お友達の作品です。
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東京マラソン2007リポート・・・Y(嫁)さんのブログより
*いとこどうし・・・・・・・・・・・・・Yさん(高校同級生)
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全身筋肉痛です・・・。 ってことで、東京マラソン密着24時(笑)。 ☆4:30…起床 ☆5:00…朝食 ☆6:00…出発 ☆7:00…新宿に到着 ☆7:30…準備 とりあえず屋根のある場所をうろうろしつつ、人が集まっている広いスペースに場所を確保。 ☆8:00…荷物預け この東京メトロポンチョ、ちょうどゼッケンの場所に東京メトロのロゴがくるデザイン。 ☆8:10…整列 「さむーい」「ストレッチの意味無い」「スタート地点見えない(カーブしてるため)」「雨強くなってきた」「都知事への恨みか?」などと言っている間に、スタート地点ではセレモニーが始まった模様(都知事の叫び声が聞こえた)。 ☆9:10…スタート 新宿から皇居まで、ひたすら下る。 5キロ通過時点で1キロ6分ペース。ややハイペース気味か。 東京マラソン2007レポート(2) ☆10:20…10キロ付近 右足裏のまめがつぶれた気配。いつもの場所なので気にしないことにする。 品川の折り返し地点は、そのまま進むと五反田(職場の近く)だが、ちゃんと折り返す。 レッズサポの男性(赤い1番のレプリカ)にエスパルスコールをしてもらった。 再び待ち合わせ場所の19キロ(御成門の反対側)に近づく。ここは東京タワーが見える撮影ポイント。 ☆11:20…20キロ付近 22キロ付近には、最初の給食地点。ここにはバナナやパンがあるらしい。 しかし! 到着した時にはすでに配布終了。路上には捨てられたバナナの皮とかじられたあとのあるパンの残骸が・・・。ガガーン!!! 実際のところ、私は2キロ付近からこまめにアミノバリューの給水を飲んでエネルギー補給していたし、食べなくても走りきれるのだけど、市民マラソンの楽しみといえば給食エリア。がっかりした人多いと思うぞ〜。 失意にうちひしがれている間に、いつのまにか日本橋を通り過ぎ、目の前には雷門が! ここを過ぎると29キロ付近(蔵前)でダンナが待っている予定。 ☆12:20…30キロ付近 レッズサポ(赤の10番)を見つけたので、声をかける。 銀座を通り過ぎて築地へ。 エスパサポ(迷彩ユニ)を見つけたので声をかける。 パトラッシュ、ぼくはもう疲れたよ・・・なんだかとってもねむいんだ・・・。 東京マラソン2007レポート(3)
東京マラソンも残り2キロ。 ☆13:20…40キロ付近 ゴールを目前にして力尽きるランナーたち。 しかし、神様はランナーを見捨ててはいなかった。 とは言っても、バナナには即効性はありません(笑)。 結局残り2キロは15分かかってしまいました。屈辱。 ☆13:40…お帰り 預けた荷物を受け取りに行くのも一苦労。 国際展示場の中に入り、女子更衣室を探す。 水を含んでずっしりと重くなった荷物を抱えて、待ち合わせスペースでだんなと合流。 ☆16:30…帰宅 そして、待ちに待った肉!!! 食事のあとは満腹満足で爆睡・・・。 ☆まとめ レース終盤、こんなコース、もう二度と走るもんか!と思いましたが、朝起きてみたら残り7キロを攻略しないと気が済まない気持ちに。 2007-02-19 11:44 |
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山手線で駒込駅を通る度、様々な思いが私の脳裏をよぎる。そして最後はいつもあの戦争さえなければと思ってしまう。 私には今、気になる従妹が二人いる。私たちは駒込駅近くで生まれた。従妹達は三つ違いの姉妹だが別々に育った。 妹の従妹のH子は、赤ん坊の時、子のいない家庭に引き取られた。 戦前、H子の父、私の母の長兄、伯父の家と、私の家は、駒込駅を挟んで歩いて15分足らずの所に住んでいた。伯父の家は、私の家より、家も庭も広かった。 頭痛持ちの伯母はよくザンバラ髪にしていた。来客も多く、ねえやが二人いた。 私の家にはない珍しい玩具が沢山あった。朱に草花が描かれた木製のおままごとセット、私のままごとよりずっと数が多かった。日当たりのよい広い縁側であきもせずよく従妹と遊んだものだ。そんな伯父の家に行くのが私は楽しみだった。 私の母は末っ子で小さいときに父を亡くしたせいかこの兄を父のように慕い、まるで実家のようにしていたのだと思う。何しろ私の最初の記憶は伯父の家の広い座敷での夜の宴会風景なのだから。 私が国民小学校の一年生になった年に妹が生まれた。電車どおりが危ないからと兄か姉と一緒でなくては伯父の家に遊びに行けなかったのが、一年生になって一人でもいってよいことになった。初めて一人で伯父の家へ行ったときの緊張と着いた時の安心感と喜びは今も忘れられない。 だが折角一人で出来るようになった伯父の家行きは、長く続くことはなかった。次第に空襲が激しくなり、伯父が急死した。 伯父は初め、会社員として入社したが経営者に気に入られ当時執事となっていた。 伯父は主家の財産を疎開させるため、田舎に交渉に行き、地酒で歓迎された。 お酒を飲むと更に陽気になる楽しい伯父だった。私の父は下戸で静かな人だったから、賑やかで大声で笑う伯父が大好きだった。飲まされた地酒は、メチルアルコールを含んでいた。地元の人はなれて大丈夫でも疲労と栄養失調気味の伯父は呆気なく死んでしまった。四十八歳だった。 葬儀の時の普段より一層青白くやつれた伯母の顔と、喪服に不釣合いに、大きく突き出たお腹が、子供心にもとても悲しかった。 伯父が亡くなって敗戦の年に生まれたのが、伯父の名の一字から名づけられたH子なのである。 伯父の死から間もなく私の家と庭に焼夷弾が七個落ちた。 廊下の天井に穴が空き、夜には月が見えた。玄関の押入れが焼けて私が七五三に履いたポックリが焼けてしまった。私が通った富士前国民学校には夜中に爆弾が落とされ、朝行ったら裏門しか残されていなかった。 テレビニュースで見る戦争の地で、大きく見開かれた不安に満ちた子供の瞳に出会うとき、幼い日の自分に出会った気がする。昼夜を問わぬ空襲に庭の防空壕に逃げ込んだ日々をおもいだす。空襲の一夜が明けたらずっと向こうまで一面の焼け野原になっていた驚き・・私たち一家は急ぎ母の次兄が開業医をしている川越へと疎開した。 そして敗戦。私が伯父の病院に遊びに行くと、赤ちゃんが看護婦さんや賄のおばさんに抱かれていた。 H子ちゃんだという。痩せて色褪せたキューピーさんに似て目ばかり大きく、あやしても笑わない、泣きもしないあかちゃんだった。 後で知ったのだが、未亡人になった伯母は、長男の嫁であり、義母(私の母方の祖母)の住むA市に疎開すべくH子を背負い、他の従兄妹たちを連れ上野駅で汽車を待つうち倒れてそのまま亡くなってしまったのだった。 当時、川越の伯父にも、我が家にも赤ん坊がいた。そして間もなく伯父が探してきた家へH子は貰われて行った。 それから長い月日が流れた。私の妹は、少し前にH子とであっていた。 H子の姉のS子の次女の結婚式で二人は出会った。H子と妹とは年が近いのですぐ親しくなり、連絡を取り合う仲となった。 私は妹に誘われて上野の都美術館でH子と出会うことになった。実に半世紀ぶりの再会だった。 古いアルバムから探し出した伯父と伯母の写真を私は持参した。会うまでは緊張したが、会って見ると長い年月は飛び去り、愉快な伯父、優しかった伯母が思い出されて唯懐かしく涙があふれ泣き笑いの出会いとなった。H子は、紺色のシンプルな服に身を包み小柄で美しかった伯母によく似ていた。 H子の夫は院展に属する日本画家で、以来入選するときはもちろん、折ある毎に妹と三人で出会いを重ねるようになった。赤い糸ではないが何色かの糸でしっかり結ばれていたのだと思うほど私たちは気が合った。 一人娘で育ったH子は芸大日本画科を卒業した。大学入学時に戸籍をとり 初めて養女と知ったと言う。その時は養女であるショックより姉妹のいる喜びのほうがおおきかったとか、姉妹の縁が少しずつ生じて、子育てが終ってゆとりが出来て親しいつきあいが可能となった。 H子との出会いを何回か重ねてから、H子は「四十を過ぎて、まるで自分の命を削るようにして私を生んでくれた親に感謝しています」と言った。私は嬉しくて、「本当?本当にそう思ってくださるの?」と、涙と共に確かめずにはいられなかった。無念の死を遂げた伯父、伯母の為にも、本当に嬉しかった。 と言うのはH子の姉のS子は、大人になってからだが、親に対する恨み言を折りに触れ言っていたからである。最初S子の口から「産みっぱなしで無責任な親なんだから・・・」と聞いた時、私は耳を疑った。ふだん素直でおとなしいS子のとは思えず驚いた。 「すきで死んだんではないのよ。何もかも戦争のせいよ」と私はムキになって抗弁した。 私の年代では父親が戦死した人が珍しくなかった。が、S子の年で物心ついた時から両親ともいないのは、空襲がほとんどないA市ではいなかったに違いない。S子には辛い寂しい子供時代だったのかと改めて気づいた。 そのS子は戦後私たち一家と一緒に暮らした。 戦後も食糧難が続き、戦争中の無理で私の両親は体を壊した。昭和二十二年春、一家で母の実家のA市へ都落ちした。母の家は古いが広かった。 三十九歳で未亡人になった気丈な祖母が、間貸しをしながら一人で家を守っていた。A市は川越と違い白いご飯がいっぱいあった。 私たちが祖母の家に落ち着いて一年ぐらい後、東京の伯母の身内をたらい回しされた末、S子と姉兄三人が祖母の家にやって来た。 そして私が六年生になった時、S子が同じ小学校へ入学した。私はきょうだいと年がはなれ姉妹と通学する友が羨ましかったから、S子の入学はとても嬉しいことだった。 運動会の時、一年生は、桃色の薄紙の造花で飾った大きな竹の輪をくぐるかけっこだった。一線となって走ってきたS子は沢山並んだ花輪の一つを持ち上げたが気に入らなかったらしく、又別の花輪の所へ行ってゆっくり持ち上げてくぐり、ニコニコとビリになり皆の笑いを誘った。私は「なんて可愛いんだろう」と印象に残っている。 子供の頃は年が離れていたから私はS子とあまり遊んだ記憶がない。年の近い私の妹とS子はよく遊び、時々は喧嘩もして、近所ではふたりが姉妹と思われていることの方が多かった。 明治4年生まれで後家を通した祖母は、厳しい人で世間に多い甘くて優しいおばあさんではなかった。祖母には孫たちは勿論のこと、父も敬語で話した。私には唯一人、口答えの許されない人であり、私は祖母が嫌いだった。 でも私にはめっぽう甘い両親がいた。S子にも十歳上の体の弱い優しい姉がいたが、親と姉は違ったのだとS子の親に対する恨み言を聞いてから、私はやっとS子の子供時代に思いを馳せることになった。 私たち姉妹は結婚でA市を離れたが、S子はそのままA市で結婚し、住み続けている。S子の長女は心臓疾患を持って生まれ二歳で亡くなった。今も病身で偏屈で独身を通した兄の近くに住み何かと世話をしている。考えるとS子は苦労の多い人生を歩んできたのだとつくづく気の毒に思う。 時々A市から電話がかかる。 「○○子ーねえーちゃん、よーはないんだけど・・・」甘く間延びしたS子の声だ。その声を聞いただけで、私の心はじんわり暖かになり、何故か涙腺がゆるんでくる。今はやりの癒し系だ。 人並み以上の苦労をしても、のんびり、おっとり・・両親のよい性格を受け継いでいる。そう指摘するとS子はゆっくりと反論して、私は又ついムキになる。 「貴女に甘えたいのよ」と妹は笑う。私は人に甘えるのも、甘えられるのも苦手で慌ててしまうのだが・・・ S子の長兄、姉、私の兄、両親とも既にこの世を去った。そして私たちは親の年をこえた。 H子は山の手育ちのお嬢様だから、私を「お姉様」と呼ぶ。私は体中がムズムズして柄にもないからと抗議するのだが、H子は笑って変えてくれない。それ以外はみな孫も出来たのに昔どおり愛称やチャンづけで呼び合う。 仲のよい、いとこ同士でいられるのが、今、私には何よりうれしい。 |
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