ボルガ遡航記 (1995)


 

(1) ハバロフスクへ

 

 7月29日(土)、俗に「梅雨明け10日」と言われる猛暑の中、旅行社から指定された1

時半の定刻に新潟空港に着きました。新潟駅からのバス代が300円。去年は290円だっ

たような気がしていましたけど、私の勘違いかな。

 いつもですと空港のアエロフロートのカウンターには団体旅行の集合場所を知らせ

る紙がいく枚か貼ってあって団体客で結構混雑しているのですけど、今回はそれが1

枚もなくあたりは閑散としていました。定員百何十人かのTU-154に30人程度の乗客し

かなく、そのうち半数以上が日本人ではない人(たぶんロシア人)でした。

 

 ハバロフスク行きSU-812便は定時に離陸、40分ほどたったところで飲物と食事が出

ました。飲物は缶入りのキウイのジュースをもらいました。キウイのジュースなんて

生まれて初めてです。お弁当はローストビーフとカリカリ梅が同居する奇妙なもので

すが、結構おいしい。ただ、さっき新潟駅の食堂で昼食をとったばかりですからパン

なんかは食べずに鞄に入れておきました。

 

 現地時間19時20分にハバロフスク着。気温は23℃とのことで、酷暑の東京に比べる

と天国みたいに思えます。乗客が少ないので入国も税関もすばやく進み、ゲートを出

たあとすぐに銀行に行って両替をしました。20,000円が900,000R。このお正月にモス

クワへ行ったときのメモが手元に残っていて5,000円→155,000Rとありますから 50%

近く円が上がったかルーブルが下がった計算です。

 

 空港ロビーでは旅行社が依頼しておいてくれた通りハバロフスク・インツーリスト

のロマン君が迎えてくれました。彼は日本大使館主催の日本語弁論大会(モスクワで

開催されたものでロシアだけでなくCIS各国から出場者がある)で優勝して日本に

招待されたことがあるという経歴の持ち主で、流暢な日本語を話します。ホテルに着

いたときはサービスビューローなどはもう閉まっていたのですが、彼が奥のオフィス

に入って翌日のエア・チケットも取ってくれたりで大助かり。

 

 前日まで新潟県六日町にクラブ合宿の引率に行っていてかなり疲れていましたから、

ホテルの部屋に入ったらすぐに寝てしまいました。

 

 

 

 

(2) イルクーツク行き3857便

 

 7月30日(日)朝6時半過ぎに起きたら、外は珍しく本格的な雨降りです。でもあとで

ロマン君に聞いたら7月下旬〜8月は雨は少なくないと言っていました。私は夏のハバ

ロフスクでこんな雨に出会ったのは初めてです。ラジオによると気温は15〜16℃。

 レストランへ行ってみても、朝8時からとかで開く気配がなく、やむをえず昨日の機

内食のをとっておいたパン、マーガリン、チーズ、パイで朝食。ホテルの部屋の冷蔵

庫に飲物が置いてあってヂェジュールナヤのところで精算するシステムになっていま

した。日本では珍しくないでしょうが、ロシアではこれも出会ったのは初めてです。

で、その中にあった韓国製のネクターを1本飲む。3,800R。

 

 朝8時にトランスファーの車が迎えに来るというので、レストランでの朝食も諦めた

のにもう1組の日本人を待って、結局8時半にホテルを発ちました。このカップル、新

婚旅行のようで、奥さんはきれいな人だし、男の人も感じのいい若者でした。わずか

5日間の特別休暇らしいのですが、バイカル湖畔のリストビャンカで2泊を過ごすんだ

そうです。こういう新婚旅行っていいと思いません?

 空港の旧国際線のホールがインツーリスト(外国人旅行者)のセクションになって

いるのですが、行ってみるとガラーンとしています。我々3人のほかにもう1組の日本

人カップルがいてイルクーツク行きに乗る日本人は計5人。 ほかにアメリカの青少年

団体らしいグループが20人ほど加わり、こちらはひどく賑やかです。

 待合室の外(駐機場側)にはレーニン像が昔のまま立っていますが、表面は荒れて

いて手入れがされていない様子がありありです。

 

 イルクーツク行きの3857便は驚いたことにほぼ定刻の10時15分にハバロフスクを離

陸しました。もらった搭乗券には33Аと座席指定がしてあったのですけれど、どうせ

乗ったら自由席と思ってタカをくくってスチュワーデスに「自由席?」って聞いたら

これも「ニエット」という意外な返事。А席ですから窓側の席と思っていたら33列と

いうのは最後部で横に窓は無くてただの壁。32Аが非常口になっているので、32列目

はБからしか座席がありません。それじゃ足が伸ばせていいと思うでしょうが、じつ

は隣席33Бのお姐ちゃんが日本人なら絶対機内持ち込みにしないほどの大きさのトラ

ンクをしっかり置いてあるのです。私が行ったらさすがにトランクのほうに手を伸ば

したので、どけるのかと思ったらただそれを縦に立てただけでした。これじゃイザと

いう時にも非常口はあかず私は哀れな犠牲者の1人になっている筈です。

 ロシア人はアエロフロートを信用してないのでしょうか、荷物を殆ど預けないよう

です。ほぼ満席で飛んだのにイルクーツクの空港でピックアップの部屋に行ったのは

ほんの数人でしたから。そのかわり着陸後いくらも間をおかずに荷物が出てきていま

したけど。

 

 離陸後1時間ほどしてミネラルウォーターが出ました。3時間ほどの国内線ですから

これでおしまいと覚悟していたのですが、それからさらに1時間ほどしてちゃんとした

機内食が出ました。大きな鮭のムニエルにライスを添えたのが美味。ほかに黒パン、

丸いパン、チーズ。コーヒーも出たのですが、これはクリームも砂糖も一緒にしたミ

ックスパウダーが1人分ずつ入った小袋で、スチュワーデスの持ってきた熱湯入りの

カップにこれを溶かし込んで飲みます。この小袋も韓国製。この頃のロシア旅行はハ

ングルが読めない人間には辛くなりつつあります。今朝の冷蔵庫にもミネラルウォー

ターらしきPET瓶があったのですが、これがやはりハングルで、水だか酒だかわか

らず手を出し損ねてしまいましたし。

 さて、食事のテーブルは前の席の背もたれに付いていると相場が決まっているので

すが、我が33А席の前はさきほど言った通り席がないのです。そのかわり椅子の肘掛

けに穴があいていてそこにスチュワーデスが持ってきた特設のテーブルをしつらえる

ようになっています。ところがスチュワーデスにその穴を示しても、彼女涼しい顔を

して隣のお姐ちゃんのテーブルを半分あけさせ、そこへ置けというではありませんか。

トランクもどけてくれないお姐ちゃんの世話になるかと意地を張ったおかげで、膝の

上に機内食を置いて食べるという初めての体験をすることになりました。

 食後に昨日と同じキウイのジュースが1杯ずつ振る舞われました。

 

 Б席のお姐ちゃんはイルクーツクの彼氏にでも会いに行くところなのか、食後は身

づくろいに余念がありません。化粧水の芳香にボーッとしているとベルト着用のサイ

ンが出て着陸態勢に。この頃になると壁の継ぎ目のところから水滴がポタポタと落ち

てきます。初めてアエロフロートに乗った人は霧みたいのが出てくるだけでもびっく

りするものですが、水まで出てきたらきっといい気持ちはしないでしょうね。

 

 現地時間11時15分、機はいつ着地したのかわからない見事な着陸ぶりでイルクーツ

ク空港に着きました。すっかり型の古くなった自転車をわが身の一部のように使いこ

なす人ってよくいますけど、ここのキャプテンもきっとそんなふうにこの飛行機を操

っているに違いありません。

 

 タラップを降りたら「インツーリスト」というプラカードを持って立ってる人がい

るのでその背後に止まっていたバスに乗り込んで待っていたら、あとから乗ってくる

のはアメリカ人の団体だけで日本人の2組はロシア人乗客と一緒に徒歩で出口のほう

へ行ってしまうし、アメリカ人の若い子達は「あの人は誰?」という目でこちらを見

るものだから、バスが止まったところでアメリカ人と分かれて出口から出てしまった

のです。ところがピックアップに行くと「インツーリストはあっち」というわけで結

局彼らが入っていった別棟を指されました。個人旅行をしたことがないのでこういう

ことをやるんですが、とにかく“インツーリスト、インツーリスト”と思っていれば

まちがいないようですね。

 

 トランスファーの車でアンガラ河畔のインツーリストホテルに着いたとき、グルー

プの人達はまだリストビャンカから戻ってきていませんでした。とりあえず部屋をも

らって荷物を置き、市内へ買い物に。

 空はよく晴れていて日なたは暑いのですが、湿気がなくサラッとしていて気持ちの

よい気候です。

 

 はじめにホテルから遠くないところにある郷土史博物館の売店に行って 30,000Rの

小さなマトリョーシカを11個,それに10,000Rの塗りものブローチを27個。こちらはク

ラブの子ども達へのお土産です。僅かな金額しかポケットに入れてなかったのでお店

の人に断って一旦ホテルに戻って両替をしたのですが、このときは10,000円→480,00

0Rでした。

 そのあと、明日からの食料を仕入れにルィノックへ。日曜日で通りは閑散としてい

たのに、ここだけはひどく賑わっています。 トマト10,000R/kg、胡瓜9,000R/kg、リ

ンゴ11,000R/kg、牛乳1リットル2,900R、ケフィール同じく1,100R、黒パンは1斤2,200Rで

買いました。

 

 今回のツアーは総勢8人のグループで、ルィノックからホテルに戻った時にそのう

ちの5人がちょうどロビーに居て、これでグループに合流できたとひと安心。皆さん

はそれから夕食とかでまた出かけていったのですが、私はもう部屋から出ずに、買っ

てきた食料に少し手をつけて、早めに寝てしまいました。

 緯度が高いのと夏時間のせいでしょうか、窓の外はいつまでも明るいままです。

 

 

 

 

(3) 急行列車「バイカル」

 

 7月31日(月)朝5時前には目が覚めました。同室の菅田さんが寝ている間にシャワー

を浴びてしまいます。部屋はアンガラ川とは反対側に面していて眺めはよくなかった

のですが、そのかわり朝焼けがとてもきれいです。

 

 集合時刻より早い6時15分頃に 1階ロビーを降りてみると別の日本人団体が既に集

合しています。我々よりはずっと大きなグループで近い場所にいた人に簡単に会釈し

てしばらくそこにいたのですが、どうも様子が違う。そうなんです、日本人とばかり

思っていたら韓国の旅行団の人達でした。我々のグループのメンバーは既にハバロフ

スクからこの人達と一緒だったらしく顔なじみになっている様子でしたけど、私はこ

こで初対面。中にはとても日本語の上手な人もいます。それにしても韓国の旅行団に

こういうところで会うなんて隔世の感があります。ついこのあいだのソ連時代にはソ

連のビザがパスポートにあると韓国には入国できないからビザは別紙にして残らない

ようにしてあるんだという話が真偽定かでないまま言われていたのですから。

 彼らはオムスクで列車を降りて、そのあとスベルドロフスクかどこからか飛行機で

モスクワに向かう計画だと言っていました。今朝は同じ列車に乗るはずなのに我々よ

りかなりはやくホテルを出て行きました。

 

 こちらは 午前7時前に韓国製のAsiaというワゴン車で鉄道駅に向かいました。

ホテルのレストランは8時からしかあかないとかで、我々には車中で食べるお弁当が渡

されましたが、その中身がノートに書き留めてありません。黒パンにソーセージかチ

ーズかゆで卵かそんなものだったと思うのですが....。

 キーロフ橋(名前にちょっと自信がありません。レーニンが亡くなったときに市民

がお悔やみの募金を届けたらクルプスカヤに市民の人達が最も必要としていることに

使いなさいと言われて架けたというあの橋です。)が工事中とかでもう一つ下流の橋

をわたるために大きく迂回したためにホテルの正面に見える駅に着くのに20分以上も

かかりました。

 

 列車は青い車体のイルクーツク始発モスクワ行き急行「バイカル」で、既に入線し

ていました。この「バイカル」という急行列車はソ連時代からあって「ロシア」号と

ならぶシベリア鉄道の看板列車の一つなんですが、ちょっと雰囲気が違っていました。

クペーに入るとテーブルの花瓶には造花が挿してあったり、お菓子入れの鉢にはちょ

っとしたお菓子だの例のコーヒーミックスのパウダーだのが入れてあります。もっと

もこれは有料だということですけど。ロシアの寝台車ではいつもシーツと手ぬぐいの

セットをよこしますが、これも1人分ごとに「東シベリア鉄道『バイカル』」の文字

と列車の絵を印刷したポリ袋に入っています。車窓のカーテンのデザインにもくふう

がこらしてあります。昔は青い鴎の絵だったような。

 出発して時間がたってから気づいたのですが、乗務員の人がたえず車内を丁寧に掃

除しています。廊下だけでなくクペーの中にも掃除機を入れてくれるのを少なくとも

日に1度はやっていたような記憶です。停車時にはサボまで磨いている。トイレもき

れいな状態に保たれていて抵抗感なく使えました。

 さらに翌日食堂車へ行ってみると、中央の仕切板のところに「Фирменный

Поезд БАЙКАЛ」とあるのです。どうもアエロフロートの国内線みたいに

分割民営化になって東シベリア鉄道総局がこの列車にうんと力を入れているのか、そ

れとも民間会社がこの列車を買い取ってレールの使用料を払いながら運行していると

いうことなか、そのあたりのようですが、詳しいことはわかりません。

 

 列車についてもう一つ気づいたのはこれまで車体の中央にデンと座っていたソ連の

国章とСЖДの文字が消えてロシアの三色旗とРЖДの文字に変わっていることです。

プレートでなく塗りだからなんとなく重々しさがなくなりました。

 

 ここでツアーの一行をご紹介します。添乗員というか引率は金田さん、言語学者で

大学や専門学校でロシア語を教えています。88年暮れのシベリア鉄道の旅のときの添

乗員というのが私との縁で、この旅もこの金田さんに誘われて来てしまいました。こ

のお誘いがなければ腰も痛めていることだし、この夏休みは自宅にいて、そのかわり古

い386マシンを新鋭のペンティアム機に買い換えるプランでいたのですが....。

 金田さんのお弟子さんで専門学校生の飯田さん、若いのにかなりのロシア語を使い

こなします。列車でも船でも積極的にロシア人に話しかけてたくさんの知り合いをつ

くっていきます。それから大学で心理学を勉強しているという中田さん、今回のグル

ープ中ただ1人公式にはロシア語と縁のなかった人ですけど、何事にも積極的で旅か

ら帰る頃には結構ロシア語がわかるという感じでした。お父さんが今度の旅行を主催

した会社にお勤めで、ツアーの人員が足りないので無理に来させられたとか。外大ロ

シア語科3年生の森田さん、前の2人と対照的にひかえめに見えるのですが、意外に

おちゃめな面もあわせもっている笑顔のすてきな女学生。以上3人が女性です。

 男性側は、大学で第2外国語にロシア語をとって金田さんに習っているという太田

君。何を言われても逆上しないという性格のためにすっかり3人の女の子たちのアイ

ドルになっておりました。でも根は気持ちが優しい。飯田さんと同級生の桜田君、黙

々と勉強するというタイプですが、やっぱり優しそうな人柄で、太田君がアイドルな

らこちらは「隠れアイドル」、船旅の最後の晩のキャプテンディナーのときは女の子

たちが彼を着せ替え人形にしていましたっけ。

 あとは、昨晩私と同室だった菅田さん。正体不明の老人で、このあとこの人物は当

旅行記に登場しません。これに私を入れると8人というわけです。

 

 午前7時53分(モスクワ時間2時53分:このあとはモスクワ時間で書きます。どこで

時間が切り替わるのかわからないものですから。)の定時にイルクーツク駅を発車、

約1時間近く走ったあとのアンガルスクでイルクーツク着以来グループと別行動だっ

た飯田さんが乗り込んで来て、ここで初めてグループの8人全員が揃ったことになり

ました。

 

 この日も好天で車内はかなり暑くなり、我々は廊下側もクペーの側の窓を開けたま

まにしておきましたが、そのせいで着衣などがひどく汚れることにあとになって気づ

きました。蒸気機関車ではないのでそういう心配はしていなかったのですが、各車両

にある湯沸かしで石炭を使うのかもしれません。それにちょっとそこでは言えなかっ

たですけど、トイレも開放式ですから、後部の車両だとちょっと心配ですね(我々の

車両は前のほうでした..と言っても気休め程度か(^_^;))。

 車窓を過ぎていく風景は、終日なだらかな起伏のある森林と耕地で、それにときお

り中小の河川や集落が視界に入ってきます。人影を殆ど見ることがないのどかな風景

です。この地方の人達はいま昼休みなのでしょうか、それとも夏休みなのでしょうか。

 こちらのクペーに女子学生3人と私がいて、残りの男性4人がお隣ですが、たいてい

みんなこちらにやってきてただでさえ気温が高いのに十姉妹の巣みたいに詰まって、

とりとめのないおしゃべりが果てしなく続いていました。

 

 

 

 

(4) シベリア鉄道の駅

 

 いくら話に夢中になっていても、2-5時間ごとに止まる5分以上の停車駅では(それ

より短いと車掌のおねえさんが降ろしてくれない)必ず降りて食糧調達です。ゆでた

ジャガイモ、ピロシキ、木苺、胡瓜の塩漬け、生の胡瓜、トマト、ケフィール、リン

ゴ、それにもちろんアイスクリームも。どれも何千ルーブルという値段ですから、こ

の頃はお互いに「ルーブルが減らないね」という話をしていたものです。なにしろみ

んな何十万ルーブルという“大金”を財布に入れていますから。

 一度はペリメニ売りのおばさんをみつけて声をかけたちょうどその時に、やはり下

車していた韓国のかたに上手な日本語であそこで売っている大きな果物は西瓜なのか

そうでないのか聞いてほしいと頼まれ、ペリメニは逃してしまいましたが、そこはよ

くしたもので金田先生がしっかり買っておいてくださって、あとでみんなでご馳走に

なりました。

 このペリメニ売りのおばさんなんかが凄い!まもなく発車時刻という頃になると商

売やめて帰るんですけど、なんと列車の下をくぐって歩いていくんです。その時に列

車がガタンなんて動き始めたらどうするんですかね。あちらではレールの上を歩く人

というのはどこでも見るんですが、全然急ぐ様子もなく、客車の下を通り抜けていく

おばあさんにはほんとうにびっくりしました。

 そう言えば映画「誓いの休暇」でアリョーシャがシューラのために水汲みに行くと

きに何本かの貨物列車の下をくぐっていく場面がありましたけど、あれは戦時の話だ

からとばかり思っていました。目の前でこれを見るとは..。

 

 外の風景は相変わらずですが、ときおり立ち枯れ状態の白樺の群落を目にします。

これがごくたまにというのではなく、以前にシベリア鉄道で旅をしたときにもとても

気になりましたけど、理由は何なのでしょう。

 カンスク・エニセイスキのあたりは泥炭地帯なのでしょうか。原っぱから石炭を燃

やしたようなにおいと白い煙が立ちのぼり、煙は集落のほうにまでたなびいていまし

た。

 

 2年前のエニセイの旅の終着のクラスノヤルスクまでは起きていようと思って、グ

ループの大半が寝てしまってからも大田君と2人で列車の廊下で頑張っていました。

いつまでも空は明るくなかなか星は見えてきません。クラスノヤルスクは21時49分着、

つまり現地時間では真夜中の12時くらいですから、とうとう我慢しきれなくなって寝

てしまいました。

 でも、旅の間は起きようと思うところで起きることができるという飯田さんが「ク

ラスノヤルスクよ」と言って起こしてくれてホームに降りました。ただ、エニセイ川

は駅の手前ですから、これは通り過ぎたあとでしたけど。

 深夜ですからさすがに気温は低く、ホームに降りてくる乗客も殆どいません。この

駅で思いがけないものを見つけました。それはホームから線路を何本か隔てた先がも

う日本では見られなくなってしまった貨車の仕分け用のハンプ(坂阜?)になってい

るのです。ちょうど作業中で、それはそれは長い編成の貨物列車が坂の上に押し上げ

られ、鉄塔の上のスピーカーから何やら女の人の声が流れると貨車が切り離されてい

きます。この作業がまたロシア的ダイナミックさで、タンクローリーを2台ずつ積ん

だ貨車をいっぺんに3両まとめて切り離すというようなことを次々やってる。それに

ブレーキをかけるために切り離された貨車に付き添っているはずの鉄道員の姿が見え

ないのです。まさか、ブレーキをかけずに向こうでつなぐ貨車にぶつけて止めてるの

ではないでしょうね。それに、ある貨車を坂から降ろしてから次の貨車を切り離すま

での時間がけっこう短くていいテンポなのですが、その間にポイントは切り換えなけ

ればならないはずだし、そういう細やかなこと日本人でない彼らがちゃんとやってる

のかなどとよけいな心配までしてしまいました。モスクワ行きの貨車が着いてみたら

ウラジオストクだったとか..(^_^)。

 

 窓を開け放したままで寝ていたのですが、さすがに寒くてクラスノヤルスクを出る

ときに閉めました。ほんとうは途中で閉めたかったのですが、ほかの3人が寝ている

ものだからあまり物音も立てられず、そのままにしていたのです。それにしても、こ

の窓、開けるとは下へ引き下げる方式ですから私の上の段のベッドに寝ている森田さ

んのほうがずっと風当たりが強くて寒い筈なんですけど、彼女そんな気配まったくな

しにすやすやとやすんだままです。

 

 

 

 

(5) 車中2日目

 

 8月1日(火)、起きたのは3時半(現地時間で7時半?)くらいだったでしょうか。日

頃は朝はなかなか起きれないのですけれど、同室の若い人達に比べるとどうしても早

く目が覚める。これはこのあと船に乗ったときも同じキャビンの桜田君や大田君がま

だ夢の中にいる間にいつも起きたものでした。齢をとると早起きになる?同室が全部

女性ですから、この日も次の日も朝起きてから 2時間前後はクペーに入らずに廊下に

いました。

 朝のうちはもやが立ちこめていて涼しかったのですけれど、まもなく前日と同じよ

うに晴れてきて、やはり同じように暑くなりました。

 

 5時少し前にくマリインスクに停車。 朝食用の買い物です。ゆでジャガイモ、胡瓜

のピクルス、レモネード、アプリコットのジュース(キウイのジュース同様これも今

回が初めて)などを買い込む。物売りのおばあさんの中に強引な人がいて、小葱の束

みたいのを私に1束押しつけて、もっていたお金のなかから1000R札1枚を抜いて持っ

てかれてしまわれました。ナマの葱ですから車中ではどうしようもなく、これは車掌

のおねえさんに引き取ってもらいましたけど。

 次のタイガの駅ではチョコレートでコーティングしたアイスクリームを手に入れま

した。旧ソ連のパックツアーは全食事付きというのが原則でしたのに、今回のは鉄道

では食事なし、ホテル泊まりのときは朝食のみというものでしたから、旅行でしっか

りやせて帰れると思っていたのですが、停車駅ごとにこんなことをしていますからす

っかり目算はずれです。

 

 駅などでみかける機関車にはその車の所属が書いてあります。日本で言えばJR東

海とかJR西日本とかそういうのにあたるのでしょうか。シベリア鉄道は東から、極

東、ザバイカル、東シベリア、クラスノヤルスクときてこのあたりは西シベリア鉄道

総局の管内です。これがまあ東京駅で隣合っていても東北新幹線は東日本、東海道は

東海というのに似ていて、モスクワからセルギエフ・ポサト行きの国電はモスクワ鉄

道総局、クリン行きはオクチャブリ鉄道(いまでもこの名前ですかね)という具合で

す。

 それはともかくとして、西シベリアまで来ると、窓の外もこれまでと少し様子が変

わって人の手のはいった耕地や小ぎれいな集落が多く目につくようになりました。

 

 我々のクベーの隣(金田さん達のの反対側)にベロニカという小学校就学前くらい

のかわいい女の子が乗っているんですが、昨日はまだ人見知りする様子でした。でも、

まる1日以上一緒にいるとさすがに慣れてきたものとみえてこちらのクペーにもやっ

てくるようになりました。私は例によって鶴を折ってあげましたが、金田先生はもっ

と上手でこういうときに子ども達にあげられるお土産をちゃんといくつも用意してあ

る。小さな熊のお人形とチョロQをあげてました。

 

 昼食は食堂車へ行きました。みんながボルシチが食べたいと言って、それで行った

のですけれど、ボルシチはなくて、ペリメニを注文。黒パンがついて7,200R。

 車内販売でピロシキや飲物を売りに来る白衣のおばさんは食堂の人だったんですね。

もう顔を覚えられたようでニコニコしています。

 

 11時半くらいにノボシビルスク着。ロシア号に乗るとこの駅は真夜中近い時間にな

るのですが、バイカルだと昼下がりになるわけです。ホームはロシア号が止まったと

ころとは違うようで駅舎が近くに見えません。この駅でほんとうは17分間停車するは

ずだったのですけれど列車が遅延したために停車時間を短くするという車内放送が事

前にあり、その放送に金田さんが気づいていたからまだ良かったのですけれど、我々

6号車の乗客のかなりの数がまだホームにいるうちに列車が動きだしたのです。その

ときは少々慌てました。車掌は「急げ、急げ」と言うし、乗ってしまった客は安心し

てかデッキから奥へ行ってくれないし。それでも金田さんが予め放送に気づいていた

から良かったわけで、この駅では駅舎のキオスクなんかまで足をのばす人がよくいま

すから、そんなことをしていたら....。

 ロシアの鉄道は発車ベルなしに動きだしますから、動き始めた列車に飛び乗るとい

うのもあちらの人達にはどうということはないみたいですね。例の「誓いの休暇」の

アリョーシャとシューラの別れの場面では、終戦後の日本の買い出し列車みたいに超

満員のやつが動き出して、それにさらにアリョーシャがとび乗ってる。

 電車と違って1両の機関車で全部の客車をひっぱる汽車は始動時の加速度はそれほ

どでもないように見えますけど、こうやってあわてて乗ろうとするとやはり相当な加

速度です。

 

 好天のせいもあって車内はかなりの暑さです。みんながハバロフスク〜イルクーツ

クのときはエアコンが効いていたというのですが、その時は私は「まさか」と思って

いました。シベリアの地を走る列車にクーラーなんか付けているわけがないと。でも、

食堂車に行ったときに「ここで涼んでいくから」と言って食事がおわってもなかなか

帰らない。このときも確かに涼しい気はしたのですが私はなお半信半疑でした(かな

り鈍感ということですね。)クーラーのある車両があると信じる気になったのは旅か

ら帰って写真が出来上がってからです。ノヴォシビルスクのホームで撮った写真の背

景に我々の乗った列車が写っているんですが、6号車は全部の窓が開いていてそこか

ら上段のベッドの布団がちゃんと写っている。なのに別の車両は全部窓が閉まってい

るんです。

 そういうわけで、我々の車両では水泳パンツ姿で歩き回る男の人もいるし、いくつ

かむこうのクペーの小さな女の子なんかもう素っ裸になっている。宮脇俊三さんの

「シベリア鉄道9400キロ」には、列車にはシャワーもないけど下着も汚れませんねえ

なんて話が出てきて、これまでは確かに私もそう思ってたんですが、今回は違う。着

ていた木綿のズボンと上着がどちらも白系でしたから、この頃になるともう相当汚れ

ていました。でも、着替えはトランクの中で、あのクペーでこれをあけて着替えると

いうのも面倒で結局3日間着たきり雀で通してしまいました。女性はやはりそういう

乱暴なことはしないで「石川さん、ちょっと出ていてください」と言って内側から鍵

をかけて着替えたばかりか、中田さんなんか洗面所で洗濯までしていました。もっと

も洗ったTシャツをいちばん風のあたる窓際に干したために乾いたときにはもう黒く

なってしまいましたが..。

 

 宮脇俊三さんの本といえば、宮脇さんはあの中で鉄道の脇にあるキロポストの数字

が表と裏で数字がいつも必ず1つ違うのを不思議がっています。でも宮脇さんは100m

ごとに置かれている補助的な標識をよく観察すればその謎が解けたはずだし、このフ

ォーラムいにいらっしゃる皆さんはロシア式のものの数え方をご存じですからおわか

りですよね。

 そうなんです。宮脇さんが慣れている日本のキロポストはここが起点から何kmとい

う点を表しているんですが、ロシアのはここから(裏側はここまで)第何番目の1キ

ロメートル区間という具合に点ではなく区間を表しているわけです。

           起点
    日本式    0    1    2    3
           |    |    |    |
    ロシア式   |1   1|2   2|3   3|4

 午後になって車窓の風景はますます人の気配を感じさせるものになってきました。

地平線まで続く広大な耕地や牧草地、昨日まで見たのよりずっと垢抜けした感じの集

落、放牧されている家畜や見かける家禽の多さ、..、それにローカル列車の駅間の距

離は短くなり駅舎も小綺麗になっています。

 

 16時頃バラビンスクに到着。駅で金田さんが買ってきた鯉の薫製や、それぞれが買

った胡瓜、トマト、ピローグなどでわいわいと夕食。だいたい昨日来、この車内での

食事は無計画というか無政府的とでも言うのか、それぞれが買い込んできたものをわ

っと広げてどれでも勝手に食べるというなんだか“原始共産制”みたいなもので、そ

れもお互い脈絡なしに買い物をしますからクペーの中には商売ができるほどのトマト

がたまってしまったりしています。

 

 20時39分、といってもこれはモスクワ時間ですからもう真っ暗になっていましたが、

列車はオムスクのホームにすべりこみます。同じ列車に乗ってきた韓国の旅行団の人

達ここで降りるというので、我々のグループも降りておわかれの挨拶をしました。別

れのセンチメンタルな気分を邪魔したのは地元産のやや大きめの蚊です。列車が動き

はじめてからしばらくの間、みなさん、その痒さに悩まされていたようです。

 


 

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