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鹿嶋・水戸周辺の渡来人遺跡探索 03.11.4〜5

鹿嶋神宮
鹿嶋神宮案内図
十二所神社
十九夜観音堂

11月4日から5日にかけて、水戸周辺の渡来人関連遺跡を探索してみました。まず、天気と相談しながら昼に出発し東関東高速道路を通って、鹿嶋神宮に行きました。鹿嶋神宮はかつて海に囲まれた半島だったそうで、小高い丘の上にある神宮周囲をまわってみると、大きく浸食された地形が今も残っていました。神宮に入ると、参道に向かって右側に比較的小規模な本殿があり、その位置と規模に驚きました。ご神体はまた向かって正面ではなくやはり右側左向きにあり、出雲大社のご神体の位置構造とにているそうです。また有名な2メートルを超える霊剣が展示してあるので拝見したのですが、奈良時代初期に石上神宮の霊剣をもとに作られたそうですが、その長さと今も光輝く保存状態のよさに驚かされました。写真に写るサイズでもなく、どうもプロの写真家でも撮るとうまく光加減がいかないそうです。どうも色が黒褐色でかつ光輝くのに加えて長いので遠くからしかとれないし、しかもガラスの中にあるので、なかなか写すのは難しいのかもしれません。神宮内の杉林のひっそりとした空間はなんともいえない霧の立ちこめた静けさとともにすばらしい風景でした。神宮について詳しくは神宮で売っている『鹿嶋神宮』東実著・学生社・2001をご参照ください。本書の記述で特に気になったのは、やはり藤原鎌足が鹿嶋出身であったこと、鹿嶋の神が春日大社でも祀られて、奈良・平安と都においても大変尊重されていたこと、都から鹿嶋に向かう使のことについてなどです。最近出版された関口昌春氏の多胡郡建設と藤原不比等との関係、そして本研究会報告でもとりあえげた武蔵高麗郡と藤原武智麻呂との関連と、つまり親子3代にわたっての関東における藤原氏の影響力が、やはり中臣時代からの鹿嶋の基盤に本源を見いだすことができるのであろうと感じました。さて、その後雨が強くなってきたので、海岸沿いに51号を通って大洗・水戸方面に直行しました。途中水戸東方の渡来系装飾古墳の虎塚古墳に寄りたかったのですが、次回にお預けにしました。水戸の友人宅に到着し、友人の案内で大洗にある「潮騒の湯」に行き疲れをいやしました。この「潮騒の湯」は大浴場で露天風呂もあり1000円で夜九時まで入れます。その後友人宅に戻りインターネットで水戸周辺の遺跡・地名を一緒に調べながら一日目は終わりました。次の日は昼からバイク屋に行き、駆動部に調子異常が感じられたので、その辺みてもらいました。みてもらっている間、そこの常連さん?と水戸周辺の遺跡の話などをしていたのですが、今年春ごろに72年に一度というとんでもなく長いサイクルの祭りが今年開かれたことを聞きました。さてそこから虎塚古墳に向かおうと水戸市内に入ったのですが、どういうわけかいろいろ迷い、118号のほうにいたのでで、急遽前日のHP調査で第3候補地にあげていた大子町のほうへ118号で北上することにしました。50キロ以上ある道のりを、紅葉の中、山道を通って久慈川沿いにひたすら走りつづけて1時間、大子町に到着しました。そこで奈良時代聖武天皇神亀4年(727年)創設の由来が残る十二所神社にいきました。十二所の由来は12神を祀っていることにあるのですが、12の数字にはひとくせありそうです。この久慈川沿いに久慈郡を縦断する間には西金、東金など金のつく地名を多く見かけました。先の72年サイクルの祭りも後で調べてみると金砂祭礼というそうで、その金砂祭礼でも118号から1本となりの道路を経由して西金砂神社を巡って6泊7日で常陸太田市のほうへ祭列が移動するそうです。あるいはこの1200年以上続く祭りのなかで118号を通ったこともあるかも?とか今思います。またこの金砂祭礼というのは、藤原不比等の三男、藤原宇合から創始されたそうで、鹿嶋神社以来の藤原氏の影響力をみてとれるようです。この祭礼では「西金砂の面」という笑い面が有名で、高麗系渡来人のもたらした面との関連も指摘されているそうです。また、以下のHPではその渡来人関連や、以下のように72年サイクルの意味について考えておられるので、ぜひご参照ください。http://www.kawamata.co.jp/ryozan/sairei.html「「常陸国風土記」に密筑(水木)の里の海で採れたアワビだけが「石決明」という漢字を用いており,不老不死の仙薬として朝廷に貢納されていた.少なくも天平四年および9年(737年,宇合の死の年)に記録があり,水木の浜は古来から聖地であったというのである.では,「なぜ大祭礼が73年廻り」なのか? 誰独りこの謎に答える人はいない.しかし,筆者には自明に思われる.これは「7回目の未の年ごと」ということである.干支の12年間の6倍は満72年となる.第7回という縁起深い小祭礼執行にさいして第2代盛綱が,「7の数字」を最大限に盛りたてる制度としてこれを勇猛に発案したのであろう.」 この「ヒツジ」年ごとというのも、やはり群馬から関東にひろがるヒツジ大夫伝承との関わりとで関連づけれないかとふと感じました。また水戸の友人の話だと祭礼では性器の擬態が本尊だったりし、そういう祭りは茨城よりは関西の祭りなどに多いとのことで、渡来人関連との今度の研究が気になります。さらに渡来人関連では大子町のある久慈郡やその周囲の多珂郡、那珂郡では、鍛冶工房遺跡から漆紙文書が出ており、製鉄や武器づくりと関連した文字が表記されているそうです。また久慈郡関連では「神前里」「真野里」などの地名もみえるとのことでした。この「神前里」、「真野里」については、天智4年(665)二月に百済百姓男女400余人を近江国神前里におき、翌年5月には百済百姓男女2000余人を東国へ移し3年の間官食を支給したとあり、この東国に移住させられた百済人が久慈郡の神前里、真野里へ向かった可能性が指摘されているようです。本研究会の年度末報告でも百済・高麗からの亡命渡来人と関東の関連について取り上げていたところで、特に高麗郡建設にあたっては、「霊亀二年,五月 ,十六日「辛夘。《十六》以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七國高麗人千七百九十九人。遷于武藏國。始置高麗郡焉。」と「常陸」からも集められていることに今回の探索主題がありました。そこで前日もそのへんHPで神前里が久慈郡の南の那珂町にあることを調べていたところだったので、118号での帰り道に、那珂町の交番で古い地名の神前里が、現在の横堀地区にあることを調べてもらい、その地にある鹿嶋神社、吉田神社、十九夜観音堂のうち、最後の十九夜観音堂をみてきました。そしてその後那珂ジャンクションから常磐道で都内に向かい帰りました。那珂郡にはその日は休みでいけませんでしたが、歴史民俗資料館もあり訪れる際にはご参照されてみてはどうかと感じます。その他以下のHPで久慈郡と渡来人関連、金砂祭礼について掲載されていますのでご参照ください。

金砂祭礼
http://www.jsdi.or.jp/~hato/kanasa/kanasadai.html

http://www.kawamata.co.jp/ryozan/sairei.html

http://www.jsdi.or.jp/~otagiri/kanasa/index.htm(志田惇一氏等の当祭礼に関する文献掲載されてます。)

久慈郡と渡来人関連

http://soma.acrweb.com/manokyoumei.htm

 
十二所神社由来記
鹿島神宮にて