3・11東日本大震災
《それぞれの3.11》
*わたしの3.11
*原発事故
*K介の3.11 長男・東京在住(ブログから)
*震災後の仙台へ K介(ブログから)
*東日本大震災 T子・長女・福島在住(ブログから)
2011・3・11・午後2時46分東北を襲った地震は 震源 三陸沖深さ24q、M9・0 最大震度7と巨大な地震で 被害は甚大なものになった。 私はその時刻仙台市泉区の自宅付近にいた。 強い揺れが3分も続き、沿岸部は津波が発生、 福島県ではその後原子力発電所の放射性物質の拡散事故に発展し東北は あらゆる面で大きな打撃を受けた。 自宅は棚のものが散乱したくらいで済んだが 被災者が日常の暮らしを取り戻すには長い時間がかかるだろう。 |
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4/11震災ひと月後 河北新報 ひと月経っても行方不明者の人数が確定できない。 5/10現在(警視庁まとめ) 死者: 14,949人 行方不明者数: 9.880人 |
4/10 河北新報 亡くなった方々の名前が新聞の五面を埋め尽くした。 |
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私は一人暮らしをしている。 偶々3月12日に夫の三回忌を予定していて福島に住んでいる娘が年休を取って法事の準備のため来ていた。 地震は娘と買い物をしようと外に出た時に起きた。 車が揺れ、近所の屋根瓦が飛び、揺れは大きく長く続き、思わず道路にしゃがみ込んだ。 その後も大きな余震が続いた。 電気、ガス、水道は止まった。食器が棚から飛び出して割れていた。 夜になっても強い余震は相変わらず続いた。 娘が一緒だったが、もしいつもの夜のように一人だったらと思うとぞっとする。 二晩過ごし13日月曜からは仕事があるから福島に帰るという娘が一緒に行こうという。 半強制的に福島に向かった。高速は閉鎖され、何処で渋滞に巻き込まれるかガソリンは何処までもつか。信号は止まり、瓦屋根の傷みのひどさを眺めながら車を走らせたが何処まで進めるのか不安だった。携帯ラジオから「壊滅的」と言う言葉が繰り返し出ていた。 津波で被害が出ているらしい。海岸に200体ほどの遺体があるとも聞いた。 山側に住んでいる私には状態がよく把握できなかった。 福島市内に入ると信号が動いていた。「電気が来てる!」状況が分からないまま私を連れ出した娘はほっとしたように言った。 福島も震度6弱だったのに、ガスも水道も出ていた。本棚から飛び出した本が散らばっていた位だった。よかった。そう思って三日間見たことのないテレビを入れた。 画面に茫然とした。耳から受けた「壊滅的」の何倍のいや何百倍もの状況に衝撃を受けた。 画像は想像をはるかに超えるものであった。 大変なことが起きてしまった・・・ |
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もしも、娘が福島に住んでいなかったら、震災から誘発された原発事故のことを自分のこととして考えることもなかったかもしれない。 ライフラインの途絶えた家に一人置けないという娘に連れられて仙台の自宅から福島に行った時はまさか地震の後に厄介な原発事故の恐怖にさらされるとは思ってもいなかった。 娘の家は福島市内で原発からはおよそ60`で、政府による避難勧告は出ていなかったが毎日の放射性物質の値に神経を尖らせることになった。 窓を開けない。エアコンや換気扇を付けない。洗濯物を外に出さない。 外出は極力控える。止むを得ぬときは車を使う。 などの注意がTVで流れていたが現実は流通が途絶え、ガソリンスタンドは閉めていたから娘は徒歩で職場に通っていた。 私は三週間娘の所に滞在したが、余震は二か月を過ぎた今も続き、その震源が福島沖と報じられるたびに原発の施設に影響があったのではないか気持ちが休まらない。 現在(5/11)も事故の解決への道筋は全く立っていない。 目に見えないことと、ほとんど知識のないものへの恐怖はかなりストレスを感じるものだった。 3月11日の星空が忘れられない。 地震当日の夜、見上げた空に大きく強く輝いていた星たち、「生まれて初めてこんな綺麗な星を見た、どうしてこんなに綺麗なの」呟いた私に「電気がないからでしょ」と娘が言った。 そうか!地上の明りがないと星はこんなにも美しく瞬くのか。 遠い昔故郷の田舎できっと同じような星を見ているはずなのに。 そのことさえ忘れるほど、自然を作り変えている現代に疑問も持たず、そこから生まれる豊かさを受け入れていることになる。 石炭や、石油などの資源の乏しい日本では45年ほど前から原子力発電を始め現在は発電量の3割ほどを担っているそうだ。 当たり前と思ってきた便利さを手放すのは難しいとは思うが未来を生きる子供たちに綺麗な大気を残したいものだ。 事故の一日も早い収束を祈っている。 |
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2011年3月11日14時46分 たーなどの情報を確認していると直接の親族は無事であることが確認できた。 |
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かれこれ1カ月が経過し、ようやく、仙台に行ってきた。家族と会ってきた。 翌日、父の墓参り。1か月遅れ。待たせたね。でも、みんな揃ったよ。 昼過ぎに東京に向けて帰る。ちょっと迷っていたが、少し街を走ることにした。ただの野次馬じゃないか。という言葉に反する言葉はない。客観的にみればそうなんだとも思う。でも、自分はどうしても、少しだけでも見ておきたいと思った。 |
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あれから16日だそうです。 土曜に父の三回忌を控えていたので、前日のこの日は年次有給休暇を取得し、同日午前のうちに仙台の実家についていました。 平成23年3月11日14時46分 いや、もうよくは覚えていないのですが。 これは絶対に通信不能になる!と私はまだ揺れてる中、合流予定の夫氏と弟に「無事」メールを発信(しかし、残念ながら、このとき、まさか東京も震度5強で大停電してるとはまったく想像しておらず。)。 いったん揺れが収まったあと、ご近所のみなさんがわらわらと外に出てきて、「家はしっちゃかめっちゃかだけど無事」を確認しあい。(テレビがひっくりかえったとか冷蔵庫のドアが開いて中身全部出てダイニングが卵とドレッシングの海とか) 夫氏からは「新幹線止まるかも」とのCメールが。 この時点で、携帯の災害掲示板に「無事です」を登録しましたが、171は繋がらず。 ラジオでは、災害掲示板の利用を勧めていましたが、携帯サイトはほどなく接続しなくなり、通話はもちろん不能でそのうちバッテリー切れ。 その後の余震がまた結構強烈で雪の降る中 外で余震が落ち着くのを待っていました。 台所の作りつけ食器棚の食器が全部出て結構割れたのと仏間の飾棚の中身が出て割れたくらいで、テレビは無事。冷蔵庫も無事。ただし、仏間は割れ物が酷かったのに停電で掃除機がかけられなくて危険なのと、余震の時にすぐ外に出られるように母に「ここはアメリカだから」と言って自宅内を靴のまま往来w ガソリンスタンドの給油待ちであちこちに渋滞が出来ていることは近所の方から聞きましたが、福島で満タンにしていたのでまあいいか、と思っていました。(これは失敗) 避難所に指定されている小学校に行ってみましたが暗いのは一緒だったので、これなら自宅の方がいいかと自宅で過ごすことにしました。 情報源は母愛用の携帯ラジオのみ。沿岸に津波が来て「壊滅的」な被害が出ていること、数万人が救助を待っている状況であることを音声情報として得ました。 大きな余震が何度もありましたが、無事翌朝を迎えました。 3/12 新聞を見てものすごい津波の静止画確認。各地の震度を確認。(仙台は震度6強、福島は震度5強との表示:誤報)あまりの震度6の範囲の広さに愕然。こりゃ、当面ここには何も来ないと覚悟。 もちろん引き続き停電&断水。 朝8:30過ぎ。上司から携帯に連絡が入り、自分と家族の無事をようやく報告。 併せて携帯が繋がりにくい状況に改善したことを認知。 何度かのトライで夫氏に電話が繋がり無事を連絡。福島のライフラインがどうなってるか調べて欲しいことを依頼。 弟にも連絡。東京で大停電が起こり電車が運休となり、まだ帰宅中(地震以来自宅に帰ってない)なことを知る。(←夫氏からそのようなことを聞いていたのだが飲みこめていなかったらしい。。。苦笑) ガソリンスタンドは並んでみたが給油出来ず。 通りがかった親子が並んでる車に「ガソリンなくなったそうですよ」と声をかけてくれました。 この日も引き続き何度も余震。緊急地震速報が何度も鳴りました。 福島の状況はよく分からないが、月曜には出勤しなければなりません。 高速は通行止め、下道を来なければいけないため、渋滞してるものやらよく分からないまま、路面状況が分かるよう日曜の昼に移動することに。 3/13 しかし、飯坂を過ぎて信号が点灯。 携帯メールは3/11分から十数件の安否確認メールを受信。 ちなみに自宅もテレビも倒れておらずキャスター付きメタルラックも走っておらず、本棚の手前に置いてた本が落ちたのと多少の皿が割れたのみ。
職場は地震発生以降24時間体制と聞いていたので、徒歩で職場に向かい無事を告げて、福島の震度も6強で、自分が一方的に心配される立場ではなかったことを知りました。 翌日出勤した事務室は、机上のブックシェルフごと書類が床に散乱し、来客用茶器が粉々に割れ書類を踏んで逃げたことが分かるありさまでした。(実際、机上のものがジャンプしまくりばさばさと書類が落ちる中、立ってることも出来ずただただ揺れが収まるのを待ってから逃げたそうです・・・想像しただけで涙) しかし、それにしても。 そんなわけでそこそこ地震に備えていた実家ですが(自分でないところがみそ)今回、あってよかったものとあったらよかったものリストを整理しようと思います。 ・ふつうのラジオと携帯ラジオ(電池式) あとは太い神経ですかねぇ・・・(苦笑) |