83. 松本城と天竜峡

著者:近藤 純正

2007年11月13日は国宝・松本城を見学、14日は天竜峡から天竜ライン 下りを楽しんだ。
ライン下り唐笠着船場のあるJR唐笠駅から豊橋行きの列車に乗車してから、 忘れ物に気づき、平岡駅から折り返して唐笠駅まで戻ることになり、その日 は帰宅できなくなってしまった。災いが幸いとなり、この夜は思いがけずも 楽しい時を過ごすことができた。(2007年11月20日完成)

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  	  もくじ
		1.松本城
		2.天竜峡
		3.忘れ物から幸運
1.松本城
長野県飯田の旧飯田測候所(現在無人)の周辺環境を視察する旅のついでに 国宝・松本城を見学することとした。これまで長野県の北部には何度も旅行 したことはあるが、松本から南ははじめてである。

2007年11月13日、東京新宿8時30分発の特急「あずさ7号」に乗車、11時28分に 松本駅に到着。

松本城黒門の券売所でもらった案内書によれば、天守は現存する日本最古の 五重天守(高さ29.4m)である。石川数正・康長父子は、城と城下町の経営 に力を尽くし(1590~1613年、8万石)、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・ 渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、近世城郭としての 松本城の基礎を固めた。天守の築造は1593~94年と考えられている。

松本藩歴代藩主6家23代と記されている。つまり1590年~1869(明治2)年 までの280年間に藩主が6家も入れ替わっていることは意外であった。

天守閣は外からは五重に見えるが、内部は6階になっていて、天守3階は外 からはわからず最も安全なため、戦のとき武士が集まるところであったという。

渡櫓(わたりやぐら)は天守と乾(いぬい)小天守をつなぐものである。 案内人の説明により、よく見ると水平の構造はアーチ状になっている。

天守の南東(辰巳)にある「辰巳附櫓」(たつみつけやぐら)は、隣の「月見 櫓」とともに寛永年代(1624~1643年)に造られた。月見櫓は北・東・南の 舞良戸(まいらど)を外すと、三方がふきぬきになり、開放的な造りである。

松本城1
松本城、その1
右の写真:左から月見櫓(高さ11.1m)、辰巳附櫓(14.7m)、天守(29.4m)、 渡櫓(12.0m)、乾小天守(16.8m)

松本城2
松本城、その2

松本城3
左:松本城(月見櫓は右端に朱色に見える)、右:月見櫓の内部

2.天竜峡
長野県南部を調べていると、地図帳に名勝のマーク「天竜峡」が記載されて いる。テレビで見たことのある天竜峡がJR飯田線沿いにあることがわかり、 飯田訪問からの帰途に寄ることにした。

2007年11月14日、JR飯田駅12時10分発に乗車、天竜峡駅に12時35分着。

天竜ライン下りの遊舟乗り場にて天竜峡温泉港13時発の乗船券を買おうとし、 JR唐笠駅から15時27分発に乗車して東海道新幹線の豊橋へ向かうことを話すと、 「唐笠には売店が1軒あるだけで、見るところも無く時間が余ります。 それよりは天竜峡温泉港14時10分発の便に乗船することにして、それまでの 1時間余はこの付近を散策するほうがよいですよ」と教えられた。

そこで、天竜峡温泉の探勝コースにしたがって、龍角峯の展望台までの登り 降りの遊歩道を往復した。展望台からの眺めは絶景である。

天竜峡1
天竜峡、その1

天竜峡2
天竜峡、その2

天竜ライン下り乗船場で数人の個人客とともに14時10分発の舟を待っていると、 女性のガイドさんが現れ、「きょうの舟には社長が船頭になってご案内いた します。・・・・ 社長の舟に乗船される皆さんは幸運です。唄がとても上手ですので、 皆さんからのご要望があれば、唄ってくれます・・・・・・・・」

17名の団体客がまず乗船してから、私たち個人客は舟の前の方に座った。舟の 乗客定員は45名である。
社長は最後部に、ガイドは中ほどに、もう一人の船頭は最先端となり 下りはじめた。流れがゆるい所にくると、社長が船外機を運転しながら下って いく。

天竜峡3
天竜峡、その3

天竜峡4
天竜峡、その4(左の写真の鉄橋はJR飯田線)

社長と船頭
天竜ライン遊舟社長(左)、ガイド(中)、船頭(右)

ライン下りの途中の2ヵ所では、投網の実演が行われたが、時期が過ぎていた のか魚は1匹も捕れなかった。

美声のガイドが ”天竜下れば”を唄った。

”天竜下れば”
ハァー天竜下れば ヨーホホイノサッサ
しぶきに濡れてよ 咲いたさつきに
エー咲いたさつきに 虹の橋
ホンニアレハサノ虹の橋

ハァー伊那の夕空 ヨーホホイノサッサ
あの片しぐれよ 明日は下りじゃ
エー明日は下りじゃ 笠ほしや
ホンニアレハサノ笠ほしや

前のほうに座っていた個人客の間から社長の唄をリクエストしたのだが、 後方の社長には声が届かなかったようだ。あとでわかったのだが、船外機の 音で客からの声が聞こえなかったという。

唐笠着船場
天竜峡、その5(右の写真は唐笠着船場)

唐笠駅
唐笠(右の写真はJR唐笠駅)

3.忘れ物から幸運
乗船してからおよそ50分間で唐笠着船場に到着した。売店を通って坂道を 登り無人のJR唐笠駅の待合所で15時27分発の豊橋行きを待つ。 他の団体客は迎えに来ていたバスで、個人客は天竜ライン遊舟会社の 送迎車で天竜峡温泉港方面へと帰っていった。

JR唐笠駅を発車して間もなくのこと、唐笠駅待合所に忘れ物をしたことに気づく。 車掌に相談すると、有人の平岡駅で下車して相談するがよいと教えられる。

天竜ライン遊舟会社(飯田市滝江、0265-27-2247)に電話し、唐笠着船場の 売店の電話番号を教えてもらう(下伊那郡康阜、0260-26-2200)。 売店の奥さんに電話して忘れ物したことを伝えると、「JR唐笠駅待合室で 荷物を見てきます」と返事をいただく。

しばらくして、また電話すると、荷物はあったので、売店で保管していただけ ることになった。

唐笠駅に戻ったのは17時過ぎ、暗くなりはじめていた。着船場の売店で列車 の時刻表を見せてもらうと、唐笠18時15分発の列車は豊橋21時24分の到着。 これでは豊橋乗車・小田原停車の新幹線最終便に間に合わない。

困っていたところに社長が現れ、天竜峡温泉方面で安く泊めてもらえる 旅館を探してもらったが、団体客で満員とか、あるいは保険所の検査があって 泊めてもらえない。

高級温泉旅館の浪漫の館「月下美人」(下伊那郡下条村睦沢、0260-27-1008) に掛け合っていただき、急なことで夕食は不要、割引き料金で宿泊 させてもらえることになった。

タクシーを呼んでもらおうとしたところ、社長・半崎保道さん(はんざき やすみち、1935年2月20日生れ)が車で「月下美人」まで送ってくれるという。 月下美人の玄関に到着すると、女将さんが出迎えてくれる。私は半崎社長に タクシー代相当のお礼の気持ちを差し出したが、容易に受け取ってもらえ なかった。いろいろ話しているうちに、社長は私の気持ちを受け取ってくれ て、「それでは後でカラオケ・スナックに案内しましょう。 月下美人の温泉はよい湯なので、お入りになってお待ちくだ さい」と言われ、いったんお別れする。

「月下美人」は、私が普段は泊まることのない高級ホテルであった。大浴場と 露天風呂があり、入浴すると肌がすべすべする。経験したことがない。あとで尋ねると、 アルカリ性が強い温泉の特徴であるという。

やがて半崎社長に案内されてカラオケ・スナックに行く。歌手・北島三郎の 大きな写真が貼ってある。社長は北島三郎の大ファン・後援者である。 まず、社長には北島三郎の新曲「灯台あかり」を唄っていただく。北島 三郎にそっくりの唄い声、実にうまい。

スナックには「天竜男笠」と書いた大きな宣伝が飾ってある。聞くと、 社長が北島三郎風にオリジナルの「天竜男笠」をつくった歌だという。

社長は、船大工の名工に選ばれた方でもある。ご自宅は長野県下伊那郡泰阜 (やすおか)村にある、売店のある着船場にある。 そこには造船・修理場もお持ちで、これまですでに舟を500艘以上も手がけ られたという。

ほかに花火の打ち上げの資格もお持ちで、岐阜県や諏訪湖の花火大会に行 かれることもある。八ヶ岳ロードレースなど地元マラソン大会に毎年出場 されており、優勝されたこともある。すごい才能の持ち主である。

戦後よく聞いたことのある”勘太郎月夜唄”を社長にリクエストしてあった ところ、頭に三度笠をかぶり昔の旅姿の衣装をまとって現れ、唄いはじめた。

”勘太郎月夜唄”
影か柳か勘太郎さんか
伊那は七谷 糸引く煙り
捨てて別れた 故郷の月に
偲ぶ今宵の ほととぎす

なりはやくざに やつれていても
月よ見てくれ 心の錦
生まれ変わって 天竜の水に
うつす男の 晴れ姿

菊は栄える 葵は枯れる
桑を摘むころ 逢うじゃないか
霧に消えゆく一本刀
泣いて見送る 紅つつじ

歌詞から、この唄がこの天竜地方のものであることをはじめて知った。

月下美人
浪漫の館「月下美人」と女将さん

楽しい一夜を過ごした翌朝は朝霧につつまれていた。聞くと、毎日のように この付近は朝霧になるという。あとで調べてみると、飯田測候所における 10月と11月の霧日は月のうちの約半分である。ここは天竜川に近いので、 旧飯田測候所よりも霧日数が多いのかもしれない。

月下美人の車で天竜峡駅まで送ってもらい、10時発の列車に乗車、 豊橋を経て帰途についた。

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