'06.4.29〜5.28に松戸市で開かれる (日暮修一の世界)に際し
図録が刊行されます。
ラピタ表紙画の原画75点。
ジャンル別に旅行、模型、文具、カメラ、フィギュア、スポーツ、音楽、時計、乗り物、等に表紙の言葉 を添えて。
それに「日暮修一の世界」彩っている素材となったモノたち。
ビッグコミック表紙画の原画96点。モーニング・ジャック20点。その他の仕事20点。
南伸坊氏のエッセー「この絵はみんながたのしめる」。年譜。図版その他、 総260ページ。
そして、日暮修一のエッセーが収録されています。その一部をここに紹介いたします。
題して『これ迄ずっと 描いて来た』
<王様クレヨンとエノケン>
昭和十一年。
二・二・六事件が起き、ベル リン・オリンピックの

春雨橋・(昭和10年代) |
実況放送が
「前畑がん ばれ!」を
連呼した年。
切妻作りの商家が並ぶ水戸街道沿い、千葉県東葛飾郡松戸町二丁目(現松戸市松戸)、酒屋の長男として私は生まれた。
物心がつき、漠とした記憶が残るころからいま現在に至るまでのあらましを、只々「絵を描くこと」に係わることだけに絞って記すことにする。
はじめから描くことは好きだったらしい。
後年、母が述懐していたが、私自身にそのあたりの記憶はまるでない。
体は弱かったが、紙と鉛筆さえ与えておけば機嫌がよかったそうだ。
まずは、これが今に残っている最初の記憶なのだろう。
4歳のときに買ってもらった王様クレヨンが浮かび出る。
厚紙製ケースのフタを開けるとクレヨンの匂いがした。
フタの裏側には交差した日の丸と旭日旗、弧を描いて奉祝紀元二千六百年の金箔文字、
その下に奉祝歌、きんし輝くニッポンの栄えあるひかり身に受けて・・・ が並んでいる。
こんなにきれいなモノをうっかり使ったらバチが当たるとおもった。
時々フタを開けて匂いを嗅ぎ、半透明のハトロン紙をソッとめくり、
艶やかな8本のクレヨンを確認してまたフタを閉めた。
白い紙にこのクレヨンを塗ったさまを想像するだけで満足した。
この頃クレヨンは貴重品だった。まわりの誰も持っていない8色揃いの王様クレヨンは、
ずいぶん長いあいだ、新品のまま私の一番の宝物となっていた。
同じころ、なにかの絵手本でも見たのだろうか、当時人気の喜劇役者だったエノケンの
似顔絵を描いた。母はそれを店にくる隣近所の誰彼となく披露した。
さらには私に同じモノを何枚も描かせては、人に差し上げたりしていたようだった。
実のところ、生来虚弱児だった私が、人様から褒めて貰えることといったら、それくらいだったから、
こそばゆいほめ言葉にすっかりうれしくなり、おなじエノケンの顔を何枚も描いていたような気がする。
これは後になって聞いたことで自分では覚えていないが、大人になったら、
「ほんものの絵描きさんになる!」なんてほざいていたらしい。
髪を長くのばしてベレー帽を被るんだと・・・。
この時代、子供はみんなクリクリ坊主だった。
「絵描きさん」の長髪に憧れたのか、
出来のわるいエノケンの似顔絵に返ってくるおだてに気を良くしていたせいなのか。
<軍艦マーチに乗って>
やがて本格的に戦争が始まった。
その戦争も幼稚園から国民学校にあがる頃には、なにやら様子がおかしくなってきていた。
それでも図画の時間にはほかの男子と同様、水煙を立ちあげて沈む敵艦轟沈や、
煙の尾をひいておちる敵機撃墜の絵ばかり描いていた。
いつも軍艦マーチを口ずさみながら飽きもせずそればかりだった。
駆逐艦、巡洋艦、水雷艇、戦艦、そして戦闘機。画材は鉛筆、墨汁と皿絵具が三、四色だった。
一年生の三学期。
突然高熱を発し股関節炎にかかった。
何度も入退院を繰り返していたが、空襲で病院が焼けてしまい、ふたたび診療を受けられる迄のあいだに病状が悪化した。手術をしたが消毒薬もロクになく、手術後の傷口からばい菌が入ってしまい、結局は断続的に二十三回の手術を繰り返す。
後半、何度かの手術は空襲警報下の病院地下室でランプとロウソクを集めての無麻酔手術だった。
すでに東京は大空襲で一面の焼け野原となっていて、待合室も廊下も患者であふれ、
話に聞く野戦病院のようだった。だからこの期間、途切れ途切れで戻れた松戸での記憶だけが拡大され、
いまでも明るくかがやいていている。
ウチへ戻っても直ぐには外へ出られない。
当分は奥の八畳で天井を眺めて暮す日が続く。退屈まぎれに天井板の木目を等高線に見立て、
架空の地図をアタマで描いたりして時を過ごす。
あの目立つ線は海岸線だ。
すこし開けたところに町を作って海沿いには鉄道を走らせよう。鉄橋を渡った先には大きな港町がある。
駅の位置はここ、この駅から埠頭までは街を迂回させて貨物専用の臨海鉄道を敷こう。
木目の細かなところは山脈だ。
岨伝いに線路を延ばしていって、最後はトンネルで峠越え。
この高さだったら向こう側の海が見えるだろう・・・。
空想の地図を描くクセはいい大人になってからも次第にバージョンアップしながら続いて、
時々ちょっとしたヒマを見付けてはあそんだものだ。
目に見えて紙が手に入りにくくなってくる。
タマにわら半紙や模造紙が、はす向かいの雑貨屋で手にはいったが、鉛筆の質もひどく悪くなっていて、
すぐ紙に引っかかるし、芯だって削るそばからすぐに折れた。
まして消しゴムなど使おうものなら紙はボロボロになり、消し跡は真っ黒に汚れてしまうのだった。
そのうちに文房具屋に消しゴムを見かけなくなり、それからはずいぶんと慎重に描くようになった。
一枚の紙を四つ折りにし、裏表使って節約していた。
日ならずして紙も鉛筆も店頭から消えた。
店の前は舗装された水戸街道。
ローセキは駄菓子屋でいくらでも売っていたので、こんどは道路に描くようになる。
自動車はごくタマに通るだけ、角町のほうから爆音が聞こえてきたら一旦描くのを止めて、
通り過ぎるのを待てばいい。
車といえば牛や馬が引く荷馬車と大八車、リヤカーのほうが多かった。
絵はいつもウチのまえで、道巾いっぱいに描く。
ありていに言えばこの頃ローセキで描いていた絵は私にとって一番の大作群だった。
描き終えたら店の二階から、全体を俯瞰して出来映えをチェックする。
モチーフは相も変わらず巨大な軍艦やヒコーキのたぐいに変わりはない。
連日、空襲警報のサイレンが鳴るようになった。
男はみんな戦闘帽戦闘服でゲートル巻き、女性はもんぺ。
子供たちも一日中防空ずきんを手放さなくなる。みんな血液型を記した名札を胸に付けていた。
終戦間近に、ヒマの種が各町内の家庭に配られ、どの家もどんな小さな隙間にでも撒いて育てたことがある。種がヒコーキの貴重な燃料になるということで、実った種はクルマ一台分の幅だけを残して道路一面に広げて乾かした。
見通せるかぎりヒマの種乾燥場と化した水戸街道というのは、かなりの壮観ではあったが、
この時だけは道巾一杯のお絵描きがままならなかった。
<進駐軍がやって来た>
戦争が終わった。
きのうまで、木炭自動車が煙をまき散らしながら走っていたウチの前を、ジープや幌付き軍用トラックに
分乗した進駐軍が延々と通っていった。
棒立ちで見とれ続けたが、なかでも将校の乗るクルマにはおどろいた。
フェンダー一体形の大きな乗用車を初めて目にした鼻垂れ小僧はいたく感動したのだ。

葛飾橋を渡るバス |
「流線型だぁ・・・すっご〜〜い!」
近づいてくるのが遠くからでも、そのやかましい音で判ってしまう日本のクルマと違って、
す〜っとウチの前を走りぬける進駐軍のクルマを描きたくて、いつ走って来るかも判らない車列を
ずっと待ちうけて、少しずつ形を覚えては描いていった。
紙や鉛筆が少しずつ出回りだしたが、売っているのは模造紙と白木のままの鉛筆だった。
こうして、進駐軍のクルマに夢中になった時期がしばらくつづいた。
国民学校は小学校となり、私もようやく一年留年した上で中部小学校へと通いだす。
六年生。 新人の前田先生が担任となり、描くことに一気に熱が入った。
松戸駅左側に松栄館という旅館の板塀が続いていたが、この壁面を借りてくれて、何度となく屋外展を催してくれたのだ。
クラス全員の図画の作品全てを展示し、脇に小さな紙箱をさげ、見てくれた人の感想を入れてもらった。
さらには小学生を対象とした公募展へも積極的に応募してくれていた。
何に応募したのかを一つ一つ思い出せないが、何度か金賞やら銀賞やらを貰った記憶がのこっている。
( ・・・ひとつだけ。
「口腔衛生週間」のポスターを描いて県知事賞か何かで表彰状をもらったことを、いま思い出した)
私たちのクラスには学校中でも「絵がうまい」といわれる三人が揃っていた。
何かに応募すればいつだってこの三人が競って金銀銅を取りあった。
これまで一人で絵を描くばかりだった私には、競争相手が出来たことが大きな刺激となった。
今だに強く印象にのこる一年間だ。
一中に進んでから図画の時間以外にはあまり絵を描かなくなった。
丘の上に建つ校舎への往復がとてもキツく、それだけで体力を消耗していた一年間だった。
やむなく翌年の新学期からバスで通うことができる二中へと転校する。
二中では私以外に絵がすきな生徒は見あたらなかった。
こちらも図画で5を取れていればそれで良し、の気分だった。
ほかに耽溺できるものが出来ていたのだ。それはアメリカ映画と進駐軍放送(FEN)。
アメリカ映画は驚きの連続だった。一秒一秒がこれまで想像したこともない異次元の世界だった。
毎週、胸躍らせての洋画館通いは、松戸に洋画館がないので、バスや電車で市川、
亀有へと下駄履きでの遠征だった。映画の中のガイジンの一挙手一投足、生活習慣など、
映し出される何かもが眩しかった。
そして進駐軍放送のジャズ。
宿題はサボってもこれだけは毎晩欠かさず聴いた。布団のなかに小型の真空管ラジオを抱えこみ、
ボリュームをしぼって明け方まで張りついて聞き入った。
それまで音楽といえば、童謡に学校唱歌と軍歌。ディック・ミネと灰田勝彦がモダンな流行歌手だ。
はじめて4ビートジャズを耳にした瞬間、心臓の鼓動と同調してしまった。
「なんだ、これは!」
ここで鮮烈なショックを受けたジャズからは、立ち直ることなく、立ち直ろうともせず現在に至る。
フリーになってからは仕事中ずっとジャズを流し続けることが習い性になり、
これも今だにそのまま続いている。
言わば、この中学生の時にあらゆるモノがこれ迄の白黒から、テクニカラーに切り替わったのだった。
<急転直下>
カメラを持てたのは中学のとき。
ボルタ判ベークライト製のトイカメラ「スタート」から。
高校に進む頃には二眼レフのリコーフレックス、に格上げされた。
入学早々、カメラ好きな同級生と意気投合してカメラ部の立ちあげに奔走する。
部員もそこそこ集まってくれ、しかも可愛い女生徒まで何人か加わってくれたのだ。
にわかに活気づいた両人は先行き写真家もわるくないじゃないかと、お祭り気分のまま
某大芸術学部写真科を目指すべく盛り上がり続けた。
結局のところ、彼は写真短大からニュース映画のカメラマンとなり、
私はと言えば狙いを武蔵野美術学校商業デザイン科にシフトする。
ここだけが入試科目に数学がない、ということを、願書締め切り四、五日前に知っての即決。
数学の追試験が常連だった私は、救いの神発見!と飛びついた。
デザイン科とは何なのか、その先どう進むのかも考えていなかった。
絵を描くのはまぁ得意だったので、どうにかなるだろうといった気分もあったが、
何よりもきらいな数学からきれいさっぱりと解放されることのほうがうれしかった。
ここでルビコン川を渡っていなければ、今頃は写真家かカメラ屋になっていたかも知れない・・・。
前々から薄々は家業を継ぐことは無理かと予想していただろうが、
面と向かって美術学校行きを宣言した長男に、さすがに気落ちした顔の父が言った。
「三文絵描きの道を選ぶのか・・・ちっとやそっとで絵だけじゃぁ食べて行けないぞ」
父には、横山大観のような一握りの大御所と、その対極にある大部分の絵描きの
二種類しかアタマにはなく、ましてやデザイン科を理解してくれるわけもない。
まぁ、訊かれたところで私にも説明はできなかった。
母親は以前からこう言っていたので、一も二もなく賛成してくれた。
「修ちゃんに、あきんどは向いてないね」
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