『21世紀の黙示、輝く叙情』展
萩 駿の世界 (その1)
オプティカル・アート時代(1970-1972) 比良美術館 館蔵
叙情(抒情)とは感情をのべあらわすことであり、因みに詩の世界にも叙情詩と叙事詩、劇詩の三大部門があることは、よく知られている。
そこで、蛇足ながら見どころの、いくつかを紹介すると、たとえば
当然、他の芸術においても叙情は欠かせぬ要素である。なぜなら、「感情」は、「知性」と共に人間の精神活動の根源に属する最も「主観的な作用」だからである。更に云うならば「感情」は「知性」よりも一層、根源的、本能的な精神作用と云える。
この「感情」は、「主観的」「個別的」でありながら、万人共通の「普遍性」も持っている。たとえば喜怒哀楽の感情や快、不快の気分は個別的に差違はあるにしても、本質的には時代を越え人種、民族を越えて共感される「普遍性」をそなえている。
ところが一方、時代環境の変化により、人間感情の内容が、より複雑化する部分が生じることは否定できず、それに応じて表現手段も多様化せざるを得なくなるのも事実である。内容と手段は、不即不離の関係にあるからである。
古代、中世、近代、現代、と時代の経過に伴って感情内容、表現手段に変化が見られるのは当然である。
特に近代の浪漫主義が芸術の分野で、感情優先、感情過多に走ったために、その反動として感情否定の風潮が生れ、理知的、機能的な美がもてはやされるようになったのが二十世紀の特徴と云える。そこには、機械文明の時代的背景の影響が当然、指摘できる。抽象美術、機能重視の建築、十二音階音楽、無調音楽などに、それが現れている。そして、これが二十世紀末に一つの限界に達したのも事実である。
そこで、よく考えて見れば「感情」も「知性」も人間のそなえていなければならない根本的資質の両翼であって、いづれか一方に片寄ることは芸術の片翼を失うことになってしまうだろう。
だから新しい世紀を迎えるに当って、心すべきことは、もう一度、人間が自らを見つめなおして、新しい時代にふさわしい「感情」と「知性」を掘り起こして、その両立を図ることが二十一世紀に期待される芸術手法ではないかと思うのである。
こう云うコンセプトで、新しい叙情を表現している作品を展示して、皆様方のご鑑賞、ご批判に供した次第である。
現代社会の生み出した機械部品の鉄クズを再生して、実物以上に生き生きとした小牛や、格闘技を演ずる二人の闘士を象徴的に活写して現代的ユーモラスを漂わす作品(堀口 研介)。厚ぬりの絵画にコラージュや引っかきをほどこして、遇然性の叙情を語る作品(西田 周司)。白い画面に適切な黒のタッチで禅味を感じさせる作品(川口 和彦)。画面とその保護プラスチック板を一本の非連続線で一体化し、すれ違う感情を造形化した作品(迫畑 和生)。プラスチック板に白黒の直線で円形を浮かび上がらせ、観者の移動で視覚にモアレ現象を起させたり、形を消したり見せたりして視覚の本質を詩的に問いかける作品(萩 駿)。など
足跡残してください。
aaatnk@aaa.email.ne.jp
までお願いします。