〜空を翔べたら〜に見る現代

 まずはとよくらさんのページ "福永武彦研究『夢のように』" の中の、「〜空を翔べたら〜」をお読み下さい。私の文章はとよくらさんのこの短編を基に、自説を述べさせていただいています。作品は作品として完結すべきであって、本人の補足は蛇足であり、ましてや他人の解説など、無用の長物です。私はただ、利用させていただく、という「ずるい」方法を取っただけなのです。だからこの文章によって、あなた自身の解釈や感想に影響を与えることは本意ではありません。
 必ず先に「〜空を翔べたら〜」をお読み下さい。
 私がこれを書くのは、日本の、または世界の危機を感じているからです。あと17ヶ月で21世紀がやって来ます。しかし私たちはいったい「20世紀はよかった」と年を越せるのでしょうか。私にはそうは思えません。そしてその責任は私たち自身にあると考えるからです。

○名付けることの罪

 「私」は、病院に入院しているある人物を見舞う。受付の書類に「友人」と書くか「親友」と書くかで少し迷う「私」。これは非常に微妙な問題である。もちろん建前としての書類にはどう記入してもよい。もし記入欄が選択式に用意されていたらどうだろう。「不倫の相手」とか「仕事上だけのつきあい」あるいは「尊敬している上司」「信頼できない同僚」とあっても、私は「その他(知人)」と記入すればよい。人は他人と付き合うときに、対象を「単なる友人」であるかあるいは「友人以上恋人未満」などと定義する必要はない。対象を定義する、ということは、対象についての理解を大部分放棄することだからだ。
 恋人を名前で呼ぶことを最後までしなかった女性を知っている。どうしても呼びかけに必要なときは「あなた」と言った。理由は「名前で呼んだら、あなたではなく、あなたの名前を愛してしまうから」だった。今ではその意味が非常によくわかる。名付けることは「楽」なのだ。何より話がしやすい。しかし名付けることは、それ以降も対象を理解する努力にとって、妨げになってしまう。
 こうして人は容易に「名付けて」しまう。「定義して」しまう。楽だからだ。考えなくてよいからだ。
 「私」は受付の場ではまだ迷っている。その光景を見ている医者の存在がプレッシャーとなったのだろうか、"とりあえず"「友人」として記入して入っていく。

○地下にある病室

 「私」は彼の病室に案内される。まず「エレベーターを降りてまっすぐ歩き」「鍵の掛かった」部屋に入る。「部屋には高い位置に窓が一つしかなく、昼間だというのに蛍光灯がこうこうと灯っていた。」
 つまり病室が地下らしき高さにあること。心理学的にはもちろん、これが表面的なものではなく心理の深層に関わるものであること、を示唆する。鍵が掛かっているのは、それが抑圧された心理だからだ。「彼」はおおっぴらにはしてはいけないもの、であり、隠さなければいけないもの、である。危険なものなのだ。鍵は「彼」のためではなく、こちらがわの者にとっての安全を保障する。
 それではそんなに危険な「彼」とは何者なのか。また「私」は何故「彼」に会うために地下に降りていくのか。「友人」と話がしたかったからか。ただ顔を見たかったからか。「彼」は「やあ、本当に久しぶりだ」と言う。つまり「私」と「彼」はしばらく会っていないのだ。最後に会ったのはいつなのだろう。私にはそれが十代のころに思える。すなわち、人が成長し、もはや子供ではなく、外部からの強制であった「汚い、権威を振りかざす存在としての大人」を自己に取り込む必然性に気づく年ごろ。私にはそう思える。それ以来「私」は「彼」に会わずにきたのだ、恐らく。「私」と「彼」は四六時中話し合っただろう。夜更けも、深夜も、夢の中でさえも。

○死んだ魚が翔ぶことの意味

 「彼」は「私」と二人きりになった病室で、「生魚」を取りだし、「魚が空を翔ぶ理論」を述べ始める。「魚」は、グノーシス主義などに見られるように、イエス(キリスト)の象徴とされることが多い。では復活するはずのイエスなのか。ここでは何でもよいと思う。問題は…。
 「でも、この魚が翔ぼうとした時には、その魚は生きているという事なんだよ。」と「彼」は言う。生きているか死んでいるかは、心臓が動いているか、止まっているかではなく、翔ぼうとするかどうかのみにある、と。「生命の飛躍」と言うよりは「飛躍こそ生命」という見解だ。
 彼はさらに続ける。「この魚は、この形のままで翔べるんだ。科学は、新しい事実だってつくるんだよ。」人間が、科学によって、事実を認識するのではない。人間が、科学によって、事実を決定するのだ。現実の決定権は私たちの手中にある、ということだ。
 では、翔ぼうとしているものは何か。魚ではない。「彼自身」なのだ。何故なら、彼は「部屋に一つしかない窓の外に目を遣ると、雲一つ無い空の青を食い入るように見詰めた。」からだ。青い空を翔びたかったのは「彼」なのだ。「生魚」はその実験のためだったろうか。

○異常と正常の境界〜再び、名付けることの罪

 「彼」は最後にこう述べる。
  でも僕には、自分が、どういうことをすれば、人から狂しいと言わ れるのか、どういうことをしていれば、人から狂しいと言われないで 済むのか、判らないんだよ。ねえ、君。みんなは、そういうことが判 っていて、僕のことを馬鹿にしたり、笑ったりするんだろうか。
 定義は、あなたを「楽」にする。それ以上暗中模索しなくてよくなる。「医者」という「権威」あるいは「世間」が「彼」を異常と定義すればよいのだ。そうすれば「彼」以外の私たちはすべて正常だ。異常と正常の境界を探ることは難しい。だからまず「これが異常」と決めるのだ。私が知るかぎりにおいて精神病理学ではそのようなことはしない。「異常と正常の境界はあいまい」なのだし、ふたつは対局にあるものとしては捉えきれない。
 しかし私たちは、「異常」を定義し、安心する。非常に多くの場で、私たちはこれを行う。
 自分たちの居場所を確認し、(偽りの)団結をするために「敵」を作る。国民の目をそらすために、政党の支持のために「赤」「仮想敵国」を宣言する。村人の団結のために「村八分」「よそ者」「部落」を作る。ゴシップ写真誌は「少年A」の顔を掲載し、「ハイジャック犯人」の名前を公表すべきだと叫ぶ。
 少し話がそれるが、ジャーナリズムについて話したい。
 上の「神戸中学生の殺人」に対してのジャーナリズムの使命は何だったのか。もちろん事実を伝えることではある。しかしそれは少年Aの顔を公表することとはなんの関係もない。それはどうでもよいことなのだ。顔を見ることは何の前進も促さない。「私たちはどうすべきか」を問うことが大きな使命のひとつだった。
 今回の「ハイジャック事件(1999.7月)」についてはどうか。いろいろな見解があることは理解できる。しかし真っ先にやらなければいけなかったのはやはり、「安全対策」を論議し、運輸省や空港、航空会社へ提案することだろう。さすがにこれにはみんな気づいている。
 しかし、「毒入りカレー事件」はどうだったか。近ごろ一部で再び、事件発生当時の保健所等の対応が問題視されている。死亡者が出た理由になった、といものである。私個人の意見としても、あの容疑者の顔など、もはや見たくない。ジャーナリズムの使命は、権威あるもの、ある程度の大きさを持つ組織に対しての「オンブズマン」である、といことだ。一私人を追うことではない。
 ジャーナリズムは存在意義を忘れかけている。ワイドショーが「サッチー」「羽賀・アンナ」を流しまくり、一般紙までもが一面で「広末初登校」を謳う間に、「日の丸国家法案」が論議され、「新ガイドライン」が制定され、「通信傍受法」が可決されていく。この文章を書く私はノンポリである。問題は与党でも、何でもない。ただ私は、ワイドショーに、「もし北朝鮮が日本に上陸したら」というようなシミュレーションをやって欲しいのだ。ジャーナリズムの最後の使命は「啓蒙」だと思うからだ。

 かなり長くなってしまった。元へ戻ろう。
 無論、だれ一人、「どういうことをすれば、人から狂しいと言われるのか、どういうことをしていば、人から狂しいと言われないで済むのか、判らな」い。ただ、「彼」を異常としてしまえばよいのだ。「私」はそんな「彼」に答える術を知らない。

○去った友人は誰か

 「私」は「彼」の病室を出、受付でわざわざ記入用紙から「友人」の文字を消す。これはどういうことか。狂ってしまった友人はもはや友人ではないからか。人格が崩壊した者との意志疎通が不可能と見做したからか。いや「彼」は狂ってもいないし、人格の崩壊も起こしていない。前提はともかく、論理は明解だ。
 それは「私」が理解する努力を停止したからだ。答えられない疑問に対して「私」が「彼」を異常と定義し、自分が正常であるという立場を取ったからである。二人が友人であることを中断したのは「私」の行為なのだ。「私」はそうして、空を翔ぶことを捨てる。 それが「私」の選択だ。
 小鳥のさえずりは聞こえこそすれ、もはや姿はみることができない。もう決して翔ぶことはないのだから。
 「私」が零す涙は「彼」への思いからではなく、自分を憐れに感じた涙なのだ。「友人ではない赤の他人を異常と定義し、自分は混乱の外に出る。私は傍観者だ。私にはなんの罪もない。私は正常だ。私は魚が空を翔ぶなんてことは信じない。私は翔ばない」
 しかし少なくとも「私」は、「翔ぶことを捨てた私自身は哀しい」と知っている。
 では私たちに必要なのは何だろう。
 「楽」でもなく、「解答を他に依存する」ことでもない、「翔ぶ」ことを選択する勇気なのだろう。