ドニエプルから黒海へ (1996)


 

(01)ペテルブルク発

 

 私達がいた時期のモスクワ、ペテルブルクは、好天に恵まれ、予想していたよりは

暑い毎日でした。8月5日の夕刻、シェレメーチェボ2でイミグレーションと通関だ

けにに3時間もかかって、トランスファーの車が帰ってしまうという最初から荒れ模

様の旅を予感させる入国の翌々日7日だけ曇って長袖が必要でしたが、あとは10日

ペテルブルク郊外パブロフスクの見学中に俄か雨に見舞われた以外は晴天でした。

 ペテルブルクを出発する12日も快晴に近いよいお天気でした。いつもの通り8時

に2階のカフェテリアで朝食。モスクワの「イズマイロボ」と違ってここホテル「モ

スクワ」ではバイキング形式の朝食で、それなりに豊富なメニューでしたから、朝食

しかまともな食事を取れない貧乏旅行の我々はここで思いっきり満腹にしておく習い

でした。

 

 シベリア鉄道の旅の経験だと、極東地方やシベリアを走っている間は停車駅ごとに

ジャガイモだのピクルスだのを売っているお婆さん達がいるのですが、列車がヨーロ

ッパ部に近づくにつれ段々見かけなくなります。今回は欧州部も欧州部、サンクト・

ペテルブルクからキエフというコースですし、しかも途中に名前を知っている町が殆

どないというもしかするとローカルな線ですから、予め食料を調達しておかなければ

と思って、午前中に国鉄モスクワ駅のある蜂起広場まで4人で買い物に行きました。

ま、お決まりの黒パン、トマト、ソーセージ、果物、ジュースといったメニューです

が。

 

 列車はヴィテフスク駅(地下鉄のプーシキンスカヤに隣接する鉄道駅)13時半発

のキエフ行き。これが翌日の19時50分にキエフに着くことになっています。かつ

てのソ連時代と違ってキエフ時間はモスクワ時間−1ですから、所要時間31時間以

上。今回旅行の手配会社M社からもらった個人旅行用のリーフレットにはペテルブル

ク〜キエフの列車としては夜行の53番列車だけの記載があり、それだと26時間余

ですから、我々の乗った列車が急行列車だったのかどうかも怪しい。いわゆる「フィ

ルメンヌィ」でないことは確かなようで、どのワゴンにも行き先や列車名を示すサボ

が付いていませんでした。

 

 指定のクペーに入って驚きました。いつも乗るソ連の寝台列車と同じ構造ですが、

中の粗末で汚いこと。先日の「赤い矢」号に朝食のお弁当もついていたりで感激した

だけに、その落差に4人とも愕然です。シベリアでもこんなのには出会ったことがな

い(でも、シベリアで乗っているのは「ロシア」「ヴォストーク」「バイカル」とい

った看板列車ばかりでしたから。)のですが、私は「ま、こんなものでしょ」と覚悟

を決めてスーツケースも上の棚に上げてしまったのです。ところが、驚いたことにロ

シアへ70回も来ているという引率役のH先生がこれでは不満ということだったらし

い。送迎の旅行社員にいくらかのドルを渡して別のワゴンに変更させたのです。コン

ピュータで打ち出した筈の指定席をこんなふうに変えられるなんてやはりロシアは不

思議の国です。で、発車直前に引っ越しをして、ま、シベリア鉄道なみのクペーに移

ったのですが、出ていかれたほうのワゴンの車掌はやはりいい気持ちはしないでしょ

う。彼女「こっちのほうがいいのに」と言ったとか。

 

 列車はほぼ定刻にホームを離れました。この線はプーシキンやパブロフスクへ行く

郊外電車の走る線で、出発してしばらくすると右手にペテルブルクのプルコボ空港が

ある筈ですが、空港もプーシキン市もわからないまま過ぎてしまいました。もっとも

こちらも外の景色よりも昼食を優先させたからですが。

 

 晴天のせいで車内はひどく暑くなっていました。我々の隣室は昔ながらの薄い水色

というかグレーというかあの色の制服を着たのと袖の上部にロシア国旗をつけた深緑

色の新しい制服を着た2人の民警が乗っていました。制服ですからはじめは列車の警

備に乗っているものだと思ったのですが、同室は若い女性のようで、警備なのか出張

なのか、はたまた私用の旅行だけど単に着るものがなくて制服で来ているのか不明。

それはどうでもいいんですけど、あの厚手の生地の制服では暑くてやりきれないとみ

えて、その深緑を着たがっしりした体格の若いのが我々のクペーの前の窓を全開にし

てくれました。ロシアの列車の窓は開いても上半分と思っていたのでビックリしたの

ですが、そこは非常口だったのです。民間人がやったら車掌が飛んでくるところです

けど、伝統的に制服に権威がある国ですから、おかげで我々は助かりました。しかし

クペーの窓は開けようと思って力を入れてもピクリともしない。だから室内の空気は

冷たくならないのです。当初のボロ車両のほうの窓はすぐに開きましたからあちらの

車掌が「こっちがいい」と言ったのはそういうことだったのでしょうか。それに隣の

民警は途中で降りてしまって、また律儀にその非常口をきちんと閉めていったものだ

から、あとはもう温室状態。S君はもともとズボンの下半分を切ったようなのをはい

ているし、K子さんはさっさと短パンにタンクトップに着替えてしまったけれど、私

は長いGパンとデニム地の半袖しか持ってなかったものですから、ひたすら耐えるし

かない。こうなると日没に期待することになりますが、皮肉なことに北の国の太陽は

なかなか沈まず、日が落ちたのは8時頃だったでしょうか。そのあとで昼食と同じメ

ニュー(昼食の残りだから当たり前か)の夕食を4人でつつきました。暗くなって室

内灯が点いたのは10時頃でした。その頃になってにわか雨があり、デッキなどはい

く分涼しくなったのですが、室内は暑いままです。

 

 

 

 

(02)ウクライナへ

 

歳をとると早く目が覚めます。同室の誰よりも早く6時(前日までのモスクワ時間

だと5時)頃起きてしまいました。相変わらずの風景で、平原に畑や林が広がってい

ます。朝日の出るほうの空が赤くなっていてきれいでした。

 

 前夜のにわか雨のせいでしょうか、南へ下がっているのに室温がひどく下がってい

て、寒さで夜の間に何度か目が覚めたくらいです。寝具の中に毛布はなく、シーツだ

か毛布カバーだかわかないけどペラペラの生地のが渡されている(もちろんいつも通

り有料)だけですから、未明に目が覚めたとき反対側の寝台で蓑虫みたいになってい

る寒がりのK子さんにそっと1枚かけておきました。K子さんといえば「赤い矢」で

は転落防止のベルトのないソ連式の寝台車の上段を怖がって、あのタオルなんかをち

ょっとはさむゴム製のバンドに手を差し込んで寝ているのが可笑しかったのですが、

もう大丈夫で「今度の列車のほうが寝台の幅が広いみたい」なんて言ってました。

 

 4人とも起きてきた8時頃、日本から持参のカップラーメンで朝食。列車はとっく

にベラルーシ領内に入っていて、ヴィテフスクやモギレフも我々が寝ている間に過ぎ

てしまい、チェルノブィリ汚染地帯として有名なゴメリ州の州都ゴメリに近づいてい

ます。

 朝9時頃ジロービン駅。ここで不思議な光景を目にします。ホームで物を売るとい

えば果物などの食べ物と相場が決まっていますが、この駅ではたくさんの人達が大小

様々のぬいぐるみを売り歩いているのです。H先生が聞いてみたら近くにぬいぐるみ

工場があるんだとか。そこで安く買ってサヤを稼いでいるのでしょうか。それとも工

場が給料が払えなくなって現物支給したのを現金にしようとしているのでしょうか。

それにしてもおびただしい売り手の数で、列車の乗客相手にいったいいくつのぬいぐ

るみが売れるのかと思ったものです。

 

 10時40分ゴメリ着。おそらくこの沿線で最大の都市でしょう。列車は35分停

車。ホームから町へ出る地下道を通って駅前広場に出てみました。白ロシアの土を踏

むのは私も初めてです。駅舎はピンク系の色のきれいな3階建てで、正面に廻ってみ

ると「ベラルーシの鉄道125周年」の横断幕がかかげてあります。シベリア鉄道な

んかまだ100年になるかならないかですから、そこに込められた誇りのようなもの

が感じられます。駅前広場は人も車も多く活気があり、同じ州内で深刻な放射能汚染

の問題があることなど一介の観光客にはとても気づかないほどです。ロシアの町と同

じくキオスク風の店や露店がたくさん出ていましたが、表示されている価格の単位が

現地通貨なのでしょうし、街頭で札束を持って立っているお兄ちゃんがきっと両替屋

でしょうけれど、またすぐにベラルーシを出てしまう私達は両替もままならず結局写

真を撮っただけで列車に戻ってきました。

 

 12時に前日と同じような昼食。12時半頃、ベラルーシとウクライナの国境を通

過したようです。ウクラナイナ領に入って最初の駅ゴルノスタエフカで税関検査と入

国審査。税関吏はこちらが所持金を書いておいた申告書を見るでもなく室内を一瞥し

ただけで行ってしまいましたが、イミグレのほうは二、三質問もしてパスポートに印

を押してくれました。ただ、そのあとも少し居すわって日本のコインが欲しいなどと

いうものですから珍しいのがいいだろうと思って5円と50円の穴あき銭を上げまし

た。その後も何か珍しいものはないかなどと厚かましい。ボールペンを上げようとし

たら辞退されました。昔はボールペンで良かったのに贅沢になっています。

 

 未明から朝方は寒いくらいだったのに昼頃からまた暑くなってどうしようもありま

せん。隣室に民警はいないし、蒸し風呂状態です。風景も相変わらずですが、樹相は

ポプラが目立つようになってきました。

 このベラルーシ〜ウクライナでは前日のロシア領内と違って停車駅ごとに物売りが

多いのです。リンゴ、じゃがいも、胡瓜、スモモ、それに瓶入りの各種飲物、煙草、

はては毛糸まで売りに来ます。ま、今朝ぬいぐるみがありましたから毛糸ごときでは

驚きませんが。面白いのはシベリア鉄道の駅のようにそれぞれが定位置で「店」を構

えるのではなくて、少量の商品を持ってせわしなくホームを行き来し、列車から降り

てたたずんだりしている客に熱心に勧めることです。中には車内に入ってきて商売を

するアイスクリーム売りの少年もいましたけど車掌に降ろされていましたっけ。

 

 キエフが近くなった頃、室内に残った食料を片づけるべく夕食。でも途中でH先生

がバケツ一杯も買ったプラムなどかなりが残ってしまったのですが、11日に成田を

発ってキエフで私達4人と合流することになっているT君が、一人旅だからどうせ食

事らしい食事はしてないだろうということになって彼のためにホテルまで持っていく

ことにしました。

 

 ドニエプルにかかる鉄橋を渡って市内に入ってから鉄道駅に着くまでにちょっと時

間がかかりました。線路が市を巻き込むような形で敷かれているようです。でもほぼ

定刻に列車は到着しました。宿泊予定のホテル「ルィベジ」は駅から歩いても5分ほ

どのところで、私達の着くのを見計らうようにT君がホテルの外まで迎えに出てくれ

ました。食事のことは私達の見込み通り!彼、感激してくれました。

 

 「**の歩き方」にはこの「ルィベジ」について「観光客には勧められない」と書

いてありますが、私自身は今から9年ほど前でしたかここに泊まった記憶があり、当

時のソ連としては並のホテルで、特に悪い印象はありませんでした。「イズマイロボ

」ですっかりロシアの評価を下げたK子さんも「ルィベジ」についてはそれほどでも

と言ってましたから「歩き方」のあの記述が何を指してのことかはわかりかねます。

 H先生、T君、私の3人は昨年夏のボルガの旅仲間ですが、S君、K子さんとキエ

フまで一人で来たT君とは初対面ですから、H先生の部屋に5人集まって自己紹介を

してしばし歓談というつもりでした。ところが、久しぶりに日本語の話せる環境にな

ったT君のしゃべること、しゃべること..、いつまでも尽きない感じでした。

 

 

 

 

(03)キエフの散策

 

 14日も朝は6時頃には起きてしまいました。同室のT君を起こさないように部屋

を抜け出して、ホテルから中央ルィノックまで伸びるシェフチェンコ並木道を散歩し

てみます。交通量の多い大きな道ですが、両側の歩道とは別に中央にポプラの並木道

があって散歩にはうってつけです。道の右側はキエフ大学の植物園です。地下鉄「大

学」駅の近く、植物園と反対側にあるウラジーミル寺院に人が出入りしているので私

も入ってみました。外観も立派ですが、内部もロウソクで煤けてはいるものの、祭壇

も壁のフレスコ画も立派です。祭壇に向かって右前方の小高い台の上に10人ほどの

女性と少年がいて、司祭のお祈りに合わせるように合唱をしています。いわゆる聖歌

隊という感じでなくそれぞれ私服です。教会にやってくる人々はみな手に手に麦の穂

を添えた野草の束を持っています。この日が何かの祭礼の日なのでしょうか。

 

 8時に朝食。「イズマイロボ」ホテルの悪口ばかり言うわけではありませんが、こ

ちらのほうがずっといい。この日は、パン、バター、ブリヌィ、イクラ、チーズ、2

種類ほどのソーセージ、西瓜、コーヒーというメニューでした。

 9時過ぎに5人一緒に町へ出てみることにしました。その前にホテル内の両替所で

現地通貨を手に入れなくては。私はロシア旅行では殆どドルを使わずに両替も円から

するのですが、ウクライナでは円からカルバボネツに両替できたところが1ヶ所もあ

りませんでした。ここでは使い残しのルーブルを持っていましたから、それをあるだ

け 330,000ルーブル出したらなんと 9,900,000カルバボネツがきました。1千万近い

数字の現金をポケットに入れて持ち歩いたのは勿論生まれて初めてです。日本円では

6千円ちょっとですが。

 

 まず朝の散歩と同じように並木道を上っていきます。あのウラジーミル寺院には朝

よりもはるかに大勢の人々が集まっていました。みんなで中へ入ってみたのですが、

もう立錐の余地もないほどです。しかし、入口から祭壇に向かう中央の通路は空けら

れていて、時間になったらそこをきっと高僧が通るのだろうということをうかがわせ

ます。K子さんの隣にいたいかにも上品な感じの婦人が自分の持っていた花束の中か

ら麦の穂と野の花を抜いてK子さんに分けてくれました。H先生がその婦人に聞いて

みると、この日は「夏の終わり」の日の最初の祭礼(2回目は19日)だという説明

だったそうです。K子さんはお返しに金色の折り紙で折った折り鶴をそのご婦人に上

げていました。

 

 祭礼が始まった直後に信者でない私達はそこを出て、寺院のある四つ角から左に折

れウラジミル通りを歩くことにしました。シェフチェンコ名称バレエ・オペラ劇場、

黄金の門(モスクワ郊外ウラジーミルにも同名の門がありますが、こちらのはいかに

も遺跡という風情です。)と進み、門の脇の芝生の公園が木陰になっていたので、そ

こで一休みしました。キエフは緑の多い町で、こういう場所が市中至るところにあり

ます。S君が缶入りのジュースを見つけて皆に1本ずつ買って来てくれました。珍し

く冷えています。

 

 そのまま通りをまっすぐ歩いてソフィア寺院(レモントで入ることができません)

前を通り、アンドレイ寺院前の小高くなった広場でまた休みました。そうです、国立

歴史博物館の正面にあたる場所です。ここにも木陰の草地があって、みんなそこに座

り込んだり寝そべったり思い思いの姿勢で。冷たい飲み物が美味しく感じるほど陽射

しは強いのですが、木陰だと涼しい風が吹いてきて心地よいのです。この広場にはキ

エフ・ロシアがキリスト教を受容してまもない頃の教会が建っていたとかで、その土

台の一部が保存されています。

 

 キエフの旧市街はドニエプルの右岸にあって、しかも川岸から少し高いところに開

けています。私達は深い木々で覆われた急な坂道を下って川岸まで出てみました。下

りたところがキエフの河港で道を渡って船着場まで行ってみると、翌日我々が乗る予

定の「マーシャル・ルィバルコ」号が既に接岸しています。内装こそ違うのでしょう

が、93年のエニセイ川の「A・チェーホフ」、昨年のボルガ川の「V・マヤコフスキ

ー」と全く同型の5層の川船です。旅客定員が330名ほど。喫水の浅い川船で黒海

まで出るというのがちょっと不安ですが、見た感じはそんな悪くはありません。船着

場にあった小さなビュッフェで昼食。アンチョビのオープン・サンドにちゃんと冷え

た缶ジュースで150,000krb、つまり100円ほどでした。さっきS君が買ってくれた

のも冷えてましたけど、この町では飲み物が東京のようにちゃんと冷やされているの

に驚きました。そういえば10年くらい前のソ連時代でもこのキエフはモスクワなど

に比べると通りの雰囲気なんかもあか抜けしている感じがありまたし、今でもロシア

の一歩先を行くなんてところがあるのかもしれません。

 

 町へ戻るのにあの急な坂道はイヤですから、郵便広場からフニクラを使って川岸の

丘の上に上がり、そのあとドニエプルに沿って岸の道を下流に向かって歩いて、「ド

ニエプロ」ホテルの前からキエフ一番の繁華街クレシャチク大通りを中央ルィノック

へ向かってぶらぶら歩きました。以前ここを訪れた時と比べると外国企業の看板など

がすっかり目立つようにはなっているもの、通りの風情は昔のままでちょっとホッと

したものです。ただ、標識や看板はもうほとんど全部と言っていいほどウクライナ語

になっています。

 

 ルィノックに近くなったところでクワスを売っているのを見つけました。驚くこと

にこれもちゃんと冷やしてある。半リットルで 30,000krb。クワスは初めての日本人

にとっては好き嫌いが半ばするようですが、K子さんには割に気に入ってもらえたみ

たい。糖分を溶かしてはないし酸味を含んだ複雑な味のこんないい伝統飲料があるの

に、どうしてコーラのようなものがロシアやウクライナで幅をきかせるのかと思いま

す。今回の旅ではロシアではとうとう一度もクワスを見かけませんでした。

 ルィノックでは夕食用のパン、野苺、茄子を辛めに煮た惣菜、ケフィールを買って

シェフチェンコ並木道からホテルへ向かいました。そのルィノックをから並木道へ出

る地下道の所で災難。ジプシーに付きまとわれたのです。私とK子さんとT君は素早

く逃げましたが、H先生とS君はいくらかお金を渡したみたい。

 その後、T君は途中で別れて植物園へ。Hさんは町へ本を探しに。彼がロシアやそ

の周辺へ来るのはそれがお目当てですから。

 

 一度ホテルへ戻ったあと、K子さんと一緒に地下鉄のヴォグザリナヤ駅(訳しちゃ

うと変なことになりますから)からドニエプルの中州にあるギドロパルク(ハイドロ

パーク?)駅まで行ってみました。ドニエプル越しにペチェルスキイ修道院の屋根な

どキエフ旧市街の岸辺が見えると思ってです。このあたりは市民の水浴場になってい

て川岸は水着姿の人達でいっぱいでしたが、ただ水はあまりきれいではない。日本人

なら泳ぐのをちょっと躊躇するような色をしていました。この駅前でもクワスのタン

ク車を見つけました。スタンドでなく昔懐かしいタンク車なのにこれも冷たくなって

いました。

 6時半にホテルへ戻って皆で夕食という約束で時間がなかったのですが、K子さん

がまたキエフに来ることはまずないでしょうから、川岸のキエフの創始者の像のとこ

ろまで行ってみることにしました。地下鉄をひと駅戻ってドニエプル駅で降ります。

この駅は地上というか川の上にあって鋳鉄か青銅のオブジェで飾られたなかなか印象

的な駅です。ここから市電でひと停留所のところなんですけれど、歩いてしまったた

めに約束の時間に間に合いそうにない。それでもとにかくたどり着いて、船に3人の

聖者が乗ったあの像とその正面の丘の上に立っている「祖国の母の像」をバックに写

真を撮って急いで戻ろうとしました。帰りはさすがに市電でということにしたのです

が、こういう時に限ってなかなか来ない。それにタロンを持ち合わせていない。停留

所で待っている人や乗ったあとで近くの人にも持っていないか聞いたのですが「ニェ

ット」という返事。結局、無賃乗車で、ドニエプル駅で2人して逃げるように降りて

きました。日本ではキセル乗車は一切しない主義の私なんですが。それにしてもみん

ながみんな「ニェット」ということは一体どうしているのか、それが不思議です。

 

遅れたお詫びに鉄道駅の露店でミネラルウォーターとジュースを買い、夜7時頃か

らHさんの部屋で夕食。S君が日本から持ってきた湯沸かし器と粉スープのおかげで

さっき買ったあんなものでも食事らしくなりました。そのあとS君が下のバーからワ

インを買い込んできてそれで11時くらいまでみんなで話し込んでしまいました。

 

 

 

 

(04)キエフ市内観光

 

 15日、乗船の日です。7時前に起きてシャワーを浴び、8時から朝食。迎えの車

が来るまで時間がありますから、日本への絵葉書を3通(と言ってもそのうちの1枚

は自分宛で、住所を書くだけですけど。)書いて、はがき売りのおばさんに託しまし

た。3通で370,000krb。3で割り切れない金額なのが不思議です。

 

 10時にホテルへ迎えの車が来て前日行った河港で乗船しました。私とT君、それ

にHさんとS君が4階の船尾に近いほう。K子さんが3階のいちばん船首寄りです。

でも、ほんとうはそうなっていなかったらしい。それはこういう事情です。K子さん

は女性1人ですから、その部屋をもし誰かに売るのなら必ず女性にしてくださいとい

うことを日本のM社から船を持っているREST社に言ってあったのです。我々が乗

船したときはK子さんの同室者はまだ乗っていなくて、「たぶん誰も来ないんじゃな

い?」なんて言っていたのですが、その後2階の受付の前を私達が通った時、年配の

ロシア人女性がこちらを日本人とわかって声をかけてきたのです。この人がK子さん

の同室になる人でした。ところがこの人は4階のHさんのキャビンのキーを要求した

のです。だからK子さん達は4階の船室だった筈なのです。でもそういう交渉ができ

るほどロシア語が堪能なのはHさんしかいませんから、結局K子さんとそのロシア人

女性は3階のやや小ぶりのキャビンに落ちつくことになりました。K子さんはロシア

は初めての上にロシア語が殆どできませんから、1人だけ離れては心細いと思って、

私とT君かHさん達のどちらかが3階と部屋を代えたらどうかとHさんに言ったので

すが、面倒くさいのか別の理由からか、彼は応じません。それが後日に火種を残すこ

とになります。

 

 このHさん、語学のほうは権威なんでしょうが、細やかな心遣いができなくて添乗

員としては殆ど失格ですね。K子さんなんか、モスクワのシェレメーチェボでそれに

気づき、もう2日目ぐらいにはすっかり見抜いて「ロシア語以外はアテにしない」と

言い切っていました。去年も(旅行記にも書きましたが)ロシアは初めてというMさ

んなんかをエルミタージュの入口で放り出して「見ておいで」ですから。各都市では

観光が含まれていなくて殆どフリータイムの企画で、M社のリーフレットは「H先生

と街の散策をお楽しみください」だの「プランはH先生と一緒に立てて下さい」とあ

るのですが、本人は自分の研究用の資料になる本を探すのが目的で来ていますから、

「一緒に」どころではない。去年の旅では私がHさん以外の若い人達全部を連れて郊

外のクリンまで行きましたし、今年もクリミアから帰ったあとのモスクワでK子さん

以外の全員を引き受けたのが2日もありました。私自身はもともと勝手に動き回りた

いほうですからそれほど気にはならなかったのですが、去年初めてだったT君や今年

が初めてのK子さんにとってはやはりつらかったようでした。

 

 このK子さんと同室の女性、ガーリャさんといってモスクワに自分のオフィスを持

つジャーナリストということでした。ただ、英語ができない。K子さんは英語なら堪

能ですからガーリャさんが英語ができればコミュニケーションが楽だったのですが、

これもK子さんにとって辛い点になりました。

 

 1時、船での初めての昼食。6人がけのテーブルに我々5人とガーリャさんです。

去年のボルガの船とと比べて量も少なく、食後のコーヒーも出ない質素な昼食でした

が、「第一の」サリャンカが美味しくて私は満足でした。

 

 3時からバスで市内観光というプログラムが組まれていました。正確に覚えていま

せんが6台か7台のバスをチャーターしてあって、それに分乗してです。ガーリャさ

んは早めにバスに乗って隣の席をK子さんのために確保してくれていました。でも、

K子さんはガイドのロシア語がわかりませんからこういう時はHさんの隣にいる必要

があり、そのバスに我々5人分の席は残っていませんでしたので、結局ガーリャさん

とは別のバスに。でも、彼女も一人旅のようでしたから、私だけこちらのバスに回っ

てガーリャさんと一緒に行くことにしました。エニセイ、ボルガの時と違って船客は

殆ど全部ロシア人ですからガイド氏は遠慮なく早口のロシア語でしゃべります。バス

の車内での私の様子を見て、ガーリャさん「ガイドの話はわかるのか」と聞いてくれ

ます。実際ほとんどわかっていませんからそう答えると「あなたの国を言葉を知らな

くて残念」と気を使ってくれます。そして、私のわかりそうな短い単語を使ってとこ

ろどころで説明もしてくれました。

 

 最初がペチェルスキイ修道院。はじめにに下のテリトリの高僧のミイラのあるとこ

ろへ行ったのですが、以前と違って宗教活動をしている今は見学者が地下道を歩ける

距離もぐっと短くなり、照明もすっかり消されていて見学者は祈祷用の蝋燭を買って

それで自分の足元を照らして歩くという方式になっています。上のテリトリと下とを

むすぶ坂道には絵はがきなどを売る人達のほかに民族服の男性がバンドゥーラを奏で

ているのを見かけました。曲は哀愁を帯びていて人の心を引きつけ、もし団体行動で

なかったら私はそこでしばらく聞き入っていたかもしれません。この後、いろいろな

町々でCDやテープを売っているところがあるとウクライナのバンドゥーラはないか

と聞いたのですが、どこにもありませんでした。最後モスクワのCD屋さんで「この

中にある」と言われてウクライナの歌曲というCDを1枚買ったのですが、でもバン

ドゥーラらしいのはないようなのです。もしかすると、日本でのほうが手に入りやす

いかもしれませんね。どなたかご存じだったら教えてください。

 上のテリトリではキューポラを一つだけ残して壊れてしまっているウスペンスキー

寺院、それに三位一体教会を見学しました。

 正門を出て大祖国戦争メモリアルのほうへ向かう道の右手に小さな碑があり、ガイ

ド氏がそれを指して何か説明するものですからガーリャさんに聞いてみたらアフガン

戦争の犠牲者のための記念碑だそうです。ソ連時代にはなかったわけです。

 

 バスはその後前日私達が行ったアンドレイ寺院前の小高い広場に向かい、歴史博物

館脇の展望台から眼下に広がる川岸の町並みを見下ろしながらガイド氏がいろいろと

説明してくれたのですが、これも殆どわからずじまい。その辺りは観光客目当ての露

店が多く出ているので、しばし買い物休憩という粋な計らいもあって、私はウクライ

ナ風の刺繍を施した布(そう、あのパンと塩での歓迎の時にパンを載せたり、イコン

の周囲を飾ったりするあれです。)を2枚買いました。私は物を買う時に値切る習慣

がなく、言い値で買ってしまいます。こういう露店ではそれは絶対ダメですね。1枚

が20ドル、もう1枚が70ドルと言われて90ドル出したのですが、あまりの「無

抵抗」に売り手のおばさんのほうが却って慌てたのでしょう。50ドル返してよこし

ました。女の人には信じられないでしょうが、男の買い物なんてこの程度です。

 

 そのあと、ソフィア寺院のところで今度は食料買い出しのための休憩があり、最後

はやはり前日に2度も行ったウラジーミル寺院でした。やはりミサの最中で、堂内に

は今度は混声合唱が響いていました。前日のような聖歌隊の席ではなく、中央の柱の

そばのちょうどK子さんが麦の穂と野草をもらったあたりに前日同様それぞれ勝手な

私服を着たグループがいて、ずいぶんリラックスした姿勢で歌っていますが、聖歌そ

のものはやはりきれいです。司祭のお祈りの間に頭にベールをかけた指揮の女性が小

さな声で音取りをしています。さっきバスの中で母親か誰かに向かって強い調子で何

か言っていた若い娘さんがベールを被ってここへ来ると見違えるような敬虔な信者に

なっているのが可笑しくもありました。

 

 7時に船に戻ってみるともう夕食の時間になっいて、私とガーリャさん以外の4人

はもうテーブルに着いています。あちらのガイドはあっさりしていて、私達より随分

前に帰ってきていたとか。

 この食事中に各テーブルにカードが配られ、何かと思ってみると翌日の朝食、昼食

のスープとメインディッシュ、それに夕食の料理をそれぞれ3つずつの選択肢の中か

ら選ぶようになっています。船旅で食事のチョイスというのは初めての経験です。翌

日からは昼食のときにカードが置かれるようになりました。これってこちらはいいで

すが、ウェイトレスの人は大変ですよね。もっともお互い前日どれに○をつけたかを

よく覚えてはいないものだから「これ頼んだっけ?」などと言いながら結局運ばれて

きたものを食べていましたけど。

 

 夕食後、Hさんがガーリャさんを後部の甲板に誘って去年同様オセロの手ほどき。

この初めてのゲームをガーリャさんはいたく気に入ったようで、その後われわれのグ

ループ、とくにロシア語ができてかつオセロのあまり強くないS君には彼女からしば

しば声が掛かっておりました。

 

 深夜12時に「M・ルィバルコ」はキエフ河港を出航。日中の暑さが嘘のように寒

くなっていましたが、ライトアップされたペチェルスキイ修道院の鐘楼と祖国の母の

像が見えるところまで甲板で頑張っていて、そのあとまもなく船室に戻りました。

 

 

 

 

(05)カネフ

 

 前夜が遅かったので、この日(16日)は起きたのが7時頃でした。朝から音を出

して同室のT君には悪いけどいつも通りシャワーを浴びます。洗面所から出てみると

船の脇に防波堤のようなものが見えます。もしかすると昇降用の水門ではと思ってデ

ッキに出てみると、はたしてカネフの水門です。急いで3階に降りてK子さんをよん

で一緒に甲板に出てみました。船の周囲には鴎ではなくたくさんの燕が飛び回ってい

ます。日本のより少し太っている感じ。8時から朝食になってしまって、甲板で水門

通過の一部始終を見ていることはできず、我々が朝食のテーブルについた頃、船は水

門を抜け出していました。

 

 船がカネフの船着場に接岸したのは9時前でした。船着場にはお土産売り、瓜や桃

などの果物瓜、それに何に使うのか花売りの人達など物売りの人が大勢います。

 10時からはこの船着場から歩いてほんの少しの「タラスの丘」と呼ばれる小高い

段丘の上にあるシェフチェンコ博物館の見学でした。もちろんバスはなく、徒歩で。

この丘からはドニエプルの川筋を少し遠くまで眺めることができ、なかなか景色のい

い所です。丘の上には記念碑や花壇のある広場、タラス・シェフチェンコの墓、彼ゆ

かりのイズバ、それに博物館があります。博物館の建物も河港のターミナル(という

ほどの建築物ではないけど)同様おびただしい数の燕が営巣して群舞しています。

 ここでもいくつかのグループに分かれてそれぞれにローカルガイドがつくという方

式でしたが、幸か不幸か私達のグループのガイド嬢はとてつもなく熱心な人で、博物

館の一部屋一部屋をそれこそエピソード一つも残さず話すという感じでしたから、時

間がかかる、かかる。ロシア人のお客はともかく、よくわからないで付いてまわって

いるこちらはも閉口しました。K子さんは「ロシア語のシャワー」なんて言ってまし

たけど、言い得て妙。

 

 1時から昼食で、その後は自由時間になっていましたから、ガーリャさんを含めて

6人でカネフの町まで行ってみることにしました。船着場からのバスは1時間に1本

というダイヤなので、はじめは徒歩で町へ向かい、バスがやってきたところでそれに

乗りました。イカルスなんかではなく古い国産と思われる小さめのバスで、昔の日本

みたいに女の車掌さんが乗っていて運賃を受け取っています。小さな町ですから、お

客どうしみんな知り合いみたいなもんで、乗ってきた客と車掌との会話も「あれ、こ

んにちは。元気?」といった感じです。

 ところがこのバス、坂道にかかるとなかなか登っていけない。「ほら、頑張れ」な

どと思っているうちにとうとう全然前へ進まなくなって乗客は降りることに。日本で

はもう久しく経験することのなくなった出来事です。ま「バスを押せ」と言われなか

ったことを感謝すべきだったかもしれませんが、我々を降ろして身軽になったあとは

なんとか坂を登って行きました。こちらは再び徒歩でということになったのですが、

その後で道路に設けられた雨水枡の格子(隙間が少し大きめだった)にK子さんの足

がそこにはまってしまうという事故あり、気の毒にそこが内出血してしまいました。

どういうわけか今回の旅、不運は彼女に集中します。

 

 町のはずれにあるウスペンスキー寺院という小さな教会へ行ったのですが、教会は

この日はザクリイト。前庭にはファジェーエフの小説「若き親衛隊」のモデルになっ

たパルチザン部隊の指揮者の像が立っています。そう言えば「若き親衛隊」はウクラ

イナが舞台でした。大学の図書館から借りて読んだものですから本は手元になく、そ

れがカネフの辺りなのかどうか今すぐに調べることはできませんが。

 寺院のすぐ脇は大祖国戦争犠牲者の慰霊碑のあるメモリアルパークになっていて、

さらにもう少し先に行くと児童文学者ガイダル(日本では岩波少年文庫に「チムール

少年隊」というのがあるそうです)の博物館と墓があります。

 

 バスで船着場まで戻るとガーリャさんは少し離れた岸辺に泳ぎに行ってしまったそ

うですが、5時過ぎから私とK子さんはやはり岸をガーリャさんとは反対の町のほう

に向かって歩いてみました。人影は多はないものの、川で泳ぐ人や釣り糸を垂れてい

る人達がいます。川は遠浅になっているようで岸から10mぐらい離れても人が立て

るようです。そばの道では男の人が放し飼いの山羊を追いながら家路についていたり

という、のどかな田舎の風景です。

 

 6時半から3階船尾にあるレストランでいつも通り夕食。食事が2交代になってい

るのはいつもの川船と同じですが、今回は途中で前後の交換がありません。あとのシ

フトになった人は朝食は9時頃だし夕食も8時からとかでたいへんです。

 そのあとは夜9時から船着場の岸辺でシャシリク・パーティーがあることになって

いてK子さんにはシャワーを浴びたらこっちに来たらと言って船室に戻ったのです。

時間が中途半端なものですから、H先生とS君のキャビンに行ってみたけど、2人と

も所在なげで私はデッキに出て夜風を浴びていました。シャシリクの30分前に5階

の甲板でクルーの紹介があるという船内放送が流れていました。どうせロシア語です

から行ってもしかたがないと思っていたし、Hさん達もそう言っていたのですが、お

互いすることがないものだから結局T君とK子さん以外は甲板に上がってきてしまい

ました。

 

 9時にシャシリクの券を持って船を降りるとそこにガーリャさんとK子さんが待っ

ています。しかし、どうも彼女の様子が普段のようではありません。やはり、同じキ

ャビンにいる二人の間でうまく意思の疎通ができないのが問題のようです。なるべく

こっちへ来ればと言ったのですが、Hさんとは対照的にすごく周囲に気配りをする人

ですから、そうしょっちゅう船室を外してはガーリャさんが気を悪くするのではと思

うらしいのです。しかも、他人のキャビンに行ったんでは自分自身が休まる時があり

ません。「みんなはいいわね。部屋で思いっきり手足を伸ばして寝られたりして。」

という言葉に思いがこめられています。で、夕食の後、そんな不自由な思いをしてい

たら8時半頃ガーリャさんが上に行くという素振りをしてどこかへ行ってしまったと

いうのです。ガーリャさんはクルーの紹介のときに甲板に上がってきていましたらそ

ういうと、「えっ、そんなことがあったの」と完全にカチンときたようです。クルー

の話はK子さんには全く伝わっていなかったからです。ガーリャさんだってロシア語

ばかりの「儀式」に彼女を誘うよりも部屋で1人で休んでいたらと思ったのでしょう

が、K子さんにしてみれば自分だけ情報を遮断されていたということになります。

 こうなるとシェレメーチェボやイズマイロボ以来積もっていた気持ちがいっぺんに

噴出します。「この旅って、ロシア語を話せる人じゃないと来ちゃいけなかったんじ

ゃない?」「ロシアへ行くって言ったとき、まわりの人はみんな反対したの。やっぱ

り来るんじゃなかった。」... K子さんは私が誘って、ほぼ夏のボーナスの全額と夏

休み全部プラス有給休暇を使って来てもらっていますから、こうなると返す言葉もあ

りません。何と言っていいのかまったくわからないのです。あとになってこの夜のシ

ャシリクは美味しかったとよく皆の口から聞かされたのですが、私はこの時のシャシ

リクは味があったのかどうかも覚えていません。

 K子さんはシャシリクとワインを受け取った後T君と2人だけでみんなから随分離

れた川岸に座って長いこと話していました。T君も去年・今年とHさんにはわりに冷

たくあしらわれているから話が合うのでしょうが、「ロシアってこうなんだ」とK子

さんの不満を増幅させるようなところがあって私は気がかりでした。大勢の船客の話

し声や歌声で賑やかだったのも静かになった頃にT君も船室に帰ると言うので、K子

さんだけ照明が少なくて星の見えやすい反対側の岸に誘って少し話しをしようと言っ

たのですが、ほんのちょっとの間そこにいただけで「寒いから」と彼女もキャビンに

戻ってしまいました。夜空には日本では久しく見たことのないような満天の星が輝い

ていて、天の川さえはっきり見届けられる夜でした。

 

 その後でHさん達の部屋へ行って事情を話して相談しました。K子さんが何か言う

度にS君が「大丈夫だよ」と言うのもはじめのうちは彼女にとって励ましになったけ

ど、今では冷たく感じるとも言っていたことも話し、やはり部屋が遠ければ情報も伝

わりにくくなることや、これまでのツアーで外国人と同室になるケースなんか無かっ

たことも言ったのです。それに部屋のキーが一つですから、ガーリャさんが就寝して

しまう前に戻らないと迷惑になと彼女が気にしていることも。S君は「旅はまだ始ま

ったばかりだから」と言ってとても真剣に考えてくれたのですが、肝心のHさんがい

まいち。結局できるだけ情報はちゃんと伝えてもらうこと、船室の空きがないか、予

備のキーを貸してもらえないかを翌日船のデスクに聞いてもらうことにしました。も

っとも翌日「どっちもダメだった」という冷たい返事が戻ってきましたが。

 

 4階は船室としては等級が上なのかもしれませんが、我々の部屋のすぐ上がイベン

ト用のホールになっていて、そこで行われているディスコパーティーの靴音がいつま

でも響いてこの夜はなかなか寝つけませんでした。

 


 

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