本像を安置する入定寺はかつての蓮池町(寺町とも)に所在する真言宗寺院、山号松見山、院号自性院です。開山は福岡藩初代藩主黒田長政に従った唯心院圓心、慶長十三年(1608)長政に請うて入定(断食して遷化示寂)、長政は元和七年(1621)仏堂を建立し寺号を入定寺と名付け、二代藩主忠之の時、御祈願所と定められました(『筑前国続風土記』他)。
以前の境内地は現在よりも広く、本像は石祠(石堂)に祀られていたと伝えられていますが(清原住職)、現在は境内野外に安置されています。
外観上酸性雨の被害を被っているようには見えません。
法量
像高約93.5B 頭頂−顎30.8 耳張26.5B 耳長右12.5B 耳長左13.3B
面幅21.2B 面奥25.8B 肩幅53.0B 肘張63.4B 膝張85.5B
腹厚37.0B 胸厚右29.5B 胸厚左26.0B 膝高右17.6B 膝高左17.4B
膝奥53.7B 裳裾幅101.0B 裳裾先−奥72.0B
銘文(背面に線刻)
「 博多土居町住
深見甚平興昌
鑄物官工
同 儀六鎮定
大乗寺前町
大崎正右衛門友永
文政八年次歳乙酉中夏吉祥日
工頭 同 冶輔友久
同 冶平友昌
中間町住
村上左平一成
大佛師 」
構造
一鋳
裳裾部、体幹部、首部・頭部は一鋳。
・左手先および数珠も体幹部とともに一鋳。
・右手先および四鈷杵の部分は一鋳。但しこの部位と体幹部が一鋳であるかどうかは
目視では確認できません。右手先は別鋳を差しついだものとも、本像全体が一鋳であ
るとも考えられます。
成分分析
額部、左頬、裳裾等に見える赤みがかった錆は溶解炉の炉壁の鉄分が付着、混入した
可能性があります。青銅中の成分とは考えられません。
眼球の白く見える部分はいわゆる四分一(しぶいち)の銅(銀を四分一混ぜたもの)
であり象嵌か。瞳の黒い部分は酒墨と考えられます。
袈裟の紋様は朱で描いたものが風化により結果として浮き出た可能性があります。
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袈裟の模様 |
背面銘文の一部 |
銘に見える「鑄物官工 深見」は大田・山鹿・磯野・柴藤と並称される近世博多を代表する鋳物師です。元禄十二年(1699)、国中の釜屋座・鉄問屋が十戸に制限され、博多に九戸が集中し、うち深見家始め三家は土居町に居住していました(『博多津要録』)。深見家は代々、甚平・甚兵衛を襲名し、本銘文の甚平興昌は七代目に当たります。寛政十年(1798)に、長崎番所の石火矢十四挺他を鋳造した博多の鋳工三人の一人であり、親族の釜屋(瀬戸)總右衛門の鉄問屋解任の折りには鍋釜一切を仕立て助成したそうです。鎮定は瀬戸家出の興昌養子であり(『瀬戸文書』)、八代興定を名乗ったようです。幕末には興定も石火矢鋳造に従っています。
日常的には釜・鍋・鋤の先、そのほか鉄器類、また仏閣の撞鐘等をも鋳造したようですが(『筑前国続風土記附録』)、現在深見家のそうした製品を目にすることは難しいです。太宰府天満宮に八代興定鋳造の水盤がありましたが金属供出で現存していません。『筑紫国名所豪商案内記』(明治十八年)にある「鍋釜鋳造所深見平次郎」が鋳造した日蓮上人銅造の台座レリーフが本像とともにわずかに残る深見家の遺作品です。
本像はその銘文から製作過程を窺わせる大乗寺前町の工人や中間町の大仏師の新たな職人の存在が知られるとともに、博多を代表した鋳物師深見家の鋳造技術を今日に伝える貴重な作品です。
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