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9.片平時代の記念品と共に
ー片平から青葉山への移転30年にあたりー
=近藤純正=

これは、2006年6月発行の東北大学理学部物理系同窓会誌
『泉萩会々報』<第22号>に掲載された内容です。

入学時に理学部に所属していた私は、昭和30(1955)年4月、地球物理 学科3年生に進学した。これは高校生時代に、東北大学教授・山本義一著 「気象学概論」(1950年初版)を読み、決めていた進路である。後に、 この本は、1980年代まで日本における代表的な教科書として長く使われる 名著となる。

私が3年生に進学した当時、片平キャンパスの物理系教室の大部分は、 戦災で屋根や床が焼けたレンガ造りの残骸の枠組みに、床板などを張り 直したものだった。また、米ケ袋寄りの正門近くには3階建ての一部分のみが 新築されていた。

講義は、この新築の裏手(北側)にあった2階建ての木造と、床板を張り 直した旧レンガ造りの建物で受けた。他に、戦災を免れた測候所風の赤レンガ の建物が地球物理教室の一部としてあり、その2階の一部屋が4年生時代の 控え室であった。

測候所風の建物は、明治~大正時代に蚕糸業を営んでいた佐野理八が東北 大学に気象観測室として寄贈(1818)したものである。この建物の前庭の 気象観測露場には1955年ころまで百葉箱が残っていた。

日本では明治時代の 1880年代から生糸・緑茶は主要な輸出品となっており、養蚕と気象の関係が 密接なことを痛感した佐野理八は宮城県金山にも私設測候所を開設(1898) している。

時代とともに物理系の新しい建物は増築されたが、私はこの測候所風建物 が好きだったので助手時代の1967年まで、最後には1人で使わせてもらった。 この建物の2階へ登る階段窓には学問の象徴「ミミズク」のステンドグラス が飾られ、その隣には無色彩のステンドグラスがあった。

青葉山への移転後、 この赤レンガ建物は解体されるということで、これらのステンドグラス2枚 は取り外して、ミミズクの部分のみ青葉山に新築された8階建ての7階中央 広場の北側窓に飾った。なお、ミミズクのステンドグラスの写真は、 地球物理学専攻ウェッブサイトのトップページにある。

30年ほど前、物理系が片平キャンバスから新築なった青葉山へ移転した 当時のことを述べておこう。引越では、荷物が間違いなく各部屋へ届け られるように、色別の用紙に学科、部屋番号などを記入した。各教室から 代表者が出て、数回にわたる打ち合わせを行った。私は地球物理の代表 として手伝いさせてもらった。

青葉山に新築された建物は講義棟などのほか、本館は8階建てであり、 とても立派に見えた。2階中央に事務室、1~5階と6階の東半分は物理学科、 6階の中央部分と西半分が地球物理学科の地震学講座と海洋物理学講座、 7階が地球電磁気学講座と気象学講座、8階は天文学科となった。

この建物の東西の長さは約80mあり、廊下も広かったが、廊下と両側の 各部屋の間はパイプスペースとなっていたため、廊下は少し暗い感じで あった。それでも工学部の土木・建築学科の建物の廊下・トイレ・階段 よりはるかに明るかった。

ついでに指摘しておきたいのだが、 土木・建築学科の建物は、地震災害で避難する時に停電となれば、 暗くなり大変困ると思った。最近の有名な建物は風変わりな外観を設計する 傾向にあり、賞を受賞するそうだが、私は感心しない。建物は気候風土に 適し、実用的で管理・修理代の安いものがよい。

この視点にたてば、青葉山8階建ての新築はよいと思った。ただし、 手抜き工事か設計ミスによるものか不明だが、強風の大雨時に建物の東端に 近い7~8階北側の部屋に雨水が時々浸透してきて困った。ほかに間違い 工事もいくつかあった。大きな給水管の1本が途中で排水管と接続されて いて、水の使用量が過大であることから気づいたのである。

前述のように8階建て建物は東西80mの長さがあり、微風を測る風速計 の検定に利用した。皆が帰った深夜、7階の廊下の中空に針金をしっかり 張り、特性の小型タイヤ付き台車に微風速計を載せて、レコードプレイヤー 用のモータで引いた。検定には風速計が定常状態になるまでの助走区間が 必要であるので、廊下が全長80mもあったのは良かった。

時は過ぎて、理学部事務棟の南側に物理系などが移転する総合棟が建て られることになり、8階建ては化学科に譲るという仮の案があったので、 飾ってあったミミズクのステンドグラスは東北大学記念資料室に保管して もらうことにした。それと前後するのだが、物理系の記念品「メートル副々 原器」(日本国内の副原器)と、私が使用していた長尺(60~70cm) の計算尺も記念資料室に保管してもらった。

メートル副々原器は物理や地球物理の実験観測にとって非常に大切な備品 であった。太平洋戦争終結直前の1945年7月10日、アメリカの空爆による 片平キャンバス火災の中、物理学教室の林威先生が命がけで持ち出した 記念品である。

この話を生前の加藤愛雄先生(地球電磁気学講座の初代教授) から聞き、またその時、時代が経つとどうなるものかと心配されていたので、 私は保管されていた物理学科の佐川敬教授と相談し、メートル副々原器を 記念資料室に保管してもらうようお願いした。

なお、この備品番号がメートル副原器(日本に一つ)の番号と偶然にも 同じだったことから、加藤先生はメートル副原器と勘違いされていたが、 このことが後日明らかになり了解された。それゆえ、本稿ではメートル副々 原器と呼ぶことにした。

注: 実際に『泉萩会々報』に印刷された内容は、編集・印刷者の手違いから、 筆者の原稿の下書きが印刷されており、部分的な間違いがある。

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