29.貞山堀と野蒜築港跡

近藤 純正

2004年6月5~6日、伊達政宗(1567~1636)の時代から掘削工事を 始めた貞山堀と、鳴瀬町野蒜(現・東松島市)の野蒜築港跡を見てきました。 この日は入梅前の好天でした。

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貞山堀
62万石の仙台藩では伊達政宗以来、新田開発をつづけ、実際の石高は100万石 を超えたといわれる。仙台米を水上輸送するために、仙台湾沿いに、 阿武隈川河口の荒浜から松島湾の塩釜まで全長31.5kmの運河が掘られた。 貞山堀は海岸線から数100m離れて南北にのびている。 この工事は初代藩主・政宗の1597年から始まり4代藩主・綱村の1661年まで の64年間にわたって作り上げたものである。 この運河は明治時代に政宗の追号・貞山にちなみ貞山堀と呼ばれるように なった。

後述の野蒜築港計画に併せて、1878~1884(明治11~17)年には、石巻の 北上川から鳴瀬川に至る13.9kmの北上運河と、鳴瀬川から松島湾にいたる 3.6kmの東名運河が完成した。こうして、貞山堀と合わせて 北上川河口~松島湾~阿武隈川河口までの約60kmの水路網ができあがった。

野蒜から東名運河、松島湾、貞山運河、阿武隈川を経て福島県へ、 野蒜から北上運河、北上川を経て岩手県へ、野蒜から鳴瀬川と陸路を 経て山形県と秋田県へ通じる交通網が想定されていた。

遠藤剛人著「貞山・上北運河沿革考」を参考にした宮城県仙台 東土木事務所による説明板によれば、名取川~七北田川(ななきたがわ)まで の新堀は、明治維新後の土民救済事業の一つとして、1870~1872年に改修され ている。 水路の浚渫、開門の設置等が実施され、1889(明治22)年に竣工したが、 その時にはすでに野蒜築港は中止となり、鉄道も東北線が石越まで開通 しており、舟運の時代ではなくなっていた。

こうした土木事業の遺跡を訪ねることにした。
仙台空港ビルのすぐ南東側から蒲生(がもう)の七北田川に架かる高砂橋まで 自転車専用道路を7時間かけて歩いた。閑上(ゆりあげ)の名取川までの 区間は貞山堀の東側、名取川から蒲生(がもう)の七北田川までの区間は 貞山堀の西側を歩いた。


仙台空港脇の貞山堀で練習する東北大学漕艇部

東北大学漕艇部艇庫

飯塚大橋付近

閑上(ゆりあげ)の遊歩・サイクリング道

名取川南岸より対岸に続く貞山堀を望む

閑上大橋から名取川河口の遠望

名取川からすぐ北へ進んだ場所

貞山堀で釣上げたスズキ

閑上(ゆりあげ)と荒浜の中間

仙台市乗馬協会の女性たち

貞山堀と直角に交わる二郷堀(愛宕堰に至る)

貞山堀を遊泳するカルガモ

荒浜付近

貞山堀に並行する松並木の遊歩道

石積みのない護岸

蒲生の高砂橋から七北田川河口の遠望


野蒜築港計画
明治政府は東北地方の開発のために現在の宮城県鳴瀬町野蒜(現・東松島市) に近代的な港湾と、運河による交通網の整備を計画した。 これは国家による日本最初の近代港湾建設事業である。

野蒜港の工事が1879~1882年に行なわれたが、第一期工事が落成してまもない 1884(明治17)年9月、台風の襲来により突堤が崩壊してしまった。 このことが第二期工事を行うことなく野蒜築港計画は中止となった。
野蒜築港計画と併せて1881(明治14)年7月に野蒜測候所で 気象観測が開始されたが、1887(明治20)年8月に野蒜測候所は宮城県に 移管し、石巻に移転することになった。

鳴瀬川河口の右岸(西側)と左岸(東側)を訪ね、当時の護岸など 構造物の一部を見ることができた。


JR仙石線から吉田川(右)と鳴瀬川(左)を望む

鳴瀬川の河口、右に野蒜海水浴場が続く

野蒜海水浴場、遠方は宮戸島

野蒜築港跡の碑(1884年建立)

野蒜築港跡の碑(土木学会推奨遺産2000年建立)

野蒜測候所跡の碑

北上運河

鳴瀬川の河畔ヨシ原の日暮れ

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