メニューを飛ばして本文へジャンプ

東漢氏について

東漢氏は総称であり、『記紀』の応神天皇条に渡来したと記載されている阿智使主を始祖とする氏族集団である。東漢氏は倭漢氏とも称し、6世紀ごろには河内を本拠とした西漢氏と対比とともに、ヤマト・飛鳥を拠点としたことから東漢氏と称したものと考えられている。漢と書いてアヤと読ませるのであるが、朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国を中心とした氏族が渡来してきたことに由来してアヤとなり、その後朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったことが主に考えられている。東漢氏の技術・知識は百済との関係が指摘されているのであるが、書紀継体10年九月条には百済から五経博士・漢高安茂という人が使わされており、先に使わされた博士:段陽爾と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という姓のような名称自体がもともと百済にあったことも考慮にいれておくべきである。また東漢氏系の枝氏族には七姓漢人という氏族集団があり、そのなかの姓にその「高」「段」が見えることも注目すべきであろう。東漢氏の系図に三つの枝氏に関し、「三ハラ」という記載みられ、ツングース系の父系原理に基づく「ハラ」との語との関連が考えられているが、またそのことと東漢氏の非血縁集団的特性との比較も議論にあがっている。その東漢氏の系図を分析すると、東漢氏は奈良時代には漢の高祖など漢の皇帝を始祖として自氏系譜の権威づけをしていったことが伺える。そのほか伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたことが『続紀』などにしるされている。
渡来理由は、戦乱、技術、聖王をしたっての帰化(帰化については、書紀ではただ渡来したということと相違があり、渡来した上でさらに期間があり、その後申請手続きを経て、何らかの戸籍に載せられるなどのことがあっものと考えられる。また帰化した後も、聖徳太子の師である慧慈は帰国していることなども注目すべき。)したのであるが、牛の方角に関する教え(書紀にみられる方術の類か)という宗教的要因も渡来伝承の上では影響しているといえるだろう。東漢氏、秦氏については、記紀においても、神の子孫とはされず、明らかに外国人すなわち人間の子孫としてあらわされる。かれら自身も神の子孫と称することは非常にすくない。これらの点は神々に系譜を求める倭系氏族とのあきらかな相違がある。このようにかれらの宗教観念が自身を神と同一体あるいは、子孫とする思想に影響されていないことは考慮しておくべきである。
その東漢氏の同族については、『続紀』の苅田麻呂上表文、坂上系図・『新撰姓氏録』坂上氏条逸文になどにみえるところでは、阿智使主とともに来朝した七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)の子孫である桑原・佐太氏等と、仁徳期に阿智使主が朝鮮から連れてきたとされる「村主」のカバネをもつ氏族集団がおり、その同族的広がりは関東におよぶほどのものであった。阿智使主直系の子孫は後代、天武朝において忌寸姓を賜ることとなり、その他の氏族とはカバネ的に区別がなされることとなった。
渡来時期については、5世紀末の雄略紀に応神紀と重複する伝承が記載されていることから、応神期のそれは雄略紀の渡来関係記事を元につくられたものと考えられており、5世紀末に求める説が有力である。同じく5世紀末から6世紀初頭にかけて渡来してきた今来漢人等、渡来系技術集団を配下に取り込み支配することによって、勢力をましていったものと考えられている。秦氏の新羅系精銅・製鉄技術より新しい百済系の製鉄技術をもたらしたものと考えられ、東漢氏の配下にいた忍海漢氏などは製鉄技術をもって奉仕を行ったいたらしい。
東漢氏は、技術者集団を取り込むと同時に、文筆業を主としたらしい(東)文氏を排出するなど、文人としての官人を多く排出した。7,8世紀には内蔵・大蔵官人を多く排出するなど、算術をもとにした高度な管理能力なども身につけていたものと思われる。また東漢氏は蘇我氏の門番や宮廷の警備に多くかかわっている。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏が担当しており、蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。東漢氏は奈良時代以降も、武人を排出しつづけており、平安初期には蝦夷征討で名を馳せた東漢氏の首長氏坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子がみえることもその伝統によるものである。
そのほか東漢氏は、大和東南部の高市郡を本拠としていたが、後代その高市郡は渡来系の同族が八・九割をしめたことが『続紀』の苅田麻呂上表文に載せられている。