34.赤レンガ造りの観測室から温暖化監視まで

東北大学は2007年6月に創立100周年を迎え、「東北大学百年史」が既に刊行されている。 2011年6月には理学部開講から100周年となり、理学部物理系同窓会は「理学部開講100周年記念特集号」 を発行することになった。これは記念号に掲載予定の内容である。(完成:2010年11月23日)

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ステンドグラス

著者: 近藤 純正

私が地球物理学教室に進学した片平キャンバスの時代から、東北大学引退後の現在まで、おもな記憶 を振り返ってみた。

1.赤レンガの気象学研究室

私が教養部から学部3年生に進学した1955年4月当時、片平キャンバスの物理系教室の大部分は、 戦災で屋根や床が焼け落ちたレンガ造りの残骸の枠組みに、床板を張り直したものだった。 他に地球物理学教室の一部として、戦災を免れた測候所風の赤レンガの建物があり、その2階部分が 4年生用の居室であった。

それ以来、私はこの赤レンガの建物で過ごし、鉄筋コンクリートの新館が建設された後も、希望 して助手時代の1967年まで一人で住んでいた。なぜなら、物置倉庫の中には、地球電磁気学の加藤愛雄 先生や先輩方が素材や雑品を残してあり、手製の実験装置に利用でき、前庭は装置の組み立て作業に 利用できたからである。

この測候所風の建物は、明治~大正時代に蚕糸業を営んでいた佐野理八が、養蚕と気象の関係が 密接なことを痛感し、物理学教室に気象学を研究して欲しいとして1918年に寄贈したものである。 この建物の設計は、兼任教授・岡田武松(のちの第4代中央気象台長、現在の気象庁長官に相当) によるとされる。敷地面積は約100平方mの2階建て、中央には風を測る測風塔がそびえていた。 この建物は1945年の終戦直前に物理学教室から独立した地球物理学教室の所属となっていた。 庭には気象観測用の百葉箱が1955年ころまで残されていた。

2階へ上る階段の窓には、学問の象徴「ミミズク」と無彩色のステンドグラスが飾られていた。 その建築当時のステンドグラスは日本では貴重であるので、保存すべきと考えて、建物の解体前に 2枚は枠ごと外して、青葉山キャンバスの8階建ての物理棟の7階中央広場の北側窓に「ミミズく」 の部分は飾った。

時は過ぎて、地球物理学教室は理学部事務棟の南側に建てられた総合棟へ移転することになり、 2枚のステンドグラスは東北大学記念資料室に保存してもらった。

それとほぼ同じころ、物理学教室の佐川敬教授の研究室に保管されていたメートル副々原器 (日本の原器の副原器)も記念資料室に保存してもらうことにした。メートル副々原器は戦前から 戦中の物理学や地球物理学の実験観測において重要な備品であり、1945年7月10日のアメリカの空爆に よって発生した片平キャンバスの火災の中、物理学教室の林威先生(3年生のときの電磁気学の先生) が命がけで持ち出した記念品である。その詳細は泉萩会会報第22号(2006年6月)に掲載してある。

私が学生当時、地球物理学教室は地球電磁気学(加藤愛雄:1905-1992)、地震学(本多弘吉: 1906-1982)、気象学(山本義一:1909-1980)の3講座であった。 加藤教授は以前から気象学にも関心を持ち、農作物の凍霜害など農業気象の研究調査もされていた。 私が教養部時代には加藤先生から気象学を教わった。

微分方程式を解いて地中温度の日変化、年変化を求める講義が記憶にある。現象を理論的に理解する ことに面白さを感じた。私は後に、その内容を拡張して気象学の専門書「水環境の気象学」に書く ことになる。

2.山本義一教授の温暖化研究

3年生の気象学では山本教授から「大気輻射学」(174頁、岩波書店、1954年)の講義を受けた。 この最後の章に、大気の放射平衡の温度分布が掲載されており、当時の最先端研究が3年生向けの 講義であった。現在、地球温暖化の研究は世界中で盛んになったが、その当時、山本教授は温暖化の 理論的な研究を日本で最初にはじめていた。後に、その一部は、私の1~2年生向けの教科書 「身近な気象の科学」の第1章「温室効果」のはしがきに掲載することになる。

今年2010年5月のこと、気象庁で会議があった際、気象庁観測部の加納裕二部長から、1957年7月 14日の朝日新聞のコピーをもらった。その記事は、山本教授による投稿であり、 「暖かくなる地球―工業の発達で炭酸ガスがふえる」の題で書かれている。

内容は、1956年に発表されたプラス氏の計算では、大気中の炭酸ガスが2倍に増えると地上の 平均温度は3.6℃上昇する。しかし、この計算は炭酸ガスだけを取り扱った結果であり、長波放射の 吸収帯が水蒸気と炭酸ガスで重なる効果を考慮すれば、プラス氏が言うほど気温の上昇は大きく ならないと述べている。

それ以来、この問題について多くの数値計算が行われるようになり、 今日の気候変動の議論に発展していく。いま東北大学で現役の中澤高清教授らが行っている、 二酸化炭素など温室効果気体の観測的研究は、この流れを継ぐものだ。

私は大学院修士時代まで大気放射の研究をしていた。その後、大気境界層内における乱流輸送や、 大気放射も含んだ地表面の熱収支・水収支研究へと進んだ。面白かったのは、全国の湖面蒸発の 研究、東シナ海における気団変質、森林や砂漠の水収支現象である。

1960年頃までは、陸面や湖面からの蒸発量は夏多く冬少ないというのが常識であったが、水深の 深い十和田湖で蒸発量を求めてみると、季節変化の位相は半年遅れることが分かり、大きな話題に なり新聞等でも報道された。現在では、この現象は常識となってきた。

砂漠での蒸発量は、乾燥してくると風速に無関係となり、土壌種類と大気湿度に依存することが 面白い。類似現象として、木材の乾燥過程、厚手の衣類の乾燥、干物やクッキーの乾燥・加湿の 現象に気づいた。

一方、古文書の分析から天保の大飢饉時代の異常天候の再現や、市民活動としての「氷山を日本に 運ぶプロジェクト」、「80日間砂時計の製作」にも熱中できた。

古文書の記述「暑く御座候、暑甚敷、難渋暑、近年覚無之暑気」から摂氏気温に換算する方法を 見出すまでに2週間ほどを費やした。夜も殆んど眠れないほど試行錯誤したとき、研究には体力が 必要なことを実感した。

80日間砂時計は、8時間計、24時間計、7日間計と作っていくのだが、24時間計になってから急 に難しくなり、砂時計のくぼみ「オリフィス」で砂詰まりが起きるようになった。砂時計は砂が 上側の砂だめから下側に流れ落ちる際に、これと逆に向かう空気の流れがあり、砂に働く重力と 空気の摩擦力の釣り合いが保たれる。

これは物理学の面白い基礎実験である。子どもも、物理学者でも面白い遊びや手品ができる。 砂時計の時間と気温の関係、高山での砂時計の時間、傾けたときの時間、真空にしたとき、等々。 砂時計に照明ランプを当てて、点灯と消灯を繰り返すと、まるで砂漠における日中と夜間の大気現象 が再現できる。

気象学会のシンポジウムが仙台で開催されたとき、私は24時間砂時計を持ち込み、実演とクイズを 出しながら講演した。砂時計という装置の中の簡単な現象についての理解なくして、複雑な大気現象 を深く理解することは無理だと、意味深そうな発言で沸かした。そのとき以来、私は学会で、 時々クイズを出して楽しんできた。研究とは楽しんでやるものだ。

3.気候変動の監視体制が危うい

地球温暖化によって地表面近くの気温が上昇していることが示されている。しかし、その上昇率の 数値に疑問を持った。大学を定年引退してから、実際に全国の気象観測所を巡回するうちに、 観測所の周辺環境が悪化していることがわかってきた。

資料解析の結果から、この環境悪化を止めなければ、今後の温暖化量の正しい評価が不可能に なってしまう。私がこのことを説明すると、理解してくれるのだが、環境悪化の防止の行動をとる 者はいない。気象学で生きてきた私が行動すべきと意識するようになった。

そうして始めた私の行動を困難にしていたのは気象庁の反応の鈍さである。各地において市民講座 を開催し、現状を訴え、住民の理解と協力を得る努力を続けた。重要な気候の観測所が設置されて いる地方に何度も出かけて説明を繰り返しているうちに、ようやく地域住民の理解が得られ、 協力してもらえるようになり、観測所周辺の環境改善が少しずつ進むようになった。

こうしたとき、京都府京田辺市のアメダス観測所の気温を観測する通風筒につる性の草が絡んで いたことが2010年9月6日に発覚し、新聞・テレビで一斉に報道され、気象観測が国民の大きな関心 ごととなった。これを受けて、気象庁が調べた結果、39.9℃という9月の国内観測史上最高記録が 取消された。雨量については京田辺を含む6か所で、観測値が取消された。私がずっと心配してきた ことが現実に起こった。

最近はコンピュータによる計算や衛星データを利用した解析などに多くの力が投入されている ものの、基本中の基本である気象観測そのものの基本に立ち返ることが少なくなってきている。

この京田辺アメダス事件は、私の活動にとって支援者を増やすこととなる。気象庁もやっと動く ようになり、私の観測環境の改善・維持の活動が軌道に乗りかけた。大志のもと、成し遂げなければ ならぬ一心で努力してきたことが報われる方向へと前進する。

私はこの事件を契機に、現役の教授や研究所の研究者、気象庁OBら専門家30名から賛同を得て ボランティア組織「気候観測を応援する会」を発足させた。全国に約20か所選んだ気候の観測所を 管理する地元気象台を指導・応援したい。これが私の最後の務めである。

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