論文紹介|古代のキクチ一族の謎

古代のキクチ一族の謎

歴史ジャーナリスト
 菊池 秀夫

はじめに

 現在の熊本県は、人口、県民総生産ともに全国23位で、ちょうど全国の真ん中くらいの順位にあります。しかし、かつては古代から中世にかけて九州の中心地として栄えていました。『延喜式』(927年完成)
によれば、西海道(九州)での肥後国の税の比率は26%とかなり高くなっています。しかも、驚いた事に当時の日本の全68カ国中、肥後国は陸奥国の次に多い税を納めていた国でした。肥後国は当時都があった畿内の国々よりも人口の面でも、生産性の面でもはるかに上回った大国でした。陸奥国は、出羽国を除いた東北のほとんどの地域を占めていますから数字が大きくなるのは当然の事といえると思います。肥後国は、当時の日本の中で一番の大国だったと思われます。


現在の熊本という文字は、1600年に加藤清正が熊本城を築造した時から始まり、それ以前は隈本と書かれていました。一見、熊本の名前の由来は熊襲の国と関係があるように思えますがそうではありません。
熊本県の北部に菊池市があります。菊池市の中心部には隈府という地名が現在でも残っています。現在の菊池市は、人口が5万人をやや上回る程度の普通の地方都市にすがないのですが、かつては九州の中心として栄えていました。菊池の地名は、一〇七〇年に菊池氏初代の藤原則隆公が大宰府の高級役人として肥後に赴任し、深川に館を構え、菊池を族称としたことに由来しています。


 さて、もう少し菊池のことを知っている方は、菊池市の北西部の山鹿市菊鹿町との境に鞠智城という城跡の公園があることに気づかれたと思います。今回は、この鞠智の名前の由来を遡って考えてみたいと思います。そうすると、とてつもない歴史とロマンが見えてくるのです。

鞠智城の謎

 鞠智城のことが書かれている最古の文献は『続日本紀』で、文武天皇二年(六九八)五月二十五日条に、「大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を修理させた」と記されています。当時の日本は、友好国であった百済を復興する為に朝鮮半島に派兵を行いましたが、六六三年に唐と新羅の連合軍に敗れました (白村江の会戦) 。日本は朝鮮半島から兵を引き上げ、防衛の必要に迫られる様になりました。天智三年(六六四)、日本は西海防備をはじめていきます。ところが不思議な事に、『日本書記』には水城、大野城、基肄城の築城については書かれているのですが、鞠智城の事は書かれていないのです。つまり、鞠智城は六九八年には修理の為にあった事は間違いないのですが、いつ造られたのかは不明なのです。さらに不思議に思えるのは鞠智城の位置です。当時、九州には国の出先機関として筑紫に大宰府がありました。水城、大野、基肄の三城は大宰府を守る為の城として適切な位置にあるのですが、鞠智は大宰府からかなり離れています。通説では鞠智城は後方支援の為の基地とされており、確かに遺跡には兵舎、米倉などがあり、食糧や武器、兵士などを補給する基地であったと思います。しかし、大宰府から鞠智城までの間には筑肥山地が連なっています。南関のあたりにはそれほど高い山はないのですが、小高い山々が一〇キロ近くも連なっています。果たしてこれほど離れていて不便な所に基地を造って機能的といえるのでしょうか。高良山あたりにあった方が自然な気がします。それではなぜここに鞠智城はあったのでしょうか、私の推測になりますが、ここには白村江の会戦の以前からそれなりの基地があったのではないかと思われるのです。それを防備の為にうまく活用していったのではないかという感じがします。当時の筑紫平野は筑後市のあたりまで海であったと推定されます。鞠智城から船を使って菊池川を下って有明海に出てさらに北上すれば、大宰府まで容易に人や物を運ぶ事ができます。
まとめになりますが、鞠智城がいつ築城されたのかは文献上確認ができないのです。

菊と鞠の謎

 先程、『続日本紀』に鞠智と書かれている事を紹介しましたが、ルビにくくちと書かれています。どうしてこのような読み方をするのでしょうか。
 『日本歴史地名大系』(平凡社)によると、『文徳実録』の天安二(八五八)年二月と六月の条に菊池城と記されており、『三代実録』の貞観十七(八七五)年の六月の条に菊池郡倉舎と記されていると書かれています。『三代実録』が完成したのが九〇一年、『文徳実録』が八七九年、『続日本紀』が完成したのが七九七年です。『続日本紀』では鞠智であったのが、『文徳実録』では菊池になっています。百年くらいの間に鞠が菊に変わったのだと思われます。どうしてこの様な変化があったのでしょうか。

 菊と鞠の字を漢和辞典で調べていくと面白い事がわかってきました。菊の字の意味は、観賞用植物の意味しかありません。鞠の字の意味は、十種類にも及び、その中の一つは観賞用植物の事を意味しています。さらに古語辞典や百科事典で菊を調べると、「日本原産のものは野菊の類で、カワラヨモギなどと呼ばれていた。薬草、観賞用の菊は奈良時代か平安時代初期に大陸から輸入された。万葉集には菊は詠まれていない。菊花鑑賞の初見は七九七年の桓武天皇の時」と書かれています。さらに、『懐風藻』には菊酒として登場します。『懐風藻』が完成したのが751年。『続日本紀』が完成したのが七九七年。『万葉集』が完成したのが七五七年ですから、この間に菊の花が日本に入り、菊の文字が使用される様になったと思われます。ちなみに平安時代が始まったのは七九四年です。
 次に菊と鞠の発音について述べます。菊は漢音でキク、呉音でコクです。鞠は草の意味で使用する場合は漢音でキョウ、呉音でクと発音します。その他の九種類の意味として使用する場合は菊と同じで、漢音でキク、呉音でクと発音します。『続日本紀』が完成した当時は日本にはごく一部の人にしか菊の文字は知られていなかったと思われますから、当初は鞠として使用していた文字が発音が同じ鞠のあて字として菊の字が使われる様になっていった可能性が高いと思われます。

ククチの謎

 話は最初にもどりますが、『続日本紀』に書かれているルビがどうしてくくちとなっているのでしょうか。その理由は、『和名抄』に《久々知と訓する》と書かれているからなのです。久の発音は漢音でキュウ、呉音でクと発音し、鞠の字で草の意味を持つ時の発音と漢音も呉音も不思議と一致しています。しかし、そうすると先程までの話でこの時以前の日本に草の菊がなかったのにどうしてこの字を使用したのかという疑問と、どうして発音の通りに鞠鞠と書かなかったのかという疑問が起こります。この疑問を解明しようと、日本全土の菊の字を最初に使用する地名を調べてみると手がかりが見つかりました。

『全日本地名辞典』(人文社一九九六年度版)で頭に菊の字を使う地名を調べると五〇件ありました。その中に、千葉県市原市菊間という地名があり、『古代地名辞典』で調べると、平安期に菊麻郷と呼ばれていたと書かれています。その根拠はやはり『和名抄』で、《久々万に訓ずる》と書かれています。一方、『続日本紀』の中には菊多という地名があります。養老二(七一八)年五月の条に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・亘理・常陸国の菊多の六郡を分離して石城国を設置した。(中略)常陸国の多珂郡の郷、二百十戸を分離して菊多郡と名づけ石背国に所属させた」と記されています。菊多は菊田に変わり、現在のいわき市南部にあたります。石城国は神亀五(七二八)年にはすでに陸奥国に復帰しているので、わずか十年足らずの間に存在した国でした。問題は菊多の読み方なのですが、『和名抄』には「訓を木久多とする」と書かれています。

鞠智城の記事は六九八年です。どの様にして鞠と菊の字の使い分けをしていたのか、読み方のククかキクの使い分けをどうしていたのかも謎です。七一八年頃に鞠は菊の字に切り変わっていったのでしょうか。その論議はさておいたとしても、鞠と菊が本当にククと呼ばれていたのかという疑問が残ります。この謎を解く答えが、実は『日本書紀』の中にあったのです。「神代」の「黄泉の国」の一書(第十)の箇所に菊理媛神が登場します。菊理媛は、イザナギが黄泉の国から脱出する時に現れた神様で、『古事記』には登場せず、『日本書紀』でも、この時にしか登場しません。しかし、菊理媛は白山の神様として現在も多くの信仰を集めています。(白山信仰)菊理媛を祭神とする神社は全国に一八九三社あり、数の上では八位になります。『日本書紀』のほんの一場面しか登場しない神様の信仰が、なぜこれほど広がったのかは不思議なのですが、重要な点はククリヒメという読み方をする事です。なぜキクリと読まないのでしょうか。それは、古くは菊という字がククと呼ばれていたからだと思われるのです。『日本書紀』が完成したのが七二〇年で、この時には日本にはまだ草の菊はなく、菊の文字も使用されていなかったはずです。何故ここで菊の字が使用されたのか大いなる謎です。

 まとめると、千葉県の菊間は『和名抄』では久々万と呼ばれていた。『日本書紀』の菊理媛はククリヒメと呼ばれている。熊本県の菊池は『和名抄』では久々知と呼ばれていた。結論として、菊と鞠は同じ意味と発音を持ち、菊=鞠は古代においてククと呼ばれていたらしいという仮説が成り立ちます。

ククチの原像を求めて

 では、ククチという地名はいつ頃から使われていたのでしょうか。実は、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)を調べてみてもククチに関連する地名や人名を見出す事ができないのです。『古事記』は天皇家の歴史をまとめた書、『日本書紀』は当時の政府がまとめた日本の歴史書です。つまり、中央を中心とした考えのもとに記事が構成されています。

神代の代、つまり神話の部分では南九州が話しの中心となっており、現在でも残っている地名なども多く見られるのですが、神武天皇が近畿に東遷してからは、近畿を中心とした話になります。熊襲や隼人に関する記事は時々出てくるのですが、九州中部、特に肥後に関する記事はほとんど出てきません。この傾向は『続日本紀』まで続きます。この頃になると、日本各地の記事が豊富に書かれているのですが、肥前や肥後に関する記述は相変らず少ないのです。その原因は大宰府にある様に思われます。『続日本紀』の聖武天皇・神亀三(七二六)年の条に、「ただし、大宰府ならびにその管内諸国に赴任するものと、以下略」という記事があります。ここで言う管内諸国とはどこまでを言っているのかは不明です。この記事の十四年後の七四〇年に太宰少弐の藤原広嗣が反乱を起こします。広嗣は大隅、薩摩、筑前、豊後、筑後、肥前などの国の軍勢を率いて戦いをしたと書かれています。豊前国も反乱に加わっています。しかし、なぜか肥後国だけが登場しないのです。肥後国はこの反乱どの様に係わったのかは解かりませんが、大宰府(広嗣)の影響は反乱軍の情況から判断してほぼ九州全土に及んでいたと言って間違いないと思います。この時の鞠智城はどの様な位置づけだったかは謎です。反乱後の鞠智城については、八五八年、八七五年、八七九年の記事で確認することができます(『文徳実録』と『三代実録』)。

話しをまとめると、九州の事は大宰府にまかされていた。したがって、九州の情報は大宰府で止まってしまうので記述が少ないのだと思われます。
文献的にこの地域の事を知るのが難しいとなると、考古学的にはどうなのでしょうか。熊本県の古代の歴史を調べてみると、いろいろな特色のある面白いことがわかります。

熊本県の弥生時代の遺跡は約七四〇ヵ所あり、国全体の約一三%を占めています。特質すべき点は、鉄製品を多く使用していることです。天水町の斉藤山遺跡(弥生時代前期)からは日本最古の鉄斧が出土しており、弥生時代後期の熊本県の鉄器出土数は一八九一点と、国全体の約三〇%を占めています。鉄は武器の他に農具や工具など多目的に使用され、生産性を飛躍的に高める手段となり、水稲文化の普及とともに大きな集団(社会)を形成する要因となります。すなわち、権力の形成(国)に結びついていきます。菊池市七城町のうてな遺跡(弥生時代後期)は、直径三〇〇メートルの大環濠集落で、中国の新の時代につくられた貨泉が出土しています。

古墳時代になると、熊本県にも多くの古墳が造られる様になり、約一三〇〇ヶ所と国全体の約二四%を占めています。菊池川流域も五世紀に鹿央町の双子塚古墳といった大型の前方後円墳が築造される様になります。この地域で特質すべき点は、前方後円墳とともに装飾古墳が形成されていく事と、石人の存在です。装飾古墳は宇土半島から始まり、北上して最終的には宮城県まで広がっていくのですが、なぜか鳥取県の五二基を除いて、点在している程度なのです。装飾古墳は熊本県に一八六基あり、国全体の約三八%を占め、その中で菊池川流域が一二二基と県全体の約六六%を占めています。装飾古墳の文化に関係した人達と大和主権との関係はよくわからないのですが、玉名大坊古墳(六世紀前半)は前方後円墳で、内部に美しい装飾があり、金製の耳飾や直刃、鎧、須恵器などが出土されています。

古墳時代の後期になると、横穴群という古墳が多くなるのですが、この中にも装飾は描かれています。石人は武装している石の人形の事で、福岡県南部を中心に九州北部に分布していますが、破壊されているのが特張です。これは磐井の乱(五二七年)に対する大和王権の見せしめとされています。そうした説がある一方、装飾古墳としても有名な山鹿市のチブサン古墳(約六〇メートルの前方後円墳)では、首が落ちていない武装石人が見つかっています。さらに、菊池市の木柑子高塚古墳(六世紀後半)では、珍しい武装していない四体の石人が見つかっています。
 話をまとめると、菊池川流域は弥生時代の早い時期から鉄を使用しており、大きな勢力が育つ環境があったと言えるでしょう。そして、四世紀以降、大和王権の全国統一が進み、この地域にも前方後円墳の築造がなされる様になります。一方、五世紀頃には装飾古墳という独自の文化が栄えていくのですが、破壊された形跡もないので対立はしていなかったと思われます。

 謎の多いまとめとなってしまいましたが、一口で言えば、菊池川流域は弥生時代から古墳時代にかけて非常に活発な勢力が存在していた事がうかがえると言えます。ククチの原像を求めて文献的に、考古学的にたどってみましたが、原像にたどり着く事はできませんでした。ところが、思わぬ所に原像らしきものを見つける事ができたのです。

三国志のクコチヒク

 『三国志』の中のいわゆる『魏志倭人伝』と呼ばれている書の中に、狗古智卑狗という人物が登場します。狗古智卑狗は菊池彦ではないかという説が以前からありました。この事をもう少し詳しく考えて生きたいと思います。

 『魏志倭人伝』は、三世紀中頃の日本の事を書いた二千文字前後の文章ですが、解釈の方法は何通りにも及び、長年に渡って論争が続いているのですが今だ結論は出ていません。結論が出ない一因として、情報の不正確さの問題があります。二千文字前後と述べたのもその理由からです。その原因の一つとしては、原本がなく転記された物をもとにしているからなのですが、大方の話の流れは正しいと思われます。間違いや不正確な小さな事を論争するより、正しいと思われる情報の精度を高めていく事の方が重要だと思われます。

 『魏志倭人伝』には、女王国(邪馬台国)の連合の国々(三〇カ国)と狗奴国が長年に渡って戦争を続けてきた事が書かれています。女王(卑弥呼)は狗奴国との争いを有利にする為に魏に使者を送り、応援を求めましたが、魏の使者が日本に来た時には卑弥呼は死んでいました。卑弥呼が死んで国が乱れた後、台与(壱与)が新たな女王となり、魏に朝貢したと書かれています。狗奴国との争いがいつまで続き、どう結着したのかは書かれていません。

 狗奴国は女王国の南にあり、王がいて、官に狗古智卑狗がいたと書かれています。魏の使者は、当時の日本人に名前を聞いて、同じ発音をする漢字を当てはめていったのだと思われます。

 漢和辞典で狗古智の読み方を調べてみると、狗は漢音でコウ、呉音でク、古は漢音でコ、呉音でク、智は漢音も呉音もチと呼びます。そうです、呉音で続けて読むとククチとなるのです。しかし、ここで問題が一つあります。同じ発音の文字をなぜ二種類も使用したのでしょうか。不弥国の所に登場する官の名称は弥弥と連続して同じ文字を使用しています。同じ発音を表すだけならば、狗狗もしくは古古で良かったのではないでしょうか。そう考えるとクコと読むのが自然なのですが、この時代の中国の人が漢音と呉音をどう使い分けしていたのかを調べる必要があると思います。
 

卑狗については、対馬国や一支国の官の名称の所にも登場しており、恐らく当時の日本人が使用していた尊称の彦にあたると思われます。彦のつく名は『記紀』の中に非常に多く登場します。『古事記』では、比古、昆古、日子、彦と書き、女性の神様は比売と書きます。ニニギの時には、名前の前に日高日子と続けて使用されています。「日本書紀」では一貫して彦と媛の文字を使用しています。

 『魏志倭人伝』と『記紀』の間には接点はないとされていますが、卑狗と彦が同じ事を意味していたならば面白いことだと思います。話をまとめますと、邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国と対立していた。狗奴国には王がいて、その下に狗古智卑狗という官がいた。狗古智卑狗の読み方は、クコチヒクと思われる。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池という人物の事で、卑狗は彦ではないかという推論が成り立つという事です。
 狗古智卑狗の事を菊池彦だと考える読は、邪馬台国九州説の方に多く、早稲田大学の水野祐先生の説などが有名です。しかし、邪馬台国畿内説だとしても狗古智卑狗の事を菊池彦と考えてもおかしくないと思います。

 ここで『魏志倭人伝』に書かれている女王国に属していない国の事をまとめてみます。まず、@女王国の南に狗奴国がある。次に女王国の東に倭種の国があると書かれている内容ですが、これは特定の国ではなく倭人の国があるとの意味ではないかと思われます。具体的には以下の3つの国です。Aその南には侏儒国がある。B裸国C黒歯国が侏儒国の東南にある。黒歯国へは船で一年は書かれています。これらの情報を総合的に考えてみると、邪馬台国と狗奴国は九州にあったのだと考えるほうが自然だと思います。

 『魏志倭人伝』には魏の使者がたどったと思われる行程の記述があります。この行程の解釈についても多くの議論がなされているのですが、私は原文をそのまま忠実にたどるのが正しいと考えました。すると偶然かもしれませんが現在の瀬高町あたりが邪馬台国のあった所との結論になるのです。詳しくは自著『隼人族呉人説』(新風舎)に書いてあります。瀬高町のあたりは、邪馬台国九州説の多くの人が比定している所です。そしてこの場所は狗奴国の北に位置しています。

今までの邪馬台国論争の争点は、不正確な情報をどう解釈していくかという方向にあった気がします。邪馬台国の比定地で結論が出ないのであるならば、視点を変えて狗奴国の事を調べていけば良いと思います。この根拠の中心となるのがクコチヒクです。
 先程も述べましたが、菊池川流域は弥生時代から大きな勢力が育っていく環境の場所だったのです。

日本最古の名前

 『魏志倭人伝』には、日本の地名(国名)と人名がたくさん記されています。地名と人名は固有名詞であるので、現在までその名称が残っているとすれば謎を解く大きな手がかりとなります。

 『魏志倭人伝』には女王国に属する三十ヶ国の国と、属さない五つの国が登場します。この中で、現在も地名として使用されていると思われる国が三つあります。@一大(支)国→壱岐A末盧国→松浦B伊都国→糸島です。この三つの国の名と地名の関係については、魏の使者のたどった行程から判断しても妥当ですし、畿内説の人も九州説の人も共通して認めています。

 それでは人名についてはどうでしょうか。『魏志倭人伝』の中には二十六人の日本人が登場します。その中で人名らしき名前は九つあり、その他は官職もしくは職の名称と思われます。人物らしき方の名前を列記します。@ヒミコAナシメBトンゴリCイシギDヤヤコEヒミココFイヨ(トヨ)GイキマそしてHクコチヒクです。

 九名の内、クコチだけがククチという名前につながる唯一の名前といえるのではないでしょうか。ククチという名前は現在はありません。しかし、最初のテーマにもどりますがククチは後にキクチに変化していったみたいで、菊の字が使用される様になってから菊池という文字になっていった様です。

 そうすると、菊池という名前は古代から続いている由緒ある名前で、そしてククチという地名は、古代史の謎をひも解くかぎとなる可能性を秘めていると言えるのではないでしょうか。

おわりに

今回は「古代のキクチ一族の謎」というテーマでお話をさせて頂きましたが、正確に言えば「一族」では正しくないかもしれません。結論からすると、古代の日本の文書でククチと言う地名が確認できる事と、『三国志』でクコチという人物がいたと確認できるという二つの結果しかありません。その接点は読み方が似ているというあくまで推定でしかありません。しかし、弥生時代後期の遺跡や、『魏志倭人伝』に書かれている内容から推定しても、クコチヒクのいた狗奴国は菊池川流域にあったと思えるのです。今後の発掘調査などにより、狗奴国の謎が少しづつ解明されていき、それが邪馬台国、そして日本国の起源の解明となる事を期待しています。

私の研究は今後も継続していきたいと思っておりますので、皆様の情報提供など頂けましたら幸いです。もし、私の仮説に興味をお持ちになられたら、私の書いた『隼人族呉人説』(新風舎一二六〇円)を読んで頂けたら幸いです。魏の使者がたどったと思われる邪馬台国までの行程などが詳しく書かれています。著者名は久々知武となっています。
 私自身つい数年前までクコチヒクの事はもとより、南北朝時代に活躍した菊池一族の事も知りませんでした。調べれば調べるほどいろいろな歴史の道が見えてくるのです。これも何かの因縁なのかもしれません。