103. 大地震の跡:根府川と一夜城

著者=近藤 純正
関東大地震による山崩れの激甚地は丹沢一帯と箱根南部とされている。その箱根南部の 根府川を訪ねた。さらに、石垣山一夜城跡も見学した。 (完成:2012年1月12日)

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東海道本線の小田原・熱海間にある根府川駅一帯は関東大地震のとき、山体崩壊による 大規模な地滑りが発生し、列車が駅もろとも海中に流された。沖合の海底には当時の プラットホームが横たわっているという。この付近は崖地形であり、鉄道のほか集落も 流され、道路「小田原熱海線」も大崩壊したことは2002年の伊豆・石廊崎への 歩き旅のとき知った(「2.伊豆・石廊崎への旅」の 2.3節「石橋山古戦場」)。

2011年の東日本大地震によって東北地方で大災害があった。それに匹敵する関東 大地震による災害の代表地帯である根府川へ2012年1月9日に行くことにした。

無人の根府川駅には「関東大震災殉難碑」がある。いまでも供える人があると見え、 きれいな花があった(写真103.1)。

関東大震災殉難碑
写真103.1 JR根府川駅に置かれている「関東大震災殉難碑」。

震災復旧記念碑
写真103.2 根府川駅の約200m小田原寄り道路脇に設置されている 「府県道小田原熱海線震災復旧記念碑」。

駅から740号線を小田原寄りに約200m歩き線路下を過ぎると、大きな石碑「府県道 小田原熱海線震災復旧記念碑」がある。車道と石碑の間には木が茂り、歩行者でないと 見つけられない。この石碑は建てられて80年も経過し、石に彫られた文字も読み づらいが、何とか判読できる(写真103.2)。

大正一二年関東大震災ノ為メ府県道小田原熱海線ハ路線一帯崩壊シテ更に原形ヲ 留メズ其ノ惨状言語ニ絶セリ 知事安岡内氏即時其ノ復旧ヲ畫シ国幣ノ補助ヲ 請フ 内務省ハ技師牧野雅栄之丞氏ヲ派シ 県土木課長高田景氏等之に随ヒ実情ヲ 踏査ス・・・・・・・・昭和七年六月

根府川駅
写真103.3 根府川駅(右上は真鶴半島先端の「三つ石」の望遠写真)。

根府川駅周辺には頼朝旗揚げの「石橋山古戦場」や豊臣秀吉の小田原戦役の際、 諸将の労を慰めるために、利休らに命じて茶を楽しんだとされる「天正庵跡」など 史跡があり、駅前にはハイキング案内地図も掲示されている。遠くには真鶴半島も 見える(写真103.3)(「伊豆・石廊崎への旅」の 2.4節「真鶴と湯河原」を参照)。

私は石垣山一夜城を訪ねたことがないので、登ることにした。

早川駅から約2キロメートルの登り坂の途中には「石垣山に参陣した武将たち」 8名の案内板を順番に読みながら登る。近江長浜城主・堀秀政に続き伊達政宗の ことが次のように説明されている(写真103.4)。

秀吉に従い小田原合戦に加わるべきか迷い、なかなか参陣しなかったため、その 遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、 その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死後まもなく 家康に近づき、伊達六十二万石を確定させ、仙台城を築いた。・・・・・・

伊達政宗
写真103.4  石垣山に参陣した武将たち、伊達政宗の説明板。画像には「仙台市博物館 所蔵」と記されている。

続く案内板には宇喜多秀家、徳川家康、豊臣秀次、千利休、淀殿、豊臣秀吉について 説明されている。登り道の両側はミカン畑、その一角には、まだ1月9日というのに 菜の花が咲いていた。

石垣山案内地図
写真103.5 小田原市作成の「石垣山一夜城歴史公園案内図」。

野面積み石垣
写真103.6 南曲輪下の石垣。説明板には、「穴太流(あのうりゅう)の野面積みで桃山時代の面影 をよく残している」と書かれている。

この石垣山は総石垣で築いた城であることから呼ばれるようになり、1590年6月に完成 した。 現在、石垣がきれいなのは南曲輪下にあり(写真103.6)、その他は崩れた石垣が多い。

理科年表を調べてみると、小田原周辺で石垣が崩れるなど被害のあった地震は、1590年 以後では関東大地震まで12回ある。そのうち関東大地震は小田原付近から地震断層が 始まり、石垣山の石垣も崩れたのではなかろうか。現在の南曲輪下の石垣は目立つ所に あるので修復されたか、その他は修復できないまま残してあるのか?

公園として手入れされたニの丸跡や、樹木の茂る本丸跡を見渡せば私が想像していた より広い。そのはず、小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、淀殿はじめ諸将の妻を 呼び寄せて、諸将の苦労を思いやり、千利休を呼んで茶会を開いたのであった。

本丸跡の展望台から眼下には小田原市街、小田原城も見える。 案内板には次のように説明されている。

天守台の標高が261.5m、小田原城の本丸より227m高く、また小田原城 までの距離はわずか3kmと近い、・・・・。山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、 白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採した。実際には 約4万人が動員され、80日間が費やされた。現在、遺構が確認できる範囲は出城 から北曲輪までで、南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mある。

石垣山一夜城がひと晩の間に突然現れたのは、当時の小田原軍勢に対し心理的に 大きな影響を与えたに違いない。

眼下の小田原
写真103.7 本丸跡展望台から見下ろした小田原(左下に小田原城の望遠写真を挿入)。

本丸跡
写真103.8 天守跡から見下ろした本丸跡。

ニの丸跡の北側にある展望台では、眼下に生命の星地球博物館が700mの距離に大きく、 また、正月恒例の箱根駅伝の国道一号線、箱根登山鉄道が見える。山々は左の方から順に 双子山、駒ケ岳、神山、早雲山、塔ノ峰、明星ヶ岳が一望できる。こんな見晴らし のよい地点を小田原攻めの城として選んだ軍師を抱えていた秀吉はさすがである。

北条氏の本拠・小田原攻めに際しては、「1890年豊臣秀吉が水陸合わせて約22万の 大軍を率いて包囲した」と説明板に記されている。

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