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渡来人研究会掲示板ログ3

『高麗郡設置と元興寺移転が同じ日』
管理人 2003年6月11日(水) 3:27:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日からまたすこし高麗郡と元興寺について調べているのですが、ふと思い出したのはだいぶ前に書き込みしたのですが、716年5月16日条は、高麗郡設置とともに元興寺が左京に移転されたことが記されていることがありました。そこで、やはり高麗郡の設置への意図と、元興寺移転への意図が、天皇周辺にいた仏教的思想特に道照から当時和泉で活動中の行基らと関わりの深い人物によって天皇に奏上されたのではと考えます。その前日の5月15日条では、詔として天皇が全国の寺院の荒廃などに対しての寺院統合策など仏教的引き締めとともに、藤原武智麻呂が近江守としてその地の仏教徒の乱れを奏上し、同様仏教綱紀の引き締めを訴えています。その武智麻呂の奏上文の中に論語からの引用として「人こそよく道を弘めることができる」とあるのですが、ちょうどこの論語の引用が700年の3月10日の道照の死去条にある道照の人生についての説明文の中で、三蔵法師が道照に語った言葉として、「論語・・人こそ道をよく弘めることができる」と引用されているのであります。さらにこの条文では、元興寺(飛鳥寺)の横に禅院を立てたこと、船を作り橋を架けたことが書かれており、さらに道照の死後、都を奈良に移すとき、道照の弟と弟子とが元興寺(飛鳥寺)を右京に移築したことが記されています。この右京への禅院の移築と、その715年5月16日の左京への元興寺の移築との関連がどうなのかというのが気になるのですが、元興寺の屋根葺きが行基葺きと言われたように、なんらかの形で双方の移築に道照の弟子(行基)などの集団が関与した可能性があるのではと感じます。そして、藤原武智麻呂がどうして、その論語の先の引用を仏教の綱紀引き締めにあたりしたのかというのも道照との関連で捕らえていけるのではと感じます。そのほか当時の政権をになっていた熱心な仏教徒長屋王、多胡郡設置にかかわった多治比真人池守、三宅麻呂あたりの人物との関わりも参考にいれています。高麗郡に高麗人を関東圏から集めているわけですが、武蔵と上野国からは高麗人を集めていないのも、上野では数年前に多胡郡として渡来人を集めて戸籍につけた関係もあり、あえてさらに移動させることはしなかったのかもと感じます。いずれにせよ、高麗郡の高麗寺に行基と高麗若光が共同で創設したとの説話がのこっており、やはりその瓦系譜が飛鳥寺、川原寺系であることを考慮しながら、元興寺瓦のほうも調べているのですが、たまたま先日埴輪展が歴史民族博物館であり、うちのホームページで紹介させていただいたこともあり、いってみたのですが、ちょうど元興寺瓦の本と季刊考古学30号に全国各地の寺院と瓦と渡来人についての特集号がありましたので、今すこし見比べています。ただ、やはり素人にはよくわからないというのが本音でした。ただその埴輪というのも、よく見てみると、地域の文化や人種の相違をよく表しているようで、特に関東の河川が集合する上野、下野国の支配者で奈良初期にも政権中枢に入り込んだ上毛野真人氏と埴輪に描かれている首長の儀礼と王族との関連が興味深くかたりかけてくるものがあり参考になりました。その真人というのが、基本的に継体天皇以降の王族から派生した親王家に与えられるかばねなのですが、不思議なのは奈良初期に余真人という人物が見えることです。余姓は先の掲示板でも触れたように、百済の亡命王族ですが、天武以降は特に日本の王族にしか与えられないはずの真人が与えられており、そもそも、百済公、百済王、高麗王、背奈王などの王、公(君から派生しないほうの)というかばね自体も、親王家に順ずる感じのものであろうと思われます。やはりその辺官位昇進に関してもそれらの外来王族が、どの程度日本の親王家の位階昇進のあり方と関係してくるのかも興味深いところですが、またもうひとつ外来王族に関して面白いのが、やはり高麗郡の山を城として、山頂に寺院を設ける構造でしょう。たまたまピョンヤンの高麗廟と寺院との配置図を展示に行ってある本で見たのですが、やはり高麗郡同様、山の上に王城があり、寺院を建築しており、しかも民衆の住む平地とは川を隔てて少々離れているのでした。それはやはり掲示板でご指摘あったように、高麗郡においての王廟や寺院遺跡と民衆の住んだ遺跡とが川を挟んでへだたっているのとまったく同様な立地条件であると思われます。やはりピョンヤンの寺院と配置が同様な高麗系の流れを強く受けた奈良飛鳥の寺院、そして高麗郡の建築立地構造の解析は、かなり重要な課題であるようです。ということで、やっと高麗郡設置に関して、目安がついてきたので、これから2002年度の研究会年度末報告のほうにとりかかってみようと思います。それでは、いつもみなさまご意見ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

『元興寺、行基葺き、川原寺系瓦、高麗』
管理人 2003年6月4日(水) 4:29:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日お話しました和泉大鳥郡の行基の活動および寺院建築技術と、その師匠道照の寺院建築技術の関係、および高麗郡設置期における高麗郡の寺院建築技術との関わりについてですが、さっき調べてみてなんぼかヒントらしきものが出てきたのでお知らせします。
飛鳥寺が平城京に移ったとき元興寺に改められたのですが、その元興寺の瓦葺き技法が、行基葺きといってどうも師道照が西域の建築技法と、また高句麗のそれともかかわって持ち込んだ技法うぃ受け継いだことと関連するらしいです。詳しくは以下のホームページを参照してみてください。

http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-86.html
http://www6.plala.or.jp/kaya-nrm/gankouzi.html

たぶん、行基や道照の土木、造船、仏教知識とは別に彼らの背後にあった渡来系の瓦葺き技法を得意としたような寺院建築集団がいたのではと思います。高句麗系との意見もあるようです。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/az/asuka.htm
飛鳥寺が城としての機能を持っているのは、高麗寺が同じく城と高麗人にみなされたのと似ています。
平城遷都(710年)当時ですでに行基?集団の寺院建築能力が独自に都作りにかかわっていたことも考えるのですが、その5、6年後の和泉監への離宮建築、および高麗郡への郡寺高麗寺設立に際し、それらの道照、行基などを支援した渡来系集団がそのまま関東にわたって影響をおよぼした線はどうかと思いました。
高麗郡の女影廃寺の瓦がこの高麗郡設立とともに、関東に普及したそうなのですが、もともとは飛鳥の川原寺系の瓦に起源があるそうです。上野の廃寺の瓦とも同はん関係にあるらしく、郡寺的な国家的意図による瓦および寺院建築とみなされているそうですが、先にご紹介した、高麗郡の高麗寺や若光を祀る白髪神社に行基と若光との寺院設立説話が残ること、および道照により持ち込まれた法相宗であったことなどを考慮しても、ある種、和泉の港から相模、高麗郡へと船で渡ってきたかもしれない土木、造船を得意とした渡来系の集団、たとえば秦あるいは吉士集団や高麗亡命氏族集団の移動があったのではと今思います。そしてやはり道照が7世紀後半に三蔵法師の周辺にいた土木集団からどういう西域系の技術を持ち込んだのかというのも、気になるのですが、また元興寺縁起あたるの思想文化分析が必要そうなので、その辺もちょっと取り組んでみようかと思い始めました。なにか、その辺考古とか仏教思想関係で情報ございましたらよろしくお願いします。

『ゆうこさんへ”2』
管理人 2003年6月1日(日) 9:53:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ゆうこさん、先に書き込みいただきありがとうございました。どうも掲示板スレッドの関係で、質問見えませんでお返事遅れてすいません。もしまだ見ておられたら参考にしてみてください。渡来人がわたってきた船にどのくらいの重さの鉄などの物が積めたかという視点、興味深く感じます。いろいろ私も考えたことがあるのですが、弥生時代のそれよりはもうすこし後の時代の船、しかもすでに中国や朝鮮の先進国の船だったとしたら、ずいぶん重いものや多くの人もつめたでしょう。軍船とか・・。一方民衆や漁師が乗っていたような、丸木船?に近いものだったら、馬とからくだとか羊とかは積めないだろうと思います。もちろん、重い鉄の塊とか、仏像とか・・・。弥生時代となるど、ちょっといわゆる古墳時代の「渡来人」の時代からはずれるのですが、たとえば、邪馬台国の卑弥呼に銅鏡数百枚を送るというのがありますが、1枚3キロくらいとして数百枚卑弥呼のところに送るのには、1トン以上の荷物を船で運ばねばならないでしょう。で、さらに陸地について、当時馬がまだ日本にないとすると、かなりの人数で運ぶでしょうから、その荷物と使者全部を安全に届けれる支配の確実な場所というのも、なんぼか限られてくるように感じます。弥生から時代が下って記紀の渡来物の記述もさまざまですが、たとえば馬とかの動物二匹とか書いてあったとしたら、なんぼか船の規模の目安も出てくるかもしれません。その辺、統計とってみるとおもしろいかもしれませんね。騎馬民族説あたりをしらべてみるといくらかでてくることでしょう。朝鮮からきたという吉士集団とかは、川を通して多くの瓦など重いものも、大量に都建設であちこちに運んでいたらしく、後代の道照とか行基とかいう高僧が、船氏などから出て橋や池などの大規模な工事をやっているのも、あるいは土木や土砂などを船を使って運搬する技術あってのことかもしれませんし、時に遠隔地に親族の船を通して出向いたり、部下を送ったりするのも容易だったのかもしれません。船と渡来に関しては、白山信仰というのがあるんですが、これは新羅国から白山というのを目指して渡来人がわたってきたことに由来するそうです。
詳しくは以下のホームページ参照してみてください。
これも行基や関東とちょっと関係しています。
http://www.komatsu-c.ac.jp/~yositani/asi2.htm
渡来人がもたらした文化が自国のものなのか、あるいは中国や西域のものなのかについては、その双方あるようです。ただ、日本で遺物や文献資料として残るものは、その外来文物が日本で複製されて、さらにまた複製改良されて移動してという感じになるので、純粋に外来系のものを見分けるのがちょっと難しいものも多くあります。たとえば今掲示板で取りあげている高麗郡の文物や遺跡の遺物については、瓦なんかだと、関東では高麗郡からどうも波及した瓦が多くあるそうですが、かならずしも渡来系氏族の出身国の瓦と関係するわけではなく、一度飛鳥とかで古い時代に先祖の渡来人が持ち込んだらしくものが、ちょっと期間があいて変更・改良されて関東に持ち込まれているらしいです。その空白期間においていろいろ外来形式も変化するらしく、今気にしているのは、飛鳥から行基とかがいた和泉の寺院建築遺物、そして関東の遺物とがマッチしないかどうかという点です。
このように、渡来人のもたらした文化は自国からダイレクトに来たものと、渡来人が通過した国、あるいは日本各地での文化とが混じったものとがあるようで、その辺の見極めが大切です。それではいろいろ質問ありがとうございました。


『RE『鳳百年史』』
管理人 2003年5月31日(土) 23:4:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 しんさん、大鳥姓、大鳥郡について大変詳細なページ紹介いただきありがとうございます。アドレスは正しくはhttp://homepage2.nifty.com/myamauchi/ootori/index.htmlですね。
また、その中で大鳥郡創設と行基の活動についても詳しく書かれており大変参考になりました。
大鳥郷の中にある布施屋里にみられるような、行基の布施屋や地溝建築の跡が多くの残っているようですね。彼の布施などの活動は、後代ページにも書かれているように、中央政権に活動が認められた後の大仏造営とともに光明皇后などの同様な活動に影響していったことでしょう。この布施や地溝建設活動そのものは、どうも行基の師匠の道照から受け継いだようです。この道照については以下のページを参照してみてください。http://home.highway.ne.jp/ikekawa/mm015.html

さてそこにも「寺域の南東に接する部分で7世紀後半の建物群が見つかった。『続日本紀』に日本法相宗の祖といわれる道照が飛鳥寺の東南に禅院を建てて教えを広めたことが出てくる。建物跡はこの「東南禅院」だと見られる。道照は入唐して玄奘三蔵法師について学び、帰国後は教学と共に民間事業や布教にも功績があったという。また日本で最初に火葬された(700年)人物としても記録される。」と書かれているように、この道照は孝徳天皇の時期に、653年に唐にわたり三蔵法師と会い、帰国して唯識法相とともに、法相宗を持ち込み、その辺を布施や地溝建築活動ともに、行基にある部分は伝達したのであろうと思います。地溝建築で有名な斉明天皇のときにも三蔵法師へ僧を送り込んでいますが、彼の渡航もその流れでしょう。さて、その法相宗については、先日武蔵国分寺さんから、高麗聖天院が奈良時代当初は法相宗であり、その後密教伝来のころから真言宗に改宗したとのことでしたね。そこで、この法相宗の関東伝播の背景について考えてみるとおもしろいかもしれません。それではいつもみなさん、貴重な情報ありがとうございます。

『鳳百年史』
しんさん 2003年5月31日(土) 14:0:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん 管理人さん

大鳥姓について貴重な資料のご教示有り難うございます。
 さて、堺市鳳小学校のホームページに「鳳百年史」が掲載されていました。大鳥連や大鳥社の由来にも触れています。これからも宜しくお願いします。
鳳百年史
http://homepage2nifity.com/myamauchi/ootori/index.html


『RE『古代語+聖天信仰の始まりについて』』
管理人 2003年5月31日(土) 1:14:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 武蔵国分寺さん、高句麗語などについて貴重なご意見ありがとうございます。高句麗語でnua(壌) がnarah(国)つまりナラになるのは中世なのですね。そして飯能をもってハンナラと読ますとするならば、中世以降になり、もし古代に飯能をもって似たような朝鮮語読みになるとするとハンnuaになってしまうわけですね。意味も、国をあらわすのは中世とのことになり、また武蔵国幡羅郡の幡羅をもってハンラとする読みのラという語自体は、また別のnuaなどとは別の語ということになりますね。ハンナラ=ハン+奈良(国)説は、引用するのはやはり今の段階ではご指摘どおり危険ですね。さて、聖天信仰の高麗聖天院との関係のほうも、弘法大師のころからとすると、古代朝鮮からのものとは別系統の伝播と捕らえるべきですね。なかなかやはり奈良初期までもってこれる資料は少なく、かなり重層的に朝鮮文化が流れ込んでいるようですね。また別スレッドであとで書き込みしますが、和泉監設立時の行基の活動が、どうも高麗郡建郡以前に行基の東国布教の一環として、当地の若光王を祭る白髪神社の創設(716年)にかかわっているとの説話があるらしいのですが、この辺にみられるような河内、相模から高麗郡にかけての高麗に関する説話の起源や語源などについてもどこまで溯れるか情報ございましたらお知らせくださいね。それではいつも貴重な情報ありがとうございます。


『古代語+聖天信仰の始まりについて』
武蔵国分寺 2003年5月30日(金) 14:10:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 古代の日本語と高句麗語、新羅語に関した面白いものを見つけましたので紹介します。
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/214
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/246
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/248
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/119
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/126
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1053794963/129
あと聖天院の歓喜天ですが、私が調べたところ日本の聖天信仰の始まりは弘法大師の帰国をもって密教が伝わったことによると考える見方が定説のようで、おそらく聖天院が法相宗から真言宗に改宗した頃に僧侶が寺の繁栄を祈願して招来したものではないかと伺えます。何度か大きな火災が高麗一体で発生してるらしく、詳しい古文書などが多数消失してしまっているところが惜しいところですね。

『羊門について』
管理人 2003年5月24日(土) 4:55:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先に書き込みしました多胡碑と高麗王廟の二匹の羊像の門との関係ですが、またすこしわかってきました。
まず、高麗王廟の羊の像の門は、李氏朝鮮の習俗で、王廟を守るための羊像と関係しそうです。中国でもわりかし羊像をもって狛犬の代わりに門とすることが多くあるそうです。
http://www.enjoo.com/komaken/gesut/matida/tyugoku.htm
李氏朝鮮の羊門については、早稲田にゴルドン婦人の記念館に寄贈品があるそうで、以下のホームページにみえます。ゴルドン婦人は高野山に中国の大秦景教碑文の複製をもたらしたりと、古代日本へのキリスト教伝来を研究した人で有名です。たぶん、李氏朝鮮の羊の門についても、聖書に書かれているエルサレムの池の中にある羊の門のことと関連させて興味をもったのでしょう。高麗王廟の羊像門は、李氏朝鮮のそれとよく似ています。さて、突厥などでの遊牧民の遺跡でも、碑文と羊石像の組み合わせは多いようです。
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/khoshoot/khoshoot2.htm
多胡とのことで、多くの胡人つまり遊牧民との関連も推測されていますが、あるいは多胡碑そのものも、羊石像と碑文との組み合わせの可能性もないかと思います。羊太夫伝説自体が、主人公はペアで、最後は鳥になって二匹で池村に行くことになっていますが、
そもそも、石像としての二匹の羊像があって、その辺から伝説がきているのではないでしょうか。朝廷が「羊に給う」としたのは、羊そのものではなく、羊の石像ではと思うのですが、狛犬が二匹で門番をするように、多胡郡碑自体の場所がどうも墓ともかかわりあるようで、また吉井町の「御門」という地名に建っているのもいささか興味深く感じます。狛犬は高麗を経由して渡来人がもたらしたのでそういうのですが、このとき、独羊なるにたような門番の石像も入ってこなかったかというのも突厥民族の碑文の周りに羊石像を数匹配置する胡風なありかたと関連しないかと感じました。とはいえ、まだ盲説なので、なにか情報あったらお教えくださいね。

『高麗王廟について』
管理人 2003年5月24日(土) 2:49:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 武蔵国分寺さん、ホームページ勘違いもうしわけありませんでした。再度ホームページ拝見させていただきましたが、古代日本語と朝鮮語の関係、特に以下のページの内容は万葉集の解読についてなど、渡来人研究をしていく上でも欠かせない内容と感じました。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/manyou.htm
やはり言語の専門家はすごいですね。勝楽寺が歓喜天を建設当初から祭ったかどうかの点についても、興味深いですね。国分寺さんもネパールの語源について紹介されていたように、ちょっと検索した感じでは、インドやネパールのそれと日本の歓喜天のあり方がよく似ているそうで、勝楽寺にもその影響があるとすると、また伝来面での面白いですね。さて、木村さん、高麗王廟についてですが、高麗聖天院の立っている丘のふもとに池とともにその中にたたずむ感じで立てられているんです。聖天院の建築は、室町建築とされていますが、とりあえず高麗氏系譜前文に「若光が没したので高麗より従い来れる貴賎相集まり屍を城外に埋め、且つ神国の例により霊廟を御殿の後山に建てて高麗明神と崇め、郡中に凶あればこれに祈る。長子家重世を継ぐ。天平勝宝3年(751)、高麗の僧・勝楽寂す。その弟子・聖雲は師の遺骨を収め一宇を草創す。勝楽寺という。聖雲は若光の三子なり。」とあるそうです、王廟自体は鎌倉時代の創設とされていますが、ほとんど私はこの辺詳しくないので、たんなる興味としてですが逆にみなさんに今おたづねしているところなんです・・・。この系譜自体いつできたかも知りたいところですが、死体を「城外」に埋め、「神国」の例によっての「御殿」の「後山」に「霊廟」が立てられたとありますが、要するに、王の死体と当初の丘の上に立てられた霊廟は、相違しており、鎌倉ごろにもともと死体のあった場所に霊廟を移したのかなとも感じますが、その辺朝鮮の埋葬方式がどうなっているのか、よくわかりません。
城や墓と祖神を祀る場所が平地と山とで異なるのは、三国遺事とか朝鮮の考古学で有名なあり方と類似していて、また歓喜天のページででてきた「聖天」信仰と、「遺事」でしたか?に出てきたような「聖天」の語とのあり方との関連も気になります。その辺よくわかりませんが、私が王廟を拝見した感想では、なぜ池の中に墓があるのかという素朴な疑問とやはり個人的興味なのですが、狛犬でなくて羊二匹の像が門になっているのが、合点がいかない感じがしていまして、多胡郡碑の「羊」の問題とちょっと関連しないかと感じてはいるところですが、ただの思い込みかもとも思います。多胡郡の「羊に(を)給す」の羊が二匹だったり、門と関連してたり、いわゆる門番稲荷様ならぬ羊さま信仰と関連するとまた創造も膨らむところですが。たとえば羊太夫伝承にでてくる居城「城山」の語と先の「城外」との関係とか、羊太夫とペアの「小脛」とか、二人の最後に向かったところ「雨曳山」そのそばの「池村」とか・・・。その羊大夫の物語とギリシア神話が似ているという話もあり、西欧では池にある羊の門は結構有名なところなので、ちょくちょく信仰形式の比較でも気にはしているところですが、空想なので学問的には考慮しないでくださいね。なお羊太夫の伝説関連は以下のページで見えました。
http://www.chichibu.co.jp/~wado/wadokaichin/hitsuji.htm
http://www7.wind.ne.jp/yoshii/rekisi/rekisi/chu3.htm
それでは、みなさんいつもご意見ありがとうございます。


『話が錯綜しますが…』
木村ハマ子 2003年5月22日(木) 11:14:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 高麗王廟について詳しく教えてもらえませんか。どこに位置して、いつ頃より存在するのか。

『RE『現代朝鮮語で想像するのは危険じゃないですか?』』
管理人 2003年5月21日(水) 21:29:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!言語学、そして武蔵国の専門家であり、わたしも過去にホームページをよく拝見させていただいた方からご意見いただけるとはまったく感謝です。奈良の語については、ご指摘のとおり、いろいろあるようですね。平らな土地との意味や、検索で「ハンナラ」と引いたら、韓国のハンナラ党がでてきて「一つの国」との意味であることが書いてあったり、現代、古代と語源のルーツを探るのはやはり専門家のご意見が重要と感じます。ネパール語でも土地を意味するとのことで、奈良、ハンナラの語源については、さまざまな方面からの語源調査や論議がかかりそうですね。先に示した幡羅郡については、高麗郡というより多胡郡に近いところに位置しており、多胡郡を作り際にも「甘良」「カンラ」という郷を併合しているそうで、その辺の「ンラ」の語源おの関連も気になります。あと、高麗神社の門についてもホームページで、「天下大将軍」「地下女将軍」の巨大な「将軍標」(トーテムポール)がたっているとのご紹介もしていただいていますが、高麗王廟の羊の門についても、なにかご存知ないでしょうか。こういう朝鮮式の構造物の起源についてもちょっと興味もっています。今後ともよろしくお願いいたします。


『私はあそこのサイトの人間ではないです^^』
武蔵国分寺 2003年5月22日(木) 6:31:20 削除・編集

『現代朝鮮語で想像するのは危険じゃないですか?』
武蔵国分寺 2003年5月21日(水) 21:28:11 削除・編集 スレッドの一覧・返信 現代朝鮮語で地名を考えるのはいかがなものかと思われます。
NARAは現代朝鮮語です。
あとNARAはネパール語で土地を表します。
音節の短い語で奈良=朝鮮語の国
志木=新羅とするのは大きな間違いに繋がると思われます。
以下サイトも参照。
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/timei.htm
http://www.inetmie.or.jp/~jin/NAR.htm
http://www.fides.dti.ne.jp/~matsuda/index.html

『ありがとうございます!』
ゆうこ 2003年5月21日(水) 18:56:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 どうも質問に答えてくださってありがとうございます!大変やくにたちました!そうなんですか・・。船で渡ってきたんですか・・。あとですね・・渡来人は鉄を運んできましたよね。それで鉄は・・重いから小さい船だと沈んじゃうと思うんですよね。でもでっかい船などは、弥生時代などにはまだなかったと思うんですが・・・どうなんでしょうか? ペルシア人などもきていたんですかぁ。
結構いろんな国の人が来ていたんですね。
渡来人は自分の国の文化を伝えたんですよね。
おもには、中国の文化などを伝えたのでしょうか?
後、ほかの国の文化なども伝えたのでしょうか?
またまた質問をしてしまってすいません。
また答えていただけるとうれしいです。
よろしくおねがいします。

『ゆうこさん、しんさんへ』
管理人 2003年5月20日(火) 2:37:20 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ゆうこさんはじめまして!まず最初の質問、渡来人が海を渡ってきたかどうかですが、一般論では日本列島以外の朝鮮や中国から船で渡ってきた人を渡来人というのが通説です。ただ、日本自体が島々でできているので、どこかしらの多くの日本の人々も常に海を渡って行き来していたともいえます。今日はニュースで弥生人が通説よりはるかに昔の紀元前800年ころから、中国起源の稲作を伝えはじめていた可能性も指摘されており、海を渡ってきた人とか、どの時代から来た人を渡来人というかとか、「渡来人」の概念には難しい課題が山積みです。第2の質問、鉄を運んできたかどうかですが、これは、5,6世紀にきたとされる渡来人の場合、鉄の技術を運び、日本で製鉄精錬したと考えられています。ただ、もちろんなかには朝鮮などで加工された鉄製品を船で運んだケースもあるようです。第3のどこから渡来人が来たかについてですが、5,6世紀の渡来人については、朝鮮や中国から来たとされています。ただ、7世紀以降くらいになると例外的になかにはペルシア人とか東南アジア人とかいろんなところからたどりつく渡来人も少ないながらも見えています。ゆうこさん今後ともわからないことがございましたら気軽にご質問くださいね。

しんさん、パソコンのフリーズはかなりびっくりしますよね。わたしもおとといパソコンが復旧するまで、突然パソコンの起動が遅くなり、フリーズしはじめ、ついに動かなくなって、ハードディスクを仕入れるまでしばらくなにもできない状態でした。しんさんもせっかく収集した歴史データが紛失しないよう、バックアップ方法やウイルス対策には気をつけてくださいね。大鳥姓についても、またいろいろ進展があってよかったですね。こちらでもまた大鳥姓についてなにかわかり次第お伝えいたします。それではいつもありがとうございます。


『まず木村さんへ』
管理人 2003年5月20日(火) 2:13:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、またまた貴重なご指摘ありがとうございます。飯能市の「飯能」を朝鮮語で「ハンナラ」と読ませる件は、過去にも掲示板でWallaceさんからご指摘あったのですが、つまり韓国語読みのHan(英語のnear近いの意味)Nara(国、ここでいう国とは隣街の高麗川のこと)から来ており昔は”はんのう”ではなく、”はんなら”と発音されていたのが、今の飯能になったという説と同じく埼玉県の志木市は昔は
新羅という地名だったとのことでした。もっとも、そのほか「飯能」の地名にはいろいろ諸説あるようですが、905年作の『延喜式』神名帳に、武蔵国旛羅郡とありまして、後幡羅とも書き、「ハンラ」→「ハン・ナラ」という具合で解釈する説があります。神名帳によると、旛羅郡に奈良神社と見えますから、やはりその「ハン+ナラ」の線を考えるのですが、ただ問題点は、同じ武蔵国でも、高麗郡からかなり旛羅郡が北方にあることです。同国内で同様な地名がみられる例は多いのですが、なお、その「国」あるいは「ナラ」
観念がどういうものだったのかを知る必要があるだろうと感じます。
もうひとつの質問、高麗王若光が本当に高麗王族であったかとうかについてですが、天智期に二位で玄武若光という使者が来ていますね。二位の位階というのが、高句麗でどういう意味なのか、どういう人に与えられたのかというのが課題ですが、703年に従五位下高麗若光が王姓を与えられるにあたっては、すでに天智期からすぐに百済王族に百済王姓を与えていたことが参考にされたであろうと思います。ただ、確かに高麗王族の背奈王氏が高麗郡にいて上層部で支配していたであろうことは、延暦8年10月条からも伺えますが、背奈王氏と高麗王氏とのつながりも不明で、若光を始祖とする高麗王氏の存在自体も不明ですね。高麗の王族が支配していたとするための確証のためには、天武以前の公・臣・連とそれに入らない王姓のあり方、天武の八姓以降は、朝臣、宿禰、忌寸と皇族に与えられた真人姓とは別にそれに入らない王姓というのが、どういう存在であったのか、そしてその王姓が高麗郡にとりあえず2氏いた可能性について考慮してみる必要があるとおもいます。この点はもうすこし考察を深めてみようと思います。それでは、木村さんのいつも鋭く貴重なご指摘に感謝いたします。

『先人にロマンを』
しんさん 2003年5月19日(月) 20:33:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信  木村さん 管理人さん お礼が遅くなって済みません。
パソコン初心者によくあるそうですが、画面が動かなくなって強制終了したり、冷や汗をかきました。
 大鳥郡から行基の存在まで教えて頂き、私たちの先人に対するロマンが広がります。有り難うございます。
 先般、図書館で司書に「おおとり けいすけ」の資料を閲覧したいと伝えましたら「漫才のおおとり けいすけ ですか」「?」。それから「明治維新の大鳥圭介です」とお互いに笑ってしまいました。
 その後、播州赤穂に在住の大取さんから貴重な情報を頂いたり、ますます関心が深まります。
 これからも宜しくお願いします。

『はじめまして』
ゆうこ 2003年5月19日(月) 18:47:14 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして 学校で今渡来人などの事を調べているので、いろいろと聞きたいことがあるのですが・・よろしいでしょうか?まず1つ目は渡来人はどうやってきたか?です。船できたのでしょうか?それとも・・?2つ目は鉄は渡来人が伝えたのでしょうか?伝えるとしたら・・鉄そのままを船などで運んできたのでしょうか?3つ目は渡来人はどこからきたのでしょうか?中国?この3つです。また質問は増えるかもしれませんがよろしくおねがいします。
どうか質問に答えていただけるとうれしいです。

『無題』
木村ハマ子 2003年5月19日(月) 13:0:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信  不勉強なもので申し訳ありません。「飯能」という地名の意味と、初見はいつか、という点を教えてください。あと、疑問なのは高麗若光が本当に高句麗王族であると言えるのか、という点です。

『仏教統制について』
管理人 2003年5月19日(月) 4:3:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、鋭いご指摘ありがとうございました!3分でできた湯沸し説も早くも、崩れそうですね・・。しかし、普通の形式の学会は違い数ヶ月かけて発表して3分の批判論議で崩れれさるというのとは異なり、掲示板式?の論議では、3分でできた学説を数ヶ月論議し続けることができる点が新しい対照的な論議法でして崩れさるよりは、積み重なるという利点がありそうです。本当は両方論議方式をうまく組み合わせればいいのだろうと思います。さて、先の仏教統制についてですが、私がゼミで昔ならったところによると、行基の活動には、まず朝廷から黙認されていた状態から、抑圧される段階、そして逆に受容されうまく取り入れられる段階があったそうです。ちょうど高麗郡設置がなされた翌年の4月23日条に、行基らの活動の取り締まり強化の詔があります。このおそらくはこの年前後に仏教を統制しようとの意図が働きはじめたであろうと思います。特に僧綱に関する条文は和泉監設置条文に続いて次にあたるものですが、この条文の「主司」の語が、いわゆる監督として当時の語で置き換えられるかどうかが、また和泉監の「監国」の意味との関連でひとつおもいつくところですが、その辺は、またの機会に。とりあえず、和泉監の設置自体は、茅渟宮設立のための収入源のために和泉、大鳥郡を仕えさせたことに由来があるそうですが、平城京設立から数年たって次に、その大鳥、和泉地方の人たちの行基の活動にもみられるような土木技術などをも収入源とあわせて導入させようとしながら、渡来系をもふくむ仏教的集団の活動方向をややそらす意図もあったかもしれません。まったく同時期に行われた高麗郡の設置にあたっても、「飯能」と書いて「ハンナラ」と読ませている地名が残るように、ある種の離宮的なものの造営を通して、高麗からの渡来系仏教集団等の活動方向を同様に平城京設置効果の経験をもとに向けさせたとの見方もできます。高麗郡の場合、高麗王廟と高麗人が移り住んだ場所に距離があるそうですが、いわゆる離宮の立地構造というのが、民衆の住む場所とどの程度はなれていたのかも気になるところです。
それではいつも鋭く貴重なご指摘ありがとうございます!

『無題』
木村ハマ子 2003年5月18日(日) 14:9:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信  管理人さんの仮説は、確かに興味深く思いましたが、「仏教統制」という意味が、よくわかりません。もうすこし詳しく教えてください。

『和泉監と高麗郡設置について』
管理人 2003年5月17日(土) 9:15:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、しんさん、先日は大鳥姓と大鳥郡の関係、および大鳥郡を中心とした行基の活動についていろいろ貴重な情報ありがとうございました。わたしも、その後お話したように、行基の活動と朝廷への影響、高麗郡設置との関係をさぐってみたのですが、ちょっと関係性がみえてきました。まず、716年の高麗郡設置の1ヶ月前の4月19日に、河内国の大鳥、和泉、日根郡3郡を割いて、和泉監を新たにおいています。ちょうどこのころは行基が大鳥郡で精力的に仏教活動をししばらくかったころにあたります。それで、この和泉監については、3月27日に和泉、日根を割いて茅渟宮にはじめ仕えさせることに端を発しているようでして、後の吉野の離宮を中心とした芳野監とともに、二監として特別行政区として存在していたようです。しかし、5月16日に高麗郡をおいて後の5月26日には、全国の僧の統括者である僧綱および和泉監に対して印を支給しています。そこで、わたしがおもうには、わざわざ3郡を割いて和泉監を設置した目的というのも、当時盛んになりつつあった当地の仏教活動の統率と関係しているのではと感じたわけです。そして、やはり関東で亡命高麗人、百済人らによって仏教などの伝道活動が盛んになっていたこともあり、ひとつの仏教統制策としての高麗郡設置がこの716年5月という時期に同時に行われたとも考えられないでしょうか。和泉監が離宮を中心として特別行政区としたのように、関東には畿内のように離宮を造ることは皇族の派遣の問題からもありませんでしたが、その代わり亡命してきた高麗の王族を配したというのも、ひとつの仮説として浮かんできます。
ということで、大鳥姓から大鳥郡へ、そしてそこでの行基活動と和泉監設置、そしてその時期の高麗郡設置に関してでしたが、またいろいろ大鳥郡などについてご意見交換してゆきましょう。

『RE『経師について』』
管理人 2003年5月14日(水) 21:22:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、経師について丁寧に解説ありがとうございました。写経所には、文書から伺えるのは、渡来系氏族の割合がかなり高いことが指摘されているとこですね。そして、経生の氏名はもとより、年齢、役職、賃金などこまごましたところまでしるれています。なぜ渡来系氏族が奈良時代前期の古文書に多く見えるのかについてですが、やはり以前掲示板でご指摘あったように、壬申の乱以降、多くの亡命百済、高麗人がやってきて、その初代から2代目にかけて、その文章能力の高さをもって律令制の施行とあわせて、朝廷に多く進出した結果であろうと思われます。写経所に入って初めて文章を読み書きするわけではなく、入る以前に各氏族の家庭などで文章の読み書きができていたという前提が必要であります。そして、親が読み書きできるということが重要で、その点、かならずしも和系氏族の家庭では養育しきれない現状があったのではと感じます。和系氏族でも、地方豪族にいたっても、やはり律令制が施行されて以降の、ステータスから実務面にいたるまで、文章が若年時から読み書きできるように、おそらくは養成する必要があったのであり、当然、地方の豪族は畿内からそういう読み書きのできる人物を家庭教師としても招待したであろうと思います。しかし、一般的に畿内の氏族は特権も少ない地方豪族のところには行きたがらないでありましょうから、当然文章が読み書きでき、権力基盤にも影響を及ぼさない渡来系氏族を招待したいという需要が高まっていただろうと思われます。壬申の乱以前からも漢、秦氏などに親王家や有力豪族の子孫などが、渡来系氏族のところで、養育されることが多かったのも、やはり、文章能力を若年時からいかに養成するかということと、かかわっているのかもしれません。秦氏の地方拡散や木村さんからご指摘いただいた天武以降の特に東国へ亡命百済、高麗人の移動配置が圧倒的であることも、彼らの文章能力や、海外からの文化思想の吸収のために、貴重であったことと関係しているかもしれませんね。ともかく、そういう若年期からの文章能力の育成の結果として中央で姿を現しはじめたのが、経師なり、渡来系文章官人などであろうと思われます。
そしてそこにどのような過程を踏んで大鳥姓がみられるようになったのかということが興味深いですね。


『経師について』
木村ハマ子 2003年5月14日(水) 15:13:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信  経師とは、一般的にお経を写した人をいいます。大言海に載せられた意味は、おそらく奈良時代までさかのぼることはできないでしょう。ちなみに、経師の写したお経に間違いがにかチエックする人を校生といい、お経を作る紙を作成し、写経したお経を製本する人を装おう(表具師のようなものです)と言います。
 ところで、奈良時代になると、東大寺写経所を中心として、たくさんの写経事業が行われるようになります。そうした写経事業の様子が、現在残されている正倉院文書から知ることができます。これは、現在出版されている『大日本古文書』1〜25巻に、そのほとんどが収められています。
 奈良時代の写経事業については、たくさん論文があります。もし興味を持たれたようでしたら、栄原永遠男『天平の時代』集英社、渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の時代』講談社がわかりやすく書いていたように記憶しています。

『経師について』
しんさん 2003年5月13日(火) 18:39:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん いろいろと有り難うございます。
 「経師」を大言海で引いてみますと「佛経ヲ、折本、巻物ナドニ貼リ作ルヲ業トスル者。」「今ハ常ノ表具師ヲモ通ジテ云ウ」とあります。
 もし、他にも経師の詳しい解説がありましたら教えて頂けないでしょうか。

『大鳥郡と行基』
管理人 2003年5月12日(月) 0:47:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 しんさん、木村さん、書き込みありがとうございます。木村さんご指摘の行基と大鳥郡との関係、行基の先祖が百済系とのことも、個人的にも興味深く感じました。行基について、以下のホームページで年譜を追ってみましたが、
http://homepage1.nifty.com/ebaraji/gnennpu.htm
かなり大鳥郡を中心に布施や医療施設や寺院の設置や土木工事などをやっていたようですね。行基も当初は国からの援助ではなく、民間一般人からの援助で公共的事業を行っており、そこがおもしろいのですが、かなりやはり地元に土木工事や寺院建設などを担当できるだけの渡来系氏族集団の援助があってはじめてできたであろうと思います。そういう慈善事業、現代でいえばNPOとかNGOなどに象徴されるような公共事業組組織や思想基盤をこの白鳥伝説の残る大鳥郡で、いつしか培っていただろうということが、興味深く感じます。年表をみてみると行基が国家事業にも介入しはじめてからも、長生のせいもあって奈良中期までいろいろ朝廷に種々の影響を及ぼし、さまざまな施設や寺院を創設していったらしいことも、案外、先の掲示板で話題になった高麗郡とか多胡郡設置との関係にも影響ないかとふと感じました。今後も大鳥姓と大鳥郡と渡来人との関係、しらべていきましょうね。

『ますます関心が深まります』
しんさん 2003年5月11日(日) 19:35:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん 管理人さん 有り難うございます。
姓や地名などの由来に関心を持つ人は多いのです。このホームページを友人にも教えてあげようと思っています。

『そういえば…』
木村ハマ子 2003年5月10日(土) 21:43:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信  関係ないとは思いますが、行基は大鳥郡の出身です。そして彼の一族の高志氏は、百済王を祖としているようです(舎利瓶記 寧楽遺文下−970)。

『しんさん、木村さんへ』
管理者 2003年5月9日(金) 19:23:3 削除・編集 スレッドの一覧・返信 しんさん、大鳥姓について、新撰姓氏録にのっていたとのこと、あらたな手がかりがみつかってよかったですね。また木村さんがさらに、大鳥膳部氏やそのほかいろいろ、大鳥郡とのかかわりなど調べられて、さすがですね。わたしは修論で新撰姓氏録を扱いましたが気づかず恥ずかしいかぎりです・・。ひさしぶりに、パソコンの中にある新撰姓氏録のデータベース覗いてみて、なるほどと感じました。(本当はデータベースもホームページで公表したいのですが、その辺はいろいろ新撰姓氏録の本をだされている大教授さんとか、複雑な許可問題がありそうなので、今のところ公開していませんが・・・)また木村さんご指摘の秦氏と漢氏の出自系譜の正当性の問題や、秦氏自体の同族意識がどのへんまでひろがり、いつごろまで続いていたのか、大鳥姓と大鳥という地名のかかわりの問題など、鋭いご指摘ですね。そして、その実態をしらべるにあたっては、平安初期の新撰姓氏録は、ちょうど奈良末から続く渡来系氏族を含めた氏族制度、組織の転換点において、朝廷によって明確な目的のもと編纂された書物であります。そして同族的広がりとその結合意識、渡来人の祖先の出自の変遷から渡来系氏族どうしの対抗意識のあり方、実際の朝廷での勢力の状況など、いろいろよくみてみるとヒントを与えてくれる書物ですので、ぜひみなさんも今後もよくよくこの書物について見つめてみてくださいね。もういちどわたしも大鳥氏や秦、漢氏の出自について調べてみます。それではいつも貴重なご意見ありがとうございます。

『大鳥姓について』
木村ハマ子 2003年5月8日(木) 21:32:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 しんさんへ
 残念ながら、私には大鳥姓が渡来系かどうかはわかりません。『新撰姓氏録』には、確かに見えますが、和泉国神別ですからね。後、和泉国皇別の膳部の項に「宇太臣。松原臣。阿部朝臣同租。大鳥膳部等。付大彦命之後」とあり、「大鳥膳部」という氏族の存在が知られます。和泉国には大鳥郡がありますから、やはり、そこを拠点とした一族なのでしょう。
 それと、古代に関して言えば、大鳥氏は正倉院文書の中に経師として多く顔を見せます。大日本古文書をめくって見ることをおすすめします。


『秦氏と東漢氏の出自について』
木村ハマ子 2003年5月8日(木) 21:14:5 削除・編集 スレッドの一覧・返信  はたさん、管理人さん、わざわざ返信ありがとうございました。秦氏と東漢氏の出自に関する話は、たしかに聞いた記憶があります。はたさんもおっしゃっていたように、秦氏と東漢氏が、対抗意識があって始祖を作り上げたという話です。ただ、その時に疑問に感じていたのですが、東漢(坂上苅田麻呂)氏は、「後漢霊帝の曽孫阿智王」の末裔だと主張している(『続日本紀』延暦4年6月)のですが、後漢の霊帝という人物は、確か後漢最後のほうの皇帝で、横山光輝の『三国志』などを見ても、あまりよく書かれてはいません。もちろん、これは史実でないのかもしれませんが、始祖として主張するには不適切ではないのでしょうか? 秦始皇帝と対抗できるほどの人物との認識が当時、あったのでしょうか? 疑問です。
 あと、全国的に広がった秦氏は、互いを同族だと意識しあっていたのでしょうか? していたとすれば、その意識はいつごろまで続いたのでしょうか? そういった点も、解明できると面白いと思います。 

『ますます興味が沸きます』
しんさん 2003年5月6日(火) 17:17:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん 早速コメント有り難うございました。
「新撰姓氏録」に大鳥の名がありました。読者の方で史料の中に大鳥姓を見かけましたらご紹介いただけると嬉しいです。

『木村さん、秦さんへ』
管理人 2003年5月6日(火) 0:34:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、秦さん、貴重なご意見ありがとうございます!秦氏の全国展開について、その人数の多さだけでなく、秦さんご指摘のさまざまな技術との関わりも大きいのかもしれませんね。なぜ秦氏が多いのか、なぜ移動が遠くまで波及するのか難しい問題ですが、水面に拡散する油の流れのような感じではと感じます。しかもその油は、水面には出ないで沈殿するんですね。水はその油を貴重なものとして、水面にはじかずに、内部に吸収するのかもしれません。なかなか秦氏は奈良時代以降も全般にわたって日本的な姓に変えなかったことがあり、いまでも秦さんの氏名やはたという地名が残っていることと関係するものと思われます。加えて、秦さんご指摘のとおり、どこか表に出ない裏で知能的に仕事をするまさに忍者のような世俗とは混じり合わない集団という姿も見えます。親から子へと、どこか徹底的に、秦集団の一員としてのアイデンティティーを確立させるべきな教育的な側面をふくめたなにかがこの氏族にはあったのではと感じます。たとえば、文字の読み書きを覚えるのにあたっては、なにかの氏族の祖先に関わる歌とか独特のものを使用していたとか、氏族特有の通過儀礼や祭りなどをもっていたとか、そういうなにかがあるのではと感じます。そういうことのひとつが、きっと秦さんご指摘の八幡神社の広がりであったのではと感じます。そしてその仏教とも関わりのふかい八幡信仰の起点が、木村さんのご先祖と関係の深い宇佐周辺であったろうと感じます。宇佐から御輿が奈良に派遣されること、そして泉州の神社と雅楽と御輿との関わりが深いことなども、そういう影響にあるのかもしれませんね。やはり、しかし古代史の残存資料だけでは、秦氏の親子伝来の習俗については知ることに限界があるようです。そこで、秦さんご紹介の秦氏について、中世の情報も含めた掲示板は、よく考えてみると、とても貴重ではないかと感じます。それではいつもご意見ありがとうございます。

『木村さんはじめまして!』
はたよしのり 2003年5月5日(月) 21:57:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦氏は応神期(4・5世紀ごろ)に朝鮮半島の新羅からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万〜4万人の人夫とともに九州に渡来したといわれ、
東漢氏(やまとのあやうじ−倭漢氏)は応神天皇の時代に百済から17県の民を引き連れてやってきたとされています。
このように秦氏は東漢氏の7倍以上の人間がやってきたことになります。
面白いことに、秦氏は新羅系、東漢氏は百済系とされ、共に、秦の始皇帝を先祖に、漢の高祖を先祖に持つとされています。ずい分と対抗意識があったのではないでしょうか?
九州に秦王国を築いた後、天孫族と共に勢力を東に伸ばし、畿内で活躍。その後も日本全国へ勢力を拡大しました。
天孫族が政権を握るのと違い、秦氏はそのサポート的な役目として、経済と技術を求めていたように思います。
鉄を求めより東へと移って行ったのかもしれません。
畿内で勢力を強くしたのは朝廷をサポートするためで、
特に機織や灌漑土木などの技術と宗教、風水(カバラ)、呪術などでサポートしたのでしょう。
秦氏は表舞台にあまりでる事は少なく。
八幡神宮や稲荷神社を全国へ拡大し、諜報活動の拠点としたのかもしれません。
秦河勝が忍者だったともいわれ、後の服部家を生んでいます。雅楽の東儀家も秦氏の流れを汲み、
東大寺の良弁も秦氏ですし、遣隋使として小野妹子と共に秦氏も遣わされています。
但馬王国のタジマモリ(秦氏でアメノヒボコの子)は橘の実を全国に広げました。
安倍清明も角行者も空海も親鸞も法然も秦氏と縁があるとか・・・
何のために???
秦氏は裏方に徹したのでしょうか?


『フフフフフ・・・・・』
匿名希望 2003年5月7日(水) 11:4:53 削除・編集

『秦氏』
木村ハマ子 2003年5月4日(日) 15:37:9 削除・編集 スレッドの一覧・返信  秦氏のページを、今、読んでいるところです。なかなか盛んな議論がなされているようで、大変興味深く感じています。ところで、わたしはまだ秦氏について深く研究したことがありません。あの一族は日本全土に多く分布していますよね。どうして、あんなにたくさんいるのか、大変気になっています。また、秦氏の出自については、どのように考えていますか? はたよしのりさんでも管理人さんでも、御教示いただけると幸いです。
 ちなみに、私は大分(豊後)の出身です。私の暮らしていた地域は羽田(ハダ)と言いまして、秦氏との関わりが想像できる土地です。豊後については、秦氏の掲示板でも確か触れられていましたよね。実際に、鎌倉時代の記録を読むと、羽田ではないのですが、豊後に秦氏がいたことが確認されます。日本全国津々浦々に秦氏っていたんですね。本当に気になる氏族です。秦さん、これからもがんばって下さい。

『みなさま貴重な情報ありがとうございます!』
管理人 2003年5月4日(日) 1:16:27 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさまいろいろ貴重な情報ありがとうございます!

しんさん、はじめまして。大鳥姓についてですが、わたしもよくわかりません。ただ、泉州の鳳神社で、やはりだんじり祭りがあるそうですが、あまり関係ないかもしれませんが、いわゆる神体をのせた御輿が動くということについて、宇佐神宮からの御輿の朝廷への派遣などの奈良の出来事とも関係して、泉州あたりのそういう関連の出来事について、興味を感じていたことがあります。よく調査してみるときっと新たな視点がでてくるのではと感じますよ。なにか情報ございましたら、みなさまよろしくお願いしますね。

いおくん、はじめまして!歴史系のいいホームページをお探しとのことですね。最近、たまたまうちのホームページも「Yahoo!きっず」http://kids.yahoo.co.jp/
に登録されたようでして、なかなかわかりやすく
、詳しい歴史のホームページがのっているようですので参考にしてみてくださいね。あと、我がリンク集のほうもよろしくお願いします。

秦さん、おひさしぶりです。またまた、貴重な情報ありがとうございました。いま秦氏についての掲示板を読ませていただいているところですが、実に専門的で詳細な情報のやりとりがなされており、驚きました。みなさんにもぜひ一読をお勧めします。秦さんのご先祖秦氏は、やはり読めばよむほど、日本文化を知る上で欠かせないですね。わたしもさらによく拝見させていただきます。

それでは、また今後ともみなさまよろしくお願いします。


『秦氏の掲示板』
はたよしのり 2003年5月2日(金) 23:13:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 以前にお伺いした事のある「秦」です。

秦氏について
「平家物語を熱く語る」という平家物語を中心に歴史を話し合うHPがあります。http://hikoshima.com/bbs/heike/index.html
このHPの「古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏」
というスレッドで渡来人、秦氏に付いて語り合っています。身近な所からシルクロードまでロマンが広がっています。
荒唐無稽な話もあるかもしれませんが、
良ければお立ち寄りください。
古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏1
http://hikoshima.com/bbs/heike/100211.html
古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏2
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100337_95.html
古代日本に栄えたロマンな一族:秦氏
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100362_72.html

『教えてください』
いおくん 2003年5月1日(木) 18:18:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今、学校で歴史の事を調べています!!今日は、渡来人のことを調べています。歴史のこと・・・なんでもいいので、いいホームページを知ってたら教えてください。

『鳳神社と大鳥姓』
しんさん 2003年5月1日(木) 13:21:16 削除・編集 スレッドの一覧・返信 パソコン初心者です。偶然にこのホームページと出会って夢中で閲覧しています。
 さて、私の母方は大鳥姓で「泉州の鳳神社」と繋がりがあり(祭神は天児屋命)神職、後代に藤原姓に変わったらしい。
 戦国時代に大鳥姓に戻り備前の片上から豊前杵築へ。それから肥後八代へと移動しています。
 大鳥姓は中国か朝鮮半島からの渡来人(狩猟族)らしいと記述した文献を読んだ記憶があります。
 大鳥に関した情報をご存知の方がいらっしゃいましたら
いろいろ教えて下さると有り難いです。
 
 

『RE『東北の佐々木さんについて』』
管理人 2003年4月28日(月) 2:38:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 佐々木さんはじめまして!ご先祖が刀鍛冶というのは興味深いですね。製鉄技術は、5世紀ごろの渡来系氏族によってはじめてもたらされたとされており、またそういう製鉄に関するような高度な技術はきっと、奈良時代以降も、国家に吸収されきらずに、代々職人の家系で伝達されたようです。また、東北にも渡来人が移動して、それらの技術を伝播したようですね。きっと佐々木さんの家系も渡来系との関わり深いのだろうと感じます。秋田、青森、岩手という東北地域での人の動きについて、流れを調べていくとなにか共通する動きもあるかもしれなく、楽しみですね。
仙台の多賀城から、東北を横断して秋田にいたるまで、奈良末から平安期にかけての、蝦夷遠征とのかかわりで、渡来人が移動させられたことがしられており、秋田城の漆紙文書などにも、いろいろ渡来系の人名がでてきていますので参考にしてみてください。
奥寺さんについては、わかりませんが、うちの母方は小野寺といいます・・・関係ないかな・・
それではなにかわかりましたらお知らせいたします。

『東北の佐々木さんについて』
佐々木くん 2003年4月27日(日) 17:41:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信  私、佐々木と申します。実は以前叔父さんから佐々木というのは渡来系で朝鮮半島から出雲に上陸した朝鮮民族の末裔で(刀職人らしい)東北地方に北上した家系なんだということを小耳にはさんでいらい、自分の先祖について興味を持ちました。いわれてみれば、東北には佐々木さんって多いですね。東大総長の佐々木さんも秋田県でしょ。よく秋田美人とか新潟美人とかいいますけど青森美人、岩手美人というのはいないんですかね。岩手の佐々木さんと奥寺さんについて詳しいことを知っている方どなたかいらっしゃったら詳しいこと教えてください。

『東北の佐々木さんについて』
佐々木くん 2003年4月27日(日) 17:41:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信  私、佐々木と申します。実は以前叔父さんから佐々木というのは渡来系で朝鮮半島から出雲に上陸した朝鮮民族の末裔で(刀職人らしい)東北地方に北上した家系なんだということを小耳にはさんでいらい、自分の先祖について興味を持ちました。いわれてみれば、東北には佐々木さんって多いですね。東大総長の佐々木さんも秋田県でしょ。よく秋田美人とか新潟美人とかいいますけど青森美人、岩手美人というのはいないんですかね。岩手の佐々木さんと奥寺さんについて詳しいことを知っている方どなたかいらっしゃったら詳しいこと教えてください。

『RE『書き込みありがとうございました!』』
管理人 2003年4月8日(火) 22:36:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こちらこそ書き込みありがとうございます!
余さんの目の話や、全国のさまざまな人種のあり方は不思議ですが、またよく考えてみると多人種dnaからなる日本人の普遍的特徴ですね。「鬼首塚」にみられる鬼伝承は、また外来系とかかわりが深く、今後も追求なされてはどうかと感じます。鬼に関して有名なところでは、ご存じかもしれませんが、吉備の朝鮮式山城のある「鬼の城」にまつわる鬼退治伝承がありますね。そして、九州日向を経由して鬼とされた百済王は吉備にこられたそうです。天智期あたりに防備のためにいろいろ山城がつくられたらしいですが、余さんの住んでいる熊本の百済式山城もその辺から追求できるかもしれませんね。余さんのニックネーム?も壬申の乱で亡命してきた百済王の余豊璋にちなんでかとか想像いたしますが、ともかく、大学に入る前の自己と関わるよくわからない好奇心を大切にし、なにがそのなかで、さらになにを興味深く感じているのかを深くゆっくり思いめぐらしてみることをお勧めいたします。渡来人についてもでも、その興味が人種の相違にあるのか?あるいは地域の民俗伝承にあるのか、あるいは考古学方面にあるのか、すなおにその自身の興味を見つめることで、ずいぶん大学や分野選びにも役立ってきます。そして、そういう大学前の人間が本能的に知っている自身の能力や適正が研究していく上でもとても大きな影響をもたらしてきます。大学に入り、いろいろな技術や思想などに影響されて、卒論、あるいはその後の論文でいわゆる多くの子供を書き上げることになります。そしてさらに研究を続ける人はその子供をずいぶん長い間かけて自己のアイデンティティーとして育て世に出していくのですが、そのかきあげた子供自体は、また大学あるいは院時代の他者とのあいのこであり、本来のアイデンティティーとは異なります。そして、やがてその子供が世に出て?離れさり、アイデンティティーの欠如を感じながらも、別にその子なしでも関係なく生きていけることを知ります。そのときに、やはり大学の前に本来自身が有していた興味が本来自身にとって尊重すべき重要なテーマであったことがわかってきます。そういうことなので、今の興味を大切にして、時にそれをわすれなければならないことも多いのですが、どこか頭の片隅におきながら、勉強・研究していってくださいね。それでは、また勉強がんばってください。

『書き込みありがとうございました!』
余 2003年4月7日(月) 22:13:27 削除・編集 スレッドの一覧・返信 そういえば、私の左目も、微妙に緑の部分があります。

それと、実家の裏山に、「鬼首塚」があります。多分、この「鬼」さんが、何百年前か知りませんが、たどり着いて、我が家のパワフル日本人離れの家系の基を築いたんじゃないかと思います・・・

子供の頃は、ただ、怖いなーと思っていたんですが。

秋田とか青森・北海道出身の女優さんとかどう見ても「ロシア系でしょ」って感じの方も多いですよねー。

あと、黒人っぽい人とか、先住民の朱儒っぽい人とか・・
小笠原にも白系日本人がいるとか・・

中華系、朝鮮半島系渡来人なんて、山ほどでしょうね・・・研究してみたいテーマです!


『RE『私の先祖も渡来人??』』
管理人 2003年4月7日(月) 19:55:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 余さんはじめまして、貴重なご意見ありがとうございます。九州大学では古代史研究盛んなようですね。熊本での歴史学研究会のサマーセミナーで九大の方とお会いしたことあります。島根大学や岡山大学でもたぶん、いまでも渡来人専門の研究しておられるのではないかと感じます。どこが良いかは学力偏差値の問題より、指導教授の専門と指導方法と研究の雰囲気の問題による部分が大きいので、よく慎重に自身の適正に併せて選んでみてくださいね。たぶん、渡来人やるのであれば、基礎文献の授業以外に、氏族血統観念についてと、朝鮮に詳しい古墳時代の考古学、古代の神祇全般について、そして日本書記,続紀の解読方法、中国漢以降唐くらいまでの東洋史、平安以降の文書の解読、アジア北方遊牧民から東南部あたりの文化人類学や朝鮮語学がたぶん習える教授陣のいるところがベストでしょう。どこか欠けるとかならず後でこまり、ある種の「嗅覚」をそだてる上でもマイナスになりますので慎重に選択してみてくださいね。さて、朝鮮式山城が熊本につくられたとのこと、興味深いですね。やや南方に造られているのは、戦略上なぜかもおもしろく感じます。余さんの家系が長身、白色、目の色素が薄いといういわゆる人種・遺伝的問題と渡来人との関わりについても興味深く感じます。すでに古代からペルシア人は何度となく記載記事がみえるので、白色系人種の渡来や分散もあるでしょう。秋田のほうの人は色白というのも有名ですが、最近眼科の先生に学会の話聴くと、秋田方面の人は目が青い人も多いそうです。秋田の方言をヘブライ語で解読した分厚い明治の言語学者の学術書もありますね。九州からペルシア系の楽が直接関東に流れた形跡も指摘されており、呉から来た渡来人と関係の深い伎楽なんかもペルシア系の楽だそうです。ですから九州に白色系人種が残っていても不思議はないように思うのですが、遺伝に関しては問題はまず渡来人の時代の骨の遺伝子がどうかということと、その後の家系がいつごろから遺伝的に目の色がかわったのかとかいうことにありますね。うちの母型の祖父の家系も岩手出身で代々目が緑だそうで、長身なのですがみると緑内障かとおもうほど緑で変です。たとえば1500年60代と換算して目が青く突然変異する確率がいくらかとか、その上で渡来系の家系での確証とか、山間部での婚姻形態が狭い特殊な外婚でなっているとか、その辺で渡来系遺物や地名、伝承が残っていて、どうも外国語の方言があり、すべて年代がもとをたどると一致するとかなると、案外背が高い理由も関係してくるかもしれませんね。文献などの表面上にあらわれるものは、ほんとうに氷山の一角にも満たないもので、そこだけから推測するとまるでだめなのですが、その氷山そのものをとらえられれば、いろいろ他にも尻尾とかをだしはじめてくれるのであとはそれにすなおに対応できる技術をいろいろもっていればいいのでありまして、その辺で大学選びはとても重要です。どの方面でどの技術を身につけたいのか、いろいろがんばってくださいね。


『私の先祖も渡来人??』
余 2003年4月7日(月) 1:21:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私は、北部九州に住む女性ですが、以前から、渡来人に興味があり、大学でもそのことを研究したいのですが、どの大学でそういう研究がされているか余りわかりません。(九大にはあるらしいのですが、難関です。)

それから、熊本県の菊池郡に百済系の山城が菊鹿町に復元されて、なぜか懐かしい気持ちになりました。

私の一族は、皆、男性は180くらい、女性も170位あり、一応日本人なのですが、色白で、茶色の目の人が多いです。母方の先祖は服部姓です。

Mサイズの服が入らず、本当に苦労しました・・・クラスではいつも、頭一つ大きいし・・俳優の岸部四郎さんや伊原剛志さんなどの家系もそのくらい大きいそうですね。

「普通ね。」って言われたことが無く、いつも、「大きいね。」といわれたり、「パワフル」とか・・私にしてはごく普通にしても目立っていやです・・・この遺伝子は、どのあたりから来たのか・・知りたいです。


『2002年度渡来人研究会年度末報告について』
管理人 2003年4月5日(土) 0:55:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信 先日2002年度渡来人研究会年度末報告の一部を新たにアップロードしました。4月の末頃までには、徐々に報告をアップしていく予定です。今後ともよろしくお願いいたします。

『ありがとうございました』
忌寸 2003年3月29日(土) 22:5:37 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人さん有難う御座います

久々に覗いて見ましたら拝見できるようになって
おりました

お手数かけました

『RE『ありがとうございました』』
管理人 2003年4月4日(金) 3:33:16 削除・編集

『RE『やはりダメです』』
管理者 2003年3月29日(土) 4:16:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご指摘ありがとうございました!原因わかりました。どうも前回の更新で、わたしのほうでプログラムミスをしていたようです。常にアップ後は数台のパソコンで確認するようにしているのですが、今回は手続きを怠ってしまい、ご迷惑おかけしました。なんでも複雑になってくると相互確認は欠かせませんね。まだ少々不具合が残るかもしれませんが、2,3日中に修正いたします。それでは、またご意見などよろしくお願いいたします。

『やはりダメです』
忌寸 2003年3月27日(木) 20:8:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 フラッシュが原因では無いようです、インストールしてみましたが変わらず見られませんでした。直る日まで気長に待ちます。他の方は普通に見られるのでしょうか?

『RE『はじめまして』』
管理人 2003年3月27日(木) 16:17:56 削除・編集 スレッドの一覧・返信 忌寸さん、ご指摘ありがとうございました。最近、ホームページでflashという動画をしようしているのですが、これをみるのにはflashplayerというソフトが必要になります。もしまだ導入されていないようでしたら、無料でダウンロードできます。わたしのほうでも、もうすこし原因を探って、さまざまなユーザーに対応できるよう改善してみますね。

『はじめまして』
忌寸 2003年3月26日(水) 21:0:29 削除・編集 スレッドの一覧・返信 HP拝見させていただきましたが、エラーがでまして殆どが見られない状態ですがどうなっているのでしょうか?

『RE「高麗郡」』
管理者 2003年3月15日(土) 19:46:12 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、おひさしぶりです。景観や地形について重要ですね。これからそのへんとりくんでみますね。とはいえ、まったく実のところ進んでないのですが 、取りあえず分かる範囲でまとめてみようとおもいます。それではいつも貴重なご意見ありがとうございます。

『高麗郡』
木村ハマ子 2003年3月14日(金) 21:31:51 削除・編集 スレッドの一覧・返信 高麗郡の報告、大変楽しみにしています。関東の方にあまり縁のない私としましては、高麗郡の立地や景観などについても教えていただけると嬉しいです。他にも、高麗郡の地理的環境と新羅郡との比較なども可能ならば、是非、知りたいところです。報告、待っています。

『国立歴史民俗博物館『はにわ −形と心−』展のご案内』
管理人 2003年3月14日(金) 3:5:33 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今回、新たに国立歴史民俗博物館『はにわ −形と心−』展のご案内ページをトップページにリンクさせていただきました。アドレスは以下のとおりです。 http://wsweb0.rekihaku.ac.jp./kikaku/index73/
4から6世紀のはにわとその背後にある宗教・思想背景について、大変興味深く感じます。冒頭ページのはにわをよくみていただくと、遊牧民族系特有の烏帽子をかぶった男性、南方文化特有の三角紋のみえる建築のあり方など、当時の日本文化が大陸南北の文化を併せ持っていたであろうことが伺えます。同様な大陸南北双方の文化が混入している文化としては、中国華南からビルマにかけての石塞山遺跡にみられるような文化があり、わたしもかつて注目したことがあります。三角縁神獣鏡にも間接的に影響しながら、長江流域から韓国南部、九州地域を経て関東にいたるまで、ある種の文化的流れがあったもようで、渡来人の研究にもかかせないものであります。ぜひ、特に渡来人の研究をなさる方は一度お出かけいただくことをお勧めいたします。
あと、最近の近況としては、関東の高麗郡についてのみなさんのご意見を中心に、年度末報告を作成中です。関東高麗郡に集合させられた高麗(現在の北朝鮮地域)の人々が、その高麗文化をもとにいかなる理想郷を創設していったのかという点に、ひとつの重要な研究視点があるように感じ、その研究の発展を期待ししております。それではみなさまいつもご意見、ご視聴ありがとうございます。


『NEWページ更新などです。』
管理人 2003年2月20日(木) 3:41:11 削除・編集 スレッドの一覧・返信 1月に予定していました比較宗教関係のページをアップしています。古代キリスト教と古代日本の神話についての比較です。よく本屋さんでその辺のことの比較についての書物は売っているのですが、どの辺が要素が似ているのか、似ていないのかあまり整理されていないようなので、今回自分なりに整理してみました。キリスト教と日本古代神話では、よく一神教対多神教アミニズムと公にいわれているのですが、はたして本質はどうなのか?など理解の行き届いていない部分が多いように感じます。神観念についても、最近はずいぶんその日本人の持つ神観念と西洋人のそれに相違があることなど指摘されてきているようです。古代史でもかつてからオリエント系の神話の影響が公に指摘されているのですが、まだキリスト教そのものとの比較については発展途上のようですね。わたしもカトリックなので、いろいろ大学時代に古代史研究はじめて以来その観念的相違には驚きを感じてきたところです。東西の伝承が類似するということについては、最近古代史でも盛んになりつつある人間本来持つ無意識的な部分での研究で、その共通性がそこにもとづくのか、あるいは伝播的な問題なのかの見極めが重要になっていますね。ある心理学者の話だと、東西共通する人間の無意識的なものに由来する伝承発展要素としては、混沌たるカオスから、とぐろをまくへびへ、そして・・英雄物語がでてきて・・と、その人間の持つ意識の成長段階と関係しながら物語が形成されるケースがあるようです。その辺はかつてから古代史でも論議されてきたようです。しかしまた一方でそれとは別に伝承の伝播がいかに行われ、挿入されたのかという視点もやはり欠くべからざる部分ですね。その辺について考えてみる上でも参考にと感じてます。
そう、最近は、ある小学校でのキリスト教系の歴史建造物の保存をなすべきかどうかでいろいろ市町村と論議がありました。その辺は歴史ネコさんが特集しておられるので参考にされてみてはどうかと思います。
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/
かつて長岡京の遺跡についてやはり同様な建設での保存問題がでましたが、そこからは秦氏と蔵関係の事務仕事とのかかわりをしめす木簡などが出土していただけに、その後研究が難しくなったことについては渡来人研究面でも大変残念な思いをした覚えがあります。歴史家と業者や政府との間で価値観の相違があるんですね。しかし問題はそれぞれの立場の人が、相手の立場について正しく価値観を理解する(できる)こと、およびその努力、またその上での総合的で難解さを排除し簡潔にわかりやすく整理をした上での請願文章などの作成という面で、まだそういうケースに備えてのプロセス的準備構築の過程ができているのかどうかがひとつの課題として残っているようにも感じます。
それでは、今後ともみなさまよろしくおねがいいたします。



『RE『質問です。』』
管理者 2003年1月3日(金) 22:48:24 削除・編集 スレッドの一覧・返信 姜さん、はじめまして。韓国からご意見ありがとうございました!神武天皇は、日本古代の歴史書である日本書紀、古事記における初代天皇でありまして、高天原から降ってきたニニギ尊の子孫であり、九州の日向から海路東遷し、その後大和地方を征服、橿原宮で即位したとされます。書紀の記述の中で、神代と人代とを結ぶ位置に記述されており、神武天皇自体は大和政権の始原を説明するために設定された人物とされています。そしてそこにどれだけの史実の反映をみるかどうかでさまざま議論が交わされているところです。詳しくは上記の日本書紀、古事記を読んでほしいのですが、最近は日本古代史の学説についてなど、韓国の方々にもわかりやすいように、日本文化の紹介や言語翻訳などを配慮したホームページがあればと感じます。インターネットが国際的学問研究の発展のために設立されたことは有名なところです。最近はノートパソコンにカード型128K・64Kモデムを24時間使い放題5000円コースなどで申し込み取り付けて、ビデオカメラをそれに接続し、WINDOWSMEDIAENCODERというソフトを無料ダウンロードすれば、韓国と日本の学界や、研究調査の中継映像・音声などをホームページから生中継できるような時代になってきています。と、そこまでいきませんが、トップページで我が家の熱帯魚の生中継もたまにながしていますので、よかったら覗いてみてください。それでは、韓国からご意見ありがとうございました!


『質問です。』
姜(かん)恩志(うんじ) 2003年1月3日(金) 8:38:58 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ホームページで見ましたが、「神武征東」ってどういう
意味ですか?
教えていただけないでしょうか。

韓国から姜(かん)恩志(うんじ)

『質問です。』
姜(かん)恩志(うんじ) 2003年1月3日(金) 1:16:54 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ホームページで見ましたが、「神武征東」ってどういう
意味ですか?
教えていただけないでしょうか。

韓国から姜(かん)恩志(うんじ)

『2002年度渡来人研究会中間研究報告』
管理者 2002年12月31日(火) 23:55:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 2002年度渡来人研究会の中間研究報告を掲載いたしました。年度末報告は3月中にまとめて掲載いたします。また1月中旬くらいまでにもうひとつ東西古代宗教の比較についてページをアップする予定です。
今年もみなさま大変お世話になりました。また来年もご意見なにとぞよろしくお願いいたします。

『RE『無題』』
管理者 2002年12月18日(水) 20:44:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 さすがは木村さん、鋭い視点ですね。確かに、渡来人は東国に多く移配されているという疑問を常に感じますね。このような移配にはきっと複数の要因が重なり合っているのだと思うのですが、たとえば隼人などの場合、畿内領域と畿外地域との境界において、畿内に入り込む邪を祓うというような目的で境界祭祀をなしていたことも、その移配の目的のひとつだったようですね。私は主に祭祀的側面から移配原因を考えているのですが、今特に気にかけているのは、斉明天皇紀に、蝦夷と唐や西域などの渡来人が対になって大変多く記述されていることです。それらの記述は祭祀の日程とかかわりがあるのですが、斉明紀編纂には秦大蔵造氏がかかわっており、いわば国家?が蕃国人をどうとらえあるいは三国関係のなかでどう移動配置がなされるのかという視点とは別に、渡来人の編者もほかの蕃国人をどうとらえたかという重複性の視点が、すでに律令前のこのころあたりから出始めていることに、最近面白さを感じてますね。それではいつも貴重なご意見ありがとうございます!

『無題』
木村ハマ子 2002年12月17日(火) 12:30:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人の移住や建郡のことについては、いま大変興味をもっていることのひとつです。渡来人は、よく言われるように東国を中心に移配されていますよね。一方、隼人は畿内に住まわされているようですし、俘囚は全国に配置されていたように記憶しています。こうしたことを考えるとき、律令国家が渡来人を如何に認識していたのだろうと、考えてしまいます。

『RE『無題』』
管理者 2002年12月12日(木) 5:49:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さんおひさしぶりです。高麗郡、新羅郡に関する文献についてですが、建郡については掲示板の流れで突如沸いてきたところで、わたしもまだ詳しくしらないこともあり合い間をみつけて資料探索をしているところです。後日年末あたりまでに、2002年度の渡来人研究会研究報告として、みなさんの掲示板でのご意見とともに、調査結果や参考資料をまとめて提示いたす予定です。とりあえず、関東の学者さんの中では、両郡のことについて論議にあがっているのをたまに聞いた覚えがあります。また、断片的ならば、渡来人関係および、県史レベルの資料にまとめて載っていますね。高麗郡の資料に関するホームページがあるのでお知らせします。以下のアドレスです。http://www.fides.dti.ne.jp/~matsuda/framepage10.html
わたしの手元にある資料では、4年?前に行った第27回古代史サマーセミナーという歴史学研究会主催の埼玉での学会レジュメなどが一番新しいのではと思います。田中史生氏が、渡来人の東国移配について、移配者に僧侶・技術者が含まれることが蝦夷との対峙とのかかわりのなかで、「化内」地域としての政治的に付与された特徴とのかかわりがあることを指摘し、さらに「蕃郡」設置による中華的世界の創造についても指摘されているようです。また武蔵の新羅人に対してなどの国名を残しての賜姓とエスニックアイデンティティーともかかわりについても指摘されておられます。また田中広明氏は、考古学とくに、土器の移動に関して富元久美子氏<「堂ノ根遺跡第1次調査」飯能市教育委員会1993>の論をもとに、常陸国から高麗郡への土器の移動を指摘しています。特に先日の高麗郡と仏教にかかわる話題としては、まだ読んでませんが、田中史生氏が引用された高橋一夫氏の「女影系軒丸瓦の一試論」『研究紀要』<埼玉県埋蔵文化財調査事業団1982。で、高麗郡の女影廃寺の瓦が北武蔵の主要寺院に創建瓦として採用されていったとレジュメに書いてあるのが興味深いですね。やはり、仏教と高麗郡建設は切り離せないのでは?という感じがします。詳しくは上記の先生方の最新論文を調べたり、あるいは上記資料について問い合わせてみれば、お取り寄せできるのではないかと思います。それでは木村さんいつも、貴重な書き込みありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたしますね。


『無題』
木村ハマ子 2002年12月11日(水) 11:26:41 削除・編集 スレッドの一覧・返信 渡来人の建郡について、興味深くうかがいました。
ところで、このような渡来人の建郡について、研究史はどうのようになっていたでしょうか? あまりこれといった論文を見ていないような気がするのですが…。

『ホームページ更新』
管理者 2002年12月7日(土) 4:1:31 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理者です。最近またホームページデザインと渡来人氏族別コーナーの内容を更新中です。また、先に掲示板で話題がありました高麗の渡来人についても別文書ページ作成中で、後ホームページ公開いたします。また年末までには2002年度渡来人研究会研究報告をアップする予定です。お楽しみに!

『2000年の封印を解く!皇祖皇太神宮とモーゼ 』
日本神党 2002年10月12日(土) 0:24:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 [1073] 2000年の封印を解く!皇祖皇太神宮とモーゼ 日本神党 2002/10/12 00:12:21


2000年の封印を解く!皇祖皇太神宮とモーゼ
偶然が偶然を呼び10月10日に
皇祖皇太神宮に世界のモーゼと
言われている「茂在寅男先生」いくことに
なった。九州の幣立神宮と結んで
日本の隠れた歴史の封印をとく
機会にするらしい。こんほど光栄な機会は
ない。先日イタリアの国営放送が
取材したそうです


ほとんどの人はわからないと思うが
私も解らないのだが、とんでもないこと
だと直感的に思う。
日本に生まれてきてよっかったと
感じる今日この頃である。

愛するおやじ(25年前死亡)、
やったぜ!!
http://www.kousokoutaijingu.or.jp/index.html


 
関連ホームページ  

『無題』
管理人 2002年10月15日(火) 23:2:42 削除・編集

『栃木県の高麗神社』
ももしき 2002年9月7日(土) 21:34:44 削除・編集 スレッドの一覧・返信 東北道の上河内SAに立ち寄った際に地図を見ていたら偶然「高麗神社」の文字に目がとまりました。栃木県の上河内町の町内だと思うのですが、場所は隣の氏家町の東北本線「氏家」駅に近い、鬼怒川を渡ったあたりにあります。ネット上で、この上河内の高麗神社が検索にヒットしないので、神社が古いのか新しいのか、埼玉の高麗神社と関わりがあるのかはわかっていません。時間があったら訪れてみたいと思いますが、もしお近くの方で神社の由緒など情報がありましたら教えてください。

私は「狛江郷の渡来人」というタイトルでHPをアップしています。専門的な知識はありませんが、狛江周辺の古墳群の他にも、杉並区久我山には「秦」姓を名乗る地主がいて、隣の三鷹市の新川には「高麗(こうま)」姓を名乗る地主がいます。深大寺は狭い範囲に式内社が3社もあり、渡来人の定住からその後の足跡をたどることができないかと、資料や思いつきを書いてみました。アドバイスやご意見がありましたら掲示板に書き込みしてくださるとありがたいです。

『re『栃木県の高麗神社』』
管理人 2002年9月9日(月) 0:45:56 削除・編集

『無題』
ももしき 2002年9月12日(木) 14:28:13 削除・編集

『RE『ありがとうございます』』
管理人 2002年8月25日(日) 2:37:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 Kogryoさん、またまた新しい情報お教えいただきありがとうございました。さっそくいろいろ調べてみたのですが、確かに、天平宝字二年八月二十四日条の帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国に移住させ、新羅郡(後新座と改名)を置いたという記述は、明らかにその僧侶の割合や、これだけの少人数で郡を設けるということを考慮してみると、仏教的恩恵を求めて、40年前の高麗郡設置を基にして勅令が出されたという感じがします。この前後の記事を見ると、仏教に傾倒していた孝謙天皇が病気をもとに、淳仁に皇位を譲位したところから始まり、仲麻呂や僧侶が、先の女帝の持統天皇から受け継がれてきた仏教面を主にした徳をたたえる上表文が続きます。さらに、8月18日条では、その年の星の位置から予想される災厄に備えて、全国に「摩訶般若波羅蜜多経」を念誦するように勅令をだします。そしてその次に通年の8月19日の斉王の派遣・皇太子の天皇即位について神社報告の記事があります。その次にこの新羅郡の設置がくるようです。この流れでもやはり、仏教政策の一環としての、新羅郡設置という線も推測可能かもしれないと感じています。これらのことからも高麗郡設置と仏教政策との関係が裏づけけられてくるかもしれませんね。また、先の高麗郡設置に際して、離散した高麗人を集合させることによって、なんらかの恩恵を天に求めるという思想が気になります。渡来人の中でも、やはり東漢氏の渡来伝承では、朝鮮3国に離散した諸族を日本の聖君子のもとに集めることに始まりますし、秦氏の場合も、全国に離散した一族を雄略天皇の命によって山城に集めるということが行われています。さらに高麗系の桑原氏などの上表文にもそのようないきさつが述べられていますね。渡来系氏族にみられる離散から集合までを天皇との関係で行われるというその土台となる思想背景がどこにあるのかというのも課題かと感じました。また新羅郡が後代「新座」と改名されるにあたっては、同じく高麗人と関係する関東の「高座」という地名との比較が話題になっているそうです。
この「高座」の語は、斉明天皇の六年(660年)5月8日条に見えます。高麗人の使人が難波にきたときに、百官が仏教儀式で「高座」につき、「納袈裟」を云々とあります。そのとき「仁王般若波羅蜜経」の法会が行われています。この辺の高座・新座の地名も仏教とかかわりがあるのではと感じました。また先の天平宝字の「摩訶般若波羅蜜多経」とこの「仁王般若波羅蜜経」とのかかわりも、渡来系僧侶との関係でどうなっているのかも気になります。新座は「ニイクラ」と「クラ」という読みをするそうで、「高座」はタカクラとすると、高麗氏は高倉朝臣を「クラ」の名を賜っていることと無縁でないかもしれません。高麗氏は後代雅楽の一派として知られたようですが、ご指摘の勝楽寺の勝楽は僧侶の名に由来してはいるのですが、あるいは僧侶が名をつけるとき、仏教的楽との関係があったのかともしれませんね?。楽については、福島の横穴墓からペルシア系の胡楽の器具類がでてくるなど、関東各地でも仏教とのかかわりで伎楽の広まりは大きかったようです。その辺も調査してみるとおもしろいかもしれません。また、高麗僧との関連では、その斉明六年5月8日条の法会の記事の次の7月16日条に、この高麗使人が国に帰る記事があります。そのとき、「都貨羅人」の「乾豆波斯達阿」という人がその10人とともに西海へ帰路についたことが書かれています。この「都貨羅」とは、史書にでてくる「吐火羅国」「大夏」、いわゆるトカラ国であり、玄奘(602-664)の『大唐西域記』に都貨羅と見え、唐代のサマルカンドの近く、今でいうとアフガン南部あたりだそうです。また「乾豆波斯達阿」の中に見える「波斯」はやはり中国語でローマ領シリアを意味しますが、その唐代の635年にはネストリウス派キリスト教、すなわち景教の伝来があり、後にそのキリスト教の寺院「波斯寺」を全国に皇帝が作らせたことは、日本の国分寺の政策との比較ともかかわり重要性を持ち注目を浴びているところですね。後745年からこの「波斯寺」は「大秦寺」となります。「波斯」氏と大月氏との関連を述べた東洋史論文も過去読んだ覚えがありますが、この「波斯」の意味合いがどう変化していくのかが気になります。そしてこの660年の記事に「波斯」と人名に見えることも、やはり資料上、西域人の多人数での渡来としてかなり真実に近い記事であったことを明らかにしているとおもいます。この辺のシルクロードを通してわたってきた西域の人々と西域思想、そして高麗仏教とのかかわりが気になりますね。そして、そのトカラ人などが、どういう思想を日本に伝えたのかが、今後の課題とおもわれます。この辺は、また別文書でまとめてみようかと考え始めています。それでは今回もKogryoさんいろいろ貴重なご指摘ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

 

『ありがとうございます』
kogryo 2002年8月21日(水) 22:24:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 管理人様。高麗郷についての実に丁寧なご返答、ありがとうございます。おっしゃるとおり、仏教的影響を十分考慮に入れる必要がありますね。当地の新羅郡も、僧を住まわせたわけですし。近傍の狭山丘陵には、百済系伝承を持った勝楽寺(偶然でしょうが若光ゆかりの寺院も勝楽寺です)という寺院までかつてありました。建築様式や高麗尺などの度量衡については不勉強で何も申し上げられないのですが、このことも大切ですね。本当にありがとうございました。

『RE『武蔵の高麗郷・続き』』
管理人 2002年8月14日(水) 23:24:20 削除・編集 スレッドの一覧・返信 kogryoさん、詳しくご解説いただきありがとうございました。霊亀二年五月十六日条に1795戸もの高麗人が移住させられ高麗郡を建郡した記事から想定すると、なんらかの大規模な集落遺跡が残っていそうなものですよね。今日は旅行から帰り、すこし高麗郡について調べてみました。小畔川はほんとに。オグロと読むそうで、高句麗を示すk・o・g・rとの語音との関連が興味深いですね。高麗郡の高麗の語は、おそらくは、高麗氏若光にちなむ高麗氏からか、もしくは当時の朝廷での高麗国についての読みから来ているかと思われるのに対し、郷名は渡来人が自集団をどう呼ぶかという古来からの渡来系語音の流れにちなんでつけられた地名とのことが、kogryoさんの説から考えられることと思われます。また「高萩」の読みや「高」の語が、「kog」との組み合わせかどうかも気になるところですね。高麗氏の系図については、調べれなかったのですが、どうも高麗氏は本流だけが高麗氏を名乗り、枝氏は狛氏、大狛氏を名乗ったそうです。ただし、孝徳紀などにも大伴狛氏などが見え、狛氏にもいろいろあるそうです。ともかく渡来氏族の諸系が移動した場合、高麗ではなく狛の地名で残る可能性もあるかなとかな感じました。
さて、なぜ高麗郡が建設されたのか、そしてどうして高麗郡では偏った形で集落が偏在しているのかについてです。高麗郡にはもともとなにがあったのかが気になるところですね。5月16日条にあるように高麗人を駿河・甲斐・上総・下総・常陸・下野から移住させるには、武蔵は中心地で便利だったのかとも感じますが、その辺はまた他の理由もあるのではと感じます。 たとえば前年の元年5.31日条では、相模・上総・下総・上野・武蔵・下野六国の富裕な民1000戸が陸奥に移住させられていることも、移動のあり方として考慮に入れてみるとよいかと感じます。また、同元年7.13日に狛造千金に大狛姓を賜る記事があります。この辺は高麗系氏族への待遇を考える上でどうかと思います。さらに次の7月27日条では、尾張国の人、外従八位上の席田君近○とともに新羅の人、七十四家を、美濃国へと戸籍を移したとあり、初めて席田郡を作ったとあります。この時期は美作国などの例のように郡域の変動が激しかったようです。この席田郡の場合は、席田という氏族の姓が郡名に関係しているようですが、ただ戸籍を移しただけなのなら、席田という地名だったかもしれません。当時1家数十口であったことを考慮すると、結構大規模だったと思われます。しかし新羅人がかなり入っても、新羅郡にはならないのですよね。ですから当然、そこには日本の内部に蕃国を作るというような小中華帝国的思想観念の影響はないものと思われます。そこで、高麗郡の高麗の意味ですが、席田郡成立の次の年でありますから、やはり同様、高麗氏との関係で高麗郡にしたとの線がまず考えられると思います。ただ、それ以前からコマの地名などがあったかもしれませんが、その辺は席田とあわせてもうすこし調査が必要ですね。
しかし、高麗郡の場合、もう一ひねりあるのではないかと感じます。というのは、集落よりかは寺院遺跡が多く残っているということでしたね。その仏教的影響がどうも建郡に関係するのではと調べていて感じました。当地の廃寺遺跡類は奈良前期のものが多いようですね。この霊亀二年建郡の前は武蔵などで全国で飢饉なども多く、元明女帝はいよいよ仏教にすがる感じも強かったようです。この建郡記事は5月16日条ですが、その前の5月十五日条は、諸国の寺院の荒廃をなげき、その綱紀の引き締め、寺家の統合、数寺の合併、寺の整備建設をすべきという長々とした文書であります。そして16日条にはまた元興寺の移動、隼人への優遇策であります。この手の記事はその日に移動が完成するわけではないのであり、まとめてその年月のあるテーマを並べているものと思われます。そこで、高麗人と寺院との関係に注目できるのではないかと感じます。孝徳紀などでは、東国国司詔条があった元年8月5日の次の8日条に推古天皇での仏僧の重用にならって、沙門狛大法師・福亮ら10人を十師とし、また別に恵妙を百済寺の寺主としています。
この辺でも百済仏教と高麗系仏教が朝廷でどう天皇とかかわりをしめしていたかを伺えると思うのですが、その推古紀の聖徳太子と高麗僧恵ジとの「両聖」の伝承は有名ですね。高麗僧という存在は案外天皇に長方される要素があったのではと感じます。その日本書紀が成立したのが、どうも710年代ですから、716年の高麗郡建設当時の高麗僧と百済僧、そして天皇との位置関係というのがどうにも気になってくるわけです。そもそも東国への渡来人移住が仏教と深くつながっていたことは確かですが、当時の朝廷のそれら渡来人への観念についても、どの程度「仏教=東国への渡来人」という図式があったのかが興味深く感じるところです。それとは別に、百済系と高麗系仏教ではどういう相違があったのかについても、やはり高麗郡や百済郷の成立との関係で考慮してみるのもどうかと感じます。山城の高麗寺とか百済寺、そして飛鳥寺など、いろいろ系統があるようですが、白鳳期の高句麗式の建築や尺の問題と、地方の寺院、高麗人との関係も百済との対比で行ってみることも重要と感じます。もう一歩推測をすすめるならば高麗仏教に対するシルクロード文化からの影響が特に伝承・建築・舞踊などを通してどう影響しているのかが気になるところではあります。
 それでは、かなり長々としてしまいましたが、kogryoさんありがとうございました。今後ともまたよろしくお願いします。


『武蔵の高麗郷・続き』
kogryo 2002年8月13日(火) 2:10:20 削除・編集 スレッドの一覧・返信 多少舌足らずなところがありました。奈良。平安時代の遺跡群は、後世いわれるところの高麗郡内にあります。ただし、高麗神社や聖天院付近や巾着田や高麗本郷(すべて旧高麗村。ご存じの方にはお分かりいただけると思います)そして高麗川流域には、寺院はあったものの集落らしきものは多くありません。かなり詳しい地図でないとその名を確認できないのですが、東隣を流れる小畔(こあぜ)川という川の水系、特に日高市高萩地区周辺や飯能市北東部を中心に密集しています。ここは現在いわれるところの「高麗郷」とは全く離れています。「和名抄」によれば同郡は二郷ですが、二つともこの水系に比定できます。
ここからは妄説になります。@小畔の「畔」は「くろ」とも読みます。すると小畔は「こくろ=コグリョ=高句麗」ではないか!なんて考えています。A高萩地区周辺が中心
としましたが、千葉県栗源町に高句麗渡来人伝説を伝える高萩という場所を発見しました。ではこの「高萩」とは何なのか?例えば吏読で解けるものなのか?B高麗王若光を祖とする高麗氏系図は有名ですが、国会図書館で調べ物をしていたら、先祖を奈良時代の貴族・高倉朝臣福信(曽祖父は高句麗の栄留王建武としている)とする高麗氏系図を見つけました(肝心の書名は失念してしまいました)。系図である以上、何にしても鵜呑みにはしませんが、ともあれそこに若光の名はありませんでした。
やはり高麗郡には何かがあったようなのですが…。

『武蔵の高麗郷』
kogryo 2002年8月11日(日) 23:9:21 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして。武蔵国高麗郡に先祖伝来住んでおります。
ちょっと疑問点が。高句麗渡来人は現在の「高麗郷」に移住したと、どこを読んでもそういっているのですが、遺跡発掘の事実と一致していません。奈良・平安時代の集落の中心や大規模建造物は、みんなはるか東にあります。それに、高麗王若光はここに住んで郡司となったなどとも書かれていますが、そのような事実が何かの文献にあるのか、知りたいと思います。従五位下の人物が郡司になるものなのでしょうか。若光伝説や高麗郡における白髭神社(この神社は新羅系のはず)の展開は何を物語るのか、ナゾを突き詰めたいです。

『RE高麗郷』
管理人 2002年8月12日(月) 13:31:11 削除・編集

『RE『朝鮮系の地名について』』
管理者 2002年8月2日(金) 1:33:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 どうも!うちの近くにも狛江とか、渡来人に由来する地名がございますね。大阪の唐人という地名についても、調べた記憶があります。かつて、古い渡来人の中には呉人として、つまり中国の呉(南部)方面の人として紹介されたものがあります。漢人というのもありますね。ただ、時代を負うに従い、唐人と統一されたのかもしれません・・・。時代によって同じ方面から来た渡来人についての呼称も、呼び方がいろいろ異なってきているのではと感じるのですが。渡来人の東国への移動に際して、狛という語を使用する場合と、高麗という語を使用することについても、もともと狛だった呼び方が中世になって高麗になったとか、あるいは、狛は高句麗がまだ存在しているころの呼称で、後の高麗という地名は、今度は高句麗がなくなってからの亡命王族のつかた地名であるとか、あるいは朝廷では高句麗を使用していたが、地方では狛だったとか、
考えればいろんな可能性が考えられますね。渡来人の移動のさまざまな波と中継地、中継時期などと地名との相関性、おもしろそうです。とはいえ私も時間がないのがネックですね。それではまたお仕事がんばってください!

『朝鮮系の地名について』
サラリーマン辞太郎 2002年7月31日(水) 13:0:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 どうも。名前を変えさせて頂きました。私は最近このホームページを見つけたばかりだったので、過去の投稿を拝見させて頂きました。
私の大学での専攻は民俗学だったのですが、渡来人と地名の関係に興味を持っていました。ただ、忙しく、そこまで学んだ訳ではありませんが。
さて、百済系としては、有名な神社に白髭神社があります。これは若光王(百済亡命王族)を祀った神社で関東をはじめ広範囲に分布しています。また、彼は陸奥守として黄金を朝廷に献上しておりますので、東北地方にも足跡がみえるかもしれません。
こま は高麗に関係している地名です。
また、渡来人がもっとも多く集まった地域は大阪で、現在でも朝鮮の人の密集度では全国1だそうです。
地名辞典を紐解くと、唐人郷などの地名が多く見られます。また、彼らの開墾技術を使うために、多くは朝廷の命により関東に移住させられます。
昼休みが終わってしまいました。では。

『ありがとうございます』
甲砕師 2002年7月30日(火) 13:11:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 色々教えて下さってありがとうございます!!ところで
>詳しいことは、『吹田市誌』とか三浦圭一「吉士について」『日本史研究』34号
これらは書店に行けば売ってるんですか??

『RE『ありがとうございます』』
管理者 2002年8月2日(金) 1:13:42 削除・編集

『阿部氏についてです。』
管理者 2002年7月29日(月) 18:46:38 削除・編集 スレッドの一覧・返信 どうもみなさまはじめまして!ここ3日間、山中湖の
ほうに行っており、お返事遅れてすいませんでした。
阿部氏についてですが、祖父さんの先祖の出身地(島根)と阿部氏との関係について調べることが必用ですね。おじいさんが神主とのことですが、神社には神主の系譜が残っていますから、その神社と神主の系譜などを調べにいくことも重要ですよ。各都道府県の県史とかの地方の歴史書物とか、氏族の系譜を調べて載せてある、氏族辞典が図書館にあるはずなので、島根の阿部氏調べてみるとよいと思います。私のしるところで、渡来人と関係した阿部氏についてですが、奈良時代以前から吉師(士)という姓の後ろにつけるカバネをつけるという特徴ある渡来人集団があるのですが、朝廷でも東北など地方にも拠点を伸ばした阿部氏との従属的関係を持っていたようです。『延喜式』などでは、平安時代に、阿部氏と吉志氏、難波吉師氏が、同じ吉師舞を踊っていたりしています。詳しいことは、『吹田市誌』とか三浦圭一「吉士について」『日本史研究』34号などを調べてみるとその辺がよく理解できると思います。

『無題』
ばればれ? 2002年7月29日(月) 8:20:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 阿部といったら阿部比羅夫が思い出されますが、膳手?に関係しています。膳手とは奈良県桜井市?にある大字で、渡来人とは関係ないと思われます。ここには阿部氏の建てた寺があります。
阿部氏はどうやら北陸に本拠を持つ豪族であったようです。(地名のサラリーマン、本名粥川)

『間違えました!!』
甲砕師 2002年7月27日(土) 17:5:53 削除・編集 スレッドの一覧・返信 下のに「九州の沖」とありますが、間違えでした。
「島根の隠岐の島」です。
あと追加なんですけど、おじいちゃんの家は神主さんだったそうです。
なにかわかることがあったら、情報お願いします!!

『初めまして』
甲砕師 2002年7月26日(金) 14:49:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こんにちは、私は中3の甲砕師と言います。
おじいちゃんが九州の沖出身で、どうも先祖は渡来人ではないか、といつも言われてるので、今回の夏休みで調べてみることにしました。「阿部」家です。なにかわかる方がいらっしゃったら、どんなに小さなことでも教えて下さい!!お願いします。

『re『無題』』
管理者 2002年7月25日(木) 2:39:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!書き込みありがとうございました。
尾張連等の氏族は火明命を始祖としており、天孫降臨の伝説によりますね。これらの氏族の「渡来」的伝来と実際の氏族の移動のことについて調べてみるのは興味深く感じています。また、賀茂氏の場合も、水流での禊を行うという神儀を取り仕切る氏族であったようで、全国の水辺に地名が見れることはそのこととも関係するのではないかと感じます。この点、さすが地名学の専門ですね!賀茂氏と秦氏との関係では、例の賀茂社において、当初賀茂氏が取り仕切っていたところに、秦氏の参入があり、そして朝鮮的な禊などの儀式が賀茂氏とその社の儀式にもたらされたとの一説もありますが、両者の関係はなぞが多く、つながりも深いです。これら、秦氏など渡来系も含めて、その伝来伝承には、特定のことに気を配るべきと感じています。
ひとつは、伝来の仕方に、特定の目的地に対し、直接の伝来の波と、やや遅れての大量の伝来の波、そして間接的に回り道をして送れてやってくる波との3種を
見分けることにあります。そして第2波、第3波は、その立ち寄った地方の特色を踏まえた伝承なり、地名などを残しながら特定の目的地に向かうということです。そこで、ご指摘の賀茂氏、尾張氏の地名の分布と、その流れ、そしてその3種の波の流れにおいて、どのような相違がそれぞれ立証しうるのかについても、大変興味深く感じています。わたしも、すこし、もう一度秦氏を含め、ご指摘の氏族の流れについて考えてみたいところです。今後ともよろしくお願いいたしますね!

『無題』
匿名希望 2002年7月22日(月) 12:55:23 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今日は、初めて投稿します。僕は大学では地名学を少しかじりましたが、渡来人についても興味をもっていました。例えば、ポピュラーですが、秦の地名をはじめ数多くの足跡が残されています。こんなことは釈迦に説法ですが。
僕の考えでは、伊福部氏(尾張連)、賀茂氏についても渡来系ではないか、と考えています。伊福部氏は鳥取の岩美に本拠があったらしいのですが、どうも天日矛に関係あるらしい。賀茂氏は東海から西に広く地名が残っており、その地名はどうも川に近いところにあるので、もしかしたら水運に関係がある氏族らしい。僕は秦氏に繋がるのではないか、と考えています。
僕も大学時代は古事記など文献を読みました(今は普通のサラリーマンで忘れてしまいました)が、あんまり文献に頼りすぎ、それを最終的な判断に使用するのは少々危険ではないか、と思うようになりました。
地名をはじめ、ゼロから開拓してみないことにはこれ以上深くには入れないような気がします。
それでは、また。

『紀氏について』
明光丸 2002年6月30日(日) 23:22:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 パソコン故障につきしばらくごぶさたしてました。
本日泉南市古代史博物館に行き男里遺跡についていろいろ学んできました。
 気になる点は「紀男麻呂」との関係です。紀伊と関係する遺物の出土は少なく紀州の影響を受けたとは言い難いとの返答。文献と考古の一致はなかなかうまくいかないものですね。

『RE『紀氏について』』
管理者 2002年7月1日(月) 22:25:57 削除・編集

『男里遺跡について』
明光丸 2002年7月1日(月) 22:43:2 削除・編集

『RE『韓風TAMOA』』
管理人 2002年6月3日(月) 23:40:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 平井さんはじめまして!ホームページ拝見しました。いつか京都に行ったときはお店にぜひ立ち寄らせていただきたいです。今日はたまたまイベント関係のバイトで新宿小田急デパートの韓国フェアの展示会場の撤去作業をしてました。多くの韓国の食べ物や、伝統工芸品をじっくり拝見することができ、そのすばらしさに感動してみていました。韓国と日本の文化・経済など、さまざまな交流とその理解が、ワールドカップを機に深まるとよいですね。


『韓風TAMOA』
平井美津子 2002年6月2日(日) 17:55:13 削除・編集 スレッドの一覧・返信 京都の丹波橋に、「韓風TAMOA」というお店を開店致しました。韓国の生活韓服と、小物を置いております。商品はすべて韓国から輸入をしております。何度も行って買ってきたものもありますし、友人に頼んで送ってもらった商品もあります。

生活韓服は、韓国のトルシルナイという会社を始め、いくつかの会社と取引をしております。
個人のお店ですので足りない点はたくさんありますが、韓国を感じられるお店にしたいと考えております。
京都においでの節にはぜひお立ち寄り下さい。
ホームページには地図も掲載しております。

事務所では韓国への留学案内もしております。
お問い合わせ下さい。
075−602−4175

『RE『中間報告』』
管理者 2002年5月24日(金) 2:2:57 削除・編集 スレッドの一覧・返信 こばやしさん就職活動がんばってください。というわたしも営業マンやめてまた振り出しで仕事探し中です。就職でも業界絞ってやったほうが結果的にいいようですね。同様歴史研究にしても、やはり前に木村さんが書き込みされたように、地域を限定するなど対象を絞って取り組んだほうが最終的には効率的なようです。わたしは音響も趣味にしており録音などもしてますが、曲ひとつを聴くにしても、結局人間ひとつの楽器の音を分析するので精一杯で、すべての楽器奏者の演奏なんて漠然と聞いてては、何十回聞いても全然理解できてないものです。歴史の授業にしろ卒論にしろ、就職活動にしろつねに対象しぼってなんども視点を変えてアタックして積み重ねていくことが重要とかんじますね。それではまたがんばってください!

『中間報告』
小林 2002年5月22日(水) 22:1:45 削除・編集 スレッドの一覧・返信 就活で死にかけ小林です(^^;
まだまだ内定いただけません。
2つの事が同時進行できないというヘボな私なので卒論との両立はきっついっす(泣)

>卒論
とりあえず方向だけみえてきました。
河内の国のフヒト集団(西文・船(や白猪)氏)に
ついてやろうかな〜と思ってます。
次はその中で何を研究するのか考えないと…。


『RE『今来漢人について』』
管理人 2002年5月8日(水) 22:56:47 削除・編集 スレッドの一覧・返信 新部さんはじめまして!新部さんの姓が新漢氏とのことなるほどと感じました。新見の位置確認しましたが、今来漢人(新漢人)は製鉄・銅技術をもたらしたとされております。また『岡山県史』などを参照されるとよろしいかと思うのですが、部姓、人姓、人部姓を本姓の後につけるという、技術民支配制度のなごりが「備中大税負死亡人帳」にみられていることで有名です。ですから、きっと新漢氏が現在の新見あたりに入り、そこで部民制度のもと、新漢部がおかれ、後新部さんになったとも予測できますね。関東にも見られること、特に関東でもやはり新部と簡略化されていることは、きっと言語学的側面でも興味深い研究ができるのではないかと感じます。今来(新)漢人の由来については、ホームページの文献紹介のページに載せてある今井啓一氏の『帰化人の研究』や義江明子氏の『日本古代の氏の構造』、考古面では上田睦さんの論文が参考になると思います。私は関東人なので、あまり詳しくはないのですが、どなたか備中専門の方、よろしかったら、ご情報のほうよろしくお願いいたします。

『今来漢人について』
NIIBE 2002年5月8日(水) 9:19:49 削除・編集 スレッドの一覧・返信 今来漢人の記述、我が姓(新部、ニイベ)に関わる部分でもあり興味深く拝見しました。
過去の祖父が調べたのを伝え聞くところによれば、備中国新見(岡山県新見市)は新漢部(イマキノアヤベ)が転じて、新部(ニヒベ)となり、新見(ニイミ)となったとか、
 他にも千葉佐原の新部(ニベ)には、円墳(埋葬者は不明)があり、東征期に東国の最前線にいたであろうと考えていたようです
まったくの門外漢ですので、源流探しに参考になるような資料があったら教えていただければと思います。

『木村さんお久し振りです』
管理人 2002年5月6日(月) 18:47:10 削除・編集 スレッドの一覧・返信 木村さん、ご卒業おめでとうございました。その後どうなされているかと案じていましたが、しっかりしたテーマで卒論を完成されたとのことを聞き、安心いたしました。今後のご活躍楽しみです。また山城の渡来人のことなどについてもぜひこの場をご活用くだされば幸いです。なお今度のホームページ、掲示板は携帯にも対応しており、わたしもいま外から読んでお返事書いています。時と場に応じてご活用くださいね。それでは今後ともよろしくおねがいします。

『小林さんへ』
木村ハマ子 2002年5月6日(月) 14:46:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信  渡来人を卒業論文でなさるようですね。管理人さんの言われた方法の他にも、どこか地域を限定して、その地域の渡来人の動向等について考察するのも一つの方法だと思います。もしよかったら、参考にしてみてください。

『ご無沙汰していました』
木村ハマ子 2002年5月6日(月) 14:27:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信  お久しぶりです。無事、大学を卒業しました。卒論では、結局、高句麗系渡来人からは離れ、律令国家と「帰化」との関係について書きました。今後も、「帰化」や外国人の受け入れのあり方、あるいは「渡来人」「帰化人」に対する律令国家の認識等について考えていきたいと思っています。高句麗系氏族については、高麗氏を離れ、今は山城国に居住していた一族について興味があります。
 それではまた。おじゃましますので、その時はよろしくお願いします。


『RE『秦氏と八咫烏の記述発見』』
管理人 2002年4月28日(日) 1:43:48 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さん、いろいろ情報ありがとうございます。唐代の景教の普及については、教科書でならって以来、興味ぶかく感じているところであります。景教伝来のそれ以前にも、ローマからシルクロードなどを通じて実にさまざまな物品がもたらされていました。その遺品の数を数えたら、大変なものとなることでしょう。ローマでキリスト教が公認された313年以降唐代7世紀にいたるまで、3,400年の間にその文化はさまざまな側面から唐に影響を与えてきたことでしょう。さて景教伝来の特質は、おそらくは、彼ら自体、技術職人としてではなく、宗教的側面、そしてそれと深くつながっている哲学教義的側面に影響されていたであろうことであります。
実質的にそれ以前から、それらのキリスト教的思想・教義に基づいた物品が数多く持ち込まれていたことでしょう。しかし、その思想・教義そのものとともにそれらが伝来していたかどうかはなお疑問が残るところでありました。その物品自体は、たとえば五世紀から六世紀にかけての古墳から出土するガラス製品などとして日本に伝わっているわけです。それはまた奈良時代の正倉院の宝物にも西洋のものがずいぶん入りこんでいることもありますね。最近もギリシアのものとおもわれる玉の類が見つかったそうですね。さて、やはりここで問題となるのは、ただ物品が諸外国から流入したのか、あるいは、人が物品をもちこんだのかという相違についてです。三角縁神獣鏡では、中国製のものと日本製のものがあり、後者はいつからか中国のそれを真似してつくられたものと考えられています。文字などからもその中国的思想が日本人にかならずしも理解されていなかったようであることも考えられています。この場合、職人は渡ってきたかもしれないが、思想を理解していなかったというよりは、最初の職人は理解していたが、その弟子たちは理解できていなかったとかいう線が推測されます。そのへんをくわしく分析するキーはやはり流入時期であると思います。ものだけが流入したならば、思想や教義は理解されないでしょう。しかし人がモノとともに流入したならば、思想・教議も次世代まで伝来することも考えられ、またそのモノとは別のモノなどにも、同種の思想が同一時期に刻まれてくると思うわけです。そこで、渡来人の流入を考えた場合、やはり五世紀後半という秦氏が伝来した時期に、青銅器具ばかりでなく、土器などさまざまな側面で変化がおきているわけで、しかも多くの側面で次世代に思想的にも伝承されていあるといえます。やはり人がモノとともにある種の思想を保持しながら流入したと考えるわけです。もちろん思想や宗教的な文書などについては、次世代になってはじめて表面化してくる場合もありますね。そこで、話はもどって景教徒が実際に日本にまで流入したかについてであります。すでにキリスト教あるいはギリシア文化思想に影響された物品は多く流入していたはずであります。問題はモノとともにそのモノに思想などを刻み付ける人が流入していたかどうかですね。もし人も流入していたならば、当然、同一時期に、そのモノだけでなく、他のモノにも同一の思想が
刻まれるわけであります。そして、モノだけでなく、儀式や教義、あるいは楽や、建築物、薬、神話・教義・・・というふうに同一時期におそらくは普及するとおもわれるわけです。樂については、たとえばタジ調とか呼ばれたアラビア風の音楽と器具が6世紀代には流入したらしいことは、福島の横穴墓からの出土品の調査などからもわかっています。その横穴墓群の壁画からは正倉院の幡金具と同種の模様が刻まれており、正倉院の文物との思想的共通性が予想されてくるわけです。このような事例は、つまりおそらくは単に物品が正倉院に納められたということを超えて、そのモノに思想を刻み付けた人が流入したことを物語っているのでありましょう。わたしは景教徒が秦氏との関係で伝来したとの説は、ホームページではあえて否定しないわけで載せてあるわけであります。私は対外は不確定な俗説については、載せない方針でいるのですが、ギリシア・ローマ文化の影響を受けたモノと人と思想・教義との流れを捉えるという点において、研究価値があると考えているからであります。それではいつも秦さん、貴重な情報提供いただき感謝しております。

『秦氏と八咫烏の記述発見』
秦義則 2002年4月27日(土) 23:25:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 「少名彦名」を奉る秦氏が九州に秦王国を築いた後、瀬戸内海から熊野に入り、大和を目指すわけですが、ここまでくると神武東征の神話と類似します。神武天皇が熊野山中で「八咫烏」(ヤタガラス)に出会いその導きで、大和にたどり着いたのは有名な話です。ヤタガラスの話は朝鮮半島が起源とかで、秦氏とヤタガラスとの関係に興味を持っていました。古代史ファンクラブの記述に見つけましたので抜粋し添付します。
:秦氏とは何か?ご存じの様に渡来人が帰化した人々だが 、世界史に明るい人は、すぐに気づくと思われるが、『太秦』と言えば、 中国の唐の時代635年に景教が伝来して、隆盛を極めた『大秦景教流行 中国碑』を思い浮かべだろう。大秦とは、当時中国ではシルクロー ドの1つの終点であるローマを意味している。つまり431年エフェソス公会議で異端とされ破れたネストリウス派のキリススト教徒(景教徒)= 秦氏ということになる。
ネストリウス派のアタナシウス派との教義の違いは、後者が三位一体説 に対し三位三体説をとっている。その影響を強く表しているのが、太秦の近くの『蚕の社』にある三柱鳥居や、神武の東征の道先案内をしたと言 われる三本足の『八咫烏』(日本サッカー協会のトレードマーク)等もそうだし、古事記に出てくる神様も、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱、ということになっている。また、九州の宮崎にある天の逆矛は、ご存じ『逆木』の形、つまり剣が天に逆さに三本延びてる形となっている。この『逆木』→『榊』を意味するものらしい。秦氏とは、古代ヤダヤの血を引くネストリウス派のキリスト教徒だと言える。秦氏系の神社の、八幡系神社は「ハチマン」の他にも、「ヤハタ」と読む。つまり八は末広がりで、多くのと言う意味を表し、幡=秦であり、 何々八幡神社とは、秦氏の社である。また八坂神社の八坂は弥栄(イヤサ カ)であり、YHAはヘブル語で「神」の意味で「ヤッサカ」とは、神よと叫ぶの意味。つまり八坂神社は、ヘブル語では、Oh! my god神社となる 。また神社のことをよく社「ヤシロ」と読むが、”ヤ”は前述した様に神の意 、”シロ”は臨在の幕屋が建てられた場所を表す。 「イスラエルの人々はシロに集まり、臨在の幕屋を 建てた」・・(旧約聖書ヨシュア記18章 1節) 神社にも、基本的ご神体の偶像はない。一部神仏混合の影響で偶像がある場合があるが、ほとんどは「鏡」「幣帛」「神札」があるのみで、ソロモン神殿同様、偶像崇拝は御法度なのだ。

『RE『豊中市服部天神の由来』』
管理人 2002年4月25日(木) 0:38:36 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦さんまた貴重なお話聞かせてくださりありがとうございました。宇佐から大宰府にかけては秦氏の本拠で、いろいろ伝説が残っているようですね。その中でも、今回の秦氏と医薬にかかわる伝承はひときわおもしろいです。秦氏というと、酒作りとの関連が注目されていますが、医薬のほうには今いち関心が向いていなかったように思います。酒も医薬のひとつでしょうか。賀茂の葵祭りや、その禊の儀式とかは、秦氏の松尾社の禊儀式などが元になっていてるそうですね。秦氏が賀茂社と関係するようになって、その儀式にも影響されたというようなことを、掲示板で聞いた覚えがあります。賀茂のみあれ祭などは、朝鮮・中国の五月の端午節との関係、特に菖蒲の湯に浸かるとか、東流水上の禊の儀式なんかと、関係あるんでないかと思ってます。さっきも一日の疲れを癒すのに、銭湯の薬湯に浸かりながら、ぼーっと秦さんのメールのこと考えてたんですが、菖蒲の湯なんかも薬湯の一種ですよね。秦氏と禊と医薬との関係なんかもそういうところにあるんでないかとも感じます。普通秦氏の祖先には、弓月君がきますが、たしかに少名彦名神が関係してくるケースもありますね。大国主との少名彦名の国つくり神話も考えてみると面白いですね。因幡の白兎の話なんかも医薬の職につく氏族独特の表現とも受け取れますね。それは、確か前に関係したことを掲示板で書かれた方がいたような気がします。少名彦名と大国主の話のあと、そのあとに出てくる大物主の子孫の系譜はまた、ソホリの神や韓神など、朝鮮との関係が深いことで注目されているところですね。この辺の神話と秦氏と職業的関係について、もっとよく調べてみるべきですね。それでは今回も奥深いお話お聞かせくださりありがとうございました。



『RE『古墳の被葬者を割り出しています』』
管理人 2002年4月24日(水) 1:58:8 削除・編集 スレッドの一覧・返信 首長さん、はじめまして。吉備の古墳の被葬者のことお調べになられているのですね。吉備の古墳の中でも、かつて石母田氏が注目した月の輪古墳とか、随庵古墳からの鉄鋏などの出土とか昔調べたことがあります。とはいえ考古については素人なので、たいしたことは言えません。ただ、随庵古墳の周辺の地域には、河沿いに東漢氏、忍海漢氏、西漢氏の人名が見え、また吉備津神社まで下流にいくとまた渡来系の氏族の足跡が見えますね。そのへん、備中国大税負死亡人帳とか、吉田晶氏や船尾氏が分析してたと思うので、参考にしてみてください。
藤井氏の吉備津神社の本や、門脇氏などの論も参考にした覚えがあります。5世紀の吉備の古墳群と渡来系の関係や、6世紀の児島屯倉の創設から、上流へカヤ郡への渡来系氏族の動きは注目されますね。吉備津神社の釜鳴神事へ毎年随案古墳からもうすこし北に上ったところの地域から、釜が後納されるというのも気になっていますが、あまり調べる機会がなかったので、その辺の地域の方に聞いてみてください。この辺の屯倉進出に関する渡来系氏族の動きというのが、いわゆる渡来系氏族を奴隷的な形で、製鉄に関する技術者などとして王権によって派遣されたのか、あるいは渡来系氏族の独自行動によって上流への進出が行われたのかとか、院の時考えた覚えがあります。それでは、ご意見どうもありがとうございます!

『豊中市服部天神の由来』
秦義則 2002年4月23日(火) 22:45:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
 その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
 このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。

『RE『秦氏と平家』』
管理人 2002年4月23日(火) 22:22:25 削除・編集 スレッドの一覧・返信 秦氏について、おっしゃるとおり京の灌漑、広隆寺の菩薩像や大避神社の事、など、いろいろ土木にかかわる話が残ってますね。伊賀の服部部など、技術が特定の氏族によって伝播して痕跡を残していくというのは、興味深いですね。岡山の逃れたというのは初耳ですね。どうして岡山だったのでしょう。親族でもいたのでしょうかね。思い出すのは岡山の児島の屯倉の話ですね。書紀などにも、そこに秦氏など渡来系氏族が派遣されたという記事が載っていますね。岡山の吉備津神社のあたりだと、いまでも三宅とか地名が残ってたり、渡来系氏族が死亡人帳にみえたりしていますね。そもそも、屯倉という記載自体は、書紀にはみえますが、その現地にいくと「三宅」に変わるんですよね。宅が三つあるということからもある種の役所みたいなものを想像させるんですが、でも確かに倉もあったのでしょう。そして、その倉なんかも、よく群馬の国府の後にあった倉が再現されたりしてますが、簡単につくれるものではなく、寸法や収められる量など、細かい王権?の規定があるわけです。そうですから、やはりその製作職人も、中央の技術者による可能性のほうが高いんではないかと思います。延喜式なんかでも木工寮と秦氏との関係も出てくるし、秦氏と土木との関係を示すことは多くみられますね。秦氏というのは、在地性が強いと言われます。技術的側面を有していたために、在地へ派遣される可能性も多かったのかもしれませんね。秋田城からでてる漆紙文書とかにも秦氏がでてくるんですね。伊賀と服部さんの忍者とのことも、秦氏との関係があるというのは、まんざらうそではないかもしれませんね。全国的には秦氏というのは見えるのは確かですけど、伊賀というのは天武の時に伊勢国から分離したんですが、そもそも伊勢神宮の起源自体も天武ころに求める説もありまして、伊勢の神宝なんかもどこでどうやって作られるのかが気になるところです。例の絹関係のものも多いし、式年遷宮のたびに木工寮から、技術者が派遣されるのでしょうか。もちろん朝集使などとともに毎年の儀式で必要なものが運ばれるのでしょうが、皇太神宮儀式帳や延喜式などでは、材料自体、三重周辺から集める例も多いんですね。そういう秦氏なかでも職人家系に属するものが、伊勢周辺に住んでいて後服部部さんになってもおかしくはないと思います。秦氏の子女が広大斎宮の火拒になるのは相変わらず興味あります。実際秦氏に関する記述もあの辺ありますしね。伊勢のアマテラスと機織伝説との関係、伊勢自体は禊自体と関係するのか、五十鈴川?沿いにあるということもあり、水運の整備なんかもやはり特殊技術と関係してくるんかもと思います。よく古墳の形が変わるとか、なくなるとかいうのも、王権の規定とともに、中央の職人集団の状況というのを考慮してみてはとも感じます。聖徳太子の時代に秦氏が分散したというのも、そういうのが、たとえば地方の群集墳に影響するとか、横穴墓の壁画に影響するとか、なんかそういうのないでしょうかとかおもってみたりしますが・・・。では長くなりましたが、興味深いご意見本当にありがとうございます!!!


『秦氏と平家』
秦義則 2002年4月22日(月) 23:58:4 削除・編集 スレッドの一覧・返信 聖徳太子のパトロンとして秦氏がおり、秦河勝は聖徳太子から弥勒菩薩を戴いたというのは有名ですね。その仏像の安置場所として京都の広隆寺を建立しています(聖徳太子は法隆寺ですよね)。その頃にはすでに京都に秦氏一族がいました。徐々に京都を灌漑し桓武天皇の頃には、一大土木事業が完成した事になります。
京都に弓月の君と始皇帝を祭る大酒神社があり、兵庫の南西部(赤穂)に大避(おおさこ)神社があります。大避神社は秦河勝を祭っています。どちらも牛祭りがあります。河勝は太子と接近しすぎ蘇我氏から迫害を受け赤穂まで落ちていった様子。その後河勝の技術は岡山県に伝わっていくようです。
河勝亡き後も京都にとどまった方の一族は大化の改新後自由になり、灌漑事業を完成し平安遷都へとこぎつけたのだと思います。秦氏一族は技術集団として活躍はしましたが、歴史の表舞台に立とうとはしなかったようです。平安遷都後、秦氏は影を潜めてしまいますが、平安時代に秦氏は滅亡したのでしょうか?平安時代に登場するのが平家ですね。平家は海上戦に長けていました。秦氏と何らかの技術交流があったと思われます。平氏が追われるとき、西へ海へ出てゆきます。河勝のように。広島県因島には平家とともに落ちた秦氏一族があります。
秦氏は歴史の裏に隠れたようです。秦氏と服部氏との関係?同じ部族だったと思います。伊賀の服部とは忍者ですね。歴史のロマンを感じます。

『RE『面影もありませんが』』
管理人 2002年4月22日(月) 1:21:2 削除・編集 スレッドの一覧・返信 私は札幌出身で関東人なもので、亀岡市の位置がわかなかったのですが、今地図で確認しました。湖だったのですか。嵯峨野から右京へと進出したのですね。嵯峨野から松尾神社あたりは、歩いたことがありますが、確か松尾神社にも船がありましたね。なんでこんなところに船があるのかとか感じてたこと思い出します。今地図みると猪名川の上流に愛宕山というのがあり、確か愛宕郡計帳とかいうのにも秦氏の連名があったような気がします。丹波播磨から池田市付近をとおってか、東に移動してるんでしょうね。確か、播磨方面から、地祇に入れられている貴船神社とかと関係する水神の移動についても、雨乞い儀式とかの関係で注目されてますね。たぶん渡来系もかかわってると修論の時考えてました。
干拓技術などは、やはり長岡や京の水利をいろいろ調整するのにも重要だったのでしょうね。古墳の周溝なども秦氏との関連あるのでしょうか・・・。機織から、干拓まで水に関する思いは秦氏にとってひとしおだったのでしょうね。それではどうもありがとうござます!


『古墳の被葬者を割り出しています』
首長 2002年4月22日(月) 0:16:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして 岡山県の古墳を案内しています。また、古墳の被葬者の割り出しをおこなっていますが、吉備の国にも渡来人がいたという説があります。製鉄に関連する人物とされていますが、調べているうちに貴サイトへたどりつき足跡を残させていただきました。また拝見させていただきに寄りますのでよろしくお願いいたします。またよろしければこちらへもお立ち寄りください。スレッド型BBSもありますのでいろいろな説を提供ください。

『面影もありませんが』
秦義則 2002年4月21日(日) 21:22:55 削除・編集 スレッドの一覧・返信 池田市に秦氏が住んでいたのですが、猪名川の上流の三田市にも多く住んでいた様子。また池田の北、大阪府から京都府に入ったところに亀岡市があります。亀岡市はもともと大きな湖だったのですが、秦氏が干拓し、ここに一族の一つの拠点を置きました。亀岡から嵯峨野一帯に秦氏が住んでいたのですが、そこからさらに今の京都市内を干拓し、桓武天皇を京都に招いたようです。
僕自身は池田市出身ですが、本家は亀岡市本梅町です。
秦氏は大陸から渡来する技術を持っていたわけですから、海上の交通や水路の移動手段には長けていましたし、まず水を治めることが一族を繁栄させることを知っていたのでしょう。亀岡にも湖があった事、桂川や加茂川にも堰を設け巧みに水を操った事、土木灌漑技術が優れ、また、養蚕の技術から、医術、酒作りまで幅広い技術をもった集団であったと思います。
今となれば面影もないのが情けないです。

『秦さんですか!』
管理人 2002年4月21日(日) 0:13:59 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして!池田市の伝説興味深く感じています。特に綾服部(アヤハトリ)呉服部(クレハトリ)について、書紀の記述だと漢氏の祖先阿智使主が中国から連れてきたとの伝説があります。そして、わたしは漢氏との関係でしか捕らえていなかったのです。しかし、池田市にみられる秦氏の足跡や、秦氏との関連でよくでてくる絹と機織伝説との関係を考えると、あらためて秦氏と両服部との関係を考え直すべきですね。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名ができたとのこと、また勉強になります。機織と水路との関係について、なかなかそういう現場を知らないわたしとしては、想像が行かなかったのでした。いろいろ「水」については思い当たりますね。今年は、アマテラスの岩宿神話と機織、秦氏と機織伝説との関係を調べてみたいと思っていたので、いろいろ勉強になって感謝です。これからも、よろしくおねがいします!


『私の先祖は渡来人?』
秦義則 2002年4月19日(金) 0:10:15 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして、秦といいます。名前が難しく、正しく読んでもらえなかったり、読めても正しく書いてもらえなかったりします。「泰」や「奏」とかかかれます。生まれは大阪の池田市。池田市にも伝説があります。大阪湾から渡来人が都に上がるのに水路で猪名川に入り池田に来てとどまった様子。二人の姫がいて、一人を綾服部(アヤハトリ)もう一人を呉服部(クレハトリ)と言います。猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名があり、五月山には絹掛けの松があります。綾羽神社、呉羽神社があり、それぞれの姫が祭られています。秦氏に関係があるようです。池田市には秦野という地名があります。池田の南、豊中市に服部と言う地名があり、服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。自分の名前なので興味を持っていました。

『お返事おくれてすいません。』
匿名希望 2002年4月10日(水) 4:36:46 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさまお返事遅れてすいませんでした。実はある音響機器に関するシステム上の変更のため、先日プレレリリースバージョンのウィンドウズ2000をインストールしたのですが、その結果インターネットとCDロムが使用できなくなりました。今日やっと復旧させました。ご迷惑かけました。今後気をつけます。
Jyouyiさん、お返事ありがとうございました。
書紀などの撰者・編者と、文書を起こした方との相違もよく区別すべきでしたね。よく思い出してみると私も新撰姓氏録の撰者と、文書官人名との相違に頭を悩ませました。撰者には、藤原氏の貴族層が、文書官人のほうには、渡来系氏族が多く見えます。ご専門の万葉集についてはわかりませんが、書紀についても、もっと調べる手段を追求したいですね。書紀ではありませんが、古事記の太氏(多氏)は文書官人としても気になる氏族ですね。北九州に本拠を持ち、蘇我氏の関東進出とともに、先におっしゃいました例の碑文のある高崎方面や東関東方面に進出したようですね。この多氏というのは、また秦氏とどうよう、後代まで大陸系に由来する雅楽の伝承をしていたことで有名ですね。天武朝前後の樂とその歌われた歌詞との関係、あるいは樂と儀式との接点が大変研究上重要になってくると考えています。文書の地方への伝播は、やはり渡来人の地方国府へ移動などが影響しているとのことですね。福島地方の壁画古墳などにも、幡具を描いたものもあり、舞楽で使用された器具も出土しているようです。どのように、後代の地方の郡司・雑任層にも、渡来系氏族が影響を及ぼしていったのかなど、注目されているところではあります。楽しみですね。また、別ページで書紀については、すこし意見を述べたいと思いますのでご参考にしてみてください。

小林さんお返事ありがとうございます。史部の研究とのことですね。ただ史と史部との相違について気をつけてください。関晃氏がまず「倭漢氏の研究」で書かれていたと思いますので、最初に読まれてはどうかと思います。その他「史部」に関しては渡来系にかぎらずいろいろ研究は出されています。特に東西史に関するならば、下出氏の道教的側面からの分析もありますし、とかく儀式面と制度面との双方から迫ることをお勧めします。文書官人おいて、儀式と制度的職業とが、分離していく過程を追うことも面白い課題です。そして「○人」という集団から、「文人」が特別に「史」とされるにいたってのプロセスが重要です。「史」というのはカバネとして天皇から賜与されるものです。「史」の朝廷にお位置付けの盛衰や、その意味付けも課題とされてます。部民制から人制、カバネ制から伴造制へ、そして律令制にいたるまでの制度の変遷と「史」との関係の変化を追うことも前提となってくるでしょう。また、同様に儀式的な変遷も頭に入れておく必要があります。これらの前提を踏まえて、書紀の特定部分に絞って研究されてはいかがかと思います。がんばってください!

伊吹さんお返事ありがとうございます。嵯峨野の群集墳とは、大変渡来人研究においても重要な地域を課題とされているのですね。どうもホームページ拝見したかったのですが、つながらないのでアドレスの方再度確認お願いいたします。群集墳について、よく四方観念のこととか、遺骨からの人種解析とか世帯構成とか、大陸系遺物の出土や、陵墓に関する制度的規定の問題など、渡来人研究にもいろいろ気になるところであります。理論を発展させていくにあたっては、雑要素を排除して純化して、真理を浮き彫りにしていくことがあり、大変だと思います。しかしまた欠如部分の補完や最終的な実証で、あるいはを何らかの文献などで補助していければいいですね。微力ながらご援助できればと今後の研究を楽しみしています。がんばってください。


『はじめまして♪』
伊吹童子 2002年4月9日(火) 0:49:1 削除・編集 スレッドの一覧・返信 はじめまして、伊吹童子と申します。
私は現在、大学で日本史学を専攻しており、
所属サークル(考古学研究会)の活動で渡来人をとりあげていることから、
渡来人研究会さんにはよくお世話になっておりました。
ありがとうございますm(__)m全国幅広い情報は、私の視野を大きく広げてくれました。
私達のサークルは京都・嵯峨野地域の群集墳を測量・踏査すると共に、それらの群集墳の被葬者と考えられる秦氏についての研究を進めています。また何か質問させていただくことがあるかもしれませんが、その時はどうぞよろしくお願いします☆

さて、私も自分のホームページを持つに至りました。考古学や歴史学に関する考察を中心としたページですが、最近では古典についてや、私のつたない随想なども載せております。今後は、一般に軽視されがちな理論考古学を平易に解説することで、それを広めていこうと思っている次第です。よろしければ一度おいで下さい。歓迎いたします。できれば、相互リンクしていただけると嬉しいです。

『失礼します』
小林 2002年4月7日(日) 17:34:19 削除・編集 スレッドの一覧・返信 結構前に卒論の事で伺ったものです。
遅くなりましたがご返事ありがとうございました。

もうすぐ授業が始まるのにゼミの宿題が終わってません(泣)

とりあえず、教授に「史部」の方向で聞いてみることにします。(…変わる可能性も大ですが;)
「渡来人」なのは変わらないので、またちょくちょくページを拝見させていただきます!
よろしくお願いしまっす。

『上代特殊仮名遣い』
Youyi 2002年4月4日(木) 13:26:42 削除・編集 スレッドの一覧・返信 レスありがとうございます。
管理人さんのご意見に対し、思うところを述べます。

>>日本書紀の編者が特に百済亡命の渡来人であったとの説

私は「編者」とは言っておらず、あくまで記紀万葉等の最終的な文字起こしをした文書事務官が朝鮮帰化人だった、と言うにとどまります。例えば日本書紀β群の文字起こしをしたのが山田史御方だったにせよ、その人物が主体的に文章を書いたのか、それとも誰かの指示に従って単に文字起こしをしただけなのかはわかりません。それは史学の方にお任せします。(^ヘ^)

>>推古紀に通訳としての「訳語」(ヲサ)という表記がありました。この「をさ」の「を」も普通の日本人なら「お」とすべきところだと思います

「訳語」が「ヲサ」なのは、一番最初にのべた有坂第三法則「B同一語幹内にO乙はAと共存することが少ない。(即ちO甲とAが共存することが多い)」で説明が付きます。

ワ行の「ヲ」とア行の「オ」は、前者が/O/の甲類、後者が乙類で、これは上代特殊仮名遣いのなごりだと考えられます。
例えば「リンゴを食べたい」と言ってみれば「ゴ」よりも「を」の方が円唇化するのがわかるはずです。
ですから、「ヲサ」は母音が「o-a」と続くので、/O/が甲類の「ヲ」で書かれるのは当然なのです。

尤も「ヲとオは/O/の甲乙であり、上代特殊仮名遣いのなごりである」という説を出したのも、私が日本で初めてらしいですが、このことは音声学的に様々な角度から検討して間違いないという確信を持っています。

>>百済亡命氏族が二世にいたって、かえって日本語も自由に扱えたことによって、律令制導入によって台頭してきた日本人に圧倒されずに、

むしろ白村江によって大量の読み書きできる帰化人が得られたことによって、律令制施行が可能になったのであり、それがなければこの時代に律令制が成立することはありえなかったでしょう。

歴史学者も国語学者も誰一人指摘しないことですが、白村江以前(国語学で言えば推古期遺文以前)に都周辺以外の地方で作成された文書というのはただの一つも現存していないのです(ただ、推古朝に書かれたとされる伊予の道後温湯碑というのが続日本紀かなにか?に引用されているだけです)。
即ち、白村江以前には、都以外にはまともに読み書きできる人間がいなかったということです。
ところが663年の白村江以降、670年には「庚午年籍」が作られ、681年には「上野国山名村碑」、690年には「庚寅年籍」、700年には「那須国造碑」、711年には「上野国多胡郡碑」、720年頃には「風土記」、そして「万葉集」と、地方で作られる文書が急激に増えるのであって、この時代に一気に読み書きできる人材が地方に拡散したことを意味します。

律令制の仕組みをだれが立案したかは知りませんが、全国60カ国以上に国府を作り、戸籍を作り、計帳を作り人民全てを掌握して中央集権国家を作るためには、膨大な数の文書実務者が必要なのであって、それだけの文書実務者育成は一朝一夕に出来ることではありません。白村江以前には地方ではただ一つの文書も作れなかった国が、わずか40年ばかりで律令制を施行できたのは、読み書きが出来る3000人以上もの帰化人が得られたからでしょう。

律令制の施行で各国に国府がつくられるころには、日朝バイリンガルで読み書きの出来る白村江帰化人二世が大量に育っており、近江など都周辺の二世が選抜されて派遣されたり、東国に配置された者の二世が現地採用されたりして、各国国府の文書事務を担当したことでしょう。
そう考えない限り、7世紀末〜8世紀前半の万葉集や風土記で東国から九州に至るまで全国一律に上代特殊仮名遣いが現れることの説明がつきません。
彼らの身分は史書に名の残らない主典以下の七位・八位・初位ぐらいの微官だったでしょうが、地方の豪族や庶民からみれば、やはり貴族で読み書きの出来る超文化人、是非婿にと望む者も多かったはずで、地方豪族の婿となってその姓を名乗り、土着した者も多かったでしょう。そして、そのようにして土着した帰化人を通じて地方にも読み書きが徐々に広がっていったものと思われます。

私は日本史上帰化人が果たした最大の役割は、文字文明を全国に波及させたことだと考えています

『RE『上代特殊仮名遣い(補足)』』
管理者 2002年4月1日(月) 23:53:35 削除・編集 スレッドの一覧・返信 お返事おくれてすいません!先日すでにお返事書き込んでおいたつもりだったのですが、どうも掲示板の書き込みボタンではなく、クリアボタンを押してしまっていたようです。この辺は今後掲示板を利用される方も注意したほうがいいですね。さて、誤解のほうは了解しました。人間の無意識下での条件異音と、言語の習得・経験からくる八母音・五母音などの相違について区別して理解する必要があるのですね。勉強になりました。日本書紀の神話部のいわゆる「一書」などにみられる神話などについても、やはり人間が特定の条件下で普遍的に創造する話と、ある特定のテキスト・事実の経験によって語られる話との相違を考えていくことと似ていますね。そして、言語的・文書的に、人間本来の特性によってつくられたのか、あるいはどこかからの伝播によるものなのかを、区別し、双方のからみあいの関係を理解していくことが課題です。
八母音を理解して区別していた日本書紀の編者が特に百済亡命の渡来人であったとの説は、新たな視点で大変貴重であります。日本書紀冒頭の「一書」や古語拾遺の元テキストがどのように天武朝ころから、奈良・平安初期にいたるまで、中国的に装飾化されていくのかをゼミで調べたことがありました。確かに日神・月神がアマテラス・つきよみに変わっていくなどは理解できたのですが、細かい言語的部分については、神野志氏の儀式的側面と関係を示したテキスト論なども参考にはしましたが、到底歴史学者には追求できない現実に直面したのでした。そして、その言語学・国文学の協力無しには前進することもできないでしょう。同様、修論でもご存じかと思いますが新撰姓氏録という氏族書を分析いたしました。各氏族の出自を載せているのもですが、渡来系の氏族の中には、中国から朝鮮を経由して日本にきたというものもあり、その出自伝承にも朝鮮的発音の名前など、中国的な装飾文、伝承内容など、いろいろまざっていました。そしてその当の祖先を同じくする氏族内でも枝氏によっては祖先を中国としたり朝鮮としたりまちまちなものをあります。やはりこの書物も本格的に言語学的解析がなされるべきだと期待しています。さっき電車の中で、書紀をひさしぶりにみたのですが、推古紀に通訳としての「訳語」(ヲサ)という表記がありました。この「をさ」の「を」も普通の日本人なら「お」とすべきところだと思います。この区別はいつの時期のどの底本でふられたかも気になりますが、朝鮮系の発音と関係あるのでしょうか。渡来系氏族によくみられるのカバネ?に「曰佐」というのがあり、確か言葉の起源は朝鮮と関係があったと思います。その発音について、しっかり伝承的に理解していたのでしょうか。参考にしてみてください。渡来系のカバネや氏名・出自伝承には、かなりそういう類のものがありますが、歴史学者ではいまいち深い理解にたっしないみたいです。さて百済亡命氏族が二世にいたって、かえって日本語も自由に扱えたことによって、律令制導入によって台頭してきた日本人に圧倒されずに、さらなる文書職務に関する活躍をされたとのことは、言語に精通された方ならではの目新しい貴重なご意見だと思います。そのことが具体的に証明できればいいですね。亡命百済系渡来氏族の官位昇進のあり方や職務の付き方などからも、立証できないでしょうか。ただ、三世にいたって蕃国史観にもとづき日本化していったかどうかは、なお慎重にすべきと思います。なお渡来系氏族の職業継承は律令制導入後も、簡単には倭系氏族に代わられることは少なく、蕃国史観があるなしに関わらず、具体的な職務としては平安初期まではなお渡来系氏族の継承によるところが大きいとの見方を、私は支持しています。私は修論で平安初期の新撰姓氏録の分析をするにあたり、エクセルで「出自」「カバネ」「その氏族員が到達し得た最高官位の平均値」「職務」などについて分析しました。そしてそれぞれ、「漢」「唐」「百済」「新羅」「任那」「倭」において、その平均昇進官位、出自・カバネと記載順序によって表現された天皇からの位置づけ、からも蕃国史観がどのように具体的に職務・官位・それぞれの出自主張にあらわれているかを研究しています。
さらに、「左京」「右京」「山城」「大和」など地域別にも、諸「蕃」国、カバネ、官位、出自などについてデータを出しています。結論としては、果たして蕃国史観がかれらの日常にそう影響を及ぼしたかどうか疑問が残るとの理解に至っています。平安初期以降に至るまでの三世の倭系化については、なお慎重に考えてみたほうがいいと思います。データ類などについては、必要な方面の方がおりましたら、提供いたしますのでご連絡ください。
それでは、改めて貴重なご意見ありがとございます。今後ともよろしくお願いします。

渡来系

『上代特殊仮名遣い(補足)』
Youyi 2002年3月31日(日) 10:20:50 削除・編集 スレッドの一覧・返信 ご研究のお役に立てれば幸いです。(^ヘ^)

ただ、私の説を多少誤解なさっておられるようですので、説明させていただきます。

>>古代朝鮮語が渡来人によって日本にもたらされ、今なおわれわれが無意識に発音を繰り返している中に影響を及ぼしている

などということは私は全く言っていません。

私が言っているのは、奈良時代已往の日本は殆ど無文字社会であり、貴族以外の純粋な日本人で読み書きの出来る者が殆どいなかったため、多数の朝鮮帰化人と少数の中国帰化人が「お雇い外国人」として文書事務を担当していた、ということです。
ただ、この「お雇い外国人」も白村江以前には少数しかおらず、あまり質も高くなかった為、少数の文書しかつくれなかったのが、百済・高句麗の滅亡、白村江敗戦の結果、大量の質の高い人々が得られたため、その二世達が活躍する奈良時代には大量の文書作成が可能になった、ということです。
そして、そのことは歴史学的にだけではなく言語学的にも証明できる、ということを言っているだけです。

朝鮮語と日本語は古代から全く別の言語であり、白村江後に「大量の」朝鮮帰化人が亡命してきたと言っても、多く見積もってせいぜい1〜2万人、当時の日本の人口は600万人弱と推定されていますから、その程度の異言語話者が移住してきたからといって、日本語の音韻体系が変化するなどと言うことはあり得ません。影響があるとすれば、せいぜい朝鮮語起源の外来語が日本語語彙に取り込まれるぐらいです。

現代日本人が無意識に二つの/O/母音を使い分けているというのも、純粋に発音上の経済法則に従っているだけであって、朝鮮語とは全く無関係です。

人間が発する母音は人種・民族を問わず範囲が決まっていますが、それをどのように分割するか、いくつに分割するかは言語によって異なり、朝鮮語では八つに分割し、日本語では五つに分割します。
すると、八つに分割する朝鮮人が五つにしか分割しない日本語を聞けば、日本人自身が意識していない発音の差を別の母音として認識する、という現象が生じてきます。
もし現代日本語に文字が無く、韓国人がハングルを以て日本語を聞こえるままに記述するとすれば、やはり日本語母音を八つに分けるはずです。同じことを奈良時代に朝鮮帰化人がハングルの代わりに朝鮮式漢字音を以てやったのが「上代特殊仮名遣い」だということを私は言っているのです。

日本語の/O/母音の許容範囲は広く、朝鮮語の/┻/と/┫/の両方の領域にまたがりますが、日本人はランダムにそれを使い分けているわけではなく、前後に接続する母音・子音との関係、アクセントやプロミネンス(強調)などの法則に従い、無意識のうちに/┻/に近い発音と/┫/に近い発音を規則的に使い分けているのです。
こういうものを言語学では「条件異音」(conditional allophone)といいます。
例えば、ソファーで隣に座っている人に小声で「オイ」と呼びかけ、次に100メートル向こうにいる人に大声で「オーイ」と呼びかけてみてください。もしこの二つの「オ」の唇の形が同じだったら100万円差し上げます。(^ヘ^)
つまり、我々日本人の意識のなかでは小声の「オ」も大声の「オ」も同じ音なのですが、客観的にみれば全然違う音であり、こういう話者自身は全く意識していないのに別の基準からみれば別の音、というのが「異音」です。
ところが、この二つの「オ」は日本人にとっては同じ音(異音)でも、/┻/と/┫/を区別する韓国人が聞けば別の音に聞こえ、文字に書くとすれば別の文字で書きます。それが上代特殊仮名遣いの正体です。

言語学・日本語学方面で私の功績があるとすれば、@現代日本語/O/母音の条件異音の発現法則を発見したこと、Aそれが上代特殊仮名遣いオ段甲乙音の書き分け法則と一致していることを発見したこと、の二つです。
特に@は言語学者(音声学者)・日本語学者・国語学者の誰一人今まで気づいていなかった、というよりこれまでそういう研究した人がいなかったのです。ですから、今の私の急務はこれを定説として音声学者や日本語学者に承認させることであり、そのために今いろいろ実験をし、客観的データを集めているところです。音声学の世界でこれが定説となれば、いかな頑迷固陋・因循姑息な国語学者たちでも私の説を承認せざるを得なくなります。
そして、国語学者が私の説を認めるなら、歴史学者も帰化人観・古代国家観を改めざるを得なくなるでしょう。
ただ、韓国が大喜びして、新たな歴史教科書問題が生じるかも知れませんが・・・・・

これまでの国語学の定説では、日本に文字をもたらしたのが朝鮮帰化人であることは否定しようがないものの、それは5〜6世紀のことであり、8世紀頃にはすでに日本人が読み書きに習熟しており、記紀万葉を書いたのも日本人だと考えられています。というより、それを客観的に実証研究した人間はおらず、ただ漠然とそう信じられているだけです。しかし、記紀万葉を記述したのは明かに帰化人なのであって、日本人自身が独力で文書作成が出来るようになるのは9世紀平安時代に入ってからだということです。

こんなことを言うと愛国的心情を持つ人々(国語学者は皆国粋主義者らしいですが)は反発を覚えるかもしれませんが、初期ローマ帝国で文書事務をやっていたのはギリシャ人であり、モンゴル帝国では中国人・ウイグル人・女真人などであるように、世界史を見渡せば無文字言語の新興国家で外国人(異言語話者)が文書事務をやっていることなど珍しくもなんともないのであって、別に恥じるようなことではありません。

『RE『上代特殊仮名遣い』』
管理者 2002年3月31日(日) 1:22:52 削除・編集 スレッドの一覧・返信 youyiさん、貴重なご意見ありがとうございました。古代日本および朝鮮・中国での言語について知りたいと思っていたところでしたが、まさかご専門の方からご意見いただけるとはももってもいなかったので大変感謝を感じています。本文を読ませていただき、いろいろと渡来人と記紀など諸文書との関わりについてアイデアをいただいたことは本当に恵みでした。このような分野や国・地域を越えた研究対話が、今特にワールドカップを控えたこの時期に必要とされてきており、またホームページという分野と時間差を埋めることができる場を提供できていることにあらためて喜びを感じます。
さて内容に関してでありますが、まず、古代朝鮮語が渡来人によって日本にもたらされ、今なおわれわれが無意識に発音を繰り返している中に影響を及ぼしているとのことには、今大変な驚きとその研究の重要性を感じています。おそらくはもっともはっきりと現代日本人と古代渡来人との関係を浮き彫りにする事実ではないでしょうか。このような無意識における日本人の「記憶」をたどり解明していくことは、実は現代の日本人の文化意識の土台からその発展を考えて行く上で、大変重要であることと思います。現代においては無意識となってしまったものが、過去においては明確に意識され区別されていたことを明らかにされていることは、すばらしいことですね。渡来人研究においては特に渡来後二世・三世となるにつれてどのように、渡来系であるという意識に変化が生じていったのか、その影響のもとどのように彼らが、あるいは日本人がお互いの和合を考えていったのかが重要視されています。その手段として、わたしなどは、修論において奈良初期の記紀と平安初期の新撰姓氏録とにみられる渡来系氏族記載の分析を系譜しました。そしてそのカバネの変化、官位昇進から諸神祇への関わりの変化を研究したのでした。しかし言語学的側面からの変化を追いかけることは極めて難しいことでした。ゼミでも森博達さんの日本書記記述への分析研究の応用報告を聞きましたが、なお本格的な言語分析は不可能であります。今回、その最新の研究成果の一端を読ませていただき、改めて分野を越えた協力なしには、渡来人研究をはじめ古代史研究の進展はあり得ないことに気づかされました。わたしなど研究から離れている小才では、あまりお役にはたてそうにありませんが、古代史学者との対話を目指して研究をなされていくことは、かれらにとっても今大変望んでやまないことと感じます。その他、読ませていただきいろいろ気づいた詳細については、後日あらためてご報告いたしたいと思います。
それではこれからもよろしくお願いいたします。



『無題』
Youyi 2002年3月31日(日) 8:19:32 削除・編集

『上代特殊仮名遣い(つづき2)』
Youyi 2002年3月30日(土) 10:56:34 削除・編集 スレッドの一覧・返信  上代特殊仮名遣いの最大の史料は万葉集ですが、朝鮮帰化人が記述した、という観点から万葉集を眺めれば、その臭いがプンプン漂ってきます。

 「万葉仮名」と言っても、全てが一字一音の借音仮名で書かれているわけではなく、借訓仮名、訓読等の様々な表記法が併用・混用されています。
 万葉集の中で借音仮名が多用されている巻は、巻五・巻十四・巻十五・巻十七・巻十八・巻二十などですが、その中で特に巻五・巻十四・巻十五が注目に値します。
 まず、巻十五の前半の歌は天平八年(738)の遣新羅使一行の歌を集めたものですが、遣新羅使には当然通訳を兼ねた朝鮮語が出来る中下級の書記官達が同行したはずです。
 また、巻五は大伴旅人・山上憶良などが神亀五年(728)〜天平五年(733)に太宰府や筑前で詠んだ歌を記録したものですが、太宰府や筑前は対新羅外交・防衛の拠点であって、実務を担当する中下級の書記官には情報収集の為に朝鮮語のできる者が多数配置されていたはずです。また、国文学の方面では、山上憶良自身が幼児の時に来日した白村江帰化人であるという説も有力です。
 さらに巻十四は東歌や防人歌を集めたもので、東国の諸国府で収集されたものです。日本書紀によれば、666年に2000人に及ぶ百済人が東国に送られ、その後も多数の百済・新羅・高句麗からの帰化人が東国に送られており、これらの歌は諸国府で現地採用された中下級の帰化人二世書記官達が記録したものだと考えられます。
 特に東歌は当時の東国の諸方言を記録していることで有名ですが、朝鮮からやってきていきなり東国へ送られ、そこで育った二世達には当時の標準語(関西方言)も方言も見分けがつかなかったでしょうから、朝鮮語音韻体系で聞こえるままに記述したのが、方言の記録となって残ったのでしょう。

 また、森博達氏は日本書紀を漢文の正確さからα・β二群に分類し、α群を書いたのは中国帰化人の薩弘恪・続守言、不正確なβ群を書いたのは山田史御方ではないかとしています。
 当時「史」姓を持つ者はほぼ100%帰化人であったと言われており(でしょう?)、この山田史御方という人物も当然帰化人であったはずです。そして、この人物は若いころ新羅に留学していたとされていますが、新羅に留学して朝鮮語を学んだのではなく、もともと朝鮮語が出来たが故に新羅に留学し、別のことを学んでいたのでしょう。

 このように、記紀万葉等を誰が編集・監修したかではなく、誰が実際に筆をとって文字起こしをしたのかを考えれば、朝鮮帰化人、特に白村江帰化人二世達であったと考えるのが一番妥当です。

 この説は既に昨年5月の国語学会大会で発表し、さらに今年9月に音声学会大会でも発表する予定です。

 ただ、この研究をしていてつくづく思うことは、各学問分野の横の連絡の悪さです。
 国語学者は歴史や朝鮮語に興味がなく、古代史学者は国語学や朝鮮語に興味がなく、言語学者や音声学者は歴史や古代語には興味がなく、朝鮮語学者は歴史や日本語に興味がない・・・・皆が専門の殻の中に閉じ籠もって近視眼的にしか物事を見ないことが、この「上代特殊仮名遣い」という現象を70年以上も「日本語史上最大の謎」にしてきたといえます。

 長くなりましたが、皆さんの渡来人史研究に多少なりともお役に立てればと思い、投稿してみました。
また、これから歴史学的方法での論証にはお力を借りることもあるかもしれませんので、宜しくお願いします。m(_ _)m



『上代特殊仮名遣い(つづき)』
Youyi 2002年3月30日(土) 10:1:32 削除・編集 スレッドの一覧・返信  では、言語学者でさえ気づかない微妙な発音の差が、なぜ記紀万葉において書き分けられていたか、といえば、それを書いていたのが朝鮮帰化人だからと考えるしかありません。
 単に時代背景がそうだからというだけではなく、朝鮮語ではの円唇のO(甲類)を「┴」、非円唇のO(乙類)「┤」として厳密に区別するのです。朝鮮語をよく知っている人ならわかると思いますが、日本人がこの二つの母音を聞き分け、発音し分けるのは至難の業ですが、朝鮮語母語話者は明確に聞き分け、書き分けることができるのです。
そして、記紀万葉の借音漢字の朝鮮漢字音を調べれば、O甲類には明確に「┴」、乙類には「┤」(少なくとも非「┴」)が現れます。 

 つまり、記紀万葉及びそれ以前の時代に、日本において文書事務をつかさどり、借音仮名で日本語を記述していたのは殆ど朝鮮帰化人(一部は中国帰化人 森博達説)であり、言語的に純粋な日本人が書いたものがあるとすれば、万葉集の中の借音仮名以外の表記法でかかれたものやせいぜい木簡ぐらい、ということになります。

こう考えて大局的に日本語史を眺めれば、
○白村江以前の文書は何故殆ど残っていないか?
●白村江以前には純粋な日本人で読み書きのできる者は貴族しかおらず、文書実務にあたる下級の帰化人書記官の数が少なかったため文書自体が少なかった

○白村江以降、特に奈良時代にはいって記紀万葉・風土記等の膨大な文書が現れるのは何故か?
●白村江の敗戦によって膨大な帰化人書記官が得られた。但し、彼ら一世書記官は日本語が不自由だったため、その活躍は中央に限られていたが、日本生まれの二世や早期の三世は父や祖父から習って朝鮮式の読み書きが出来、日本語・朝鮮語共に母語として話せるため、太宰府はじめ地方の国衙にも送られて活躍した。このバイリンガルの白村江二世書記官達の活動最盛期が、奈良時代前半、記紀万葉・風土記などが成立した時代に当たる。

○奈良時代後半(八世紀後半)から上代特殊仮名遣いは急速に崩壊し、平安時代(九世紀)に入ると殆ど消滅してしまうが、それは何故か?
●奈良時代半ばごろから、バイリンガルの白村江二世書記官達が死に絶えて行き、血統的には帰化人でも日本語しか出来ない(朝鮮語の話せない)三世・四世の世代に移ったため。
また、帰化人がテクノクラートとして優遇されていた白村江以前の時代とは異なり、奈良時代を通じて朝鮮(新羅)を「蕃」として蔑視する傾向が強まって、朝鮮帰化人であることはハンディになりつつあり、日本語に不自由ない二世以降の世代は積極的に純粋日本人と通婚し、生まれた子供には敢えて朝鮮語を伝えようとしなかったものと思われる。

 このように、「上代特殊仮名遣いとは朝鮮帰化人の用字法」と考えれば、国語学・音声学・朝鮮語学・歴史学・社会学どの方面から考えてもこの現象は全く矛盾なく理解できるのです。

 歴史社会学に考えれば、白村江敗戦の結果、日本は朝鮮権益を喪失した代りに、膨大な数(日本書紀に見えているだけでも3000人以上)の優秀な文書事務官が得られ、彼らがその後の律令国家成立を実務面で支えたと言っても過言ではないでしょう。即ち、白村江帰化人の果たした役割はこれまで考えられているよりも遙かに大きく、その証拠が「上代特殊仮名遣い」として記紀万葉に残っているということです。

『上代特殊仮名遣い』
Youyi 2002年3月30日(土) 9:49:43 削除・編集 スレッドの一覧・返信 みなさん、はじめまして。
言語学・日本語学が専門で、現在「上代特殊仮名遣い」を研究している者です。私の研究は渡来人研究とも大いに関係がありますので、ご紹介しご高評を頂きたいと思います。

「上代特殊仮名遣い」とは、記紀万葉の借音漢字(万葉仮名)による日本語表記を分析すると、キヒミケヘメコソトノモヨロ(及びその濁音)の13音が甲乙2種類の漢字で書き分けられているという現象です。
 そこから「奈良時代(上代)日本語には母音が八つあった」と言う説が生まれ、長らくそれが定説になっていました。しかし最近ではイ・エ段音(キヒミケヘメ)の区別は本質的なものではないということがほぼ定説となり、現在はオ段音(コソトノモヨロ)の区別が本質的かどうかを巡って、六母音説と五母音説が対立している状況にあります。
 五母音説とは即ち、奈良時代も現代と変わらず母音はアイウエオの5つしかないという説で、松本克己という言語学者が最初に唱え、現在かなりの支持を集めています。

 私もまた五母音説に立ちますが、私の説は松本説とは全く異なり、簡単にいえば「上代特殊仮名遣いとは朝鮮帰化人の用字法であり、朝鮮語と日本語の母音体系の齟齬があらわれたものであって、日本語は元々五母音であった」というものです。

 渡来人研究の方なら朝鮮語はご存じでしょうが、(現代)朝鮮語には音声学的に基本母音が「├」「┤」「┴」「┬」「─」「│」「┤│」「├│」の八つあります(/ya/や/yo/は音声学的には半母音で母音には数えません)。上代八母音説と朝鮮語八母音の一致、そして記紀万葉が成立した時代は、663年の白村江敗戦以降に大量亡命してきた百済・高句麗帰化人一世・二世が大量に存在した時代である・・・・私の発想の原点はここにありますが、これだけでは単なるアナロジーに過ぎず、頑迷固陋な国語学者達を納得させることはできません。しかし、私はいろいろ分析してみた結果、音声学的に上代日本語が五母音であったという確かな証拠を掴みました。

 現在焦点になっているオ段甲乙音の使い分けに関して、上代特殊仮名遣い研究の先駆者有坂秀世が発見した「有坂三法則」と呼ばれるものがあります。即ち

@同一語幹内に O甲 とO乙が共存することは決してない
A同一語幹内に O乙は Uと共存することが少ない。(即ちO甲とUが共存することが多い)
B同一語幹内にO乙はAと共存することが少ない。(即ちO甲とAが共存することが多い)
松本克巳はさらに@の補足として
Cオ母音のみで形成される同一語幹内には現れるのは原則としてO乙のみである
(O・U・A:オ・ウ・ア母音)

 これらは長らく奈良時代日本語の特殊法則の様に思われていましたが、音声学的に実験してみた結果、現代日本人もまたこれらの法則に基づいて2種類のオ段音を使い分けていることに気づいたのです。

 まずBからいうと、「アオ」「イオ」を発音してみれば、「アオ」の「オ」は円唇化する(唇が丸くなる)のに対し、「イオ」の「オ」は円唇化しないはずです。(わからない方は、鏡を見ながら「アオアオアオアオ・・・」「イオイオイオイオ・・・・」とできるだけ早口で10回繰り返してみればわかります)即ちこの円唇化した「アオ」の「オ」が甲類、円唇化しない「イオ」の「オ」が乙類と考えれば、この法則は現代語から説明できます。

 次にAですが、実は現代語において関西方言のウは円唇母音、関東方言のウは非円唇母音という違いがあり、関西方言の人が「ウオ」というと「オ」は円唇の「ウ」に引きずられてやはり円唇化します(関東方言の人の「ウオ」のオは円唇化しない)。記紀万葉の歌の大半は畿内の貴族が詠んだものですから、やはりこの法則もこの現象で説明できます。

 次に@ですが、上のことより円唇のO甲類はア・ウ段音に接続すると条件下で現れる条件異音、非円唇のO乙類はイ・エ段音に接続する条件下で現れる条件異音です。従って、オ段音が連続する場合にはそういった条件が存在しない為、同一語幹内にO甲 とO乙が共存する道理がないのです。鏡を見ながら、「トコトコ」「ノコノコ」などと発音してみればわかるように、必要もないのにわざわざ唇を動かすバカはいないという法則です。
 そしてCですが、円唇のO甲類と非円唇のO乙甲類を比較してみれば、後者は唇を丸めるエネルギーが節約できるため、ア・ウ段音に接続という条件のないときは、人は発音の楽な乙類で間に合わせるという法則です。これも「トコトコ」「ノコノコ」などを発音してみればわかります。

 このほかにも、子音との関係・アクセントとの関係・強調との関係で円唇・非円唇のOが発生する法則があり、それらを含め、現代人が無意識に使い分けている円唇のOと非円唇のOをそれぞれ甲類・乙類と考えれば、上代特殊仮名遣いについてこれまで知られている事実はすべて現代語から矛盾なく説明できるのです。即ち、奈良時代から現代まで日本語の母音体系は全く変わっていないのです。

現代日本語のO母音が前後の母音・子音・アクセント・強調等との関係で微妙に変化することは、これまで一般人はもちろん、言語学者・国語学者も誰一人気づいていませんでした。