サハリーニャ・プロトタイプ01


 珠恵はみんなにさよならを言うことはできなかった。
船に乗り込む前、港には彼女の知った顔がたくさんあった。竹本の「おにいちゃん」の家族、亡くなった交換の寿江さんのご主人と子供、この二家族は次の船に乗らなければならなかった。他にも近所の人たちがたくさんいた。うちはこの船に乗ることができて幸運だった。
 でも御園さんの家族はいなかった。父親が「みんな朝鮮に殺された」と言っていた。信じられなかった。信じたくなかった。とくに、「朝鮮」の中に、わかなちゃんや、わかなちゃんのお母さんも数えることは絶対できないことだった。
 落合橋を渡ったとき、川原に軍服の人が倒れているのを見つけた。御園さんのおじさんだ、と父親が言った。「あの人じゃ無理もないよ」
 軍人の悪口を一言も言わなかった姉が大きな声で言った、「怒ってばかりで、嫌な人だったものね」「アッチ(私)も嫌いさ。いい気味っしょや」と千代が賛成する。
珠恵には何もかも信じられない。御園さんは好きじゃなかったけど、御園さんのおばさんはいい人だった。御園さんのおじさんが映画館の前で珠恵を捕まえ、珠恵の背の高さと前髪の微妙な茶色を指摘して、「露助(ロシア人)」と罵ったことがある。返答しない珠恵に憤慨し、珠恵の髪の毛を引き抜こうとした。その時御園さんのおばさんは、自分の髪を何十本か引き抜き、夫に差し出して、「ほら、同じでしょう。日の光の加減よ」と言った。必死に諭してくれた。不承不承道を戻る夫を誤魔化しつつ、おばさんは一度だけ珠恵を振り返った。珠恵が頭を下げようとするまえに、御園さんのおばさんは小さくかぶりを振った。
 おばさんが殺される理由はない。そして、わかなちゃんが人を殺すはずがない。そんなことは全部嘘だ。珠恵には何もかも信じられない。
 家を出るとき、「わかなちゃんも行くんだよね」と誰にともなく尋ねた。「行くはずないっしょ」と姉が言った。「どうして」という質問にはだれ一人答えなかった。「ねぇ、わかなちゃんは」と何度も聞くと、母親が「うるさいね!」と叱った。
 船に乗るまで珠恵はわかなちゃんを探していた。来ているはずはなかったのを本当の意味で知ったのは北海道に渡って少し経ってからのことだった。タラップの手前で依然わかなの顔を探していた珠恵は、母親の大きな声で、捜索を中止した。「敷香の親戚の娘なんですよ、本当に」と母親が言っていた。
 千代のことだった。係のものは「名簿が一緒じゃないから今一緒に船には乗れない」と言った。「その娘はあっちで親が来るのを待つように」と。千代は親戚でもなんでもない。うちとはなんの関係もない。千代には家族も親戚もない。うちの隣の廓の女の子だ。ただの珠恵の喧嘩仲間だ。珠恵は千代に対しては始終「後家、後家」と言って囃し立て、千代は千代で「露助、露助」と珠恵を呼ぶ。でもそれは憎しみではなく、友情と言えるものだった。二人が猫のミケの墓を作って拝んでいるのを見た人は誰も、姉妹のように感じたはずだ。 両親は不思議にも、そんな二人をあえて引き離そうともしなかった。
 家の前で千代を見かけたとき、父親はしばらく考えてから「おいで」と言った。千代は無表情のままついてきた。母親が、持っていきたいものはあるかと尋ねたが、千代は「アッチない」としか言わなかった。
 その千代が船には一緒には乗れないと言われた。「名簿が一緒じゃないから」と。どんな名簿にも千代は載っていないだろう。父親が千代を連れていこうとしたのは、全くの善意でしかない。少なくとも珠恵はそう考えている。これ以上千代を同行させるのは、不可能だったろう。気がつくと一家はタラップを進んでいた。何本もの腕が伸びて一家の背中を強く押したからだ。それに怒声が混じった。父親が振り返った。「誰か姉さんが来るから…」それは、慰めにしか聞こえなかったろう。珠恵は千代を見た。千代も珠恵を見ていた。千代はそれ以上開けないほど大きく目を瞠いていた。珠恵はタラップが尽きるまで千代を見ていた。そして千代は視界から消えた。
 ごった返す甲板の上で、多少なりとも移動することは困難だった。珠恵は千代の姿を見たいと思ったが、到底できることではなかった。しかし千代の声は聞こえた。千代は泣き叫んでいた。何と叫んでいるのかは聞き取れなかった。珠恵は震えた。「どうせアッチは…」そう聞こえた。「どうせアッチは…」傷がついたSP盤のように、千代は何度も何度も繰り返していた。珠恵はただ震えるだけだった。
 船が出港するとき、人々の声が一時大きくなり、千代の声もかき消され気味になった。が、珠恵にはずっとずっと聞こえていた。港が水平線に没しても聞こえていた。珠恵は彫像のように凍りついていた。動くことがタブーのように感じられた。しかし涙は流れようとしなかった。父親が一言だけ珠恵に言った。「お父さんには、もう無理だったんだよ、珠恵」それは珠恵にも分かっていた。

 珠恵が千代のことを思い出して泣いたのは、札幌で初めて布団に寝た家、夢を見て目覚めた深夜のことだった。「千代の夢を見た」という珠恵を慰めたのは、父親だった。珠恵の覚えているかぎり、父親がそのようなことをしたのはこの時が最初で最後だった。「札幌にいたら、いつか、必ず会えるから」と。ずっとあとで次第に分かってきたことがある。父親は千代の素性を知っていたらしいこと、もしくは千代の肉親か親類を知っていたらしいこと。しかし、詳しく聞きだす以前に、父親は世を去った。
 常は厳格な父親が「寝なさい」とだけ言い残して、少し離れた布団に戻っていった。しばらく背中をさすっていてくれた母親の手も止まり、また周りの人々の寝息だけが聞こえるようになっても、涙は止まってくれなかった。
 珠恵は泣き疲れて、悲しくて、胎児のように丸くなった。