ドニエプル往復記  (2003)




(01)キエフ  8月3日(日)

 東京からモスクワへ飛ぶと一日が30時間になるというのはもちろん承知だったが、昨日ほどその長さを実感させられたことはこれまでになかった。
 朝6時半すぎに家を出て9時半に成田空港。正午発モスクワ行きSU-582便は定刻の17時05分にシェレメーチェヴォ2着。これが日本時間で夜10時05分。シェレメーチェヴォ1のトランジット待合室で3時間あまり待ってキエフ行きSU-169便が飛び立ったのが10時頃だったから日本時間では午前3時。キエフから約40kmのところにあるボリスピル空港に着いて入国・通関を済ませ、車で船に着いたのが日本時間で午前6時前だった。25時間も起きていたわけで、若くはない身にはこたえる行程であった。
 
 船は96年にほぼ同じ航路で乗った「マーシャル・ルィバルコ」。その後多少の改装があったらしいが、船室の様子などは基本的に同じ。
 キャビンに入るとテーブルの上に、ソーセージやチーズ載せのオープンサンドと紅茶・コーヒーを入れたポットが一つずつ。この心遣いが嬉しく、機内食を一日に3度も食べた後なのに平らげる。
 
 今朝7時半からカフェテリア形式の朝食で、その15分ほど前に船内放送で小鳥のさえずりが流れる。これが目覚ましがわり。
 
 8時半から市内観光。フランスやドイツのグループは大きなバスだが、英語グループは両親と高校生か大学生ぐらいの男の子2人の一家族と私だけらしく、小さなミニバンが割り当てられた。
 この日はお天気が目まぐるしく変わる一日で、出発するときは怪しげな曇り空だったが、ドライブの間かなり強く降られもした。
 キエフの街は数年ぶりだが、クレシャチク大通りの端に近いホテル「ウクライナ」の前の独立広場には大きな独立記念碑が建っていたし、ミハイル修道院は改装が終わってピカピカになっている。ミハイル修道院の門の前には30年代スターリン治下の飢饉で亡くなった何百万人もの農民の追悼碑が置かれていた。
 ちょうど日曜日でもあり、ウラヂーミル教会ではミサが執り行われていた。絶え間なく流れる聖らかな混声合唱の中、高僧たちによって儀式が進められる。正教の聖歌にはいつも魅せられるが、聖歌隊が2階にいるのが一層効果的なのに気づいた。教会の多くが天井を高くする設計になっているから、歌声がそれこそあたかも天上から聞こえてくるように思えるのだ。
 
 12時に船に戻って、12時半昼食。イカのはいったマカロニサラダ。胡瓜とトマト。シチー。卵で溶いた衣のカツレツ、ヌードル添え。西瓜のデザート。
 
 昼食もそこそこにしてすぐに市中に。手持ちのグリブナが多くないので、河港から上の高台に上がるフニクラも地下鉄も使わずにひたすら徒歩で。高台へは斜面のけもの道のようなのにわけ入って進んだが、午前中の雨でひどくぬかるんでいて、一度などは転倒して全身泥だらけに。やっとの思いで上の駅にたどりついて窓口の料金表を見たら50カペイカ。10円あまりだ。節約するんではなかった。
 ミハイル修道院からアンドレイ教会の広場へ。アンドレイ教会の近くに、ウクライナの昔話からとった若い男女の銅像が建てられていて、結婚した男女はこの像の肩にさわると幸せが永続きするとか。私が行ったときにも一組の新婚カップルがそこにいたので、写真を撮らせてもらった後、昨晩シェレメーチェヴォの待合室で暇つぶしに折ってあった鶴を花嫁にあげたところ、新郎が「僕には?」と言う。ゴメンネ。一羽しか折ってなかったの。
 ソフィア寺院の前を通ってウラヂーミル教会へ行くつもりだったのだが、シェフチェンコ並木道との交差点に気づかずに直進したために道に迷うハメに。地図を持たずに歩いているとこういうときにどうしようもない。幸い2軒目のキオスクに旅行者用の地図が置いてあり、ことなきを得たが。
 今日が日曜日のせいか、それともウクライナの何かの記念日なのかは知らないが、あの幅広いクレシャチク大通りを、独立広場からシェフチェンコ並木道との交差点まで自動車進入禁止にしての歩行者天国だった。大勢の人が出てまるで巨大な縁日のような雰囲気だったが、あれは何だったのであろうか。
 この散歩も最後は大粒の雨にたたかれ、5時半に船に戻る。
 
 6時半夕食。ソーセージ,ハムを添えたポテトサラダ。千切り玉葱の衣をつけた白身魚のフライ。デザートがひどく凝っていて、白鳥の形に仕上げたシュークリームを青いゼリーを敷き詰めた皿に載せたのが出てきた。「白鳥の湖」というわけ。
 
 食事中の午後7時に「マーシャル・ルィバルコ」はキエフの河港を離れた。
 8時半、最上階のホールで、慣例に従い船長と主任マネージャの挨拶、それにスタッフ紹介。これも慣例にならってシャンペンが振る舞われた。
 

(02)クレメンチュク貯水池  8月4日(月)

 昨日の午後半日キエフ市内を歩きまわった疲れが出て、キャビンのベッドにちょっとだけ横になったつもりがそのまま寝ついてしまっていた。
 目が覚めたのは朝の3時か4時。船が異様な振動をしたので、悪天候で横波でも受けたのかと思ってカーテンを開けて外を見ると舷側のすぐそばに柳らしい枝がおいかぶさっているではないか。船は黒海に出るまでに5つある水門の一つにさしかかっていたのだ。水門を見に行くのはやめて、パジャマに着替え、ちゃんと寝直す。
 
 6時半頃起きてシャワーを浴び、洗濯を済ませてから、デッキに出ると船の後方に鉄橋が見え、右舷側(右岸)には岸にアパートの並ぶ大都市がある。地図で調べるとチェルカッシィらしい。あとで聞いたのだが、この鉄橋は水面から桁までの高さが12mあまりしかない。ところが船の高さは15mあるんだそうな。これじゃマストを折ってもくぐれないわけで、じゃどうするかというと船に注水して船高を下げるのだそうだ。
 
 7時半から昨日と同じカフェテリア形式の朝食。ブリヌィ、きのこ入りのオムレツ、ケフィール、ハム、プラムと林檎のコンポートをとる。
 
 今日は船がどこかに停まる予定がない。私はこういうのが好きで、もちろん最上階のデッキでのーんびりと過ごす。
 船が進んでいるのはクレメンチュク貯水池。左右の幅が何十kmあるのか知らないが、おそらく琵琶湖よりはずっと大きいのではないかと思われる。
 やや冷たい風が吹くが、薄日がさすので半袖でも寒いほどではない。デッキに上がって来る客は多くて、用意されている椅子はほぼ満席だ。
 11時を過ぎると全天雲に覆われ、陽が届かなくなる。ドニエプルの右岸はかすんで見えないくらいであった。
 それにしてもドニエプルの水は汚い。クレメンチュク貯水池を航行中に大量のアオコが水面をおおっているのを見たし、白い腹を見せて浮かぶ死んだ魚をこんなに多く見たのはこれまでの川旅ではなかったことだ。
 
 12時半昼食。トマトの薄切りに小さな角切りのチーズをのせたサラダ。濃いめのすりおろしじゃがいものスープ。ライスと人参と肉を詰めた大きなピーマンにソースをかけたのが主菜。デザートは輪切りのオレンジ,生クリーム,コケモモのジャム,輪切りのパイナップルにのったアイスクリームをまとめて一皿に載せてきた。
 
 食事中に船はクレメンチュクの水門に入り、1時半過ぎに抜ける。
 
 2時から読書室でウクライナ史のレクチャー。「生徒」はロンドンに住むあのイギリス人の一家族と私だけ。話はリューリック朝の成立から始めてウクライナ独立後のクチマ政権の暴政にいたるまで及び、しかもそのロンドンの一家がなかなか教養ある家庭で、両親、とりわけ母親がこと細かい質問をするし、長男は大学でロシア語を専攻しているとかで、これまたあいの手を入れるという具合で、講義は延々と続く。
 
 そうこうしているうちに船はクレメンチュクの河港に一旦接岸。河港のやや下流に上下2層式の鉄橋があり、上が自動車道、下が鉄道になっているのが見える。講義と質問のまだ続いていた3時に船が離岸。前方を見ると鉄道橋の中央部がせり上がっているではないか。講義が終わってないのを承知で、読書室から飛び出し、カメラをもってデッキへ。船はそのせり上がった部分の下をくぐり抜けるのだが、船の最上端が鉄橋の底部に接触するのではと思えるほどスレスレであった。橋の下を通り抜けたあと、後部甲板に移動して後方を見たときには既に鉄道橋の中央部は下の位置に戻されており、そばに長い編成の貨物列車が待機していた。
 もう読書室には戻らず、そのままデッキに。エニセイやアムールとは違って、両岸にはかなり頻繁に集落が現れる。それも10階建てくらいの中層のアパートがいく棟か集まっている団地も時おり思いだしたように見えてくるし、村落の背後の丘によく手入れのされた耕作地が広がっているのも特徴の気がする。
 
 5時からレストランでウクライナ料理教室。と言っても我々が実習するわけでも試食するわけでもないから、テレビの料理番組みたいなものだ。ボルシチとワレニキの作り方を教えてもらった。
 
 6時半、夕食。鮭ともうひとつ鯖のような青い魚の薄切りにバターが添えられてきたので、黒パンにバターを塗ってその上に魚を載せオープンサンドにして食べる。メインはビーフステーキ、フライドポテト・人参・コーン添え。デザートは生クリームを使った苺のタルト。
 
 食後にもデッキに出たが、風が冷たくて長くは居られない。ドニエプロジェルジンスキー水門がまもなくのせいで、再び川幅が広くなっていた。
 

(03)ザポロージェ  8月5日(火)

 毎日配られるスケジュール表によると、朝6時半過ぎにザポロージェの水門を通過ということになっていたので、5時過ぎに起きてデッキへ出る。雲が多いものの天候は晴れ。船の前方にかなりの幅の堰堤が見える。ガイドのリーナさんによれば「ザポロージェ」というのは「beyond rapid」、つまり早瀬の向こうという意味だそうで、ダムができる前はこのあたりはかなりの急流だったことになる。ここの水門の高低差36mはそれ故で、他の水門とはちがって下流側のシャッターは最上部まで開けなくても船が通れるから、上部何mかはコンクリート製の隔壁になっている。船は予定通り6時半過ぎには水門を通過。
 
 7時朝食。
 8時半から市内観光。市内のメインストリートをまわって、ダムを見渡せる高台に。ここでは広場の真ん中のレーニン像が今でも健在。ダムのあとは郷土史博物館へ。ここからダムを見ると、その前に大きな岩礁がいくつか見え、ダムのない時代には船にとって大きな難所であったことが十分納得できる。その後は、ドニエプルの中州にあるコサック・ショーの施設へ。コサック伝統の馬の曲乗りなどを見せるのだが、7年前に比べて技量が落ちているような気がした。それともあの時は初めてだったのでインパクトが強かったのか。
 
 1時に船に戻る。ほとんど直後にザポロージェを出港。昼食も1時からで、ザクースカはワレニキ、スープはボルシチと昨日の料理教室のメニューだ。にんにくの香りがするフカフカの白いパンが出ていた。美味しい。メインは少し野性的な感じのソーセージを焼いたのにケチャップのソースが添えられているもので、ソーセージ1本で十分主菜になり得ることを知らされた。つけあわせは茸とブロッコリーのホワイトソースあえ。デザートは焼きリンゴの上に砂糖菓子の帽子をかぶせてきのこの形にしたの。
 
 食後は例のごとくデッキへ。天候は快晴で、気温も高い。4階前方のデッキにいたのだが、あまりにも陽射しが強いせいかここへは出てくる乗客もほとんどない。水面は鏡のようにおだやかで船はそこを滑るように進む。前部にいるので船のエンジン音も聞こえず、かすかに振動が伝わってくるのみ。両岸は木立、人家、畑などがいれかわり現れ、決して人里から遠いとかそういう雰囲気ではないが、ごくたまに川岸で水浴している子ども達をみるくらいで、このあたり一帯が深い午睡の中に陥っているよう。
 3時半から4階のバーで新生ウクライナについてのビデオを見る。ナレーションが英語だったことももちろんあるのだが、その上バーに来合わせている他の客が遠慮なくしゃべるものだから、言われていることがよくわからなかった。もうバーでの催しには金輪際行くまいと決めたわけではないが、キャビンにもどって横になったら目が覚めず、バーで5時半からあったワインの試飲会には行き損なった。
 午前の観光のドライバーとガイドにチップを渡すのに1ドル札のつもりで10ドル札を渡してしまう「事故」があった。50カペイカのフニクラ代を節約する身にはこれがこたえて、午後はまるで意気消沈。さらに夕方になって強い腹痛に襲われる。人間というものは精神の動揺がすぐさま肉体の変調をもたらす高度な生物であることを再確認した次第。成田で買った正露丸を3粒のんだが、そんなものが効くわけなし。
 
 午後6時半からの夕食は、はじめ胡瓜とキャベツの塩もみにトマトという前菜だったので、腹具合がよくない身には助かったのだが、もう一皿サーロという好物が出ている。人生とはこういうものだ。腹が受け付けないときに限ってサーロが出たりする。もちろん身のほうが大事だからパスするつもりだったのに、ウェイトレスのスヴェトラーナさんが笑顔で「ウクライナのサーロです。召し上がれ。」と言ってくるものだから、結局たいらげてしまい、さらに主菜が脂身もしっかりついたポークソテー2枚に人参のグラッセなどのつけ合わせ、デザートはウェディングケーキを切り取ってもああは大きくならないという大型のケーキだったから、食後にふたたび猛烈な腹痛に襲われたのは言うまでもない。こうまでしても、出されたものは食べてしまわなければならないというのが、判事が栄養失調で死ぬという戦争直後の時代に生まれた世代の悲しい性だということは若い人たちの理解を超えることであろう。
 
 正露丸の服用間隔は必ず4時間以上と能書きにあるので、薬ものめずに、食後デッキへ上がる。午後8時を過ぎると大陽が右岸の土地に接するようになる。しかしボルガで見たあの燃えるような夕焼けはない。夕焼けがきれいに出るにはどういう条件が必要なのだろうか。9時には陽が完全に没する。
 月が上弦なので、真夜中近くになったら星がきれいだろうと思って最上階のデッキに出る。昨晩とちがってまったく寒くないので何時になってもデッキに出てくる乗客は減らない。私のいる位置とは反対側の右舷側でどこかの国の一団がテーブルを囲んでさっきから盛り上がっていたのは知っていたが、私が反り返って天頂を見ているとその中の若い女性が近づいてきて自分たちの集まりに加われと言う。そこにいるのは全部フランス人で、一人だけあのイギリス人家族の長男マックスがいる。ヤツはロシア語ができる上にフランス語まで巧みにあやつるのだ。聞けば、彼女の兄のピエーリックという青年の誕生祝いの席だそうで、コニャックを勧められたが、下戸の悲しさでこれは丁重に断らざるを得ない。彼は空手を習っているとかで「イチ、ニ、サン、...」という数詞などいくつかの日本語の単語を知っている。ウクライナは初めてだが、ペテルブルク〜モスクワのクルーズには参加したことがあるそうな。
 
 デッキには船客のための照明を点けてくれていて、こいつのせいで星が思ったほどには見えない。夕焼けといい、星といい、やはり今日は厄日だ。
 深夜12時すぎ、船はカホフカの水門を通過。
 

(04)黒海へ  8月6日(水)

 目が覚めたとき、船は停まっている。起きてみると、案の定、ヘルソン港に接岸している。この船の母港だ。6時、船は離岸。ドニエプル・デルタの中を黒海に向かって進む。デルタの中の家々は岸辺にボートを置いてあったりしているから、やはり輪中のような生活なのだろう。
 ちょうど朝食の頃、海へ出たが、いきなり外海というわけではない。地図を見ると砂州のような地形が西に向かって伸びているため、これと大陸とに挟まれた細長い入り江を進むことになる。そのため波も大きくはなく、船は揺れない。
 
 7時半から朝食だが、体調は依然として思わしくなく、ブリヌィにもソーセージにも目をつぶってトマトと胡瓜を2切れずつとり、あとはママレードとケフィールとブドウ・バナナ・リンゴのコンポート。ママレードを黒パンに塗って食べる。食後に正露丸。
 9時頃、腹痛をおしてデッキへ出る。これまでずっと折られていた後方のマストも立てられて青と黄色のウクライナ国旗が勢いよくはためいている。最上階にはあいている椅子がなかったで、4階前方に。天候は快晴は快晴なのだが、もやっている感じがあって、水平線に近いあたりの空は白い。その分陽射しは弱い。風はかなり強く、プラスチック製の軽いデッキ用椅子が端から端まですべってくるほどだ。ロシア人の多い船だと、これほどの天気になれば皆水着になって甲羅干しを始め、最上階のデッキはさながらトドの営巣地の感を呈するのだが、ヨーロッパからの客がほとんどのこの船ではそういうことはなく、椅子にすわって本を読んだりとつつましやかなものだ。
 
 11時前に左舷の砂州が切れる。この砂州状の地形が防波堤の役割をしていて、これを抜けると波が大きくなって船も揺れるのかと考えていたが、意外にそうでもなかった。問題はオデッサからセワストーポリに直行する明日だ。どうかよい天気になりますように。
 11時に避難訓練。この時刻に船室に居てサイレンが鳴ったら救命胴衣をつけて廊下に出ろという指示だった。真面目に参加したものか、それともデッキにそのまま居て知らん顔を決め込むか迷ったが、11時前にはデッキの客達が皆いなくなるのでいちおうキャビンに戻った。サイレンの後廊下に出るとマネージャー達がやってきて「フランス人はOK、イタリア人もOK、日本人もいるし..」と確認して行ったのを見て、サボらずに良かったと思った次第。
 
 12時に昼食。行こうか行くまいか迷ったが、行かなければスヴェトラーナが気にするだろうし、体調が悪いと言えばリーナさんに心配かけると思って出かけた。茄子で何かを巻いたザクースカ。この「何か」がなのかいまだにわからない。チーズのような気もしたが、色が黒っぽい。でも美味。ジャガイモのポタージュスープ。鶏モモ1本にジャーマンポテト2枚。フルーツ味のアイスクリームのデザートは、カクテルグラスに入れられ、マッチ棒のような細木と紙でこしらえた雨傘がかぶせられていた。ウクライナにも番傘があるのか。
 腹の調子はやはりいま一つで、昼食をとらないほうがよかったのかとも思う。正露丸をまた一服。
 
 食後に前方のデッキに出ているとドイツ人らしい男性が前に見えるのがオデッサの街だと教えてくれる。双眼鏡で覗くとたしかに教会の丸屋根などが見える。
 このあたりの岸は背後に山がない。その点が同じ港町でもペトロパブロフスク・カムチャツキーやヤルタとは違う点だ。市内を歩いてみるとウラジオストクと同じようにそれなりに坂道があるのだが、こうして船から見るとずっと奥まで平らなのではないかという気がする。
 私にとってオデッサ訪問そのものが約20年ぶり。海から入るのはむろん初めて。1時45分ぐらいには双眼鏡で見ると桟橋の向こうにポチョムキンの階段が認められる。戦艦ポチョムキンの水兵達もこうやってオデッサの町を眺めたのだろうか。
 船が接岸の作業を終えたのは2時半。それから約3時間のフリータイムがあり、街を歩く。船が着いているのがポチョムキンの階段の目の前の埠頭なので、階段から鉄道駅までの間を往復した。歩いてみて気づくのは古い建物の多いことだ。プーシキンがこの街を訪ねたという19世紀の雰囲気がここかしこに残っていると言っても言い過ぎでないかもしれない。しかし、これはサンクト・ペテルブルクのように意識的に街並みを残そうとしているよりも資金が無くて建て替えられないからではないのか。もう一つ、街に居に緑の多いこと。メインストリートの一つプーシキン通りなど、駅からオペラ劇場までの全線にわたって両側の並木が覆いかぶさって緑のトンネルになっており、その中を大型バスを含む多数の自動車が通行している。
 5時半、船のレストランで紅茶とケーキをごちそうになってからバスでオペラ劇場へ。この劇場に入るのも20年ぶりだが、建物はいたみがひどく、大小の亀裂が壁や天井に入っていたり無惨な雨漏りの跡があちこちにあったりで見るに堪えない。いちおう修復工事中ではあったが、それにしてもあの由緒ある建物がこんなになっているとは想像もしなかった。
 出しものはサンクト・ペテルブルクのワレーリー・ミハイロフスキーとかいう人の一団が演ずる男性ばかりのモダン・バレエ。第1部は「アルコール」「婦人」「リズム」「ダンス」などのテーマでそれぞれ2人〜数人が踊る。普通のバレエは一貫したストーリーがあるが、当然それはない。逆にガラなら、技術的に抜群であることが条件だが、見ていて下手ではないにしても格別卓越しているとも思えない。第2部は「シェヘラザード」や「ドン・キホーテ」などの曲も踊るものだが、プリマが演ずる役柄も男性が踊る。たとえいくら技術があっても女性のバレリーナにかわって男性が演じた良さがあったとも思えず、「ドン・キホーテ」でキトリの服装をした踊り手がバジルをリフトで持ち上げるにいたっては、何だこれはパロディだったのかと興ざめだった。カーテンコールでは「ブラボー」の嵐だったが、以前ペテルブルクで見たボリス・エイフマンの「ドン・キホーテ」のようなのを期待して行った私はあのブラボーはサクラではないかと思いつつロクに拍手もしないで帰ってきたものだ。
 
 10時から遅い夕食。ザクースカは何だかわからない食材のマヨネーズあえにトマトを添えたもの。やはり美味。メインはホワイトソースをかけた鮭のムニエル。つけあわせはミックスベジタブルを混ぜたライス。デザートはちょっとお洒落なエクレア。
   



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