バイカルの畔へ (1994)


 

(1) 臨時着陸

 

8月10日(水)

 新潟空港を16時半の定刻に飛び立ったTU-154は順調に飛行を続け、18時を過ぎる頃

に機内放送があって「ハバロフスク」というのが聞こえます。「ハバロフスクの上空

を通過中」というアナウンスだと思っていたのですが、これがとんでもない!なんと

「給油のために」ハバロフスクへ臨時着陸するという話だったのです。

 

 私は飛行機のことは詳しくないのですが、イルクーツク行きの直行便にイルクーツ

クまでの燃料が積まれてないということはほんとうにあるのでしょうか。副操縦士

「機長、燃料が足りません!」機長「しまった、新潟で燃料を入れるのを忘れて出て

来ちゃった」なんて(^_^)。

 ことの真相についての私の想像は次の通りなんですが..。機長の娘「パパ、今度極

東のほうへ友達と遊びに行くんだけど、帰りがちょうど水曜日だからハバロフスクで

拾ってくれない?」機長「そうか、そうしてあげよう。汽車賃も浮くし。」(まさか)

 

 真相はともかくとして、夕闇が覆い包もうとしているハバロフスク空港の駐機場に

ついた飛行機のそばにタンクローリーらしき車が2台やってきました。うち1台のそ

ばには運転手の飼い犬か野良犬か知りませんが、犬が1匹ついていてローリーの下で

雨やどりをしたりしています。規律正しい日本の犬は駐機場になんか絶対はいらない

んですがね、やはりここはロシアです。

 ガソリンスタンドで「満タンに」というのとは違って飛行機は一度降りると最低限

の整備をしなければなりませんから、そう簡単には飛び立つ気配がありません。我々

はあの狭い機内に閉じこめられたまま身動きできずにいます。そのうちスチュワーデ

スが2度目の飲物を配り始めました。この地上で飲物が配られるというのは、昨年暮

れまだ成田を飛び立たないうちに配られたのを思い出しても、悪い前兆です。「当分

飛ばないよ」という。

 そのうちに雨足がはやくなり、稲光も強くなります。案の定「嵐の過ぎるのを待つ」

というアナウンスです。しかも空調を切ったのか、機内は蒸し暑い。それともロシア

の飛行機には対寒さ用はともかく、対暑さ用の空調はないのでしょうか。

 

 ようやく21時前になって雨も小降りになり、ハバロフスクを飛び立つことができま

した。予定通りならイルクーツクに着いている時間です。雨はやんできても気流の状

態は良くないらしく、離陸後の1時間ぐらいはけっこう激しい揺れでした。

 それがおさまってきた22時頃になってようやく食事が出ました。12時すぎに新潟駅

の食堂で食べて以来10時間ぶりです。あそこで立ち食い蕎麦にするかちょっと奢って

ネギトロ丼にするか迷ったのですが、ざるそばなどにしていたら今ごろひどい思いを

しているところでした。

 積んだときは柔らかだったはずのステーキにスパゲッティを添えたの、サラダ、果

物のゼリー、パン、バターのメニューで、あとで紅茶かコーヒーが出ました。

 

 24時ようやくイルクーツク空港着。猛暑の日本とはうってかわって気温15℃という

ことでしたが、タラップを降りたところで耳にした日本人客と現地の人との会話では

前日までは猛暑(といっても日本から見たらかわいいものでしょうが)で30℃だった

とか。例によって入国審査等に小1時間はかかり(入国のスタンプの日付はしっかり

11日になっていました。たいしたものです。)、ホテル「インツーリスト」についた

のは02時。添乗員の山上さんが手続きをしている間に両替をしましたが、5,000円で1

02,800ルーブルと昨年暮れに来たときの半値以下です。前回の旅行のとき16,000Rほ

ど持ち出しましたから、う〜ん50%(800円)もの為替差損です。

 疲れてましたからシャワーも浴びずにそのまま寝ました。02時半くらいでした。

 

 

 

 

(2) イルクーツク

 

8月11日(木)

 前夜到着が遅れたので、この日の午前中は自由時間ということになっていたもので

すから、起きるのも成りゆきでいいと思って寝るときに目覚ましもセットしませんで

した。

 目が覚めたのは07時40分ぐらい。すぐにシャワーを浴びました。私は旅に出ると、

こうやって朝シャワーを浴びることが多いのです。洗面所ではちゃんとお湯が出るし、

日本の宿みたいに歯ブラシ、石鹸、シャンプーなどのパックも置いてあります。なか

みは韓国製のものが多いらしく、ハングルが目に止まります。ロシアのホテルという

と、洗面所にごわごわのタオルや糊の効いたシーツみたいな布などあわせて3種類ほ

どかけてあって、どれがバスタオルでどれが足拭きか迷うというのが相場でしたが、

ここではタオルは柔らかいし、足拭き用のには大きな足の模様がついているので一目

瞭然です。

 でも、シャワーを浴びても完全には起きてなかったのですね。そのあと、旅に出る

前から充血していた左目に目薬をさした直後にそれが目薬でなく水虫の薬であったこ

とに気づいて慌てました。10分か15分洗浄したでしょうか。(^_^;)

 

 このホテルでも朝食はバイキング形式で、08時から10時のあいだの好きなときに行

って食べてよいことになっていました。この朝食べたのは、黒パン、バター、カーシ

ャ、チーズ、ソフトサラミ、ジュース、キャベツの千切り、紅茶。コールスローと言

っていいのですかそのキャベツの千切りは、日本ではふだんあまり馴染みのない香り

のする油であえてあって、その油の味がなんとも言えずおいしいのです。

 

 午前中の空き時間を利用して、以前知り合った人達のところを訪ねてみることにし

ました。11年来の知り合いのアントンの実家には電話が引けているので、ホテルの部

屋から電話したのですが、知らない男の人がでてすぐ切られてしまいました。共同電

話なのでしょうか、それともロシアの電話回線はいい加減に働く?あるいはちょうど

居合わせた泥棒が電話に出た?ま、そんなこともないでしょうから行って確かめるこ

とにします。

 

 さきにスリコフ通りのレーナの家へ。ホテルからは歩いて10分ちょっとの距離です

が、これまで一度も訪ねたことがありません。ロシアの街の通りには通りの名の表示

と番地を書いた大きなプレートが1軒ごとについているので、わりに目当てのところ

が捜しやすいのです。ただし、アパートの中に入ってしまうと、階段や踊り場の照明

が暗いか場合によっては電球が切れていても放置されているし、ドアに表札はないか

ら、目的のフラットに行き着くのはちょっと大変。もちろん携帯用の懐中電灯を持参

しました。

 でも、レーナのフラットは簡単に見つかりました。ノックするとお母さんが出られ

て、名乗りもしないうちに中に入れてくださいました。私がイルクーツクに行くとい

う葉書が既に着いていました。お母さんは洗濯のまっさいちゅうだったのですが、レ

ーナのほうは寝ていたらしく、しばらくして居間へ出てきました。日本と同じですね、

夏休みとなると母親が働いていても、娘はいつまでも寝てるというのは..。

 レーナ達と知り合ったのは3年前、当時14歳でまだ子ども子どもしていた彼女も、

この秋からカール・マルクス通りにある国立経済アカデミーの学生ということですっ

かり綺麗になっていました。

 突然の訪問で、しかも家事のさなかだというのに、お母さんがお茶を用意してくだ

さいました。紅茶にジャムを添えて、あとチーズ、サラミ、胡瓜、蜂蜜、それに黒パ

ン。酸味のある黒パンに蜂蜜が合うのは知りませんでした。

 レーナとお母さんの写真を撮って、16日にもう一度、今度はレーナの友達ナターシ

ャと一緒にホテルで会う約束をして11時ぐらいに辞してきました。

 

 レーナの家はアンガラ河畔の永遠の炎のすぐそばですが、アントンの実家はズナメ

ンスキー寺院へ行くときに渡る川のすぐ手前にあります。レーナのところから20分以

上は歩いたでしょうか。呼び鈴を押しても応答がないので、ドアをノックするとまっ

さきに犬が、そのあとアントンのお父さんワレンチンが出てきました。フラットを修

理するとかでほら電気もつかないんですよと、スイッチを入れたり切ったりしてみせ

てくれます。お母さんのナターリヤ・ニコラエヴナとアントンの妹アーニャはアント

ンのアパートに行っていて留守だということで、じゃぁ今夜08時にまた来ますという

ことで帰ってきました。

 

 13時の昼食までまだ間があったのでまっすぐホテルへのコースをとらずに繁華街の

カール・マルクス通りをまわってみました。商店には思ったよりも豊富に商品が出回

っていて、またそれを買っていく客も多いのです。こういう通りだけを見ていると経

済の混乱とかそういうのが嘘みたいに見えます。商品は、食品にしてもオーディオ機

器みたいのであっても外国製品が非常にたくさん出回っています。戸外のスタンドで

売っているアイスクリームにしてもキリル文字ではなくラテン文字の包装です。その

かわり、タンク車の脇でクワスを売る光景はまったくみかけませんでした。

 露店で、教科書でしょうか参考書でしょうか「大学進学者のための化学」という新

書版ほどのを見つけて1冊買い、そのあとホテルに帰りました。1200R(約60円)。

 

 

 

 

(3) イルクーツク〈続き〉

 

 13時からホテルのレストランで昼食。前日の飛行機の延着のためにホテルでコース

の食事をするのがこれが初めてです。ツアーですと、食事が1回カットされると「そ

の分の代金は?」などという人がかならず誰かいるのですが、今回は誰もそういうこ

とを言い出しません。

 ツアーの参加者は12人でしたが、そのほとんど全員がたいへんなロシア通で、ロシ

アではそういうのは意味がないのをよくご存じです。私などは初めてソ連を訪れたの

が79年の暮れですが、定年後再就職してらっしゃる山野さんとか外語大を出られてい

る山村さんなどはそれよりもうはるか以前のロシアをご存じ。山村さんは非常に流暢

なロシア語を話され、行く先々で現地の人との会話を楽しんでおられます。ロシアは

初めてという青山さんのご夫君、村山さんはこれまで個人旅行でばかり極東地方をま

わって厳寒のヤクーツクも経験してらっしゃるし、大山さんはカムチャッカから北極

海側のペベクにまでいらしたことがあるご様子。大学の先生の山木さんはせんだって

オリホン島の対岸までいらして、島へ行けなかったばかりに今度のに参加されたとか。

作家のラスプーチンとも親交があるようです。お医者さんの山田さんは、年末のボリ

ショイ劇場で「オルレアンの少女」をご覧になったということですから、同じ時間に

私と同じ劇場にいらしたことになります。年に何度もロシアへいらっしゃるらしい。

若い大学職員の山岸さんは、モスクワ大学に1年も留学されたとかで、旅の間もよく

勉強していらっしゃいました。

 今回はそういうわけでご一緒のかたにとても恵まれていましたが、「恵まれない」

ほうの極は「世界中まわってもう行くところがないから」ロシアに来てみたという人。

この手がいるとパックツアーは悲劇になります。なにしろ、ホテルの設備などは日本

のビジネスホテル以下、店員は愛想が悪く営業時間内でも気分次第でクローズ、おま

けに旅程のいたるところで理由も言わずに散々待たせて謝りもしないというわけで、

その愚痴やら不満やらを絶えず聞かされることになりかねません。でもね、いくら市

場経済と言っても日本と同じであるわけがないし、だいいち日本みたいになったほう

がいいと言えないことも確かでしょ。

 昼食は、まずサラダが出て、そのあと塩味のヌードル入りのスープが出ました。ロ

シアのスープはどれも美味しくて私は好きです。ただし、ウハーはまだ体験したこと

がないのでわかりませんが。メインは大きな素焼きの壺にはいった鶏肉とジャガイモ

のスープで、とても熱い。これも良い味だったのですが、レーナのお宅でお茶をご馳

走になっていたので、鶏はパスしてなかのジャガイモだけいただきました。黒パンと

バターは勿論あります。デザートはレモン味のアイスクリームで、あと紅茶をいただ

きました。じゅうぶん満足!

 

 14時15分からバスで市内観光。バスはAsiaとかいう名前の韓国製のマイクロバスで

す。運転手さんは寡黙で男らしいトーリャ。あとで聞いたのですが、山村さんの中学

2年生になるお嬢さん信子ちゃんがトーリャのことを俳優の田中邦衛に似ていると言

って、言われてみればなるほどそうだから、我々仲間は彼のことを「邦衛さん」など

と呼んでおりました。市内観光はいつも通りのコースで、レーナのアパートの前を通

ってまず元州ソビエトの大きな建物の近くのスパスカヤ教会。すぐそばの戦没者慰霊

の永遠の炎には今回のガイドのワロージャは案内しません。ちょうど1組の新婚カッ

プルが来あわせて永遠の炎に花束を捧げに行きました。

 ついで川向こうのズナメンスキー教会。ここがイルクーツク市民の宗教上の拠り所

だと説明でした。添乗の山上さんが、祈りに来ている人もいるから静かに見学するよ

うにと言うとみんなは足音もたてないほどの気の配り方。いつもなら、入ってすぐ左

手の小さなイコンやロウソクなど宗教上必要なあれこれを売るスタンドに何かお土産

になるものはないかと群がって信者の顰蹙をかうのですが、今回はそれがまったくな

くてこちらがびっくりしました。

 そのあと午前中に私が歩いたのと同じカール・マルクス通りを端から端まで走って

アンガラ河畔のオベリスクまできます。内戦時に白軍の根拠地だった赤い郷土史博物

館の建物と赤軍のホワイトハウスが向き合っているあそこです。ここもそうですし、

ホテルの正面もそうですし、永遠の炎もですが、このガガーリン河岸通りの遊歩道の

花壇はとてもよく手入れされていて、何種類もの花が「短い夏が終わってしまわない

うちに」とでもいうように咲き競っています。経済が破綻しているといいながら花壇

の手入れまで行き届くというのは、ロシアの懐の深さでしょうか。

 最後は百貨店脇のルィノックで小1時間ほどの自由時間でした。初めてここへ来た

83年にもそのにぎわいに驚いたものでしたが、店の数、人の数、混雑のしかたのどれ

も当時をはるかに上回ります。歩きにくさと言ったら新宿駅の地下通路のそれに匹敵

するかもしれません。花屋さんの並んでいる一角で、もうちゃんとセロハンに包んで

リボンもかけてあるバラの花束を1つ買いました。花売りのおばさんに「いくら」と

聞くと、「10」という返事。もちろん「10,000ルーブル」の意味です。モスクワから

の大統領令を待たずにデノミが進行しています。

 

 18時からホテルで夕食。刻んだ胡瓜とソーセージをマヨネーズであえたサラダ、当

世当地ではマヨネーズがトレンディなようで、デパートの売り場には何kg入りかわか

らない大きな容器に入ったマヨネーズが並べられていました。メインはひどく硬いビ

ーフストロガノフにポテトを添えたもの。デザートにこれまた固い皮のオレンジが出

て格闘しました。もちろん、黒パン、バター、紅茶もいただきました。

 

 旅先から自分宛にはがきを出す習慣があり、ホテルのインフォメーションで買った

のですが、これがよくわからない。日本へ出す分と言ったらはがき1枚に600ルーブル分

の切手をくれたのに、代金は285ルーブルしか受け取らないのです。

 この日のインフォメーションの担当は真っ黒な髪の女の人で、私はシーズンだから

現地に駐在している日本人かと思って最初日本語で話しかけてしまったほどです。ブ

リヤート人かヤクート人かそういう人種の人らしいのですが、このあたりではほんと

うに日本人によく似た人をしばしば見かけますから、日本人の源流がバイカル湖周辺

という説は素直に受け入れられる気分です。

 

 19時半頃ホテルを出て徒歩でアントンの家へ。約束の20時頃着きました。今度は、

ワレンチンだけでなく、お母さんのナターシャ、妹のアーニャもいます。修理中なの

で電灯がつかないのかと思っていたらちゃんと点いています。アントン夫妻と長男の

ニキータはいまクラスノヤルスクだかノボシビルスクだかの従兄弟のところに行って

いて、飛行機の切符がとれず帰ってこれないということでした。私がシーダから帰っ

たときには戻っているからというので、16日に再訪することも約束しました。アーニ

ャとお母さんがアントンのアパートに行っていたのはアントンの奥さんアーラのおば

あさんのからだの具合が良くなくて彼らの留守中みてあげるためのようです。アーラ

のおじいさんで古参の共産党員マクシム・フョードロビッチが昨秋亡くなったことも

聞きました。まわりが制止するのも聞かずワレンチンと2人でウオトカをたちまち3

本あけてしまった昨年夏のことを思い出します。

 このあとどこへ行くのかと聞かれてマーロエ・モーリェというと、あそこはとても

素晴らしい所だとナターリヤ・ニコラエヴナが言います。しかも気候が特異でイルク

ーツクが雨でもあそこだけは良い天気だから日焼けに注意するようにと。そう言えば

午前中に会ったレーナのお母さんもあそこはとても素晴らしいところだと言っていま

した。

 行ってみて思ったのですが、たしかに景色のいい素敵な所ですが、でもそんな最大

級の言葉で“絶賛”するほどでもというのが実感です。あとでサルマ村を歩いた時に

もガイド役を務めてくれた女性が「ここがすばらしい」と言って指さしたところがた

だ垂直に切り立った山肌ということもありました。この差はどこからくるのかの一考

察↓

1) ロシア人はすべてを大げさに言う癖がある。

2) 日本人は素敵なところを素敵と素直に認めない。遠慮深いのか嫉妬心が深いのか。

3) ロシアは国土が広く景色も単調だから、そのちょっとした変化でもロシア人は敏

 感に感じとる。日本は狭くどこでも景色はめまぐるしく変わるので松島とか天の橋

 立でも「なんだこんなもんか」となる。

正解はやっぱり3)でしょうか。それともやっぱり1)か。

 

 夕食を済ませてきたというのにまた「お茶」を用意してくださいます。大きく切っ

たトマト、胡瓜、塩ゆでのジャガイモ。このジャガイモが温かくて美味しいのです。

塩づけのオームリ。日本なら刺身にしてしまうでしょうね。見た目は鰯の刺身風です

が、適度に塩が効いて臭みがなく、これも美味。アンチョビに似た缶詰の魚、かわっ

たチーズを小さな黒パンにカナッペ風にのせたの、厚切りの小さな豚肉を焼いたの、

外国産のワイン。グルジアワインよりも西側のワインのほうが手に入れやすくなって

いるようです。お茶には、苺のジャムとアーニャの手作りのタルトが出ました。これ

も上手にできていて適度な甘さです。

 

 ワレンチンとナターシャのご夫妻は音楽家ですから普通に考えると生活はラクでは

ない筈ですが、フラットは改修中だし、こんなご馳走もしてくださるし、生活が大変

そうという感じがありません。ナターリヤ・ニコラエヴナは、自分にはアントンもア

ーニャもいるし、音楽もあるし、それでじゅうぶん、政治はどうでもいいと言ってい

ました。暑い政治の季節は終わってぬぐい難い政治不信がロシアの人々の心を覆いつ

つあるのかもしれません。(もっとも国民を政治不信に陥らせる政治のひどさという

点では日本はロシアの比ではありませんが。)

 昨年録音したというイルクーツク・フィルの室内楽団のCDを1枚、オーケストラ

のポスターと一緒にくださいました。ポスターではチェロを持ったワレンチンが最前

列に並んでいるのに、他の楽員とちがってあさってのほうを見ている。ワレンチンて

そういう人です。午前中マルクス通りの商店を見たときにCDも並んでいましたから

プレーヤーも普及しているのかと思ったのですが、ワレンチンのお宅にはまだプレー

ヤーがなく、何枚もあるそのCD、人にはあげられるけど自分では演奏したご本人は

聞けないという状態です。次に行く機会があったらCDプレーヤーをお土産にしまし

ょうか。

 

 帰りはいつも家族でホテルまでおくってくれます。治安が悪くなっていることもあ

るのかもしれません。アーニャとナターシャは途中のバス停で別れてアントンの家へ

行き、ワレンチンだけがホテルまで来てくれました。サマータイムのせいもあって日

没の遅いイルクーツクですが、さすがに23時となると真っ暗です。

 


 

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