トップページへ 小さな旅の目次 次へ


1.三浦・城ヶ島への旅

平塚から、おもに相模湾の沿岸沿いに江の島、鎌倉、逗子、葉山、 油壷を経て、三浦半島先端の城ヶ島までの歩き旅の記録です。

1.1 冬の湘南海岸
1.2 江の島
1.3 七里ガ浜・稲村ガ崎
1.4 鎌倉
1.5 葉山と三戸海岸
1.6 油壷と城ヶ島

1.1 冬の湘南海岸

神奈川県中部の平塚から東へ向かって歩きはじめた。 国道一号線の茅ケ崎の千ノ川に架かる鳥井戸橋にくると、案内板が目に 入った。「南湖(なんご)の左富士」とあり、江戸時代の浮世絵師・歌川 広重による版画のコピーとともに説明が書かれている。

江戸から京へと旅する人々は、富士山をいつも右手にするものだが、 道の曲がり具合から、ここでは左手に見るとある。これを左富士と名づけた。 昔の東海道では、この南湖(広重では南期、南古とも書く)のほか 静岡県の吉原にも左富士がある。

JR茅ヶ崎駅から進路を南向きにとり、海岸にくると、自動車道路と並行 する松林の南側に幅4メートルほどのハイキング・サイクリングロード がある。所々に木の板張り歩道もあって歩きやすい。ジョギングの人、 子連れで散歩する人、男性を車椅子に乗せて押す女性にも会った。

砂に埋まった防砂棚を掘り起こし、並べ替える作業人たちもいる。 2キロメートルほどの沖あいに烏帽子岩(えばしいわ)の岩礁が点々とし、 帆船が見える。道は贅沢と思えるほどきれいに整備されている。

こういうことが文化なのではないかと、ふと思った。 これまで私が歩いた散歩道で、この冬の湘南海岸はもっとも 素晴らしいと思った。

海水浴場で有名な片瀬海岸は砂浜の幅が広く、清掃車がきれいに掃除している。 茅ケ崎から2時間ほどで、江の島弁天橋のたもとに着いた。



1.2 江の島

江の島への弁天橋を渡ろうとすると、観光案内所があったので入り、 「少し詳しい地図をいただけませんか?」とお願いすると、2万5千分の1の 地図を出してくれた。

標高60メートルの島の頂上を越え、「岩屋」の前にたどりついた。 30数年前に来たときとは違っていた。第一岩屋に入ると次のような 説明があった。『3千万年ほど前には神奈川県下はほとんどが海底であり、 砂泥が堆積していた。この付近は度々隆起を繰り返し、今から7~8万 年前に海上に顔を出した江の島は、現在よりひと回り大きかった。

岩屋はいまから6千年ほど前から、岩の割れ目の弱いところに沿って 波が掘りすすんでできたものである。』 トンネルのような長い海食洞窟を80メートルほど奥に進むと、 案内警備員がいて明かりを灯した燭台を手渡してくれた。

私が「奥には電灯はないのですか?」と聞くと、 「気分を味わっていただくために、お使いください」と言われ、 なるほどと思った。昔の人々と同じように、明かりを灯して岩屋に お参りし追体験してみよう。

第一岩屋は長さが150メートルあり、奥に石像がある。私が 「以前に来たとき、この洞窟は知らなかったのですが」と聞くと、 「昭和46(1971)年に洞窟の一部が崩れたため、 しばらく閉鎖していたのですが、平成5(1993)年に改修して 再開しました」と説明してくれた。

島の数箇所には竜神伝説の説明が書かれている。それぞれは少しずつ 違っていたが、要約すると、次のようになる。昔、鎌倉の深沢山中 の底なし沼に五頭竜が住み村人を苦しめていた。 あるとき、海上に密雲が何日にもわたってたれこめたが、 天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、雲が晴れると海上に 島ができていた。これが現在の江の島である。天女に魅せられた 五頭竜は心を改め善い行いをするようになった。 この天女が江の島の弁財天としてまつられており、また、 江の島は竜神信仰の島でもある。

島の最初の登り口にもどると、郵便局の前に復元された、 明治20年頃に使われていたという黒色の角柱状のポストがあった。 また、俳優の片岡鶴太郎さんの美術館があり、前庭では鶴太郎さんの 作品が描かれた絵葉書が売られていた。

弁天橋のたもとに戻ると、数人の写真同好グループが日没の瞬間を 待っていた。
私も彼らの会話に仲間入りし、真似をしてシャッターを押した。
江の島の日没
雲間からの夕日は空と海を美しく染めていた。
西空の雲は紅に、中層の雲は灰色に、上層の絹雲は金色の羽衣の 舞い姿に、
海面には紅と黄金にきらめく一筋の帯が水平線まで伸びていた。
はるか上空には水鳥の一群が右へ、こんどは左へと飛び交い、 「また、あした!」と告げていた。



1.3 七里ガ浜・稲村ガ崎江の島

江の島弁天橋のたもとから、国道134号線の小動岬のゆるい登り坂に くると、信号機にローマ字で「こゆるぎ」とあり、小動を「こゆるぎ」 と読むことを知った。大磯海岸に「こゆるぎの浜」があるが、 「小淘綾の浜」と書く。

小動岬を過ぎると、七里ガ浜があった。響きのよい名前である。 この浜には後方から丘陵が迫っている。南には伊豆大島、右手に江の島、 遠くに伊豆半島がある。左手に稲村ガ崎、遠くに三浦半島がある。 この素晴らしい景観は、天気によって変わるだろう。西田幾多郎博士 記念歌碑があり、『七里ガ浜、夕日漂う波の上に、伊豆の山々、 果てし知らずも』が彫られていた。

この浜の長さは3キロ弱なのに、なぜ「七里」と呼ぶのかを尋ねると、 一人は「江の島のずっと西まで海岸が7里(約28キロ)続くから でしょう」と、また別の人は「どこからか7里の道程あったからで しょう」と答えた。地図では、海岸線なら大磯の西まで、道路なら 横浜付近、あるいは三浦半島までの距離になる。もう一人は 「昔の1里はいまの1里と違うのでは?」と答えた。

稲村ガ崎にはボート遭難慰霊碑がある。兄は左手で弟を抱え、 右手でだれかを呼ぶかのようなブロンズ像があり、その台座には 次の説明があった。

『みぞれまじりの氷雨が降りしきる、この七里が浜の沖あいでボート 箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒12人が遭難転覆したのは 1910(明治43)年1月23日・・・・。さらに世の人々を 感動させたのは、兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたまま の姿で収容されたからなのです。』

『真白き富士の峰、緑の江の島、仰ぎ見るも今は涙、帰らぬ十二の 雄々しきみたまに捧げまつる胸と心、ボートは沈みぬ千尋の海原、 風も浪も小さな腕に、力も尽き果て呼ぶ名は父母、恨みは深し七里が浜辺 (三角錫子作詞、七里ガ浜哀歌)』。

案内板によれば、新田義貞は極楽寺切通からの鎌倉攻めが困難と判断し、 元弘3(1333)年5月22日、宝刀を投げて干潟になった稲村ガ崎 の海岸線を突破し、150年間続いた鎌倉幕府を滅ぼしたという。

私は極楽寺切通の地形を見るために、北方へ1キロほど歩いてみると、 道の両側は垂直なほど、深く険しく、よじ登ることも、飛び降りるこ ともできないように見えた。ここに障害物を構えた鎌倉軍がいれば、 攻略は難しかったと想像できた。道路脇に石碑があり、 『・・・鎌倉軍はこの所を堅め相戦う』と書かれていた。



1.4 鎌倉

昔の鎌倉は天然の要塞とされ、7つの坂と切通がある。切通は周辺との 交通の便を図るために、山に切通しを掘削したものである。極楽寺切通 から鎌倉に入った場所から、海岸線沿いに戻って稲村ガ崎を裏側から 見たのち、反転して市街地の方向へと向かう。遠方の由比ガ浜の東から 逗子マリーナにかけての沖には、ウインド・サーフィンらしい数十の 帆が動いている。

長谷寺に近づくと、日曜日のせいなのか、若い人たちや外国人も 多く見かける。長谷寺の山門脇には、『長谷観音、本尊は高さ 九メートル余の十一面観音立像で奈良長谷寺の十一面観音と同じ木から 造られています』と書かれている。

そうか、長谷寺はどこかでも 聞いた名前だったことに気づく。山腹にある境内には、観音堂、 宝物殿、経蔵、阿弥陀堂、地蔵堂、鐘楼など多数の建物が配置よく 並んでいる。

経蔵には輪蔵と呼ばれる回転式書架があり、その入口には 『輪蔵は中国の5世紀、傅大士(ふだいし)の発明によるもので、 蔵内には一切経が納めてあり、時計の回転方向へ1回まわすと、 一切経を1通り読んだと同じ功徳がある』と書かれている。 なるほど、参詣の人々は次々と回して功徳を重ねていた。

地蔵堂を降りると、きれいに整備された庭園があり、遅く色づいた 木々の葉と小さな滝が景観を引き立てていた。庭の端には弁天窟があり、 山腹の入り口から入ると、中は意外に広く、若い人々がローソクの 明かりを供えていた。

山門を出ると、人力車が2台並んで客を待っていた。 私は幼児のころ、タクシーもない時代、人力車に乗せてもらい 病院から帰ったときのことを思い出した。参考のためとして、 若い車夫に車賃を尋ねると、名刺をくれて、「12・13分走りまして、 1人客で2千円、2人客なら3千円でございます。わたしのところが 一番安いです」と、感じのよい言葉が返ってきた。

公徳院大仏の前では、数基のやぐらに照明灯の配線をする人々がいた。 「何かイベントがあるのですか?」と聞くと、「今夜、バードさんの コンサートがあります」と答えた。

鎌倉文学館を経て、鶴岡八幡宮へと向かう。私の20歳前に訪ねた 八幡宮の記憶は確かではない。若宮大路を進むと二の鳥居があり、 そこからは中央は歩道、その両脇は車道、さらに歩道があり、 思っていたよりも大路である。

鳥居の傍らの石碑に、つぎのような 内容が彫られている。『段葛(だんかづら)は置石と称し、 頼朝の夫人・政子の平産祈願のため、鶴岡社頭から由比ガ浜に わたって築いたものである。明治の初年になって、二の鳥居以南は 形を失った』とある。歩道両側の段葛には桜の並木が500メートルほど 続いている。

静御前で知られる舞殿を過ぎると、石段がある。私の記憶では、 石段の脇に、『頼朝の子・実朝(さねとも、三代将軍)が甥・公暁 (くぎょう、二代将軍の子)によって暗殺された場所・・・』 の内容が書かれた案内板があった。 しかし、いま、それは見つからない。

社務所の若い人では詳細が不明なので、最長老の神主さんに聞くと、 「神道では、境内にはそのような掲示は出さないことになっているので、 ありません」という。それでも、なんとなく腑に落ちないので、 念入りに石段の脇を探してみると、昔の記憶の場所に作り直された コンクリート製の新しい説明碑があり、似た内容のことが書かれていた。

50年ほど前に私が見た説明板は木製だったという先入観から、 見つけ難かったことはまったく意外であった。石段脇の大イチョウには 立札があり、樹齢1000年余、高さ30メートルと書かれていた。

私は当初、江の島まで、そして鎌倉を巡ることが目的であったのだが、 途中で、向こうに霞んだ三浦半島を見つつ、続いてあの半島の先端まで 歩いてみたいと思うようになっていた。

鎌倉市観光案内所で 逗子までの道を聞くと、「海岸通りの道は途中で歩道がなくなるかも しれません。バス道路を歩くのが安全でしょう」と教わった。 およそ2キロ歩くと逗子市との境となり、名越切通のトンネルがあった。 昔は、この切通は鎌倉防衛上の最重要拠点であり、北条氏の時代に 要塞化したといわれている。

逗子の海岸には日没30分前に到達した。
静かな海ではウインド・サーフィンをする人々が見えた。
一人、また一人と、砂浜に引きあげてきた。
太陽が伊豆半島に沈む瞬間、最後の帆が渚にあがった。
逗子の日没



1.5 葉山と三戸海岸

朝、JR逗子駅から歩き始めた。軟らかい冬の陽は高くなるにつれて 私を暖かく包み込んでくれる。

きょうの目的地は京浜急行久里浜線終点の 三崎口であり、道程は長く、あまり寄り道はできない。 先ずは御用邸のある葉山へと向かう。葉山港が近づくとヨットの帆柱が 無数に見えてくる。森戸海岸の沖合には岩礁の群れ、赤い鳥居、 はるか彼方には、左から伊豆の山々、雪化粧した富士山、 江の島が見える。

次々と現れる美しい景観は、私に新鮮な驚きを与え、自然に足は 浜辺を歩いていた。真名瀬漁港から出ている大きめの崎の先端を見たくて、 バス道路から離れて防潮堤沿いに歩くと、そこには芝崎海岸の 海洋生物の案内板がある。

海に生息する動植物の断面分布図とともに、 『芝崎海岸の磯や海底は、岩礁、転石、砂地、砂礫地など様々な 地形が広がり、それぞれの環境に適応した多種多様な生物が生活を 営んでいる・・・・』と書かれている。あたかも絵本をめくるかのように、 次々と崎と磯が現れる。こんな素晴らしい磯で、昭和天皇が海の 動植物を採集され、ご研究をされておられたかと、 そのお姿を想像した。

芝崎海岸の崎を回ると、格好のよい白壁造りの低層ビルのマンションが 建設中であった。海辺の風景もしだいにその様相を変えつつ あるようである。再びバス道路に出ると、駐車場があり、 番小屋に管理人がいた。

私が「御用邸はどれですか?」と聞くと、 管理人は外に出てきて、一色海水浴場の方向を指差して、 「御用邸と付属邸は・・・。旧高松宮別荘には県立近代美術館が 建設中・・。ブリジストンタイヤの石橋さんの別荘は・・・」 と教えてくれた。そうして、大きな葉山町観光マップを貰った。

御用邸の手前は、旧御用邸付属邸であり、現在は葉山町が管理する 「葉山しおさい公園」となっている。入場すると、もと「御車寄せ」 の建物は博物館となり、昭和天皇の御採集品や、その他の海の 生物標本が陳列されていた。中でも特に感心したのは、何百枚もの 二枚貝を美的な幾何模様に重ね、並べてあったことである。

公園内をひと回りすると、大きな案内板に次の内容があった。 『この公園の面積は一万八千平方メートル・・・・。 関東大震災で本邸が破損したため、大正天皇はこの付属邸で ご病気ご療養されておられたが、大正15年12月25日 午前1時25五分に逝去された。皇室典範の定めにより同日 午前3時15分、昭和天皇がこの別邸で皇位継承された。 皇位をつがれた新天皇は徳川従事長らを従え、 静かに東京に向かわれた。』この説明から、 当時の様子を知ることができた。南のほうへ歩くと、 樹木に包まれた御用邸があり、意外に質素な御門があった。

見晴らしのよい海岸に県立葉山公園があり、子連れの母親たちや 年配の人々がベンチにいた。私も席をとり、軽い昼食をとった。

長者が崎を過ぎると地形は一変し、道路の下は絶壁となる。 前方には海に沈降する山々が重なって見える。 これがリアス海岸だろう。さらに歩くと、道路わきに小公園があり、 水仙が咲き、眼下の海には巨岩が立っている。案内板には、 これは「立石」とある。巨岩から遠方の水平線上には 三浦半島先端の城ヶ島が見える。

うしろを振り返ると歌碑があり、 泉鏡花の詞『大くずれの巌の膚は、春は紫に、夏は緑、秋くれないに、 冬は黄に、藤を編み、蔦をまとい、ひるがおも咲き、りんどうも咲き、 尾花がなびけば月も射す』とあり、大崩壊によって創られた 岩肌の四季の風情が彫られていた。私はふと、泉鏡花の戯曲 「天守物語」が数ヶ月前だったのか、テレビで放映された ことを連想した。

それから相当な距離を歩いたところで、地形は平坦に変わり、 三浦市の標識が見え、広い畑に大根やキャベツが栽培されている。 スーパーで見かける三浦産の野菜はここからきているのか。 30分ほどで日没がせまるころ、三崎口駅が見えて、私はほっとした。

夕日を見るために三戸(みと)海岸へ降りて行った。
渚では、岩に寄せるさざなみの反射が見事に円弧を描きながら 広がり、
真っ赤な夕日の落ちる海、そこに浮かぶ一羽の海鳥、
見る人もこの情景に心も凪いでいくようであった。
三戸海岸の日没



1.6 油壷と城ヶ島

三浦半島の南端まで歩きたいという希望がきょうは達成できそうである。 九時過ぎ、三浦市三崎口駅から南下しはじめた。

引橋という所にくると、案内板に『このあたりは三浦一族の居城、 新井城の要害、北条早雲との戦いに橋を引いて敵の侵入を 防いだ・・・・』とある。途中でコースを西向きにとると、 野菜畑の中に小草で覆われた2つの盛り山がある。 近づくと、倒れかかった棒に「刀塚・・」の文字が見えた。

再びバス道路に出ると、右手に小網代湾が見える。 油壷観光ホテルを過ぎて、左の小道へ入ると、湾を見下ろす位置に 歌碑があり、『外海は荒れいて月の油壷』(田辺大愚)と彫られている。 この奥深い入り江に月が映っている情景を想像した。

ここは小網代湾と油壷湾に挟まれ、しかも切り立った断崖である。 案内板には油壷湾の由来が書かれ、 『1516年、新井城(いまの油壷一帯)に立て篭もった三浦一族が 北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって戦ったが、ついに全滅し、 三浦道寸父子は自刃し、他の将兵も討死、または油壷湾へ投身した。 そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような 状態になった。・・・』とある。

そばに東京大学油壷地殻変動観測所があり、下への降り口に 観測坑入口とある。想像すると、足元の地下には長さ数十メートルの 横穴が掘られ、その中では温度変化はなく、地殻の傾斜や伸縮など、 地震予知のためのデータが観測されているはずだ。

臨海実験所から、時計の回転方向に岩場を回って、ホテルの所に戻り、 油壷湾の奥へと降りていくと、何百隻ものヨットがあった。 ヨットを持てるほどの金持ちがなんと多いことか!

海岸のバス道路を進むと珍しい地層の断面があった。 昔の海底に堆積した砂泥が底流の転動によって形成された 「漣痕」である。水と砂の流動がそのまま地層の中に残され、 その後の変動により隆起し、侵食されて現れたものである。

歌舞島公園では、鎌倉時代に源頼朝の行楽地として、歌舞宴楽が 催されたとある。空には、高積雲と高層雲が広がっていた。 弁当を食べたあと、三崎港の岸壁通りにくると、「まぐろ」の店が 並んでいる。そうだ、三崎は遠洋漁業の基地なのだ。

昭和35(1960)年に大橋が開通する以前の渡船場の跡と 記した案内板があり、北原白秋の渡舟の歌が書かれていた。

城ヶ島大橋を午後2時に渡り、城ヶ島へ着いた。橋の下の砂浜に 北原白秋の「城ヶ島の歌」(雨はふるふる、城ヶ島の磯に、 利休ねずみの雨が降る。・・・・)の歌碑があった。

白秋会館に入り、「利休ねずみの色はどんな色ですか?」と尋ねると、 同じ質問が時々あるとみえて、ファイルを出してくれた。 「利休ねずみは江戸時代の染色名。灰色の中で緑色を帯びたもので、 抹茶の色感からきている」とある。緑を背景にして、 静かにけむる雨降りの情景が思い浮かんだ。 ねずみ色には、ほかにも藤、桜、梅、柳、ぶどう、藍、湊、鳩羽、 合計九種類のバリエーションがあるという。

およそ2時間でひと回りできると聞き、もらった地図を頼りに 時計まわりに歩いた。足を踏み外すと落ちそうな場所もあった。 土質は凝灰質砂礫岩で軟らかく、侵食による奇岩が多い。 途中から断崖となり、磯つたいには進めなくなった。

展望台に登ると、南に伊豆大島、東に房総、北にはきょうまで 歩みし跡が、西にはこんど行きたい伊豆があった。 高さ3~4mの笹藪に開けた小道を行けば、「ウミウ展望台」の脇に 『東側の断崖は高さ30メートルにわたり垂直で、10月~4月は 数千羽にも及ぶウミウの群れの生息地・・・』とあるが、いま、 ウミウの大群は他所へ旅して留守なのか。

島の西端は磯釣り場である。岩場では無言のままで竿の糸を垂らした 親子連れがいた。それまで厚い層状雲に隠れていた太陽は、 水平線に平行な狭い晴れ間から、一瞬の輝きを海面に映し、 「こんどは伊豆にも来いよ」と合図して沈んだ。 うしろでは城ヶ島灯台の光が回転をはじめていた。

私は最初、江の島まで歩いているうちに、鎌倉まで行くことになり、
とうとう三浦半島の先端、城ヶ島まで来てしまった。
夢のような希望が実現できて、旅の疲れも忘れ、嬉しかった。
(2001年12月18日)

トップページへ 小さな旅の目次 次へ