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10.災害記録の石標を =近藤純正=

この短文は、2006年9月20日付高知新聞朝刊の
『所感・雑感』に掲載された内容と同じです。

気候変化のデータに注目している。この数年、伊豆半 島先端にある石廊崎(いろうざき)測候所のデータに わずかな異常が見えた。

これは無人化が原因ではないかと考え、さる8月19 日に訪ねたところ、それまで養生されていた芝生の観 測露場に雑草が生い茂っていた。

帰途、下田に立ち寄った。下田は1854(安政元)年に 開港され、日本で初めて米国総領事館が開設されたと ころである。

その総領事館があったという玉泉寺の資料館に安政の 大津波の記事があった。大津波はどこまできたか、住 職に尋ねると、高台の寺に登る階段の下から3段目ま で達したという。

安政元年には12月23日に安政東海地震が、 その翌日には安政南海地震が連発し、関東から九州ま で大きな被害があった。

そこで思い出したのだが、4年前の2002年1月初旬 に伊豆の歩き旅をし、伊東市の宇佐美城址(じょうし) に行った時ことだ。

城址の近くから階段を下っていくと、旭光山行蓮寺と 書かれた寺の庭に出た。庭から道路に降りる20段の 石段の上から3段目に「大正12年関東大震災つなみ 浸水地点」と刻まれた石標があった。目測すると、海 岸の防潮堤より約1.7メートル高い位置であった。

伊東市役所に立ち寄って聞くと、過去の津波記録が6 つの寺に残されていて、市内の数カ所に「つなみ浸水 地点」の石標を設置したという。

同じ2002年1月下旬、今度は四国遍路の歩き旅を紀 貫之邸・国府跡から始めた。第29番札所の国分寺を 経て、高知市大津小学校の校庭にある「貫之舟出の地」 の記念碑に立ち寄り、北の方に歩くと、大津ふれあい センターの入り口に、「大津地区水害記録碑」があった。

道路面から1.5メートルのレベルに「1972年9月15 日 国分川決壊最高水位」の線、さらにそれより85 センチ高いレベルに「1998年9月25日 集中豪雨最 高水位」の線として刻されていた。

JR須崎駅から200メートルほどの所にも「津波の碑」 があった。碑には宝永4年の津波(1707年10月28 日)、昭和21年の南海地震津波(1946年12月21日)、 チリ地震津波(1960年5月23日)では堀川を逆流し た高潮で大被害を受けた、とあった。

これら津波災害の誘因となった堀川は埋め立てられて、 市民の城山への避難道路となっていた。

最近は住民の移動も多い。そこで標柱のみでよいので、 過去の大災害の記録を各市町村のあちこちに建ててお けば記憶に残り、災害時に役立つと思う。標柱に刻む 文字は100年先まで読めるように。江戸時代につく られた道標がいまなお、各地に残っているようにだ。

昭和21年南海地震は早朝に発生した。筆者は海岸部 に住んでいた。

「津浪が来るぞ!」との声で高台のほうへ逃げたのだ が、小学校の教科書にあった「稲叢(いなむら)の火」 を思い出すと、もっと高い所まで避難しなくてもよい のかなと不安にかられた。その時、お年寄りから、こ のあたりにいれば大丈夫だと教えられた。伝承は参考 になる。

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