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7・8・9世紀の渡来人について

渡来人には、5・6世紀に渡来した秦・漢・文氏・今来漢人等の渡来系氏族とは別に、7・8・9世紀に渡来してきた新しい渡来人が多く存在していた。
これらの渡来人は、7世紀中葉に百済・高句麗が滅んだときに亡命してきた、百済王氏・高麗王氏らの亡命渡来人や、朝鮮三国の官職をもって渡来した氏族とその子孫、唐から遣唐使などを通して渡来した唐人などがある。また、7世紀ころになるとなかにはペルシアやインド方面からの渡来人も、記載されてくる。そのペルシア、インド方面の渡来人としては、都貨羅人と舎衛人の行動記載が孝徳・斉明紀に続いて4回載せられている。都貨羅人はアフガニスタンの都貨羅国(もしくはタイメコン川流域吐火羅国)から、舎衛人はガンジス川流域の舎衛国から来たものと思われる。おそらくは、この都貨羅人および舎衛人がが西域を故郷としていることが想定できるのであり、仏教やペルシアなど西域方面の文化を日本にもたらしたのであろう。このように、7,8、9世紀の渡来人はかなり遠隔地からの渡来がでてくる点で特徴的である。これらの新来の渡来人については、記紀の他、『続紀』や『新撰姓氏録』に多く記載されているので参照されたい。
これらの渡来人は、当時最先端の大陸系の知識・文化を身につけていたことから、時に重宝されることがあったものと考えられている。
その処遇については、特に石母田氏などは唐人について、蕃国人として扱われた朝鮮系渡来人とは別に、隣国人的な優遇処置が施された可能性があることを指摘した。この隣国的対応を示す根拠としては、律令の規定などをあげているが、平野邦雄氏などは、唐人についても、蕃国人の部類に属するものとの意見をだしており、その是非が問題として論議されているところである。最近では田中史生氏が朝鮮系の新来の渡来人が日本の姓に改姓されるのに数代かかるのに、唐人については一代である事例がみられることなどから、その隣国的対応がみえることを指摘している。
また朝鮮系の新来の渡来人とちがって唐人が忌寸姓を賜っていることなどからも、その優遇的措置が指摘されているが、まだ忌寸姓の意味も不明であり、新来の朝鮮系氏族との格差がどのように実体的根拠をもっていたかについては、個人的には修論(忌寸姓等と『新撰姓氏録』にみられる氏族序列関連の研究)で書いたのであるがなお疑問が多く今後の課題と思われる。