平成15年度指定

有形文化財・古文書
安山借屋牒 1冊

 福岡市博多区御供所町6番1 宗教法人 聖福寺

形態・法量・銘文等
 【形態】    冊子 楮紙 袋綴
 【法量】    表紙 竪33.4cm 横19.4cm 
         本紙 竪33.4cm 横19.4cm 
         界  竪29.9cm 幅3.5-4.0cm
         天余 約2.0cm
         地余 約1.2cm
 【墨付丁数】  32丁
 【時代】    天文十二年(1543)以後



 天文十二年(1543)の年紀があり、この時の成立です。奥書に、聖福寺第百五世住持湖心碩鼎と第百七世住持前住惟新元命の名前があります。湖心碩鼎は、第十八次遣明船の正使として入明したことで知られています。また、奥書に続いて、異筆で「此帳、永禄乱雖失之、予住山之後、返璧也、元亀三年十月吉日、玄熊(花押)」と記されています。
 追筆に見える玄熊は聖福寺第百十世耳峰玄熊(慶長四年・1599 寂)。この元亀三年(1572)の玄熊の奥書によって、永禄六年(1563)の兵乱により紛失したものを、玄熊が「返璧」(回復、回収の意ヵ)したという経緯が知られています。 
 永禄五年十一月ごろ、宝満城督高橋鑑種が毛利氏に内通し、主君の大友宗麟に対して反乱を起こしました。博多もその影響を受け、戦乱に巻き込まれ、大きな被害を受けました。聖福寺も戦火で焼失したらしく、当時の住持景轍玄蘇は戦乱を逃れ、志賀島に避難しています。その後、立花城をめぐる大友・毛利両氏の攻防戦が熾烈を極めましたが、永禄十二年(1569)に大友氏の勝利で決着がつきました。
 永禄十一年五月に聖福寺住持となった耳峰玄熊は、立花城攻防戦が終結した後、聖福寺の再興に着手したらしく、永禄十三年(元亀元)以降、様々な活動をしています。玄熊の手になる「聖福寺古図」の回収・修復も同時期のことです。
 なお、「筑前国続風土記附録」、「筑前国続風土記拾遺」にも「借屋帳」が什物の一つとしてあげられています。

 安山借屋牒には天文十二年当時の聖福寺寺内町(「関内」と表現されている)の有様が記されています。借家(借地)人の名と間数と地料、夫銭を記した借家(借地)料徴収台帳です。借家一軒ごとに、間口・借家人・地料・大山口夫・小山口夫・小夫銭・銭の合計が記されています。中小路・普賢堂・窪小路・外窪小路・鰭板・魚之町・魚之町店屋・中屋敷・毘沙門堂前・門前新屋敷など、町ごとにまとめらてています。
 ほとんどの借家が間口一間前後で、当時の屋敷の規模が推定できます。大山口夫・小山口夫などの課役が記され、都市博多にどのような税がかけられたかが克明に記されています。
 記載された住人の数は二百九十余名を数え、ほとんどが名前(仮名)のみで記され、「百姓」と呼ばれています。中に例外的に職業を記した箇所があります。それらから当時の聖福寺寺内町に、織屋・紺屋・あめ屋・酒屋・桶大工等の商工業者が住んでいたことがわかります。
 また、天文十二年以降、玄熊時代までの三十年間における借家人の変更を貼り紙で示すとともに、所々の追記内容から町の発展、都市住民の成長を窺うことができます。
 なお、昭和三十七年、九州史料集刊行会より九州史料叢書の一冊として翻刻がなされています。

 本史料は安国山聖福寺の境内に形成された所謂寺内町の課税台帳です。「聖福寺古図」にも見えるように承天寺始め、中世博多の寺社境内にも諸所寺内町・門前町が形成されていたと考えられるが、その実態を本文書のように具に示したものはありません。所謂寺内町を関内と称したことも博多独特の用語であるといいます。記載された町名9町のうち、中小路、普賢堂、魚之町は近世にも引き継がれた町名ですが、近世期には消滅した中世博多の地名を知る史料ともなっています。
 追記や貼り紙によって「百姓」と呼ばれた都市住人の変動、商工業者の成長、また、その信仰や習俗をも窺うことができて貴重な史料です。
 特に聖福寺の寺院経済、町家の規模と住人、博多の住民にかかる諸税が、この史料から明確になります。さらに本史料は、「聖福寺古図」や様々な発掘データと照合することによって聖福寺寺内町復元のための貴重な基礎史料となり、今後とも史料的な価値を増すものと考えられます。
 聖福寺境内は始め方八町、のち豊臣秀吉によって方四町に縮小されたと伝えられていますが、本資料はそれ以前の中世博多の都市の実態を示す貴重な都市史料です。



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