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渡来人研究会掲示板ログ6

『曽屋神社』
泊瀬 2004年8月16日(月) 11:37:39 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、曽屋神社の記事興味深く拝見しました。熊野、白山、牛頭天王と三拍子揃っているのに、スサノオの命の名前が無いのは不思議です(事代主はその子供でしたか)。やはり明治の愚策、合祀のおかげでしょうか?
 管理人さんはバイクに乗るのですね。羨ましいです。
 私と言えば小説のネタの為に、上杉・最上の故地、米沢・山形市の周辺を踏査してきました。山城の跡にせっせと登ってきつかったです・・・

『秦野探索』
管理人 2004年8月15日(日) 3:25:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 隼人サミットの開催から今後の展開および21日のTV放送楽しみにしています。さて、昨日秦野方面の遺跡探索に行ってきました。そしてまた日記ページをアップいたしましたのでぜひごらんになってください。以下ページで掲載いたしております。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/isekitansaku.htm

『隼人サミット 鹿児島放送でTV放映!』
竹取の翁 2004年8月9日(月) 23:9:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信
隼人サミット「古代隼人文化を語る」TV放映! 

隼人サミット「古代隼人文化を語る」

隼人サミットの模様がTV放映!
2004年8月21日(土)、10時15分から鹿児島放送で、隼人サミットの模様がTV放送されます。
また、地元紙で8月4日の鹿児島の新聞、「南日本新聞」にも大きくとりあげられました、
鹿児島では南日本新聞にとりあげられれば、今回の催しが認められたというということになるようです。
 サミットの評価について、隼人町でも評判がよく、出席された方も有意義な一日だったと話されていました。

開 催 日 : 平成16年8月1日(日)
 開催時間 : 午前9時45分〜午後4時15分
 開催場所 : 隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
      鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
      入場無料 定員600名 要申込み 
  問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館0995(43)7110
サミット出演者
 特別講演  10時15分〜
  森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授

シンポジウム13時30分〜
 進 行 役 原口 泉 鹿児島大学法文学部教授
 指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
 パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授 
      小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
      角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
      藤浪三千尋 隼人町教育委員会

http://www.eonet.ne.jp/~koizumi/



『泊瀬さんお久しぶりです』
管理人 2004年8月7日(土) 14:19:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さんおひさしぶりです。いろいろお気遣い感謝いたします。今年は暑かったそうですね(1ヶ月病院の冷房中にいたので・・)。今夏はまた関東はよく地震で多く揺れますね。地震サイトがあるので災害予防の参考にしてみてください。
http://www.netlaputa.ne.jp/~gfg/jisinj.html
災害への避難訓練も入院中あったんですが、災害予防対策と援助に関しては常に意識せねばと今特に感じています。最近バングラディシュでも洪水で多くの被災者が出たそうです。以下のサイトをぜひごらんになってください。
http://www.ne.jp/asahi/esnac/ngo/
泊瀬さんご記載の「生まれ育った所(自然)への精神の帰属の必要性」「子供達の心に無くなってしまったそのもの」の部分が、特に今なにか重要な感じがしました。それではまた今後ともよろしくお願いします。


『おおそうでしたか!』
泊瀬 2004年8月7日(土) 11:20:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、入院していらしたのですか!もう大丈夫でしょうか?まだまだ暑いのでご自愛ください。

『入院していました』
管理人 2004年8月5日(木) 22:58:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お返事遅れました。管理人です。7月5日から8月5日本日まで、病気により入院していました。病院にての手術などを通し、日ごろの健康管理の重要性をしみじみ感じさせられる日々でした。この間みなさま貴重なご意見・情報ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
 
 渡来人研究会管理人

『明治の神社合祀に関して』
はつせ 2004年7月22日(木) 1:0:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お久しぶりです。
 今日のNHKの「そのとき:南方熊楠」を見て、明治の神社合祀令で数万の全国の神社が失われたことを知りました。今でさえ夥しい神社があるのにもっとあったのですね!日本人の歴史の汚点というか、興福寺の五重塔を5円で売り出した輩なども含め、情けなくなりました。
 南方の思想の優れたところは「エコロジー」の他に、「愛郷精神」つまり生まれ育った所(自然)への精神の帰属の必要性を看破したことにあると思います。正に我々の子供達の心に無くなってしまったそのものだ、と思いました。私のの子供時代はまだ、東京でも深大寺の森林で鬼やんまを追ったり出来たもんです。

『会員』
teey 2004年7月16日(金) 8:12:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 坂野上田村麻呂を祀る社は「豊葦原国から邪馬台国夜須へ」と書き込み探索にあります、御一件の程。
渡来人については日本古代史会で討論しています。

『隼人サミット「古代隼人文化を語る」』
竹取の翁 2004年7月14日(水) 23:10:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 隼人サミット「古代隼人文化を語る」
                                     鹿児島県隼人町
目的
 隼人町一帯は古代日向国の大隅、阿多の中央に位置し、の国と呼ばれていました。
 この地域は一宮正八幡宮である鹿児島神宮を持ち、海幸・山幸伝説など神武東征に係る伝説が数多く
存在します。鹿児島神宮には、山幸が龍宮から持ち帰ったとされる、潮満玉と潮引き玉が保管されてい
ると言われています。また、天皇の即位の礼に舞われるとされる隼人舞も千年もの時代を経た現在でも
受け継がれていると言われます。
 この隼人舞が庶民化し、祭事などで舞われ、せばる隼人舞・京田辺市の隼人舞、さらに猿楽・能楽へと
進化したものと言われています。これらの事が物語る古代隼人の文化とは、古代日本の形成に大きく影
響した事が伺えます。
 今回の隼人サミットでは、隼人に関する講演やシンポジウムのほか京田辺市の隼人舞や鹿児島神宮の
隼人舞の競演を予定しています。シンポジウムでは、考古学者や隼人研究者それに民俗学者らとともに、
隼人の竹と文化、機内隼人の歴史、海幸・山幸の神話それに隼人と竹取物語との関係などの隼人の文化を
掘り起こすことになっています。

 開 催 日 : 平成16年8月1日(日)
  開催時間 : 午前9時45分〜午後4時15分
  開催場所 : 隼人町農村環境改善センター(隼人町役場近く)
        鹿児島県姶良郡隼人町内山田1丁目14番10号
       入場無料 定員600名 要申込み 申込み締切 7月20日(火)
        問合せ先 隼人町立隼人塚史跡館 0995(43)7110

 サミット出演者
 特別講演  10時15分〜
  森 浩一 考古学者・同志社大学名誉教授

シンポジウム13時30分〜
 進 行 役 原田 泉 鹿児島大学法学部教授
 指導助言 井上満郎 京都産業大学教授
 パネラー 下野敏見 民俗学者 元鹿児島大学教授 
      小泉芳孝 京田辺市郷土史会理事
      角田博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
      藤浪三千尋 隼人町教育委員会

《開催スケジュール》
  ビデオ観賞「南の疾風・隼人」ダイジェスト 
  特別講演 森 浩一「隼人と日本文化」
  隼人舞T 鹿児島せばる 休息 隼人舞U京田辺市
  シンポジウム 13時30分〜15時50分
  テーマT「日本神話の中の隼人」海幸・山幸などの神話、隼人と竹
  テーマU「機内に移住した隼人」京田辺・阿田への移住、竹取物語
  隼人舞V 鹿児島神宮 15時50分〜 

《参加者略歴》
  ☆ 森 浩一 同志社大学名誉教授
     1928年大阪市生れ 同志社大学文学部卒業。
     専攻:日本考古学 日本文化史学
     著書:『交錯の日本史』(朝日新聞)『日本神話の考古学』他多数
  ☆ 原口 泉 鹿児島大学法学部教授 
     著書:『鹿児島歴史散歩』他 
  ☆ 井上 満郎  京都産業大学教授
     京都大学卒業 大隅隼人の移住先に在住
     専攻:日本史 考古学(日本古代史研究)
     著書:『古代・中世の政治文化』『平安京』他多数
  ☆ 下野 敏見  元鹿児島大学教授
     鹿児島県知覧町出身 鹿児島大学文理学部卒 
     62年、第一回柳田国男賞。90年「東シナ海文化圏の民族」で南日本出版文化賞。
     著書:『隼人の国の民族史T・U』『南九州の伝統文化T・U』他多数
  ☆ 小泉 芳孝 京田辺市郷土史会理事
     1947年京都府生れ 近畿大学法学部卒業・佛教大学文学部卒業
     職歴:京都放送勤務
     専攻:日本民俗学・郷土史・京都民俗学談話会会員 京都地名研究会常任理事
     著書:『稲作民族の源流 日本・インドネシア』
     投稿:『竹取物語』かぐや姫の里京田辺市
  ☆ 角田 博文 奈良県五條市阿田郷土史探求会幹事長
  ☆ 藤浪 三千尋 鹿児島県隼人町教育委員会


『お味見お願いします!』
すみれ☆ 2004年7月7日(水) 13:46:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 男の人でも食べたくなるケーキ職人を目指す「すみれ23歳」です。
気が付いたら修行に明け暮れて一年も彼氏がいなくて反省中。
高校までアメリカにいて雑誌のモデルをしてました。
両親がアメリカ転勤中なので、家が広すぎて寂しいです。
ケーキの味見をしてくれたりする男の人いませんか?
すみれもケーキも両方よろしくお願いします。

『RE『後醍醐天皇を字解してみました』』
管理人 2004年7月2日(金) 4:13:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、なるほど「醍醐」というのは大変品のある、また平安貴族?的なしゃれた意味をもっているのですね。ワインといういのはいつごろから日本に入り始めたのでしょう?西洋のミサなどでは赤ワインと水とを「神」であり同時に「人」であったキリストの血と水して杯に入れて混ぜて飲みますが、ワインは日本ではどうやって飲んだのでしょう。日本酒に水を混ぜて飲むという儀式とかはあるんでしょうか・・・。そう、先日の福島探索日記に福島三春の地元の方が書いた南北朝動乱と坂上氏系田村氏などと地元の伝承との関係をさぐったノンフィクション小説を追加紹介いたしました。そこにも「現人神」神社とか、坂上田村麻呂を祀った神とか仏とか、いろいろ不思議な神仏の名が見えてきます。きっと紀氏さんも字解したくなるような語句多くありますのでぜひお読みになってみてくださいね。ではまた。

『後醍醐天皇を字解してみました』
茨の紀氏 2004年6月30日(水) 2:9:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん今晩は、後醍醐天皇を字解してみました。【醍醐】(よくすんで色の赤い酒。(ワイン?丹?)・バターのまじりけのないもの。味がよく滋養に富む。転じて、仏性または仏法の妙理、あるいは人品のすぐれていることにたとえる。)「角川中漢和辞典より」【醍】形成【是】が音を表わす。【糸+是】テイ+【エイ】=(漢の文帝のときの孝女。淳ウ意の娘。) 【醐】胡が音を表わす。【胡】(えびす・ユダヤ人?)からユダヤ系騎馬民族?【酉】トリ(ヤタガラス?)。いかがでしょうか?。    つぎに英語の【God】挑戦しました。【G】(頭文字の【G】の語 gain 獲得する・Gap 割れ目 Gate 門 Gender 性 ge om e try 幾何学 gilt メッキをしてある。giri 女子 grancs ひと目(見ること) glo ry 神への礼賛 gro fied 賞賛する、あがめる go ゆく・進む grave 墓穴・墓地・・・・・これらは後の【od】に関連させます。od+d=odd 奇数・古期北欧語「とがったもの」→【三角形】の意; (三角形の頂点の数が奇数であることから)   私の妄想・こじつけに思えるでしょうが【G】が文字【C】+定規(差し金)=【円墳】+(od+d=odd【三角形】)=前方後円墳(grave 墓穴・墓地・giri 女子(Gap 割れ目)=子宮(よみがえりの場)ge om e try・go ゆく・進む 幾何学(測量台)gro fied 賞賛する、あがめる(蓬莱山)・・・・・いかがでしょうか?  【God】は万物を生み出した【神】 前方後円墳は?  紀氏でした。

『福島探索日記アップしました。』
管理人 2004年6月27日(日) 5:10:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日福島での探索の日記ページをアップしました。書いてたら福島で震度3の地震あったんですが・・・。よかったらご覧くださいね。管理人

『RE『漢民族もノアの子孫?』』
管理人 2004年6月26日(土) 6:52:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん貴重なご指摘ありがとうございます!中国での帝国思想、なかなか簡単な図式では表せないようですね。中国人というひとつの民族があったわけではなくご指摘のとおり多種の異民族から構成されていたのですね。その点、日本のそれとは違う?ということになりますが、7世紀当時の天皇は果たして中国の皇帝と民族について、漢民族対異民族という図式で捉えたか?異民族集合国家と捉えたかで、受け入れ方も変わるかもしれませんね。当時の日本も自身、倭人対外来系という捉え方であったかというと、どうもそうではなく、皇別氏族、神別氏族、渡来系、そのほかという具合で、異民族?集団で国家がなりたとうとしていたようです。そこにどの時代のどういう帝国思想がマッチしたかという点で、ご指摘のさまざまな事例参考になりますね。唐のそれがよかったか、北魏のそれがよかったか?・・。それとまたご指摘の外来系民族の登用について、唐をはじめ中国では意外と能力主義な側面もあったようですね。ご指摘の阿部仲麻呂のように皇帝が重宝する特定の人々という要素もあったのでしょう。ご指摘の尉遅敬徳の尉遅氏については、また西域、あるいは鮮卑系、大月氏との関わりを論じた論文もありましたが、皇帝守護隊として、かなり西域系民族も皇帝の周辺で重宝されたようですね。その辺日本の天皇は知っていたのでしょうか?私も院の時、八色の姓の中で真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置のカバネ序列が天武天皇によって提示されたことについて研究しました。真人は皇族、朝臣と臣は皇別氏族、宿禰と連は神別氏族ですが、忌寸というのは渡来系+畿内各国を代表する在地豪族たちです。忌寸に関しては要するに皇別にも神別にも入らない氏族、もしくは畿内の特殊な在地豪族で、おそらくは忌部氏の配下に置かれていたのですが、天皇が無視できない、あるいは天皇が重宝した氏族だったので、あえて当時朝廷で有力ではなかった臣、連の氏族以上のカバネを与えたようです。忌寸の中には、渡来系氏族のほか、大隈忌寸のように隼人の親玉も入っており、当時の朝廷での宴会などで儀式、舞楽、建築技術面など特定の重宝されるべき役割を担っていた氏族がみられます。紀酒人忌寸なども酒造り職人の親玉でしょう。そういう意味では、ご指摘のモンゴルの階級制度の色目人のそれに似て能力主義という要素がある点で似ていますが、忌寸を賜った氏族についてはやはり主権者の寵愛という要素が別にありそうです。また忌部氏の配下に置かれていた点で祭祀面での特殊重用という要素もあるでしょう。あと、八色の姓の道師、これも諸説ありますが、高麗画師の、黄書画師、倭画師のような氏族でしょう。特に今壁画が剥げかかって話題の高松塚古墳壁画を描いたような忌部系祭祀とは別の道教的側面も有した渡来系を主とした絵画技術集団を天武天皇が重宝していたことに基づいたことに由来するカバネでしょう。そしてその天皇の絵画に関する寵愛からあえて臣・連より高いカバネを賜った(臣・連同様もともとあったが高く序列化された)のでしょう。そういう意味でも能力主義+寵愛+宗教要素が深くかかわっているようです。現代では、たとえばご指摘のフリーメーソンも階級制度を持つそうですね。あまりよく知りませんが本で読んだところだと、階級の上層には財閥や権威者などが名を連ねているそうですね。これも上層の階級にいたる人々には、だれかの寵愛、あるいは無視できない権威などあるのかもしれません。そこでだれが寵愛して取り立てるのか、どういうひとたちが推薦するのか、ご指摘の実利主義にもとづくのか・・その決定者は彼らの信じる存在なのかもしれませんが、すくなくてもカトリックの神が重宝する人々とはおもいませんね。だからローマ法王も批判的なのでしょう。ではまた紀氏さんいつも貴重なご意見ありがとうございます。

『漢民族もノアの子孫?』
茨の紀氏 2004年6月25日(金) 14:59:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん今日は、「日本の場合は、異民族がその技術面などのカリスマを重宝されかつ朝廷に協調しているという点が、やや新鮮ではあります。さらにトカラ人の場合、その要望に応じて故郷に船で帰国を許可、送迎されているという点も見逃せないでしょう。単に強圧的に隷属させられているという見方だけでは不十分で、日本的な帝国観念の成立に際して、また別の独特の思想があったように感じます。」   「日本的な独特の思想」では無いみたいです。 中国古代史を紐解くいているうちに、禹の夏や殷、周・・・・漢民族は異民族混血種族です。(黄帝・ギョウ・シュンなどもと思います)  後のフビライ ハーン(モンゴル系)などは、身分制度を設け一番上をモンゴル人・2番目に色目人(イスラムを含め、 西域諸国の人々)・3番目に漢人(旧金の統治下にあった人々)・そして 4番目に南人(旧南宋の統治下にあった漢民族)とします。モンゴル人全ての行政系ポストを色目人は経済系ポストを占めていたそうです。人種や宗教・以前の敵などの過去にとらわれ無かったことは後の「唐の太宗に仕えた軍人で「尉遅敬徳」(うつち・けいとく)という人物は尉遅というのは西域ホータンの王族の姓だそうです。また有名どころでは751年に中央アジアのタラス河畔でアッバース朝イスラム帝国の軍と戦って大敗し、のちに安禄山の反乱軍と 交戦中に讒言で陥れられて処刑された高仙芝(こう・せんし)。かれは高句麗系の人物だそうです。それに日本の兆晃こと阿倍仲麻呂。彼はたしか安南都護まで出世していたと思います。 これはベトナム地方の 総督で、唐帝国でも有数の高い地位です。あと隋の文帝楊堅は王朝建設以前の一時期、「普六茄」(ふろくじゅ)という姓を名乗っていました。明らかに胡風の姓だと思います。隋室の自称では遠祖は後漢の大尉・楊震となっていますが、 おそらく鮮卑系でしょう。」などと記されていました。   日本でも「土蜘蛛(常陸風土記の佐伯氏?」は後に大和朝廷の中堅クラスに成っています。   (フリーメイソンの入会条件の「宗派に関係なく 神の存在を信じていること。」実利主義?・・・・(未来のピラミッド型資本主義階層社会の構築。)との妄想・・・・          梅雨中の紀氏でした。

『おはつですっ('-'*)』
麻巳子S 2004年6月25日(金) 14:20:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初投稿です。女の子が募集するとメールたくさん来るってホント??マミには来なかったりして;^_^A
メールから初めて夏にはステディな関係になれたらいいなo(^o^)o写メ交換OKデス。


『蝦夷とトカラ人』
管理人 2004年6月23日(水) 8:26:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、さっそくえみし学会についてお知らせありがとうございます。どうもHPがあるようですね・・・。http://jomon.com/~emisi/emisi.htm
内容も濃くぜひ、これから参考にさせていただきたく感じます。
渡来人と蝦夷研究、実は切っても切り離せない関係にあります。蝦夷も朝鮮系渡来人も、朝廷へつれて来られたというケースも多くあります。隼人ともあわせて3者、それぞれ朝廷が別々に考えていたかどうかという問題もあり、ある意味蝦夷も北の渡来人としても捉えれるわけで、現代人の朝鮮は遠く、東北北海道は近いという観念とは少し違うようです。
個人的には、先の年度末報告で取り上げた斎明紀のトカラ人記述の前後に常に蝦夷饗応の記載があるので、逆に蝦夷記載の実証をもって、トカラ人記載の信憑性を確保できるのではと考えております。比較的蝦夷関連記事は、現代まで残る北海道民にはなじみのアイヌ語がそのまま記載されている点でも信憑性が高いとおもうのですが、斎明紀をみるに蝦夷の饗応の前に必ずトカラ人に須弥山を池の周りに作らせているようであります。もっと詳しくいうと、蝦夷と粛慎とにわかれ、先に蝦夷を征伐した年は須弥山を池の周りにつくって蝦夷を饗応し、次に粛慎を征伐した年は別の池に同じく須弥山を作って粛慎を饗応したようです。池を移すというのもキーですが、要するにそこには天皇の化内化外の観念とも関わりながら、異民族をもって饗応の場を用意し、別の異民族を饗応するのであります。一般論では異民族を隷属させ君臨する皇帝の権威を別の異民族に見せつけるという見方が主流ですが、日本の場合は、異民族がその技術面などのカリスマを重宝されかつ朝廷に協調しているという点が、やや新鮮ではあります。さらにトカラ人の場合、その要望に応じて故郷に船で帰国を許可、送迎されているという点も見逃せないでしょう。単に強圧的に隷属させられているという見方だけでは不十分で、日本的な帝国観念の成立に際して、また別の独特の思想があったように感じます。また蝦夷も唐の皇帝に献上されているわけですが、トカラ人も一度住み着いた後帰国しているわけでして、渡来→渡来人→帰国→渡って行く人で渡行人という変化をたどるわけですが、渡来人の対比概念として渡行人というのも考慮しておく必要があるでしょう。帰化人と呼んでしまうとどうしても対比概念が出てこない点で不十分になってくるようにも感じるのですが、かならずしも文化と民族の最終的な溜まり場としての日本水瓶という観念から、ときにあふれて戻ってしまう流れも考慮せねばならず、双方向性を考えていく上でも概念を準備する必要もあるようも感じますがどうでしょう。それではまたお休みなさい。

『無題』
茨の紀氏 2004年6月22日(火) 8:59:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 蝦夷と古墳に安倍・清原

こんどの研究に参考になればと思います。

「えみし」成立過程についての研究
―「『えみし』『えぞ』とその系統」展示に向けての一視点 ―
岩手県立博物館 女鹿潤哉

岩手県立博物館研究報告第19号 2002年3月 より抜粋転載


えみし学会
Morioka Japan
Since 1998
岩手県盛岡市東緑が丘13-1
Tel:019-661-8032
Fax:019-661-7665   
  事務局
佐藤 ひさよ
momiji@jomon.com

Copyright(c)1998-2002 anbe
               紀氏より

『RE『亡民と韓王箕準』』
管理人 2004年6月22日(火) 4:41:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんおひさしぶりです。なるほど、朝鮮の古代史にはずいぶん、古代中国の亡命民が流れてきていたわけですね。秦人や漢人が流れてきたという魏志の記述の背景にはさまざまな中国の動乱があったのですね。朝鮮南部からの渡来人を考える上でも、その習俗の起源など、古代中国殷の時代から春秋戦国時代、秦・漢の時代とやはり考慮しなくてはなりませんね。そういう意味では、渡来人研究で紀氏さんが中国古代王朝以来の漢字の起源を考慮しながら研究を進めていくということも、なるほどと感じはじめました。
祭天の習俗、蘇塗の習俗、どういうふうに流れてきたのでしょう。
亡命中国人の朝鮮南部から日本にかけての渡海能力および人数の関連も興味深いですね。
船の種類や技術の進歩などとの関わりも考慮しなければなりませんが、最近取り組んでいる阿部引田臣比羅夫の蝦夷遠征の事例などどうでしょう。阿部氏側では180、200隻の船団で東北から北海道南部まで遠征しています。一方で蝦夷も船を数十隻もっていたらしく、北海道の蝦夷を東北のどこかに召集して宴会を催したりもしています。この両者にはそれぞれかなりの造船技術の格差などがあったとおもいますが、わりと簡単に津軽海峡を越えて行き来しているという現実もあったようです。対馬海峡と津軽海峡・・・、造船技術と運搬人数・・、考えてみるとおもしろそうです。ではまた。

『亡民と韓王箕準』
茨の紀氏 2004年6月21日(月) 13:39:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お帰りなさい。旅は如何でしたか、偶然に次の様な記載を見つけました。「亡民と韓王箕準」 渡来人研究会のお役に立てればと思います。
 商(殷)や周の春秋時代までの戦争は長閑であった。殷周革命といわれる商(殷)の滅亡でも、先述のように紂王の庶兄である微子は中華の地で宋に封じられ、太師であった箕子は朝鮮に封じられた。
 戦国時代末期から戦争の様相が一変した。
 秦の統一戦争は「攻韓魏、斬首二十四萬」、「斬首虜四十五萬人。趙人大震」(史記、列伝)という凄まじさだ。BC二二一年の秦の統一後も苛酷な政治と秦末、漢初の動乱によって悲惨な状況が続いた。秦末には楚の項羽は秦の降兵を穴埋めにした。漢の統一後も呂皇后によって功民が次々と滅ぼされた。
「元封四年(BC一〇七年)関東の流民が二百万、 無籍者が四〇万」(史記、列伝)という惨憺たる状況になる。
 東方に戦乱や苛政を逃れた亡命者の波が朝鮮(韓) 半島からさらには日本に殺到する。
「漢初大乱、燕、斉、趙人往避地者数萬口」(後漢書東夷伝)、つまり漢初の動乱期だけで数万人が朝鮮 (韓)半島に流れこんできた。時代を秦の統一戦争まで拡大すれば十万人を越える亡命者となるであろう。縄文時代、日本全土の人口が二十万人から三十万人という時代の数字である。
 BC一九五年、燕王廬綰が漢に背いた時、武将の衛満は部下千余名を率いて箕子朝鮮最後の王である箕準に投降した。恵帝の頃(BC一九〇年ころ)衛満は燕や斉の亡民を糾合し、箕準を追放して衛氏朝鮮を建てた(史記、漢書、後漢書など)。
 箕準一族は南に逃がれ韓王を称した。
「朝鮮王準為衛満所破、及将其会衆数千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶」(後漢書)
「候準既僭号称王、為燕亡人衛満所攻奪、将其左右宮人走人海、居韓地、自号韓王。其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者」(三国志) 「朝鮮王箕準は数千人の部下と共に、船で南に下り、馬韓を攻め破って韓王を名乗った。その後、絶滅した」
 韓王、箕準一族は後続する一族や、韓地の民を含めて、万余の勢力になっていたと推測できる。数千人ないし万余の韓王、箕準一族の絶滅は「集団自殺を遂げた」と考えるより「海を渡って、出雲や北九州に渡来した」と考える方が自然である。
(1)韓王、箕準一族の渡海能力。
 箕準一族はクーデターの時に、数千人が朝鮮(韓) 半島の北部から、「走入海」、南部に船で渡海する能力を持っていた。箕準に恩義がある衛満が「逃げてくれるなら」と見逃したにしても、短期の混乱期 に、数千人がピョンヤンからソウルに船で渡れた。そういう渡海能力があれば、長期的、計画的な渡海なら、数万人であっても韓地から一衣帯水の日本に渡って来ることができる。
 なお、漢の武帝は四郡設置の時、楼船将軍に五万の兵で海路朝鮮を攻略させている。楼船、大船を箕準も持っていたのであろう。

『帰宅しました。』
管理人 2004年6月17日(木) 22:48:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はたはたさんはじめまして!紀氏さん、渡来人について詳細なご返答ありがとうございます。昨日札幌から帰宅しました。福島、北海道と祖先の地と実家を駆け巡って参りましたが、またいろいろ貴重な体験をしてきました。後日探索日記コーナーに掲載いたします。
水戸では虎塚古墳もみてきましたし、福島では三春から浪江へとさまざまな伝承、遺跡をみてきまして、また北海道では、斎明紀の阿部氏の蝦夷遠征に関する「シリベシ」政庁のありかを巡って明治以来いろいろ意見が交わされているそうです。もっとも「シリベシ」といっても地元民にはなじみの地名だったのですが、深い歴史があるとは知らぬものですね。
先日の福島浪江の南北朝に関するお話を聞いてきたことはお知らせしましたが、親族の方とお話していておもしろかったのは、「ここから1,2キロのところに天皇が住んでたんだよ・・」という話でした。本当かなとおもったんですが、どうも南北朝の時に紀伊から南朝方の天皇が福島に逃れてきた有名な話があるそうです。昨年の探索でも茨城の大子町と金砂祭礼の順路について掲載しましたが、この大子というの後醍醐天皇のそれに由来があるらしく、親戚の話でもいろいろ南朝由来の地名が残っているそうです。茨城にその宝物が運ばれたというという話もあり、思うにこの北関東方面の伝承を考えるにあたって、やはり古代と中世の伝承の双方から挟んで分析いかないといけないかなと感じた次第でした。そういうわけで、紀氏さん先日ご指摘のヤタの鏡の件も、関連するかなと思いお返事した次第です。この辺福島の伝承の詳細に関しては以下のHPに紹介されているのでご参照くださいね。
http://www.tokyobbs.or.jp/mikumo/nachou.htm
それではまた、今後ともよろしくお願いします。

『RE 『教えて下さい!』』
茨の紀氏 2004年6月12日(土) 16:26:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はたはたさん今日は 紀氏といいます。古墳時代に渡来人が持ってきて現在でも使われてる生活用品ですが、私のイメージでは江戸時代前期の田舎の生活を思い浮かべます。縄文時代ごろからの住居は地面に四角く穴を掘って、4本の柱をたて、わらなどで屋根をふいた通称「掘建て」でしたが、古墳時代の後半ごろから高床や杉皮ぶきや瓦ぶきの屋根に成ったと思われます。家にかまどを造ったのは大きな変化だと思います。今 私たちが使っている茶碗なども、須恵器といわれる灰色の硬質の土器造りからですし、着るものも布の中心に穴をあけて頭からかぶる(Tシャツのよう)から古墳の壁画に描かれている様な和服の原型に変わってきたと思います。鉄器が普及よって今までは、木の鋤や鍬で耕していた農業が鉄の道具で耕作も楽になり、木を加工する道具も飛躍的に機能的になり大工さんも古墳時代ごろからだと思います。食生活や日本文化といわれる原型は古墳時代に渡来人により形成されたと考えています。これまで学校で学んだ歴史は、これからの研究でドンドン改正されて行くことでしょう。   世界の古代史を知ることで、日々驚きと興奮の紀氏でした。

『教えて下さい!』
はたはた 2004年6月12日(土) 8:35:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 古墳時代に渡来人が持ってきた、現在でも使われてる生活の品ってわかりますか?

『携帯@管理人』
管理人 2004年6月12日(土) 1:22:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日の福島にかんする書き込みはきしさんご指摘のお日様とヤタのカラスの三本足に関することに対応するかと思いながら書いたお返事です。福島と茨城のひとはしっているかもしれず、渡来人とはつながるかわからないものの当ホームページでとりあげた関東の伝承には一部つながるかもしれません。今後も心に感じたことどんどんかきこんでくださいね。また斉明紀の北海道遠征船団についても考えてみたく今感じてます。

『控えたほうが宜しいでしょうか?』
茨の紀氏 2004年6月11日(金) 19:9:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 御迷惑とは思いましたが再度字解に挑戦しました。 伊弉諾イザナギ【伊】イは彼(殷の湯王の良相【伊尹】イイン・【伊犁イリ(利の下に牛)】は漢代の烏孫ウソン(カラスの孫?)の土地らしい。 【弉】ショウ=【爿】ショウ台をあらわす(測量台?)+【士】シは子弟 +【廾】キョウささげる【諾】はこたえる。 【伊弉冉】イザナミの【冉冄】ゼン(かよわい)【冄】ゼンの字形は肋骨(に見えませんか)では(イブ?)   新疆シンキョウウイグル自治区【烏孫ウソン】(カラスの孫?)族などには少数ではあるが中国・朝鮮・日本などでは中上級の位についたが、 世界に伝道と測量のために飛び立った原始キリスト教徒のほとんどは聖獣(神獣)や妖怪・妖鳥などに姿を変えて現在に伝えられている、と妄想するとほとんどは悲惨な殉教を伝えていた様に感じました。・・・・・・・・最近の私 紀氏は、渡来人研究会の皆様に御迷惑をお掛けしている事と妄想して悩んで居ります。控えたほうが宜しいでしょうか?皆様のお気持ちをお聞かせください。 イバラの紀氏でした。   追伸  管理人さんの北海道への旅が楽しめることを祈ります。   イッテラッシャーイ

『福島の祖先の地、北海道へ』
管理人 2004年6月11日(金) 4:23:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 おとといは水戸の友人宅に泊まり、昨日は福島の父方の祖父の実家に行ってきました。私のミヨジにあたる祖先は福島県の浪江町なのですが、はじめてお会いした親族の方にご案内をいただき、また当地周囲の南北朝・近世伝承などさまざま聞かせていただきました。改めて親族集団の団結のあり方などなど、めった都会人には味わえない不思議な体験をしてきました。またその辺後ご報告いたします。今日から16日まで北海道の実家に仕事もかねていく予定です。お返事しづらくなるかもしれませんがご勘弁ください。

『耶蘇ヤソ ガラス?かも  』
茨の紀氏 2004年6月10日(木) 21:4:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 訂正します、視力がおち【日】が【白】に勘違いです。【魯】ロ(魚・日で太陽・ラーです。)他に魚へんのロ(ろ)に鱸(ろ・すずき)が有りました。すずき=鈴木は日本に多い名字・【苗】(苗族?)字です。また鱸(ろ)の盧(ろ)は虍コ(とら)+田+皿で【黒】の意です。【墨】子(牧師?黒の服)の【黒】でヤタガラスは耶蘇ヤソ カラス?かも  烏・鴉(鴉の牙は邪馬台国の【邪】)  偶然???の紀氏でした。  ヤタの鏡はヤソの鏡では?

『徒然に記しました。  』
茨の紀氏 2004年6月9日(水) 18:48:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 徒然に記しました。  1) 西暦は易の九星と三碧(また3の数字?)から割り出されたらしい。  2) ユダヤ暦元年は前3761年  (易六十四卦はユダヤ暦やユダヤの伝承をもとに作られたらしい・いや、その反対かも?)  3)【魯】ロ(魚・白人?)国 モーゼへのお告げに「占いを行なう者は死に当たる」と告げたらしいが、タロットカードや西洋占星術はキリスト教徒は行わないのでしょうか? 孔子の生まれたのは魯(ロ)おろか・にぶいの意だがここに孔子.墨子(牧師?)は生まれた。 4)「キリスト紀元」は6世紀(525年)に、ディオニシウス・エクシグウスという修道僧が創始したものであるらしい。以上のことから、キリスト教は神による計算(占星術・易六十四卦?)から創造されたようです?     紀氏の妄想でした。

『明けの明星、流浪の渡来人』
管理人 2004年6月8日(火) 22:11:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 さっき知ったんですが、昨日は130年ぶりに太陽面を金星が通過したそうですね。紀氏さんお得意の天文学、金星は8年で五角形を描くんでしたっけ?明けの明星と女神ヴィーナスの話も有名ですね。明けの明星・聖母マリア・・・、どっかで聞いたことある歌ですが・・・。
さて、ご指摘の古代インドから中国、朝鮮、日本への宗教・技術集団の流れについて、さらに日本にいたっての吉士集団、壬生氏の関東への流れについて、考えさせられました。これらの人々、当時の最先端の思想や技術をもってして王族にとりいっていったようですが、時に支配に乗り出すこともあったかもしれませんね。しかし、個人的には流浪せざるを得ない民という感じで捉えています。日本でも渡来人の中でも、漢氏や吉士集団については、最先端の技術者として重宝された後、技術が土着の人々にもたらされ、さらに新しい渡来人がやってきて、彼らの技術などは重宝されなくなり、やがて東国などの新天地に赴くことに生活の活路を見出したようです。同様に常に技術者集団は、最先端の技術を受け入れてくれる場所を探しに、移動していかないと生活できないという側面があるようです。そしてかつて重宝された土地へは二度と戻ることはできないという宿命ももっているのでしょう。必然的にアジアの場合、東へ東へと向かい続けるような機がします。坂上氏の『続日本紀』上表文にも、かれらの心境を描いているものがあります。かれらの祖先は漢代に中国にいて、後漢末の騒乱で朝鮮の帯方郡に牛の教えに従い東の逃れた。その後朝鮮三国で、王城を与えられるような待遇を受け重宝されたが、そのうちこのままでは朝鮮三国の王族に集団ごと滅亡させられるかもしれないと感じ、日本にやってきたというのです。漢氏の首長家の坂上氏の上表文ですが、心理面でこの上表文を読んでいくと不可解さが残ります。なぜ朝鮮三国で大変重宝されており、なにも危害を加えられていなかったのに、不安神経症患者のように、周囲に不安を抱いて大決断をして一族ごと日本に行こう考えたのでしょう。そこには、技術民としての繁栄と将来への不安を抱えていたようにも感じます。安定した支配基盤を得られない流浪の民が脈々と受け継いできたなにかを感じます。坂上氏というと、古墳時代末期にはある天皇の墓の石を敷いたときの条文に、また丸い山の上に各氏族に柱をたてさせたとき、坂上氏の柱がずば抜けて高かったので、後に大柱直と呼ばれたとの記述があります。この記述は古墳の問題ともかかわるでしょうが、このようなすぐれた技術をもっていながら、やはり当時の支配者集団の貴族層に入ることはそう容易ではなかったようです。坂上氏らの漢氏もどちらかというと技術者集団で、ほとんどは生活基盤をもとめて流浪したことでしょう。これら柱を立てる技術というのは、諏訪大社の柱の大きさにも驚かされるのですが、案外高度なものであったかもしれませんね。東国にいくほど、渡来人の中でも流浪した集団の技術なり宗教思想なりが原型をとどめているのかもしれません。技術集団は都で事足り、仕事がなくなると、今度は地方に行こうとする、そんなことも高麗郡や多胡郡の建設とを考える上で理解をしていくことが重要な気がします。ご指摘の吉士集団も壬生氏も東国にむかっていますね。ということで、流浪の技術民や宣教集団については、大きな支配覇権ネットを確立したというよりは、アジアの場合は少数集団であるがゆえに、大地域を東へ流浪せざるを得なかったという線で考えていますが、どうでしょう・・・。あと、ご指摘の「冒険」についてはテレビでやってたんですが、とっぴなことが好きな遺伝子というのがあって、バンジージャンプなど平気でしてしまう遺伝子を持つひとが米国人ではかなり多いのに対し、日本人には1割くらいだそうです。遺伝子解析と集団の行動形態の解析も後々考えていかないといけない時代もくるかもしれませんね。


『字解 須弥山 してみました。』
茨の紀氏 2004年6月8日(火) 13:32:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんにちは雨の日がつづきうっとうしいですね、2002年度末研究報告を拝見いたしまして私の妄想に更なる確信を感じました。古代より名を変え生き残った一神教(宗教【阿羅・アラー?】(太陽神の類)と精霊神に神仙(権現)が亜細亜の地で覇権を競い合った歴史への妄想を。インド仏教に確か?西(北)方?のアショカ王(ユダヤか原始キリスト教徒?)がインドを征服したのに仏教に帰依(したふり)しました。そしてギリシャ彫刻の影響を受けた仏像(ブッダの偶像)と(ユダヤか原始キリスト教?)が混じった宗教を中国へ進出。(これ以前にも先発が進出していた?先神仙)から大乗仏教・秦・唐の時代(カンバック道教)・大乗仏教+法相 (道照の弟子行基は景教徒?)以下徒然に、多胡=王えびす(中国北方の異民族・景教徒 禹・虎!)  吉士集団(古墳・地図)造りが壬生(神社・寺)造りに。 額有角人=角(たしかシュメール?の女神に角がある。)と角度は測量士、役小角?も。 【須弥山】の字解 【須】はあごひげユダヤが待ち続ける【弥】は、あまねくゆきわたる【山】は、物事の頂点・万一の幸運。冒険的な仕事。から【神】との密約は「物事の頂点」に「あごひげユダヤ」が「あまねくゆきわたる」「万一の幸運」を求めて「冒険的な仕事」する【契約】・・・の見返りには?     紀氏の古代妄想でした。

『明けの明星、流浪の渡来人』
管理人 2004年6月8日(火) 22:11:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 さっき知ったんですが、昨日は130年ぶりに太陽面を金星が通過したそうですね。紀氏さんお得意の天文学、金星は8年で五角形を描くんでしたっけ?明けの明星と女神ヴィーナスの話も有名ですね。明けの明星・聖母マリア・・・、どっかで聞いたことある歌ですが・・・。
さて、ご指摘の古代インドから中国、朝鮮、日本への宗教・技術集団の流れについて、さらに日本にいたっての吉士集団、壬生氏の関東への流れについて、考えさせられました。これらの人々、当時の最先端の思想や技術をもってして王族にとりいっていったようですが、時に支配に乗り出すこともあったかもしれませんね。しかし、個人的には流浪せざるを得ない民という感じで捉えています。日本でも渡来人の中でも、漢氏や吉士集団については、最先端の技術者として重宝された後、技術が土着の人々にもたらされ、さらに新しい渡来人がやってきて、彼らの技術などは重宝されなくなり、やがて東国などの新天地に赴くことに生活の活路を見出したようです。同様に常に技術者集団は、最先端の技術を受け入れてくれる場所を探しに、移動していかないと生活できないという側面があるようです。そしてかつて重宝された土地へは二度と戻ることはできないという宿命ももっているのでしょう。必然的にアジアの場合、東へ東へと向かい続けるような機がします。坂上氏の『続日本紀』上表文にも、かれらの心境を描いているものがあります。かれらの祖先は漢代に中国にいて、後漢末の騒乱で朝鮮の帯方郡に牛の教えに従い東の逃れた。その後朝鮮三国で、王城を与えられるような待遇を受け重宝されたが、そのうちこのままでは朝鮮三国の王族に集団ごと滅亡させられるかもしれないと感じ、日本にやってきたというのです。漢氏の首長家の坂上氏の上表文ですが、心理面でこの上表文を読んでいくと不可解さが残ります。なぜ朝鮮三国で大変重宝されており、なにも危害を加えられていなかったのに、不安神経症患者のように、周囲に不安を抱いて大決断をして一族ごと日本に行こう考えたのでしょう。そこには、技術民としての繁栄と将来への不安を抱えていたようにも感じます。安定した支配基盤を得られない流浪の民が脈々と受け継いできたなにかを感じます。坂上氏というと、古墳時代末期にはある天皇の墓の石を敷いたときの条文に、また丸い山の上に各氏族に柱をたてさせたとき、坂上氏の柱がずば抜けて高かったので、後に大柱直と呼ばれたとの記述があります。この記述は古墳の問題ともかかわるでしょうが、このようなすぐれた技術をもっていながら、やはり当時の支配者集団の貴族層に入ることはそう容易ではなかったようです。坂上氏らの漢氏もどちらかというと技術者集団で、ほとんどは生活基盤をもとめて流浪したことでしょう。これら柱を立てる技術というのは、諏訪大社の柱の大きさにも驚かされるのですが、案外高度なものであったかもしれませんね。東国にいくほど、渡来人の中でも流浪した集団の技術なり宗教思想なりが原型をとどめているのかもしれません。技術集団は都で事足り、仕事がなくなると、今度は地方に行こうとする、そんなことも高麗郡や多胡郡の建設とを考える上で理解をしていくことが重要な気がします。ご指摘の吉士集団も壬生氏も東国にむかっていますね。ということで、流浪の技術民や宣教集団については、大きな支配覇権ネットを確立したというよりは、アジアの場合は少数集団であるがゆえに、大地域を東へ流浪せざるを得なかったという線で考えていますが、どうでしょう・・・。あと、ご指摘の「冒険」についてはテレビでやってたんですが、とっぴなことが好きな遺伝子というのがあって、バンジージャンプなど平気でしてしまう遺伝子を持つひとが米国人ではかなり多いのに対し、日本人には1割くらいだそうです。遺伝子解析と集団の行動形態の解析も後々考えていかないといけない時代もくるかもしれませんね。


『字解 須弥山 してみました。』
茨の紀氏 2004年6月8日(火) 13:32:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんにちは雨の日がつづきうっとうしいですね、2002年度末研究報告を拝見いたしまして私の妄想に更なる確信を感じました。古代より名を変え生き残った一神教(宗教【阿羅・アラー?】(太陽神の類)と精霊神に神仙(権現)が亜細亜の地で覇権を競い合った歴史への妄想を。インド仏教に確か?西(北)方?のアショカ王(ユダヤか原始キリスト教徒?)がインドを征服したのに仏教に帰依(したふり)しました。そしてギリシャ彫刻の影響を受けた仏像(ブッダの偶像)と(ユダヤか原始キリスト教?)が混じった宗教を中国へ進出。(これ以前にも先発が進出していた?先神仙)から大乗仏教・秦・唐の時代(カンバック道教)・大乗仏教+法相 (道照の弟子行基は景教徒?)以下徒然に、多胡=王えびす(中国北方の異民族・景教徒 禹・虎!)  吉士集団(古墳・地図)造りが壬生(神社・寺)造りに。 額有角人=角(たしかシュメール?の女神に角がある。)と角度は測量士、役小角?も。 【須弥山】の字解 【須】はあごひげユダヤが待ち続ける【弥】は、あまねくゆきわたる【山】は、物事の頂点・万一の幸運。冒険的な仕事。から【神】との密約は「物事の頂点」に「あごひげユダヤ」が「あまねくゆきわたる」「万一の幸運」を求めて「冒険的な仕事」する【契約】・・・の見返りには?     紀氏の古代妄想でした。

『盂蘭盆、道照、技術者集団』
管理人 2004年6月8日(火) 5:23:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんほど、古代史研究者で古代日本人の名前と漢字の意味について考えておられるかたはいないでしょう。蘇我入鹿と聞いてもほとんどは、当て字かそういう名前がはやっていたんだろうくらいにしか思わないものですが、もしかするとわれわれが考えている以上に、繊細な漢字へのこだわりがあったのかもしれませんね。勉強になります。蘇我氏と盂蘭盆などの仏教儀式との関わり、深いようですね。悔過の儀式も蘇我氏がかかわっていますね。02年度の年度末報告にもその辺触れましておとといからちょうど読み返していたのですが、盂蘭盆の儀式はゾグド人のウルバンという死者の霊魂を慰める儀式で、まさに紀氏さんの字解のとおりですね。中国人のほうがさらにより繊細に漢字と意味を深く考えて当てているのかと感じます。推古紀に盂蘭盆と観仏会開始の記載がありますが、おとといたまたま教会関係の雑談で聞いたとこによると、観仏会の甘茶の話がでてまして、うまいまずいの女性論が交わされてました・・・。たぶん、年度末報告に書いたように盂蘭盆や観仏会あたりに、須弥山とか作る外来系渡来人が集まっていたはずですが、その中の女性とか女帝にとっては、どういう儀式だったんでしょう?甘茶の儀式だったのでしょうか・・・。5月5日は、確か菖蒲とかの湯に入る習慣もあったようですが、案外植物と関係しながら朝鮮も経由した古い起源のようです。昨日はたまたま聖母マリア系の病院いってきましたが、よくマリアと花の象徴(雛菊とか百合とかバラとか・・)との関連は有名です。あと、蘇我入鹿を皮肉って歌った歌も紀には載ってますが、山羊とか米とかその辺も年度末報告に掲載しておきましたのでご参照ください。昨日年度末報告読みかえしていて気になったことのひとつに、孝徳紀に唐へ派遣された道昭が三蔵法師のもとに行った件があります。無性衆生義といういわゆる民衆などの凡人が救われるか否かの仏法論のことを天皇が調べに行かせたのですが、その後道昭は帰国して法相宗や建築技術をもたらし、行基にも受け継がれたようです。行基の弟子関連にも建築技術者が多くいたようですが、そのなかにインド関係の人がいて、その関連のものを作った話があり、考古遺跡にもインド系の仏塔遺跡がでているそうです。たぶん、唐から技術者を連れ帰ってきたとき、単に唐の建築技術だけではなくインドなどのさまざまな外国の建築技術ももたらしたのでしょう。ただ、飛鳥池の遺跡は新羅系とみられ、新羅系技術者やトカラ人などとの関連も指摘されていますが、これらの新羅系の技術者が入ってきて、その後に唐にその思想や建築技術の大本を探りに僧を派遣したのかという順序が自然なように感じます。どうして、新羅系の技術者や渡来人、トカラ人が渡ってきて、唐に僧を派遣するのでしょう。新羅に派遣すればよいのではともおもいますが、新羅の池や都作りも、飛鳥の都づくりも唐の都作りに習っているとの通説があるようですから、新羅の技術に驚いて、唐に学んだのでしょうか。あと、多胡郡などの石碑関連は新羅系の石造技術が指摘されていますね。その新羅の当時流行の法相宗は、唐のそれとは違いどちらに行基がその思想を求めたかで意見が分かれているそうです。しかし、無性の仏教論自体は、「皇帝」のそれではなく「民衆」にとってのそれとのことなので、なぜまた民衆のそれを天皇が学ぼうと考えたのかも問題でしょう。同じく新羅の技術から派生して唐の技術を求めにいって、なぜインドの技術をもって帰ってくるのでしょう。当時の唐に入ってきたインド技術者や僧とともにゾグド人も入ってきたことは先日テレビでやっていたところですが、景教徒も同様なゾグド人とのつながりをもっているようです。確かにゾグド語は正倉院の遺物にも見えているとおりです。盂蘭盆思想にしてもゾグド・景教の線で考えられているようです。唐と新羅、朝鮮に派生する宗教や技術の流れを天皇は気づいたのではないでしょうか・・・。管理人でした。

『字解 「蘇我入鹿」してみました。』
茨の紀氏 2004年6月7日(月) 15:56:22 削除・編集 スレッドの一覧・返信 訂正です。【蘭】ラン台ダイ(臺)ウンダイ【臺】=「漢代に秘書を蔵した室.」です。【慶】州の【慶】=廌タイ(【羊】に似た聖獣)+心=よろこび・たまもの・さいわいの意。【羊】はキリスト教の生け贄の羊(羊は人間)?  次に、 蘇我入鹿の字解【蘇】耶蘇教(キリスト教のソの字、ちなみに耶ヤはヤマタイ国の【耳】へんのヤ)(草カンムリは【++】で測量での目印(キリスト教の十字架)魚も(キリスト教のシンボル)【禾】は【ノ】(神霊)【木】(人)【我】(ワレは測量の手段にに苦悩する禹ワレ)【入】(進む・技神に入る・つらぬく)【鹿】ロク(多くの人が争って得ようとする権力の地位。)【鹿(ロク台【臺】ロクダイ=(殷の紂チュウ王が財産をたくわえた所。)   明日香村や高取町の猿石や天邪鬼の足が古代中国夏王朝の禹帝の足を連想させます。禹の足は過酷な黄河の治水事業と中国の測量作業ために衰弱したらしく、体の特徴がせむしとか【ム】兎歩ウホと言う特殊な歩き方をしたとか移動に牛を使っていたとか蛇族(海洋民族)だとか文字では【ム】・【ヒ】・【ル】・【刀】・【弓】・【九】・【乙】・【巳】などの形で漢字の中に現れている。【高取の猿石・前】などは兎歩ウホと言うウサギの形に思えます。禹は兎をシンボライズしているのか中国の小部族に【トンパ】文字が有り兎が特徴的に描かれています(関連?)。禹は上司の【堯】ギョウを非常に恐れ・軽蔑していたらしい。虎の(儿の無い)類は【堯】ギョウを表わしている。禹は自分をよこしま(ねじけている)・へつらう(こびる)と表現しているのは【堯】ギョウに対してだろう。(黄河の治水に失敗した禹の父は水神の生け贄に壺に逆さに詰められ堤の人柱にされたらしい、後に禹により掘り出された時の文字が【甘】あまいの文字との妄想に自信をもつ     紀氏でした。  なを字解には「角川漢和中辞典」を使用しました。

『字解してみました.』
茨の紀氏 2004年6月7日(月) 0:37:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 字解してみました。【盂蘭盆】ウラボンの字解【盂】ウ禹?ああ・・【蘭】ラ【菊】科の香草の名【フジ】バカマ、かたなかけ(兵【架】)【盆】ボン死者の霊を祭って供養する仏事で【倒懸】トウケンの意 (手足を縛って逆さに吊るすこと。非常な苦しみのたとえ。)などから私は、生け贄にされた禹の父を思い浮かべました。また【菊】から菊地・菊紋、【フジ】から藤フジ【原】ハラ(源)ミナモトのもとの字を【架】カから十字【架】キリストを思い浮かべました。以前お話しました様に、漢字は古代中国の夏(カ)王朝の禹(ウ)王(景教徒)の測量作業の人生がモデルです。【蘭】ラン台ダイ(臺)【臺】=吉+室=禹の父の墓?   妄想の紀氏でした。

『道祖神像、烏帽子、道教と景教経典』
管理人 2004年6月5日(土) 23:7:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日お話した飛鳥村から出土する男性裸像についてですが、今日道教の道祖神図を確認しましたが、研究者ご指摘のとおり道祖神との線が強いようです。裸像の男性が腹に手を当てている姿などかなり類似しており、基本モチーフは道教的なものでしょう。ただ石像が持つ杯など道具の詳細についてはまだわかりません。さて慶州出土の「序聴・迷詩所(訶)経」については、敦煌他10点以上見つかっているそうで、内容を解読しているところですが、10カ条の道徳訓にはじまり、「末麗」の処女懐妊、布施・宣教、十字架から墓穴に葬られ復活したこと、三位一体(主に主神こと「天尊・聖上」、聖霊こと「涼風」)観念など、イエスの生涯についての記述が主体となっています。佐伯好郎氏が「支那基督教の研究・1」で指摘するとおり、かなり中国の皇帝崇拝主義や儒教的父母孝養主義、道教的な文句が入っております。一見したところでは、おそらく道教か仏教の一派の経典というように受け止められたことでしょう。ただ、かなり教義・論理性がしっかりしており、心理面でも読むものに相当な説得力をもたらしただろうと感じます。佐伯氏の指摘によると景教徒が唐に入ってから皇帝に近くなかで、かなり道教や儒教的要素も取り入れていったそうです。一方で先のケン・ジョセフ氏の著書によるとまた道路や水道の工事なども景教徒がやっていたようで、水道系技術や庭園構築にも長けていたことでしょう。景教が朝鮮・日本に伝来するにあたっては道教、仏教的な題材を基礎として表向き王族との外交をおこなったという感じがしますが、技術面など微妙な相違を含んでいるところがまたあるはずであり、さらに裏での伝来ルートではダイレクトな景教儀式などが入っている可能性もあるのでその辺見極めが重要と感じます。あと、先日のイザナギ・イザナミ神話などについては、大和岩雄氏の「十字架と渦巻」の中に、右回り左回りの旋回に関する神話比較、オリエントなど世界各地の神話にみられる渦巻きや蛇、男根などについて
書かれています。なかなかいろいろな神話解明のヒントを得させてくれる本です。

『秦韓、雁王池、仏国寺 』
管理人 2004年6月5日(土) 4:2:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信 なるほど、秦の時代、そのような大規模な流水施設があったのですね。噴水に色をつけるというのも、可能だったら綺麗でしょうし、賓客を前にお家自慢するのにいい材料ですね。どこかで秦の流水施設については、確か昔「後漢書集解」という書物に秦の時代の流水施設に金銀の像があって云々という記述を読んだ覚えがあります。当時は道教の人形祭祀とつながって日本に文氏等の渡来系氏族によってもたらされたのではないかと考えていました。文氏は天皇の面前での解除儀式で漢語の祝詞を読んでおり、その祝詞を本HPでも掲載しています。延喜式などによると東王父、西王母の像を前に読まれたもので、天武ごろにはおそらく成立していた祝詞と考えています。斎明天皇のころというと、道教や仏教の盂蘭盆・悔過の儀式がはじまったり、いろいろ宗教儀式が整ってきていたころです。天皇も秦の道教儀式や施設にも興味を示していたかもしれませんが、問題は秦時代から800年以上のタイムラグがあり、再度そのような施設を作るとなると、大陸から職人を呼び寄せなければならなかったでしょう。秦といえば、秦人が流れてきた伝承の残る秦韓こと、新羅の慶州が気になりますね。慶州の雁王池と飛鳥池が類似することは指摘されていますが、以下の雁王池のHPは詳しく立地構造の様子がわかります。
http://www.pusannavi.com/area/miru.html?id=72
半月城、雁王池、先の天文台である瞻星台などは地域・時代的な関連性が強いようです。また慶州でもすこし離れたところに仏国寺、石窟庵があります。前から気になっているんですが、この仏国寺から景教の十字架が出土したとのことが、ケン・ジョセフ氏の著書「聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史・仏教景教編」に書かれているんですが、どの辺まで信用できるのでしょうか。彼によると、同じく慶州の石窟から仏教経典とともに景教経典も出土しており、韓国南西部の7世紀の洞窟にも景教の絵画が見えるとのことです。景教経典については、敦煌から出土したそれと同じ経典名らしいのですが、上記の遺物等の発掘報告書とかあるのでしょうか。仏国寺と、雁王池館のある慶州博物館には院のゼミ旅行の時に行ったのですが、当時はその後に同じくゼミで見に行った飛鳥池の遺跡と関連するなどまったく考えていませんでした。もうすこし資料を集めておけばよかったかなと思います。酒船石など飛鳥池関連遺構とフタツキ宮との関連をすぐ見抜き、道教との関連も見抜く紀氏さんはさすがですね。先のケン・ジョセフ氏によると仏教悔過の儀式(後代のお水取り)や盂蘭盆もゾグド人などの儀式とも関連するそうですが、道教と景教、仏教とあわせて7世紀中葉当時どのようにつながっていたのか、その辺まったく手が出ない感じですが、なにかよい情報ありましたらどなたかお教えください。


『岡の酒船石 ヤッター!』
茨の紀氏 2004年6月4日(金) 19:31:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「岡の酒船石」についても、流水施設の一部としての可能性が高まった」と聞いて「、ヤッター」の喜びで・・・興奮してます。奈良県明日香村の酒船遺跡で見つかった石敷き遺構をニュースで知った時、すぐにNHKだったか毎日新聞だったかの奈良支局に「それは、ふたつきの宮」(ふたつきの宮の名の記憶が定かではないトホホ)ではとFAXしました。秦の始皇帝の造った施設に窪地を萱で覆い、2階ほどに通路があり窪地が石で敷き詰められ全面に水が流れ落ちる施設の話が記されている本(茨城県立図書館蔵)を読んだばかりだったのです。秦の始皇帝も天武の母 斉明天皇も道教狂いでした。私は直感でこれは、来賓に水のマイナスイオンと流水に水銀や琥珀などを混ぜて七色の水のページェントを演出した施設と直感したのです。    ヤッター うれしい紀氏でした。

『噴水、酒船石、古代神話』
管理人 2004年6月4日(金) 3:59:6 削除・編集 スレッドの一覧・返信 A古 さんこんにちは。紀氏さんのおっしゃるように、なにについて具体的な詳しいことかのご指示があればよいのですが、詳しいこと・・・、そう、渡来人に関係する具体的で詳しい調査についてお知らせします。飛鳥京苑池遺構についてのHPがありましたので、以下ご参照ください。
http://www.musicaderosa.com/asukent3.html
ちなみの大本のHPは以下のとおりです。
http://www.musicaderosa.com/
また飛鳥京跡苑池遺構第2次調査のページ
http://www2.begin.or.jp/sakura/asuka7.htm
さて、このHPで苑池遺構の噴水型石像物からどのように噴水が出るか、噴水の構造、出水の酒船石と木桶を通してどう流水路を作っていたかなどがわかります。
そして、東約400mの丘陵上には「岡の酒船石」についても、流水施設の一部としての可能性が高まったことを指摘しておられます。岡の酒船石についてはかつてはゾロアスター教徒の薬を混ぜるための石像物とか、さまざまな推論がかわされ、本研究会でも03年度末報告で酒船石の流水機構としての可能性や、400メートルの高さまでどのように流水を上げるかについて、考えてみてはいるのですが、やはりすでに数年前から研究者の間では流水遺構との線がでてきているようですね。また噴水の仕組みについても、いわゆる上に吹き上げる型と横から流す型の噴水が一石像物で使用できるようになっているのは、特徴的だと思います。上か横どちらかひとつでいいのではと思うのですが、なにか理由があるのでしょう。噴水口の構造写真もやはり独特の開口部の構造をみせているようです。そのような上と横に吹き上げる噴水型式の起源を見出せれば、だいたい流入経路が予測つくのではと感じます。でも紀氏さんご指摘のように、秦の始皇帝の時代にも噴水の記述があり、そんなに難しい仕組みではないようですが、問題は水時計の遺跡も近くに一緒に出土していることです。この水時計はやはり技術水準はかなり高いだろうと思います。石造製作の水準も穴の部分など、芸術性も含めて、かなりの石像技術を要しているようで伝播経路を考える上で重要でしょう。苑池については新羅の雁鴨池に類似性が強いそうなのですが、その新羅の庭園・池を構築した技術者が(を)そのまま日本に連れてきた可能性もないかと思います。その新羅の7世紀前半の遺跡には、瞻星台(チョムソンデ)という東アジア最古の天文台の遺跡があるようです。以下HP参照。
http://www.ne.jp/asahi/yuusaku/ttu/travel/korea/006kyonzyu.htm
文章抜粋
「瞻星台は、新羅時代の7世紀前半に建てられた、現存する東アジア最古の天文台。石を積み上げた円筒形の塔の中に水を張り、水に映った星の光を観察して、暦や気候だけでなく、占術にも用いられたのだという。瞻星台を形作る石の数は365。古代文明と天文学のつながりには、心惹かれる物がある。」
この辺紀氏さんもご指摘の世界の天文に関係する天文台の仕組みの起源もどこにあるのかを調べてみるとその技術者の起源がわかってくるかもしれません。
世界各地の似たような遺物、神話を考えるとき、人間本来持つ精神や脳構造から普遍的発想によって産み出されるものと、技術や神話の伝播によってもたらされるものとの区別が問題になりますね。紀氏さんご指摘のマヤ文明やエジプト文明、日本古代の神話に見られる共通性についても、やはり同様なことがいえると思います。たとえば月と太陽が離れまた重なっていく動きと、男女と、光を発するものと鏡、神々という4要素があったとします。この4要素を世界各地の子供たちに教えて、神話をつくってくださいというと、どのくらい似たような神話を作り出すかが気になります。またこの4要素について、世界各地のシャーマンに聞いてみても面白いと思います。結構似た神話が出てくるのではと感じますが、やはり微妙に地域や習俗で差がでてくるかもしれません。その一方で、紀氏さんご指摘の墓と遺体と赤い辰砂と呪術いう要素を同様に世界各地の人々に発想を求めると、どうなるのかとも感じます。噴水にしても、横から出す、縦に吹き上げる、水時計、・・・。
 ただ紀氏さんご指摘のように、世界各地の人間が生み出す普遍的発想とは別にそれらの神話や技術の要素を伝来する人集団や民族がいたと仮定すると、また話はややこしくなりそうです。普遍的な発想に加えて、その集団独特の習性が混じりこむとおもわれるからです。仏教徒なら仏像を掘り込むかもしれないし、キリスト教徒なら主神を十字架につけ突き刺してその主神がまた復活する、イスラエル民族なら偶像崇拝厳禁・有翼のケルビムのついた箱を担いで運ばれる神とか・・・。その習性は普遍的に生み出されるものではなく、その集団独自の要素でかなり限定されてきます。その限定性のもとで再度マヤやエジプト、中国などの文明を考えてみるとだいたい是非がわかってくるような気がしますが、限定された習性が長時間継続するには、よほど厳格な規律なり孤立した保存形態などがある必要もありますね。


『無題』
茨の紀氏 2004年6月3日(木) 19:16:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 A古さん、初めまして茨の紀氏です。知りたい内容を具体的にたずねて下さい管理人さんがやさしく答えてくれますヨ。)  さて、太陽神ラーは古都テーベの守護神アメン(アーメン?【Amen】アーメン。「そのようになりますように」の意。祈りの言葉を唱えた後、その祈りの内容が確実に履行されるよう再確認する契約の言葉。関連が有るでしょうか?)と、神々の王(その時代には神が複数いた!)である太陽神ラーが融合し、宇宙創造神としてB.C.1550頃に国家神化したそうです。ギザのピラミットは星をトーテムにしていたシュメール人が造ったそうです。マヤ遺跡はイスラエルの10部族が作ったのではとの説があり「マヤの神殿内の石灰岩の石板のある地下室に眠るマスクをつけた遺体は、真っ赤な「辰砂」に覆われていたこと・・・王族はそのように「辰砂」で赤く塗られていたそうです」これは、日本の古墳に類似してます。世界の遺跡と古地図はイスラエルの10部族(石工フリーメイソン)が関係のでは?また【テトカポリトカ神話】アステカの創造と破壊の神。テスカポリトカとも表記する。アステカの神話によると、兄弟神であるテトカポリトカとケツァルコアトルの2人によって世界が造られたという。その後、ケツァルコアトルはテトカポリトカに鏡を見せられたことで、自分の醜い蛇の姿を知り、絶望のあまり逃げ出してしまう。(イザナギとイザナミに似ている?かな)世界の遺跡や神話に【イスラエルの10部族】が係わったのではと思われる妄想を抱かせる話が沢山聞かれます。     妄想を広げる紀氏でした。

『教えて下さい』
A古 2004年6月3日(木) 14:11:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初めまして。PCかなり初心者です。
今、学校からやってますが
えと、渡来人の事を
学校で習ってすごいと思いました
何か詳しいことがあれば教えてくれませんか^^

『狛犬、DNA人類史』
管理人 2004年6月2日(水) 23:1:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんの狛犬のご指摘についてですが、そうですね、先日のローマ彫刻展にもテーブルの脚に獅子の像が刻んでありました。古代人のパートナーとしての犬については、最近は犬などの家畜が日本に一緒に渡ってきたことなどをDNA解析から考える方法が進みつつあるようですね。先日の古墳人骨の話と関連しますが、人骨からミトコンドリアを抽出して人種などの系統を調べる方法も進みつつあるようですが、残念なのは母系しかわからないらしいです。父系については、まだ核部分の抽出方法が進んでないようで、もうすこし時間がかかるようです。それでもわかることは多いですね。渡来人に関連するDNA人種解析については、最近はアジア人のDNA解析からアジア人の移動がわかってきているようです。どうも、氷河期のまだ海面が低かったころ、インドネシア方面は大きな大陸だったらしく、そこにアジア人の起源があるそうです。その後氷河期が終わって海面が上昇すると、中国方面へとアジア人が移動しはじめ、日本にも縄文人の祖先がたどりついたそうです。その後一部はさらに北上してモンゴル方面にいき、その人たちは寒冷対応して骨格などが変わり、一部は再度南下して朝鮮から日本へと弥生人として渡来したそうです。古墳時代になると近畿から関東へとその弥生人が移動し、全国に移動していって現代にいたるそうです。紀氏さんご紹介の人類と農耕、狩猟と民族形成などに関する人類史は、わたしもどこかで聞いた覚えがありますが、西洋人には適応できてもアジア人にはあまり適応できないかもしれません。例の人種DNA分析にしたがうと、アジア人はまず氷河期におそらくは気候が温暖だった熱帯の大陸で大陸文化を形成し、農耕もしくは狩猟をしていた。人間の脳組織などの構造が現代人とあまり変わらないことを考慮すると、たぶん、大人口で長い時間大陸で過ごせばそこそこエジプトやマヤ文明程度の文明が成立していたことでしょう。そこで縄ばり争いや都市形成、戦争などともにすごし、氷河期が終わってやむなく北上する過程で、文明は低下し、農耕民族と化し、さらに一部の北上した民族は遊牧民として狩猟文化を身につけた。しかし、また一部のその狩猟民族は南下して再度農耕を身につけ、日本に渡り農耕民族として暮らしたが、朝鮮・日本の海洋的性格にもあわせて漁業もしはじめたかもしれない。これらのアジア人の移動の過程で、中国ではご指摘のように再度夏王朝などのまだ忘れ去られていない過去の文明が花開き進んだが、またさらに北上していったものは、その文明をわすれて好戦的な狩猟民族と化したかもしれない。その後南下の過程であまり農耕・海洋民族的な側面を身につけ移動したが、日本に定着してから、今度は縄張り争いの意識も芽生えてきたかもしれない・・・。
おそらくごくごく部分的にしか西洋の人類史哲学思想がアジアに適用できないことはお分かりになると思いますが、またその移動で信じる神々がどう日本に伝来したかもやはりかなり複雑な系統分析が必要でしょう。
ですが、紀氏さんご指摘のシャーマン的な祭祀、王族の存在はやはり古代アジアにひとつの特徴的な側面を残しているようで、朝鮮日本の弥生時代の文化にもみえてきますし、過去の氷河期からエジプト、初期中国の大陸文化の祭祀的な政治形態と現代の文化の政治形態との部分に相違があるのかもしれません。しかし、おおよそ人間の脳や精神の構造はあまり変化していないことは、ようするに権威者の思想を「事実だと信じ込んでいる」という人間の判断能力の甘さなのでしょう。はたからみるとほとんど進化していないわけですが、かえって古代人のほうがその辺直感が優れているので、事実か否かはよく判断できたかもしれません。知的な教育を受けた分だけ、周囲の知識にたよる度合いが増してきているはずでして、先の戦争がよいかどうかも、マスコミだよりの知識と一部の権威者のその「信仰」に右往左往されて、人間本来の持つ直感的な判断力を失って奴隷的に権威者に妄信している民族があるということを紀氏さんはおっしゃりたいのでしょう?噴水については、またなんぼかわかったことがあるので後でお知らせいたします。


『日本の神々はやさしい神々』
茨の紀氏 2004年6月2日(水) 16:22:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信  生物の1種、人類の祖は水(海)より生まれ微生物や魚類を食べていた。やがて陸に上がり植物を食べ動物をも食べるようになる。植物性の食べ物の豊かだったエデンを追放された人々は、食べ物を求めて世界中に散った。植物性の食べ物の豊かな地へ移り住んだ人々は、農業を、川や湖・海の近くでは漁業をも、動物の豊かな土地では狩をして生活をしていた。やがて人類は火を使う事を知った。木々の生い茂るジャングルに火を付け焼畑農業や牧畜を始める。人口が増え始め縄張り争いがはじまる。強く賢い指導者が現れ、縄張りを拡大してゆく。牧畜の民は家畜のえさを求め移動をくりかえすが、やがて草原は砂漠化して行きオアシス付近に多くの都市国家がうまれる。狩猟民族(遊牧民など)は縄張りを広げ家畜や奴隷を増やそうと軍隊を組織して戦いを挑み勝利を祈り神を祭る。戦い勝利した方の神が勢力を拡大し信仰を強いものとした。やがて大勢力と成った神は太陽の化身を名のる。その他の神々は消えて行く。ギリシヤなどは都市国家なので神々の数が多い。アジアなどは緑豊かで食物も豊富なので精霊や祖霊信仰が盛んとなるが縄張り争いがはじまるにしたがい強い神の存在を望むようになる。争いを好まないやさしい神々の国は戦いに敗れ奴隷となる。争いを好まないが賢い神の国は外交で共存を計る。現在の地球では【争いを好む賢い神】(カバラの知識が有り表面には出て来ない)の信者が新しい信者と呼ばれる奴隷を求めて世界に戦いを挑んでいる。【戦いを好まないやさしい神々】が手を組み知恵を出し合い【争いを好む賢い神】の信者を改心させなければ、人類はのほとんどが奴隷となる日が現実となるだろう。    イバラの紀氏でした。

『それ以前の記載は?』
茨の紀氏 2004年6月2日(水) 16:20:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信  「歴史的区分の上で古代とされる以前の、今から約1万年前から5〜6000年前までの住居の発達を見ると、先行するのは西ヨーロッパではなく主に東方の地域で、例えばトルコのアナトリア高原チャタル・ヒュックでは、紀元前6000年頃のものと考えられる都市型の住居群の遺跡が発掘されています。これは日干し煉瓦を用いて、隣家と密着して建てられ、平らな屋根に閉口部があり、出入りもそこからはしごを使って行われていたといいますが、内部の居住性への配慮が伺える水準の高い住居でした。」以上の記載がありました。中国の秦の始皇帝の時代には噴水が存在してたの記憶がありますがそれ以前の記載は?・・・    紀氏でした。

『それ以前の記載は?』
茨の紀氏 2004年6月2日(水) 14:37:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信  「歴史的区分の上で古代とされる以前の、今から約1万年前から5〜6000年前までの住居の発達を見ると、先行するのは西ヨーロッパではなく主に東方の地域で、例えばトルコのアナトリア高原チャタル・ヒュックでは、紀元前6000年頃のものと考えられる都市型の住居群の遺跡が発掘されています。これは日干し煉瓦を用いて、隣家と密着して建てられ、平らな屋根に閉口部があり、出入りもそこからはしごを使って行われていたといいますが、内部の居住性への配慮が伺える水準の高い住居でした。」以上の記載がありました。中国の秦の始皇帝の時代には噴水が存在してたの記憶がありますがそれ以前の記載は?・・・    紀氏でした。

『:::』
匿名希望 2004年6月2日(水) 14:2:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ・・・。

『狛犬を考えました。』
茨の紀氏 2004年6月2日(水) 13:53:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 人類との最初のパートナーはイヌ・【犬・狗】(パートナー的)・【戌】(武器としての犬)先日のテレビで「エジプトのスフィクスがエジプト文明より古く存在していたらしい・顔は人面では無くライオンらしかった」などと伝えてました。狛犬もスフィクスも人間の守り・守衛的役割を担っていて竪穴式住居の入り口の土中の厄除けとして埋める風習が有ったそうです。「エジプト文明より古い文明」で黄色人(インダス文明は?)古代中国の禹などは黄河文明以前の高度の文明圏からの登用者です。キリストの誕生を予言したのも東方の三人の予言者です。東洋には埋もれた高度の文明圏が存在していたのではないでしょうか、それも一神教の生まれる以前の数多くの精霊と交信できたシャーマン神王?いや天文学や幾何学に優れた種族の国が。(自分自身の妄想について行けるかな?)   話しは変わります。【多(いろいろな方面の才能をもっている)氏】=【太(川から人を救う形)氏】=【泰氏】=【田(地図・河図)・蛇(水神・禹・侘神のお告げを求める人)・・・の子孫】=秦氏らしいです。  「日本書紀によれば、【666】(!獣の数字)年に2000人に及ぶ百済人が東国に送られ、その後も多数の百済・新羅・高句麗からの帰化人が東国に送られており、これらの歌は諸国府で現地採用された中下級の帰化人二世書記官達が記録したものだと考えられます。・663年の白村江以降、670年には「庚午年籍」が作られ、681年には「上野国山名村碑」、690年には「庚寅年籍」、700年には「那須国造碑」、711年には「上野国多胡郡碑」、720年頃には「風土記」、そして「万葉集」と、地方で作られる文書が急激に増えるのであって、この時代に一気に読み書きできる人材が地方に拡散したことを意味します。」などの文中での【西暦】を日本で最初に使用したのはだれ?景教徒だとしたら何氏でしょうか? 「上野国山名村碑」「庚寅年籍」那須国造碑」「上野国多胡郡碑」「風土記」などは、【壬生部】でしょうか?   紀氏でした。

『ローマの裸像、三脚柱噴水、猿石』
管理人 2004年6月1日(火) 3:15:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、数字「3」などについての西洋観念をいろいろ紹介いただきありがとうございます。古代世界では天文学と幾何学との組み合わせ、その測量や地図づくり、宗教面への派生へと深層に深い流れがあるようですね。さて昨日のローマ彫刻展では、陰部を隠さない女性(男性)の裸像がありました。また例のCMでも有名な小便小僧のようなかわいらしい陰部を隠さない子供天使の像も流行していたようです。また昨日の展示では「ピラネージの三脚柱」という大理石でできた高さ1メートルほどの三本足の火鉢がありました。足は獅子の足、三角柱の側面の柱には、つるのある植物と花弁の文様、上部には有翼のグリュブスという馬、ギリシア神話の女神の像などが刻まれています。女神像などは三面に向いてみられるようです。この多角形の台座、半球状の上部、円筒状の頂上という得意な形状の作品については、図録では演劇などの道具としてもちられた可能性を指摘しています。さらにこの火鉢、図録によると炎の変わりに噴水が吹く出す仕組みであったとの想定しているようです。さて飛鳥池の猿石にもやはり、これらの陰部を隠さない石像があり、噴水が出る仕組みになっています。またやはり女性の裸像、男性の裸像、二方向に裏表になる男女性像、僧侶らしき像などが見えますhttp://www.asukanet.gr.jp/n-ken/saruishi.html
参考。
昨年度の年度末報告に書いたとおり、斎明女帝期の飛鳥池などの須弥山石には、白まだらの肌のローマ領シリア・アフガニスタン南部方面からの渡来人トカラ人が石像製作にかかわり、その子孫が舞楽の伝承にたずさわったことなど述べたところです。また上記三脚柱火鉢の文様についても、韓国の慶州博物館図録に出ている7・8世紀の慶州寺院出土の人面瓦や花弁瓦、つる系の植物の文様とどこかしら類似性をもっているように感じました。ともかく、陰部を隠さない男・女性裸石像に内部を貫通する噴水がついていて、やや抽象的ではあるものの石像人物像として庭園に置かれているという点において、やはりその起源は中国やペルシアというよりは、ローマ方面に求め、その伝来の仲介者として唐代当時の景教徒を考えるほうがはるかに合理的であると考えているわけです。そしてそのローマの三脚注火鉢に見られるような石像物の内部を貫通する噴水構造と、飛鳥池などの猿石の内部を貫通する噴水構造との構造比較などできないものでしょうか。また幾何学的構造について飛鳥池の各遺物や庭園構造について関連性が見えてこないかどうかという点も気になりますが、その辺また情報いただければ幸いです。


『3への観念』
茨の紀氏 2004年5月31日(月) 13:43:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 【3への観念】3にたいして、(もうこれまでだと、あきらめること。 岩波国語辞典より)「3」は均衡を破って一歩先に進む数。人間の頭脳と関わりが深い数です。記憶力、分析力、知力、インスピレーションなどひらめきや思考そのものを表現しています。  古代人が夜空の満天の星をみながら妄想(哲学?)にふけり宇宙の中心【北極星】を見つけ【主】(全、宇宙の創造ぬし)とし【北斗七星】を(凵を女神で4・死・月)+(−を男神で3・産・太陽)=7(体験や犠牲的精神をあらわす数で目標実現のために払う努力などを意味し、試練、困難な状況とのつき合い方などもあらわしています。目標のためになにを捨てるかといった取捨選択などの精神的な問題から現実的対処法などもかかわってくる数です。)「4」は物質性、テクニカルなことや、フィジカルなことを意味する数です。現実的な考え方、金銭を表現することもあります。(カバラの占いから覗いてみました。)人類はこの辺から数に興味を示したかも?     西洋の地図作りに関しての記述を見つけました。         「王立美術学院のクリストファー・コーンフォート教授は絵を分析し、その中に5角形が隠されているのを発見した。アンドルーズとシェレンバーガー(『イエスの墓』の作者)は羊皮紙の中の記号と鍵となる文字の間に三角形を作ることができた。加えて二番目の羊皮紙にも75度傾いた正方形を作図し、その中には一番目の三角形も含まれている。これら二つの図形はパリゼロ子午線を使ってレンヌ・ル・シャトー地域の地図と重ねると、城、教会、街が並ぶ驚くべき配列となった。アンドルーズとシェレンバーガーはさらにいくつかの関連する絵画と同様に、3枚の絵画中の上に同じ幾何学的な形を識別することができた。もしソニエールが偶然見つけたものが地図であったとしたら、その重要性は何なのか。 初期の天文学者たちは宇宙の中心に地球を置き、その周りを太陽や恒星、惑星が回転していると考えた。太陽の周りを回る各惑星は地球から見るとそれぞれ異なる動きをする。古代の天文学者たちは、太陽と並んだとき、各惑星の位置に基づいた幾何学的な線を引きました。 ただひとつの惑星だけが空に正確で規則的な幾何学模様を描きます。それは地球ではマグダラのマリアを表す惑星「金星」であり、8年ごとに五角形を描きます。教会、カルヴァリオ、城、そして隠れた遺跡といった地図上に描かれたほとんどすべての建物がゼロ(パリ)子午線と交差する複雑な網の目の配列を形成する。その【3分割される】距離が円の半径距離です。各分割地点は正確に933.586ポールの【1/3】です。 ここでも 【3への観念】です。現在のポールの定義(ロッドまたはパーチも同じ)は5.5ヤード、つまり1マイルの1/320であり、198インチです。1キロメートルは1千メートルで、地球の表面の四分円の1/1000であり、イングランド形式では39,370インチであり、39,370の平方根は198.41874である。古代中国の単位で公尺があり、14.14インチである。また198.41874の平方根は1インチの1/20以内である。 トム教授によれば、巨石時代のヤードは古代シュメール人のシューシで、2.75フィートである。これは【33インチ】であり、ポールのちょうど【1/6】に相当する。シューシ×6 = 1ポール  公尺 = 1ポールの平方根   1ポール = キロメートルの平方根である。この単位は18世紀後半までは確立されていなかった。 -Henry Lincoln, The Hory Place 」 私には???ですが、誰かのお役にたてれはと思いました。    結婚式での【三々九度の杯】どんな味だっけ?  まとまらない紀氏でした。 番外  「彼は熱心に聖書のページ内には秘密の知識が隠されていると考えていました。彼の興味を特に引いたものは、旧約のダニエル書、新約のヨハネ書であり、なぜなら「預言の言葉は記号や【象形文字】で書かれたもので、その理解のためには根本的に異なる方法が求められる」からです。 彼は作業を適切に行えるようヘブライ語を学び、そしてエゼキル書に対して細心の注意を払って実行しました。それによりソロモン神殿の図面を困難な中、再現しました。彼は契約の箱を納めるために建造された大きな建物は、一種の宇宙暗号であったと確信しました。もしこの暗号を解読することができれば、神の心を知ることができるであろうと信じました。」 - Graham Hancock, The Sign and the Seal   聖書の預言の言葉は記号や【象形文字】 ほんとでしょうか?     紀氏でした。

『バチカン美術館所蔵古代ローマ彫刻展について』
管理人 2004年5月31日(月) 4:48:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんご指摘の出雲、鹿島の神々、紀氏さんの本では測量開拓とかかわる神々となり、また進軍とかかわるとされていますね。紀氏さんの本に書かれている三角測量の仕方から土木での平地面の作り方など、古代日本人はかなり高度な技術を持っていますね。そして武術と地図測量、戸籍把握とあわせて、どの辺の兵法によるのかとも感じました。出雲の伊達神(射楯神)や鹿島の武神の伝承、この辺、海にもかかわる武的要素とともにご指摘の測量的要素がさらに証明されてくると面白いと感じます。先日の話の続きで応神31年紀の武庫火災条に全国から船500隻を造り集めさせて話があります。500隻の船が一度も入る港というのも、1隻10メートル間隔として、横にすると港の多きさは5列にして1キロになりますね。やはりそれなりに造るのに測量技術も必要ではなかったかと感じますが、1隻に20人乗せると1万人一度に各地に運べる計算ですね。いったいどこにどういうふうにこれらの船を巡回させたのでしょう。現実的には各国で10隻程度の負担になりますが、天智期なら軍船170隻で百済王族を送っているし、白村江の戦いの時なら1万人船に乗せて渡海したらしい記述はありますから、6、7世紀ごろにそういう軍備を保有していた時期もあったのかもしれません。
さて、景教の話がでましたが、昨日は西洋美術館で開催されていたバチカン美術館所蔵古代ローマ彫刻展の最終日だったので行ってきました。写実的な帝政期の皇帝像から婦人像までありましたが、またローマ後期のキリスト教文化に入って、かなり現実世界から天国への憧れへと心の向きが変わり、写実的画像から抽象的画像へと変化していく様子が新鮮でした。使徒・聖人像から光背がつき始めたイコン的な画像が出てくるまで、かなり彫刻・画風も変貌しているようですが、果たして中国に伝来した景教関連のローマ系遺物は、写実的だったのか、抽象的だったのかと感じます。ローマ後期に流行した二匹の鳩がオリーブの枝を加える画像などは、どこか東西共通の要素があるように感じます。ガラス容器もありましたが、国立慶州博物館の図録によると、新羅の5,6世紀の古墳から出土したガラス容器には東欧系のものや、凰首形瓶というギリシアのオイノコエといわれる特徴的なガラス容器も出ているそうです。ペルシア方面に由来するような凰首形瓶と銀製瓶との相互関係も唐代においてあるようですが、今回の展示では銀製の聖祭用小瓶や銀製小アンフォラや聖遺物箱というのがありました。この辺の図像では、天使・使徒像や12使徒を象徴した鳩や羊など4匹・数列まとめられた図像、賛美のしるしとして十字架に向かう翼のある天使、同じく聖霊の鳩など、特徴ある図像が描かれており、隋唐代のそれらの瓶などの遺物の画像表現との関係が気になります。そのほか日本の渡来系古墳からもペルシア系ガラス容器などは出ていますが、ペルシアよりはるかローマ方面の遺物は出てこないのかなと感じます。渡来人研究でも予備知識としてローマの遺物を見ておく必要はありますね。以上報告でした。



『管理人さん有り難うございました。』
茨の紀氏 2004年5月30日(日) 19:22:39 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん「最近のお勧め読本コーナー」の新たなる新設有り難うございます。また楽天ブックスへのホームページからのリンク重ね重ね感謝申し上げます。出版社の手違いで私の著書『古墳のこころ』がネット販売から洩れておりました、昨夜気づき今日クレームを付けました。『古墳のこころ』の購入が出来なかった皆様には謹んでお詫び申し上げます。さて「五十猛神は、わが国では伊達神(射楯神)とか韓国伊太?神、伊太祁曽神ともいわれて、延喜式内社の奉斎神としてかなり多く、十五社を数える。とくに、出雲には最多で六社あり、意宇郡・出雲郡にそれぞれ三社あるが、意宇郡では玉作湯社や揖夜社に付属して鎮座する(これらは出雲国造一族の奉斎に係るものか)。」の伊達神(射楯神)イタテ神が気になり「韋駄天氏」?【韋】(革新・新しいものに変えること )駄天氏 ダテンシ?=駄天使=景教徒かな?との妄想、「サンカ」・算家・賛歌・・賛美歌   新天地での布教活動さぞ辛い事とが多く報はれないで終わった事か、これを思うと人類の世界平和の実現の為にどれほどの景教徒が悲惨な最後を迎えたことか、もし「サンカ」が賛歌・駄天使=景教徒だったらと考えたとき涙が・・・・・・・        鎮魂の紀氏でした。

『淡路の海人、御田倉、海路』
管理人 2004年5月30日(日) 4:25:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんの新著については、「最近のお勧め読本コーナー」を新たに新設し、また楽天ブックスのほうのホームページにもリンクを貼っておきました。こちらは購入・感想フォームがあります。また紀氏さん「古墳のこころ」第2弾も待ち遠しい限りですが、また渡来人研究会もあとがきあたりに協賛にでも入れてくだされば幸いです。ご指摘の海路からみえるかがり火や木造標識などからいろいろ空想が広がりますね。各地の諸豪族の領地内の海や河川の港に屯倉を分割して作るとなると、軍事面でどうなるのかと思います。今でいう米軍基地みたいなものになるとおもいますが、夜中に突然海上から大軍船が領地内に入ってくる恐怖を考えるとかなり諸豪族にとっては脅威だったでしょう。いくら陸上の関を防備しても、海上は広くてどこに大船団が隠れているかわからないし、夜中にともし火のある港に皇軍が入り込めるとなると防備のしようもないかもしれません。そういう港を屯倉として割譲させるというのは、かなり戦略面で有利になりますね。神功紀に皇后が九州に向かう際に淡路の屯倉を置いています。これは淡路の海人とも関係するのですが、やはり海洋民族独特の知恵が天皇側にも多々あったように感じます。加えて測量や地図、戸籍づくりまでされて完全に領地の隅々まで把握されるとなると支配としては強力です。今でいえば軍事衛星で四六時中領地内を見張られているようなもので根本の軍事戦略思想は同じでしょう。さて、天皇の本拠地である大和においては、仁徳紀にある皇族が倭の屯田(ミタ)と屯倉(ミヤケ)を支配しようとしたという記述が同文に見えます。田令の令がご指摘のとおり神託の使者とすると、偉い身分の高い使者になりますね。屯田・倉→御田倉→御宅→三宅(紀氏さんご指摘のタクラ)で「ミタクラ」という線はどうでしょう。そのほか仁徳紀にはある皇子が死んで3日目に生き返ったという記述もあります。またこの仁徳紀については3年の空位、着位後3年の課役免除、先の3度「弟よ」と呼で生き返った話など、3への観念が見えます。この辺の記述は先日よりお話に出ている屯倉や壬生部の話が多く出てきます。「三」とはどこから来る観念なのでしょう。あと、今日はまた練馬に住んでるカトリックの知り合い宅でパソコン直したあと、いつももらったいるアルカリイオン水をもらってきました!マイナスイオンが、万病のもととなる悪玉なる活性酸素を分解するそうで、がん予防やアトピー性皮膚炎にもいいようでお勧めですね。


『隠語【島】考』
茨の紀氏 2004年5月29日(土) 10:40:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 【島】で思い出しました、シマの隠語(サンカ語?)縄張り領地など。漢字の辺【魚・鳥・手、しんにょう】などは特に禹ウの測量からの隠語が隠されています?鶴がコンパス・鷺はサギで測量での勘違いミス。梟フクロウは賢者。隠語が漢字の奥の深さを感じます。いまテレビでは五木寛之の百寺巡礼『鶴林寺』を放送しています、鶴林の【鶴】はコンパス林(【麟・輪・鱗・・・・】)数の多いのには参った参った。    紀氏でした。

『鹿嶋信仰?』
茨の紀氏 2004年5月29日(土) 9:43:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 海を得意として族などの測量への係わりはかなり古くから行はれてた様です、全国の【津】などの地名に【カシマ】が見られます鹿島・鹿嶋・カ島(【カ】は夏・架・香・華・珂・・・・・・(鹿嶋信仰?) 霞ヶ浦のも多くの津が在りました、私の本の中での鹿嶋・香取それに神栖(本では瀬戸内海に待機させたこと描いています。)は海上より舟で利根川から上陸したと描きました。出雲への国譲りの交渉も海路だったと考えています。 古い渡来人は道の整備が整はない陸路より船での海上交通が盛んだった様です、日本各地に海より現れた神様の伝承が残っています。海上からの目印【標】に大規模の木造建造物(物見やぐら・朱ぬりの鳥居など)古代への妄想が広がります、漢字のふねの文字にはいろいろなふねが有ります【舟】+【工】の【舡】ふね などは測量の為の船と思っています。   紀氏でした。

『傷心の紀氏』
茨の紀氏 2004年5月29日(土) 9:5:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 閃きました!【令】の字解は(神の信託として与えられるもの)ひざまずく禹(ム)に【三角帽子(神のおつげ・いいつけ)】を頭の上に載せた形の【三角帽子(神のおつげ・いいつけ)】から 三角帽子=神のおつげ=神也(カミナリ)=おつげ=高木の神(古代より高い木や塔・ピラミッドなどには稲妻(カミナリ)が天から落ちるのを神が下ったと考えたと思います、そこでピラミッドや教会などは神を呼び寄せる為の建造物では?稲妻(カミナリ)・落雷の痕の変化を観て電子エネルギー(マイナス電子)に神業を感じたてたのでは?マイナス電子で思い出しました、マイナスイオンは体にいいですね滝の周辺に特に多いそうです。熊野の那智の滝は海上から良く見えます海上からの【標】に最適です。竜燈と祖霊信仰 (神火の信仰)神として尊敬をうけて来た焼火山信仰(竜燈神事)などは【岬】や【津】の位置を夜間に海上から火の明かりを目印に行なはれた測量のなごりでは?大文字焼きや寺での万灯・夜通し行はれる山伏などの祈祷などの神事、それに狐火・夜間の火矢などなど。   話が変わります。【血】による清め・【聖水】について【カバラ】から閃きました。河馬(カバ)は【血の汗】を流すそうです、この【汗】には殺菌作用が有るそうです、古代人の研究で知られていたのではと思いました。  しばらくぶりに出版社に寄って『古墳のこころ』の反応を尋ねましたら「反応は無い」とのこと、古墳と【カゴメ歌】の謎の解読などでの古代史への興味を深めていただきたいとの気持ちがとどかず宣伝不足を痛感しています。せっかくの管理人さんの『今月のお勧め本』のコーナーです、のぞいて見てくだされば幸いです意や読んで頂き古代史に興味の在る方にお勧めいただければ感謝感激です。   よろしくお願いいたします。    傷心の紀氏でした。

『地図、測量、戸籍、開墾拠点』
管理人 2004年5月29日(土) 1:13:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 なるほど、紀氏さんご指摘のとおりだと思います。測量拠点の道具の入った倉との説、なるほどと感じます。岡山に児島・白猪屯倉というのがあります。欽明紀などによると蘇我氏指導のもと渡来人が田令として派遣されて戸籍をそこで作成したとあります。また欽明紀には韓人大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉とあります。これはそこに記されているように渡来人の中でも高麗、韓人が作ったからそう名づけられています。渡来人の技術者の種類にもいろいろあり、それぞれ屯倉作りに派遣関与したのでしょう。さて、そこでですが、紀氏さんのおっしゃる測量地図作りに関してですが、先日お話したように、神功紀に新羅に戸籍と地図とを差し出させたという記述があり、支配において戸籍とともに地図が重要な役割を果たしていたということがありました。朝鮮へミヤケを作った伝承はまだありますが、国内支配でもやはり地図と戸籍を作る、あるいは差し出させるということは同様に重要な要素だったのではと紀氏さんの説をお聞きして思いました。そもそも、戸籍を作成するにあたり、簡単な地図は必要ではなかったかと感じますが、どのくらいの精度が要求されるでしょう。あとご指摘の道具の件ですが、地図づくりのための測量にはどのくらいの種類と大きさの道具は、数量的に格納する必要があるでしょう。たとえば屯倉と密接につながる池や溝づくりに関しては、当然相当量の杭や測量器具、儀礼器具が必要になるのは先日論として出てきたとおりですね。船も必要かもしれないし、ある程度の防備兵士、食料を供給する田や施設や開墾するための道具も必要だったでしょう。上記の欽明紀には海部の屯倉というのもあるようで、海部氏も屯倉作りに関与していたのでしょう。しんさんご指摘の瀬戸内の島々の岩盤に刻まれた文字や、紀氏さんご指摘の三宅島などの遺跡の位置関連など、海部氏などの海を得意として氏族の痕跡を探ってみるのもどうかと感じます。

『追伸、忘れ物でした。』
茨の紀氏 2004年5月29日(土) 0:25:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 田令(タツカイ)の【令】の字解は(神の信託として与えられるもの)ひざまずく禹(ム)に三角帽子(神のおつげ・いいつけ)を頭の上に載せた形。   紀氏でした。

『【倉】は測量の道具の倉です。』
茨の紀氏 2004年5月28日(金) 23:52:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 スミマセン手抜きをしてしまいました。【田】は地図をも表わしていることはご理解いただいていると思います。 くらはやはり【倉】(地図・測量関係の倉)でした。【倉】の小篆の「奇字」(古代文字字典 マール社)の形には【工】と【乚】【定規】と【差し金】を表わしていました。【倉】は測量の道具の倉です。それと、三宅島の地図で満願寺から雄山ー坪田小学校・富賀神社から雄山ーひょうたん山の二つのラインが十字(×)を描きますし島のポイントが60度・30度・正三角形が描けます。富賀神社ーとなりの新島の十三社神社(日本に十三の地名が多いのは?)から八丈小島の観音堂の正三角形・富賀神社ー八丈小島の観音堂からの60度八丈島の三原山ー富賀神社・八丈小島の観音堂ー東白雲山など60度・30度の線を引いてみて下さい、他の島々へのラインも楽しいですよ。【屯】の字解では測量作業者が集まりたむろしている形です。「ミタクラ」「ミテクラ」などは外国の古代語に似ている語が在るかも知れません。  紀氏でした。

『RE『三宅とは三つの墓(古墳)では』』
管理人 2004年5月28日(金) 10:10:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、貴重なご指摘ありがとうございます。三宅の「宅」の字についての説明の中に「氏姓 【たくら】」とあるのがやはりどうしても気になります。
紀氏さんご指摘のとおり、「たくら」→「田+倉」で結びつくとすると、記紀の中の「三宅」の別表記「屯倉」の意味とも関係するのかと感じるのですが、もうすこしこの「たくら」の語源について解らないでしょうか。また、どういうふうに「氏姓」へとつながるのかもやはり気になります。「屯+倉」として「屯」はやはり「トン」でしょうか、あるいは「タ」に近い音になるでしょうか。あるいは「ミタクラ」「ミテクラ」の線はどうでしょう。 三倉伝承は意外と福島の中通り周辺の伝承にもあることを昨日見つけました。「三」の「倉」の線はどうでしょう。三宅に派遣される渡来人などの官人の名前は「田令(タツカイ)」といいます。この語については「屯(倉)+令」にはならなかったのはどうしてでしょう。 福島の「三春」という地域の語源は「御墾田(ミハリダ)」ということらしいです。この辺の古墳についても調べてみようかと思いますが、なにかその辺情報ありましたらよろしくお願いします。
 

『RE『めでたし団に関して』』
管理人 2004年5月28日(金) 9:53:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご指摘どうもありがとうございます。確か前にそのHPの管理人の友人が、どこかのカルト団体と同じ名前で迷惑しているから違う名前に変更するように教えてもらったのですが、すっかり修正し忘れてました。その辺確認して直してみます。
ご指摘のスレッド書き込みを拝見しましたが、宗教といえば、古い大宗教か、カルトかというイメージが日本には根付いていますね。特にカルトの場合、危険なケースも多くだましの手口が見え隠れします。
この辺、「カリスマ的教祖」とか呼ばれるように、その実質は「カリスマ」か「イカサマ」かという問題になろうと思います。この辺はなにも宗教に限らず日本社会全体の問題でもあるのですが、その区別と見極めができない日本人がいるような気がします。「カリスマ」と「イカサマ」つまり、「うそくさいホント」か「ホントくさいうそ」かということにもなるのですが、人間どちらかにひきつけられるものです。
その見極めの区別の方法のひとつは、先の紀氏さんのおっしゃったカリスマのもたらす結果としての「実り」にあると思います。その「実」は諸所に現れてくるものですが、ほんとにカリスマある存在の実りは、正しく真実に基づいているので、長く続くものです。古墳職人が作った古墳が1000年以上も崩壊しないのも、やはり正確な視点からのカリスマ的技術を彼らが持っていたからでしょう。彼らは「イカサマ」的仕事はしなかったというのは確かだと思います。その辺見極める目が必要ですね。

『不思議な文字』
しんさん 2004年5月27日(木) 16:0:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様久しぶりです。
 私の住んでいる中国地方の厳島、倉橋島などから岩や岩石に刻まれた不思議な記号文字が以前に発見されたということです。この文字?はアフリカなどからも発見されていると聞きました。海洋民族の足跡ではないかという説もあるようです。
 皆様の住んでおられる地方でこのような発見はございませんか?
 そしてこの文字についての、もう少し詳しい情報を知りたいと願っています。

『三宅とは三つの墓(古墳)では』
茨の紀氏 2004年5月27日(木) 12:4:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 三宅とはなにか【宅】タクの意味を調べました。おる(居る)その位置にいる。・また、いるところの位置。・さだめる(定)・はかあな【墓穴】・氏姓 【たくら】  と角川漢和中辞典にありました。【墓穴】から古墳 たくら から【田】は地図 くらは【倉】(地図・測量関係の倉)?いや単純に、三つの墓(古墳)と考えてはいかがでしょうか?。   紀氏でした。

『めでたし団に関して』
Maria Francisco 2004年5月27日(木) 11:42:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 相互リンクされています「めでたし団」は、リトル・ペブルというカルト宗教を宣伝
することを目的として結成された団体です。
管理人に確認されるなど事実を確かめられた上で、ご注意されることをお勧めしま
す。

http://www.ignatius.gr.jp/webforum/wforum.cgi?no=5948&reno=no&oya=5948&mode=
msgview&page=0

http://www.ignatius.gr.jp/webforum/wforum.cgi?no=5932&reno=5928&oya=5901&mod
e=msgview&page=0

リトル・ペブルとは
http://www.cultnews.jp/

『RE『不老不死?』『一神教に無いたおやかさ』』
管理人 2004年5月27日(木) 3:55:39 削除・編集 スレッドの一覧・返信 おととい1週間間違ってたまたま電車の中で読んでいた先週水曜のカトリックの聖書朗読の箇所に次のような文句があります。パウロの言葉に「アテネのみなさん、あらゆる点においてあなた方が信仰篤い方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなた方が拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また何か足りないものでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのほかすべてのものを与えてくださるのはこの神だからです。・・・・みなさんのうちのある詩人たちも『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。・・・」
紀氏さんご指摘の人間の煩悩の技と『一神教に無いたおやかさ』はこの辺にあらわれていますか?
原始キリスト教会、および景教の教義というのは、ある意味、三位一体の一位格「聖霊」による賜物であるカリスマ的能力の重要性および、神像崇拝および人格崇拝への厳しさ、神の子孫なる自身の認知、他民族の宗教への理解にも上記のパウロの言葉に表れているように特徴があるようですね。
そこで神功皇后紀に仮に景教的要素が入るとすると、当然「神の母」としての崇拝にはならないだろうと感じます。神の子孫であり人間応神天皇の母である「聖王」としての位置づけになっているのですが、実際かなり喜怒哀楽する人間的な女性として描かれているといえるでしょう。ただし景教経典をみるかぎり、マリアへの尊敬はよく現れているようです。マリアについては、仏教にも要素として入ったでしょうし、そのほかの宗教にも多々影響を与えているようです。カリスマ的能力を持つ人間、ある意味不老不死もそのひとつに観念的には入るかもしれませんが、皇后自体は長寿として描かれていますし、海で皇后が酒を注ぐと魚が集まり、「聖王のくださった魚だ」と言ったという話もあります。この辺も夫である天皇よりはるかにカリスマ的女性であり、神に従順な巫女的な女性として描かれているのにも、他の天皇記述にはあまりみられないカリスマ的能力という側面がクローズアップされているわけです。そこには、この伝承を入れた編者のカリスマ的能力への特定の観念があるのだろうと感じます。もっと精神・心理学的にも、宗教学的にも、記紀の各部分についてその相違を比較分析して体系化していかねばなりませんね。

『不老不死?』
茨の紀氏 2004年5月26日(水) 8:29:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 おはようございます。またまた閃きましたが恐ろしい妄想です、景教徒が「カリスマ(信じて洗礼を受ける者すべてに与えられると約束された御霊の実)の力を深く知っており」の「約束された御霊の実の力」が気になりました。林檎=知恵・桃=不老不死?・ザクロ=若さ? 日本版マリア=慈母観音?=詞梨帝母(三井寺蔵)=鬼子母神(鬼神母神の原形はギリシア神話で、仏教ではお釈迦様が人の子を食らう鬼神母神を諭し、人肉の代わりにザクロを食いなさいという事でザクロを食うと鬼神から子供を守護する母神となったこれは鬼神が子供を食らうというのは生贄を求める鬼神母神の身勝手さ、野蛮さから救う為に、お釈迦様が諭してサグロを代用品とする話には、 キリスト教を象徴しているとした方がおりました。)「御霊の実」がザクロと仮定するとザクロは人肉の代わり「人の子を食らう」の【子】は竹の子・蜂の子などと食物の【種】米や大豆・ささぎ・・・・日本には「初物を食べると長生きする」言い伝えがあります、ザクロには女性ホルモンに似た老化を抑制させるさようが有るそうです。人肉を食べる蛮習はたべものに在る力の元(能力)を自分に取り込むためだったようです。人間が最後に望むものは【不老不死】だそうです。何を食べますか?  マリア様 ゴメンナサイお許しください。  紀氏でした。

『一神教に無いたおやかさ』
茨の紀氏 2004年5月25日(火) 22:54:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私の憶測ですが景教は教義にはあまり拘らなかった様です。蒙古や唐・朝鮮が原始キリスト教の影響を享けていたことを感じさせないで民衆の心の中に根ざしたのは、その地の信仰に反発を受けず溶け込める一神教に無いたおやかさからでは?と思います。宇宙の創造神【主】は名をどのように呼ばれようと気にしないのです【主】の存在を信じていれば良いのです、気にするのはNO2のポスト神官なのでは?煩悩多き人間には法(きまり)が必要でしょうがそれは現状が優位なものがそれを維持しようと生み出したものでは?とも考えます。景教は釈迦が悟った「こだわらない」拘りが煩悩なのだと思います拘りが摩擦をおこし戦争が科学を進歩させたのだと思います。知恵ははたして地球をよろこびに包んだでしょうか?アダムとイヴ(エバ)が林檎を食べなければ地球はほほ笑んだことでしょう。モンゴル帝国が台頭したのは人種や過去に拘らなかったからとも言はれています。景教徒がキリスト論成立の時にマリアを「神の母」と呼ぶことを拒んだのは【マリア】が【鞠】(マリ)の形=丸(マルは何語でしょうシリア語?)=司教の知人の娘だったのでは?父は大工か石工か王族(【鞠】は菊?の紋章)また妄想してしまいましたa話が突然変わりますが世界の測量士集団のトーテムが虎だりカラスや大鳥(鳳凰)あるいは鹿・熊・蛇(龍)・白馬・狼・帆立貝などのトーテム・トーテムポールまたそれた熱帯のジャングルでの測量作業は過酷だったのではと思うと神の力の偉大さに敬服しそうです。 紀氏でした。

『RE『景教徒の来日』』
管理人 2004年5月25日(火) 18:49:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 景教のことについて詳細情報いただきありがとうございます。わたしのほうでもまた調べてお知らせしますね。7世紀に中国、朝鮮北部に伝来した景教について、また高い知識水準を持っていたようですね。当然日本のことも聞いていたでしょう。そこで問題となるのは、仮に日本に宣教派遣がなされなかった、もしくは日本側が受け入れなかったとすると、なぜ宣教を断念したのか、あるいはなぜペルシア人は伝来・受けれたがローマ人は受け入れなかったのかなどが大きな課題となり、日本の古代史家が西洋史とひさしぶりにまともに向き合い考えねばならない問題となりますね。逆にやはり日本側も受け入れていたとすると、宗教面で受け入れたのか、あるいは彼らの持つ特殊技術面を受け入れたのかなど、現代にも通じる西洋文化との直面の仕方について考えねばならないでしょう
あと、地図作りと支配に関しては、たとえば神功皇后紀に新羅を占領した際に、地図と戸籍を差し出させたという伝承があります。神功紀自体は魏志倭人伝の記載を引用しているように、かなり7世紀の書紀製作者によって付加された部分が多いようですが、7世紀当時においても、やはり全国地図を作る、他国には見せないということに、軍事的にも、支配面からも地図作りの重要性を認識されていたのではと感じますがどうでしょう。

『景教徒の来日』
茨の紀氏 2004年5月25日(火) 3:10:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 景教徒について調べました。ネストリウス。コンスタンチノ−ブルの司教。キリストの神格と人格の分離を強調したので、431年司教の座を追われ、異端の宣告を受ける。エジプトに客死。教義は東方ペルシアに勢力を得、インド、中国に入り、中国では景教という。(広辞苑 引用)大秦寺。中国、唐代のキリスト教ネストリウス派(景教)の寺院の名称。この宗派の本拠地ペルシア(大秦)の名を採ったもの。長安などに建てられた。(広辞苑 引用)秦氏族 【4〜5世紀ごろ】朝鮮半島より渡来してきたと言われてる  431年エペソ総会議で異端とされたネストリウス派は489年までにペルシアに移動、6世紀はじめより宣教師を各地に送り、社会施設建設などで活躍しました。彼らはキリスト論成立の時、マリアを「神の母」と呼ぶことを拒んだために異端とされた一派で(という事になっているが、実は聖霊の働きをよく知っていたために、表側から追放された)、ものすごいインテリということで知られています。まず何はなくとも神学校を建て(当時の新学校とはすべての分野の研究だった)、アラビア、トルキスタン、インドに活動範囲を広げ、阿羅本によって中国に伝えられると大秦景教となり、またチンギス・ハーンをはじめ蒙古にも広がりました。(引用)  ネストリウス派は@三位に並べてマリアを崇拝しない(教義にマリアの姿が見られない)。Aカリスマ(信じて洗礼を受ける者すべてに与えられると約束された御霊の実)の力を深く知っており、キリスト同様の業を行う神の子(養子)として生きる法をもっていた。B非常に高い学識を持っていた。C「祭司と預言者」のごとく、「表」からは御霊の実を用いることが追放されることを意味すると知っていた。D強い再臨信仰がある。(引用)  次に私の妄想。 漢字の字解からキリスト教を感じます、甲骨文字には測量作業の禹と父(口)を中心に描かれています。規(コンパス)を手にしている伏羲と 矩(さしがね)を手にしている女女咼は カバラ【主】からの密命「世界地図作りと布教活動・社会事業・国字の作成)による古代中国の国造りをしていたので関係者が日本へ来ていた可能性もあると考えます。  紀氏でした。

『追伸 けまり(蹴鞠) 』
茨の紀氏 2004年5月24日(月) 19:27:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 追伸 けまり(蹴鞠) マリ【匊】キク(鞠)を蹴る遊びはバチカンが知ったら憤慨(ふんがい)する事でしょうが景教徒なら気になりません。マリアは【匊】(菊)の紋章 紀氏より。

『北斗七星はアダムとイブ』
茨の紀氏 2004年5月24日(月) 18:43:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 景教が入ったのは、どの辺の時代から入り始めたかは中国・朝鮮の次と考えられますが原始キリスト教となるとモーゼの民が日本へたどり着いた時で日本で蛇を神と信仰し始めた時、古代人が夜空の星に名前を付け北極星を【主】北斗七星を凵(雌牛)と己・女と男・イブとアダム・的と矢 アイヌ語のマリモのマリが日本に伝わった時、原始キリスト教は西のミカエルと東のルシファーの生まれた時で紀元前で景教はモーゼからアジアへ原始キリスト教の祖は西と東の真中(╋)から縄文?     古墳は景教(フリーメイソン?)が造ったと思ってますがユダヤ教の生まれる前は小国ごとに沢山の精霊と地神がいたようです。  紀氏の妄想でした。

『RE『光水準測量』、斎杙』
管理人 2004年5月24日(月) 2:56:20 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こちらこそ、また紀氏さんの研究に役立てていただければ幸いです。なるほど光水準測量というのはおもしろそうですね。埴輪の穴に関しては実際配置と角度と太陽光を入れてみてみないとわからないですが、たとえば、古墳を作る際にまず平面に杭を多数立てて形を作っていったことがありましたね。池の場合はきっと同じく杭をたてて、それにそって掘っていったのでしょうね。逆に土を盛ったのが古墳ということですね。数キロ堀を海まで掘るにあたっても、まず数百メートルごとに杭を打ったのでしょう。そして、縄を張ったか、あるいは紀氏さんご指摘のとおり鏡でも遠くからみえるように掛けて、まっすぐに掘っていったのでしょう。この方法だと大型古墳をつくるのには何枚最低鏡は必要でしょうか。鏡を立てる角度はどの変までの一定の角度が必要でしょう。
斎杙に関して貴重なご意見ありがとうございます。確かに斎杙を打つに関しては、まじないというよりはもっと実用的な意味がありそうですね。上つ瀬に鏡、下つ瀬に玉に関して、中つ瀬があれば剣もしくはそれに代わるものですね。紀氏さんご指摘の埴輪の筒型はこれと関係して実用、祭祀面でも重要な意味を持つのかもしれませんね。その埴輪は人柱生贄の代わりとして天皇が作ったとの記載が確かにありますね。斎(忌)部氏の祭祀は鏡と関係するはずですが、古語拾遺にもあるように渡来系氏族のうち技術系の職人が多く配下にいたようです。景教に関しては、やはり当HPにも掲載している昨年度の年度末報告で書いたとおり、特に神功皇后記紀の諸伝承、祭祀伝承が相関性をもっていると個人的な分析見解としてもっております。
しかし、景教の要素が入るにしても、どの辺の時代から入り始めるのかというのも難しく、また類似するペルシア方面の諸宗教や、日本古来からの宗教観との分離をどう見極めるかが課題ですが、技術面での分離のほうが祭祀面での分離より証明しやすいようには感じます。紀氏さんの研究の進展に期待しています!

 

『光水準測量』
茨の紀氏 2004年5月23日(日) 11:58:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「斎杙には 鏡をかけ 眞杙には 眞玉をかけ 眞玉となす」から鏡と玉を不吉な事を避けるオマジナイと考えられますが【斎杙】(仮設の水準杭、【弋】が代わりを表わす)を打つ事には「不吉な事を避ける」事の意味は見当たらないと思います。以前より埴輪(特に円筒埴輪)などにの横に穴が開けられている事に疑問を感じ 直線上に円筒埴輪(水盤で水平を取)を並べ穴に光を通すことで光の拡散を防がれた光が【斎杙】仮設の水準杭に【紐】(深くたずねきわめることの意)に吊り下げられた鏡(垂直で高さが調節できる)に当て反射した光を見て水平(水準)を測定した?かなと考えています。眞杙には 眞玉をかけたのは人柱の霊魂を鎮魂する為にかけたと思います。鏡から鏡箱【匳】クシゲの【僉】セン(多くの人の意見がみな一致することの意)から鏡と水盤と筒の横穴と太陽による【光水準測量】を重い浮べます、またまた妄想でしょうか?  紀氏でした。

『測量と景教への思い込み』
茨の紀氏 2004年5月23日(日) 3:16:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、有難うございます私の説をフォローできる記述を見つけていただき感謝いたしておりますこれからも宜しくお願いいたします。さて測量と景教への思い込みから「御杖をもちて大阪の道中の大石を打ちたまわば、石走り避りき。」杖(つえのもと字は【丈】で手で十字を持つ形・モーゼの杖?)「斎の【忌】むという語には玉より杙がふさわしいのはなぜか」【忌】は禹の心=測量に酔(心をうばわれる、仕事にふける)人なので測量杭がふさわしい。 「諺に酔人も堅石を避くというなり」諺(あてこすり)に酔(心をうばわれる、仕事にふける)人(石工)でも固い石は避けるの意?。上つ瀬に 「斎杙(仮設の水準杭、【弋】が代わりを表わす)を打ち 下つ瀬に 眞(人を逆さに生け贄にする)杙を打つ。」私なりに解してみました。  紀氏でした。

『石、壬生、杙、標、堀と渡来人』
管理人 2004年5月22日(土) 23:20:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんのご意見をもとに、昨日は久しぶりに電車の中で古事記を読んでみましたら、なんぼか紀氏のテーマに会いそうな文言がみつかりました。一つ目は応神記の中に、
A 水溜る、依網池の 堰杙打ちが 挿しける知らに ・・・
という歌があります。次に同じく渡来人渡来説明記事の後のところに
B 御杖をもちて大阪の道中の大石を打ちたまわば、石走り避りき。
とあります。
次に仁徳記に移り、
C この天皇の御世に、大后の御名代として葛城部を、太子の御名代として壬生部を、大日下部皇子の御名代として大日下部を定めたとあり、さらに秦人を役して茨田堤と茨田三宅を、同じく丸爾池、依網池、難波の堀江を掘って海に通し、小橋江を堀り、墨江津を定めたとあります。
あと履中記の最後に歌があり、
D 隠り国の 泊瀬の河の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 眞杙を打ち 斎杙には 鏡をかけ 眞杙には 眞玉をかけ 眞玉となす・・・
とあります。

AとDには、池や河に杙を打つ人がみえますね。Dの上流の杙に鏡を掛けることと紀氏さんの測量関連とは結びつきますか?池に杙を打つということは、どういう測量的効果があるのでしょう。祭祀と杙打ちとの関連も初めてつながってくるように感じます。斎の忌むという語には玉より杙がふさわしいのはなぜかと思います。
さてCを見てみるとその依網池を作ったのが秦人ですから、杙打ち職人、祭祀人と秦人は間接的に結びつくかもしれません。このCの記事では、紀氏さんご指摘の壬生部が見えますが、これを担当したのが壬生氏とし、紀氏さんご指摘のように壬生氏が測量をする職人とするとどうでしょう。壬生はこの場合、皇子ではなく太子に限定された領地とみられますが、壬生部というのは、この太子の部民を管理すると同時に、おそらくは同文にみえる秦氏の三宅作りと比較すると、壬生という領地を作る職人的側面を持つ人々とも関連するかもしれません。同様秦氏をもってはじめて池、堀、津が作れるという感じもします。三宅とはなにか、直轄領とはわかっていながらも、軍事拠点とする人もいれば、倉と役所か、交通の拠点か・・・といろいろ説はありますが、確かに池とのかかわりはよく論じられており、秦氏などそこに遣わされる渡来人との関わりもしられています。もっと具体的に池と渡来人と職人と領地との関連でなにか解明できないでしょうか。
あとDの杖と石の話、その歌につづき「諺に酔人も堅石を避くというなり」とあります。紀氏さんご指摘の要石や舞楽との関連で、酒に酔った人と石と杖の関わりでなにか深い意味があるのではと感じますがどうでしょう。それでは取り急ぎ管理人でした。

『カッパ 【兵主】神社』
茨の紀氏 2004年5月22日(土) 12:22:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 澪標(みおつくし)の【標ヒョウ】の音に【ヒュウヒュウ】の音を思い出しました。「春と秋の彼岸になると、雨の降る夜にヒュウヒュウと声をたてて水路に沿って通るものがある。通った後には赤子の足跡のようなものがある。これは河童が山と川を往来するのだと言われている。」そうです河童(カッパ)です、私は河童は唐子(渡来人)で頭の皿はキリスト教の宣教師の髪型で亀の甲羅は唐の亀甲紋、相撲が好きなのはモンゴル系きゅうりは中近東経由などからです。また【標ヒョウ】とツ【津】・ズ【図】から地図をそれにヘイシュ【兵主】神社を思い出しました。地元の方は「ひょうずさん」と親しくよび御祭神は八千矛神(大国主神)で境内末社御祭神・【手】名椎神、【足】名椎神、事代主神、などで中国の八神信仰が、渡来人と共に古代朝鮮からを壱岐(長崎)、因幡(鳥取)の日本海ルートで現在の城崎温泉のあたりにもたらされ、特殊な技術集団が但馬地方を中心に中国山脈を越え播磨国に入り、あるいは大和国の穴師(あなし)を中心に広まり、現在三十数社の兵主さんが鎮座しているそうです。廷喜式の制定されます平安初期には、現在の場所に鎮座されたものと思われ 兵主さんは、祭神を大己貴命(八千矛神)としておまつりし、又「ひようず」と発音しますが、全国の兵主さんでは、「ひようす」と発音されているそうで平安後期の三十番神信仰と共に、当兵主さんは隆盛をきわめ、 廷喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を愛けるなど、その御神威は広範囲にまで及んでいたと有ります。(【八神信仰】 八神の内、兵主神は元来支那の神である。兵主神は、支郡の東平陸監郷、斉の西境の地に祀られたものといわれる。その神が、秦氏等の外来帰化人の渡来と共に、我国各地に分布奉斎せられるに至ったとの説がある。兵主とは、武を司る神の名であるが、我国に於ては式神としてより食物の神としての尊信が篤いようである。しかし、当兵主大社は中世に武門の崇敬を多く受けている。尚、江戸時代には本地垂迹思想の元、兵主の神は不動明王が本地仏とされたと同様に、各末社の神々もそれぞれに本地仏が決められた記録が残っております。御祭神「八千矛神」は、欽明天皇の御代に琵琶湖湖上を亀の背中に 乗られ渡り琵琶湖岸から神社まで鹿に乗って来養老二年(718)現在の地に御鎮座されたと伝えられ、兵主大社では亀と鹿を神様のおつかい としております。神社の紋(もん)も亀の甲羅の六角と鹿の角がデザインされています。【兵主】神社のホームページより)   これでこれまで私が言わんとしていた【心】を少し理解していただいたかな?と思っています。  紀氏でした。

『RE『日本人のルーツ』』
管理人 2004年5月20日(木) 16:41:11 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、DNAの番組のお話ありがとうございます。こう現住日本人のDNAの割合の少なさをみていくと、今の日本人のアイデンティティーは、むしろ天孫降臨神話のほうが自然で適当ということになるのでしょうか。現住民、固定型日本人像・アイデンティティー論から、ヨーロッパ的な流動的日本人像、アイデンティティー論へと変化させるべきなのかとふと感じます。

『測量用三角点 石信仰?』
茨の紀氏 2004年5月20日(木) 15:23:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人が造った古墳=測量台説を少し進めて、岩石信仰・奇石(岩)=三角点(測量用)説を唱えさせてください。日本全国に明治時代以前の三角点が存在します。私は寺社などの【要石】などの石や岩に対する古代人の岩石信仰(神が石に変えられた・精霊が宿っている・神は石から生まれたなどなど)これらの話のなかには、三角点(測量用)としての岩石を破壊や移動から守るための【布石】(将来に備えて行なう手配り)だったのでは?と考えます。石神・磐座・磐境・鸚鵡石・・鏡石・・神石・御座石・降臨石・影向石・出現石・御姿石などや腰掛石・船石・鞍石・亀石・要石・飯石・盤石・鳴石・御膳石・姥石・硯石・甲石・草履石・踏石・陰陽石・マラ石などなど、新しくは境神の道祖神やお地蔵さんそれと石仏に石碑(馬頭観音など)道路横や分岐点などに在る石造物(開発が進みほとんどが消滅している。皆さんの近所にこれらが在りましたら近くの古い寺社か旧跡お堂(稲荷・閻魔堂・不動・塚など)からの距離の正三角形(60度角)を試してみてください数の内には!ひらめくかも知れません(なお6の倍数の距離も考慮に)茨の紀氏より

『日本人のルーツ』
茨の紀氏 2004年5月20日(木) 12:5:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NHKスペシャル「遺伝子」第三集 「日本人のルーツを探る」での。ミトコンドリアDNA*によって、日本人のルーツを探ろうという研究が取材され鹿児島大学の宝来 聡博士が紹介したデータです本州人のDNAによるルーツの構成は、以下の通りで。日本人固有のDNA  4.8% 韓国人固有の・・・ 24.2% 中国人・・・・・・ 25.8% アイヌ人・・・・・・ 8.1% 沖縄人 ・・・・・・16.1% その他・・・・・・・24.0% とありました参考まで。     紀氏でした。

『博物館報告2』
管理人 2004年5月19日(水) 2:33:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人@夜勤中です。先日は忌寸、冉の字解説明ありがとうございました。またその辺すこし考えてみます。さて、紀氏さんからの博物館でのご質問にお答えします。画像石のひとつに夏王ウが測量をするための先が二股に分かれた棒状の武器のようなものを持っている図がありました。同じく高句麗の瓦もみましたが、蓮華文様はわりかし菊の文様に似ている感じはありますが、関連性はわかりません。あと、紀氏さんご指摘の定規のようなものや盾の模様については、わからないですが、本来は博物館の今回の展示図録があれば、郵送でもいたしたところでしたが、どうも最近の「神の手」事件関連で今回の展示図録が出版中止になったそうでお送りできないのが残念です。空海展示は終わりましたが、東洋館の展示はしばらくやっているのでぜひ一度行かれてみてはと思います。神仙、菊文様、方位盤、曲線直線に関しては、個人的にはやはり三角縁神獣鏡の文様にそれらの特徴がややみえるように感じますが、測量と関係するのでしょうか。鏡と古墳の上に立つ棒や埴輪と測量とはなにか関係するのでしょうか。邪馬台国卑弥呼の鏡についても、鏡の出土に注目されていますが、やはり卑弥呼自身がどの程度、鏡の呪術性および、実用性、特殊用途について理解していたかが気になりますね。魏志倭人伝の行路測量にどの程度、卑弥呼など諸集団の測量技術や地図意識、経験は反映しているのでしょう。
あと、最近ひとつ気になるのは、古墳人骨の遺伝子解析がどのくらい進んでいるのかということです。渡来人研究でも深く関係しているのですが、よい情報ありましたらお教えくださいね。以下、さっき調べてみたサイトです。参考までに。
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/D/dna-05.html

http://www.st.rim.or.jp/~adachima/asahi2003.6.24.2.html

http://homepage.mac.com/azsyano/Menu1.html

『博物館のお話、聞きたいです。』
茨の紀氏 2004年5月18日(火) 16:9:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん今日は、弘法大師入唐1200年記念空海と高野山 での 夏王朝の測量伝承をもとにした画像石も解説つきで展示での測量伝承のお話を御聞かせください。たしか弘法大師の母方はサエキ(土蜘蛛)で大師は快く思って無かったと思います。円仁(壬生の出)とは親類関係だったと記憶してますが?、私は円仁が東北方面の測量に関係したと考えています。(壬生氏は渡来初期は古墳を作りながら日本を測量していた一族と思います。)展示の中に 金製の打ち抜かれた紋様の有る曲線を描けるような定規の様なものは在りませんでしたか?盾は四半の形でしたか?お話をお聞かせください。   茨の紀氏より。

『神仙=鮮=魚!+羊! 』
茨の紀氏 2004年5月18日(火) 8:26:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 おはようございます。 『鮮セン・あざやか・あたらしい・すくない解説 形成。音符は羊。羊は羴センを省略した形。羴センは魚の臭い(【匂】い)を言う字で、鮮はその両者を合わせたような字である。その臭いが独自のものであるから、新鮮(肉や魚が新しいこと)のようにいい、「新しい、鮮やか」の意味にもちいる。鮮少(少ないこと)のように「少ない」の意味に用いるのは、尟ゼン尠セン「すくない)と通用するからである。尟はサジ(匙の左の辺)【匙】の形)で酌むことが少ないの意味、尠は【鍋ナベ】(甚は【鍋を上にかけている置竈オキカマドの形】)で炊くことが少ないの意味である。用例 新鮮 いきのいい魚/鮮血 まっかな血/鮮明 鮮やかではっきりしていること』(白川静 著常用字解より)  昨日【神仙】を仙神と記してしまい訂正させていただきなす。【神仙】は「あざやか・あたらしい・すくない尟はサジ【匙】の形)で【酌むことが少ない】の意味【甚】は【鍋を上にかけている置竈オキカマドの形 】これらは「少ない」【鼎カナエ】を表わしているのでは?【匂】 【尟】はサジ】=【ヒ】(さじ)(酌むことが少ないの意)以上の事から【ヒ】=【禹】を表わしているのでは?如何でしょうか?   紀氏でした。

『菊の形は方位盤?』
茨の紀氏 2004年5月17日(月) 16:24:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信 菊の形は方位盤では(軒丸瓦の文様は星の運行)?  菊花之隠逸者】(きくはなのいんいつなるもの)菊は花の中の、世を捨てた高潔な人ともいうべきものである。(周敦頤・愛蓮説)(逸者の【逸】イツとは、【兎】ウサギがすばやく逃げる意。)この場合の【兎】ウサギとは【禹】夏王朝の禹(ウ)と思える。うさぎ(お月様で【臼】(うすは白(頭蓋骨)の意と近いそうだ。【搯】とりだす・よろこぶから生け贄・人柱の【口】禹の父が喜んだ?)【杵臼之交】雇い人仲間の交わり (後漢書)と【杵】で薬草(もち)を【搗】ツイテいていた=禹(うさぎ)(天杵=彗星だそうです。)因幡の白うさぎや猿蟹合戦も藤原・壬生氏が携わっていたかも、カチカチ山の泥の舟の泥は水の侵入を防ぐためのコーキング材(出雲の舟)たぬきは木(紀)氏?  紀氏の妄想でした。

『【冉】の文字からあばら骨』
茨の紀氏 2004年5月17日(月) 10:48:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 【冉】の文字からあばら骨をイメージしたのは、字解でお世話に成っています「角川の漢和の中字典」のP101ゼン・ネンの文字で象形【冄】ゼンの異体。髯ゼン(ひげのたれた形)とありましたが私は、肋骨・アバラ骨では?と考えました。日本書【紀】や風土記などは、中臣(藤原氏)と壬生氏(景教徒?ひらがな・カタカナを考えた人かも?)が係わったと考えています、【伊弉冉尊】などの文字も私には測量関係と見えてしまいます(当然です漢字は禹の地図つくりをモデルにした象形から発展したのですから)。カフカさんの【九州】についてですが禹は中国を【九州】に分けています(古代中国の地名が日本全国に沢山有ります)。私は邪馬台国の初期は九州説をとります、ヤマタイ国の【ヤ】にはもう一つ【耶】の文字が存在します。【耶】は耳の里、耳で【麹】主+処+菊(海外では古代ユダヤ神殿の嘆きの壁の菊の紋章・エルサレム神殿の門)(道教か仙神に菊(菊水)は薬効があり不老不死の仙薬と?)またズレました戻ります。【耶】は耳の里、耳は聞く・キク・菊で菊の里=菊地(九州の菊地)【馬】(騎馬民族)【台】(測量台)と考えています。  紀氏でした。

『九州の友人』
管理人 2004年5月17日(月) 3:21:28 削除・編集 スレッドの一覧・返信 カフカさん、紀氏さんこんばんは。天皇家の方々については特徴があるとよく聞かれますね。さて、紀氏ご指摘の【伊弉冉尊】 (いざなぎのみこと) =イブ(【冉】の文字からあばら骨をイメージ)とのことで、特にその文字「冉」はどのように「
骨」のイメージにつながるのかすこし興味深く感じましたのでよろしかったら詳しくお教えいただければ幸いです。
九州の人については、ほとんど知り合いはいませんが、宮崎の友人がいまして、ここで紹介するのは彼には申し訳ないのですが、特徴ある兄弟でした。どちらかというと切れ長の目で、鼻が大変高い鍵鼻、身長は普通ですが、手足の指が非常に大きく大きな靴しか履けないという兄弟でした。たぶん、私の予想では、鼻骨の発達と手足の指の発達に関して遺伝的な分子構造で共有性があるのではと感じます。九州の方というとどちらかというと縄文系の彫りの濃いがっしりした人というイメージがありますが、その辺どうなのでしょう。手足の大きさに関しては、たとえば藤ノ木古墳出土の金銀装飾の靴はかなり大きいとされ、その靴の実用性が問われていますが、類似している先日博物館でみた朝鮮の金銀製の靴は普通の大きさでした。ある意味、古墳出土の骨からみた人体サイズと、出土した靴のサイズの割合などからも、特定の家系の遺伝なども特定できるのはとかふと感じましたがどうなのでしょう。藤ノ木古墳の履は38センチ、http://www.town.ikaruga.nara.jp/ikaho/kouza/f421.html
群馬の下芝谷ツ古墳からの履は31センチだそうです。
http://www.gunmaibun.org/jiten/iseki0534.htm


『九州に血縁が?カナ?』
茨の紀氏 2004年5月16日(日) 13:56:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 原始キリスト教と地図作りと文字からの閃きで、妄想してみました。【伊弉諾尊 】(いざなみのみこと )=【アダム】 【伊弉冉尊】 (いざなぎのみこと) =イブ(【冉】の文字からあばら骨をイメージ) 大綿【津見】神 (おおわたつみのかみ )=海彦(わた ワダ=海) 大山【津見】神 (おおやまつみのかみ )=山彦  【津見】=【標】を見る=測量士 【手】名椎命 (てなづちのみこと) 【足】名椎命 (あしなづちのみこと)  【手】(技術者)+ 【足】(人足ニンソク)= から測量の手足となった部下  他に【耳】(ミミで聞く(菊)菊の紋章=九州出身の天皇?  【目】象形文字の馬の目が異常に大きい(測量に関係・騎馬民族系測量士?) 【筒】ツツ+ガ (恙つつが羊(キリスト教徒)+心(秘密の使命)底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)・中津綿津見神・上津綿津見神、底【筒】之男命(ソコ【ツツ】ノオノミコト)・中【筒】之男命・上【筒】之男命など多くの【測量】の神が生まれたかも?。   【耳】(ミミで聞く(菊)菊の紋章=九州出身の天皇? だから九州に血縁が?   紀氏でした。

『天皇家との近親関係?』
カフカ 2004年5月16日(日) 11:54:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして。
九州地方の村で子供の半分くらいは皇太子そっくりだし、ご老人たちも今の天皇陛下瓜二つ、という場所があるようなんですが、何処かご存知の方教えてください。

『東京国立博物館展示と渡来人』
管理人 2004年5月15日(土) 3:6:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日は夜勤明けで休みだったので、今東京国立博物館で展示している「弘法大師入唐1200年記念空海と高野山」を見てきました。ちょうど16日で終わりなので昨日しかないと思い行ってきました。金曜は恵み深く夜8時までやっているとのことだったので、まず数年ぶりに東洋館に行って世界の古代美術と考古遺物を見てきました。数年ぶりに行って驚いたのですが、今かなり珍しい品々がここで展示しており、渡来人研究をするにはとても貴重な品々が目白押しでした。特に個人的に渡来人とのかかわりで重要と思ったのは次のとおりです。まずタイの古代銅鼓が見れるのは感動でした。この銅鼓の文様が、日本でも弥生から古墳にかけていろいろなところで見えており、以前から写真では見ていたのですが、まさかそれを目の前で見れるとは思いがけない感じでした。次にイラン方面のエリアでは、彩文土器やヘラクレス像、ガラス器などもありまして、特にガラス器は正倉院のそれとの比較に上っているところです。また古代のイラン文明に見える土偶そっくりの人形などもあり、その他いろいろ見ているうちに、どこかしら縄文日本にかかわる世界的な流れを感じさせられました。中国エリアでは、先に紀氏さんご指摘の鼎や矛類、甲骨文字、夏王朝の測量伝承をもとにした画像石も解説つきで展示しており、私も鼎のふたについてる突起の穴から遠くを覗いてみたりしてみました。この穴やはり測量のために覗く人がいたとしても不思議はない感じがしますね。ご指摘のあの世とこの世を結ぶ鳥も画像に描かれておりましたが、夏王朝の伝説が確かに中国の漢文化などに大きな影響を与えているのですね。中央アジアエリアでも、やはりヘラクレス像が出ているのは興味深かったのですが、次の朝鮮エリアでは、藤ノ木古墳から出土したものと類似する金銀の飾りものの数々を眼にしました。やはりその繊細な加工技術の高度さには驚かされるものがありました。その中に先に古代倭製太刀についている二匹の魚型の件で触れた新羅の魚型の飾り物二匹があったのは驚きでした。また先に話題となった古代日本の寺院瓦についても、百済系、高句麗系の相違などは調べていましたが、今高句麗の瓦が見ることができます。やはり百済などの文様とは一味違ったシンプルな特徴をもっているようです。その他多々の渡来系研究に欠かせない品々があるわけですが、またあわせて法隆寺館の展示もみてくると、案外日本の古代文化が、東西の文化の大きな流れの中に位置していることが比較によって明らかになってきます。まさに人類史の大きな視点を把握することが渡来人研究には欠かせないということですね。さて、また空海と高野山の展示についてですが、なにかはじめて密教や仏教の世界というものを総合的に勉強させられたという感動がありました。特に胎蔵界曼荼羅などに描かれた密教世界というものが、やはり大日如来を中心としたあの世の存在・世界への東洋的な深い瞑想とあこがれから来る独特の視点が示されており、どちらかというとこの世におけるキリスト・聖霊・諸天使との協調の中での日々愛の実践を生きることを説くキリスト教の視点との重視部分の相違が新鮮でありました。この東西の宗教は類似性も多く、相互補完関係みたいなものを感じますね。その他諸所仏具や仏像に関しても、かなり詳しい説明があり、また携帯レコーダーを耳につけるとなお仏教の勉強になるようです。その他教科書に載っている空海像、筆文、運慶の仏像作品や
浅井長政、お市の方、信玄肖像など、かなりびっくりするほど有名な品々がそばに見れるので驚きでした。そして「山の正倉院」と呼ばれるように、インドなど東西の文物がみえることもやはり重要ですね。
ぜひ、渡来人研究する方には今の東博展示お勧めします。
なお東京国立博物館HPは以下のとおりです。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=X00&processId=00


『今東博にいます。』
管理人 2004年5月14日(金) 18:22:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 忌寸の字解ありがとうございました。今漢の画像石にウの測量伝説に基づく画像や甲骨文字見てました。紀氏さんからの最近のお話の後改めて見ると、また新鮮ですね。また後で詳細ご報告いたします。

『追伸 【虫】スカラベ?』
茨の紀氏 2004年5月14日(金) 18:10:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 忘れてました!むし ムシ ム氏 虫 (禹の父【口】+ム=【虫】(蛇)を忘れてました。ついでに【鳥】は禹の測量仲間。鳥は上空より地上を一望でき地図作りに適任だが烏(カラス)の目は無いか黒くて目がどこか良く見えないので地上を歩いて測量した(八咫カラス)【咫】=尺+只   梟は偉そうです【偉】=人+吾(われ)+ヰ(ストーンサークルの柱) ? イメージ イメージ  紀氏でした。 

『忌寸no』
茨の紀氏 2004年5月14日(金) 15:9:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さんが【忌寸】に関心がある様なので字解してみました。【忌寸】の【忌】の【己】キは(【紀】の本字 )他に夏王朝の禹を表わした部首には【ヒ】は祈り・占いをする禹の姿(私のム)。【它】へび蛇(女媧・伏羲も人頭蛇身の神)禹は自分を卑 せむし むなしい へつらう 【ト・兎 ウサギ】準シンボル) 【卩】(卯 ワレ)(【儿】は測量作業で弱った禹の足(シンボル)【乙】【九】【弓】【久】 禹の特徴 【長】(L型の定規で測る禹の姿。) せむし 性格 むなしい へつらう よこしま)次は、【寸】スン(長さ はかる・キ)で測量を覗はせる。  先住渡来人が【唐】の(篆文の象形から)渡来人にいだく字形が禹の父【口】に逆らう形と成っている(【唐】の文字は唐王朝が出来てから作られた文字に思える、制作者は唐への敵意を感じられる。漢字が禹の測量や境遇(景教徒も含む)などから組み立てられていることの本にしようと考えたが、漢字の数が多く忍耐力の乏しい私には辛いです。  己の本字 紀氏でした。)

『ミクロとマクロ』
管理人 2004年5月14日(金) 13:56:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんご指摘のとおり、人類の大まかな流れをつかむことは重要ですね。たとえば日時計の技術があったとして、その技術は日時計だけではなく、もっとマクロなものにも応用できたはずですね。ミクロな技術はマクロにも応用できるし、マクロな技術はミクロな技術に応用しようとするのが人間の本性(特に日本人は後者が得意?)です。ですから、古墳で日時計・カレンダーとして成功したミクロな水流・測量技術は、マクロとしても古墳を通して、土地測量、水田開発、地図作成などとして紀氏さんご指摘の測量へ技術類へと応用できたかもしれませんね。たとえば、後代の飛鳥池の水の祭祀場の遺跡にしても、ミクロとして水時計・サイフォン管技術が成功してあり、マクロとしてその周囲の丘を駆け巡る水路・酒船石や丘構築技術との関連として、技術応用があったのかもしれません。そしてまたキトラ古墳のように、マクロとしての高麗の天文測量図、技術をもとに、ミクロとしての四神玄室壁画があるようです。また時代が変わると、技術も代わりますが、同様な観念を引き継いでいくこともわかります。かつて成功した技術は時代とともに新しい技術に取って代わられるのですが、両者には共通した観念が引き継がれているケースもあるでしょう。紀氏さんの古墳と地図など測量に関する先の紀氏さん新著での新見解、さらによりいっそうの具体的分析をもって今後も取り組みつづけられてはと期待しています。次の第2段著作にも期待しまていますが、またHPを開設してみるというのもお勧めです。紀氏さんの博識と鋭い洞察眼ならきっとよいサイトができると思いますし、最近はHPも無料で簡単に作れるようになってきていますので、またその辺ご質問などございましたらお答えいたしますのでよろしくです。ではまた取り急ぎ管理人でした。

『(・Д・)』
匿名希望 2004年5月14日(金) 10:15:54 削除・編集 スレッドの一覧・返信 きかせろ。渡来人について。よろしく。。。

『また訂正スミマセン。』
茨の紀氏 2004年5月13日(木) 20:21:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信  管理人さん、ありがとう御座います。私の妄想に御付き合いいただきまして、スミマセンまた訂正させていただきます。二重になり片方削除してください。それと【夏・殷】カイ・ンは【夏・殷】のカイ・ンでは無くカ・インでした。恥をかきました(気にしてません)。日本への渡来人とは、遠く感じますが人類のおおまかな流れを感じるのも良いのかなと思います。ここまで来るとこの先私は何をしていいのか不安です。お導きをお願いします。  迷える子羊 紀氏でした。

『古墳、水平』
管理人 2004年5月13日(木) 15:27:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さんのご指摘から、ひさしぶりに計算したりと、大学以来の数学頭が活性化してきますね。古代人が高度な天文学、測量技術を持っていたこといろいろお教えありがとうございます。古墳の周囲の溝について、楕円形に水を張り巡らすと、確かに古墳の上下左右で高低差が生じていて、そのままの基準で溝を楕円に掘ると、上下左右どこかに水が流れて溜まってしまうわけですね。そこで、均等に流れがなくなるまで水平に溝を掘っていくわけですね。そして自然とその水平を基準とした古墳上部、玄室も水平になってくるわけですね。確かに水平は石にかかる重力のこと考慮すると、微妙な積む方向ずれも後々崩壊を招きかねない点で重要ですね。あと円墳などと比べて、前方後円墳などの特徴のひとつとしては、古墳上部に、水平地帯があること、大人数が儀式などがあっても乗れることなどもありますが、溝を巡らしている古墳に関してはなんらかの水平への観念があるのかもと感じますね。この辺の古墳設計に関するサイトにもちょっとその辺触れているようです。http://www.ozlab.osakac.ac.jp/kofun/Nyumon/sekkei.html
あとは、水平観念がどのくらい強かったか、あるいは古墳上部にあるその他の埴輪とか柱とかが、水平とどの程度かかわるのかですね。この辺詳しくないのですが、紀氏さんご指摘の中国の棒と影による測量、あるいは日時計関連では、以下の古墳と日時計のサイトがありました。すこし小高い円墳の上部に柱?を立て、方形部分にその柱の影を映させ、季節によってその柱の影が日の位置によって円弧状に動くのをみて農耕祭事のカレンダー代わりとしたとのことです。http://yamataikoku.hp.infoseek.co.jp/22.htm
とすると、箸墓古墳のような古いものにそのような特徴がみえるとのことだとして、後の時代に象徴化されたとすると、古い古墳ほど、太陽方角に強い観念をもっている可能性がありますね。なにか古墳と測量、天文、もともとは紀氏さんご指摘のとおり古代人にとっては現代人のわれわれとは比較にならないほと、深いつながりを感じていたのかもしれませんね。

『風水を考える』
茨の紀氏 2004年5月13日(木) 14:32:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 人間は古代より住まいの場所に心を悩ましてきました。特に強風や水の多少などにより移動を繰り返したようです。最初は横穴【匚】次は縦穴【凵】そして家【宀・ロ】ロを外敵や風を防ぐために囲いを廻らし【回】(砂漠の都市・回教?)に住んだが平地だったので外敵に脅かされ飲み水のも不自由する。山岳地の盆地(凹・)に住んだが一万年くらい前の地球温暖化により大雨が続き盆地は金魚鉢状態と成り生き残ったのは船で山頂にのがれた人々(ノア一族?)だけだった。過去の回帰での経験からついに風水が完成する。北に神(祖先の霊)の山を周りを【冂】の形に峰々が連なり、南に川・湖・海に面する(風水の基本形)。次に関連して人の流動について。神話での【カイン】(弟・羊飼い)と【アベル】(兄・農夫)について、旧約聖書では【アベル】は【カイン】に神への生け贄のことで神が【カイン】にひいきした事を妬み【カイン】を殺した話に成っているが私の妄想では【カイン】は【夏・殷】カイ・ンで【アベル】(バベル・バビロニア)だったのでは、以前お話したバベル文字のアルファベット【A】の文字は△の上の部分が途切れ横からーが刺さった形(バベルの塔の中断とバビロニアの終焉で(【カイン】の【k】はkを横のした形角度を表わす定規の形)東(現在の中国)へ移動し【夏・殷】カイ・ンの祖と成った。(古代中国の皇帝は韓民族で漢民族とは異なる?そうだ。)原始キリスト教の分派にはヒンズウー教の様な自然崇拝の派と法(モーゼの十戒やコーランの様な)により法律で縛る派の二大派閥でバチカンの祖?は他派閥を神に対する天使の反乱とする神話(悪魔)を作り出した。天文学の進歩が後退した時代は知識人に神の言葉が正しいと神(神の代理)への絶対服従を強制した歴史が長かった為と思われます。ヒンズウー教の様な自然崇拝=景教徒?(秦氏など)歓喜天?(日本の神や仏の呼び名が多々有り、かれが日本の古代史を難解にしている、カバラの教えかな?)中国の神話にコンパスと定規を持った【女媧】や【伏羲】(道祖神?)の神様がいます、道教の【道】は「人は道を広めることが出来る」の【道】(世界測量)の【道】とキリスト教の伝道の愛の【道】世界平和と人類の繁栄への【道・タオ】への未知かな?  紀氏でした。

『確信!地図づくり。』
茨の紀氏 2004年5月12日(水) 9:52:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 日本の数学史を思い江戸・明治時代には和算が盛んだった様で、江戸時代の私の近所人々が『遊暦算家』サンカ?と地元の和算家に当時の最高の和算を広める為にやってきた記録が有り、奉納せよと残した算題(問題)が有ると言はれている。(全国を渡り歩く『遊暦算家』とは何者?資金源は?)  また数キロは離れた石岡市(常陸国府の置かれた所)に『算額』などが奉納されていた金毘羅神社が在る。『算額』などが奉納される全国の寺社とは?またまた興味をそそられる。ある本に「算・暦家の官位についての研究である。『六国史』には、五位以上の 殿上人(一部例外あり)の記録が原則」とある。  前漢末から後漢初に成立した天文書とされる 『周髀算経』の昔栄方問於陳子の条に、「周髀長八尺、夏至之日 一尺六寸、髀者股也。正 者句也。正南千里、句一尺五寸、正北千里、句一尺七寸。日益表南 、日益長候句六尺。即取竹空径一寸長八尺、捕影而視空正掩日。而日応空之孔、由此観之率八十寸而得径一寸。故以句為首、以髀為股。従髀至日下六万里、而髀無影、従此以上至日則八万里。若求邪至日者、以日下為句、日高為股、句股各自乗併開方除之、得邪至日、従髀所傍至日所十万里。」とある。これは、夏至のときに、日の影が一尺六寸あり、南北に千里行く毎に、一寸づつ増減する。夏至の後に、影が長くなり、六尺になったときにも此の比率で増減するとすれば、太陽直下まで六万里、髀の高さが八尺であるから、太陽の高度(この場合の高度とは、航空機などの高度と同様の意味。)は、八万里、直距離は、句股定理により R= (80000 +60000) =100000、十万里になるという意味である。周代の1里は、約 405m であるから、太陽までが、約4万Kmということになる。勿論、1天文単位(地球から太陽までの距離。AUで表す。)が、地球一周分な訳は無く、これは、【地球が平面である】としたことと、影の増減率を一定にしたことの二重の間違いによるものである。しかし、間違った前提から出発したとはいえ、論理的に推論したことは、評価されている。」と記されていた。前漢末から後漢初に成立した天文書の存在から当然古代に【地球地図】の制作に執りかかっていたと確信をえた。  紀氏でした。

『『四苦八苦』』
茨の紀氏 2004年5月11日(火) 11:18:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 けさ目が覚めてフト閃きました。『四苦八苦』の本当の意味は! 四×九=36? 八×九=72?では√八-√四=0.8294271は正八角形の一辺の長さ(間違ってたらゴメンナサイ)  『四苦八苦』とは誰が考え出した四文字熟語でしょうか?  渡来人の景教徒では!  バビロニヤ人?などと妄想にふける今朝の紀氏でした。     

『訂正、滋賀と栃木の渡来人、標』
管理人 2004年5月10日(月) 6:15:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昨日は、1980円でノートパソコンに入れる全国地図を買ってきましたが、なかなかカーナビ的に使えそうで楽しみです。さて、先の書き込みで、伊吹山が南河内郡と書いてしまいましたが、紀氏さんご指摘の伊吹山の件での伊吹山は滋賀県坂田郡伊吹町周辺ですね。その伊吹山について地図で調べましたが、小泉という地名がかなり近くにあるようです。井吹の「吹」が鋳物師の吹く作業と関連するとのことを受け、紀氏さんから南河内郡美原町周辺の丹南などと関連する河内鋳物師のお話を指摘されたところでした。また栃木県矢板市泉町の井吹里伝承と、矢板市と隣接する河内郡との渡来人遺跡とについての件については、井吹→伊吹山、双方に伝わる行基伝承との類似性について紀氏さんからご指摘いただいていました。その滋賀県については、前に本HPの「遺跡探索日記」「鹿嶋・水戸周辺の渡来人遺跡探索」のページでも触れましたが、茨城県の「大子町のある久慈郡やその周囲の多珂郡、那珂郡では、鍛冶工房遺跡から漆紙文書が出ており、製鉄や武器づくりと関連した文字が表記されているそうです。また久慈郡関連では「神前里」「真野里」などの地名もみえるとのことでした。この「神前里」、「真野里」については、天智4年(665)二月に百済百姓男女400余人を近江国神前里におき、翌年5月には百済百姓男女2000余人を東国へ移し3年の間官食を支給したとあり、この東国に移住させられた百済人が久慈郡の神前里、真野里へ向かった可能性が指摘されている」とのことがありました。この滋賀県の神埼郡と先の滋賀県坂田郡伊吹山の位置は地図で確認しましたがわりと近いようで30キロぐらい、同様栃木県矢板市泉町と那珂郡との距離も、30キロぐらいのようです。とすると、滋賀から栃木への亡命百済人の関東移住という感じの線でいけそうですが、また亡命高句麗人などとのかかわりもあるかどうかと思います。また先日の狛江の亀塚については、「出土した銅鏡は高句麗人の移住開拓地と伝えられる大坂府河内の古墳(藤井寺市の長持山古墳・八尾市の郡川西塚古墳)から出土したものと同笵鏡であり、また金銅製金具の紋様が高句麗古墳の壁画と類似すること、狛江の地名が高麗と関わりあると考えられることから、この地も帰化人が移り住んだ地といわれるhttp://hon.web.infoseek.co.jp/tama/tam/t062/t062t.htmより)とのことで、この藤井寺市、八尾市から、先の南河内郡の河内鋳物師のふるさと美原からは、10キロくらいとこれも近い距離のようですが、やや時代さが双方にあるので、その辺どうなるかと感じます。そこでやはりこの南河内郡の河内鋳物師と滋賀県の伊吹山、あるいは栃木県の泉町・井吹里との
関連をもうすこしつながるような手がかりはないかとも思うのですが、あるいは滋賀は百済、河内は高句麗で別かどうかと考えているところです。あと、ご指摘の宮作りと、「標」の関連では、ちょうど滋賀の渡来人にも触れている井上満郎氏『渡来人ー日本古代と朝鮮』リブロポート・1987に書紀白雉元年十月条に将作大匠荒田井比羅夫という渡来人が味経宮建設にあたって「宮の堺標」を立て「溝」を掘ったという記事があり、そこに関して渡来人の大津宮などにつながる
宮都造営へのかかわりを分析されているのですが、その辺もご指摘とかかわりそうですね。

『追伸 澪標(みおつくし)』
茨の紀氏 2004年5月9日(日) 19:47:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信 追伸澪標(みおつくし)の【標ヒョウ】の字に、しるし・しめす・はしら・たてるなどの意味があり、私は、標の字が【木】と【囟】ヒヨメキ(【赤ちゃん】の頭の骨と骨の間)と羽(鳥は神霊の化身と考えられ羽飾りとして旗や武器などに付けた。常用字会解より)と【示】(几ツクエの象形文字としたたる血を合わせた会意字で載せてそのままにしておくところから【示】となった。角川漢和中辞典より)から『海や川などの流れの作用で川底が溝状に深くなったり、その幅が狭くなったり広がったりするので【赤ちゃん】の頭の骨と骨の間が脈搏(みゃくはく)で動くことから【囟】ヒヨメキの象形が使われたと考えらえます。
漢字中身には、多種の学問・知識が組み込まれているのです。驚きました。古代の人々(以前の地球上の大洪水で水神の生け贄になった人間達)の文化水準は私達の考えている以上に高かったのでは、原始キリスト教のシンボル(双魚)は水神の生け贄になり魚にもどった人間を表わしていたのではないでしょうか。話は変わりますが、以前に古墳のまわりに水堀の成っていることのへの疑問にお答えします。私は以前より古墳が地図作りの測量台でもあったとの持論です、測量台は見晴らしが良く水平な地面で無ければなりません。京の町は碁盤の目のように水堀が廻らされています、これは区画ごとに土地を水平にする為で区画ごとに水をはり堰き止めととおもいます。先日テレビの『五木寛之百寺巡礼に私が古代中国での測量でのアリダード(測量器具)と思われる【鼎かなえ】の磁器製ですがまさに【鼎】(殷代以来の祭器で大いに神聖視されていた。Dまさに(方)。あたる(当)。角川漢和中辞典より)【鼎】じには【目】がついています。私は埴輪の中の家型ハニワなどは【アリダード】(測量器具)と思います。ついでに【盾】(タテの本字はカン(申)のような文字で、【聿】イチの象形は板(伊田)に手で彫っている形です。【尹】の象形は筆のようなもので修正し書き写している形です。 【四半】(四半とは「四方(四角)の半分」の略だともいいますが、これだと横1、縦2の割合になります)と言うのが【盾】の大きさの割合で古代中国では【盾】に測量した図を彫っていたようです。【亜】の文字の象形では亜の中に悪魔(亜苦間)の姿の【目】の象形が入っています、そして4つ角が無いのは正三角形の一辺の両端からの角度60度の線が三辺が同じ長さでは交わらないことで悪霊が隅(すみ)でいるのではと考え 新築の建物の棟上式に四方餅(銭)の神事が出来てきたのではと考えます。以上の内容は渡来した話や古代人の足跡から私の幻想かもしれません。         紀氏でした。

『紀氏さんご指摘について』
管理人 2004年5月9日(日) 12:24:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人と石工の問題ですが、古墳の築造に関して、やはり地方の豪族がそれぞれ真似して古墳を作れるというものではなく、専門に巡りわたる職人集団がいたようですね。彼らの交渉、労働、資本、貯蓄、利益など、もはや想像でしかわからない世界ですが、イメージ的に「古墳築造人」みたいな感じでドラマ化してくれないですかね?先日またひさしぶりに狛江の亀塚古墳と兜塚古墳に行ってきました。思い出したのですが、亀塚古墳からは、高麗系遺物が出ているそうで、高麗系渡来人との見方が有力視されているようですが、大阪河内郡の鏡と同じ型だそうです。先の掲示板で紀氏さんご指摘にもあった、大阪河内郡の伊吹山および河内鋳物師と関連しての南河内郡美原町(反正天皇下では多遅比野、丹比郡)と、栃木の泉地方にある井吹里および渡来系遺跡との接合関連の話題を思い出しました。この大阪南河内地域からの高句麗系渡来人の関東への移住がやはり重要です。昨日は古墳のビデオ撮影もしてきまして、遺跡探索日記ページ「狛江・府中の渡来人遺跡探索」にも掲載しておきました。ただ最近はやりの遺跡のビデオ映像HP公開については、かなり撮影的に高度な部分が要求されてくるようで、なかなか課題が多いです。関東に派遣された渡来人の古墳には、・・体制論にしたがったらしい?前方後円墳とそうでない円墳とがあるということくらいはわかるかと感じます。さて、紀氏さんご指摘の平和解決のない戦争と、資本主義(軍需主義)者とイスラムとの関係ですが、私はやはりまだ生き残り引きずっている人が多いもう一方の主義による外交、それにももとづく協調、あるいは戦争という、今の時代に逆流した限界を今回示しているのだと感じます。やはり感情論に基づく主義教習所は卒業して、文化外交、宗教、精神面をある部分客観的にも真実を深く理解しあった上での平和的な外交の時代へと移ろうとしているのではないでしょうか。もっともどう今の権力者がかかわろうと古代史の真実が変化するわけではないので、真実をまず追い求めて公表していくことが重要ですね。
あと、紀氏さんご指摘の測量と矢と標柱祭祀、舞踏との関連、春から諏訪の御柱祭祀のことなど興味もっているところでしたが、わたしもいろいろ調べてみますね。


『訂正【矢】字解 』
茨の紀氏 2004年5月7日(金) 17:24:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 スミマセン訂正します。 【失】と【矢】では象形がまったく異なります。甲骨では矢の形ですが金文1では矢のなかほどが膨らみ金文2では鏃が横棒になり十字の形、篆文の象形では兀のような台の上に三本足のコンパスのような形。解説に矢(ヤ)は神聖なものとされ、たとえば誓約のときにそのしるしとして矢を用いるので【矢う】(ちかう)というよみかたがあるそうです。他に矢を折ることはちかうときの所作(しぐさ)で草木を斤(おの)で切って誓うことを誓う(ちかう)というが、矢をおることと草木を切断することは、誓うときの所作としてにているところがある。常用字解より(草木を切断することは野外での測量をしやすくするためだと思います。)    
私は矢を測量の道具と考えています。測量台に上から四方八方に紐をつけたやを射て(300mの飛距離が欲しいが、
矢を拾い300mの地点を決める銅剣を借りに刺す。)東西南北の方位の誤差は太鼓での合図か鏡での合図により修正する。鏑(かぶら・音の出る)矢・目立つような赤い矢・夜用の火矢なども使う。  矢といえば 利根川流域に撞つく舞(龍ヶ崎市)・津久舞(千葉県旭市)・しいかご舞(千葉県多古町)・蜘蛛舞(秋田県天王町)と言う民俗芸能があり室町から江戸初期に蜘蛛舞と言う曲芸、軽業がさかんに流行したそうだ。柳田国男はつく舞の「つく」の意味を澪標(みおつくし)との関係で澪(みお)とは、海や川などの流れの作用で川底が溝状に深くなった部分を示す船が浅瀬に乗り上げないように棒杭を澪標(みおつくし)と呼び【標】の字を【つくし】に通ずるとしているとのこと。大嘗祭での神饌(ぜん)用の食物に立てられる標(ひょう・しるし)の山と呼ばれ【標山(しめやま)と呼ばれる柱は祇園の【山】の柱を標の字で表わしていることに注目しているそうです。
このように柱を立てることは諏訪の御柱(おんばしら)などの神をまつるときの標識であり高い柱のてっぺんに神が降臨することでそこの登った者が神がかり、いろいろな離れ業を繰り広げるのは決して軽業ではないとも述べています。私は【山】や【山車】などの祭礼は【国見】(くにみ・地図作成のため)の測量のなごりが祭りに成ったと思っています。(【山】や【山車】を引く縄の長さと矛の高さで三平方の定理) 新築の建物の棟上式に矢の神事があります、柱のてっぺんでの離れ業(曲芸師)は大工さんだったかも知れません。    長くなりました 
茨の紀氏でした。

『字解ロスチャイルド』
茨の紀氏 2004年5月7日(金) 14:51:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ロスチャイルドを私なりに字解してみました。Lose (失う) child (こども)  【失】篆文の象形。手を上げて舞い踊る女の形(常用字解より)【失】基本説明・(私は数の【三】を天・仁・地と考えます。)【ノ】を天使がのり移ると考え、【人】は人間で【矢】(ヤ)の場合は天使がのり移った人となります(矢は人の変わりに目的を果そうとするからです。)【失】は天と仁が人を三つに切っています、すなわち死です。では人が死んだのになぜ『手を上げて舞い踊る女の形』なのでしょうか。それは『天使がのり移』った喜びなのか、私は愛するものを失った悲しみを激しく表現している姿だと考えます。そこで【天使】と【Lose child 失われた子供】! そうです、キリスト誕生なのです。(「Innocent’s Day」とは「12月28日」にユダヤの「ヘロデ王」が幼児虐殺をやった日である。「東邦の三博士」が「イエス・クリスト(キリスト)誕生」を祝って「ベツレヘム」を訪問し、「未来に王となるべき御子は何処にいますか」と「ヘロデ王」に尋ね、その預言を恐れた王が、「幼児を虐殺させた記念日」)なのです。ロスチャイルドとはキリスト誕生のときにベツレヘムにいた石工の幼児を虐殺させた親たちの複雑な心境が作り出した秘密組織だと思います。   ついでに、古代の人々は夜空の星を見ながら哲学してきました。人に理解出来ない事柄は神や精霊そして主(この世やあの世、全宇宙の創造神) などの存在を生み出しました。まじないや占いなどで人間は神や精霊との交信を始めました。まじない師や占い師の発言力が強まり、生存・権力・他の対立を生み創造と破壊の くりかえしが人類の進歩と滅亡の時を早めています。聖職者中には力ある王と肩を並べるかそれ以上の存在と成った者もいると考えられます。人間の進歩と共に知識の発達が神の存在を疑う様になり現在の世界に至りましたが今、地球上には沢山の神や神の使いといわれる方々が存在します。ある神は、私の僕(しもべ)は善で私に従えば幸せが約束されるとして、私に反する者は悪・悪魔などど敵対視させます。神が人間同士の争いを望むはずは無いはずです、争いは人類いや地球を不幸にしてきたのです。似非神たちの競争や利益のため不幸になる人々は増え続けています。このままでは少数の富める者達と多数の貧しい不幸な人々の世に成りそうです。神は人類の幸福のために存在すると私は考えます、人間を奴隷にするなどは 無いはずです。 思います、世界の軍事予算を生活に困っている人達の為に使ってはと、武器の製造販売で莫大な利益を得ている死の商人達とそのおこぼれで潤う政治家や実業家と呼ばれる獣物たち、有り余る財産でマネーゲームと称し何も知らない投資家を食い物にして益々太り少数の仲間と踊らされていることに気づかない自分の 信者達だけで天国に住もうとしている。 それでいいのか!  戦争は人減らしの手段か!   渡来人から掛け離れたことをお詫びいたしますスミマセンでした。   いばらの紀氏より

『このままでは』
茨の紀氏 2004年5月7日(金) 6:40:22 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人は遂にたどり着いてしまった様です。バビロニアの石工がバベルの塔の崩壊後エジプトでピラミッドを建てモウーゼに連れられ東へ(世界へ)中国では万里に頂上を日本では古墳や石造物を。仏教が伝わると石工(フリーメイソン)から台工(大工)の太子講(聖徳太子が作った日本版フリーメイソン)へ。現在の日本の中枢はフリーメイソンにより操られ、このままではロスチャイルドを神と崇めることと成るでしょう。なぜイスラムを資本主義(軍需産業)は恐れる。       黙示録(黙って言おう。)

『曲学さんへ』
茨の紀氏 2004年5月6日(木) 17:8:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 伊裝諸尊×伊弉冉尊ー綿積豊玉彦 ×豊玉昆売命(彦火々出見命后)ー振魂命ー天前玉命 × 天筑摩命ー高倉下命ー天押人命ー 阿麻刀彌命ー建田背命 [海部直祖・丹波国造祖]・建宇那比命 ・建諸隅命[雀部連祖・伊福部連祖]・建田知命[波多国造祖]・ 建多乎利命 ・ 乎止与[尾張国造祖・建彌阿久良命[高屋大分国造祖]・建麻利尼命[石作連祖]・建手和彌命[身人部連祖]
系図からすると建宇那比命 が宇那比姫命(うなびひめのみこと)とすると たしかに建田背命 [海部直祖・丹波国造祖]と繋がります。      紀氏でした

『斎、屯倉、倭姫』
管理人 2004年5月6日(木) 16:46:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、曲学の徒さんまたまた貴重な情報ありがとうございます。紀氏さんのおっしゃる常陸国風土記のお話、田と標識と縄張りの伝承と見えますが、蛇と浜、角折れの話などギリシア・聖書神話的な類似要素もあるようですね。古墳の測量点としての側面については、古墳の祭祀場としての側面を考慮すると、古墳上部での祭祀自体は、方位面であまりまちまちだったのかなとも感じますが、測量面で古墳の向く方角との関連はみえるでしょうか?また堀を作るということについて、またご指摘の祠の事例のように、ある意味水流・地形などとの関係でなにか長期的にその古墳を保存させるような目的はあるのでしょうか?斎を「イ」と読ませる件についてですが、奈良前半までは「忌」→後半ごろから「斎」が主に使用されたようですね。どちらもご指摘のとおり「イ(ユ)」ですが、斎宮について「イツキノミヤ」と読ませるのは、いつごろかと感じます。本来「イミ(キ)ノミヤ」になりそうなものですが、天武の時代に忌寸で「イミキ」というカバネを持つ氏族が現れます。中には大倭忌寸という渡来系ではないのですが、大倭神社の在地祭祀氏族が見えます。調神社について「ツキノミヤ」と読ませる件、後代「ツキ」→「月」から月読神伝承へと発展したそうですが、「調」→「ツキ」→「月」への変化自体は、発想としては簡単で、調宮成立後すぐに起こったか、もしくは後代下地になる月伝承の基盤が影響して起こったかのどちらかだと思います。秦氏の関係する八坂神社において、稲田比売がインド風に婆利女と訳されているとの件、ある種秦氏のかかわる神社に独自性が生じる可能性を考えさせられます。秦氏と弓月君伝承などとの関連も考えてみるといいかもしれませんね。
曲学の徒さんご指摘の倭姫に関して、海部氏系図に大倭姫と見えるとの件で、HPも拝見させていただきました。記紀と海部氏系図はかなり相関性が高いようですね。実際海部氏系図に孝霊天皇の時代に大和に出向いた姫君の話がでているようで、記紀伝承の倭姫の原型として海部氏系図の大倭姫が位置する可能性が気になります。またその地の屯倉と姫君の話も記されているのは興味深く感じます。しばらく忘れていたのですが、中世の『倭姫命世紀』に疫病から逃れて吉備、三重などの近畿周辺諸国をさまよう倭姫の話がでていますが、なぜこのような伝承ができたのか、漠然とですが、上記の諸所の地方伝承の問題とかかわっているように感じます。少し日記のほうも付加修正しました。あと、調神社経由での伊勢への調の貢納の件、調運搬にかかわるシステム論として、常に「斎」の場を経由して運ばれるということについて、どういう理由があるのか、屯倉の機能としてそれがひとつの制度化した側面としてあったかどうかなど、考えさせられます。



『この人が卑弥呼』
曲学の徒 2004年5月5日(水) 22:59:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信  京都府の日本海側、『天の橋立』で知られる宮津市の『籠(この)神社』に、海部(あまべ)氏の古い系図がある。
平安初期貞観年中に書写された略称『祝部(はふりべ)系図』(本系図)と、江戸初期に書写されたより詳しい『勘注系図』(かんちゅうけいず)である。
現存する最古の系図として国宝に指定される。

『勘注系図』は初代彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命(たけだせのみこと)と並べて、とてつもない尊大な名を持つ一人の女性を記す。

宇那比姫命(うなびひめのみこと)、天造日女命(あめつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たけのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)である。何れも一人の女性の別名である。

先ず最初に注目されるのは『大倭姫』である。大倭姫と言うのは地方豪族の姫の名ではない。
『日本書紀』を見ても、大倭(おおやまと)と大の尊称のは、天皇名くらいのものである。この人は天皇と同格の尊称を持つのである。

もう少し詳しく見てみよう。
宇那比姫というのは、建田勢命の、またの名を大宇那比(おおうなび)と云うから、兄弟かもしれない。幼名または本名であろう。
天造日女命は天下を造った姫という意味であろう。
竹野姫はこの一族が『竹』あるいは『建』とよばれることによる。
大海靈姫(おおあまひるめひめ)命の『大海』はこの一族が『海部(あまべ)氏』と名のるように『海(あま)』に尊称の大がついたものである。興味深いのは靈(ひるめ)である。巫女(みこ)の意味を持つ。
ご存知のように『魏志倭人伝』は卑弥呼が『鬼道を事とし』とする。
『後漢書倭伝』は『鬼神道』であるが、いづれにしても、巫女の要素を連想させる。この名もまた靈姫(ひるめひめ)すなわち巫女姫(みこひめ)なのである。
最後極めつけは日女命である。読みは『ひめみこと』であろう。
魏の使者がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。

この国宝は真っ赤な偽系図、それとも史実の一端を伝える。あなたのご意見をお聞かせください。


『休日の紀氏』
茨の紀氏 2004年5月5日(水) 15:26:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 この前、神魔精妖名辞典:「い」行.htmより】を見て【Tアイ】の文字が【愛アイ】から来ているでは【Tアイ】の文字からの神・魔・精・妖の名前をヘブライ語にの意味を知りたき思い救いを求めました。【Tアイ】の文字には【Iesou Christos 】イエスやイシス(早稲田大学エジプト学研究所が発行したエジプト調査の歩みのなかにローマ時代の集落域イシス神殿の土器の中には十字架の刻印を持つものもあり、エジプト土着のキリスト教(コプト)文化との関係がうかがわれると有りました。)など興味がいっぱいです。(「い」は、恐れ多く直接御名を呼ぶことをはばかるとき使用された。別に、「斎」は「い」と読まれ、神聖であること、タブーであることといった意味をもつ。「い」は、神を指す「それ」とか、「もの」とかいった代名詞であった。)などの記載もあり、他にシュメールの、iは5、xuは10、ixuでイシゥで50 (5は易陽こうで帝王の位。) 五十猛命(いそのたけるのみこと)素戔嗚の息子、「五十猛命」(いそたける)はソシモリから父とともに遣ってきた。樹木の神として尊ばれている。始皇帝の姓、贏(ユウ)は、五十の意味であったそうです。牛頭大王は「ごづ」と読まれる。牡牛を「ゴ」と発音するのもサンスクリッド読みで梵字辞典に、[go」は男性名詞 牡牛のこととあり(godのDは何だろう?) 稲田比売命(いなだひめのみこと)は、八坂神社では、かつて婆利女(婆利采女とも言われている。)として祀られていた。采女(うねめ)とは女官のことで「婆利」とは、BALI、つまりサンスクリッド語そのもので読め、サンスクリット語のBALIの意味は、生け贄の供物で婆利釆女は【生け贄(犠牲=キリスト)のヒメ】という意味になるそうで、などなど世界の神話は繋がっている様で楽しくてたまりません。
         ゴールデンウイークの紀氏でした。

『訂正』
茨の紀氏 2004年5月5日(水) 11:35:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 またまた訂正します『葦原を切り、耕して開き、新たに田を治めた。この時、夜刀(ヤトゥ、ヤチ?)の神が仲間を引き連れ、何かをする度にやって来ては邪魔し、作業させなかった。』『ここより下は人の田を作る。』と記されています。の後に、『ちゃんと祭ってやるから、怨んでくれるな。』これは田を作ろうとしている場所に測量での【三角点】の構築物が在り、それを破壊されるのをいやがり交渉の現われていたのではと閃きました。それで『ちゃんと祭ってやるから、怨んでくれるな。』田の中に祠を祭る水田を見かけることが多くあります。度々スミマセン。

『角折れ浜』
茨の紀氏 2004年5月5日(水) 11:14:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 訂正いたします。私はキリスト教徒が世界を測量し地図を作ったと考えております。日本に渡来した景教徒が三角測量での二つの角が交わる点を『角折れ浜』の東方の海の中にな為るためトラバースする事となり、水準点(半永久的な構築物)を築くために『浜を掘って穴を作り』ていたのでは?『蛇の角が折れ落ちた』とは正三角形が完成出来なかった事を表わしていると思います。いかがでしょうか。
茨の紀氏より

『茨城への伝道師』
茨の紀氏 2004年5月4日(火) 23:47:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信  楽しい連休お過ごしと思います。常陸国風土記の記述から、「古老が言うには、継体天皇の御代、箭括(やはず)の氏の麻多智という人がいた。郡の西の谷の葦原を切り、耕して開き、新たに田を治めた。この時、夜刀(ヤトゥ、ヤチ?)の神が仲間を引き連れ、何かをする度にやって来ては邪魔し、作業させなかった。そこで、麻多智は大いに怒り、甲鎧を着け、自ら矛をとり、夜刀の神の群れを打ち殺して追い払った。山口まで至って、境界の堀に大きな杖を置いて標とし、夜刀の神に告げて言った。『ここより上は神の土地とすることを許す。ここより下は人の田を作る。』と記されています。の後に、「ちゃんと祭ってやるから、怨んでくれるな。」という言葉が続くのですが、これは『夜刀(ヤトゥ、ヤチ?)の神は』ヤフェー・ヤソー耶蘇(ヤソ=キリストのラテン語Jesusの中国語音訳)キリスト教の伝道師だったのではないでしょうか? 、「ちゃんと祭ってやるから、怨んでくれるな。」という言葉はキリストを祭ることでは?布教活動が作業の邪魔だったのでは? 香島郡の記述には、 「その南にある平原を角折れ浜という。昔、大蛇がいて、東の海に行きたいと望み、浜を掘って穴を作り、蛇の角が折れ落ちたことにちなんで名付けられたという。」『東の海に行きたいと望み』とは東方へ布教にこだわる原始キリスト教徒だったのでは考え過ぎでしょうか?     茨の紀氏でした

『調神社、大山阿布利神社』
管理人 2004年5月4日(火) 6:52:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、みなさんこんにちは。先日ちょうど健康上通っている東大宮駅前の病院がありそのついでに紀氏さんご指摘の浦和の調神社に行ってきました。ほんとにウサギが狛犬と入れ替わっており、驚きました。そのほかいろいろ不思議な独自性を持つ神社ですね。昨日はまたふと家族から聞いていた大山参りで有名な大山阿布利神社に行って参りました。眼下の雄大な景色をみるにあたりひさしぶりに自然と祈りの場の神秘さとを感じさせられました。本HPの遺跡探索日記に掲載しましたのでぜひご覧ください。今回はようやくノートパソコンのバッテリーも手に入り、ライブカメラを使って撮ったビデオ映像も掲載しています。(もちろん社務所で映像・HP公開許可を得ています。)後でビデオ比較してみると、いろいろわかることがありますね。あと紀氏さんご指摘の魚がキリストを象徴すること、現在でもキリスト教関連の物品には多く使用されていますね。古墳出土の剣につく双魚型については最近買った本(『藤ノ木古墳〜日本古代の遺跡を探る5〜』前園実知雄・白石太一郎著・読売新聞社1995)によると新羅からも同様な魚型が出土しているそうです。あとお悩みのヘブライ語に関しては、私もわからないのですが、近くの教会の神父さんあたりに聞いてみてはどうでしょう。対外神学校でヘブライ語など習っているはずなので、その方があまり詳しくなくてもほかの神父さんや学者さんを紹介してくれるかもしれません。ではまたみなさんよい連休をお過ごしください。

『【愛アイ】は【IN】から始まる?』
茨の紀氏 2004年5月3日(月) 14:57:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさん いかがお過ごしでしょう? ゴールデンウイークなのにパソコンの前の私です。【C:\WINDOWS\デスクトップ\神魔精妖名辞典:「い」行.htmより】を見て思いました。世界中に布教に行った原始キリスト教徒(土地の住民からは渡来人)の栄華や苦悩・挫折が見えてくるのです。以前バベル文字と言われるアルファベットの原型の様な文字の字解を試んだときの【IN】から始まる英単語を想像しましたが【Tアイ】の文字が【愛アイ】から来ているでは、ヘブライ語・ヘブル文字に堪能な方 私をお救いください。    茨の紀氏よりの御願い。

『【愛アイ】toIN】から始まる』
茨の紀氏 2004年5月3日(月) 14:53:39 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様いかがお過ごしでしょうか、ゴールデンウイークなのにパソコンの前の私です。【C:\WINDOWS\デスクトップ\神魔精妖名辞典:「い」行.htmより】を見て思いました。世界中に布教に行った原始キリスト教徒(土地の住民からは渡来人)の栄華や苦悩・挫折が見えてくるのです。以前バベル文字と言われるアルファベットの原型の様な文字の字解を試んだときの【IN】から始まる英単語を想像しましたが【Tアイ】の文字が【愛アイ】から来ているでは、ヘブライ語・ヘブル文字に堪能な方 私をお救いください。    茨の紀氏よりの御願い。

『魚問の答』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 14:6:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さんへ  魚紋の説明=キリスト教における特別な意味。魚は欧州でも古くからオリエント地方などで豊穣の象徴とされていた。また3ー5世紀になると、魚がキリスト教の象徴として使われ、カタコンベなどに描かれた。これは、ギリシア語で「イエス・キリスト、神の子、救世主」("Iesou Christos Theou Hyios Soter") の頭文字を取ると、「魚」('ichys')になることに由来している。初期のキリスト教徒が迫害に苦しんでいる頃、「魚」は秘密のメッセージの具体化であった。そして、洗礼式の制定により、魚もキリスト教徒も(洗礼の)水なくして生きられない、という言い方がされた。かし4世紀のうちに十字架がキリスト教徒の公的なシンボルとして興隆するにつれ、シンボルとしての魚は没落していくのである。20世紀に至り、魚のアクセサリーは、キリスト教徒が旅をする時に最も売れているもののひとつとなった。が、その特別な魚のしっぼには刺がある。キリストが現れる以前の何世紀もの間それは大地母神の生殖器を表すセクシャル・シンボルであった。時にそれは子宮を意味しまた時にはヴァギナを意味した。前述した中国のように非キリスト教国では、このセクシャル・シンボルである「魚」がいまだ多産のお守りそして命の再生の象徴として存在している。

『うさぎ神社』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 13:18:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信 忘れてました、正真正銘のうさぎ神社です。有名な三井寺の境内に隣接する卯の年卯の月卯の日卯の刻に卯の方角から現れた三尾明神を祭る、三尾神社です。 滋賀県大津市、琵琶湖から京都に水を引く疎水(そすい)の起点です。(治水事業は、禹(う)と関係?)三井寺には役行者(役小角)と前鬼後鬼の像と新羅明神象が在る秘仏の寺(テラ)?地球?。中国にう人 羽人という天使か悪魔の様な像や絵図があります。私はそれは禹(う)だと思います。
              棘 キリストの冠

『トライ』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 12:36:27 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来=トライ=TRY(やってみる)=挑戦(チョウセン)=朝鮮で思い出しました狛犬の代わりに兎の神社がにあります。埼玉県浦和市の「調(つきのみや)神社で思い出しました。白河の関の白河神社の狛犬の顔が羊の顔に見えるかも、神社を中心に円形の路が在る(円形集落?)円形古代都市は外国に在った様な?白河神社に芭蕉が来てる(幕府隠密?)空海も芭蕉のようなことをしてる。結果、土地の住民は昔の掟を知るものはいない(少ない?)とか言った話を思いだした。

『兎来』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 11:49:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 白で思い出しました。むかし話の因幡の白兎は夏(カ)王朝の祖である禹(う)カノウ(叶)の一族ではないでしょうか。禹(う)の歩き方は【兎歩】(ウホ)として修験道に伝わっています。【渡来】のとはうさぎの兎(ト)からの和製漢字ではないでしょうか。兎を検索すると神秘的な事柄が沢山有りますゴールデンウイーク インターネット三昧、目や健康に御注意を。茨の紀氏でした

『おわびと訂正』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 10:55:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 文字が化けスミマセンそれにバカラではなくカバラでしたバカラは賭博で私の頭(馬鹿・空)でした。馬と鹿は春日の神と八幡神の乗り物です。閃きの投稿のため皆さまにはご迷惑をおかけしております。スミマセン大目に見てください。             茨の紀氏より

『虎狛』
茨の紀氏 2004年4月30日(金) 10:30:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 虎狛神社の虎と狛の字解を夏(カ)王朝の祖である禹(う)が漢字を考えたとして字解してみました。結果【虎】は虙犠(フッキ)犠は(いけにえ)中国の伝説上の帝王。(伏羲・虙妃・宓妃)洛水の神)八卦を作り、ついで神農が縄の結びを契約の印とした黄帝の史菅「倉頡」(そうけつ)が鳥獣の足跡から文字を作ったとされているが【トラかんむり】の文字の字解から禹(う)が虙犠(フッキ)にしいたげられ、むごくされ・むなしい思いをしていた事が読み取れます。すると神農が縄の結びを契約の印とした【神農】は禹(う)と思われ、「縄の結びを契約の印」は【三平方の定理】だと思います。禹(う)は異民族だが才能をかわれていた、父【口鯀】は長江?黄河の治水に失敗し殺された。(字解をしていて【鯀】は、川の崖か堤に瓶に逆さに入れられ生け贄にされたと思われる。)漢字の【口・白・臼・その他口類】は【鯀】を表わしていると思える。禹(う)は景教徒と思われ漢字には、旧約聖書の内容が多く含まれる。(バカラ・秘密主義・隠れ身の術)のため混乱させられている。【狛】は駒?【犭】(けものへん)は野獣?悪魔?【白】は【鯀】が生け贄に成った後の舎利頭・ドクロ・頭骸骨(人間の頭骸骨を焼いて【⊢】で叩き割れ目を見て吉凶を占う 【鯀】が生け贄に成り後の禹に霊的助言をした。即ち【狛】は禹の父とされている【鯀】ではないかと思われます。  茨の紀氏より

『武器、祭祀、鏡』
管理人 2004年4月30日(金) 10:0:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、またまた書き込みありがとうございます。だんだん、巫女さんのお告げと解釈する審神者みたいになってきましたね。漢字の起源ついてよくわからないんですが、中国起源の武器のそれと、さらに農耕祭祀とかかわる武器のそれがあるんですね。中国のそのような武器といえば、先のキトラ古墳に描かれた虎が持つ矛が話題なようですね。中国の当時の壁画では虎は武器を持たず、後の時代に朝鮮のそれは武器を持つとされ、中国系か朝鮮系かで意見が分かれているそうです。キトラ古墳というと、その星宿図が紀元3世紀までの高句麗付近の星空ということで、壁画古墳としても高句麗的要素が強く、7末という時代設定から行っても高句麗系亡命渡来人の壁画技術者あたりが想定されてきていますね。その矛を天皇の前で持つという意味については、天智紀あたりに将軍に刀を授ける節刀儀の前身らしい儀式として、矛を天皇が授ける儀式が行われたようで、これもどういう起源かが問われています。その矛がどういう意味をもっていたのか、単なる武器なのか、ご指摘の漢字の起源のように農耕儀礼もかかわるのか、天皇の霊威の身代わりとしての刀のように、ご指摘のような「代わる」「イケニエ」の意味があるのか、課題ですね。あとご指摘の三種の神器の鏡の話、鏡については、諸説あってわかりません。剣については、藤ノ木古墳から出土している和製の魚型(2つ)つきの金装太刀あたりが、伊勢の神宝にもあるように、レプリカふくめて伝達した可能性もあるようには感じますが・・・。そのような刀が天皇と関係する事例は、漢氏の配下の文氏が天皇にささげた二本御祓いの太刀があります。これはやはりその解除の儀式で天皇が息を吹きかけるわけですが、そのとき唱えられる東西南北の諸神を拝む祝詞が延喜式に記載されてます。どうもこれが当時の中国のものでもなく、古い漢時代あたりの祝詞と私はみています。なぜ帯方郡・高句麗経由で来た漢氏系渡来人の祝詞は古い中国式なのか、それはまたキトラ古墳の壁画の星宿図のそれも、古い3世紀代のそれなのかということとも、案外かかわってくるのかなと感じますがどうでしょう。キトラ古墳が檜前寺を超えて漢氏の支配領域に立っているのも偶然ではないかもしれません。鏡と双魚についてはもうすこし調べてみます。

『深夜の妄想』
茨の紀氏 2004年4月28日(水) 4:15:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信 床に着いたけれど寝つけません。亡くなった前日本マクドナルド社長、故・藤田田氏が心から離れません。35年ほど前に藤田氏の著書「怪物商法」を読み、その中で「私は銀座のユダヤ人」と書かれていました。ユダヤ人?商才に長けているからだろうと気にも留めませんでした。今、藤田氏の経歴 戦後東大生の時、アメリカ進駐軍の通訳をしてたことを知り もしやマッカーサーの通訳もしたのではとの妄想にかられ皇居に在った天皇陛下も見ることの出来ないと言われる三種の神器一つ「八咫の鏡」のレプリカを見たのでは、見ていればマッカーサーに何と説明しただろうか鏡の裏の4文字のことを。マッカーサーはフリーメイソンだったらしい。藤田氏は渡来人の秘密を知ってしまったか?(私は古代日本を調べた先輩、水戸光圀の大日本史の内容を知ることが出来ません。)

『再訂正』
茨の紀氏 2004年4月27日(火) 19:22:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 スミマセン(心に弋の字)です。

『訂正』
茨の紀氏 2004年4月27日(火) 19:7:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 スミマセン【忒】は【忒】です。
マタマタ確認を怠りました。

『【皮】は【代わ】り』
茨の紀氏 2004年4月27日(火) 18:45:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん御指摘有難うございました閃きを再確認せず思いのまま発言する軽率な私にこれからも宜しくアドバイスしてください。 
 割礼での【皮】は漢字の【彼】(かれ)に使われています【皮】は川(水神・海神・魚神)に奉げられたのでは?の 答え=生け贄の【代】(かわり)に使われたらしい。【代】の【弋】の古い字形は又になった枝の様な先がとがったものの形。(それを地面に突き立てて、杙(くい)にして牛などをつなぎ、また、武器にも使った。(角川中辞典より)杙(くい)にしての【杙】では無い、地面に突き立てて(古代農耕民族は作物の豊穣を祈り大地に穴を掘り男根を入れ射精するまじないをした事を思いうかべた。)白川静先生の戚(まさかり)では無いと思える。【忒】トク(ちがう)(かわる)の意味から【心】=心臓=命 【皮】は命の代わりに神への忠誠の証として奉げたが神は気を悪くし(ちがう)言った。マタマタ私の推測でスミマセン無視して下さい。

『尺度、条里』
管理人 2004年4月27日(火) 3:56:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 紀氏さん、さっそく高麗の一里→600メートルの由来について詳しくお教えいただきありがとうございます。確かに紀氏さんの計算から行くと、一里→一歩:六尺×三百歩×一尺(天平尺):0・297mで600メートルになりますね。ただ、飛鳥寺の高麗尺は35センチとされすので、700メートルが高麗の一里にならないでしょうか。ただし、高麗でも唐尺が使用された時代ああって、その時代の高麗の渡来人なら唐尺で計算してもとは思いますがどうなのでしょう。先の班田制度の条里に関しては、この場合、一里→360歩(約648メートル)だそうです。さらに1区画を36等分(6×6区画)したものを「坪」というとありますから、条里の360歩の由来も(60×6,30×12)でしょう。それで240、120歩という単位がでるのかとも感じますが、そうすると、逆算して1歩:6尺×360歩→一里=2160尺=648メートルから1尺→30センチとなり、一里と1尺は当然のことながら対応していて、よく考えてみると数字6に関係してあたりまえですね。そこで、また仮に高麗尺35センチで1里300歩で計算すると700メートル、360歩で計算すると、840メートルの条里区画ができますね。ただし、高麗の条里がありかどうかもしりませんし、6×6単位かどうかもわからないのですが、飛鳥寺の場合、250尺、75尺という単位がでているので、すこし5もしくは7系統の単位計算になるかもしれません。その辺で計算して600メートルで出てくるとするとと思うのですが、高麗の尺度の時代別の変遷も調べてみたいです。尺度に関して詳しくはこちらでしたhttp://www.dcn.ne.jp/~kozoku/Kodai-shakudo.html
http://www.bukkyo-u.ac.jp/mmc01/shuu/HG2003.html

ただ、唐尺30センチか、高麗尺35センチかをもとに、紀氏さんのおっしゃるとおり一里塚みたいに、古墳や社が設置された時代や地域があるとすると、当然6,700メートル単位で遺跡がでてくることもありえますし、その単位をもとに正三角形上に古墳が配置されるようなことがあっても不思議はないと思います。紀氏さんの新著にもその辺古墳と測量単位との関係について述べられている意味がようやくわかってきたのですが、特に紀氏さんの住まわれている茨城周辺の古墳、特に虎塚古墳のような高句麗壁画とも関係すると思われる壁画古墳とその古墳同士の距離関係、位置関係が具体的に高麗系渡来人とのかかわりのなかで明らかにされてくるとすると、発展論が出てくるような気がします。最近話題のキトラ古墳とか、高松塚の壁画古墳と、その周囲の渡来人関連の遺跡との距離関係も、尺度単位で計算しなおしてみるのもおもしろそうです。同じく紀氏さんご指摘の大阪河内郡狭山と栃木の河内郡の地名の一致地域での条理尺度、高麗郡周辺の条理尺度も調べていけば、高麗人独特の尺度がでてきたらとかふと思います。あと、景教と魚や星の信仰の問題、すこしまた知っそうな人に聞いてみます。


『陰と陽』
茨の紀氏 2004年4月26日(月) 10:2:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 また閃きました、スミマセン。景教徒(東方基督教徒)はキリスト教以前には星を信仰していたのでは、太一神(北極星)を?西方教会(ローマ・カトリック)=一神教=太陽でギリシャ神話のゼウス、生け贄は羊、対して景教徒(東方基督教徒)は基(もと)多信教・海洋民族では=ポセイドン(海・産みの神)生け贄は土から取れた物(アダム・人・割礼での皮)・農作物。旧約聖書のアベルとカインは兄弟としてますが、アマテラスとスサノオのように2大権力者だったのでは?陰(インの音の漢字の意味するもの)と陽(ヨウの音の漢字の意味するもの)思想から。割礼での【皮】は漢字の【彼】(かれ)に使われています【皮】は川(水神・海神・魚神)に奉げられたのでは?キリスト教の初期のシンボルは双魚でした、考えすぎでしょうか。話題が逸れスミマセン無視して下さい。

『600メートルについて』
茨の紀氏 2004年4月26日(月) 4:22:0 削除・編集 スレッドの一覧・返信 高麗の一里は600メートルとの記憶を裏付ける資料がパソコンのエラー666で消失し定かで無いので検索し直しましたが見つかりません次の内容でお許しください。【七里ヶ浜】の由来に浜の長さが鎌倉時代の単位(一里600m)でおよそ7里あった事からこの地名がついたと有りまた、日本計量史学会の多賀城跡の古碑「壺の碑」の真偽論と天平尺 吉田和彦氏によると奈良時代の里程は和銅の制による六尺が一歩、一里は三百歩がとられているそうでまた一尺は、同時代の天平尺(正倉院と法隆寺に伝存するものさしで一尺が二九・七cm)と平城京尺(計量史研究、岩田重雄氏調で一尺は二九・八二cm)を参考にすると碑に書かれた里程が判読出来るとの事、しかし最近の本物肯定論は、別図にあるように、碑文の枠を設定した長方形の寸法、縦一二二cmを天平尺四尺。横七九cmを同二・六尺として論拠の一つにあげているが、これには少なからず疑問を感ずるそうでこれによると一尺が三〇・四〜五cmとなり、江戸時代に入るまで伸長を続けて来た尺度寸法が、その伸長が止まり、ほぼ現在の尺度と同じ長さになった頃の寸法となり、碑の本物肯定論と逆の検証をやったことになるのではないかと有りました。そこで私は【七里ヶ浜】の由来(鎌倉時代の一里600m)一尺が三〇・四〜五cmで無く三〇cmと考え三〇cm×2000=600mとしました。私は車で移動する時に昔からの道では寺社・祠・塚・橋・辻などが600m間隔に有り先日、鹿島神宮へ行く途中600m目に道路右脇に古墳が現れたので古墳は行基図の測量台だったとの自論に自信を深めました。古代日本の文字や数メートルの単位がを考えだした民族を知るとき渡来人のルーツが見えてくるかも知れません。

『高麗の一里』
管理人 2004年4月26日(月) 1:2:26 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨のきしさん、どうもこんばんは。数字にかかわる古代史、興味深いです。高麗の一里は600メートルだそうなのですが、その辺詳しくお教えいただけないですか?現在の朝鮮の一里だと3.9273kmだそうですね。魏志の一里は短里で55メートルとか、時代と場所でいろいろですが、測量の里計算の古代での流れはどういうふうに移動していったのでしょう?数字の6の問題、以下のHPを見つけてみたのですが、日本の班田収受法と6との関連が極めて深いつながりをもっているのは、不思議です。その辺ぜんぜん勉強不足で申し訳ないのですが、みなさんにお教えいただければと感じます。
http://homepage1.nifty.com/keimurata/mm/b/06/mm231.htmから
「 班田基準は、良民男子は2段(23アール)、良民女子は良民男子の3分の2に当たる1段120歩(15.6アール)、賤民男子は、良民男子の3分の1に当たる240歩(7.8アール)、賤民女子は良民女子の3分の1に当たる160分(5.2アール)が与えられた。ちなみに、1段は360歩であり、だいたい11.7アールである。しかし、賤民の中で、官有の陵戸と官戸、公奴婢は良民と同じ面積の土地を班給されている。

 班田収授を行なうために、灌漑施設を整備したり、条里制に基づく土地配置などの整備が行なわれた。条里制とは、土地を360分(約648m)四方の正方形に区画し、南北に一条、二条、……、東西に一里、二里、……と称し、何条何里と表示した。1区画はさらに36等分され坪と呼んだ。

 口分田は、易田{やくでん}と呼ばれるやせていて隔年でないと耕作できない土地を与えられることもあり、その場合は規定の2倍与えられていることになっている。また、令の規定に「其の地に寛狭あらば、郷土の法に従え」とあるので、実際は必ずしも規定通りにというようにはいかなかったようである。

 原則として、口分田は居住地の近くに与えられるのが原則だが、子が親の田の隣に与えられることは少なかった。また、越前国では、居住地から7〜10キロも離れていたり、志摩国(今の三重県志摩地方)では、田地が少ないとの理由で、尾張国の口分田を与えられたりということもあった。耕地は不可能であるから、小作料である賃租をとって賃貸することが行なわれていた。実際、現在も志摩半島に田地はあまり多くない。班田収授は水田について行なわれたものであって、畑や宅地はその対象外となっている。


※※※
史料引用・田令…史料の{ }は読み、( )は意味を表す
 凡そ口分田を給はむことは、男に二段、女は三分の一を減ぜよ。五年以下には給はざれ。其の地に寛狭あらば、郷土の法(その地方の慣習法)によれ。易田(地味がやせて、一年おきに耕す田)は倍して給へ。給ひ訖{おわ}りなば、具{つぶさ}に町段及び四至(東西南北の境)を録{しる}せ。

 凡そ田は六年に一たび班{たま}へ。神田・寺田は此の限に在らず。若し身死したるを以て田を退{かえ}すベくんば、班年(班田収授をする年、六年一班の年)に至らむ毎に、即ち収り授{たま}ふに従{よ}れ。(『令義解』)」

『かごめの歌と666の謎の追伸』
茨(棘)の紀氏 2004年4月22日(木) 7:57:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信
 管理人さん今晩はいやオハヨウかな?夜が明けちゃいました! しばらく見てないうちに夏王朝が話題となっていてとてもうれしいです。話のこしを折ることをお許しください 布団のなかで閃き報告いたします。読み終えたら無視して続けてください。

 聖書の中の野獣(けもの)の数666の謎が解けたと思いこんでいます。
本のなかで6:6:6が正三角形を描く時の縄の長さの割合のことは管理人さんには
お伝え出来たと思います。内角が60度:60度:60度であることも
これに、高麗の一里が600mで一辺の長さが600m×3=1800mの
カゴメの紋様が行基図の三角測量での1区画ではないかと思います。
正六角形 亀甲文 ユダヤのシンボル、ダビデの星でした。
どうやら世界地図はユダヤ・キリスト系の人々が係わった様です。
世界の古代文字の多くもその様ですて誰かが言ってました。
ちなみに6×6×3=108 人間の煩悩の数108です。
6×6×6=216 人間の煩悩の数108の倍です。
今度は安部清明の正五角形 ピタゴラスのシンボル五芒星です。
安部清明の五芒星が古墳による測量の誤差の修正に使われた思います。
72年に一度の「磯出大祭」と五芒星の内角72度が関連していると
思い込み閃きました。(5は占いの陰陽五行の5でもある) 
360÷72=5 (火星 水星 木星 金星 土星)
72は6の倍数で12倍で五は帝位・天の位・帝王の位で72をかけると360
360度なのです。正五角形で構成される正12面体は地球の軌道に
内接するので神の立体・「黄金立体」とよぶそうです。
地図上のカゴメの紋様のポイントに五芒星の☆の形が重なるとき
一辺が600m×12=7200mの☆のポイントが重なる寺社が重要。
12は(72÷6=12)ちなみに360÷12=30 (一ヶ月)
易の八卦の8 古墳の鏡 内行花紋鏡の8 九星占いの9で 
8×9=72 72で天は一周する事の様です。
4000年前の古代 星占いを考え出した先人の天文学・数学の知識の
驚きです縄文の日本のどこかに住み着いていたかも知れませんね。
殷に滅ぼされた夏王朝の末裔が東の海中の島に逃げ込んだそうです。
夏の禹王はシュメールの血を引く者の様です。
渡来人とほど遠くなり済みません。
今後を楽しみにしております。

『RE『古代はここからとらい』』
管理人 2004年4月15日(木) 22:33:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 kojimaさんはじめまして。夏王朝の論については、ほとんど知らないのでなんともいえないのですが、また教えてください。古代紀元前からの中国から日本にかけての稲作文化の流れについてや、ドンソン文化圏の流れについては考古学でいろいろ研究され発展してきているようですね。日本人のうちどの辺が渡来人か、どの辺が原住民かという観点はいろいろ説がありますね。弥生人は大陸系、縄文人は原住民という感じで把握するケースが多いですが、縄文人の文化もやはり外来系要素があるとする人もいるようですね。魏志倭人伝の記述などは縄文人のそれとする人も多くいますが、中国南方系の文化とする味方もできるわけですね。たとえばヒミコの巫女祭祀などの呪術要素に縄文以来の祭祀要素を見出す人もいますが、また中国南方からの銅鼓をともなうような祭祀との関連も想定すべきでしょうか。中国南方から朝鮮を経由して北九州にかけて広がったドンソン文化の流れについて、もしヒミコがその文化圏の人なら、ヒミコは九州にいたというほうが自然なのかなとも感じますがどうでしょう。私個人としては、夏王朝までさかのぼるかどうかはわかりませんが、大月氏の分散から中国南方を経由して朝鮮南部にいたるある種「神獣」に関する精銅技術などを通しての文化的な流れと、魏志の公孫氏あたりを経由して朝鮮南部にいたり日本に渡来した古い渡来人とその文化との接合に関して銅鼓、銅鏡祭祀との関連と合わせて、重要な日本文化のひとつの要素を見出すことができるのではないかと考えています。その上でその要素と分離したところで原住民たる縄文人の文化のあり方を考えていくことが前提かなと感じますがいかがでしょう。ではまた今後ともよろしくお願いします。


『古代はここからとらい』
kojima 2004年4月15日(木) 9:36:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人といえば日本人全てが渡来人であろう。
どこから来たのかが、邪馬台国にかかわる。
掲示板のホームではいろんな邪馬台国が出ている、それが皆いい加減な説に執着していて、本当の事をまったく知らないから諸説ばかり出てくる。
古代をしるには渡来人を知ることが大切である。
まとめて語るとけものに始まる日本の古代であるが、
それは何処から来たのか知ればいい。
これは古代の中国の夏王朝ウに始まりけものが居たと
掲げていることに始まる。
これが渡来人を知るには簡単な方法である。何処から
来たかもうお解かりだろう、魏とかかわる古代人は夏
の一族である。又倭国人も一族である。
『古事記』はここから始まり、けものに始まる。
それが天皇の祖先である夏の後裔越王勾践であり、あの『太平記』を書いた人物も後裔である。
知るから書けるのであり、知らないと書けない?

『無題』
帝 2004年4月14日(水) 19:42:25 削除・編集 スレッドの一覧・返信 倭国には古代中国から渡来した民族が築いた国である。それが根拠に獣と人が合体した『山海経』に
記す倭人達であった。
奈良の古墳から今日説明のあった人間のかたちの獣
が壁に描かれているのも、こうした資料を証明する
根拠ともなり、今や考古学は憶測ばかりで信用が
落ちた。
日本には神話や物語の中にも見られる。
桃太郎の鬼退治 浦島太郎 花咲か爺さん等が上げられ深く中国神話にも共通するのもこうした獣達は
皆夏王朝からの後継者であるからなのだ。