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吉士集団について

渡来系氏族には、難波吉士、草壁吉士など、「吉士」「吉師」という呼称を持つ氏族集団が存在した。その「吉士」は新羅の官職にみえ、6世紀ごろに渡来した新羅系の渡来人集団とみられている。吉士集団の系統については三浦圭一氏等が詳細に論じているので参照されたい。
吉士集団については、記紀の他、新撰姓氏録などからも同族形態を伺うことができ阿倍氏との擬制的な血縁関係が見られる。後天武の時に八色の姓の制で、忌寸を賜る氏族も出ている。吉士集団の職業としては、船頭職として、難波・住吉津から、淀川などの水路において、様々なものを運んでいたと考えられている。推古から天武時代あたりでは、難波キシ氏、および草壁キシ氏など、頻繁に外交関係記事に現れる。凡河内氏などの摂津河内の氏族とかかわりがある。
吉士集団の長は難波吉士氏とみられており、摂津国の郡司職などを歴任していたことが確認されている。吉志氏という枝氏もみえ、吹田市に現在も吉志部神社があり、境内からは陶器を焼く登り窯などが出土している。ここで造られた器や瓦が、水路を利用して、平城京などに運ばれていたらしい。
吉士については、大陸文化と外交をとおして身につけたものが多いようで、後代の文献『北山抄』などに阿倍、難波吉士氏、吉志氏が吉士舞とう勇壮な舞楽を伝承していったことがしるされており、大陸系舞楽とのかかわりとともに日本の雅楽の源流との深くつながっているものと考えられている。