54. 出雲大社と島根城ほか

近藤 純正

2005年9月13日、鳥取市から米子・境港へ行く途中、因幡(いなば) の白うさぎで有名な白兎神社へ立ち寄り、島根県島根半島先端の美保関町の 美保関灯台と美保神社を見学した。14日は出雲大社と島根城を訪ねた。

トップページへ 展示室案内へ


白兎神社
鳥取大学助教授の木村玲二さんの車に乗せていただいて、鳥取からアメダス など気象観測所の見学に向かう途中、「ここに白兎神社があります」 ということで立ち寄った。

海岸風景のよい場所であった。因幡(いなば)の白うさぎの話は私が小学校の とき学んだ物語である。案内板によれば、白兎神社は古事記、日本書記に 記されている由緒の明らかな神社であり、「大国様と白うさぎの神話で有名 な神社」とある。また、蒲(がま)の草も生えており、その説明板もあった。

白兎神社

白兎神社

蒲草
白兎神社鳥居のそばに生えている蒲(がま)の草

神話「因幡(いなば)の白うさぎ」
昔々、気多の岬に一匹の白うさぎが住んでいた。ある日、大洪水が起き、 白うさぎは沖の島へ流されてしまった。そんな時、ワニザメと 出合った。白うさぎは、ワニザメをだまして向こう岸に戻ろうと思い、 「ワニザメさん、君の仲間と私の仲間と、どちらが多いか比べてみようよ」 と言って、向こう岸まで並ばせ「一匹、二匹、三匹、・・・・・」と数え ながらワニザメの背中をぴょんぴょんと渡っていった。

もう少しで岸に着くというころ、白うさぎはつい 「君たちはだまされたのさ」と言ってしまった。怒ったワニザメは、 白うさぎの毛をむしって丸裸にしてしまった。

白うさぎが砂浜で泣いていると、大勢の神様が通りかかり、 「海水でその身を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山の上で伏せて いなさい」 といった。白うさぎは言われた通りにしたが、ますますひどくなるばかり であった。

白うさぎが泣いていると、こんどは大きな袋をかついだ大国主のみことが 通りかかり、 「御身洗(みたらし)池の真水でその身を洗い、蒲(がま)の穂に くるまって休みなさい」 と言った。その通りにすると、どんどん元の白毛にもどった。

白うさぎはとても喜び、お礼に美しい八上姫(やがみひめ)の所に 大国主のみことをお連れした。




美保関灯台と美保神社
境港市の北には境水道がある。細長い境水道は中海と美保湾をつないで いる。この水道に架かる境水道大橋を渡ると、島根半島の美保関町である。

島根半島を東に進むと美保神社を経て地蔵崎にいたる。この崎には 1898(明治31)年に造られたフランス風の灯台「美保関灯台」があった。 海抜73mから日本海のパノラマが広がる。展望台には隠岐の島が見えると 書いてあり、木村玲二さんはかすかに見えるという。 しかし残念ながら、度の弱い眼がねをかけていた私には見えなかった。

灯台と並んだ赤屋根の建物は灯台守の宿舎だったという。現在、宿舎の外観 はそのままで内部のみ改装されて、観光客用のビュッフェとして利用されて いた。

美保関灯台
島根半島東端にある美保関灯台(合成写真)

美保関灯台
美保関灯台と灯台守の宿舎(赤屋根)。宿舎内部は改装されて、 現在ビュッフェとして観光客に利用されている

眼下を見下ろせば、隠岐へ向かう船があった。北側の展望台から大山 (だいせん、標高1709m)が雲間にわずか見えた。

隠岐の遠望
(左)隠岐へ向かう船、右上に小さく見える のは沖の御前の灯台(望遠写真)、
(右)かすんで雲間に見える大山

美保関灯台からの帰途、美保神社に立ち寄った。観光客が多いらしく 旅館とみやげ物店が並んでいる。祭神は漁業、海運、商売の守り神(えびす様) と五穀豊穣の神美穂津姫命とある。

神社鳥居脇の広場には大きな看板が立てられ、「えびす様の総本宮 美保神社 大造営」の説明があり、事業総工費12億円(うち国庫補助金等5億円)、 浄財目標額7億円(第1、2期工事分)とある。私はこの説明中の「国庫 補助金」に関して気掛かりになった。日本国では、神社仏閣の造営・改修等 に国庫補助金を出費してよいのかな? 知らなかった。

美保神社
美保神社(えびす様の総本宮)

島根半島の遠望
島根半島東端の遠望、右端の地蔵崎に美保関灯台がある (米子海岸から撮影)



9月13日は米子で宿泊した。翌日の天気が晴れならば、バスで大山の大山寺に 登り日本海の景色を楽しみ、悪天候ならば出雲大社へ参ろうと考えた。 ホテルでもらった米子市街の観光案内書を読むと、米子には城址公園、 彫刻ロード、古い財閥の民家・後藤家(重要文化財)、防衛のために集め られた九寺が並ぶ寺町通り、などがある。さらに旧加茂川~中海遊覧船による 観光もできる、とある。そこで旧加茂川・内海遊覧をしたあと市内の散策 をしようと計画の変更をした。

遊覧船は京橋たもとの後藤家から北へ歩いて5~10分のところから10時に 出るというので、その時刻前に行ってみると、船頭がいた。「遊覧船は 出ますか?」と訊くと、「今日は異常に水位が高く、船が橋の下をくぐり 抜けることができないので運休です」という。

激しいにわか雨も降ったし、きょう一日はときどき雨模様のようなので 予定を再度変更し、出雲大社へ行くことにした。JR車内で観光パンフレット を見ていると、松江城はとても立派そうだし、城のまわりを遊覧船でめぐる 「堀めぐり」もあるらしいので、出雲大社から米子への帰途に松江城に 寄ることにした。

出雲大社
出雲大社は「因幡の白うさぎ」ででてきた大国主のみことをまつる神社、 縁結びの神社で有名なので一度は行ってみたかったところである。

観光パンフレットによれば、出雲大社について次のように由緒が書かれている。

「古事記」によると、高天原の天照大神(あまてらす おおみかみ)が出雲の大国主神に使者を出し、出雲の国を譲るように言いま した。大国主神の二人の息子のうち、兄(事代主命)は国譲りを勧め、 弟は戦いを挑むが敗れてしまい、大国主神は国を譲る代わりに大いなる宮 をつくることを望みました。そして建てられたのが出雲大社でした。
出雲大社鳥居
(左)出雲大社鳥居、(右)神殿への並木道

出雲大社
出雲大社

古代拝殿
(左)古代神殿の想像図、(右)古代神殿の心柱(実物大復元)

大国像
(左)ムスビの御神像=大国主大神が幸魂奇魂(さきみたま、 くしみたま)の「おかげ」をいただいて
神性を養われ「ムスビの大神」となられた像
(右)因幡の白うさぎの物語像

ムスビの御神像の向い側には、因幡の白うさぎの物語像があった。

因幡の白うさぎが泣いているところへ、大きな袋を担いだ大国主の命 (おおくにぬしのみこと)が通りかかり、「体を水で洗い、蒲(かば)の 穂を敷いてくるまりなさい」と教えている物語の像があった。 その像の脇には小学校のときの唱歌「だいこく様」の歌詞が建てられていた。

	大きなふくろをかたにかけ だいこく様が来かかると
	ここにいなばの白うさぎ 皮をむかれて赤はだか
		だいこく様はあわれがり きれいな水に身をあらい
		がまのほわたにくるまれと よくよく教えてやりました
	だいこく様の言うとおり きれいな水に身をあらい
	がまのほわたにくるまれば うさぎはもとの白うさぎ
		だいこく様はだれだろう 大国主のみこととて
		国を開きて世の人を たすけなされた神様よ 
(注)大国主神、大国主命と二通りの呼び方がある。神は神格、命(みこと) は人格を問題にした場合に用いる。



島根城と堀川めぐり
小泉八雲
1890(明治23)年に松江を訪れた文豪、本名ラフカディオ・ハーン。松江城 内濠の外に小泉八雲記念館と八雲旧居が並んでいる。それらの東方に武家屋敷 があり、堀川遊覧船からも見える。

小泉八雲旧居
(左)小泉八雲記念館、(右)小泉八雲旧居

松江城
案内パンフレットによれば、 別名・千鳥城とよばれる。1611年に出雲の領主・堀尾茂助吉晴が5年の歳月 をかけて完成した城である。全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の 天守閣がある。天守閣の平面規模の大きさでは2番目、高さ約30mでは3 番目、古さでは6番目とされている。城主は堀尾忠晴、京極忠高のあと、 徳川家康の孫・松平出羽守直正が信州松本から移封され、以来、松平氏10代 234年間出雲18万6千石を領した。

18万石の城にしては立派だと思った。受付で「天守閣に上る途中に日本各地 の天守閣の写真とその国の石高などが書かれていました。石高と城の大きさ は関係ないようですが、築城に際して幕府からの制限はなかった のでしょうか?」と質問してみたが、わからなかった。

松江城天守閣
(左)松江城天守閣、(右)天守閣から見下ろした庭

宍道湖
天守閣から宍道湖の眺め(合成写真)

堀川遊覧船
松江は水の都と呼ばれるように堀川が多く残されている。約50分間かけて 遊覧船でのんびりと堀川めぐりを楽しんだ。小雨であったが、遊覧船に テント屋根がある。堀川に架かる橋の下にくると、 テント屋根は自動的に下げられ、お客は体を丸めるなど背を低くして通り 過ぎた。

堀巡り1
堀めぐり1(左:大手前広場の船着場から出発する堀川遊覧船、 右:石積みの内濠の遊覧)

堀めぐり2
堀めぐり2

堀めぐり3
堀めぐり3(左:遊覧船はテントを下げて橋をくぐる、右: テントを自動的に上げ下げするモーター)

堀めぐり4
堀めぐり4(左:堀川遊覧船からの天守閣、右:武家屋敷)

トップページへ 展示室案内へ