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渡来人研究会掲示板ログ5

 

『RE『社公しゃこう=若光ジャクコウ 』』
管理人 2004年4月5日(月) 5:57:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨の紀氏さんこんにちは。もう次回作を製作中なのですね。楽しみにしています。漢字や諸文字の起源、興味深いですね。また中国の治水と外来系集団のこと、紀氏さんのお得意分野ですね。高麗王若光の白髭伝承がどこに起源があるのかという点について、なるほど、中国か夏王朝の伝説をもってくることも一案ですね。「社公」という字に白髭の人との関係があるということ、また土地神としての意味もあることは興味深いですね。「社公」の語の起源は奈良以前かどうかがひとつ気になります。さて「白」と日本の古代宗教との問題では、天武期からの二月祈年祭の白い動物の生贄らも有名なところです。天武当時中国で流行していた景教については、個人的には景教徒の寺院の遺跡・庭園配置構造と飛鳥池の遺跡・庭園配置構造の比較をできないものかと思っています。松本清張氏がゾロアスター教遺跡と飛鳥池遺跡の構造比較をしていましたが、当時の中国の状況を考慮するとゾロアスター教より景教のほうが日本に入りやすかったのではないかと感じます。飛鳥池の石像遺跡等に見られるサイフォン管の技術などはローマの庭園のそれが原型らしいです。アジア各地、朝鮮にもある景教遺跡や文化の解析、文字も含めて興味深いところですね。
あと、茨の紀氏さんの新著『古墳のこころ』筑波所林を、新たに創設しました新コーナー「今月のお勧め読本」ページで紹介させていただきました。

『社公しゃこう=若光ジャクコウ 』
茨の紀氏 2004年4月2日(金) 22:14:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん今晩は、次回作 仮名【漢字のモデルとなった男夏の禹】の出筆中、漢和辞典で【社】やしろの字解をしていると【社公】しゃこう=(@土地の神。鎮守の神。 A生来、まゆや髪の毛の白い人。)を見 白髭神社や高句麗氏の若光(ジャクコウ)を思い出しました。 中国の夏王朝の禹王は中国への渡来人らしく父の名は口鯀(クこん?)黄河の治水に失敗し堤防の人柱にされたらしく【口・日・白・兄?】など白川静氏の字解での口(さい)=神への祈りの文である祝詞(のりと)入れる器の形とされています。話が逸れましたが禹の祖は【匈奴(胡えびす)】・狛(はく=(白人?)・こま)族とのつながりを感じますし禹には原始キリスト教とのつながり   蛇=旧約聖書=ユダヤ    太陽神ラーの守護神=狛犬=石造の羊=多胡郡の羊氏=迷える子羊=キリスト教徒   秦氏・聖徳太子・鳩(旧約聖書)・斑鳩(イカルガ)   武蔵高麗郡の高麗氏の祖若光の  【光】=光り輝く教え=景教=ヤフェイ  漢字の字解をしていて世界の文字は世界に拡散した原始キリスト教徒が作った話も耳にしました。以前 バベル文字と言う旧約聖書のバベルの塔を造るときの文字(アルファベットの象形・原型)の解字に挑戦しましたらその形からのイメージが頭文字となる英語が多数みられました。ユダヤの頭脳はバチカンも恐れたに違いなく、東方の異民族を悪魔と考えたかも知れません?  渡来人のホームページの皆さんからの投稿が止まり投稿を待っていました皆さんからの幅広い御意見これからも楽しみにしています。      茨の紀氏より

『削除しました』
管理人 2004年3月12日(金) 20:44:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 芳山さんおひさしぶりです。ご指摘の投稿記事、削除いたしましたのでご確認よろしくお願いします。

『無題』
芳山 2004年3月13日(土) 10:33:57 削除・編集

『井吹山、河内鋳師・年表』
管理人 2004年3月9日(火) 8:29:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨の紀氏さん、マミさん、貴重なご意見ありがとうございます。まず、年表についてですが、本当にマミさんのおっしゃるとおり、文字ばかりでいささか複雑怪奇になってきてしまっていますね・・。今度、紀氏さんのご本の紹介とあわせて、すこし文字とは別に視覚的にHPを構成してみようと感じます。茨の紀氏さんのご本でも、関東の遺跡の地図をもとに幾何学・方位的側面からも、遺跡の位置との関係をわかりやすく理解できるように説明されていること、参考にしてみたく思います。実に時間軸と幾何学的な位置との関係は、物理現象においても様々な側面を有しており、茨の紀氏さんご指摘の太陽の昇る方角と遺跡の位置など、日本古代史にももっと導入していくべき要素が多くありそうです。ぜんぜん関係ないのですが、先ほど初めて知ったのですが、地球が○回転する間にほかの惑星が○回転すると、その間に○回○惑星は地球を追い越すらしく、ちょうど交差位置が太陽を中心に○角形になるそうです。こういうことをおそらくは古代の陰陽思想などもよく理解して、それにもとづき建築などをなしていたこともあるはずで、干支なんかもこの辺理解していないとまともには扱えないだろうと感じます。
すでに古代史でも年表記述の中に、そのような惑星の動きと出来事との比ゆ関係など、日韓中国と、いろいろ記載はされていて研究はされているのですが、いまいち渡来人研究の分野では、まだよく導入されていないようです。日本書紀を読むにあたっても、本来この辺から研究の基礎に理解をおいておかないと、どのように東洋西洋の思想が編者によって導入されたかを知ることはできないですね。わたしも大学初期にその辺よく研究しましたが、わかりやすく年表にして説明してみるのもいいかもしれません。
さて、茨の紀氏さんご指摘の大阪の井吹山および、河内鋳師の関連はおどろくべき視点と感じました。
井吹の地名がどこから来るのかなぞでしたが、河内南部のその辺の地域からの、那須方面への渡来人の移住を茨の紀氏さんのおっしゃりたいことと思います。
ご意見をまとめなおすとすると、河内南部の井吹山とその周囲にいた鋳物の技術、行基伝承をもった渡来人が、栃木那須に移住し、河内郡をつくり、井吹里に住み、同じく法楽寺に行基伝承と製鉄技術を持ち込んだという具合になるでしょうか。そして、そこには丹比氏が彼ら渡来人を指揮して、同じく丹比氏がかかわった群馬多胡郡をはじめ関東各地の製鉄・製銅関連の事業を展開したということになりますね。井吹里のある泉の地名も、やはり河内・和泉国の関連と捉えられないかと思います。かなりいい線で証明にこぎつけられるのではないかと感じます。今後が楽しみですね。



『年表について』
マミ 2004年3月8日(月) 15:53:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 文章だけおっているとなんだか頭がこんがらがってきます。
中国・朝鮮・日本の対応年表などは作成していないんでしょうか?

『井吹里について2』
茨の紀氏 2004年3月6日(土) 22:47:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NOVさん管理人さん「井吹里」と鋳物師の関連を伊吹山から調べてみると面白いですよ。井から丹という文字が出現しますし近江輿地志略』に「〔寺ケ岳〕伊吹山南に登る事二十町余にあり、相伝役小角入峯して咒願し、行基菩薩登山して行座す」との私のエリアに近づきます。河内鋳物師については、摂関家の雑色として隷属すると同時に、蔵人所の灯籠作手という身分も持ち、朝廷から造内裏の課税が免除されていたそうです(狭山町史)。  河内鋳師の祖神伝承でも、『天照大神の時、猿田彦命(幸の神)が竈と土の鍋を造り、鏡造石凝姥命が鉄をもって鍋釜を鋳て、天児屋根命に奉じた。天児屋根命が初めてその鋳物を用いたので、鋳祖石凝姥命の子孫・鍋子麿(丸)を召して、天児屋根命の上下の文字をとって天命名を与えた』とあります(河内国丹南郡大保鍋宮大明神由来書)。  高野山開基以前から、河内鋳物師は各地へ蔵人所燈籠作手・御供人として各地へ出職もしたようで、釣鐘等の鋳物造りを請負っており、当時の優れた鋳物師集団といえばまずは、韓鍛冶の祖・冶金技術者卓素や、飛鳥宮にいた渡来人・鉄盤博士(ハカショ)等に古く由来を持つ、河内鋳物師であったらしいと有り    高野山の釣鐘等造りに、河内鋳物師が関った理由としては他に、『丹比氏』が、河内鋳物師の発祥地である南河内郡美原町(反正天皇下では多遅比野、丹比郡)の名族であったとされるとも有りました。それから、はつせさん白髪「京都伏見の稲荷大社に伝わる千年前の古神像を見ても、稲荷の神は白髪の老翁の姿ですし春日の神もたしか白髪の老翁の姿です白髭神社の神もきっと白髪の老翁だと思います。  

『RE2『白髭神社と 白髪部一族』』
管理人 2004年3月2日(火) 4:17:17 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨の紀氏さん、はつせさん、ご意見ありがとうございます。白髪と白髭ともに、シラカ・ガとなり、伝承面でも類似性がありますね。はつせさんご指摘の白神についても、白神から白髪部、白壁への語の変遷は、はつせさんの語源変遷についてのご意見からヒントをうけて考えてみるとおもしろい視点がでてくるように感じました。同じく真壁、草壁などについても同様な変遷はないかと感じます。草壁だと、草香部吉士という渡来系集団もいますし、もと以前は日下部というのもあったようですね。これもさらに類推すると日神までいけないかなと感じます。確か白髪部については、天皇の諸国の領地として、屯倉などとともに論点にあがっているようです。6世紀はじめの宣化天皇あたりから屯倉というのが全国に天皇の領地として展開した記述がみえてくるのですが、書紀の上では、それより以前の天皇から白髪部がでてくるわけです。ただし、この清寧天皇の実在性は正直言って薄く、後代の伝承の挿入のほうで考える線が妥当でしょう。ご存知のとおり白髭神社の展開は奈良時代前後からと思いますが、スサノオを祀るケースもあるようです。日神、月神、スサノオ、住吉三神あたりの伝承は、斉明、天智、天武前後からでしょう。また大部氏やおそらくはオオ氏の茨城への展開も、5世紀というよりは、もうすこし後の6,7世紀のようですから、茨城の白髪部の展開がどの辺の時代に起こったのかがひとつの課題になりそうですね。ただ高麗王若光の白髭伝承が、関東に展開していた白髪伝承から出ているとすると、そのケースでは、白髪伝承のほうが古いと思いますが、なんらかの形で両伝承をもとに祭祀をしていた関東の渡来系なり、地元氏族なりが、白髭伝承を祀った渡来系氏族などと関係性があった線も課題にしてみてはどうかと思います。
あと、先日は茨の紀氏さんの新著書『古墳のこころ』筑波書林をご郵送いただきありがとうございました。
大変ユニークな視点から古代史を解き明かしており、みなさんにお勧めなのですが、近いうち当HPでご紹介させていただきます。また、ご本をお送りいただいてから、当HPでも後に自費出版かなにかの形で、ひとつ出版についていままでのご意見を総まとめするかたちちで本格的に考えてみようかと考えはじめました。と、そんなこんなですが、今後ともよろしくお願いします。

『re:『白髭神社と 白髪部一族』』
はつせ 2004年2月29日(日) 23:21:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨の紀氏さん、御晩です。
 素晴らしい情報を有り難う御座います。「白髭」を特に「しらひげ」と読む理由が縁起の中にあるのでしょうか?そうでなければ、「白髭」「白髪」「白神」は極めて結びつきが強い名前であると言えましょう。一つのルーツの言葉、地名が「漢字を残して読み方が変わった」(例:太秦?)、「読み方を残して当て字がされた」(例:飛鳥?)などの変転を考えるとこれ以上の推理の醍醐味はないですね。

『白髭神社と 白髪部一族』
茨の紀氏 2004年2月29日(日) 1:1:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信  はつせさん管理人さん今晩は
「白髭神社」で茨城の真壁町を思い浮べました。真壁町は安部清明の生まれ故郷の隣町で石材業が盛んです 「常陸国真壁郡は物部一族の大売布命の後裔、久自国造(常陸国久慈郡を領域とする国造)の一族白髪部(のち真髪部と改姓)が開発した地域であった。」「むかし、聖徳太子よりももっとむかし、生まれた時から白髪の天皇がいました。この清寧天皇のために、各地でお米を作ったり、様々な奉仕をする人々が決められました。彼らは白髪部(しらかべ)と呼ばれ、わたしたちのふるさとは、この白髪部の人々の住む場所ということから、地名も白髪部(しらかべ)と呼ばれるようになりました。その後、地名は2文字の方が良い、ということで、字は白壁(しらかべ)を使うようになりました。」と有り「その隣の筑波郡には同族の大部造が居住し、水守郷に住んで同郡の郡務を司っていた。この大部造氏から中央に出仕して、有道宿禰姓を賜った者も出た。常陸大掾氏の祖、平維幹の母は真髪部武元の女といわれ、この関係で平姓の常陸大掾一族が真壁郡や筑波郡へ勢力を伸ばしていき、水守・真壁・下妻・伊佐などの諸氏を出したものとみられるのである。」とも有りました。他に藤原・菅原氏との係わりも伺えます
「白髭」と「 白髪」のつながりなどは、如何でしょうか。

 清寧天皇
(雄略天皇の第三皇子で、生まれながらに白髪だったと伝えられている。皇后、御子ともに無かったため、御名代として諸国に白髪部を定め、父帝雄略天皇が射殺した市辺押磐皇子の子、億計(仁賢天皇)と弘計(顕宗天皇)の二王を迎え入れて、これを後継者とした。)

『RE『泉・高麗』』
管理人 2004年2月26日(木) 6:30:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はつせさん、貴重なご意見ありがとうございます!
白髭、白神と朝鮮語音でシラガとすると、共通性がありそうですね。確か白髭神社については、新羅との関係も指摘されていたようです。詳細は白髭神社、新羅で検索していただくとわかるのですが、白髭とは高句麗の若光公を主に祭っているわけですから、新羅と高句麗との相違がでてきますね。その辺、はつせさんご指摘のとおり、高句麗系渡来人とともに、新羅系などの渡来人も混じっていた可能性も高いと感じます。書紀には、高句麗人○○人を移住させたと書かれていても、その実態は必ずしも高句麗人だけではなかったのかもしれませんね。亡命当初に移住してきた地が、もし高句麗、百済や新羅などの渡来人もいたところだったとすると、婚姻関係などでも、夫方は高句麗人、妻方は新羅人とか、複雑な混合が起こったのかもしれませんし、技術者の連携関係で、石造は新羅、建築は高句麗系とか、そのなかで徐々に祭祀や組織が統一化していって三位一体的に三国人が混じりながら、1つに代表されていくような状況もあったのかもしれませんね。多胡や那須の石造技術、高麗郡の建築技術など、新羅、高句麗などの関東人移住させられた渡来人どうしの混合した組織の連携があったのかもしれないと、ご意見について考えてみはじめました。

『泉・高麗』
はつせ 2004年2月23日(月) 0:13:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様、今晩は。
 タタラ、泉、高麗、白髪神社とくれば、なにかホームグランドに戻った気がしますね!(お前だけじゃ!汗)
 不明な点があります。「高麗」に来た人達は本当に高句麗からでしょうか?百済あるいは新羅から来た人達も混ざっていたという可能性はないでしょうか?
 また白髪はしらかみ、しらがと読むと思いますが、「白神」も「しらか」と読むようです。朝鮮語はカの音は日本語より相当強い発音をするので、「がっ」というのが原音とすると、白髪、白神は同根である可能性もあります。
 泉は「ユル」と古代朝鮮語で読まれ、百合の語源となったと読んだことがあります。それは「書記」に高句麗の大臣「泉蓋楚文」を「いりかすみ」と表記してあることから分かると言うことです。百合は鉄作りの象徴ということです。

『RE『井吹里について』』
管理人 2004年2月21日(土) 10:55:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 亭主さん、大変貴重なご意見ありがとうございました。さきほど夜勤帰りに、いろいろ考えていたのですが、とても貴重な手がかりであることに気づきました。まず、北方1200m位の「タタラト」
では、奈良時代の製鉄の痕跡があるとの件ですが、ご存知のとおり「タタラ」は製鉄のことで、そのほか砂鉄の件も考慮してもやはり製鉄技術をもった渡来人との関連は間違いなさそうですね。そしてこの辺の渡来人は古墳時代というよりは、奈良時代の渡来人とみたほうがよさそうですね。また泉中学校の裏山に40基程の渡来人の墓の件、高速道路の下になってしまったのは残念ですね。どうして高速道路がそこを通ったのかも知りたいところですが、ともかく、その道路建設あたりで出た調査書あたりも出ていればと思いますし、数少ない渡来人系のものとわかる墳墓だとすると貴重ですし、製鉄関連の遺物も出てないかなど気になります。当然そのような渡来人集団は、神社を祀ったでしょうから、ご指摘のその南方の白髭神社も関連するかもしれません。この白髭神社自体は、高麗郡の若光公を関東各地で祀った分社なのですが、それら神社に関連する渡来人の移動の流れとしては、高麗郡から泉地域へということになりますね。ただ高麗郡への考古的、特に瓦などの遺物の流れは、むしろやや泉地域から下野地域から高麗郡へという流れなので、その辺相違があります。泉地域西方の鉱山や、そこにあった法楽寺に由来する元正天皇と藤原房前によるその地での鬼退治伝承については、群馬の多胡郡の元正天皇の羊大夫の討伐伝承とかなり類似性があることは先に述べているとおりです。そしてこの伝承に由来する伝承の移動流れとしては、群馬多胡郡から泉地域へという可能性があります。しかしまた7世紀末の那須国造碑の石造技術が、おそらく多胡碑へと流れた経由を考慮すると、あるいはこの泉地域のやや南方の下野廃寺、那須国造支配地域から多胡地域への渡来系集団の移動の流れという可能性もありそうです。またその711年の多胡郡建設のすぐの後の716年の高麗郡建郡にあたっても、下野から高麗人が高麗郡に移住させられています。そこで、重要になってくるのは、この泉地域周辺の鉱山に渡来人が白鳳期から奈良時代初期にかけて移住してきたときに、彼ら渡来人や国造制度を郡司制度に変更しようとする朝廷や藤原氏と、那須国造氏との関係がどうであったかということです。また、その渡来人の移住時期が奈良時代初期でも厳密にいつであったかということですね。やはり、その小学校の裏山の遺跡の年代が重要です。ご紹介いただいた段熊教授が
「日本に残る古代朝鮮」、ぜひ読んでみたく感じます。また井吹里の語源、そうですね、泉から井吹へはやや無理がありそうです。郷土史家さんの伝承がどこからきたのかも知れればよいのですが、先に述べましたやや泉地域から北方の今泉という地名は、たぶん、今=新+泉だと思うので、おそらく中世あたりに泉から人が移住して今泉という地名をつけたのであろうと思います。とすると、その今泉という地名よりは泉という地名のほうが語源的にも古いということになりそうですが、今泉あたりの文献資料や遺物関連の資料を調査してみるのもひとつの手かもと感じました。あと、NOVさんからお返事いただいていたことに気づいて失礼したのですが、NOVさんご指摘のとおり、中世の語源などを調べてみようとも感じます。それでは、また今後ともよろしくお願いいたします!

『井吹里について』
亭主から 2004年2月19日(木) 9:30:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信  井吹里とは、今から30年も前に近くの郷土史家から聞いたもので、これを知っているのは、私の他にはもう1人しかおりません。この井吹里を和名読みにして「いぶき」になり、いつしか訛って「いずみ」となったというのです。いぶきがいずみですから、ちょっと無理がありますよね。
 この泉地区から東南800m位のところに、白髭神社がありました。また、北方1200m位の「タタラト」
では、奈良朝時代に製鉄が行われていました。ここからは、良質の砂鉄が採取出来まして、明治の頃にも採掘願いが出されたほどです。
 この帰化人たちの墓が、泉中学校の裏山に40基程ありましたが、そのほとんどは、高速道路が建設される際に破壊されてしまいました。
 さらに詳しく知りたい方は、関西大学の段熊教授が
「日本に残る古代朝鮮」をどうぞ。

『井吹里語源・遺跡』
管理人 2004年2月3日(火) 23:20:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NARAさん、NOVさん、ご意見ありがとうございます!井吹里の語源についてですが、徐々にまとまってきたようですね。私も「井」が漢語で「セイ」になるのはわかるのですが、「吹」くの「フ」は漢音にもなく日本読みなので、おかしいなと思っていたのですが、韓国語で「吹」で「プルダ」と読むとのことで、なるほどと思いました。「里」はご指摘のとおり、朝鮮の「里」でしょうね。「吹」で鋳物師の吹く作業との兼ね合いがあるとのことも興味深く感じます。地図で見ているとこの泉の地域の西部山麓は鉱泉が多いようですね。その泉から2,3キロ西部山麓の長井というところにある寺山観音寺http://www.city.yaita.tochigi.jp/html/bunkazai/11kunisitei01-05.htm
にあるという、かつてあった法楽寺の千手観音像に関する奈良時代初期の伝承がやはりこの時期の高麗、百済系渡来人の関東移住との関連をうかがわせます。
語源的には朝鮮系の渡来人によってもたらされたと感じますが、問題は、中世の渡来人か、奈良の渡来人か、古墳時代の渡来人だったかということですね。奈良だとすると、この法楽寺関連の藤原、元正天皇関連の高麗系などの渡来人の移住にもとづく渡来人とも感じますが、また泉の瑞雲院というお寺の下からは、立野古墳というのが出ているそうです。http://www.city.yaita.tochigi.jp/html/bunkazai/34sisitei53-68.htm#58 立 野 古 墳たてのこふん 1基
古墳時代終末期の円墳であることが判明し、出土品の刀金具に銀象嵌が施されているそうなのですが、銀象嵌を施すこと自体の起源は朝鮮南部カヤ地域にあるようです。http://japan.koreainfogate.com/museum/sankoku/sankoku-gaya8.asp
またその後「治天下獲□□□鹵大王世」で雄略天皇との関連で有名な鉄剣にも銀象嵌が彫られていて、これらの鉄剣と象を通しての大和王権の支配を考える説もあるそうです。
http://www.tnm.jp/scripts/col/MOD1.idc?X=J573
こう考えてみると6世紀初頭の韓国南部系統の渡来人技術者などの伝来もひとつには考えれるかもしれません。とはえ、銀象嵌を彫った剣は山ほど出ているらしく、渡来系とこの古墳を結びつけるのは難しいですね。あと、余談ですが雄略天皇の存在と伝承とは別々に考えるべきとは思うのですが、カヤ系渡来人の日本伝来が5世紀末とみるか、任那攻防期の6世紀初頭から中葉とみるかの点で、これらの銀象嵌などの遺物の全国的広がりとの時代整合の関係がキーになるのではとふと感じました。ではまた今後も泉地域と渡来人との関連語源、遺物、伝承などから引き続きもうすこし考えていきたく感じます。

『続:井吹里?』
NOV 2004年2月3日(火) 17:36:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、茨の紀氏さん、NANAさん、はつせさん
ありがとうございました。
おかげさまで、「井吹里1,300年」の幻想化が一層深まりました。
これを機に、この地の「見えない古代」の探求を、進めたいと思っているところです。

『はじめまして♪』
NANA 2004年2月4日(水) 0:40:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 よければこちらの皆様に、私なりに出した「井吹里」の推論をお目にかけたく思います。たいした内容ではありませんが。

まずgoogleでweb全体を検索しても、キーワード「井吹」では韓国のサイトは一つもヒットしてきません。
つまり現代韓国の地名にも、古地名を扱う歴史系のサイトでも、「井吹」「井吹里」の言葉は使われていないということになりますね。
(もちろん、もっと限られた地区の小字名だとか、北朝鮮の領域については、ネットではこれ以上調べようがありませんが…)
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漢和辞典で「井」の字を引くと、読み方は「セイ・ショウ」。
そして「井里(セイリ)=むらざと=邑里(ユウリ)」という言葉が載っていました。

井里・邑里という熟語なら、現代韓国の地名でも使われています。南井里(ナムチョンリ)等のアレンジも含めて。
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ご存じのようにハングルは中世に作られた文字で、韓国朝鮮語では古代の発音は不明なのです。よって以下はあくまで現代韓国語による推察だということをご了承下さい。

動詞の「吹く」は韓国語で「プルダ」なのです。
韓国の漢字表を見ると、漢字の「吹」には音読みの「チュイ」と訓読みの「プル(pul)」が併記されています。
「里」の音読みは韓国語でも「リ」です。
つまり「吹里」でpul+li。
pul-liが訛って「ぷうり」になってもおかしくないと思うのです。

「プルダ」の使い方は日本語と同じ、「風が吹く」や「笛を吹く」。他に「(隠していたことを)吐く」の意味があって、「罪を白状する」という言い方も。同音異義語はありません。
「吹(く)」を「プル(ダ)」だと仮定するなら、一体何を吹いたのか?

そこで疑問なのは「井」の字を「セイ・ショウ」ではなくて「セン」と読むことです。
現代韓国語で「セン」と読む漢字は「生・牲・甥・笙・省」くらいなんですよ。「笙を吹く」だったらロマンチックじゃないですか?
現代韓国語では「井(チョン)」と「笙(セン)」とで違う読み方ですが、日本語の音読みはどちらも「ショウ」だし、古代において両者の発音がもう少し近かったとしたら面白いですね。つまり日中韓で共通する「井里」という単語と、「笙を吹く」という言葉を重ね合わせたんじゃないかと…。

『レスありがとうございます』
NANA 2004年2月4日(水) 0:52:43 早速のレスをいただけて嬉しいです。(^^)/

私は現代韓国語の拙い知識で申し上げましたが、井吹里および関東地方に渡来・定着した時期が奈良時代だけでなくもっと時代が下るかもしれないというのなら、中世朝鮮語を専門とする先生に伺ってみるのもいいかもしれません。

ttp://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/

掲示板にて専門家の見方をお尋ねするのも面白いかもしれませんよ。
個人的に、「吹(ぷう)」=「プルダ」の説は譲りたくないですねぇ(笑。


『井吹里へ思い込み』
茨の紀氏 2004年2月3日(火) 12:54:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、私も井吹里(せんぷうり)が「せぶり」(サンカの移動時の住まい)かと思いますが
「井」の意味には周代で、一里四方九畝の田地・むら・まち・集落。そして、占い易の卦、君子の賢徳備・おきて・きよ・・・だった。「井守」は井戸、井田=田地の守り主で、イモリはまさに井田(セイデン)を豪雨から守る神様の象徴という記載もありました。
「吹」の意味には金属を溶かして器物を鋳るともありました。・・・鋳物師の里?
 
しかし私は、井吹里が「イブ里」旧約聖書のアダムとイブのイブ(エバ)の里 景教徒(キリスト教)の里で有ってほしいです。



『RE『井吹里?』』
管理人 2004年1月29日(木) 2:59:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NOVさん、井吹里についての語源情報ありがとうございます。郷土史家の記述が最後なのですね。泉については、ほんとわかりませんが、西北10キロあたりに高久という地名があり、その半分の距離に今泉という泉関連の地名がみえますね。この今泉のある西那須町に太夫塚というのがみえますが、高久→タカク→高麗、太夫→羊太夫→藤原、高麗氏?という線で、ふと考えれないかと今HP地図でみてて思いました。またなにか情報ありましたらよろしくです。

『泊瀬とは・・・!』
管理人 2004年1月21日(水) 5:27:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さん今年もよろしくお願いします。泊瀬はペンネームだったのですね!雄略天皇の諡号大泊瀬から来ているんですね。なにかわたしも運命的?なものを感じ、さっそく雄略天皇条読んでみたのですが、泊瀬の朝倉で即位儀礼をあげたのが由来だそうですね。その他「泊瀬」に関しては、崇しゅん天皇も泊瀬部皇子と呼ばれており、山背皇子の異母弟も泊瀬仲王というんですね。先の葛城と渡来人との関わりで、雄略天皇条に葛城円大臣が葛城の土地を差し出しているんですが、また雄略天皇条というと、葛城の一言主との問答も有名ですね。斎宮の創始がやはり雄略条なのですが、実際の創始は、天智ごろではないかと考えられているようです。あと天智も朝倉宮にいました。秦、漢氏という渡来人の最初の伝来も雄略条にもとめらえているのですが、正直なところそれらの渡来人に関するまともな記載がでてくるのは6世紀中葉の欽明ころからでして、雄略条の難波吉士氏の記載についても吉士集団の渡来自体は6世紀中ごろと考えられているんです。また中臣鎌子については、初現が欽明13年で550年代なのですが、活躍したのは100年後ですよね。紀男麻呂も同様100年近くいきています。そんなこともあり、応神、雄略という記載のモデルがどの辺からきているのかが、実のところ「5世紀初頭の応神天皇のときの渡来人の伝来」と教科書にかかれているのとは別にかなり前から気になっているところなんです。うちのHPでもそう紹介してますし、雄略条の渡来人渡来については、また万が一にも考古の人が雄略条を基準に物事考えていたらとするといよいよ責任感じます。あと雄略条の百済滅亡記事も、高句麗本紀を読むと、王都は陥落しているのですが、すぐ高句麗軍は帰っているんですね。その100年間には任那地域の滅亡とかもあるのですが、今年は雄略条と「泊瀬」関連で考えてみましょうか・・!。「セブリ」と朝鮮語との関連、とても興味深く感じます。やはり語源は詳しく調べてみたいものですね。それではまた今後ともよろしくお願いします。


『『RE『井吹里って』』』
はつせ 2004年1月20日(火) 23:43:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、NOVさん、御晩です。
 管理人さんが泊瀬を思い出して頂き光栄です。でもこれはペン・ネームなのです(汗)。雄略の諡号の「大泊瀬」を見て、「運命的な」出会いを感じ、拝借したのです。
 「せんぷうり」と読むとは不思議です。古代語が今でも保存されているような気がします。もしくは井吹里が古代朝鮮語の当て字なのかも知れません。
 ちょっと思ったのですが、「せぶり」とも読めるなあと。山窩の仮住まいのことを「セブリ」と言いますね。

『井吹里?』
NOV 2004年1月21日(水) 12:16:22 管理人さん、はつせさん
ありがとうございました。
渡来人の足跡や末裔らしきものは皆無で言葉としての伝承だけでした。これを拾った郷土史家(故人)の随筆?郷土史の1文が原点です。
すこしフィールドワークしてみます。



『RE『井吹里って』』
管理人 2004年1月20日(火) 22:50:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 NOVさんはじめまして。井吹里・・・さっきすこしだけ調べてみました。もしよろしかったらこの渡来人伝承の元がどこからなのかお教えいただければ幸いです。まず渡来人から離れて、里については、国郡郷里制度の里でしょうか?だとすると里制度のあった奈良時代初期ころにあたりますね。次に音「センプウ」のことについては、「井」「セイ?」「吹く」里となるでしょうか。地図でみましたが矢板市の泉というのですね。井戸から水が吹くで泉の意味ではと感じますが、泉自体も「セン」の音はありますね。
伝承面では矢板市の文化財というHPで法楽寺の伝承がありますね。元正天皇の高原の鬼退治伝承から藤原房前の征伐、行基菩薩によっての創設と、奈良時代前半の創設談があるようですね。http://www.city.yaita.tochigi.jp/html/bunkazai/11kunisitei01-05.htm
昨年も触れましたが、群馬から茨城にかけて、藤原氏の討伐談、元正天皇、行基創設談は、この辺の地域特有の共通要素のようです。
考古面では、すこし南方の河内郡から下野廃寺関連で、かなり渡来系遺物が出てきているようです。この辺の遺物は武蔵国の高麗郡での渡来系遺物とも関連性が強いそうです。剣ヶ峰の法楽寺、その高原との兼ね合いでは、高原→高倉、高座→高来→高麗との関連も次のHPを見ているとあるかなとも感じます。http://www.neonet.to/kojiki/ronko/hara-timei.html
あと、この辺の地域を支配していた那須国造と石造碑文の成立関連でも古代史との兼ね合いができるかもしれませんね。
当HPの主題である渡来人と、泉地域との関連はわかりませんが、個人的には河内の南の和泉からの行基とかかわる渡来人建築集団の関東への伝来を藤原氏との関連で考えてきていましたので、また過去のログなども参考にしていただければ幸いです。
当HPの場合、どうしても材料が渡来系に偏ってしまうので、論理を立てていくと必然的に勝手に渡来系に結びついてしまう悪さはあるのですが、その辺の是非は渡来系以外の古代史関連の情報とも比較しながら材料を集め、あとは「カン」でその辺判断していただければ幸いです。それでは今後ともよろしくお願いします。


『井吹里って』
NOV 2004年1月19日(月) 17:19:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ホームページに地域の言い伝えである次の句を使ってみたのですが、史実、記録などはありませんので、少し掘り下げてみたいのですが・・・・なにか糸口はありませんか。

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【井吹里】せんぷうり
 遠い奈良時代。泉地方には朝鮮半島からの帰化人たちがたくさん住んでいた。彼らは、今で言う先端技術者たちで、農業や土木工事、そして織物などの技術を伝授していたのである。そんな彼らの古里が井吹里。
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(泉>>栃木県矢板市の大字)

『富山・葛城・・』
管理人 2004年1月18日(日) 3:45:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お返事送れてすいません。3日半ややいろいろありまして・・・。sugataさん、貴重なご意見ありがとうございます。今後ともご意見お気軽によろしくお願いします。また泊瀬さんおひさしぶりです。唐人さん、今後とも日韓友好の件などリンクも含めていろいろよろしくです。匿名希望さんはじめまして。葛城地域と渡来人の関係については、葛城北部の蘇我氏、南部の巨瀬氏とその配下にいた漢氏との関わりなどで調査されてみてはどうかと感じます。忍海郡との関わりでは、製鉄技術に長けた漢氏配下の忍海漢人との関連もしらべてみると、考古鉄製遺物との関連でいろいろ出てきます。この辺の遺物には鉄製遺物とともにシルクロード経由でもたらされた正倉院のそれと似た西方の遺物も混ざってでてきているようです。最近は銀製のかんざしなんかもでているそうで、以下のHPから詳細でていますので参考にしてみてくださいhttp://www.chunichi.co.jp/tokusyu/kouko/k20011108.htm
聖徳太子伝承や応神天皇記と相似的関係にある雄略天皇記と葛城山と渡来人との関連、天智天皇と葛城地域、恩智神社と葛城忌寸氏との関連伝承、漢氏と葛城地域の牧の関連など調べてみても渡来系の物事について出てきますし、山岳修験道信仰との関連も間接的に渡来系とかかわってくるようです。
正月は電車の中でふと本を読んでいたひとがいたので覗いてみると泊瀬参り(
初瀬参り)とかいう奈良の南部桜井地方の長谷寺の行事についての本でした。そんなこんなで泊瀬さんのことを、泊瀬さんの文章家ということも思い合わせながら思い出していたのですが、この奈良県南部の桜井という地方もよく考えてみると渡来人の多かった地域ですね。もしかして泊瀬さんの祖先ってこの辺ではとか考えてみたりしてましたが。その長谷寺のそばにも不思議なことに白鬚神社があるんですね。この白鬚神社は先の高麗王若光とかかわりあるのかなと感じます。さて、sugataさんの遺跡は富山なのですね。富山というと、やはり昨年からの高麗系渡来人の到来がきになるところです。富山という場所は、sugaataさんがおっしゃるとおり、日本の中心的な場所で、各地が、文化が伝播するにはかっこうの場所ですね。応神天皇伝承もその辺の地域からはじまっていますが、この天皇の時代が渡来系氏族の伝承の最初の起源であることを考慮しても、ひとつにキーになる地域であることは確かですね。渡来系と思われる石造物が偶然にただ富山から出土するということよりは、飛鳥や山梨の猿橋につながるような石造遺物が富山あたりから技術伝来していった可能性もあるでしょう。一度人造かどうかどこかの博物館で鑑定なさってみてはどうかとふと感じます。
ではまたみなさんのご意見今後も楽しみにしています。

『謎の小石像....』
SUGATA 2004年1月17日(土) 16:26:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、はつせさん、前向きな御意見有難う御座いました。
今日まで、実物は、確実に人の手によって作成されたと、本人は、理解していても他の人々に理解して頂く事の難しさ、まして写真と成るとなお難しいです、今回少しでも理解して頂けた事が、とても嬉しいです。
今回この発掘場所説明します、
場所は、富山県で北は、能登の珠洲の禄剛崎、南は、高山、渥美半島の田原、西は、金沢、東は、立山、赤城山、宇都宮、東南は、富士山、南西、白山これらを、結んで交わった所です、おそらく日本の中心と思われます、験してみてください。
管理人さん、時より書き込みしても宜しいですか、宜しくお願いします。


『はじめまして』
匿名希望 2004年1月15日(木) 23:58:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私は現在学校で5世紀の葛城地方の渡来人の実態について習っているのですが基礎知識がなくよく分かりません。どなたか簡単な流れを教えていただけたら幸いです。

『はじめまして』
唐人 2004年1月14日(水) 22:4:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 通りかかりましたのでご挨拶致します。
朝鮮通信使に由来する津市分部町唐人踊りの資料館です。
地域振興のみならず日韓親善のためにも貢献したいと思っております。
相互リンクも募集してますよ。よろしく御願い申し上げます。

『re:『RE『謎の小石像....』』』
はつせ 2004年1月14日(水) 2:8:6 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様、今年もよろしくお願い致します。
 ギリシャの影響も見逃せないのでしょうか?
 NHKでは「風神」は「ヘラクレス」であると仮説を立てていました。
 麒麟、ドラゴン、サラマンダー、竜は架空の生物なのに皆同じ特徴を持っています。化石を古代人は恐れたのでしょうか?

『RE『謎の小石像....』』
管理人 2004年1月14日(水) 1:23:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信 sugataさんおひさしぶりです。HP拝見しました。今回の翼石竜像についてですが、いささか黒系の石の写真で確認するのが難しかったのですが、なんとなく竜らしき像が見えますね。ギリシア神話的なドラゴンや石人像、スフィンクスなど、4,5世紀の日本の近畿の遺跡から出土しているのは面白いですね。有名なスサノオの大蛇退治も、ギリシア方面の竜退治神話との関連が歴史学会でも注目されてきたようです。そういう伝承の成立経緯がこの遺跡あたりから解明されればと期待を感じます。

『謎の小石像....』
SUGATA 2004年1月12日(月) 18:48:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昨年、掲示板に書き込みをしたSUGATAです。
御意見を頂き有難う御座いました。
さて、前回より解りやすくした動物石像をのせましたので
見てください。
翼恐竜像と思われます。
写真では、解り難いと思われますので補足しておきます。
顔は、恐竜より優しく腕に翼があり鳥類系の2本足で3本爪です、おそらく着陸する状態を写した物と思います。
また、この物は、中心がさだめられていて、円を描いて回転します、
また、他の狛犬のような像もおそらく翼恐竜系と思います
しかし、翼恐竜は、白亜紀約一億万年前となり、そんなバカな事と思われますが、現在この地に翼恐竜や恐竜の足跡が発見され学術的に発表されております。
さて、これらの物が何時頃作られたかになりますが、この発掘で一番新しい物に須恵器の破片があります、学術的には、4〜5世紀頃と思われますが、おそらくこの時代に埋葬された物と思います、その他灰色硬質土器、土器と石の人物像が同じなので同時代に作られたと思います。
また石器も出土しておりますので、12000年〜5世紀頃となりますが、もしかして翼恐竜石像が出土したことでもっと古い可も知れません
私の思いは、外来部族が占領しはじめた為神倭朝時代前の物が破棄されそうになり平群真鳥が埋めた物ではないかと想像しています。 どうですか?
御意見宜しくお願いします。


『RE『カゴメの謎はコンパス・定規 』』
管理人 2004年1月6日(火) 22:52:18 削除・編集 スレッドの一覧・返信 茨の紀氏さんはじめまして!今後とも高麗と景教の関わりについてなどよろしくお願いします。高麗郡については、わたしもたびたび行くのですが、まだ万年橋には行っていないので、今度行ってみます。鶴ヶ島とか鶴舞という地名と鶴亀伝承についてや、それにかかわる定規コンパスとの関係、とても興味深く感じます。後でメールで住所などお教えいたしますのでぜひご研究お教えください。
西洋の石工などの建築集団にとっても定規コンパスなどはシンボルや信仰の対象となったことでしょうし、日本にもたさられた渡来人の建築集団の用いた定規コンパスにかかわる信仰なども、今後も研究の課題ですね。特に高麗・唐尺など定規を用いた尺度や数学や物理法則などは、かなりピタリとした線での結果をもたらすものなので、東西のルーツ探しにも有力な手段になるのではと感じます。こういう思考方法の固有性も渡来人のもたらしたもののひとつとして重要でありまして、今後ともその辺についてもよろしくです。

『カゴメの謎はコンパス・定規 』
茨の紀氏 2004年1月6日(火) 15:35:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして景教と高麗渡来人を検索していて皆さんのサイトに出会いました。私は行基図と古墳・神社仏閣の関係を調べていて埼玉の鶴ヶ島市と鳩山市との間の高麗川にかかる万年橋にたどり着きました、渡来人が日本の国造りとして日本を三角測量していたのです鶴はコンパス亀は定規
フリーメイソンのシンボルと中国の神話伏犠と女堝のコンパスと定規がユダヤの民 景教で結びついたのです。
管理人さんや皆さんの御意見が聞きたいです管理人にまとめた資料を送りたいです、送り先をお知らせください
皆さんの仲間入りが出来たら幸いです宜しくお願いします

『ありがとうございました』
KATO 2004年1月6日(火) 15:31:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、秦さんありがとうございました。十分に生かしたいとおもいます。また、助けてもらう事があれば、そのときはよろしくお願いします.

『RE『もの・・・えいきょう・・・』』
管理人 2004年1月5日(月) 19:26:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、さっそくありがとうございます。あと、渡来人のもたらした代表的なものとしての秦さんのご意見の補足としては、遺伝子がありますね。ちょっとさっき調べてみたのですが、こんなページありましたので
参考にしてみてください。
http://www.atami-amic.com/a_articles/sick/sick132.htm
国立遺伝研究所
http://www.nig.ac.jp/labs/nenpo-95j/E/E-a.html
かなり遺伝子解析から、渡来人研究をしていくことが可能になってきているように感じました。今年はその辺も本格的にやってみたいですね。

『もの・・・影響・・・』
秦義則 2004年1月4日(日) 23:15:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 すごい質問ですね。日本のでき方の根本を辿るような質問ですよ。
僕も無知だし、専門家でもないので、よくわからないけど。
もともと倭には、南方系縄文人がいたのでしょうね。縄文式土器を用い狩や漁をして暮らしたんでしょうね。
その頃は宗教的にはシャーマニズム、呪術が主だったんだと思いますよ。卑弥呼の頃まで、シャーマニズムだったのでしょうね。弥生人そのものが大陸からやってきたとしたら、弥生人は渡来人ということになるね。稲作も馬も鉄も大陸から渡ってきた。鉄の剣は銅剣より強く加工もしやすい。鉄と馬を持った部族が銅の部族を打ち破っていったのでしょう。
打ち破ってゆくときに人々を支配する方法として宗教が使われたのかもしれません。シャーマニズムから神道へ。その頃は色んなものには色んな神が宿るというシャーマニズムと大陸からの神々が結びつき八百万の神々が誕生する。例の七福神だって大陸の神様が多いでしょ。
大王達が神々で日本を統一し大和朝廷をつくる。
そして、それ以降に日本にやってきた人々を渡来人という傾向にあるようにあるように思うのですが・・・
神々で日本を統一しようとした時代があり、物部氏などが活躍していたのでしょうけれど、蘇我氏が政権を握ろうとして、新しく大陸からもたらされた仏教の教えを神道に変わって国教としようとしたのではないでしょうか。
その仏教の中にでさえ、ギリシャやローマの文化まで融合されていた。東大寺の柱で有名なエンタシスなんかがそうなんでしょうね。
聖徳太子も積極的に仏教で国を治めようとしたのですが、蘇我氏の百済系仏教とは少し違って、秦氏の影響があり、新羅系仏教となったのでしょう。新羅系のほうがより西域の文化を融合していたのだと思います。仏教の中にキリスト教の思想や文化までもが融合されているように思われます。

簡単に物で言うと、稲、鉄、馬、絹、漢字などでしょう
技術で言うと、土木灌漑、機織、鋳鉄などですね。
大きな古墳が作られるようになったのも、川が氾濫しないように堰が作られるようになったのも渡来人の技術によるところが大きいですね。
陰陽道なんかも大陸からの風水やカバラの影響なんでしょう。
日本人はどんな大陸の文化や技術も自分のものとして、ミックスさせながら国家を形成していったのでしょうね。

また思いついたら書き込みますね。

『もの・・・えいきょう・・・』
KATO 2004年1月4日(日) 14:49:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 あのう、私バカだから余計になんですが、渡来人がもたらした代表てきっていうか、そういう物と影響なんかについて簡単に教えてもらえたらうれしいんですけど。宗教とかは、なにか影響があるはずだ!っておもうんですけど。

『RE『渡来人がもたらした物』』
管理人 2004年1月4日(日) 1:4:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。そして、カイさん、秦さん、さっそく書き込みありがとうございます。今年も動き出した感じですね。さて、カイさんのご質問、渡来人がもたらした物とはなにかについてですが、「物」とあえて技術や宗教と離して限定してみると、おもしろい研究法ができるように感じました。もちろん、その「物」の背後には技術や宗教もあるのですが、「物」と限定することにより、より明確に渡来人と彼等の所有物の流れや日本とのつながりが、見えてくるように感じます。秦さんご指摘の弥勒菩薩像なども、渡来人がもたらした「物」のひとつだろうと考えています。その仏像が伝わるだけでは、もうひとつのカイさんの質問:日本にどのような影響をもたらしたのかという答えについて、たいした影響はなかっただろうとなるのだと思いますが、しかしその「物」といっしょに「人」と技術と宗教とがくっついて、天皇の面前に差し出されていたとすると、天皇や豪族の権力という媒体を通して、日本全土に多大な影響を及ぼしただろうと考えられるでしょう。たとえば、渡来人のもたらした「物」のひとつに、また「馬」というのが考えられています。渡来人が大陸で常用していた「馬」が、日本に本格的に伝わったことにより、そしてその馬がおそらくは天皇や豪族層に認知されたことによって、戦闘のあり方も換わり、律令時代には全国に牧が作成され駅の整備とともに、結果として物・人の伝達速度の飛躍的向上がもたらされたことでしょう。現代でいう鉄道が西洋から運ばれてきたようなものでしょうか。同じく渡来人がもたらした「物」としては、舞楽などで使う器具や楽器がありますね。これらは正倉院に今でも保存されているのですが、やはり西方ペルシア方面の舞楽で使用されるような器具もあり、これと同様な樂具が福島の横穴墓から出土しています。この樂具の流れを追うことによって、今のイラク派遣でゆれるペルシア地方から日本の奈良・大阪へ、そして全国へと、樂具という「物」が伝達していったようです。そこには、取り寄せるにも送り出すにもある種の天皇の権力が「力」としてはたらいているのであろうと思いますが、つまりその「力」を利用することによって、「物」の背後にあった舞楽や宗教・人々は日本に影響力を及ぼしていったようです。特に舞楽というのは、楽器だけが伝わる可能性はすくなく、かならずその楽器を操る「人」が、背後に渡来人として来て定住して弟子に伝達しなければならないということがあります。そういう意味ではペルシアの楽器が正倉院にあるということは、ペルシアの人も来たという可能性が高いのではと感じます。ペルシアの「人」を天皇や豪族が重宝すれば、かならずザビエルみたいにその地域の宗教なり文化なりをもかれらに伝えることが起こりうるわけでして、その結果として天皇や豪族のかかわる儀式などにも取り込まれていくのであり、それは実はどこの国の歴史上でもよくある当然の流れのようです。舞楽やその背後の仏教など諸宗教が正倉院がたつ推古朝時代ころにはもたらされ、その結果として、天智・天武期には、天皇の面前でペルシア人などの舞楽が舞われ親しまれるということが起こり、天武期の八色の姓の中にも忌寸として、そういう舞楽などを得意とする渡来人が高いカバネを得ることにつながったようです。その辺は私も修士論文で書きましたが、当時の権力者たちの権力支配の構造が、そういう舞楽や外国宗教などのようなものによって変化したということが、今現代においても、金と軍事と権力ですべてのイラク派遣が決まるような点との相違なのであろうと感じます。現代の日本政治に、イラクの音楽や宗教が入り込む余地がないように感じるのは、ある意味古代に比べても日本文化の後退であろうと感じます。ともかく、渡来人のもたらした「物」が、天皇の権力を仲介して、日本諸国に影響をもたらしたということは、ほかにも多くあると思いますので、いろいろ探してみてください。


『明けましておめでとうございます。』
秦義則 2004年1月3日(土) 22:32:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今年もよろしくお願いします。

元日は宝塚市にある中山観音http://nakayamadera.or.jp/
に初詣に行ってまいりました。
聖徳太子が創建したといわれている観音霊場であり、弘法大師が修行に訪れたお堂もあり、その横にはお稲荷さんが祭られていました。

ここにも秦氏の影が見え隠れしているように感じました。

シルクロードの終着駅、日本に仏教とともに持ち込まれたキリスト教があったのでしょうか・・・
聖徳太子から秦河勝がいただいた弥勒菩薩。その手の形は西域に残されたキリストを描いた壁画と同じ、三身一体を表しているそうです。
弥勒菩薩そのものが救世主という意味でもあるとか・・・

フランシスコザビエルが日本で布教を始めたとき、既に福音はなされていたと本国に手紙を送ったのは有名な話です。
関西にキリシタン大名がたくさん生まれたのも、短期間にあれほど多くの人々が信仰したのも、古来より何か下地があったのかも知れませんね。

以前は秦氏が西域に繋がるなんて荒唐無稽と思っていたのですが、あながち眉唾とは思えなくなりました。

古代から、人々はダイナミックに日本や大陸を行き来していたんでしょうね。

今日は毎年恒例の服部天神にお参りに行ってきました。



『渡来人がもたらした物』
カイ 2004年1月3日(土) 19:47:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人がもたらした物と日本への影響について教えてもらえませんか?