メランコリア <迷図1>

迷路のような部屋に住めたらいいと思ったのは、もっと子供の頃だ。

ちょうど眠りを妨げる量のアルコールのせいで夢を見たままずっと起きていることになる。
経験のある人なら分かってくれるだろうが、そういう類いの夜明け前は、

 「俺だけが世界でたった一人、掘り出されてしまった蝉の幼虫のようにもがいているんだ」

それ以外の感じ方をすることなどなくなってしまうのだ。
どうしようもなく悲観的になってしまった俺は、とうとう、古式ゆかしい入眠儀式を執り行うことにする。
まず利き腕でないほうの腕を内側回りに約30度、反対回りに約60度ひねってから一度肩側に押し込み、
一気に引き抜き、頭の下に持ってくる。
上手くいった。

泰山府君に基づくこの方法だとほとんど痛みがないことは証明済みだ。
それから仰向けになりIDとパスワードを唱えようとしていたまさにその時、爆音、衝撃!
サイドワインダーが俺の寝室の尾部を直撃した。外した腕の断面のわずかな放射熱を感知したに違いない。
通常であればロックオンされた120mm秒後に屋上の鳩舎の扉が開き、600羽の伝書鳩が飛び出し、
赤外線ホーミングに原始的/幻視的な目くらましをかますことになっているのだが、
この寝室がちょうど中立地帯上空を巡航中で、鳩舎への送電が運悪く途切れていたのだ。
寝室に接する隣のトイレがぶっ飛ばされてからようやく、セコムのセキュリティ・システムが告げる。

 「ロックオンされました。敵機の国籍は不明です」

俺は舌打ちしながら羽毛布団を跳ね上げ、襖を開けて廊下に飛び出す。
嵌め殺しの窓から未明の空をバックに鳩が見えた。被弾した衝撃で鳩舎の扉が開いたのだろう。
ラッキー。これで数分のあいだ、態勢を整える余裕を稼げる。
リビングに駆けつけるとまず、セキセイインコの鳥カゴをチェックしなければならない。
トトとノンが暴発行動をしているが、幸い負傷はしていない様子だ。
鳥カゴごと慎重に、しかし手早く、超合金仕上げのパニック・ルームに放り込む。
少しだけ連れ合いの安否が頭をよぎるが、どうでいい、と思う。彼女は大人だから。
あいつはあいつでなんとかするだろう。女のほうがこういうときには勇猛になりうるのだし。
被害状況を確認しようと、最前部のコントロール・ルームに向かう。
飛行には差し支えないものの、高度と速度が落ちていた。失速の心配はないようだ。
携帯で会社に電話する。当然この時間帯は留守電にセッティングされている。

 「クリです。申し訳ないですが、ちょっ熱があり、ちょっと39度ほど熱が出て、
  風邪だと思うんですが、今日だけ休ませてもらいます。…猪野さんに伝言です。
  午後一でスクリャービンさんのアポが入っているんですけれど、
  カンプだけ受け取って、話は後で、と伝えて下さい。
  そいから、昼飯の電話番、交替して下さい。悪いね!」

…そうだ、ホントは今日中に決定しておかないと、納期が危ないんだ。クソッ!
泣いてもらおう。事が事だけにきっと許してくれるだろう。有事ということで。

電話を切る。テレビをつけてみる。ちょうどテロップで流れている。
「この衝撃による津波の心配はありません。」
よかった、一安心だ。ロレンスからメールが来ている。

 「美沙子が、赤ん坊はおまえの子だと言っている。
  俺はそれでもいいと思っている。おまえはどうだ??
  俺は死ぬまで…」

そこまで読んで暴力的に削除する。知らねぇよ。廊下に戻ってクリック。
どうも身体が右に傾くと思ったら、保守的に思い出した。左腕を外したんだった。
滴り落ちるほどのアドレナリンのせいで気がつかなくなってしまっていた。
…眠れるだろうか…???

枕の位置を直し、首に負担を掛けないように動物的に調整する。
なんだかいやに胸騒ぎのする夢を見ていたように思うけれど、それ自体が夢かもしれない。
アルコールの血中濃度も降下したとみえて、胸を撫で下ろさんばかりに安堵する。
鳩が一羽、寝室の窓の外に舞い降りる。
トイレに行ったほうがよい、と、120mm秒だけ考えるけれども、
じわじわと迫り来る睡魔のほうが十戒の数倍も貴重だ。…ダイジョーブだ。
トイレはどうせ、砂漠の上に粉々にばらまかれて跡形もないんだし。
美沙子の匂いがしたように思えて、少しだけ瞼を持ち上げてみる。

誰も、いない。

まるでうで枕をしていたかのように伸ばしていた左腕を、布団の中にしまい込む。
まるで誰かの頭が載っていたように痺れていた左腕は、氷のように冷たくなっている。
トトとノンが鳴き始めているが、俺には、心地よい子守歌だ。
瞼を持ち上げてみる。まだ持ち上げてなかったように思うから。
破壊された剥き出しの寝室から物憂い夜明けの光が見える。

眠れる…。迷路のゴールが見える。
津波の心配はない。
Kuri, Kipple : 2004.05.07


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