旅の終わりに 2
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2009年師走。
三月に夫が病死し ひとり暮らしとなった。
最終章の旅はいつまで続くのか・・・・
どんなことが待ち受けているのか・・・
小さな光でも見逃さず明るさを目指して歩きたい。
@ものさし @最後の手紙(Yじい)
@杖 @写経NEW
@店じまいNEW @写経千枚NEW
@あるがままにNEW
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パソコンが新しくなった。 |
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2013年10月13日76歳の誕生日を迎えた。 加齢による、膝、歯、目 血圧と服薬の欠かせない身ながら どうにか一人暮らしを維持できているのは有難い。 成人式を迎えたのは1957年(昭和32年)のことで、成人式と言っても式場は村の中学校の教室。招待される私たちも振袖など及びもつかず、紺のスーツにおさげ髪、化粧もしていなかった。 この成人式で受けた公民館長の式辞の中の言葉を忘れないでいる。 「あるがままの人生を肯定甘受し、それを享楽せるものこそ勇者である」 ロマン・ロランの言葉だとのことであった。 言葉に感銘を受けたというよりは当時夢中になって読んだ、「チボー家の人々」「魅せられたる魂」や「ジャンクリストフ」を書いた作者の言葉として印象に残った。 当時の私は反骨精神というほどの志のあるものではなかったが かなりトンガッテいたから「あるがままを肯定甘受、、、」に抵抗もあった。 月日は流れ、結婚し、家族が増え、更に年月は去り、私は一人暮らしになった。 そして年とともに成人式の言葉が心になじむようになった。 ごく自然に、「あるがまま」が私の暮らしの中心になっているような気がする。 傾聴のボランティアも話手さんのありのままを尊重し受け止めることが大事だし、夫が亡くなってから毎朝写している「般若心経」もこだわりのない心を説いている これからの険しい老いのあれこれをあるがまま受け止め ロマン・ロランの言葉を時々は思い出して小さな喜びを見つけられるように暮らしていきたい。 |
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≪夫の書いた「般若心経」をなぞり始めたのが平成21年6月10日。 3・11大震災で娘のところに避難していた3週間を除き、自宅にいる限りは 毎朝一番に筆を持った。 雑念が次々と浮かび、ふと気付くと 上記は2012・4・2のブログの記事だ。 夫の使った筆、硯、用紙があり、何より書き残した経があったから始めたことであり、やり遂げられたのだと思う。 千枚に近づいた時、写し終わった経をどうしようかとずいぶんと考え迷っていた。 不思議なことに、終わって見ればそれはどうでもいいことのように思えてきた。 真の信仰心を持っていないせいかもしれないが、写経に限らずすべての行動は消えてゆくものだし、拘るものでもない。同時に自分のやった行いは目の前に形として残っていなくてもやってことは確かなことだと思える。 |
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夫はお酒の飲めない人だったから夕食後二人で囲碁をすることが日課になっていた。 終局が近づくと夫は「そろそろ店じまいだね」といった。 私は今年満74歳を迎える。 人生の店じまいを進めなければと思いつつ無為の日が過ぎていく。 この前 知人からこんな話を聞いた。 知人の嫁の母親が五年の闘病の末、60歳代で亡くなった。癌だった。 嫁さんは一人っ子である。 母親は発病以来娘に病名を話さず(姉妹、親戚にも)、のみならず見舞いも来なくていいと病院に見舞ったのは亡くなる一週間前だった。 ガンとは知らない嫁さんは姑である知人に「父が甘やかすから母がぐうたらして困る」と言っていたそうだ。 父親は誰にも話さず五年間全面的に妻を支えた。母親は意志を通したまま亡くなった。 話を聞いた人は「娘さんがかわいそう・・」と言うそうである。 私も残された人は苦しむだろうと思う。 けれど、どのように生きるかはその人の生き方であるのと同じようにいかに死を迎えるかもその人のものなのだ。 また、死は生と別のものではなく、今生きているこの線上につながっている。 更にその線上の最後の一点は本人の意思の及ばない大きなものの力で定められるのではないだろうか。 店じまいのただ中にありながら未だ、漫然として掴みきれない己が死のありようを身近の人の死によって考えさせられる。 |
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昨年6月4日から毎朝、書き写している「般若心経」が448枚になった。 偶々夫が書き遺してあったのを 心の安穏を願いながら毎朝なぞっていた。 生前夫は思い出したように写経をしていることがあった。 襖紙に大きく書いたり、小さい用紙にびっしりと印刷したように文字を並べたものもある。 何を目的にだったか聞いたことはなかった。 信仰と言うよりは遊びのように、楽しんでいたのではと思っていた。 ところが最近、夫がある時期、写経千部を目指していたとわかった。 果たせるかは分からないが夫のやろうとしたことを続けてみたい。 私の写経千部までは あと552日、まだ二年近い年月が要る。 7月中旬、この地域でも一時間に42ミリというゲリラ降雨があった。 あたりは真っ暗になり、雷鳴と太い雨脚はそれまで経験したことのないものだった。 翌日、夫のゴルフ仲間のIさんから電話を戴いた。 「大丈夫でしたか」 夫がいるころ、挨拶はしてもほとんど会話をしたことのない人だった。 胸がいっぱいになった。 私のそばで言葉をかけてくれる人、手を貸してくれる人だけでなく、気付かぬ所にも温かい心があり、そのおかげで自分は元気にしていられるのだと思った。 今まで一日も欠かさず元気に目覚め、筆を持ち続けられたことに感謝した。 寒さに向かうこれからの二年という時間は老いの身には短くはないけれど毎日などと拘らず、力まず、夫の生き方のように淡々と写し続けたい。 |
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人はそれぞれに物差しを持って生きていると思う。 誰もが自分の物差しが正しいと思っている。 私も自分の物差しを正しいと信じ、色々なものを計り、良し悪しの判断をしてきた。 三月、夫の死に会い、混乱し、持っている物差しのお粗末さに気づかされた。 「私って何にも知らないできたのね」と古くからの友達に嘆いたら「それは貴方が幸せに暮らしてきたと言う証しよ」と慰められた。 人は色々な出来事に遭遇し、環境にもまれ、人にもまれる度に物差しの目盛りを精密化してどんなことにも正しく判断出来るものに変えてゆくのだろう。 私の物差しは粗雑で目盛りも大雑把で子供の玩具のようだ。 安易な方に流れるままに流されてきた怠惰な性格にも依るのだが これまで歩いて来られたのは 健康と 何よりも人に恵まれたからだと思う。 我ながら厄介だと思う我の強い「ワタシ」と どの人も辛抱強く、寛大に付き合ってくれた。 いい年寄りが玩具のような物差しでは 確かに格好はよくないが 私のものだから捨てるわけには行かない。 お粗末な物差しでも生きてこられた幸せに感謝して残りの道を歩もうと思う。 |
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夫が書き遺した「正信偈」 |
平成21年3月。夫永眠。 平成19年正月、大腸がんが見つかり手術、抗がん剤治療、一年後肝臓へ転移、手術、抗がん剤治療。闘病の苦しさを口にせず、治療の合間には旅行やゴルフを楽しんだ。下の手紙は肝臓の手術の後に、私がもらった最後の手紙である。 その日は突然にきた。肺炎併発。 夫は緊急入院のベッドで吸入マスクをつけてはいたが、文庫本を読んでいた。私は事態が切迫していることがよく飲み込めていなかった。 ひとまず帰宅し、長い入院に備えて用具のあれこれを届けてその夜は帰った。翌日病院へ行ってX線写真を示され「アッ」と息を呑んだ。前日の写真との違いが素人目にもはっきりとわかった。 離れている子供達に連絡。深夜、子供たちと五人で静かな旅立ちを見送った。 最後の一息まで強い精神力で命をもやし続けたあなたに「おとうさん!立派だよ!」と呼びかけたT子の声が届きましたか。 |
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最後の手紙 Yじい 思いがけなく長い入院生活となって迷惑をかけている。ありがとう。昨年、今年と続く病院生活は確実にそういう年齢になったということを自分自身も 家族も納得せざるを得ないことなのだろう。どうあがいたって もがいたってくるものは来るのだから・・・・。この機会に、死生観というほどの大袈裟なものではないが死について言って見よう。 一人の人間として云った場合、今日まで命あるとは思っていなかったので充分に生きたというのが本当だ。それは誇張でもなんでもない、そう本当に思ったのは60歳を過ぎた辺りからであった。死に対してじたばたしまいということを。 だから子供達がどうやら一人前?になりかかった時には一安心だった。死後のことはどう考えたって仕方のないことだし・・・・。だから二度の大病も素直に受け入れてきたつもりだ。K社に入ったときからの後半、(65歳以降か)は付録の人生だと思っていたし、後は感謝の念で生きるだけだと思ってきたし、事実そうしてきた。 しかし、この生き方はあくまで自分本位の生き方であろう。自分ひとりだったらいつ死んだって、というのは、あくまでも一人の考え方である。この考え方がまちがいという訳ではない。しかし、何かが欠けていることになろう。勿論、誰かの為に生きる、というものでもない。 それを知ったのは藤沢周平の小説からだった。引用するが、古い友人の中風の見舞いに行った時、彼が歩こうとしている姿を見て、「そうか、平八。いよいよ歩く練習を始めたか。清左エ門は思った。人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死が訪れるそのときは己をそれまで生かしめた全てのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかし、いよいよ死ぬるその時までは、《人間は与えられた命をいとおしみ、力を尽して生き抜かねばならぬ。》--*《 》の箇所棒線――そのことを平八に教えてもらったと 清左エ門は思っていた」死は仕方がない。黙って受け入れようとは思っていたが、自分が力を尽して生きぬかねばならぬ とまで具体的に思っていたかは疑わしい。それは気力以外のなにものでもないであろう。そう気づいたと言うことだ。10年前のことだが、ノートに書きとめていた。 このことは、いつか子供達にいうつもりでいるが、そのほかにその当時のノートにフランスの詩人、クローベルが80歳になった時日記に書いていたという言葉。 『“昨日!とある者は嘆息する””明日!と他の者は嘆息する”しかし、老境に達したものでなければ、今日!という輝かしい絶対的な、否定し得ない、かけがえのない意味を理解することは出来ない』 という一文が忘れられない。 絶対に帰ってこない昨日にしがみつき、どうなるか分からない明日よりも今、今日を生きているということを私はそれほど考えたことはなかった。 永六輔が大往生という本を書いたとき、ある老人から「あんた、今が一番若いんだよ」と言われたと書いているが本当だ。その老人がクローベルの詩を読んでいたかどうかは不明だが同じことだろう。 三月の社誌にあなたの友達の言ったという、「きょうようがある」(*註「教養がある」ことより、「今日、用がある」事が大事という話)そのことを載せてもらったがこれも今生きていることが何より大切だということを云っているのだろう。 私の生き方の希望を書いた。そうなるかどうかは別にしてそうありたいものと思っている。 (原文のまま、但し*印はeばあ註) |
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20代の頃から四国の歩き遍路に憧れていた。いつか歩いてみようと思い続けていた。 70歳近くなって実現が難しいと知り、せめてもとバスで四国88ヶ所を廻った。 若い頃から聖書を初め宗教に関する本も随分と読んだ。 毎晩休む前には感謝をこめて手を合わせる習慣もあった。 それでもどこかで信仰とは違うものではないかとの思いがあった。 「あなたは理屈が多いからね〜」笑いながら夫は言っていた。 夫がいなくなったと同時に私の周りからなくなってしまったものの大きさに呆然とした。 夫が十数年も前から折に触れて書き写した「正信偈」と「般若心経」が何通も残されていた。 あたかも一人旅になる私へ「杖」として遺してくれたように。 夫の書いた「正信偈」を朝夕仏前に唱え、夫の書いた「般若心経」をなぞりながら書き写すことから私の一日が始まる。 あの日から10ヶ月ばかり経って、手を合わせ、拝む事が日常の中に融けているのを感じる。 若い頃から求めていたものがこれだったのではないか。そんな気もする。 もとより、 夫のようには出来るはずもないのだが 遺してもらった「杖」にすがって弥陀の元で待ってくれている夫の所へたどり着ければと思っている。 |