3・11東日本大震災

それぞれの3.11

MC900065491[1]         

*わたしの3.11

*原発事故

 

*K介の3.11    長男・東京在住(ブログから)

*震災後の仙台へ  K介(ブログから)

 

*東日本大震災   T子・長女・福島在住(ブログから)

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2011・3・11・午後2時46分東北を襲った地震は

震源 三陸沖深さ24q、M9・0

     最大震度7と巨大な地震で 被害は甚大なものになった。

私はその時刻仙台市泉区の自宅付近にいた。

強い揺れが3分も続き、沿岸部は津波が発生、

福島県ではその後原子力発電所の放射性物質の拡散事故に発展し東北は

あらゆる面で大きな打撃を受けた。

自宅は棚のものが散乱したくらいで済んだが

被災者が日常の暮らしを取り戻すには長い時間がかかるだろう。

 

IMG_7045ひと月後.jpg

IMG_7047名簿.jpg

/11震災ひと月後 河北新報

ひと月経っても行方不明者の人数が確定できない。

 

5/10現在(警視庁まとめ)

死者:    14,949

行方不明者数: 9.880

/10 河北新報

亡くなった方々の名前が新聞の五面を埋め尽くした。

                                                                                                    

 

http://flower.girly.jp/sakuin/hanasozai/013su/sumire3.gif私の3・11             2011・5月

私は一人暮らしをしている。

偶々3月12日に夫の三回忌を予定していて福島に住んでいる娘が年休を取って法事の準備のため来ていた。

地震は娘と買い物をしようと外に出た時に起きた。

車が揺れ、近所の屋根瓦が飛び、揺れは大きく長く続き、思わず道路にしゃがみ込んだ。

その後も大きな余震が続いた。

電気、ガス、水道は止まった。食器が棚から飛び出して割れていた。

夜になっても強い余震は相変わらず続いた。

娘が一緒だったが、もしいつもの夜のように一人だったらと思うとぞっとする。

二晩過ごし13日月曜からは仕事があるから福島に帰るという娘が一緒に行こうという。

半強制的に福島に向かった。高速は閉鎖され、何処で渋滞に巻き込まれるかガソリンは何処までもつか。信号は止まり、瓦屋根の傷みのひどさを眺めながら車を走らせたが何処まで進めるのか不安だった。携帯ラジオから「壊滅的」と言う言葉が繰り返し出ていた。

 

津波で被害が出ているらしい。海岸に200体ほどの遺体があるとも聞いた。

山側に住んでいる私には状態がよく把握できなかった。

 

福島市内に入ると信号が動いていた。「電気が来てる!」状況が分からないまま私を連れ出した娘はほっとしたように言った。

福島も震度6弱だったのに、ガスも水道も出ていた。本棚から飛び出した本が散らばっていた位だった。よかった。そう思って三日間見たことのないテレビを入れた。

画面に茫然とした。耳から受けた「壊滅的」の何倍のいや何百倍もの状況に衝撃を受けた。

画像は想像をはるかに超えるものであった。

大変なことが起きてしまった・・・

 

http://flower.girly.jp/sakuin/hanasozai/013su/sumire3.gif原発事故(福島市で)      2011年5月

もしも、娘が福島に住んでいなかったら、震災から誘発された原発事故のことを自分のこととして考えることもなかったかもしれない。

ライフラインの途絶えた家に一人置けないという娘に連れられて仙台の自宅から福島に行った時はまさか地震の後に厄介な原発事故の恐怖にさらされるとは思ってもいなかった。

娘の家は福島市内で原発からはおよそ60`で、政府による避難勧告は出ていなかったが毎日の放射性物質の値に神経を尖らせることになった。

窓を開けない。エアコンや換気扇を付けない。洗濯物を外に出さない。

外出は極力控える。止むを得ぬときは車を使う。

などの注意がTVで流れていたが現実は流通が途絶え、ガソリンスタンドは閉めていたから娘は徒歩で職場に通っていた。

私は三週間娘の所に滞在したが、余震は二か月を過ぎた今も続き、その震源が福島沖と報じられるたびに原発の施設に影響があったのではないか気持ちが休まらない。

現在(5/11)も事故の解決への道筋は全く立っていない。

目に見えないことと、ほとんど知識のないものへの恐怖はかなりストレスを感じるものだった。

 

3月11日の星空が忘れられない。

地震当日の夜、見上げた空に大きく強く輝いていた星たち、「生まれて初めてこんな綺麗な星を見た、どうしてこんなに綺麗なの」呟いた私に「電気がないからでしょ」と娘が言った。

そうか!地上の明りがないと星はこんなにも美しく瞬くのか。

遠い昔故郷の田舎できっと同じような星を見ているはずなのに。

そのことさえ忘れるほど、自然を作り変えている現代に疑問も持たず、そこから生まれる豊かさを受け入れていることになる。

石炭や、石油などの資源の乏しい日本では45年ほど前から原子力発電を始め現在は発電量の3割ほどを担っているそうだ。

当たり前と思ってきた便利さを手放すのは難しいとは思うが未来を生きる子供たちに綺麗な大気を残したいものだ。

 事故の一日も早い収束を祈っている。

 

http://flower.girly.jp/sakuin/hanasozai/013su/sumire3.gif職場から帰宅まで               K介

20113111446
私は仕事でJR横浜線鴨居駅が最寄りの仕事場にいた。仕事そのものは若干落ち着いたところで、比較的のんびりムードというか、まあ、着々とこなせばいいような状態。
 揺れが来る。
「揺れてますよねぇ」「これは地震ですよねぇ」
もともとこの建物、上下の階で大きなものを動かすと揺れが来るし、ちょっと体格の立派な人が歩けば揺れが来るので、揺れに対する感覚は若干おかしくなっている。
が、揺れがどんどん大きくなってきた。
「これはやばい」「これはでかい」と、言っているうちに、さらに揺れは大きくなり、机の下に隠れることに。
 揺れがようやく一段落。外に出る。あちこちの建物から続々と人が出てきた。
そこで震源が宮城県沖であることと、最大震度が7であることを知る。一気に自分のことよりも家族友人のことが不安になってくる。
何度かの大きな余震。建物がめりめりと音をたてて揺れる。

「揺れが収まったので、安全を確認しながら建屋に戻ってください」というアナウンスを聞いて、どういう観点でこの人は「収まった」と言い切っているのだろうか。などとどうでもいいことを思いながらつい

たーなどの情報を確認していると直接の親族は無事であることが確認できた。
この週末親父の法事で仙台に帰る予定でいた。普段は一人で暮らす母のところには姉がいた。この偶然、きっと偶然は、後に思えばかなり重要なことだった。
 作業場に戻ると、縦置きしていたデスクトップPCが倒れ、ディスプレイも倒れていた。それを起こすとExcelが「保存してね」とダイアログを出していた。退出するときにシャットダウンを走らせていたが、失敗してたか。うーむ、意味なし。
 戻ってはみたが仕事にはならない。携帯電話機を充電しながら各所の情報をかき集める。まあ、当たり前だが電車も止まっているしなぁ。
 発生から2時間くらいだろうか。帰宅できる人は帰宅してよい。という連絡が回ってきた。一応、自分のいるチームは基本的には帰宅するという方針で作業場を出ることになった。
 ここから20km圏内の人間は「自転車を買おうかと思う」と言っていた。確かに20kmならきっとそれが早い。まあ、売っているかどうかは別だが....
「タクシーで帰る」と言っていたやつがいたが、とりあえず「絶対無理」と即否定しておいた。
休憩所の自動販売機で水を購入。残っているお茶とお菓子をリュックに詰めて、最悪のケースも想定しながら、仕事場を後にする。
 敷地外に出ると、目の前の信号は点いていなかった。すでに渋滞が始まっている。
嫁の仕事場が五反田付近なのでそこを目指すことにする。仮の目標地点は歩けば暗くなるころに到着できるであろう、新横浜とした。
随時連絡と情報収集をしながら、歩く。途中までは仕事のチームの人と一緒だった。彼は阪神大震災を神戸で迎えた人間で、その時の話をしながら。こっちは1978年の宮城県沖地震を知ってるぜ。(何、その争い)
 途中で「無理に帰るな」指令が出ていたらしいが、もういい加減いい距離を歩いてしまったので、戻るわけにもいかない。
 間の小机駅で「今日はもう運行しないよ」という張り紙を確認。少なくとも起き続けたままの帰宅は無理だろうな。とこの時点で判断。小机駅の近くの自転車屋(バイク屋?)に置いてあった、7000円の折りたたみ自転車にかなりの興味をひかれたが、購入は見送る。
 19:00前に新横浜に到着。とりあえずトイレと途中で買った晩御飯用のパンを食べる。新横浜駅はエスカレータが止まり、この時点で動く予定があったのか新幹線の切符関係と思われるところは大行列となっていた。払い戻しなのか振替なのか購入なのかはわからない。
 新横浜駅内で仮眠する場所を確保しようとうろうろしているところで、ついったーに「横浜アリーナが無料開放中」という情報を入手した。たしかこれが19:30ころだったと思う。その足で横浜アリーナへ向かうと、おおむね100名程度が入っていたと思う。
場所を案内され、とりあえず横になる。ありがたい。
 ちなみにここまでの情報収集と連絡はおおむねついったーに頼っていた。電話と携帯電話機のメールは非常につながりにくい状態になっていたが、プッシュされてこないという特性はあるが定期的にチェックすることでカバーはできていた。
 横になったが、不定期に揺れはくる。周りもそれなりに騒がしい。だが、やはりそれなりの距離を歩いたので疲れていたのだろう、少し眠った。
 起きて周りの様子を伺うとかなり人が増えていた。あまり全体像を把握しようとしなかったのでわからないが、情報によればここには1000人が来るらしい。
 カイロが配られた。非常用のクラッカーが配られた。隣のグループには友達がやってきてにぎやかになった。
 24時を回った頃だったと思う。毛布が配られ始めた。入った直後から「毛布がくる予定ですが、数が足りない可能性があるので、高齢者、障害者、女性を優先します」と何度もアナウンスされていたが、実際に配布されたのはこの時間。この時間までの間についったーでは「アリーナには1000枚の毛布がある」というついーとが流れていたが、交通の渋滞なども含めた様々な要因で実際にはこれくらいのタイムラグが出ていた。
 そのころdocomoが携帯電話機の充電サービスを始めた。かなりの行列ができた。が、docomoムーバのアダプタはつなぐ人が見ている範囲ではいなかった。
 自分は、ACアダプタを持参していたので、docomoの人に確認して壁コンセントから出ているタップに直接つながせてもらって充電をすることができた。直接コンセント使ったのって結局自分しか見なかった....みんなアダプタ持って歩いてないのね。
 というか、充電サービスでなんでそんなに満タンにしようとするんだろうか。docomoの人もそのあたり、少し制約かけてもいいと思うんだけどね。
 あたりを見渡すと、ほぼすべての人が毛布をかぶっていた。横浜市(?)の対策本部の方に聞いてみると毛布が若干(ほんとに若干だった)余っていて、遠慮なく毛布を貸してもらうことにした。
 夜明けくらいから行動を開始するために、ありがたく毛布にくるまって寝る。余計なことは考えないようにして、寝る。

28:32(12
4:32)にまたしても地震速報メールがあちこちでなって、目を覚ます。まあ、自分の携帯電話機もなっているんだけど。
 再度携帯電話機を充電させてもらいながら情報収集。横浜市地下鉄は動いているようである(夜のうちに復旧していた)JR31:00(1207:00)すぎから再開見込みとのこと。JR東海の東海道新幹線は平常通りという話。
 この時点で、嫁との相談結果、新幹線に乗れるかどうかチャレンジして、ダメなら横浜に移動と思いながら、お世話になった横浜アリーナを後にして29:30(1205:30)ころに新横浜駅のみどりの窓口的なところに並ぶ。おそらく200名くらいが並んでいたと思う。
 下り方向はかなりの行列ができていたが、上り方向の専用自動販売機はまったく人が並んでおらず、自由席をすんなり購入。始発は31:01(1207:01)、時間はまだまだあるので、駅構内の待合室で段ボールに座ってテレビをぼんやり眺めながら待つ。
 15分おきにホームに出てみるが、人が多くなってきているわけではなく、寒いので10分前にホームに並ぶ。6分遅れでガラガラの新幹線が到着。乗り込む。
 あっという間に品川着。新幹線は偉大だ。
嫁に連絡を入れる(このころ、携帯電話機メールはかなり安定してきた印象)。嫁が五反田から品川に歩いてくるまでの間、暖をとる場所を探して駅周辺をうろうろする。
 品川駅の西側にある、えーっと、大きなホテル、そういえば昨年末HOAの表彰式をやったところは、ロビーや建物内に停留されることを嫌っていたようだった。開いていないボーリング場の前のスペースに人が居たのでいい場所がなかったらそこに居ようかと思ったが、くるっとまわって戻ってきたらその人も、階段の手すりに寄りかかっていた人もいなかった。
 しょうがないので品川駅に戻ると、ホームは入場制限されていてホーム内に戻れなくなった。ちなみにこの段階ですでに運転再開の予定時刻は過ぎていたが、運転は再開できていなかったため、かなりの人数であふれかえっていた。
32:00
過ぎに東海道線が復旧との情報で改札がかるく混乱したりして。
 そんなところで、嫁と無事合流。
とりあえず、北に向かって歩くこととする。途中何度かJRと地下鉄の様子を確認して駅に立ち寄ってみるが、かなりの大混雑で乗る気にならない。
 浜松町まで歩いたところで携帯電話機に着信。姉からだった。母にも代ってもらってとりあえず声を聞いて一安心を二安心に。
 もっとも仙台はライフラインがまったく切れていて、余震も多く予断はまったく許さない状況が続く。
 じりじりと東京方面に歩いて移動。天気がいいということと、やはり一人ではないということで、足取りは重くはない。
 新橋で地下鉄に降りてみるとちょうど電車が入ってきた。しかもそんなに混んでない。飛び乗った。ここから浅草橋まで電車で移動。電車は快適だ。確かに混んではいるが、この程度の混み具合は平日ならふつうにある。
 浅草橋で降りて動いているという噂の総武線への乗り換えを試みる。
が、すでにホームには人があふれ(制限するほどではなかったが)、ほどなく来た電車はまさしくすし詰め。ぎゅむぎゅむ。
 その時はたまたま次の電車がつながっていたので待ってみると、状況変わらず。ぎゅむぎゅむ。早々にあきらめて浅草橋を降りて歩く。
 途中錦糸町と平井でホームの様子を伺うが、電車がなかなか来なさそうなので歩いて進む。途中で追い越していく電車をみたら向こう側がの景色が見えないほど人が詰まっていた....
 ところで、まだ部屋の様子はわかっていない。
正確な震度は知らないが、少なくても5はあっただろう。その時、うちの部屋がどういう風に揺れるのか、体感がないので不安が募る。
倒れそうなものはなんだ?
 居間はこの前買ったばかりのテレビ、水槽が危ない。テレビが倒れて水浸しというケースも容易に想像できる。
台所は冷蔵庫と食器棚。食器棚は一応上下はビス止めしてあるが、壁との固定はしていない。
客間は壁一面に設置した本棚が危ない。気持ち天井に突っ張りがかけてあるのだが、実は天井が弱いのであまり役目を果たしておらず....
寝室はクローゼットと、スチールラックの上のテレビが危ない。
物置部屋は....まあ、いろいろダメぽいが、ここは最悪捨て。
細かいものを言い始めると玄関にある灯油ポリタンクもなぁ....
 38時過ぎ(1214時過ぎ)に、ようやく自宅に到着。地震発生からまもなく24時間が経過しようとしていた。
 外からみると、建物に損傷はないようだ。
エレベーターも動いていた。あれ?
 玄関を開ける。まず、目に飛び込んでくるのは....ふつうに灯油タンクが立っていた。
靴を脱ぎ、廊下を進む。居間の詳細は不明だが、少なくてももっとも危険物であった、水槽が無事に台の上にいた。かなりほっとする。
寝室、客間、居間と足を進めるが、寝室と居間のクローゼットの引き出しがわずかにあいていて、食器棚の上の何冊かの料理本が下に落ちているものの、食器の散乱などもまったくない。テレビも若干後ろにずれているが、倒れていない。
ほんとに、被害に遭った方には申し訳ないほど、何もなかった。
 この時点で「自分はもう被災者ではないな」と思った。
そして、いろいろ情報をあさると....言葉が出ない。
 画を見ただけで「これはどこだ」と断定できるわけではないが、すごく見たことがある景色が、まったく見たことのない、そして見たくもないような姿に、変わってしまった。
 友達と遊んで溺れかけた海岸、ナンパしに行った()あの海辺、語り合ったあの浜辺、暴走族に追いかけられそうになったあの道路....
 出てくる地名もなじみ深いところが多すぎる。100人単位どころか1000人単位10000人単位で死者不明者の話をニュースは伝えてくる。
 mixiなどのコミュニティで最近でもコンタクトのある友人などの安否を手繰る。多くの友人は無事を書き込んでいたが、まだ安否不明な友人が、複数いる。

 祈ることしかできない、応援することしか、できない。
もっとしんどい人がいる、そう思えば、自分はまだめげるわけにはいかないし、泣くわけにもいかない。そう思っている。

 

http://flower.girly.jp/sakuin/hanasozai/013su/sumire3.gif震災後の仙台へ             K介

かれこれ1カ月が経過し、ようやく、仙台に行ってきた。家族と会ってきた。
3
13日は父命日。本来はその週末に仙台にいる予定だった。
 この1ヶ月間、自分の身にはいろいろなことが起こったが、正直どうでもいいというか、大したことではない。23区内にいるので今のところ停電も起こらないし、電車も最初の1週間はかなりすごかったが、現在はほぼ平常。仕事場で定時退社指令が出ているので帰宅時間が早くなったとか。そんな程度。

 ようやく仙台でもガソリンの入手がある程度容易になってきたので、準備といっても別になにもなく、やっと行けるなぁ。と思っていた。
 ら、47日の夜のあの地震である。
正直、この地震が発生した時、自分は結構酒が入っていて、ときていなかったが....現実としてはあまりにも過酷。津波こそ発生しなかったものの、1か月前に戻ってしまうような、もしかすると精神的には1か月前を超える影響を及ぼしたのかもしれない。
 実家も停電が発生。復旧しないようであれば、行くのはやめようかと思ったが、意外と早く復旧したので、予定通り仙台に向かうことにした。
 金曜日にmixiでそのようなことを書いたところ、友人からガソリン携行缶を貸してもらえることになった。手元にある情報としてはなんとかなりそうではあったものの、状況としては木曜日夜の地震のようなケースもあるし、保険という意味も含めお言葉に甘えることにした。
 その足で、ガソリンを満タンにし、携行缶にもガソリンを給油。土曜日朝に出発する。
「道路はかなり荒れている」という情報だったが、思ったほどではない。この辺は復旧のパワーに頭が下がる思い。 
途中、姉から連絡が入り、なぜか山形で肉そばを食うことに。実家に到着し、母を乗せて山形に移動。
 1か月遅れで、家族5人が集まることができた。みんな無事である。いや、無事なのはもちろん知っていたが、顔をあわせるということは、意味が違う。当日のこと、そのあとのこと、今のこと、少しずつ話をしながらご飯を食べる。
2
軒ほど酒屋を回って(なぞ)、実家で晩御飯。酒を飲み、寝る。いつも通り、いつものような家族集合になった。
 ただ、近所の様子はやはり少し違う。瓦屋根はおおむねブルーシートをかぶったままで、修理待ちの状態。向かいの家はブロック塀がくずれて駐車場にブロックの山ができている。

翌日、父の墓参り。1か月遅れ。待たせたね。でも、みんな揃ったよ。
この1ヶ月間、自分の無力さということを感じたし、今でも感じ続けている。ほんとに何もできない。せめて自分の家族には頼られるくらいのそれがあってもよさそうなものだが、原発を不安がる嫁の気持ちを紛らわすこともできないし、安易な言葉の選択で姉に無駄なプレッシャーをかけたり、なんだか、逆のことすらする自分に腹が立つ。
ただ、それを受け入れるしかないとも思っている....開き直り? そうかも。

昼過ぎに東京に向けて帰る。ちょっと迷っていたが、少し街を走ることにした。ただの野次馬じゃないか。という言葉に反する言葉はない。客観的にみればそうなんだとも思う。でも、自分はどうしても、少しだけでも見ておきたいと思った。
 4号線バイパスを南下する。オーバーパスになっている部分のつなぎ目なんかはかなりのギャップができている。通りにあるいくつかの建物は大きな損傷がある。外壁パネルが何枚も落ちた家具屋、2階部分の半分が3階に押しつぶされた建物....
 元空港ボウルを通るとなぜか車がたくさん停まっている....遺体安置所になっているそうだ。空港側に少し行ってみると、流された、くしゃくしゃになった車が積まれている場所がある。畑には、流されてきたと思われるごみが、まだいくつもある。
 高速に戻り、いつものように帰る。
 いろいろ、考える。
 全然まとまりはしない。

「受け入れる」ということが、難しいことが多いな。と思う。それができないと、あまりにもつらい。受け入れるということはもしかすると、逃げなのかもしれない。
 ただ、自分はそれでもこの仙台という街が好きだな。と、思った。もうそろそろ仙台から離れて過ごす時間の方が長くなりそうだけど、戻ってくれば安心するし。

心から、復興を祈ります。

 

http://flower.girly.jp/sakuin/hanasozai/013su/sumire3.gif東日本大震災           T子

あれから16日だそうです。
まだ平常運行とはいきませんが、原発はまだまだ続くのでとりあえず記憶のあるうちに関連のことをメモしておきたいと思います。

土曜に父の三回忌を控えていたので、前日のこの日は年次有給休暇を取得し、同日午前のうちに仙台の実家についていました。

平成233111446
法事やお墓参りの買いもののため、私は車の脇に、母は玄関のカギをしめようとしていたそのとき、それはやってきました。

いや、もうよくは覚えていないのですが。
道路が波打つようなものすごい揺れで、とても立っていられず座り込んでしまいました。
斜め向かいの家のブロック塀は倒れてるわ、電柱は倒れてもおかしくないほど揺れてるわ、瓦ががらんがらんと道路に落ちてくるわ

これは絶対に通信不能になる!と私はまだ揺れてる中、合流予定の夫氏と弟に「無事」メールを発信(しかし、残念ながら、このとき、まさか東京も震度5強で大停電してるとはまったく想像しておらず。)。
 いやもう、いつまで揺れんの?おわんないの?と思うくらいの長い長い地震でした。

いったん揺れが収まったあと、ご近所のみなさんがわらわらと外に出てきて、「家はしっちゃかめっちゃかだけど無事」を確認しあい。(テレビがひっくりかえったとか冷蔵庫のドアが開いて中身全部出てダイニングが卵とドレッシングの海とか)

夫氏からは「新幹線止まるかも」とのCメールが。

この時点で、携帯の災害掲示板に「無事です」を登録しましたが、171は繋がらず。

ラジオでは、災害掲示板の利用を勧めていましたが、携帯サイトはほどなく接続しなくなり、通話はもちろん不能でそのうちバッテリー切れ。
 公衆電話は無料で使えるということでしたが、実家の近くにある公衆電話はまったく繋がりませんでした。

その後の余震がまた結構強烈で雪の降る中 外で余震が落ち着くのを待っていました。
その後、家に入ったとき、母は「水!」と言って蛇口から出てきた茶色い水を浴槽に張りました。
断水。
停電。
ガスは危険なので試しもしませんでした。

台所の作りつけ食器棚の食器が全部出て結構割れたのと仏間の飾棚の中身が出て割れたくらいで、テレビは無事。冷蔵庫も無事。ただし、仏間は割れ物が酷かったのに停電で掃除機がかけられなくて危険なのと、余震の時にすぐ外に出られるように母に「ここはアメリカだから」と言って自宅内を靴のまま往来w
私の部屋の本棚は中身が前にも後ろにも飛び出て出入り口付近にあったため入室不能(苦笑)。2階は軽い家具が多くて結構自由に動いてましたww

ガソリンスタンドの給油待ちであちこちに渋滞が出来ていることは近所の方から聞きましたが、福島で満タンにしていたのでまあいいか、と思っていました。(これは失敗)
ポットにお湯があったこと、冷凍ご飯があったこと、法事の前だったのでお客様用のお菓子などもあったことから当面の食事はいけそうでした。

避難所に指定されている小学校に行ってみましたが暗いのは一緒だったので、これなら自宅の方がいいかと自宅で過ごすことにしました。

情報源は母愛用の携帯ラジオのみ。沿岸に津波が来て「壊滅的」な被害が出ていること、数万人が救助を待っている状況であることを音声情報として得ました。
職場と連絡がつかないままなこと、家族にメールを投げっぱなしであることから車にエンジンをかけ、ラジオを聞きながら携帯を充電しました。

大きな余震が何度もありましたが、無事翌朝を迎えました。

3/12

新聞を見てものすごい津波の静止画確認。各地の震度を確認。(仙台は震度6強、福島は震度5強との表示:誤報)あまりの震度6の範囲の広さに愕然。こりゃ、当面ここには何も来ないと覚悟。

もちろん引き続き停電&断水。

8:30過ぎ。上司から携帯に連絡が入り、自分と家族の無事をようやく報告。

併せて携帯が繋がりにくい状況に改善したことを認知。

何度かのトライで夫氏に電話が繋がり無事を連絡。福島のライフラインがどうなってるか調べて欲しいことを依頼。

弟にも連絡。東京で大停電が起こり電車が運休となり、まだ帰宅中(地震以来自宅に帰ってない)なことを知る。(←夫氏からそのようなことを聞いていたのだが飲みこめていなかったらしい。。。苦笑)

ガソリンスタンドは並んでみたが給油出来ず。

通りがかった親子が並んでる車に「ガソリンなくなったそうですよ」と声をかけてくれました。

この日も引き続き何度も余震。緊急地震速報が何度も鳴りました。

福島の状況はよく分からないが、月曜には出勤しなければなりません。

高速は通行止め、下道を来なければいけないため、渋滞してるものやらよく分からないまま、路面状況が分かるよう日曜の昼に移動することに。

3/13
朝、家の戸締りをして帰福。
下道はスムーズでした。信号は引き続き停電中でしたが、交差点では適当に譲り合いつつ車が進みました。(←ウエシマ作戦?w)道すがらの瓦の建物はダメージが大きく不安は高まるばかり。古い石壁の家は住めないのではと思うほど。
信号は伊達市まで真っ暗。

しかし、飯坂を過ぎて信号が点灯。
帰宅した自宅は、スイッチを押すと電気がつき、蛇口をひねると水が出、あろうことかお湯まで出ました。(のちに断水発覚。受水槽の水は月曜になくなり復旧は木曜でした。)

携帯メールは3/11分から十数件の安否確認メールを受信。
テレビを点けるとラジオで聞いていた・新聞でみたその信じられない画像が次から次へと映し出され続けました。大変なことになったのだと思い知りました。

ちなみに自宅もテレビも倒れておらずキャスター付きメタルラックも走っておらず、本棚の手前に置いてた本が落ちたのと多少の皿が割れたのみ。

職場は地震発生以降24時間体制と聞いていたので、徒歩で職場に向かい無事を告げて、福島の震度も6強で、自分が一方的に心配される立場ではなかったことを知りました。

翌日出勤した事務室は、机上のブックシェルフごと書類が床に散乱し、来客用茶器が粉々に割れ書類を踏んで逃げたことが分かるありさまでした。(実際、机上のものがジャンプしまくりばさばさと書類が落ちる中、立ってることも出来ずただただ揺れが収まるのを待ってから逃げたそうです・・・想像しただけで涙)

しかし、それにしても。
未だに平常運転出来ないとは、当時は想像もつかなかったよ。

そんなわけでそこそこ地震に備えていた実家ですが(自分でないところがみそ)今回、あってよかったものとあったらよかったものリストを整理しようと思います。
(家屋は壊れていない。ガス・電気・水道全滅の場合)

ふつうのラジオ携帯ラジオ(電池式)
手動式携帯電話充電器
懐中電灯(仏壇用ろうそくもあったけど余震があるウチは危なすぎ。キャンプ用のランタンならもっと良かった)
PET5リッターくらい?実家は給水車が来たのが3日目。)
灯油と電池式の石油ストーブ(と電池)
水用タンク(断水中給水所に取りに行くもの。今回はギリギリ使用せず)
カセットコンロガス(今回は使わずに済んだけど、ご飯炊くためには必須)
(出来れば無洗米)
乾パンとかクラッカー的なもの
ティシューペーパー
・ゴミ袋

あとは太い神経ですかねぇ・・・(苦笑)