スティーヴ・ゴッドの短くも幸福な人生〜神業とかみさんの日々〜

The Short Happy Life of Steve Godd with his Ol' Lady


 彼の両目が平均の1.5倍は左右に離れていた原因は、主にコカイン中毒に由来していたが、LSDの幻覚のせいだ、という説もあった。
しかし、彼が、背後の13音階の銅鑼をシャッフル気味の64分音符で、振り返らずに正確に叩けたのは、その視角が270度もあったからに他ならない。
それは幻覚ではない。他人の幻覚を実感することはかなり困難であるし。
 スティーヴ・ゴッドの眼球はもともと、「左右に張り出して」ついていたのだ。
 悲しきかな人間には、「潜入感」いや、「先入観」という悪弊があり、スティーヴが斜に構えて片目で自分を睨んでいるのが、
ただ「彼はプレイするとき以外はほとんど両目で立体視しない」という理由にたどりつくことができなかったのだ。彼が270度の広角立体視をもって鬼気迫るプレイをすると、かなりの疲弊を呈したという。

 彼は想像を絶するほどの売れっ子だった。その忙しさたるや、6日間で世界を創造するより厳しいものだった。彼は7日目に休めなかった。
数時間だけスケジュールを取れた、なんていう契約はザラだった。すべて一発録り。
信じられないだろうが彼のレコーディングは毎回、「初見」で本番なのだった。
一度などは、リズム込みのユニゾンのリフ・6分もの(正味6分。3分3分ではない)を初見でやった。
32分音符ひっかけ多発の後、16分の17拍子3連混ぜ〜の60小節アドリブ付き、イントロと酷似するがいやらしく微妙に異なるエンディングの曲、これも初見で一発録りした。
また、180小節分のサックス・ソロのバックでは、ギターの奴に曲の途中で耳打ちし、171小節目で起こしてくれと頼んでは、寝ながら叩いていた。
このとき彼はなかなか目覚めなかった。熟睡だった。だから、この曲のサックス・ソロの終わり間際に聞えるちょっとずれたシンバルは、ギターが叩いたものだ。

 50分だけアポを取れたレコーディングというものもある。依頼側がいくらギャラを積んだものか、このときはなんと75分のレコーディングをやりのけた。
「50分で75分のレコーディング」だ。神業としか言えない。彼の手数の多さが自ずと知れようというものだ。しかしそれも序の口。
 一度彼がレコーディングのためだけに、ほぼ3時間半だけ日本に滞在したことがある。成田着14:20、同日成田発18:00。
その間に彼は六本木のカルフォルニャーというスタジオで収録を終えている。それも「A」と「F・K」のアルバム「2枚分」のリズム録り!
伝説では、ゴッドはこの2枚のドラム録りを、同時に叩いた、と言われる。右半身と左半身で。

 人間は、右手一本だけで、ハイハットとスネアとシンバルを叩けるのだろうか? そしてそこにテクニカルなおかずを潜り込ませることは可能なのか?
また、左足だけで、バスドラタラララキックと絶妙チャカシキハイハットペダル調節ができるのか? 彼は手足以外に何を使ったのだ?
そしてそれを、左右同時に、別の曲としてプレイすることが物理的、いや神話的でもいい、可能なのか?
 ゴッドなら、可能だ。
あれだけ目が離れていたならば。

 余談だが、このときのレコーディングは、会計士と顧問弁護士の二人と打ち合わせをしながら行われた、という噂がある。
いくらなんでもそれはデマだ。当時の公認会計士が後ほどのインタビューで応えている。
「まさか! スティーヴは数字と法律には弱いんだ。数字に強かったら割り切れない7連符など叩けないし、法律に強かったら強いコカインもやるはずがない。日本のダウンの覚醒剤のほうが理にかなっているからね。彼は単にいくつかの質問をして、いくつかの指示を与えてくれただけさ。神じゃあるまいし(笑)」
ちなみにこのときやはり同席していた彼のパーソナル・ドクターは、
「ベストテイクさ。頭ぞろいの5拍子と4拍子の絡み、大地から静かに鳴り響くミニマル的な23小節サイクルのバスドラ、脈拍は64で安定。
事務的な会話に時折挿入されるラテン系の笑えないジョーク。多少の巨赤芽球の発現も坂本九には及ばない。それ以外は記憶にないね、済まない」
と述べている。坂本九のあたりは真意が不明だ。「キュー」だけなのかも知れない。さらに続けて、
「レコーディング? さあ知らんなぁ。ただ彼の眼球が左右別々に動いていた事実は、カルテに記載したよ。ロボトミー? あり得ない。
聖なる大便! 絶対的に否! だって彼は、8歳の頃から麻酔が効かない体質になっていたから。オペなど無理な話さ。彼のかみさんに訊いてみな」
「聖なる〜」の部分は意味不明。
 そう、「かみさん」だ。ゴッドは神よりかみさんを愛した、と言っても過言ではない。

 彼は「マイ・ワイフ」ではなく「マイ・オール(ド)・レイディー」という言い方を使った。
ブロンクスの通りで寝ていた彼が、リサイクルのボロ布と間違われ、危うく収拾されそうになったことは有名だ。
その彼を救ったのが「かみさん」だ、と彼は言う。「俺がパッチワークにもされずにスティックを握れるのはかみさんのおかげ」と。
「かみさんのミートローフは西側じゃあ最高さ。この尻っぺたを両方、賭けてもいい、最高さ」彼はことあるごとにそう言った。
彼は、東側には核とオリンピック選手は作れても、ミートローフを作ることができないことは、知らなかった。
「音楽? とんでもない。俺がなんのためにこの世に生まれてきたか、それはかみさんのミートローフを食うため、それしかない。かみさんは俺の舌を知り尽くしてるのさ」彼はそう言って穏やかな微笑を浮かべた。
「神よりも、俺自身よりも俺のことを知っている人物、それがかみさんだ。のろけてる? それはかみさんに会ってから言ってくれ」しかし…。

 しかし、彼の親しい友人の誰一人として、彼の「かみさん」の名前さえ知らなかった。
普通のアメリカ人ならば「my wife」とさえあまり言わないしましてや「my ol' lady」などという言葉も使わない。単純に名前を使うのが通例。
誰に訊いても彼の「かみさん」の名を知らなかった。訊ねると彼はただ「レイディーさ」としか答えなかった。そして誰一人、かみさんに会ったことのある者もいなかった。

 彼の「かみさん」は、彼の空想の中にしか存在しなかったのかもしれない。いや、彼の思い出の中、であったのか。
「俺はピアニストになりたかった」六本木のヘンリーで飲むと彼は決まってそう言っていたものだ。
「俺はドラム譜以外はからっきしダメなんだ。ああ、音符はハイスクールのときにやりかけた。Cから始めて、Fで終わっちまった。F#で躓いたのさ。
「ギターもベースも、ラッパも自分で運べるだろ。でもドラムは一人じゃあ無理なんだ。素人はよくスティックとキーだけ持ち歩いてたりするが、ありゃ最低さ。フルセットを運ぶ筋力を身に付けなきゃプロとは言えないんだ。
「俺のタムが徐々に増えていったのは、俺が筋トレを重ねた結果、なのさ。音楽的な必要に迫られて、じゃあない。ここだけのはなし、俺はスネアひとつで、タムの振りした音も出せるんだ。シンバルの真ん中でカウベル、リムショットでウッド・ブロックの音、スネアのスプリングで二胡の音も出せる。だからフルセットなんかほんとは要らないんだけど。でもそれじゃあ見た目に貧相だろ?
「そんなことはどうでもいい。どんなに総重量が重くたって、プロのドラマーはドラムを持ち歩く、そう言いたかったんだ。でもピアニストは、ほとんどだが、自分のピアノを持っていかないんだ、そうだろ?
「ギタリストとベーシストとくにエレキの奴等は、慢性の肩凝り。サックスは禿げる。そして俺たちドラマーは筋肉痛。なのにピアニストだけは健康体。自分の楽器を持っていかなくていいからさ。
「信じられるかい? ピアニストは手ぶらでどこにでもいけるんだぜ! 俺はピアニストになりたかった」
 そして彼は遠い目をして呟いた。「いつか、かみさんに、とっておきの曲を作ってあげる。それが俺のたったひとつの望みさ」

 いつのことからか、彼の「重たい」ドラミングが、「もたつき」に変わっていった。関係者は陰でこそこそと、「歳か…」と噂した。また、薬のやり過ぎとも言われた。
しかし、このころから彼が、「かみさん」の話をしなくなったことに気づいた者は、数少ない。
 それは日本のスーパーアイドルデュオの新曲『カメレオン・ネービー』へのゴッドの参加が、彼のどたキャンで幻と消えた頃と時を同じくする。
彼の謎の発言、「こんな視角の目を持ったことには感謝する。でも、見たいものが見えなくて、見たくないのに見てしまうってことも、あるのさ…」は、彼のかみさんの不倫を臭わせているものではないかと話題になった。
それもかみさんが存在していたとすればの話だが。
 とにかく彼は、もたつくようになった。これはドラマーにとって死活問題だった。徐々に彼のドラミングは、聞かれなくなっていった。
ロック界ではポルカロのほうのスティーヴが事故でこの世を去り、素晴らしいドラミングはほぼ打ち込みサンプリングへと取って代わり、人間のドラマーは数えるほどしか存在しなくなっていった。
 スティーヴ・ゴッドのプレイが聞けなくなってからほぼ7年、彼のベスト盤がリリースされた。それは素晴らしかった。脂の乗った彼のスティック捌き、ブラシ捌きが、リマスターで流れた。
そのCDの中に1曲だけ、未発表曲が含まれていた。それがあの有名な『My Ol' Lady』だ。

 それはたった54秒の、いわゆる「レアテイク」だった。神懸かってはいるが静寂を表現するドラムと、前半のフォーレを彷彿とさせる緩やかなピアノと後半のリストが乗り移ったようなピアノ、そして、微かに聞える祈りのごときボーカルからなる、超絶曲だった。
誰一人、その歌詞を聴き取れなかった。しかし、この曲の注目すべきことがらは、「この曲は彼のアドリブ/スタジオ・ライブである」ということだ。
 サビは、フーガ仕立てのピアノと、無限上昇音階を打楽器で表す技法、これにカズーが重なる。まるでそれは、バッハそのものだった。
ラストの約12秒は、これらすべてが複雑に、有機的に絡み合う。ドラム、ピアノ、カズー、ボーカル! それも「スタジオ・ライブ」でだ。
誰もがそれを信じなかった。ミュージシャンにありがちな一種のジョークだろう、と。(しかし後々、このレコーディングの際に同時収録されていたビデオが発表され、真実が証されることとなる…)
 そしてまた、4年の月日が流れる。彼の名を知るほとんどの者は、ゴッドは死んだ、という憶測の情報を半ば信じていた。唐突に、インターネットに彼の噂が飛び交った。登戸の小さなスナックで、アップライトのピアノを弾いた、と。美しいブルネットの女性と一緒だった、と。
さらにほぼ6ヶ月。なんのプロモーションもなく、ミュージック・ショップの店頭に1枚の新譜が現れる。

 ゴッドだった。
タイトルは『Duo Trios』 彼の妻との共演だった。音楽界と彼のファンは驚き震えた。そして収録された曲を聴いて絶句した。それは神の領域の音楽だった。
彼はピアノだけ弾いていた。そう、彼はF#の呪縛を解いたのだ。そして彼の妻「かみさん」が、「ドラムを叩いていた!」
1曲目の「With Your Eyes Wide-open」からラストの「Monkey-see Monkey-play」まで、繰り返し現れる主題。リスナーはその旋律に戦慄した。
まさしく「Godd / GOD」であった。
 短いライナーノーツ。彼の妻は14年前に失明していた。彼が音楽界から遠ざかることとなった理由は、それだった。しかしそれからの日々、彼は一切の薬を断ち、ピアノを学び直し、彼の妻は失明を克服してゴッドにドラムを教わったのだ。
そして生まれたのが『Duo Trios』つまり二人の三重奏。三つ目の楽器は何なのか、一人ひとり考えて欲しい。ちなみに彼の最近の視角は、88鍵分の範囲しか必要としなくなったため、大幅に狭くなっていた。従って彼の両目は、ほぼ人並みにまで近寄った。コカインも止めていたし。
 また、彼がピアノをプレイし出したということは、F#の呪縛を解いただけではない。それは彼が「ピアノを担げるようになった」ことをも意味する。彼は特注のスタインウェイを担いで移動した! 時間というものは凄いものだ。
 彼の筋力、特に瞬発力は破壊力と紙一重だった。何度も弦を切断し、鍵を粉砕した彼のために、ピアノのかなりの部分はカーボン・ナノチューブで作られていた。最も困難を極めたのは、金属弦の音に近づけることだったと言う。それについてゴッドはこう言う。
「楽器は楽器さ、ドラムもピアノも打楽器だしね、あまり大きなことではないよ。それより、ほら、これだ、食べてみな。あれから東=ソ連も崩壊し、このミートローフが西側一じゃなくって世界一だってことが判明したよ、書いておいてくれ。そのまえに食べてみな。…そうだなー、俺がこの10年で学んだことといえば、目が見えても見えなくても、ミートローフの美味さにはなんの変わりもないっていうことかな。そうだろ、俺のレイディー」
彼は隣にいるかみさんを引き寄せ、優しくキスした。

   クレジット。All titles were composed and performed by Steve Godd and Leida "Leidy" Godd
かみさんの名前は「レイディー」だった。

Steve "Gadd"に捧げる
Kuri, Kipple : 2003.07.15

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