臨済宗東福寺派の禅宗寺院である蓮台山荘厳寺(承天寺末)境内の観音堂に所在しています。 荘厳寺が近世期に承天寺末であったことは知られていますが、中世以前の沿革については伝存史料が乏しく、本像の伝来についても十分な情報がありません。 荘厳寺で行われている祭りに文珠祭があります。志賀島の文珠信仰は中世以来のもので、宗祇の『筑紫道記』(文明12年・1480成)や『実隆公記(じつりゅうこうき)』(永正7年・1510.6月11日条)の記事に見え、また「志賀島文殊堂前」で詩歌会を催した遣明使策彦周良(さくげんしゅうりょう)(1501-79)の事蹟(『策彦周良詩集』)などが知られています。荘厳寺境内に建つ文殊菩薩の種子を刻んだ大永四年(1524)建立の板碑があることも、この地で文殊信仰が盛んであったことを示しています。 この文珠堂は志賀海神社の神宮寺であった吉祥寺が管掌したものと考えられていますが(文殊菩薩は漢訳で妙吉祥菩薩という)、明治の神仏分離のときに荘厳寺に移された(『福岡県地理全誌』)ということです。吉祥寺には文珠堂、藥師堂、観音堂等々があり(『筑前町村書上帳』、文政3年記)、「観音 古佛 一躰」を蔵したという(『筑前国中神佛寳物紀』、延享4年稿)ことから、本観音像もこの時に移入したものとも考えられます。 本像は頭頂から蓮台までを一材から彫出した丸彫りともいうべき完全な一木像であり、垂髪や天衣の遊離部も本体と共木で彫出され、平安時代前期の技法を具に示しています。また面貌の厳しさ、豊かな胸、張り出した腰など、量感豊かで重厚な体躯にもこの期の造像の特徴がよく示されています。側面観における前傾姿勢は、蓮台底部から体幹部に抜ける深いウロをもった当初の用材に由るものとも考えられ、神が宿る神木に仏が姿を現した「霊木化現仏」の可能性を示しています。技法の卓抜さといい、思想史上における興味深い特異さを示唆する点といい、本市を代表する優れた仏像です。 |