その操作の部分を担う物でしょう。心というのはそれが複雑になって、入力から出力までしばらくかかる、つまり神経系の中で操作処理がぐるぐる回っている事でしょう。しばらくぐるぐる回ってから出て来る。出て来なければ意味はない物でしょう」
 うーん。その通りだけど、それだとなんか言い足りないような。
「もちろんです。入力・操作・出力という仕組みで言えば、コンピュータだってそうだし、各種センサーだってそうです。機械類は全てそうです。また、生命というのは全てそうです。と言うよりも、基本的に機械は生命の仕組みを真似た物でしょう。心とか内面を機械や他の生物の反応と区別するには、それがどのような操作かという特徴を考えなければならないでしょう。ここでそんな面倒な事をする積りはありませんが。僕が言いたかったのは、他者の内面は出力、その表現を通してしてしか知る事はできない、したがって表現と内面は同じ物であるという事です」
 他者にとっては同じでも、本人にとっては違うかも知れないだろう。
「そうかも知れません。しかし違っていたという事が判るのも、それが表現となって顕れた時です」
 徹底しているな。
「だって、内面があるから表現がある、と考えるよりも、表現があるから内面を感じ取る、と考えた方が、擬人化とか感情移入という事も考え易いじゃないですか」
 つまり解釈か。内面とは表現をどう解釈するかという解釈の事か。
「内面と外面すなわち表現を区別する事自体僕には疑問なのですけど」
 それじゃあ、感情とはなんだ。感情も表現か。確かに他者の感情は表現としてしか目に見えないが、自分の感情はありありと実感として感じ取れるだろう。
「そうです。他者の表現を解釈する際、この人は喜んでいるなとか、悲しんでいるな、とかいう事が判るのは、おそらく自分の感情の記憶をそこに投影しているからでしょう。また、小説を読んだり映画を見たりした時に登場人物の気持が判るのは、頭の中で模擬的にその人と同じ経験をするからでしょう。つまり想像力によるシミュレーションです」
 つまり感情は言語や身振りなどの表現に直接顕れない、直接共有できない。表現を通して間接的にそれがあると判るが、直接これが喜びです、これが悲しみですと取り出して見せる事はできない。
「そうですね」
 ほら見ろ。やっぱり目に見えない内面はあるんじゃないか。
「そんな勝ち誇ったような顔しなくても。いずれにしても『感情があるように見える事』と『感情がある事』を区別する事はできませんよ」
 それはまあそうだな。副助詞は作用の及ぶ範囲程度を限定して示す。君ダケに話す、君にダケ話す、男マデが泣く、酒バカリのむ、などだ。『君ゲノ話す』と言ったらどんな意味だ。
「ゲノムに話しているのでしょうか、ゲノムが話しているのでしょうか」
 いや、主客を示しているのではなくて。
「ああそうか、範囲を示さなくちゃいけない。ゲノム的範囲。意識ではなくて遺伝子に語りかけている。これでも主客の区別になっちゃいますね。難しいな。本能で話す、という事ですかね」
 理性ではなく本能で。脳ではなくゲノムが話す。
「信号が脳まで来ない。脊髄反射で喋っている。確かに考えないで喋っている人いますよね。範囲程度を示しているのですから、他の人には理性で話すけど君には本能で話すという事ですかね」
『男ゲノ泣く』は本能で泣いている。
「理性で泣く人はいないでしょう。『酒ゲノ飲む』本能で飲むというより、飲むと本能が剥き出しになる」
 準体助詞は体言の資格を与え、準副助詞は副詞の資格を与える。とすると準ゲノム助詞はゲノムの資格を与える。
「そうか。ゲノム格という格があるのかも知れませんね」
 どんな格だ。
「情報化して塩基配列に変換して細胞に突っ込むとどんな生き物になるかを表す」
 さっきの『フィネガンズウェイク』や『失われた時を求めて』の類だな。電子情報は二進数で遺伝子は四進数だから変換するのは簡単だけど、現在の技術ではどんな生き物になるかは実際に発生させてみないと判らないから、言葉として機能させるのは難しいだろう。
「そもそもほとんどの塩基配列は無意味で個体を形成しないでしょう。実際にどうなるかを厳密に言うのではなく、何かこうなるんじゃないかという印象みたいな事じゃないですか」
 連想ゲームみたいな物か。この言葉から思い浮かぶ生き物は何か。そうすると名詞とくっついて名詞的に用いられるのかな。『コンピュータゲノ』と言ったらコンピュータのような生き物を表す。どんな生き物だろうな。
「植物じゃないですか。動き回らないから」
 世代交代が早いから、木じゃなくて草だろうな。
「地下茎で繋がっているのですね。そこから病気を貰ったりして」
 考える葦だ。形のない物を生き物に例えた方が面白いんじゃないかな。
「文章とか音楽とかですか」
 抽象概念とか思想とか。
「例えば?」
 グローバリゼーションゲノ。
「蜜蜂」
 どうして。
「女王と奴隷で構成されるから」
 ははあ。グローバリゼーションは貧富の差を拡大する装置だと思っている訳ね。
「米帝国主義。鬼畜米英。ノーモアヒロシマ。ヤンキーゴーホーム」
 また原爆食らうぞ。
「大丈夫ですよ。日本はイラクと違って石油が出ないから」
 知らんぞ俺は。ナショナリズムゲノは?
「個体じゃないけど、免疫」
 他者を排除するからな。
「そして過剰になって身を滅ぼす」
 アレルギーか。街宣車は花粉症みたいな物か。そうするとエイズは免疫が壊れる病気だから…。
「逆に全部受け入れて身を滅ぼすんですね」
 それに対応する概念てあるかな。
「自虐史観。そうか、生き物の方から概念や思想を連想する方向もありますよね」
 生き物にくっつけてゲノを使うと逆の意味になるんだな。格って面白いな。どんなへんてこりんな格ができるか、いつかやってみよう。次ぎは終助詞、一文を終止完結する。行くカ、行くナア、行くヨ、帰りナ、帰るナ、など。疑問、詠嘆、勧誘、禁止など、話し手の意見や気分を表すんだな。『行くゲノ』と言ったらどんな意見や気分を表しているのか…って、ここまで来ると大体予想付いちゃうな。
「ゲノムが行く。理性ではなく本能で行く」
 何か他の可能性はないかな。
「情報化されている…っていうのも飽きて来ましたね」
 ゲノムゲノムごこうのすりきれ……。
「ゲノムか?」
 ゲノまない。
「ゲノもうよ」
 ゲノめば。
「ゲノみたくてもゲノめない」
 ないゲノムはゲノめない。
「ゲノム触れ合うも多少の縁」
 多少どころではない。
「最後の間投助詞も、文を終止しないだけで終助詞に似てますね」
 もうバリエーションは出尽くした感じかなあ。
「別のアイデアを組合せないと難しいかも知れませんね」
 夢の遺伝子ってあるのかな。

●いのりを探して●

一 始まり

 ここにはまだ何もありません。物がないだけではなく、光もないので何も見えません。真っ暗闇です。いいえ、その闇すらありません。闇のいる場所もないのです。手を伸ばしてみても何も触れません。手を伸ばそうにもその広がりがないのです。手を伸ばしたり、動き回ったりする広がりの事を空間と言います。空間。皆さんも聞いた事があると思います。
 空間とよく一緒に使われる言葉に、時間があります。時間を知らない人はいませんね。そうです。午前九時とか、午後二時とか、あの時間です。それでは、時間とは何ですか。皆さん首を傾げていますね。それでは、時間はどうやって計りますか。そうですね。時計を使います。それでは、時計のなかった昔の人たちは、どうやって時間を計ったと思いますか。どうですか。判りませんか。判った人もいるみたいですね。そうです。お日様で計ったのです。
 お日様が東から出て来たら朝です。お空の高い所に来たらお昼です。西に傾いたら夕方で、お日様が沈んで暗くなったら夜です。今と比べるとずいぶん大雑把ですね。え。夜の時間はどうやって計ったか、ですって。星を見たり月を見たり、他にも時間の計り方はいろいろあったのですが、昔の人の多くは、夜はあんまり時間を計ったりしませんでした。昔は電気がなかったし、明りを灯すための蝋燭や油もお値段が高かったので、暗くなったらすぐ寝てしまったのです。
 それでは、お日様と時計の似ている所はどこでしょう。お昼になると上の方に行く事ですか。そうですね。お日様や時計の針はだんだん場所が変わって行くのですね。そこが似ていますね。朝には朝の場所に、お昼にはお昼の場所に、夜には夜の場所に、移って行く事ですね。だから、だんだん変わる物を使えば、時計がなくても、お日様が見えなくても、時間を計る事ができますよ。例えば、お腹の空き具合で、前にご飯を食べてからどのくらい時間が経ったのか、だいたい判りますよね。誰ですか、ご飯を食べていない時はいつも腹ぺこだ、なんて言っているのは。
 一日の時間のお話ばかりしましたが、もっと長い時間もありますよね。そうですね、一ヵ月とか一年とかです。一年の間には何が変わりますか。そうですね。冬になると寒くなり、夏になると暑くなりますね。それじゃあ、もっともっと長い時間、十年とか二十年の間には何が変わるでしょう。そう。子供が大人になったり、大人がお年寄りになったりします。それでは、もっともっともっと長い時間、百年とか、千年とかの間には何が変わるのでしょうか。それは、ここではお話しません。知りたい人は学校で先生に聞いてみてください。
 もしかしたら、時間というのは、そんな風に何かが変わるっていう事かも知れませんね。だってそうでしょう。何も変わらなかったら、時間が経ったかどうか判らないじゃないですか。時計もお日様も動かなかったら、朝なのか夜なのかも判らなくなっちゃうでしょう。お腹も空かなくて、何時まで経っても子供のままだったら……。羨ましいと思いますか。それとも、そんなのつまらないと思いますか。
 ここには時間もありません。何しろ時計もお日様もないのです。お腹が空いたり、大きくなったりする人もいないのです。なあーんにもないのです。変わる物がないので、時間もないのです。
 ところで、空間の中の決まった場所を言葉で言う時どうしますか。物のある場所をお母さんに教えてあげる時なんかです。「もっと右」とか「十センチくらい上」とか「もうちょっと手前」とか言いますよね。空間の中の決まった場所を言葉で言う時、上下、左右、前後の三つを教えてあげると間違いなく相手に伝わります。「今、手のある所から上に十センチ、右に五センチ、後ろに二センチ」と言えば良いのですね。こういった、上下、左右、前後のような向きを言い表す真直ぐな広がりを方向といいます。方向は皆さんもよく使う言葉だと思います。上下、左右、前後の事を高さ、横、縦という事もあります。
 それでは、時間にも方向がある事を知っていますか。ほら、時間でも、前とか後ろとかいうでしょう。ご飯の前とか、お風呂の後とか言いますよね。時間にも前後があるのです。前の時間を過去、後の時間を未来と言いますが、ご飯の過去とかお風呂の未来とかあまり言いませんね。過去と言えばたいてい今よりも前の時間、未来と言えばたいてい今より後の時間です。今と言う時間は、他の過去や未来とは違う特別の時間なのですね。空間では壁などの邪魔な物がなければ、前後にも左右にも自由に動く事ができるし、階段や梯子があれば上下にも動けますよね。でも、時間は過去や未来に自由に行く事はできません。私たちがいる時間はいつも今だけです。
 物がある事を難しい言葉で存在と言います。存在、つまり物があるためには空間と時間の広がりなくてはいけません。物がある、というのは、空間の何処かに、時間の何時かにある、という事です。何処でもない場所、何時でもない時に物がある、という言い方は何だか変な感じがするでしょう。
 ここには空間も時間もないので、何にも存在する事ができないのです。中に何か入れたくても、入れ物がないのです。こんな風に何にもない事を難しい言葉で「無」と言います。ここは無です。何にもありません。
 でも、予感はあります。予感って何だか判りますか。何か始まりそうな雰囲気の事です。良く判りませんか。皆さんは、映画館に映画を見に行った事はありますか。お芝居を見に行った事は? ホールやライブハウスに音楽を聞きに行った事は? 映画館やホールの客席で始まるのを待っている時、楽しみでしょう。客席が暗くなって、ブザーが鳴るとわくわくするでしょう。あんな感じです。
 ここは、今はまだ無です。でも始まるのです。何時始まるのかって? それは判りません。何しろここには時間がないのです。時間がないのに「何時」とは言えませんよね。時計もお日様もないのですから。でも、きっともうすぐですよ。だってほら、こんなにわくわくしているじゃないですか。
 何が始まるかって? それは宇宙です。空間と時間が始まるのです。物語と言ってもかまいません。難しいですか? 本当は難しくないのですよ。簡単に言うと、お話が始まるのです。

いのり

 これは「いのり」を探すお話です。いのりと言う言葉は聞いた事がありますね。そうです。お寺や神社や教会でお祈りをしますね。他にも、お願い事がある時にお祈りをする事があります。試験の前や、好きな人ができた時ですね。でも、ここで言う「いのり」は、そういう普通に使う意味ではないのです。本当は、これにはまだ名前がないのです。でも、名前がないと困るので、とりあえずいのりと呼ぶ事にしました。なんとなくお祈りに似ているような気がするからです。それでは、そのいのりとはどのような物でしょうか。それを見付けるのがこのお話の目的です。
 いのりとは何か。それはどのような物か。それはまだ良く判りません。あるのは予感だけです。映画やコンサートが始まる前の、あのわくわくした気分です。それはきっと素敵な事だろうという感じです。はっきりと見える訳でも、手に触れる訳でもありませんから、それは本当はないのじゃないのかと思って怖くなる時もあります。何しろ、映画やコンサートと違って、ちらしもパンフレットもないのですから。実際に手に入れてみたら、思っていたよりもつまらない物で、がっかりするのじゃないかという怖さもあります。こういう、まだ良く見えない物に対する怖さを不安と言います。
 でも、見えない、あるかないか判らない物を怖がるなんて馬鹿馬鹿しいですよね。だって、いのりがあるかないか、それがつまらない物か素晴らしい物かは、いのりを探してみなくちゃ判らないじゃないですか。いのりは本当にあって、予想した通り素晴らしい物かも知れないのです。手に入れてみてつまらない物だったら、その時がっかりすれば良いのです。いくら探しても見付からなかったら、その時悲しめば良いのです。そうじゃないかも知れないのに、今から不安に思って嫌な思いをするのは馬鹿馬鹿しい事です。
 今あるのはいのりの予感だけです。何となくこんな感じ、という気分です。少し難しい言葉で言うと、漠然とした気分とか、曖昧な雰囲気です。それでは、その予感はどのような物か、お話してみたいと思います。でも、何しろそれは漠然としていて曖昧なので、はっきりとは言えません。最初は、似ている気がする物、関係がありそうな物を思い付くままに並べてみますね。また難しい言葉を使いますけど、何でも良いから「連想」される事をお話したいと思います。これも難しい言葉ですが、いのりの「特徴」を考えてみたいのです。
 特徴というのは、その物の性質を言い表した物です。「性質」も難しいですね。難しい言葉ばかり使ってごめんなさい。例えば「お母さんは優しい」とか「犬は可愛い」とか「雪は白い」とか「お兄ちゃんは背が高い」とか「お姉ちゃんは意地悪だ」とか言う時の、「優しい」とか「可愛い」とか「白い」とか「背が高い」とか「意地悪」とかが特徴であり、性質です。「その人はどんな人」とか「それはどんな物」とか聞いた時の答、それがその人や物の特徴です。
 さてそれでは、いのりとはどんな物か、その特徴をお話したいと思います。まず最初に、いのりはとても懐かしい感じのする物です。懐かしさ。それは皆さんには難しいかも知れませんね。言葉は難しくありませんよね。懐かしさ、とか、懐かしい、とかいう言葉はよく聞きますよね。大人の人がこの言葉を使う時、どんな顔をするかも知っていると思います。でも、それがどんな気持ちなのかは良く判りませんね。それは、懐かしさが遠い過去に対して感じる気持だからです。皆さんはまだ子供です。つまり、生まれたのが最近です。大人の人たちが生まれたのは、皆さんよりもずっとずっと前です。それはそうですよね。例えば、皆さんの一番近くにいる大人、お母さんが皆さんを生んだのは、お父さんやお母さんが大人になってからですものね。
 懐かしさ。それは遠い過去の事を思う気持です。過去の思い出には嫌な事もありますが、懐かしく思うのは好きな事です。過去を好きだと思うのが懐かしさです。ちょっとややこしいのですが、その時は嫌な事だったのに、時間が経ってから思い出すと、それも懐かしくなる事があります。判りませんか。判らないでしょうね。今は判らなくてもかまいません。大人になったらきっと、ああ、そういう事か、と判る時が来ると思います。
 さて、「好き」にもいろいろな好きがありますよね。お母さんが好きなのとお友達が好きなのはちょっと違いますよね。玩具が好きなのとチョコレートが好きなのも、何だか違うでしょう。それでは、懐かしさとはどんな好きなのでしょうか。前にもお話した通り、空間は自由に行ったり来たりできますが、時間はそうはいきません。私たちは「今」から出られないのです。
 ちょっとお話が横に逸れますが、私たちが出られない物がもう一つあります。それは「自分」です。だってそうでしょう。私たちが物を見るのはいつも自分の目です。お母さんの目で物を見たり、お友達の目で物を見たりする事はできませんよね。ビデオカメラを使えばお父さんの撮った映像を見る事はできますが、そのビデオを見ているのはやっぱり自分の目です。自分の外に出て、自分自身の姿を見たりする事はできないのです。今はまだ良く判りませんが、この事は、いのりと関係がありそうな気がします。
 お話を懐かしさに戻しましょう。懐かしさとは過去を好きだと思う気持でした。私たちは今から出られませんから、過去には二度と戻る事はできません。二度と手に入らない物を好きだと思う気持、それが懐かしさです。好きなのにもう戻れない。手に入らない。だから、懐かしさには、好きな物を思う楽しい気持に、もう帰って来ないんだと言う悲しい気持がいつも少し混ざっています。
 前に、時間には方向があると言いましたね。それでは、過去とは逆の方向、未来にはいのりに似た物はないのでしょうか。実はあります。それは、憧れです。憧れも懐かしさと同じように、今ここにはない物を好きだと思う気持です。でも、憧れには懐かしさと違う所もあります。過去は後ろに過ぎてしまったので、もう戻って来る事はありません。でも、憧れは未来にあります。未来は前の方にあって、これからやって来る物です。もしかしたら手に入るかも知れないのです。そこが、決して手に入らない過去と違う所です。でも、憧れは手に入った途端に憧れではなくなります。憧れは未来にある物だからです。手に入るかも知れないと思ってわくわくしながら待ったり、進んで行ったりする気持を希望といいます。
 まとめてみましょう。いのりは、今ここにない物を好きだと思う気持です。時間の過去の方にあるのが懐かしさで、悲しみが混ざっています。未来の方にあるのが憧れです。希望が混ざっています。どちらも、今ここにある時には懐かしさでも憧れでもいのりでもありません。
 今度は少し理想郷(ユートピア)のお話をしたいと思います。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2003年4月〜6月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2003年10月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2003年春の号
季刊カステラ・2003年秋の号
『カブレ者』目次