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渡来人研究会掲示板ログ4

『おお氏』
泊瀬 2003年12月9日(火) 23:1:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご無沙汰です。
 ある本で、太安万侶もその一族であるという多氏の話を読んで「おお」となりました。多氏由来の神社は、大生(おふ)神社、大神社、太(おお)神社と日本全国にあり(多田神社もそうではないでしょうか?)、奈良春日大社は茨城の大生神社より移ったものだという説もあるということです。

 もっとも有名なのは大海部の皇子(後の天武)を助けた多臣品治(おおのおみほむじ)でしょう。これだけの武力と子孫を持ちながら、歴史から消えたか、また、生き続けたかは興味のあるところであります。

 というのも、多氏は高句麗滅亡後、渤海を立てた大(で)氏と同系で、穢族ではないかとの説が書いてあったのです。

『大阪の渡来人』
秦義則 2003年11月9日(日) 23:41:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「未熟者」さん始めまして!僕も未熟者です!
皆さんお久しぶりです。

大阪の渡来人、いたるところにいると思うんですが、
大阪市内でも、心斎橋を新羅橋と言ってた時代がありますし、
もちろん高麗橋はそのまま残っていますしね。

その中でも古いのが、「池田市とその周辺」僕の生まれた町です。クレハトリ、アヤハトリの伝説の町。
その次が「寝屋川市」秦氏にまつわる地名がいっぱい!
次に「茨木・高槻」中臣釜足の墓といわれる古墳や継体天皇の古墳、三島鴨神社や三島溝クイ神社なんてのもありますよ。
「枚方や交野地域も」在原業平で有名ですが、星祭のある地域です。

その他、豊中市の服部周辺。箕面市の萱野周辺なんて渡来人のにおいがいっぱいです。

やっぱり、北摂は渡来人の宝庫ですよ。

それは京都から川で繋がっていたからですね。

またよろしく。

『大阪における渡来人のことで・・・』
未熟者 2003年11月8日(土) 21:39:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして、私は大学で日本史を専攻しています。皆さんによければ、大阪での渡来人が多く居住していた地域というのを知っている方ぜひ教えて下さい!参考にさせていただきます!

『わたしも実は・・』
管理人 2003年10月25日(土) 2:2:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さん、わたしも札幌から上京して10年になるのですが、ぜんぜん知りませんでした・・。学生時代は関西の渡来人ばかり追っかけていて、また本ばかり読んでるあたまでっかち人間だったので、最近関東周辺の渡来人についてバイクで探索しているのは、かなり新鮮です。また電車や徒歩でいけないところに結構渡来人遺跡は多くあるので、車やバイクはかかせないなーと最近つくづく思い知らされています。これからの季節、また温泉は冷えた体を温めるのにもいいですね。

『深大寺に・・』
泊瀬 2003年10月24日(金) 23:30:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、調布に10年ぐらい住んでいましたが、狛江から深大寺までにこのような旧跡があるとは恥ずかしながら知りませんでした。調布にある大学が母校ですので今度行ってみます。

『渡来人遺跡探索日記ページつくりました。』
管理人 2003年10月24日(金) 23:10:7 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人関連の遺跡探索日記のページつくりました。よろしかったらご参照ください。アドはトップページから入れます。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/index1.htm

『狛犬、石造羊・・・』
管理人 2003年10月21日(火) 1:52:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 狛犬についてのHP拝見しました。敦煌の石窟の二匹の獅子あたりに起源があるようですね。石窟をみるかぎり、弥勒像を見上げるように向かい合っていますね。後のは前向きになっていきますが、どちらが起源として正解なのでしょう。神獣鏡などでも仏像をはさんで、獣像がそれを挟むなんている図もあったように思います。向かい合っているのは主人を拝む、外向きは外的排除みたいな思想的な違いがあるのかなと感じますがどうでしょう・・。あと中国の羊石造も霊獣としていけにえとしての意味があったとのことですね。やはり蘇我氏の山背王家迫害について、蘇我氏をもって猿とし、山背をもって猿(蘇我)に岩の上で焼かれる山羊とした秦氏のかかわったであろう歌を思い出します。中国や西方の死せる主人と生贄としての動物との観念もあるいは狛犬の思想背景にかかわるのかもとは感じますが、はてさてどうでしょう・・・。

『狛犬の由来』
泊瀬 2003年10月20日(月) 2:54:11 削除・編集 スレッドの一覧・返信 皆様、下のHPによると敦煌莫高窟に原型があるそうです。

http://enjoo.com/komaken/gesut/matida/tyugoku.htm

『トーテム、動物神・・・』
管理人 2003年10月20日(月) 2:22:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、泊瀬さん、ご意見ありがとうございます!歴史小説と実地調査、想像でしかわかりませんが、とても言語左脳とイメージ右脳とをフルに使う、すごい作業ですね。泊瀬さんの今後の創作活動楽しみにしながら、またなにかよい材料を掲示板から得ていただければ幸いです。秦さんご指摘のトーテムといろいろな氏族の守護?動物、おもしろく感じます。特にツヌガアラヒトと牛というのは、興味深いですね。漢氏の氏族伝承にも牛の占術の教えにしたがって日本に来たというのがあるのですが、牛と占術の関連は、ペルシアからインド、中国経由という流れがあるそうです。泊瀬さんご指摘の熊、狼と穢人などの諸族のシンボル的動物との
関連、集団の移転の流れの途中で変化があるとするとまたおもしろそうです。多胡郡関連の書物で昨日は多胡碑記念館でお勧めされた「多胡の古碑に寄せて」(井上清・長谷川寛見共著・あさを社・2003)を見ましたが、多胡郡や関東から羊関連の伝承や遺物と氏族とのかかわが見える一方で、多胡郡では奈良中期にはその地域の子という姓の新羅系氏族が吉井連と姓を得たりして、羊、子・・というような、動物名と渡来系とのかかわりが問題となっているようです。あと、漢氏の首長氏族、坂上氏の名前にも駒とか熊とかあったような気がします。泊瀬さんご指摘の中国での異民族への忌字をつけるという習慣、日本の中央政権でも真似しなかったのかなと思いました。実際蝦夷などにはそういう名づけ方しているんですが、姓のはっきりしない渡来系氏族のケースだと、あのひとたちは羊を拝んでいるので羊、あの人たちは馬という感じで名づけたという諸説もあるそうでなるほどと感じます。虎についてご指摘に関して、日本にも、日本にいなくても十二支の名前が想像上でつけられることもあるようです。ただ、名前についても果たして姓につくかというのは、ひとつのレベル差があるようです。姓については、どうも地域名などその氏族をあらわすのに適切な表現がとられるケースが多いようで、それが当時の決まりごとみたいなふしも諸文献を見るとあるようです。とすると、多胡郡の羊氏は想像以上に羊をシンボルとするようなかかわりが深かったのかもと感じました。また「胡」があごひげとかかわるとのご意見、スサノオのあごひげとか、武蔵高麗郡の高麗氏の祖若光を白髭と称する事例のように、高麗郡のちかくの多胡郡の首長多胡氏とのことも案外無関係ではないかもと感じ始めました。トーテム、シンボル動物と氏族、おもしろそうです。

『「トーテム」・・すみません』
泊瀬 2003年10月19日(日) 23:19:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、すみません。混同させました。
>狛は熊なんですか?
 狛族のトーテムは「熊」であることは史書に載っています。「狛」という字は発音を当てた中国名(擬音)と思います。オオカミという意味の様です。
 トーテムは歴史的に確認されるものですから、単に現代の字が同じだからそうだろうと考えるのは危険です。字も読みも変遷している可能性があるからです。
 中国(漢族)人は外敵を忌字で表しましたよね。狛というのは動物扱いです。穢族の穢も「汚い」という意味です。「胡」はあごひげのあるという意味です。韓国のサッカーチームのシンボルの「レッド・デビル」は黄帝を悩ませた「蚩尤(しゆう)」をモデルにしていて「胴の短い暴れ者」という様な意味だったと言います。
 狛犬が狛族と関係しているのか分かりません。

『トーテム』
秦義則 2003年10月19日(日) 21:39:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんばんは!皆さんすごく博学なので、素人の僕がなかなか口をはさめないのですが、
やっぱり日本にも、そのトーテムを持った人々がやってきているんでしょうね。
狛は熊なんですか?
神社の狛犬、唐獅子のトーテムなんでしょうね。狛犬というから、狼かな〜と思っていました。狼が大神に繋がるのかなと思っていました。
賀茂氏のトーテムは鴨だから「鳥」スサノオ達やツヌガアラシトは「牛」大国主命は「兎」長髄彦は長いスネだから「馬」なんて想像したら楽しいですね。
秦氏の故郷はいったいどこなんでしょうか?弓月君に率いられてやってきていますよね。弓月国てありましたよね。
そのあたりでしょうか?

『狛犬』
泊瀬 2003年10月19日(日) 16:45:30 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、実地踏査とは頭が下がります。私は今年は我が小説の山場である最上義光と上杉景勝の最後の戦闘である「長谷堂の戦い」の調査で米沢・山形に是非行きたいと思っています。
 隅田八幡の画像鏡の銘文も興味深いですね。さて狛犬ではたと思ったのですが、あれはなんなのでしょうか?「狛族」が作ったのなら「熊」になりそうですが。ひょっとして「虎」が原型かな?などと思いました。なぜなら虎は日本には居なかったんですよね?(ちょっと分かりませんが)。ならば狛犬という想像上の「虎」と混同したのでは・・・などと・・・ご意見あれば是非お聞かせ下さい。

『穢人の由来、多胡郡探索』
管理人 2003年10月19日(日) 15:37:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 泊瀬さん、穢人、狛人など情報ありがとうございます。穢人の由来はやはり高句麗と同じ穢族系統なのですね。漢人の渡来伝承にも、帯方郡を経由して朝鮮諸国にいたったという、朝鮮北部経由というアイデンティティーの残存が見えるのが不思議な穢人との重なりと感じます。帯方郡はある意味銅鏡製作にもかかわり深いのですが、隅田八幡の画像鏡にも「開中費直穢人今州利二人」とみえ、河内直氏の配下?に穢人がいたことがわかり、後の東西漢人組織の原型としての可能性を感じています。最終的に朝鮮南端のアヤ国に行き着き、カラ諸国滅亡のころにはだいたいそのへんから大挙渡来したのかとも仮定してみたりしますが、その経路のプロセスが課題ですね。秦氏も同様な朝鮮北部経由の渡来もどうかと思います。それにしても虎や熊のトーテムについて、狛犬もそうですが、トーテムって朝鮮系建築に多く由来が興味深いです。二匹の動物をもって門とする、群馬の多胡郡の羊大夫伝承も二匹の動物に関係するようで、関東北部にどういう経路で朝鮮系文化が入ったのか気になります。アイヌ系ともかかわりながら、日本海側からの渡来、解明が楽しみです。北関東への渡来人というと昨日はたまたま、久しぶりに群馬の多胡郡周辺に出かけてきました。上信越高速道路の吉井ジャンクションから降りてすぐの仁ソウ寺のレプリカ碑を見て、それから多胡碑記念館と多胡碑をみてから、多胡神社に406号で向かい、最後は18号そばの磯子温泉の中にある「恵みの湯」という500円で夜9時まで入れる温泉施設に浸ってかえってきました。後、別ページで報告しようと思うのですが、秦さんご紹介の池田市の神社・遺跡関連のHP,とても写真つきで説明もよく参考にしたいと思います。多胡碑記念館には、朝鮮や中国の碑文との比較もなされています。多胡神社周辺では昨日その地の人にきいたところだと、現在でも多胡さんが多く周辺にいらっしゃるそうです。渡来人の流動期と定着期での相違を考えてみると、石造遺物が残るケースではすでに定着期だったのかとも思いますが、先日のSUGATAさんの富山での小型石造物などは、あるいはまだ流動期のそれなのかもと感じたりもします。日本海経由で関東、関西へ、今後の展開楽しみです。

『こんにちは』
泊瀬 2003年10月18日(土) 17:20:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様、皆様、はつせです。秦と名乗る人々の謎は興味深いですね。管理人様が穢人(イェまたはエ)を上げられましたが、朝鮮史では出自ははっきりしていて、扶余族の元となった狛族と同族であり、「虎」をトーテムにしていたとあります。上代に狛族と袂を分かって東に移住。おそらく日本海を渡ったと考えることが出来ます。日本海側から関東・東北に先住したと思われますので、アイヌ系の民族と交わったか、駆逐していったのではないでしょうか?記紀に見られる「八」が付いた名前(八咫など)は穢族ではないかとの説があります。高句麗の元となった狛族と同族ですから、文化は高句麗系でしょうか。
 狛は「熊」がトーテムで高句麗を立ててから、末子相続をして長男達は南下して百済を建てます。百済系の末裔が日本に来たので熊本とか熊野という地名が生まれた可能性はありますね。
 秦さんの池田探訪は素晴らしい。服部神社が秦氏の由来だったらもう完璧ですね!

『SUGATAさん、はつせさん、秦さんへ』
管理人 2003年10月18日(土) 2:59:25 削除・編集 スレッドの一覧・返信 SUGATAさん、はつせさん、秦さん、書き込み拝見しました。SUGATAさんのHPの写真に写っている石、伎楽面にもみえ、猿石にもにて、亀のような石もあり、渡来人とのかかわり、興味深いですね。秦さん、はつせさんのお話で、シルクロードを通って来た人々と渡来人の姿との重なり、先日もNHKでゾグド人と正倉院などに残る遺物や西方由来の儀式の特集されていましたが、そのへん今後の発展が楽しみです。お話聞いててここ数日気になっているのは、秦人についてです。渡来人の名称では、百済人、高麗人、韓人(任那周辺地域?)、漢人(中国北部あるいは穢人のいた韓諸国のアヤ国)、呉人(中国南部)、舎衛人(インド方面の人?)、都貨羅人(西域伝のアフガン南部の国)、波斯人(ペルシア人)とどこかしらの文献からその国や地域の名称+人になるようです。そこで秦人とについて、どこから来た人なのか?というのが気になります。たぶん秦王国の時代つまり7世紀には着ていたのでしょうけど、以上の7世紀ころからの名称のつけ方からすると、通説の韓人の地域秦韓国から、あるいは中国西北部の始皇帝の故地・秦から、あるいはローマ領シリア(大秦)からという線が、やはり有力ですね。だれが文献などから秦と名づけたか?自身で名乗ったか?今すこしまたみなさんの論議みながら考えなおしてます。ゾグド人とかシルクロード系の人々はどう呼ばれたのかというのも気になりますが、また掲示板楽しみにしています。

『シルクロード』
秦義則 2003年10月17日(金) 22:51:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はつせさんこんばんは!
まさしくシルクロード終焉の地が日本であり大和であるんでしょうが、
ちょうど僕が生まれた大阪の池田市そのものがシルクロードにもあたるようなんです。
池田の伝説にクレハトリ、アヤハトリが出てきます。
秦氏の神々の一人かもしれません。
今でも池田のお祭りに、船に乗って猪名川を登ってきた二人のお姫様が登場します。
もちろん呉羽神社、綾羽神社があります。
古代丹波王国も秦氏関連ですし、綾部市のグンゼそのものが、養蚕から出ています。
初代社長は波多野氏
今は豊中に住んでいますが、豊中の服部天神も秦氏ゆかりの神社です。
服部天神の由来です。http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/yui.html
服部氏一族とももちろん関係が深く、秦氏から分かれていることは間違いないようです。
クレハトリ、ハタオリ、ハットリ、
これは、ヒッタイトとも繋がるとか・・・
七夕で有名な織姫伝説も秦氏が持ち込んだもの。
池田市には星の宮がありますhttp://www.ikedaya.com/ikedatour/migikaiwaisaiha.html
池田市は池田氏からきており、池田氏は源氏系、猪名川を隔てた川西市に多田源氏発祥の地があります。義経や弁慶ともつながりがあります。北には高山ウコンで有名な隠れキリシタンの里があり、池田の園芸で有名な細河地区は細川氏と関連があります。
源氏には新羅三郎や八幡太郎などと、秦氏ゆかりの名前をつけている武将もいます。

豊中市は豊島郡とも呼ばれていた時代があり、豊とつく地名は秦氏と関係が深いようですね。九州の豊国とつながるのです。

服部家の人たちと別のHPで色々議論しています。
良かったらたずねてくださいね。
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100531_53.html

『おお!初めからダッシュ!』
泊瀬 2003年10月14日(火) 1:55:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、素晴らしい一撃でした。私は朝鮮半島から日本に渡ってきた人達の波瀾万丈な人生を小説に描きたいと思っています。朝鮮半島との密接な関係を否定する人達が居ますけど、地図を見れば素人でも分かることが分からないというのは「馬鹿の壁」があるのでしょうね。私の韓国人の友達が言いました。「大阪人の気質は百済人で、京都の気質は新羅人だ。だから双方気が合わないんだ」と。この証言以上のものはどんなに史書を紐解いても得られないでしょう。また、韓国には今もって、百済、新羅の気風が残っていて戦っている、と他の友は言っています。
 忍者の服部という名は「はた」から来ているとどこかで聞きました。検証のしようがないですけど、興味深い話ですね。
 聖徳太子は蘇我氏の一族であるのに新羅仏教を取り入れたのは独立国として日本を位置づける強烈な意志があったのでしょうか?梅原猛によると、藤原氏が法隆寺を、彼らが滅ぼした聖徳太子一族の鎮魂の寺と位置づけたとあります。精霊会に出現する「蘇莫者」(蘇る事なかれ)がその推理のもととなっています。古代朝鮮語の研究によると蘇我は「鉄所」という意味があるとしていますが、どうでしょうか。またお邪魔します。

『はつせさん、はじめまして!』
秦義則 2003年10月13日(月) 19:40:20 削除・編集 スレッドの一覧・返信 歴史小説に百済系天孫族と新羅系秦氏との駆け引きのあたりも入れていただいたら、うれしいです!

神功皇后は5世紀ごろに三韓征伐と偽って大陸に渡っているんだけど、実際のところ、後ろ盾がほしくて新羅へ渡ったのではないでしょうか?新羅との密約が成立し、応神天皇のときに秦氏がどっと渡来してきます。そして、九州、豊国に秦王国を築いた後、出雲や吉備や畿内に勢力を拡大して行くんだと思います。
欽明天皇の即位(539?)には秦の大津父が深くかかわっているようです。
その時代の勢力地図に百済系の天孫族と新羅系、高句麗系があったのだと思いますが、
天皇制が万世一系でなかった頃、それぞれの支援があって大王を決めていたんでしょうね。
魏呉蜀の三国志、高句麗、百済、新羅の三国、
日本ではそれぞれが仲良くしようと、三島体制を引くのです。各地の三島神社に名残があるんでしょう。
しかし、天孫族が反乱を起こします。政権奪取のため大和を目指します。耳成山(耳がいない山)畝傍山、天の香具山がキーワード。
百済系が勝ち残り、耳成山の長はやぶれ地方に逃げてゆきます。

その後、
物部氏と百済系蘇我氏は宗教で対立し、百済仏教の蘇我氏が勝ったのでしょうけど、
聖徳太子(574-622)は何故か百済系じゃなくて新羅系仏教を進めようとして、蘇我氏と対立するようになる。
太秦、広隆寺(秦河勝が603年に建立)の弥勒菩薩は明らかに新羅のものでしょう。蘇我氏が天皇を揺り動かすほどの勢力を持つことを危惧し新羅系秦氏をバックにつけ蘇我氏と互角に渡り合える力をつけたのでしょうね。
ただ、秦氏は新羅仏教の中に原始キリスト教の理念も植え込んだのだと思います。弥勒菩薩そのものがメシア思想の典型だと思います。
聖徳太子は後世につけられた名で厩戸皇子と言うのですが、これは厩で生まれたキリストと同じ意味ですね。聖徳太子そのものがメシアだったのでしょうね。
蘇我氏にしても、「我は蘇り」と聖書にある言葉のようですし、「秦」という字をバラバラにすると、「三・人・ノ・木」となり原始キリスト教に通じる精神を表しているという人もあります。
秦伊呂巨によって和銅四年711年に建立された伏見稲荷。空海は東寺の守護に稲荷神を当たらせているし、稲荷神社とともに真言密教を広げています。空海も真言密教を広げるのに秦氏の後ろ盾が必要だったと思われます。真言密教の中にカバラの要素が含まれているんだと思います。
阿部晴明につながる陰陽師にもカバラが入っているんでしょうね。
闇の世界に秦氏がいた、それは、太子信仰のタイシとも、サンカともいわれ、惟喬親王を祖とする木地師にもつながってるんだと思います。闇の歴史に秦氏ありです。



『盂蘭盆』
泊瀬 2003年10月13日(月) 2:12:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初めまして。はつせと申します。歴史小説を書こうとしていて、古代の日本の謎に興味を持っております。よろしくお願い致します。トピックに盂蘭盆の語源がソグド語の可能性があるとあり、安史の乱(755)の安禄山がソグド人で唐の高官であったという事実からその100年ぐらい前なら商人であるソグド人の漂着あるいは渡海もあり得るな、などと考えました。正倉院がシルクロードの終着点ならば、物だけでなく、色々な民族の人達が日本に来たと考える方が自然かも知れません。
 このHPでこれから勉強させて頂きます。

『渡来人の写実的肖像石,土器の出土』
SUGATA 2003年10月11日(土) 14:45:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 始めまして、SUGATAです。
富山県のある遺跡より古代高度文明人が残した物と思われる写実的肖像石、土器の発掘品を紹介致します。
これらの人物、動物の肖像は、何を教えてくれるのか、
また、どこの渡来人でしょうか、HPを見て何か御解かり
に成る事がありましたら御教え下さい。


『関東の高麗人散策情報9/21』
管理人 2003年9月21日(日) 5:34:40 削除・編集 スレッドの一覧・返信 毎度長々お騒がせの管理人です。最近関東周辺の高麗人関係遺跡の散策を暇をみつけてしています。ここ半月行ったとこでは、東京方面から246号でずっと平塚方面めがけていくと、寒川神社というところにつきます。看板が出てるんですが、ここの摂社に聖神という神名がみえ、これは古事記で有名な渡来系の神様とみなされていますのでひとつ発見でした。この辺は高座(タカクラ)郡といい、高句麗の読みなど高麗人等が上陸した伝承が残っています。そこから平塚市に行き博物館に寄り、そこからすぐ1号に乗り換えて数キロいくと高来神社という神社があります。もと高麗神社とも言われ、現在でもそこに高麗の地名と高麗山が残っています。その後は1号で二宮までゆくと東名高速の秦野インター方面に行く道があります。秦野も秦氏とかかわりが深いところです。最近もうひとつ行ったのは、中央自動車道で山梨甲府を越えて須玉インターチェンジで降りて、そこから山道を登りくだりして数キロ行き、駒ヶ岳のふもとにある巨麻神社でした。これは駒ヶ岳神社が2つあるうちの横手駒ヶ岳神社に行く道すがらにあります。道を尋ねていて神社のすぐちかくに「みよし屋」さんというお店があるからとのことでそこに行ってみました。するとそこのご主人様が元神奈川県の高校の社会の先生で、ご自身のご先祖や神社周辺の方々の氏名などから韓国南部の地名人名などとの関連について行き来し研究されるほど渡来人研究に携わっている方でした。民宿も経営されており、いろいろ詳しく教えてくださりました。そこから20号で甲府市内に戻り、市内から1,2キロ北方にあり湯村温泉街で有名な羽黒町に行くと、天狗山のふもとに羽黒大宮神社があります。ここも大きな岩が祭られており、山頂には積石塚があるそうです。ちかくに千塚古墳群の加牟那塚古墳や千塚八幡神社があります。平塚や高麗川のと同様小山と岩とふもとの神社の組み合わせどこかしら高麗的?な雰囲気を感じました。山梨の高麗人については、備仲臣道氏の『高句麗残照』批評社2002を読みながら行くとかなりよく周囲の歴史がわかります。あと、その湯村温泉から大宮神社へ行く途中に富士見温泉という350円で夜9時までやってるきれいな温泉がありお勧めです。夜の東京方面への帰りは20号の山道は案外危険なので高速をお勧めしますが、まだ明るい時間帯なら20号で大月インターチェンジからさらに東に進み数キロのところに猿橋という古代に作られたという橋があります。絶壁に渡来系の特殊技術で橋をかけているのですが、みるとかなりの絶壁にみごとにかけられているのに驚嘆させられます。なんでも推古朝に来た渡来人の志羅呼(シラコ)とか白ハタ人とか志キ麻呂(シキマロ)いう書紀にもみえる技術者が橋を架けたという伝説が残っているそうで驚きました。ちょうどそのへん年度末報告でも取り上げたところで、ぜひ渡来人研究に興味ある方は見学しておいてくださいね。またその20号線で大月駅をすこし越え猿橋に行く手前に郷土資料館があり、そこで猿橋と地形などを確認するとその橋の設置意味がわかります。相模から高麗川への高麗人等の動きや山梨での動きなどなかなかたどってみると彼らの意識にすこし近づけた気がしました。なお写真などはまたいつか時間あるときにまとめてページ作る予定でいます。それではまたなにか現地情報などございましたらお知らせください。

『RE『「渡来人」ということば』』
管理人 2003年8月30日(土) 3:10:6 削除・編集 スレッドの一覧・返信 信州人さんはじめまして!貴重な視点からの書き込みありがとうございました。「渡来人」ということばについては、おっしゃるとおり、あいまいな先人が作った概念ですね。適切な表現とはいいがたく、「ウミネコ」みたいな先人が作った実際のあり方と内容が違っている特殊用語ですね。「渡来人」をダイレクトに訳すと「海を渡ってきた人」でありますが、実際の意味は「日本(国)」にそれ以外のところやってきた人であります。「海を渡ってきた人」だけならば、九州や四国、屋久島から渡ってきた人も(畿内政権からみて)「渡来人」となります。しかし実際は「日本」+「国」にそれ以外の地域から渡ってきた人として使用されます。ここに「日本」主体の概念であることがわかります。この場合「日本」という領域支配が行き渡っている前提で「渡来人」が使われるわけです。弥生時代には全国な領域支配がいきわたっていたとはいえず、領域観念が示された倭王「武」の上表文以降の古墳時代中後期以降から「渡来人」の概念が適用されてきます。そういう意味では「渡来人」の概念自体は「来国人」とでも言い換えたほうがよいようで、「渡来人」はダイレクトな意味が理解しやすいように地理的な日本領域に渡ってきた人と変化させたほうがよいかもしれません。ただ、この「国」の領域観念においても、現代の国家領域からみてそれ以外から来た人々とみる視点と、奈良時代の国家領域からみての、古墳、弥生時代の政治の中心地域からみた領域観念はそれぞれ異なります。先の書き込みにございました近代ロシアからの「渡来人」、邪馬台国九州?からみてのそれ、あるいは律令政権からみてのと、それぞれ領域観念が相違しますね。基本的に現代のそれを使用するケースも多いですが、はてさて現代人の観念から古代史のあり方を分析して理解してよいかどうかという問題もあり、また歴史とともに国家領域観念は相違しており、今後もその領域観念が将来にわたって永続するどうかというのも、領域観念の崩壊などとともに、概念の作り直しが必要になってくるのかもしれません。国領域の観念をもとに「渡来人」なる概念を使用できるようにするならば、ある時代の国領域観念を基準としておく必要がでてくるでしょう。その基準点をどこにすべきかも明確にしておく必要がありますが、私は暫定的に奈良時代の領域観念を古代史においては基準としてもうけておくべきかと感じます。大和王朝以降「帰化人」とすべきとのご意見については、「王朝を慕って帰化してきた」という意味と解するとすると、そういう思想が実際性を持つ時代、しかもそういう思想を表面上でも保有して渡ってきた人々に限定してのみ使用すべきと感じますが、差別的意味も強く現れており、国際的な学会で通用する概念としては、そのまま「kikajin」で通すか、もしくは複雑な説明補足が使用にあたって必要とされなければ、おおよそ理解されないでしょう。「渡来人」にしろ「帰化人」にしろ、日本から見ての概念であり、国際的な学会では通用しない概念でしょうから、もっと普遍的な現象理解を示す用語を適用すべきでしょう。また「人」というのが、いわゆる単数を示すのか、集団を示すのかという問題もあり、あまりに漠然としています。一人でも「日本人」複数でも「日本人」というのとは、やや異なります。国観念が「人」に入る場合のみでしょう。もし国観念を内包しないとするならば、「torai」+?というつなぎの問題もどうなるのかと感じます。さらに2世、3世についてもやはり「渡来人」と便宜上言ってしまうのですが、やはり「渡来」+「系」+「氏族(日本のみ)」「集団」などと分類を明確にすべきでしょうし、「系」という認識自体も、何世まで適用できるのかという問題もあります。さて、弥生人のDNAがいわゆる大陸系であり、日本人のDNAの数割を占めているということについてですが、三韓からきたのか、あるいはもっと違うところからきたのか、もっとDNA分析の結果が必要であろうとおもいます。それとともに、鉄器や文字が流入しているとのご意見については、現状のところ、文字鉄器が普遍的に弥生人によってもたらされたとはいえないようで、やや問題がありそうですね。弥生時代の文化が比較的文章によって正確に伝承されたという件についても同様に感じます。記紀に弥生時代の伝承が濃く反映しているかどうかについては、私は弥生時代のそれは、物語記述の筋書きとは別の部分で反映しているのではと感じます。論旨一環した物語の筋書き特性というのが、どの程度の文化レベルの人から成立しうるのかという点で、興味深く感じています。皇室等の人々が国家的プロジェクトで弥生人がわたってきたという件に関しては、かねてよりいろいろ主張されてきていますが、今のところまだ証明手段がありませんね。魏志倭人伝の記述の正確性については、私は経路関連では、それなりにおっしゃるように正確性を持っていると感じます。というのも、5つの経路関連記載があって、おおよそ3から4は、特定の場所に帰結すべき文章構造をもっており、あとの1,2が特別な突飛な遠隔地への可能性をもたらしているからです。そこで筆者が記した「卑弥呼」自体は、魏志倭人伝にも、南部、北部の国々で同類の語が同類の音特性をもってして、共通性をしめしながら微妙に変化をもって記載されており、紀などにも、同類の言語が頻出していますね。単に偶然的に同様な発音の同類の概念が生じたわけではなく、それなりに原住民の言語「音」を聞き取ったものであろうと感じます。ただそれなりに書紀の語とも同類性をもっており、あるいは書紀の女性祭祀などを示す語と、卑弥呼の語が連関性をもっている可能性はありうるとおもいますし興味深く感じます。やや長々難しくお答えしてしまいましたが、今後ともよろしくお願いします。

『「渡来人」ということば』
信州人 2003年8月28日(木) 20:0:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信  なにかとお騒がせしています信州人です。

 「渡来人」ということばにははっきり言って差別意識のカモフラージュのような気がしてならない。
 また、あいまいさがある。すべての日本人の祖先はすべて大陸等からわたってきたのだから。
せめて、弥生以降を一般的な意味で渡来人(縄文人やアイヌ、蝦夷と区別する意味で)、大和国家成立
以降は帰化人として一応の区別をしたほうがよいと思う。
 三韓から渡ってきたのは、われわれ日本人の先祖であってけっして在日韓国、朝鮮人の先祖ではないのだ。

 又、日本人のDNAの大半は弥生時代大陸からわたってきているのだから、すでに、皇室および原日本国家は、大陸において
成立し、国家プロジェクトで渡ってきた可能性は大きいのではないのか。

 その時代に大陸から渡ってきたのであれば、当然、鉄器、とともに文字は持ってきたはずなのである。
そのため、弥生時代以降の歴史は、古事記、日本書紀に割合に正確に反映されているはずではないのか。
 魏志倭人伝の作者は日本の事情にうとかったであろうし通訳の能力も疑わしい。それを丸ごとといっていいほど信じているのは、
「神の手」事件と全く同じではないか。
(地理的記事は正確だとしても)たぶん、国内情勢については神話(当然説明をうけるだろう)と現状がこんがらがってしまった
のではないのだろうか。卑弥呼は日御子(この時代、「コ」は普通男につける名では。)であり、一般名詞で、オオキミの別称。

神事をおこなう斎王を女王と勘違いしたのではないか。

はなしが 広がりすぎたので、このへんでやめます。 最後に「日本人は根本をうたっがて考える癖をつけるべきです。」以上。

『東欧よりの近世の渡来人情報求む』
きりぎりす 2003年8月25日(月) 19:50:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 岡山人です。祖母が三年前に93歳で亡くなり、その姉も100歳を前に昨年亡くなりました。その後で,祖母の家系はロシア系だったらしいことを耳にしましたが,親族の古老たちはもう残っていないので、調べるすべがありません。代代の戸籍にも記載なく,数百年に渡る膨大な数の墓石にも手がかりはありません。祖母の家は備前地方で庄屋でした。
百数十年前頃、可能性として,どのような理由からロシア系の人物が家系に入ってきたのかを知りたいと願っています。
この時代,東欧ではユダヤ人に対するポグロムが各地で起こり、社会主義への革命もあった時代です。怒涛の時代の中で、シベリア経由で日本に逃れてきた人たちはいたはずです。何かこれに関する資料をご存知の方は教えてください。

『RE『東欧よりの近世の渡来人情報求む』』
匿名希望 2003年8月26日(火) 22:5:47 削除・編集

『2002年度年度末報告をアップしました。』
管理人 2003年8月1日(金) 5:1:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 2002年度の渡来人研究会年度末報告をアップしました。昨年から今年にかけての研究計画案に基づく研究および掲示板に寄せられましたみなさんのご意見の主要な論点をまとめてみました。その論点の主要な参考文献や新視点についても掲載してみましたので、よろしかったら今後の研究の参考にしてみてください。それでは、今後ともご意見情報よろしくお願いいたします。

『渡来人は記録から見えた』
旅人 2003年7月25日(金) 22:19:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今日成尋鎌倉時代の人、を探索していたら何と栄西、重源と同じ一族で頼朝の家臣季重の甥にあたる中条氏で皆揃って唐入りをしていました。この話をしておかないと、見えて来ません。  この母が成尋に送った歌から、渡来人たちの姿が見えました。
もろこしの.もろこしとは広辞苑を取り出し見ると、
[唐土.唐]とあり諸越中国の越国この訓読)とあり日本の天皇の祖先は渡来した事がはっきりと見え、学者も
何の事かワカラ無いだろう、よそ者はとあんぐりを描く。もろこしとは言霊なのであった。つまり日本語、
詳しく述べるとひらがなの意である。
中国の越王の後裔は児島高徳である、天こうせんを空しうすことなかれのように意味が歌に込められていました。やはり同じ系の人は想いが同じだった。
天の下にもと、明智光秀と同じ事指していました。
天の下にぞの、照る日の本をわすれなむ。 が歌
照る日ノ本とは国の意です。忘れ南無とは忘れてはならない、と語っています。南無とは祈りのことを云います。明智光秀は頭がきれる人でしたので他の人には
理解されないままになっていました。天の下しる、さつきかな、は意味が同じで、天すなはち天皇ではなく
越王系統がと言う訳で下とは下す意、しるとは知らしめせる、と云った訳でさつきとは五月晴れの意で晴らすと光秀は云ったのです。この様に国を信長が継ぐのは系統から許されなかった事になります。旅人がわがままな話をしたと思って下さい。

『RE『渡来人は記録から見えた』』
管理人 2003年7月28日(月) 11:26:43 削除・編集

『RE『原稿公開中。』』
管理人 2003年7月6日(日) 1:54:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ホームページ拝見させていただきました。高句麗系氏族について、5,6世紀から諸文献をはじめ、考古学面からも豊富な史料をもとに、出雲との関連で大変画期的な成果をだされはじめているようですね。わたしも大変勉強になりました。特に出雲の日置氏は高句麗系なんですね。なんともお読みしていてなるほどと感じる部分が多くありました。まだ、全部は拝見していないのですが、今後もいろいろ拝見勉強させていただきます。それでは書き込みありがとうございました!

『原稿公開中。』
倭人Z 2003年7月5日(土) 7:50:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来氏族の内、高句麗氏族の来朝目的や活動の実態を解明します。
想像以上の出来事が展開される予定。

題名「仏教出雲に伝来」として、仏教徒の渡来から始めています。その後の宗教の争いに応援するため、高句麗氏族の渡来がありました。

日本仏教の発展のため、彼らが果たした役割は大きかった。連載中なのでご覧になってください。

『芳山さんへ』
管理人 2003年6月28日(土) 19:3:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 現在でも高麗という苗字の方がいらっしゃるのですね。苗字については先日この掲示板でもご紹介したホームページがございますので、参考にしてみてください。意外なことがわかってくると思いますよ。高麗神社の宮司さんについては、高麗神社に関するホームページで談話が載せられていましたが、歴史にもお詳しく、その宮司さんに教わっているというのはまた貴重な体験をお母様はなされたことですね。それではまた。

『管理人さんへ』
芳山 2003年6月27日(金) 2:2:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん、レスありがとう御座います。
これから色々と調べていこうと思います。

それと、私の同級生の女性で高麗という苗字の方がいますがこの方は高句麗時代の王朝の子孫です。
埼玉県日高市の高麗神社とは深い繋がりがあるみたいです。

因みに、高麗神社の宮司さんは飯能市の某学校で元社会科教師で私の母は学生の頃、教わったと言っていました。

では、失礼します!

『はじめまして安川さん』
管理人 2003年6月24日(火) 23:9:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして安川さん。本ホームページは古代史でもどちらかというと文献の分析を主体としているので、古墳のことについては、当ホームページのリンク集に古代史関係の総合リンクサイトをリンクしているので、そちらで調査されてはどうかと感じます。ページアドレスはhttp://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/link0.htmです。
それでは(^-^)/~

『はじめまして芳山さん』
管理人 2003年6月24日(火) 23:2:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 芳山さんはじめまして!在日韓国・朝鮮人の方が用いる通称名および、韓国のソウルに芳山(パンサン)という地名については、また情報をお待ちしたいところですが、高句麗からの渡来人についてはちょうど昨年から高麗郡とのかかわりでこの掲示板でもとりあげられていたところです。今、そのまとめの報告をアップしたところなので、ぜひ参考にしてみてください。ページは、http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/nendomatuhoukoku2.htmです。それでは今後ともよろしくお願いします。

『はじめまして!』
芳山 2003年6月27日(金) 2:0:29 削除・編集

『初めまして!!』
安川 侑絵 2003年6月24日(火) 9:21:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 初めまして!あの〜。聞きたい事があるのですけど。
あの!今!古墳の事は、調べています!!
でもいい資料が、見つかりません!
だからいい資料が、見つかったら教えてください〜!
(>0<)/

『はじめまして!』
芳山 2003年6月23日(月) 23:44:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!
管理人さん&常連さん、宜しくお願いします。

私は、埼玉県の川越に住む芳山といいます。
以前から苗字のルーツ興味があり調べた所、在日韓国・朝鮮人の方が用いる通称名でごくまれに=芳山=という苗字を使っていられる方がおります。

それと、韓国のソウルに芳山(パンサン)という地名が残っています。これとは関係あるのでしょうか?

あとは、朝鮮半島が高句麗時代に渡来人として日本に渡ってきたと言う説もあります。

もしこちらのサイトで、解ることが御座いましたら教えて下さい。

宜しくお願いします。

『苗字の分布に関するホームページをリンクしました』
管理人 2003年6月21日(土) 5:7:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「日本苗字分布図鑑」とのホームページを新たにリンクいたしました。全国の苗字に関する詳細な分布図や割合を驚くべき精度で調査公表なさっているホームページです。わたしの姓も調査していただいたのですが、あらためて、祖父が元いた町、そしてかねてしらべていた祖先の系譜などと全国のその分布などがぴたりと一致しており、あらためて氏名分布と歴史学との接点がいかにとんでもない視点をもたらすかを感じさせられました。ぜひ、みなさんもごらんになってみてください!http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/welcome.htm

『RE『紀男麻呂は調月に来た』』
管理人 2003年6月21日(土) 4:58:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 調月さんはじめまして!紀男麻呂、調月に関する歴史についてご意見ありがとうございました!さっそくホームページ拝見させていただきました。まったく内容、デザイン構成などすばらしいホームページですね。ぜひリンク貼らせてください。
かつて昨年この掲示板でも、明光丸さんから紀男麻呂と紀伊の男水門の地名に関するご指摘がございました。欽明から推古にいたるまで、紀男麻呂(オマロ)、あるいは紀(オマロ)+丸々、との人物がでてきており、最初どういうことなのかと思っていたのですが、
紀男麻呂宿禰という、姓だったのですね。そしてホームページ拝見していて、その姓の由来がわかりひとつ心の中のなぞが解決しました。聖徳太子や蘇我氏と紀男麻呂などとの関係など、とても興味深く感じます。外来系とされる大歳神をその氏族が祀っているのも、その辺天武ごろに体系化するそれらの外来系神々との関連について、またすこししらべてみようと思います。今、高麗郡などに関するテーマの年度末報告をおとといから新たにページでアップしまして、7月下旬あたりまで、修正編集して行く予定ですが、紀伊のその辺にことについても短くまとめて挿入してみたいとおもいます。参考にしてみてください。それでは貴重なご意見ありがとうございました。

『RE『7世紀にどのようにして漢語が日本に入ったか。』』
管理人 2003年6月21日(土) 4:44:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!7世紀に漢語がどのように日本にはいったかということについてですが、かつてこの掲示板に、言語・音声学の専門の方からご意見いただいたので、ご紹介いたします。以下のページにアクセスしてみてください。詳細に説明してくださっていますよ。それではまた勉強がんばってください!
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban1.htm

『紀男麻呂は調月に来た』
調月 2003年6月21日(土) 0:50:27 削除・編集 スレッドの一覧・返信 旧高野領内文書の紀氏系図によると、紀男麻呂は蘇我馬子・厩戸皇子軍に加わり、物部守屋討伐後、推古天皇の世に紀伊の国に来て紀氏の谷と称して四面を開く。吉仲郷の調月は、当人の名前に由来する。作農翁の像称権大臣で、神戸に社殿を造営、紀氏の神はこれなりと記されています。紀男麻呂宿禰調月と名乗り、調月の庄(現和歌山県桃山町調月)の領主となり、600年前半に没したと推定されます。その子孫は綿々と、調月の大歳神社の神主を務めています。
調月の歴史 http://www.geocities.jp/ugn23323/

『7世紀にどのようにして漢語が日本に入ったか。』
日本史素人 2003年6月20日(金) 14:12:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 専門的なホームページに載せるのは大変恐縮なのですが…。
大学の一般教養の授業で、タイトルのレポートが課題になりました。明らかにほかの授業でもレポートラッシュのこの時期なのに期限が1週間です。本も勿論見ますが、通読は時間的制約のため不可能です。ホームページもどこを見ればいいのかわかりません。てんてこまいなこのわたくしめにアドバイスがある方、どうぞお教えねがいます。どういう資料集めの仕方があるかおしえてください!!