季刊かすてら・2002年春の号

◆目次◆

方法的怠惰
軽挙妄動手帳
奇妙倶楽部
編集後記

『方法的怠惰』

●大喜利・朝食編●

【出題】どうして嫁は「さっき食べたじゃありませんか」と渋い顔で言うのか。
【回答】奇妙な情熱につきうごかされて。
【回答】嫁が電話を取ると「昔々、あるところに……」と延々語るいたずら電話。桃太郎が産まれたところで義父に話しかけられ、うるさかった。
【回答】I love dogs. Dog is very fanny. Dogs eat meat. 意訳: 世界中の人々はみんな平等なんだ。ほんとさ、浜崎あゆみはそう云ったんだ(すいません、意味はありません)
【回答】嫁専用の「生活マニュアル」にそう書いてある。

●大喜利・俗悪番組編●

【出題】正月そうそう放送局に「子供の情操に悪い影響を与えるので、食事時にこういうものは放送するな」という苦情の電話を鳴り響かせた番組とはどんなもの。
【回答】全てのシェイク類を一つのコップに混ぜる映像。
【回答】コンピュータゲームのコントローラがぐにゃりと曲がって子供の指を放さなくなり、子供を徐々に画面の方に引きずって行く。画面の中では鬼が楽しそうに餅つきをしているが、薄の中に放り込まれているのは人間の子供。杵の先は真っ赤に濡れ染まっている。
【回答】はぐれ刑事アルカイダ派。
【回答】例のビル崩壊映像の逆回し。
【回答】幽閉された盲目の姫君。長い髪、シルクのドレス。季節ごとの花々、優しい父王。そして姫を虐待する侍女。
【回答】中村信夫さんという人の、『少年アート』の中で紹介されている子どもの絵には驚かされた。画用紙に二本の線が引かれているだけだった。象の鼻だ。「あんな大きなもの、画用紙におさまらないよ」そう子どもは言ったというのだ。

●大喜利・忍耐編●

【出題】フランシス・ベーコンは名門の子で政治家としても活躍し、常に勢力のある側について、その勢力が弱まる寸前に逃げ出すという驚くべき才能によって成功をおさめ、アルバンスの子爵にまで出世したが、裁判官として収賄の罪に問われ、政治的生命を断たれ、仕方なく隠遁して、その後学問と著作に専念したという。
 さて、あなたは何を我慢していますか?
【回答】雄牛の鼻輸。
【回答】他人の幸福。
【回答】私の見えないところではみな私の悪口を言っている。
【回答】私は大日本帝国、南アフリカ、CIA、モサド、KCIA関係者から監禁、監視、盗聴、洗脳、略奪を受けている
【回答】穴を掘って何もせずにそのまま埋める、ということを繰り返す仕事。
【回答】逆さまつげが剛毛。
【回答】あの女さあ、ジャミラに似てたよね。ウルトラマンの。

●大喜利・宇宙からのメッセージ編●

【出題】最近親切な宇宙人の方から私に対し電波が送られてくるのですが、デネブ星系には服を着たままで洗濯できるプールがあるそうです。ところで、その彼からの質問です。日本人が「ほくそえむ」のはどんな時ですか。
【回答】ウニを殻ごとほおばったような気分の時
【回答】太陽がその寿命を全うし、「赤色巨星」となるとき。
【回答】四百頭の野良犬が隣のを食べている。次は俺の家だろう。

●大喜利・電脳娯楽編●

【出題】パソコンの楽しみの八十三パーセントは「えっち画像を見る」ことだと申します。では、それに次ぐ楽しみ方は。
【回答】「これを使えばあんなこともこんなこともできる」という幻想。
【回答】孤独。
【回答】眠い時に羊を数えさせる。
【回答】朝顔の蔓を巻かせる。
【回答】法王様が地面に口付けするように、インターネット接続中にモニタに口付けしたら、世界中に口付けした事になる。
【回答】試行錯誤の末ようやく安定して機能するようになってきた頃、新しいソフトやハードが登場してまた試行錯誤の日々が始まり、一向に便利にならないという事を教えてくれる。
【回答】ケースの中で紅茶キノコを育てる。

●大喜利・フロンティアスピリット編●

【出題】きみは森で石に抱きついているとかげの心持ちを考えたことがあるか。それはともかく、「開拓者」とはどのような人を指すのでしょうか? 私のようなものでも「開拓者」になれるのでしょうか?
【回答】開拓者専門学校で勉強し、厚生労働省で開拓者検定試験を受ける。最初は三級から。
【回答】踏み絵で見分ける事ができる。
【回答】まああれだ。何度も何度もさんざんひどい目に遭っていながら、また新しい女に惚れるというのはある意味立派だ。羨ましくないけど。
【回答】今度は「時計の中に住んでみる」と言い出した。
【回答】「リアリズム飼育」「リアリズム観察」「リアリズム実験」「リアリズム水栽培」「リアリズムを植えてみよう」「リアリズムで試してみよう」「リアリズムの当番」「ちょっとリアリズムの中を見てみよう」「リアリズムの記録をつけよう」「リアリズムを調べよう」「リアリズムのはたらき」「リアリズムのまとめ」「リアリズムを考えよう」「リアリズムステップ式・しあげつき」(気にしないでください。自分でも判らないのです)
【回答】酒におぼれ、ギャンブルで借金を作り、妻にも逃げられ、世間からも見放され自暴自棄になって地面を棒で突いて八つ当たりしていたら石油が出た。
【回答】男漁りに出たまま帰ってこない。

●大喜利・文豪編●

【出題】次の文章の(  )内に適当な言葉を入れよ。
「吾輩は(  )である。 (  )はまだない」
【回答】「吾輩はホームレスである。希望はまだない」
【回答】「吾輩は官僚である。正義はまだない」
【回答】「吾輩は政治家である。思想はまだない」
【回答】「吾輩は共産主義である。債権はまだない」
【回答】「吾輩は一般事務である。一揆はまだない」

●大喜利・パフォーマンス編●

【出題】麦芽糖と内耳(三半規管)をかたどったボトルが主産物で何の観光資源もない茨城県湿櫂村。今年の春祭りで目玉となる出し物とは。
【回答】エクトプラズマ。
【回答】旅客機突入。
【回答】駐車場ならいいさあ、駐車場は誰だって好きさね。
【回答】5月病。
【回答】林家パー子のマシンガントーク。
【回答】公開処刑。
【回答】砒素カレー。

●大喜利・新婚編●

【出題】奥様の名前はサマンサ。だんな様の名前はダーリン。ごく普通の二人はごく普通に恋をし、ごく普通に結婚をしました。たった一つ違っていたのは……、さて何。
【回答】主食が正露丸。
【回答】二人とも死んでる。
【回答】大陸に渡ってジンギスカンになった。
【回答】ダーリンとサマンサはそれぞれ四十人ずついる。
【回答】Macも、PCも、やけに安定している。
【回答】なぜか命綱を着けて性交する。(いく時「落ちる」って言う人はいるみたいですけど。いや、知り合いから聞いた話ですけどね)
【回答】二人ともまだ生まれていない。

●大喜利・連想ゲーム編●

【出題】植物=やすらぎ、子供=純粋、夢=大切な宝物、足跡=さて何。
【回答】モンティパイソン。
【回答】ダンス教室。
【回答】追跡=刑事=取り調べ=カツ丼=出前(以下略)
【回答】「カゴに乗る人、担ぐ人、そのまたワラジをつくる人」
【回答】文字盤の上を天使がくるくる円を描くもの。
【回答】体重計(そのまま)。
【回答】こむらがえり。

●大喜利・講義編●

【出題】日本花園国際大学情報文化学部物理祝祭学科では何を教えている。
【回答】サッシの間に挟まる方法。
【回答】墓穴の掘り方。
【回答】忍法。
【回答】来週のサザエさんのタイトルを推理する。
【回答】メンコのルール。ルールブックはB5判で厚さが十センチ。
【回答】おっと、聞いちゃあいけねえよ。こちとらでえくでい。
【回答】ババリア合戦(投げ合う)。

●大喜利・むねお編●

【出題】「ムネオハウス」「ムネオホール」「ムネムネ会」「疑惑のデパート」「疑惑の総合商社」次は何。
【回答】疑惑の前方後円墳。
【回答】疑惑の日本的横並。
【回答】疑惑のエコロジスト。
【回答】疑惑のセサミ・ストリート。

『軽挙妄動手帳』

●不定形俳句●

『奇妙倶楽部』

●世界虚事大百科事典●

テセウチャンドラ 1927‐

 インドの経済者。物価高騰抑制法としての流通疎外緩和法を開発し、それまで制御不可能とされていたパニック的買い占め反応を含む多くの急速経済反応の制御法を確立した。この業績により、1967年ノーベル経済学賞を受けた。
 カルカッタで生まれ育った彼は、若者となってから、父が岩の下に隠しておいた学生証を取り出してボンベイを訪れ、ラージパット大学学生と認められた。1950年、学位をさずかる方策を伺いにビシュヌ神の神託所に赴いた帰途、学長の娘と交わって妊娠させ、1951年に結婚、同年学位を得た。53年カルカッタ経済学研究所に移り、それ以降の約10年間に流通疎外吸収法と需給場、環境操作および圧力ジャンプ法を含む物価緩和法を確立し、多くの急速経済反応を測定してそれらの機構を明らかにした。
 政略結婚で学位を得るなどという大胆さを持つ一方、極端に気弱なところがあり、ノーベル賞受賞の連絡を自分で受けることができず、息子に中継ぎさせた時、息子は受賞の時は白いシャツを着るという約束を忘れて黒いシャツのままで父の部屋へ来たので、受賞できなかったと思いこみ窓から身を投げた。幸い、部屋が一階だったので大事には至らなかった。ノーベル賞を受賞した直後、ラージパット大学学長が原因不明の変死を遂げ、彼がその後を継いでいる。
 70年以降の活動は自伝の執筆に重点がおかれている。それによると彼は、カルカッタ王マハトマ・ガンジーとベンガルの王女ムトラの子となっているが、実際には、写真屋の息子である。このように彼の自伝は虚偽に満ちている。以下は自伝の記述を要約したものである。
 彼が大学に入学した当時、ラージパット大学では、図書館に住む馬頭人身の怪物館長の食品として毎年14人の少年少女を送ることを強いられていたが、彼はみずからその数に加わり、彼に恋した学長の娘から図書館内で道に迷わぬよう館内図を授けられて、みごと図書館長を退治した。大学の英雄でもあり義理の息子でもある彼がノーベル賞を受賞した時、学長は興奮のあまり頓死した(前述したように実際には死因は不明)。義父のあとを継いだ彼は、まずインド西部地方の多くの町村を合して、ボンベイを首都とする新国家を建設、インドから独立した。
 これから先には、女族アマゾンの国に遠征した話、日本に旅してして半人半猿の侍どもと闘った話、親友のために冥府の女王を誘拐すべく、二人して冥府へ下った話など、数多くの冒険譚が描かれており、七巻を数えて今なお完結していない。
 そのあまりの出鱈目さに、経済学者としての業績までも疑問視され、現在多くの経済学者によって彼の理論の検証作業が続けられている。また、彼の義父であるラージパット大学前学長の死にも関与している疑いがあるとして警察の捜査が進められている。これらの事情から、ノーベル賞委員会ではノーベル賞の剥奪も検討されている。日本の文学者・因幡剛志は「経済学賞の代わりに文学賞を与えてはどうか」と提案しているがノーベル賞委員会からは黙殺されている。

ライオン詞

 アフリカ中西部に住むンガギ族の言語・ンガギ語に独特の品詞。狩猟民族であるンガギ族はライオンと祖先を共有していると信じており、ライオンは尊敬され、特定の儀礼では信仰に近い感情が向けられる。未開社会における特定の社会集団と動植物などの特定の種との間の特殊な制度的関係を人類学者はトーテミズムと呼ぶが、その特定の自然種がトーテム totem である。ライオンはンガギ族のトーテムなのである。ライオンを神聖視するンガギ族の言語では、ライオンに関係する言葉は全て肯定的な意味を持つ。
 もっとも強い肯定の意味を持つのは言うまでもなくライオンそのものを現す名詞「スラバンガキ」であるが、このほかにもライオンの目、ライオンの牙、ライオンの咆哮、ライオンの力強さなどを現す単語が数多くあり、状況に応じてさまざまな場面で使用される。
 これらの単語は文の中で使用されるほかに、一種の感動詞として、感情を瞬間的に表現するときに用いられる。喜びや誇りなどの肯定的感情を表すだけではなく、悲しみや怒りなどの否定的感情、不快な感情を撃ち破る力を持つとされ、激しい情動をともなう場面では、ほとんどあらゆる時に使われる。悲しい時、うれしい時、腹立たしい時、あきれた時、人に久しぶりにあったと時、力のいる時など、その表現範囲はきわめてひろい。ライオンに関係する語彙は非常に多く、そのときどきの感動、感嘆のニュアンスや程度、男女のちがいなどを、微妙かつ豊かに表現し分けることができる。
 また、ライオン詞は名詞や感動詞として使用されるだけでなく、名詞と結びついて形容詞となり、動詞や形容詞と結びついて副詞にもなる。ンガギ族は文全体をより肯定的なものにしたくて、あらゆる単語をライオン詞で修飾しようとするため、しばしば文が非常に冗長なものとなる。これは平穏な時には良いが、緊急時には取り返しのつかない遅延にもなりかねないものである。例えば次のような場合だ。
「雄ライオンのタテガミのように偉大な隣人よ、お前のライオンの俊敏さを持った子供が、子供を奪われた雌ライオンのように怒った水牛の、ライオンの牙のような角で突かれて、ライオンに襲われたシマウマのように血を流している」
 日本ではライオン詞は獅子詞と表記されることもある。

無鬼目氏(なきめうじ)

 東支那海に浮かぶ無鬼目島を本領とした、今は滅びた一族。漁業の傍ら、泣女を世襲的に多数輩出した。無鬼目の名は泣女に由来すると思われる。泣女とは、葬式に雇われて儀礼的に泣き、悲しさを演出する女のこと。布施米の額によって一升泣き、二升泣き、三升泣きの別があった。『日本書紀』にもキジが泣女になったとあり、古くからの習俗であった。『古事記』によれば、無鬼目島では泣女の多いことを誇りとし、葬儀に列する者はあらんかぎりの大声で哀泣したという。
 鎌倉時代には幕府御家人の葬儀に雇われることが多く、とりわけ無鬼目三郎季隆の妻は名人として重用された。1205年(元久2)の畠山重忠の乱では、北条義時軍の戦死者の葬儀に用いられ、その泣き声は列席者のみならず通りすがりの者の涙まで誘ったという。
 それでは、無鬼目一族の者が死んだ時は誰が泣くかというと、これは誰も泣かない。葬儀すら行われず、死体は一族の者が食べてしまったといわれる。言い伝えによると特に妊婦が美味であった。刺身、煮つけ、塩焼き、みそ汁のほか、島の南部では油いためにする。島の西部では美味として珍重するが、皮と腹中が小便臭いといわれ、他の地域では儀礼として食する意味しかなかった。漁民でもあったのだが海藻を好み、海藻の食べ方で味が異なるといわれた。この地方の方言で子供をクガといいクガガラスはその塩辛。
 島の民話には、死者を食べようとしたら生きていた、あるいは、間違えて自分の体を食べてしまった、というものが多数ある。民話の元になった実際の事件もあるらしいのだが一族が滅びてしまった今となっては詳細はわからない。西部に伝わる、泥酔した男が目覚めると下半身が無くなっていた、という民話は実話ではないかとも言われる。日本で泣女の習慣がすたれるにつれて没落し、明治初期に不漁が続いた時、お互いを食い合って滅亡したと伝えられている。

愛国贈与運動

 朝鮮で20世紀初めに日本の支配に反対し、相互贈与の活動を通じて日本の経済政策に対抗し、民族意識の高揚と独自の経済活動による国権回復(独立)をはかった民族運動。主な担い手は都市知識人、学生、民族資本家などであった。運動は1906年4月の大韓贈与会(会長、尹人稙)の結成によって本格的に開始された。同会は運動の中心となり、相互贈与の振興により自国の経済自立化はかり独立の基礎を培うという贈与経済論を唱導した。
 この理論は、北アメリカ北西海岸部に住むアメリカ・インディアンの一部の間で行われた競覇的な贈与交換を伴う儀礼、「ポトラッチ」に着想を得ている。ポトラッチは対抗し合う個人や氏族、部族間で相互に贈物を交換し合う儀礼で、気まえのよさの示し合いであり、面子(めんつ)や名誉をかけた競争である。愛国贈与運動はこの儀礼を取り入れることによって、貨幣や市場、すなわち日本の支配する経済を介さない、独自の富の分配機構を築き上げようとするものであった。
 この運動は当時の反日運動・愛国啓蒙運動と連動して広まるかに見えたが、運動はたちまちエスカレートし、運動の目的を忘れ、贈与の相手を気まえのよさで圧倒し、それ以上の返礼をできないようにさせ、相手を打ち負かし辱めることが目的となってしまった。そのため破産者が続出し、たちまちのうちに解体した。
 現在、経済学者の東山孝一郎が「消費活性化の秘策」と称してこの運動を日本に蘇らせようとしているが、同調する者はほとんどいないようである。

愛貧心

 愛貧心とは、人が自分の貧困に対して抱く愛着や忠誠の意識と行動である。愛貧心が向かう対象は、貧困によって総称されることが多いが、志向として「所有しない事」を目指す考え方と「手放す事」を目指すそれとは微妙な違いがある。また最終的に自分の肉体をも放棄しようとする「死へ向かう愛貧」と貧困を生きることこそが価値ある生であるとする「生へ向かう貧困」といった広がりがある。この対象がどのようなものであれ、それは常に生活する土地、生活様式を含む生活世界の全体である。また愛貧心の現れ方は、なつかしさ、親近感、郷愁のような淡い感情から、対象との強い一体感あるいは熱狂的な献身にいたるまで、幅がある。すなわち愛貧心は「生活のあり方」に対する愛着の一種で、本来は愛郷心、郷土愛、あるいは祖国愛であって、それが屈折、倒錯して顕れた物だと考えられる。一種の精神疾患ではないか、とする説もあるが、今のところは疾病とは認められていない。
 どの時代どの地域にも見られるこの意味の愛貧心に対して、19世紀に成立した清貧主義は、個人の愛着心を清貧思想という抽象的な枠組みにふりむけることによって成立する政治的な意識と行動である点において区別される。多くの愛貧者たちは、このような政治的な愛貧主義運動の賛同者ではなく、むしろ情緒的な感情において「貧しくある事が美しく、正しく、善い」という価値観を持つ。それは時間をかけて徐々に育まれる場合もあり、宗教的な啓示にも似た形で、ある時突然に取り憑かれることもある。面白いことに愛貧者のほとんどはそれぞれの地域社会で平均以上の豊かな家庭に生まれ育った者たちである。また愛貧者は、自ら貧困を望むものとして、豊かさを望みながら心ならずも貧しくある者たちと自分たちを厳格に区別する。
 愛貧心に取り憑かれた者たちがまずするのは、自分の所有するもののほとんどを売却して、浮浪者に分け与える事である。これは浮浪者を助けるためにするのではない。逆である。聖なる貧困者の位置から、内心では豊かさを望んでいる堕落した者たちを追い払い、自分がその位置に修まるためにする事である。彼らは一見、普通の浮浪者と見分けがつかないが、話をしてみると豊かな者を軽蔑し、優越感を持っているのですぐに判る。自分の属している生活様式を外から侵害しようとする者が現れた場合、それに対して防御的に対決するという戦闘的な側面もあり、これがしばしば問題となる。浮浪者だと思って施しをしようとすると怒って殴りかかって来たりするためである。善かれと思って施しをした者にとっては理不尽極まりない。その際彼らがよく使う言葉に「物持ちの分際で」というものがある。

宇宙人婦人会

 宇宙人の存在を信じる女性によって、1901年に創立された婦人団体。目的は、他のこの種の団体のような「宇宙人の実在を一般に啓蒙する」事ではなく、宇宙人の力を借りて戦争に勝利し、兵士を守ることにあった。北清事変の際、慰問使として従軍した歌手・松岡優香が主唱し、自称超能力者・小林桂子を総裁に、当時の神秘主義者たちに後押しされて上流婦人を組織した。創立趣意書は今田歌子が起草。機関誌『べんとらー』を発行し「日本神話に登場する八百万の神々は、宇宙人であった」「『竹取物語』は実話」「蒙古襲来の際に吹いた神風も宇宙人の仕業」「日本は宇宙人に見守られている」「女たちが祈れば必ず宇宙人は聞き届けてくださいます」と呼びかけ、日露戦争中に一般女性にまで組織を拡張、女性を動員して独自の寺社も建設した。05年には会員数4万人に達した。
 第1次大戦後には種々の社会事業にも着手し、満州事変後は宇宙人報国運動を提唱し、軍部の戦時体制づくりに協力しようとした。軍部にはもちろんこれは迷惑極まりなかったが、会員に上流階級の婦女子が多く、また軍人の妻や娘も含まれていたため無碍にすることもできずに困惑していた。自分は超能力者、宇宙人と会った、宇宙船に乗った、宇宙人と性交した、父は宇宙人、などと自称する者たちの貴族主義的性格があり、これを不満とする会員の手で32年に設立された国防宇宙婦人会と対抗することになったが、この分裂には軍部が関与したらしい記録もある。
 しかし、軍部の願いも虚しく、両団体は42年大日本宇宙婦人会に統合された。会員たちはそれぞれ、お守り、お札、杖、アンテナ、蝋燭などさまざまな道具を持って宇宙人に祈り呼びかけた。活動普及のために『宇宙人百人一首』なども作成されたが、45年8月の敗戦とともに自然消滅した。

地下鉄有楽町線宗教戦争

 2000年1月20日から2月7日にかけて、仏教尊要宗の僧侶約800名が呼万寺を盟主とする呼万派と、将照寺を中心とする将照派とが、尊要宗を二分して戦った大抗争。戦争と呼ばれているが、実際に行われたのは僧侶同士の殴り合いである。呼万寺のある埼玉県和光市と将照寺のある東京都江東区は営団地下鉄有楽町線で結ばれており、兵員の輸送がこれで行われたためこの名がある。
 1月20日、呼万寺の檀家を将照派の有力寺・弧林寺が奪ったというのが戦争の直接の原因であるが、鋭道僧正の指導の下に呼万派の盟主として尊要宗随一の勢いを示す呼万寺に対し、将照寺が不安と反感を抱くにいたったところに、その遠因があったと考えられる。
 将照派軍の和光市侵入をもって戦いは始まった。それに先立ち呼万寺は鋭道僧正の提案に基づき、僧兵として全国から駆け付けた呼万派僧侶たちを全員、呼万寺と和光樹林公園内に入れて籠城し、寺の北東を走る川越街道と東京外環自動車道の輸送力により補給を確保しつつ将照派側を攻撃する戦略をとった。この作戦は大局的にみて正しく、かつ成功したが、開戦の翌日、早くも試練に見舞われる。人員が急激に膨張し不備な生活環境の下にある呼万寺を襲った疫病がそれである。食中毒であったと言われている。これにより僧兵の3分の1近くがこの日から23日にかけて入院し、無二の指導者、鋭道僧正も入院し、呼万寺は抗争遂行上、深刻な打撃を被った。
 鋭道僧正の入院後、要雲をはじめとする指導僧たちの間に横行した、大局観に欠ける好戦主義が、結局呼万寺の敗北につながったことに、それは端的に示される。疫病後も呼万寺の和光市での優勢は揺るがず、とりわけ28日、呼万寺軍が和光樹林公園の南西にある大泉中央公園を占領し、30人の捕虜を捕らえた戦闘は、将照派の心胆を寒からしめた。将照派側は毎日繰り返されていた和光樹林公園への侵入を中止し、和平を望んだが、呼万寺は要雲の主張に動かされて、これを拒んだ。戦局はこののち、とりわけ川越街道歩道を舞台に将照寺側に有利な展開をみせる。
 31日、要雲は江東区に遠征して殴り倒されて入院し、1日、呼万寺、将照寺双方の間で講和が成立する。この「有楽町の和約」は、しかしながら戦火を完全に鎮静させるにいたらなかった。新たな主戦論者、雪日の台頭により、呼万寺僧会の戦局判断が左右されたからである。その到達点が3日の江東区遠征決定であり、これが結局呼万寺の敗北につながった。この時、偶然にも将照寺側も呼万寺を急襲占領しようと遠征し、両軍は有楽町線麹町駅ですれ違い、お互いを発見した。慌てた双方は敵の背後を突こうと次の駅で電車を乗換え、もと来た方向に戻ったが、桜田門駅でまたしてもすれ違っている。
 6日、4日間にわたる呼万寺軍の遠征は惨敗に終わり、呼万寺は多数の僧侶が入院した。同じ日、将照寺軍は大泉中央公園を占領して砦を築き、公園管理者の練馬区から激しい叱責を受けた。また、呼万寺の周辺を取り囲んで激しく罵るなどして、呼万寺の僧兵の疲弊を誘った。江東区遠征の失敗ののち、呼万派諸寺の離反が相次ぎ、大勢は急速に将照寺側の優位に傾いていった。呼万寺は、7日降伏した。
 尊要宗はこの抗争で檀家の信頼を失い、急速に勢力が衰え、この年の暮れにとうとう宗教法人を解散する。寺の3分の2は廃寺となり、残りは他宗派に吸収された。

ツブキフグツ

 幾何噂学において、口コミ系を通って大衆空間からマスコミ空間への噂話が伝播する道筋を与える関数。幾何噂学の伝播においては、大衆空間の1点 P0を通り屈折や反射を経てマスコミ空間の1点 P にいたる噂話は、2点間の情報距離が最短になるような道筋を通る(リドリー・スコットの原理)。これを数式で表すと、

L=p0*f*p/nds
として、δL=0となることを意味する(n は屈折率、s は経路の長さ)。この原理を偏微分方程式で表現すると|grad V(P0、P)|2=n2となり、n が与えられたときに噂話が実際に通る道筋が得られる。この関数 V(P0、P)をツブキフグツと呼ぶ。実質的には宮村スタンリーが初めて導入したものであるが、その業績がうずもれてしまい、のちにH.アントニオがそれとは独立に再発見した(1895)。ツブキフグツは解析的に幾何噂学的伝播を論ずるので便利であり、これを記述する独立変数としては、位置座標 P0(x0、y0、z0)、P(x、y、z)の組のほかに、噂話の方向余弦にそれぞれの空間の屈折率をかけた噂学的方向余弦(p0、q0、r0)と(p、q、r)をとることもできる。前出の V は点ツブキフグツと呼ばれる(位置座標で表される)が、このほかに噂学的方向余弦を用いる角ツブキフグツ T(p0、q0;p、q)、位置座標と噂学的方向余弦の両者を用いる混合ツブキフグツ W(p0、q0;x、y)および W'(x0、y0;p、q)などがある。学校や会社など閉鎖的な集団の口コミ系に対してツブキフグツを厳密に求めることは難しいが、近似的にこれを求めて収差を解析的に論ずることができる。主噂話のまわりに展開して2乗項までとると近軸噂話束に関する伝播公式が得られ、また4乗項までとるとスピノザのツブキフグツが得られる。後者は共軸噂学系の収差を分類して個々の性質を論ずるのに有効である。
 現在の課題は、この式から得られた噂の伝播経路が、現実のものと全く一致しない事である。

関東えなり辻

 新作人形浄瑠璃。現代物。二巻。通称『えなり』。菅真紀子作。1999年2月大坂北堀江市の側芝居初演。現代の世相を描きながら説経節『愛護若(あいごのわか)』系の母子の恋という構想をも絡めて筋立てを展開させたもの。
 上の巻:大学生俊一がインターネットの出会い系サイトで知り合い意気投合した女性と初めて会ってみるとそれは俊一の母玉子であった、という所から物語は始まる。玉子は愛した男が実の息子であった事に感激し俊一に関係を迫るが、俊一は不義の恋を怖れて逃げ出す。玉子は家を捨て夫を捨ててこれを追った。俊一を追った者がもう一人ある。密かに俊一を慕っていた幼なじみの女子高生浅香である。俊一は逃げ、玉子がそれを追い、浅香は俊一を追いながらも玉子を妨害して俊一を逃がすという追跡劇が始まる。三人は平野を走り山を越え谷を渡り川を泳ぎ海に漕ぎ出し、熱帯の密林を極地のタイガを灼熱の砂漠を凍てつく氷原を摩天楼立ち並ぶ大都会をバラックの貧民窟を緑の田畑を無我夢中で駆け抜ける。ある時は垂直な壁をロッククライミングで這い登り、ある時は路地を自転車で、またある時は高速道路をスポーツカーで、はたまた紺碧の空に飛行機雲を引いて軽飛行機で、急峻な雪原をスノーボードで、地下鉄でバスでタクシーで馬車で牛車で犬橇で竹馬で一輪車でスキップで追いつ追われつ駆けに駆ける。
 下の巻:世界中を駆け巡って所持金も貯金も使い果たし浮浪者のようになって日本に帰って来た俊一と浅香は、筏で九十九里浜に打ち上げられた所を密入国した難民と間違えられて入国管理局に連行される。二人はそこで管理官をしている玉子の父親えなりと出会う。えなりは二人を家に伴い話を聞くと、玉子はもはや死んだ物と諦めて供養している所へ、やはり浮浪者のなりをした玉子が夜道を訪ねてくる。そして、人々の諫めをも聞き入れず俊一に激しく言い寄るので、俊一と浅香は怖れて再び逃げ出し、東京ディズニーランドとディズニーシーを逃げ惑った。とうとう犬吠埼の灯台の上に追い詰められた俊一は海へと身を投げ浅香もこれを追う。これを見て怒ったえなりは娘玉子を絞殺し、自らも海へ身を投げる。
 眼目となるのは追跡劇で、後わずかで俊一が玉子の手に落ちるという直前で常に浅香が俊一を救い出し、そこで玉子が見せる嫉妬の狂乱ぶりには、彼女の暗く激しい情念の噴出が鮮やかに捉えられている。また、説経物らしい古風な奥深さを感じさせる要因が多い。この演目のために多数の浄瑠璃人形が新作されたが、浄瑠璃ファンの反応はもう一つであった。
 2001年に西映がこれを映画化した際、原作者菅真紀子は試写会で観客が笑い声を上げるまで悲劇ではなく喜劇として製作された事に気が付かず、気付いた時には烈火の如く怒って上映を差し止めた。西映はそれに伴う損害賠償を求めて菅を訴え、現在も係争中である。

イギサ

 スズメ目カラス科イギサ属に属する鳥の総称。世界中に7種が知られている。体は細長く、脚は体の後方につき、泳いだり潜ったりするのに適応している。種類によっては90秒も潜水できる。くちばしは細長く、先がちょっと曲がり、縁には鋸歯状の突起が並んでいる。これは魚類をとらえるための適応である。繁殖は、湖沼、河川に沿った森林で行い、巣は岩陰や草むらの中につくられることもあるが、多くの場合大木にあいている樹洞につくり、中で産卵する。日本で見られるカワイギサは全長、雄は約71cm、雌は約61cm。ユーラシア大陸、北アメリカの亜寒帯以北で繁殖し、冬季にはヨーロッパ南部、アジア南部、アメリカ合衆国南部へ渡る。日本ではおもに北日本に冬鳥として渡来するが、北海道では繁殖するものがいる。海上よりも淡水の湖沼を好む。
 中央アジアで見られるウミイギサを除きオウムや九官鳥のように物真似をする事で知られる。また鳩のような強い帰巣本能を持つ。この性質を利用して、朝鮮では古から言葉を覚えさせて伝える手段とした。音声を運ぶ伝書鳩のような物である。ただ伝書鳩は受信者が開封するまで内容が判らないが、イギサはのべつ大声で通信内容を喚き続けるので、秘匿性のある内用には使えず、また雰囲気が削がれるので恋文などにも適さなかった。薬売りが広告などによく使用したという記録がある。なぜこのような能力が発達したのかよく判らないが、言葉を覚えるのは雄だけである事から、孔雀の羽のように雌の気を引くための機能ではないかと考えられている。
 オウムや九官鳥にはない独特の習性として、親鳥が覚えた言葉を子の世代に伝える性質がある。新しい言葉を覚えない限り、その系統は何世代も同じ言葉を話し続ける。韓国には、母親が息子に父親が死んだ事を伝える内容を何十年も語り続けたというロマンチックな説話がある一方、中国四川省で大発生した際には空を埋め尽くすイギサが性行為を表す卑俗な言葉を喚き散らしながら通過したという記録もある。

家庭内挨拶儀礼

 人と人とが出会うとき、言葉や身ぶりのなんらかの儀礼的交換があるのがふつうである。いまデュルケームの宗教社会学の概念を借りて(『宗教生活の原初形態』1912)、それらを「消極的儀礼 negative rite」と「積極的儀礼 positive rite」に分けることができるであろう。相手にみだりに近づく意図がないことを伝える接触回避のしぐさが前者である。後者の積極的儀礼であるが、いわゆる挨拶表現はこれに属する。言葉と身ぶりがともに交わされる場合が多いが、ここでは特に伝統的な日本家庭における挨拶儀礼を考えてみる。
 挨拶の言語表現には、「おはよう」のように自明な共通の知識を確認するものがある。一般的な日本の家庭では、その家庭にのみ自明な共通の知識として、前夜の献立や一緒に見たテレビ番組名などが朝の挨拶とされる。これを間違えるのは団欒を軽視する行為として他の家族の怒りを買う。そのため夕食時に家族が皆メモをとっているのは、日本の家庭でよく見られる風景である。夫婦間では、結婚してからの性交回数などが挨拶となるが、これが食い違って離婚に至るケースも多々ある。児童とその親との間では、目標とする成績、入学志望校などが挨拶となるが、これが子供を追い詰め、引きこもりや自殺の原因となる場合があるのは、よく知られた事実である。
 アラブのように平安を祈ったり、ギリシア人のように健康を祈ったりする形式のものもある。これには夫婦が妊娠を祈る挨拶、経済的成功を祈る挨拶、商売敵の失敗を祈る挨拶、商売敵の死を祈る挨拶、隣人の不幸を祈る挨拶、親の死を祈る挨拶などがある。
 また、ほぼ同じ言葉を交互に交換する場合と、一方が他方に対し何かを尋ねる場合とがある。この後者の形式は西アフリカや西アジアの牧畜民のあいだでもみられるが、そこではどちらが先に挨拶するかで社会的地位の差異があらわされることが多い。妻が夫に出世の見込みを尋ねる挨拶、母親が子供に成績を尋ねる挨拶、嫁が舅にいつ死ぬのかと尋ねる挨拶、姑が嫁にどうやったらこんなに不味い料理ができるのかと尋ねる挨拶などがある。一般に現代の日本家庭で、最高の地位にあるのは大家族なら姑、核家族なら妻である。
 挨拶の身ぶりはさまざまな分類が可能であろうが、まず、「接触」を伴うものと伴わないものとに分けられる。握手や抱擁やキス、あるいはニュージーランドのマオリ族がするような鼻をこすりあわせる動作などは、接触の挨拶の典型例である。日本家庭では、家庭ごとに非常に多様で、一口に言う事はできないが、近年では「暴力」「虐待」などと呼ばれる種類の挨拶が増えている。
 ミャンマーやマレーシアやエスキモーには鼻をよせて相手の匂いをかぐ挨拶があるが、それらは接触と非接触の中間形態といえよう。日本の家庭でも、帰宅した夫の匂いを妻がかいだり、身体を眺め回したりして、他の女性の移り香や髪の毛を発見する挨拶がある。
 身体的接触を伴わない身ぶりとしては、家庭の外でもするようなおじぎのほか、日本家庭では妻が夫に対して包丁を振りかざす挨拶、夫が妻に土下座する挨拶、妻に対する夫の寝た振りなどが日常的に見られる。
 核家族化が進んだ現在、若い夫婦の家庭などではこのような挨拶の伝統が受け継がれておらず、その存在すら知らず、他家に遊びに行ってそれらの古い挨拶儀礼を初めて知って驚く、ということがままあると言われる。伝統文化保存の対策が待たれる所である。
関連項目:コミュニケーション‖作法

連革命

 インドの北東端ミゾラム州の小さなコンピュータソフト会社で開発されたソフトウェア。ゲームとも芸術創作ともつかない娯楽用のソフトである。一種の歴史シミュレーションソフトで、人類の歴史を社会革命の連続として捕える。プレイヤーはコンピュータの中に再現された人間社会に、状況に応じて、発明、社会史思想、社会体制などの革命要素を投入して社会を変化させる。新たな社会を誕生させる事を楽しむと同時に、そこ描かれた歴史を作品として鑑賞する。元々は一人でプレイするための物として開発されたが、数人のプレイヤーが次々に革命要素を加えて行く遊び方を利用者が独自に考え出した。
 狩猟採集社会から農耕、原始共産制、貨幣経済、封建主義、市民革命、産業革命、資本主義へと進んで行くのが定石だが、産業革命から社会主義をへて市場社会へと進めたり、市民革命からいったん王政復古するなどの変化を加えるのが高度な楽しみ方である。この種のソフトの通例の通りこの製品でも災害や戦争などでしばしば社会は崩壊する。プレイの目的は、社会を維持する事ではないので、これは必ずしも悪い事ではなく、逆に安定した平和な社会が長期にわたると、文化は退廃し、人心は荒廃し、政治も企業も腐敗する。プレイヤーが軍部をそそのかしてクーデターを起こす事もできる。連革命は一巻の中に移りゆく自然と歴史の諸相を織り込みながら、同じ事を反復することなく変化に富んだ展開を心がけ、かつ全体として均衡がとれていることが大切であるとされる。
 しかしながら、連革命の醍醐味は資本主義以降の新しい社会体制の創造にある。米国型のグローバリゼーションを押し進める、情報的には開いているが物質的には一定範囲で自給自足しようとする、極端に国際分業化を進めようとするなどである。地球経済に行き詰まりを感じ、宇宙開発に活路を見出そうとする方法もある。全体としては経済的な課題よりも、環境問題、人口問題、食糧問題、貧困の問題などが重要視される傾向があり、これには現実の社会が経済の事ばかりを重要視している事に対する反発があると考えられている。
 1994年よりインド中で大流行し、ミゾラム州都アイザウルの女子学生ウーディー・リーは、自分の作りだした「科学技術による生産力を持った自給自足型の小さな共同体」を実践しようとして、郊外に村を作りカルト教団化して問題視されている。また、このソフトに熱中するあまり「この世界自体が一巻の連革命である」と言う妄想に取り憑かれ、現代社会のあまりの醜さに今にもリセットされるのではないかという恐怖で発狂する者が続出した。このため、インド政府は2001年にこの製品の生産所持を禁止している。

挨拶派

 昭和初期の陸軍内部の派閥。皇道派と統制派の対立の陰に隠れてほとんど知られる事はない存在であった。1920年代後半、宇垣一成陸相のもとで形成された宇垣閥に反発した一派の系譜をひく小松真人、阿刀右近を中心とする派閥。挨拶を一種の攻撃と見なし、先に挨拶をしかけ、相手が挨拶を返すとそれを勝利と考えた。満州事変前夜からの陸軍部内の「国家革新」的気運のなかで、1933年まで陸軍部内で一定の員数を保った。小松真人一等兵、阿刀右近二等兵以下数名がいたと伝えられている。彼らは陸軍内部で次々に挨拶行動に出て連戦連勝の快進撃を続け、連日祝勝会を開き「今日は上官を何人打ち倒した」だの、「この分では遠からず軍部は我々の支配下に入る」などと話し合ったが、敵は自分が負けた事を知る事はなかった。もちろん軍部に対して何の影響力も持たなかった。派閥の存在すら知られる事はなく「やけに礼儀正しい連中」と思われていた。小松に見られる観念的な「勝利理論」、対ソ挨拶戦的見解などが展開され、35年の二・二六事件で皇道派の多くが軍を追われたのを契機に派閥拡大を試みるが、小松の恐妻家ぶりが発覚するすると、成員の心は離れて行き、翌年には消滅した。

桃井孝志斎 1809‐1864(文化6‐元治1)

ももいこうしさい
 幕末の水戸藩士。名は安次郎、字は伯伸、孝志斎は号。水戸藩下級士族の子。藤田幽谷に師事し、彰考館に入り『大日本史』編纂に携わるが、学者としては成果を残していない。剣術の達人であったが生来臆病で、尊王・攘夷を鼓吹する藤田東湖らと対立したのも思想的信条からではなく、戦を嫌ったためであった。29年8代藩主斉修が死に継嗣問題が起こると、攘夷論者である斉修の弟斉昭の擁立阻止に奔走する。桃井ら保守派の努力も虚しく、斉昭が藩主となると、当然の如く冷遇された。このままでは出世の道が絶たれると焦り、その後は武士の誇りを捨てて攘夷派に媚びへつらった。斉昭の藩政改革に積極的に協力し、町人の間に入って賦役に勤めた。保守派のかつての仲間は怒り、桃井を軽蔑したが、44年(弘化1)には攘夷派に取り入り役職を得る事に成功した。
 しかしその直後、斉昭の強引な藩政改革が幕府の不興を買い、斉昭は失脚する。力を取り戻したかつての仲間である保守派は当然の如く桃井を冷遇した。桃井は再び媚びへつらいの時代をすごす事になる。信頼されないまでも、どうにか差別を受けない程度に関係を改善した頃、53年(嘉永6)のペリー来航とともに斉昭が政治的発言権を復した。当然の如く保守派は冷遇された。桃井は自分は保守派ではなく攘夷派であると主張したが顧みられず、かえって軽蔑された。
 桃井は自分が保守派である事を証明しようと攘夷運動に積極的に関り、剣術の腕を活かして攘夷過激派である天狗派に参加する。臆病さを押し隠して危険な活動にも献身的に参加をするが、過去の思想的無節操さからなかなか信用されず、ここでも不遇の時代を送る。斉昭が内政外交の面で大老井伊直弼と対立し、58年「急度慎(きつとつつしみ)」を命ぜられ、翌59年には水戸に永蟄居(えいちつきよ)となった際、桃井はこれまでの自分の無節操さを反省し、天狗派内に止まった。
 ところが藤田東湖の死後、尊王攘夷の理論的指導者であった水戸学者・会沢正志斎は、あまりに過激であるとして天狗派を鎮圧する側にまわり、62年(文久2)の『時務策』では書生的攘夷論を批判し、時勢上開国はやむをえぬと説いた。またしても桃井は反主流派となってしまったのである。
 藩内での出世を諦めた桃井は脱藩し、幕府の浪士募集に応じて浪士組、後の新撰組に入隊して、2月には将軍警衛を名として上洛した。かつて天狗派であった桃井は、攘夷派の間者と疑われ、ここでも冷遇された。冷遇されたまま64年(元治1)金門の変に加わり、多大な戦功をあげながらも戦死した。
 杉浦龍平の小説『ボタンの掛け違え』は彼の生涯の伝記である。

◆編集後記◆

 ここに掲載した文章は、パソコン通信ASAHIネットにおいて私が書き散らした文章、主に会議室(電子フォーラム)「滑稽堂本舗」と「創作空間・天樹の森」の2002年1月〜3月までを編集したものです。私の脳味噌を刺激し続けてくれた「滑稽堂本舗」および「創作空間・天樹の森」参加者の皆様に感謝いたします。

◆次号予告◆

2002年7月上旬発行予定。
別に楽しみにせんでもよい。

季刊カステラ・2002年冬の号
季刊カステラ・2002年夏の号
『カブレ者』目次