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渡来人研究会清談掲示板ログ18

 

東西五行思想と日本古代思想 投稿者:管理人 投稿日:2007年 7月11日(水)02時49分50秒   返信・引用  編集済
ゆりさん、こんにちは。本当に日本の歴史は、ご指摘のHPが書かれているように、古今東西からの多民族で構成された国といえそうですね。

高麗王や高句麗亡命集団の流入によって成立した関東高麗郡の研究も研究報で記したように、きわめて日本がどういう民族で構成されたかを、考えていく上で意味深いものです。

同様、そのHPでも触れているような、西アジア方面の文化・思想流入への研究も、今後の課題ですね。

以下情報掲示板のキシさんの投稿についての私の返信ですが、ご参照ください。

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キシさんこんばんは。ご紹介のHpの西都原の古墳が、五ボウ星の利用で設計できる点を、実測数値との兼ね合いで証明されているのは重要ですね。http://www.k2.dion.ne.jp/~penta/LOVELOG_IMG/200509230420650d.JPG

先に三角形と円の組み合わせと道教思想の話がでていましたが、五角形となると陰陽五行思想となるでしょうか。

陰陽道については、4〜5世紀に百済などから伝来したとされますが、古墳とのかかわりはどうでしょうね。

陰陽を検索していくと、高知県の物部村に「いざなぎ流」という安部氏とつながる?陰陽派があるそうです、この物部村は、研究会報告でも記したとおり、西都原と吉備と宇佐、磐舟・・に関する物部レイラインの一重要地点でありますね。http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0vi.htm

物部やオオ氏と古墳作りとレイラインとは、するとこの陰陽五行説とどうかかわるかが課題となりそうですね。すでに景行→ヤマトタケル墓ラインなど古墳ラインはいくつも証明済みですからね。

その物部、オオ氏と新羅とのつながり、新羅に入った古墳造営文化、陰陽道との兼ね合いが重要ですね。

由水氏の新羅とローマ文化との関係の指摘の中で、スキタイ系遊牧民のサカ族の前世紀〜後5世紀の墳墓形式と新羅の墳墓との関係が重要です。新羅が導入したローマ暦と、五行思想はどうですかね。http://www.geocities.jp/timeway/daigimon/siragi.html

五行思想も、バビロニアから中国まで5惑星と関係しながら多種がありますから、日本の古墳に採用されたらしい五行と、その選別が重要ですね。もうすこし、東西での五行の種類を見分けるコツをキシさん探してみてくださいますか?

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日本の中の異民族 投稿者:ゆり 投稿日:2007年 7月10日(火)14時16分25秒   返信・引用
日本の歴史は、渡来人の謎解きから見るとわかります。
     ↓
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
中杉 弘のブログ
「日本の中の異民族 」
を是非読んでみてください。

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東晋の仏教、唐代の景教へ 投稿者:管理人 投稿日:2007年 7月 3日(火)04時29分53秒   返信・引用  編集済
その後、東晋という国と仏教について調べています。
司馬氏が魏⇒晋⇒東晋と権力を維持していく間における司馬氏と直属の工人の流れがきになります。東晋に逃れた司馬氏族は山東方面の領主でしたから、三角縁など山東方面の技術者が、晋が滅ぶときに、東晋に逃れたのか、宋に残ったのか、朝鮮方面へ逃れたのかが一つ目に興味深いです。

司馬氏について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%B0%8F
東晋について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B

次に東晋と仏教と景教との関連。
魏晋南北朝から唐にかけての、皇帝への拝礼拒否と仏教、景教についての論文が下記にありましたのでお知らせします。こちらも大変重要です。

http://www.adobe.com/jp/education/features/doshisha/pdfs/sample_dl.pdf

思うに皇帝の政策とともに、仏教・道教など多くの宗教は迫害や優遇がなされたわけですが、迫害された宗教集団が中国からどう逃れていったのかがやはり重要な視点となるでしょう。

宗教集団の流れは、この論文を読んでいてもわかるように、インド、ペルシア、中国・・・と、短期間で宣教という大目的によって、多くの国へと渡来する性質を明らかにしています。

その渡来の際に、国家・王族に優遇されるために多くの技術や宝物などを、伝達することにより、自集団の生き残りと拡大とを図り、それによって王権側の姿勢も大きく変化するのですが、逆にいれば、渡来人と王権との外国的な接し方を種別することによって、宗教集団の渡来、亡命集団の渡来、商人集団の渡来という形で、ケース化できるのではないかと感じました。

そういう視点に立つとき、トカラ人と須弥山や石造物作りはどういうケースに入るのかも興味あります。

とみたさんおっしゃるようにイラン系ならば、山・火・牛の信仰、景教徒の特徴としては、その論文によると社会施設の設置・医学・鍛冶・大工などがあるそうで、部分的にはすでに指摘されているように、奈良初期の光明皇后や行基集団の布施・医療・橋や寺院建設・鋳造?・・・というあたりに象徴されるような類似要素との比較がやはり課題ですね。

ぜひ東晋の文化からそのあたりについて、情報よろしくお願いします。

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中国のペルシア人 投稿者:管理人 投稿日:2007年 7月 2日(月)22時18分29秒   返信・引用
とみたさん、さっそく貴重なご意見ありがとうございます。

東晋時代に、すでに長江あたりまで、西域の民は入っているというのは特に興味深いですね。

トカラ人の流れを追う上でもその流れは重要ですね。

長江⇒百済⇒日本、あるいは長江⇒南西諸島⇒日本への仏教の流れを遺物面などでも追ってみたいですね。関東の古墳からもいくらか仏教道具が出ているそうです。

左方、右方舞の話は、雅楽のトウギさんの本に、雅楽での左右と、高句麗・朝鮮と唐との流派の違いみたいなことが書いてあったような・・。

ちょっともう少し調べてみます。

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Re: 仏教 訂正 投稿者:とみた 投稿日:2007年 7月 2日(月)12時32分15秒   返信・引用
> No.978[元記事へ]

>
> 奈良の春日大社には南方系の左方舞と北方系の右方舞があります。
>
> いろいろ調べていると面白いことに気づきます。

南方系は右方舞、北方系は左方舞ですね。

左方舞の代表は蘭陵王の舞いです。

五胡16国の時代、北朝は北魏が分裂し、東魏と
西魏になり、さらにそれぞれが北斉と北周になります。北斉の蘭陵王が仮面を嵌めて踊ります。

仮面は、魔物や敵に立ち向かうときにエネルギーを高めるものですね。

蜀の三星堆の青銅仮面(縦目人)もそんな意味があったらしい。

南方系の舞にはどんな含意があるのでしょう?

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Re: 仏教 投稿者:とみた 投稿日:2007年 7月 2日(月)12時08分50秒   返信・引用
> No.977[元記事へ]

管理人さん

> そこで、私が思うに、祖父の代つまり白鳳期に、すでにもともと盂蘭盆(イラン)系仏教に影響された屯倉管理者が、物部氏と同族関係で、鍛冶・つまり製鉄仕事と関連しながら、群馬多胡近くに移住してきたという線で推測ができてきます。
>
> 盂蘭盆というと、斉明朝のイラン系トカラ人が須弥山と云々したことがありましたね。正倉院とゾグド文字、漏刻と水の祭祀・庭園とその辺の話題はつきません。
> 山梨の大月にトカラ人と猿橋との伝承が残っていますが、つまり物部氏の関東進出と製鉄と、イラン系仏教と技術、屯倉とレイラインの設置とが、どうかかわってくるのか、この鍵を握るのがこの仏教がどこから渡来したかということではないでしょうか。
>
> 仏獣鏡を作った集団と晋代の仏教、白鳳時代の盂蘭盆会に関わるイラン系仏教と屯倉進出・物部氏、それらの仏教系譜は大陸ではどうつながるんでしょうか。

トカラはどこか。

今のアフガニスターンのトハラか種子島の近くのトカラかで論争があります。

いずれも大和朝廷にとっては蕃族です。

私は、アーリア人を追っかけていましたからアフガニスターン説を採ります。

孝徳天皇の白雉5年(654年)にトカラ国の男二人女二人舎衛女一人が日向に漂着した。この舎衛とは何か。普通はインド(ネパール)の舎衛国すなわち祇園精舎が郊外にあった都市。

インドとアフガニスターン人が同船してやってきたのか。

舎衛は地名でなくシャーで王とも考えられる。舎衛女とは王女という意味にも取れる。

これはペルシャ語に明るい京大名誉教授の伊藤先生の説です。

飛鳥寺などの設計に百済の瓦工が来たとなっていますが、これもペルシャ語で紐解くとペルシャ人だと考えられるそうです。

百済は、南朝に朝貢し文化を取り入れます。

百済の大通寺の瓦は梁の瓦を取り入れます。

聖明王の時代、仏教を欽明のとき持ってきたのも、梁から入れた仏教を持ち込んだのです。

時代を遡って5世紀初め東晋が終わらんとする時代に、華厳宗の旧翻訳は、建業(今の南
京)にいたホータン人がやっています。

長江下流域には西域の民が入っているのです。

長江の上流は蜀でいくつもの通路が西域、インド、ミャンマーとも通じていました。西域にはトカラ人がいたるところにおりました。」ホータン、カシュガル、クチャです。

トカラ語を話していました。楼蘭王国もそんな土地の一つでした。

トカラ人はインド・アーリア語族ですからアーリア人です。

GM遺伝子でもアッサム地方にまでコーカソイドの遺伝子が入り込んでいます。

アーリア=イラン ノーブルな人の意味です。

イラン高原から紀元前1500年から前1000年にかけて西に行ったのがイラン人で、東へ行ったのがインド人です。

高い山、牛信仰、火を祀るのが基本の信仰です。

インドでは高い山がメール山、これから須弥山が出てきました。

盂蘭盆会にトカラ人が出席しているのでしょう。

トカラ人は蕃族で、蝦夷と同類で飛鳥の石神遺跡で饗応したのか、或いは、宗教関係や

舞楽などの芸で教えを乞うたのかいずれでしょう。

奈良の春日大社には南方系の左方舞と北方系の右方舞があります。

いろいろ調べていると面白いことに気づきます。

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仏教 投稿者:管理人 投稿日:2007年 7月 2日(月)04時42分37秒   返信・引用
TOMBOさん、みなさんこんにちは。
仏獣鏡の成立について興味深いですね。
なるほど、仏教国である晋に朝貢したことによって、三角縁に新たに新規導入思想である仏教の仏像が刻まれ始めたとすると、興味深い説ですね。
それらの鏡を渡来系集団の1シンボル継承していくというのも面白いと感じます。

さて、私のほうは仏教は仏教でも、群馬多胡郡は金井沢碑に刻まれた七代の祖先を祈るといいう文面から、盂蘭盆教つまり仏教でもイラン系のそれを崇拝した「胡人」が、この地にすでに多胡郡成立前にやってきていたという『多胡の古碑に寄せて』井上清・長谷川寛共著・あさを社の引用の井上次男氏の上野国の渡来文化とペルシア』の説に興味を感じました。

この碑文は先日ビデオ取材したところですが、726年の建碑。系図が描かれており、佐野の屯倉に関わった氏族で、物部君と同属関係、祖父の代「三家毛人」からすでに仏教に入信とありますね。

そしてそばには、7世紀末の古墳をもち同じく佐野屯倉と関連する山ノ上碑があるわけです。

そこで、私が思うに、祖父の代つまり白鳳期に、すでにもともと盂蘭盆(イラン)系仏教に影響された屯倉管理者が、物部氏と同属関係で、鍛冶・つまり製鉄仕事と関連しながら、群馬多胡近くに移住してきたという線で推測ができてきます。

盂蘭盆というと、斉明朝のイラン系トカラ人が須弥山と云々したことがありましたね。正倉院とゾグド文字、漏刻と水の祭祀・庭園とその辺の話題はつきません。
山梨の大月にトカラ人と猿橋との伝承が残っていますが、つまり物部氏の関東進出と製鉄と、イラン系仏教と技術、屯倉とレイラインの設置とが、どうかかわってくるのか、この鍵を握るのがこの仏教がどこから渡来したかということではないでしょうか。

仏獣鏡を作った集団と晋代の仏教、白鳳時代の盂蘭盆会に関わるイラン系仏教と屯倉進出・物部氏、それらの仏教系譜は大陸ではどうつながるんでしょうか。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 7月 1日(日)15時38分10秒   返信・引用  編集済
景初2年に魏の梃入れで倭王卑弥呼が誕生した、それに対峙したのが九州魯系であり、倭王卑弥呼の転覆を画策した。その為の連合体が所有したのがLTV鏡でしょう。

一方畿内は紀元前200年来の歴史を継承して神獣鏡を連合体の印とした。
列島出土の最古ともいわれる画文帯神獣鏡に円環されている方形と半円形の総数は方形が13個、半円形が13個で総数は26個です。この数は12と6と8の総数に等しい。
http://www-ku.magma.ne.jp/~ark/g013-gamon.html

池上曽根(いけがみそね)遺跡の大型建物の柱の数は26本です。

画文帯神獣鏡の26個の方形・半円形はこの柱の数を継承しているだろう。
12と6と8の
8は神武・天武の八角墳となり神を表している。
6は亀の甲羅でもあり、出雲大社の神紋には2重の亀紋が使われている。

12は4と8に分岐し、田和山に4本柱と8本柱跡があるし、
沖縄には4本柱と8本柱の神アシャギがある。

倭王卑弥呼に話を戻します。
倭王卑弥呼の土台と成っていたのは除福系である頭のある亀(アッカド系)です。
卑弥呼は倭系(伊邪那美)ですから、頭のある亀(伊邪那岐)との共立国と据えることが出来る。畿内も基本的には倭ですから倭の1本化にまい進した。

卑弥呼の後に男王を立てさせることによって国は内乱に発展し頭のある亀(伊邪那岐)は九州倭の磐井と結ぶことによって倭系卑弥呼は崩壊する。筑紫磐井は九州倭王です。
ここに新たな共立国が誕生する、が、倭系は筑紫磐井の男王と伊邪那岐系は女王(壱与)という本来の形を逆立ちさせての誕生です。

三角縁神獣鏡はこの時間軸の後になります。
三角縁神獣鏡は頭のある亀(アッカド系・エイジプト系・伊邪那岐)の討伐の為の連合体の印として製作された。
主力体は頭の無い亀のインド系です。だから三角縁神獣鏡には仏がいる。

頭のある亀(アッカド系・伊邪那岐)の討伐者は景行
で討伐されたのは熊曾建。熊の中国語読はxiongとX子音がある。
邪馬台国の邪の中国語読みはXiです。
が、邪の中国語読み今一つありyeとも読むのです。Yeとは夷のことで東夷です。
熊曾建の熊は討伐され建は生き残った何故なら建は頭の無い亀のインド系だからです。
この討伐は、晋と同時進行です。
景行は晋の爵位を受けていただろう。


秦も晋も日本語読みはシンですが、中国語読みは秦はQinで晋はJinです。Q子音は頭のある亀のアッカド系でありJ子音は頭の無い亀のインド系です。

西晋は司馬炎が265年に魏から禅譲を受けて建てた王朝です。

正始元年(240年)春正月 東倭重譯納貢
と晋書にあります。これは垂仁・景行が魏の時代すでに司馬氏と交流を深めていたということでしょう。
晋書の倭に関する記述は
泰始二年(266年)十一月己卯 倭人來獻方物
です。この泰始二年(266年)が三角縁神獣鏡の製作年代の物差しとなるでしょう。 西暦266年前の仏が刻まれた三角縁神獣鏡は存在しないであろう。
又、
西晋は265年 から316年までですから、316年前の古墳から仏が刻まれた三角縁神獣鏡が出土することは決してありません。

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渡来人まつり 投稿者:管理人 投稿日:2007年 6月26日(火)04時03分15秒   返信・引用  編集済
6月に長野で開催された渡来人まつりの映像と、松本周辺の遺跡探索の映像をMBテレビにて番組放送開始しています。

渡来人まつり
http://www.michaelbroadcast.net/musicchannel.htm

松本周辺の遺跡探索「古代史解説・8」
http://www.michaelbroadcast.net/rekisichannel.htm

両番組とも、信州松本の桜ヶ丘古墳出土のカヤ・新羅系と考えられる金冠について研究会でもいつもお世話になっている信州渡来人倶楽部のおおたさんや地元の博物館の方が説明してくれています。また日本古代の金メッキの実演も収録しています。

また、みなさんからの全国からの遺跡映像も募集していますので、映像を掲載されたい方は、お気軽にご連絡くださいね。

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大地の力 投稿者:山中裕也 投稿日:2007年 6月 9日(土)21時00分19秒   返信・引用
古事記記載のイザナミの神陵があると言われる、山陰の島根県安来市へいったことがありますが、そこは出雲国風土記の伝えるところによると、大穴持(大国主)大神がヤマタノオロチを退治したとあるそうです。しかも、その地の「安来」という名を命名したのがスサノオであるともされています。
 そこは「もののけ姫」で有名になったたたら製鉄が紹介されている和鋼博物館があり、かつてこの地は大規模な出雲式製鉄が行われていたときかされました。日本庭園が世界一と言われる足立美術館もこの地にあり、横山大観の神代を題材とした絵には圧倒されました。不思議な大地の力を感じたようでした。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 6月 1日(金)01時30分49秒   返信・引用
kalingaの流れ

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石 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月29日(火)22時05分43秒   返信・引用
TOMBOさん、支石墓についてお教えありがとうございます!

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支石墓 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月25日(金)20時38分7秒   返信・引用  編集済
桜町遺跡(富山県小矢部市桜町)
紀元前2300年頃のほぞ穴やエツリアナと呼ばれる加工をした木柱の高床式建物が出土。
高床式建物が中国浙江省の長江沿いの河姆渡(かぼと)遺跡の建築技法と一致するという。
河姆渡(かぼと)遺跡は、紀元前5000年頃から紀元前3500年頃の遺跡であることは周知のとおりです。
比国のイフガオの出自も河姆渡(かぼと)であろう。
が、石貼り、石張り、石積みの技法はインド・ハラッパを出自としているでしょう。

西谷3号墓の4本柱跡には副柱が4本あった。これは、8本柱が4本柱に集約されていることを意味するでしょう。
4本柱と8本柱跡は、紀元前100年頃の田和山遺跡にその痕跡がある。

原山支石墓群(原山ドルメン)(長崎県島原地方) は日本最古最大の支石墓群です。 最古の時間軸は紀元前4世紀ごろに推定できるという。
支石墓という呼び名は韓国名を借用しているようですが、列島の支石墓からは甕棺を伴う独自性のものもあるようです。
韓国の支石墓は紀元前500年頃にから見える、その前史は遼東半島付近で紀元前1500年頃に発生しています。
さらにその先史は、西ヨーロッパ・フランス・ブルターニュ地方を初め英国、ドイツ、オランダにもあり、発生年代は紀元前5000年頃になるようです。

人の歴史とは混血の歴史です。
人の移動は民族の存続という大きなダイナイズムによって突き動かされたダイナミックなものであったでしょう。

支石は死者のベットであろうというのがtombo的思考です。

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支石墓 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月23日(水)23時24分55秒   返信・引用
とみたさん、TOMBOさん、ご意見ありがとうございます。

とすると、出雲の四隅突出墓の元は、方形石貼墓で、その大元は九州の紀元前後の支石墓で、それは、南方系海人系ということなのでしょうか。
確かに九州で例のごとく赤く塗られた支石墓を見ましたが・・・。

しかし、TOMBOさんの説では、それは日本で変化進展したのではなく、南方諸国で発展して、随時違う形式の民族が流入したという見解になりますね。

フィリピンまで飛んでしまうのでしょうか。もうすこし近い台湾とか、南西諸島で、それらの形式の墓は出てきませんか?

石を立てる習慣、古事記でたとえると、
「投げ棄(う)つる御杖に成れる~の名は衝立船戸(つきたつふなと)の~」

あたりの杖や石柱を突き立てるという行為の意味にもっとどういう種類があるのか分析してみたいところですね。境界、支配、墓石・・・・。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月22日(火)10時25分21秒   返信・引用  編集済
下の投稿のつづき

西谷3号墓
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/kouko/nishi-a.htm

インド・ハラッパ
http://www.harappa.com/indus2/index.html

↑No.172〜No.175の画像をどうぞ
http://www.harappa.com/indus3/224.html
石貼り
http://www.harappa.com/indus4/284.html
http://www.harappa.com/indus4/287.html
http://www.harappa.com/indus4/290.html
http://www.harappa.com/indus4/294.html

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月21日(月)11時09分5秒   返信・引用  編集済
比国のイフガオ、別名をtayaoという。
イフガオは大陸から紀元前1500年頃比国に渡来した。
彼らの神の名はbululoという猿に似た人間です。(扶余の建国者はbulu)
彼ら渡来前の神はtuku(ツッコゥ)と呼ばれるイモリでした。

4.火祭り石貼り床
地面に石貼りを施し周りには6本の柱、又他の石貼りの周りには8本の石の柱が立てられる。6は人の印で8は神の印であるとイフガオは言う。
その立ち石の中に方形に組んだ丸太が積み上げられる、さらにその中に雑木が投げ込まれ其れに点火し、豚、水牛(カラバゥ)を生贄として夜を徹して祭りがたけなわとなる。

3.Stone-balance
小さな石の上にその10倍もある大石がアンバランスな状態で安定して置かれているものもある。大石と小石の接面には大粒の砂と火山灰の混ぜもので隙間を埋めている。この砂は10年、20年、100年と経過すれなら硬化し石のようになり大小の石の接着剤の働きをするであろう。

3.水源と水源周辺
右下の水溜りの奥には滝があり雨季には水が勢いよく落ちてきます。
水溜りの下には、方形升が3個あるこれは沖縄のカーと呼ばれる天然の井戸にて居ます。
滝の上が水源になり水は山壁から滲みだしている、その水を受けて掘りが作られ、この堀は1つの島を巡っている。島には大きい山が1個小さい山が2個作られている。
そしてこの島の形があの与那国島の海底遺跡の三角ループの形状に異常なほど似ています。与那国島の海底遺跡が公になってまだ10年のたちませんが、このイフガオ文化保存が作られたのは戦後間もない昭和20年代の事です。

4.Kalingaの石貼り
奥の石貼りの壁の高さは1.2m位です、この壁の上に4本の掘っ立て柱でピラミッド状の茅葺屋根の神の家kalingaがありました。(作っても誰かが火を付けて燃やしてしまうらしい)
最初の立ち石は階段の石貼りですが、2番目の立ち石は石を立てているのです。

最古型式の四隅突出墓 出雲・青木遺跡 弥生時代中期
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news6/4-0115a.htm
の四隅突出墓にも石を立てた場所がありますがこの四隅突出墓の正面になると思われます。

イフガオの石貼りkalingaを墳に作り変えたなら四隅突出墓の全ての条件をみたしているでしょう。

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四隅突出墳の起源 投稿者:とみた 投稿日:2007年 5月20日(日)09時48分17秒   返信・引用
四隅突出墳は出雲地方にたくさん出ていることで有名です。

西谷3号墳、荒島古墳群の塩津山古墳、出雲以外でも伯耆の妻木晩田をはじめ広島県、富山県などたくさん発見されています。

出雲大社の傍らに島根県古代出雲歴史博物館が本年3月10日オープンしました。

その展示に四隅突出墓の起源が書かれていましたのでメモを取りました、ご紹介します。

四隅突出墓の下から方形貼り石墓が出てきた。
したがってその起源は方形貼石墓だそうで、さらにそれは九州の支石墓を淵源とする。


四隅突出墳は弥生時代前期に九州北西部(佐賀県)で造られた支石墓が起源だと考えられます。

島根では支石墓の影響を受け木棺墓の上を一抱えほどある石で覆った配石墓が出雲市大社町や松江市鹿島町などの海岸部で造られるようになります。

弥生時代中期紀元前後)には墳丘の周りには石を貼った方形貼石墓に発展しこの墳墓は島根だけでなく京都府北部の丹後地方など日本海の西部地域で広く作られるようになりました。

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「夏の禹」系の測量が日本での最初では? 投稿者:茨の紀氏 投稿日:2007年 5月20日(日)08時42分1秒   返信・引用
tomboさん、管理人さん 感謝申し上げます。♪(*^・^)/
古代の地図作り の立証が夢でした 皆さまの御蔭で 現実に近づいています。

縄文時代から伊能忠敬まで綿々と日本の地図作りは秘密裏に進められていたのです。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kisinogennkou.htm

6.風葬と青銅器(3)
現在、三角測量の方法によって2点間の距離や面積を正確につかめるようになった。 ... 「神々のメッセージ」(堀田総八郎・中央アート出版社)では、縄文時代から古墳時代に至るまで綿密な測量が行われていたことを様々な例を挙げて説明している。 ...
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index98-5.html
「魏志倭人伝」に「その道里を計るに、当に会稽の東冶(今の浙江省から江蘇省のあたり)の東にあるべし」というくだりがあるためである。ただ何故このような間違いをおかしたかについては、これまで判然としなかった。しかしその間違いは、太陽を基準にして三角測量を用いた山当て法により地図を作った者達がいたためと考えればつじつまが合う。さらにそれは「魏志倭人伝」が作成される以前であったことは確かである。つまり、卑弥呼以前にこのような地図を作れた者達がいたと考えるべきであろう。

縄文時代から交易の痕跡が見られる。 ...
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-5.html

北海道三角測量承館・検基線西側標石 ... 6000年から4000年前の縄文時代前・中期を代表する大型の集落跡。
http://www.mlit.go.jp/crd/hanto/look_for/treasure/tr01_01.htm

約2千年ほど前の原始人(続縄文時代人)の頭骨が、昭和38年に、絵鞆遺跡から発掘され、 ... (測量山)の山頂に登って、三角測量の基点を定めて測量を行ったことから、後にこの山を測量山と呼ぶようになりました。 ...
http://www.yanatec.com/side_pege/muroran-rekisi.htm

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古代日本測量 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月20日(日)03時35分14秒   返信・引用
TOMBOさん、さっそく魏志の測量についてお教えいただきありがとうございます。

測量はそうですね、土地の管理とは別に、軍事などにも利用されたはずですよね。

そうですね、わたしも魏志の測量は、中国の何かと関係しているのではと感じます。

里という尺度を邪馬台国や、九州、壱岐の住民が、すでに取り入れて、里についていろいろ中国語の里という用語を使用しながら、政治をおこなっていたかどうか疑問に感じます。

壱岐が300里四方と測量されていることは、すでに中国か朝鮮で里という単位で、測量を行ったと考えるべきですよね。

測量方法についてですが、一般的な中国の測量法とかがあるのでしょうけど、緯度経度・三角法の利用について、実は壱岐の面積を測るには微妙な狭さです。加えて山地が多い。案外こういう狭いところでは、原始的な測量方法も使用できたかなとも感じます。

古事記を先ほど眺めていたんですが、こちらのイザナギの禊記載は、測量の様子ではないでしょうか。

「...竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐(あはき)【此の三字は音を以ちてす】原に到り坐して、禊祓(みそぎ)しき。

 故、投げ棄(う)つる御杖に成れる~の名は衝立船戸(つきたつふなと)の~。 次に投げ棄つる御帶に成れる~の名は、道の長乳齒(ながちは)の~。 次に投げ棄つる御嚢(ふくろ)に成れる~の名は、時量師(ときはからし)の~。 次に投げ棄つる御衣(みけし)に成れる~の名は、和豆良比能宇斯能(わづらひのうしの)~【此の~の名は音を以ちてす】。 次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成れる~の名は、道俣(ちまた)の~。 次に投げ棄つる御冠に成れる~の名は、飽咋之宇斯能(あきぐひのうしの)~【宇より下の三字は音を以ちてす】。・・・」


つまり、イザナギの黄泉の国から戻って、禊をするわけですが、まず杖を立てて、船と関係しながら(あるいは、クナド=来るなの意味らしい)、次に帯と対応して「道の長乳齒(ながちは)の~」つまり道の長さ、袋と対応して時量師(ときはからし)の~がでていますね。

これは杖を船に立てて、帯=ロープで道の長さを計り、袋=水時計で時間を計ったのでは。

袴はチマタ(道俣)で、道が二分する様子を袴に掛詞にしていますね。

衣服を穢れの象徴としているのは、後代の文氏などの解除や大払いなどで、天皇の穢れを衣服や人型にこすり移す様子となぞられてるのでしょう。ここからこの文の成立の時代が読めます。

古代の測量といえるかどうかというと疑問もあり、6,7世紀の戸籍・計帳の時代かもしれませんが、この文の時間や道、船のとの関連は、原始的な測量の形態を表している可能性もあるんではないかなと感じました。

ただ、船の測量も多いに不思議ではあります。船でこの海の長さは○里という測量をそもそもできるのかどうかも疑問ですが、魏志にはそう書いてあるわけですから、船を使って測量基準があったのだろうと感じます。現在なら、○ノットで○時間走れば○KMと出ますが、古代だとまず船の速度をどう単位かしたのかが問題です。

可能性としては、海流にのって一定の距離の間を何秒かで通り抜け、その速度を割り出していく作業が必要ですね。このくらいの速度でいって○日かかれば、この距離というのが、規格として算定されていることが条件でしょうから、中国の航海測量技術もたいしたものです。魏志に書かれた海路の距離は、対馬海峡の海流速度も計算したのでしょうか。

あとは、その古事記の船の戸に杖をつき立てるという行為自体は、杖は境界の象徴で、チマタの境界神との関係で、黄泉国と現世との境を表すというのがおそらく一般思考でしょうけど、時間と道の長さがここに関わってくる。なぜ船なのか。古墳と船型石棺との意味理解も重要でしょうね。古墳は測量技術の塊みたいなものですから、ここに測量士のそれも影響しながら、オオ氏と古事記の関係がでてくるとおもしろいですね。

この測量方法は、古墳時代のそれかな・・・。キシさんの世界でしょう。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月20日(日)00時45分21秒   返信・引用
律令制度の下では、田畑山林等の測量は必須である、管理が目的で測量か行われる。
しかし、測量は管理だけが目的で行われるわけではないでしょう。

「兵は国の大事。死生の地、存亡の道なり。察せざる可からず。」
「之を経るに五事を以てし、之を校ぶるに計を以てして、其の情を索む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法」
と、孫子の兵法にもあるように軍事目的で死地と勝地を決定する上でも測量は重要な要素です。

中華帝国によって列島の測量は2度に渡って行われたと推測。
最初の測量は、秦の始皇帝の時代、測量された場所は徐福伝説がある地。
二度目の測量は、後漢時で、安帝・永初元年の倭國王帥升朝貢後、秦の始皇帝の時代の測量図を修正する形で行われた、重点地域は種子島から九州域。魏は列島の動きを封じ、万事を尽くして脅威であった公孫氏と呉を滅ぼした。測量法は緯度経度を測定し、その数値で縮尺地図を作り三角法で面積を積算したのでしょう。

種子島の地名は興味津津です。
敵軍を国上(くにがみ)から上陸させ軍場(ぐにわ)で戦闘に持ち込む。
軍場(ぐにわ)は侵攻軍の死地なのでしょう。軍場(ぐにわ)の先は安納(あんのう)、此処の海岸は珊瑚地帯であり遠浅なので軍船は入れない。だから安納なのであろう。安納の先は現和(げんな)
此処はエジプト系が守っている。(現はxianでX子音のエジプト系)。現和の先に本陣を置く、この地の名は安城(あんじょう)。安城の地は可也の高地になり、此処が種子島の勝地なのであろう。
と、魏は万事を尽くしていた。が、公孫淵が呉の使者を殺害してその首を曹叡に差し出した為に、呉との関係が悪化した。列島の呉系と魯系を動かして伊都国に圧力を掛ければ、公孫淵討伐において倭国は動かない。

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方○○里 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月19日(土)00時41分46秒   返信・引用
TOMBOさん、方○○里とは、そうですか四角形の1辺の長さのことだったんですか。
すると、壱岐の場合、

300里/4=75里が直径

実際の直径=15KM

ゆえに1里=200M

通説;76〜400Mですから、中間くらいでしょうか。

また、

三百里四方の記載を、1辺300里とする場合

実際の直径:15KM/300=0.05→50メートル:1里


さらに、
方三百里が、そのまま面積の場合

R×R×3=300 R=10×2→直径20里

実際の直径15KM

ゆえに 1里は75M


なるほど、面積で計算すると、75Mで短里なわけですね。

壱岐島の面積と短里の関係もいろいろ研究史があるのでしょうね。
勉強になります。


また、測量技術で三平方を使用したとの説があるわけですね。

先の群馬の保土渡古墳群、綿貫観音山古墳、観音塚古墳の12:13:5あたり(不正確)の直角三角形もおもしろいんですが、島の面積をそこまで正確に出す必要は、6世紀くらいにならないと田んぼの面積や人口との関係とか計帳の関係とかで論議されいないところです。

しかし中国側の記述に、それだけ正確な測量記載があるというのは、おかしいですね。

倭のほうに、すでに測量技術があり、中国の編者が方角と面積を聞き取ったか?
中国の測量者が来て図ったのか?
いろいろ説があるのでしょうけど、お聞かせいただけませんか?

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T】ああ 投稿者:茨の紀氏 投稿日:2007年 5月18日(金)05時40分2秒   返信・引用
【T】ああ(乎 干+干=鳥居?) 嗚呼 嗚
乎古止点(黒+占)
【田】?
http://www115.sakura.ne.jp/~byunbyun/wonder1/wonder09.html
ヤマトコトバの古代の文法を解き明かせば、またひとつ、
http://www115.sakura.ne.jp/~byunbyun/wonder1/wonder09.html

【乎】の古文字は【T イ】型の上に【点】(黒+占)が3つ(津?)…(三点リーダ) ∴(ゆえに)?
(【イ】型の杖?・・・古代エジプト???

場所・時間・目的・比較を示す助字。
http://www.eonet.ne.jp/~zhenwu/honbun/zoukan-3843.html

【……】の多用自体ではなく、使用する意図や効果が不明・・・???
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/fae73eda71af3b2fad559967fa8f31cf

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月17日(木)15時34分57秒   返信・引用  編集済
「方四千里とは一辺が四千里の正方形をいいます。」

凄いね!
韓国ってそんなに大きかったんだ!

方四千里とは、複雑な地形を方形面積表示で換算しなおして、その1辺が1000里のこととをいうと思っていました。

里とは本々面積を表す単位だったのですから。
面積で100里と言うことは1辺が25里の正方形のことでした。
単に距離を表す場合は、100里は100里です。


「方四千里とは一辺が四千里の正方形をいいます。」
と言う説は何処から拾ってきたのでしょうね。^^;


測量と三角形!

長里は435mと言われていますがこの数値は、30度と60度90度の内角を持つ三角形の三辺の4:3:5をそのまま435と置き換えたものではないかと思われる。従って435分の1を決定する長さがあったと考えられる。その長さは正三角形の3辺の応用だったのではないか。だとすると、一歩=一尺は33.3333cmを使ったことになる。
三歩で約1m、この1mの435倍が長里の1里=435m。

短里は直角二等辺三角形を応用した、底辺と高さを7として斜辺を除く二辺7・7を77とし、77mを1里とした。7を好むのは北斗信仰か?
短里の77mの1mを決定していた数値は長里と同じ正三角形から導かれたものではなかった?

いずれにせよ、里・歩・尺は3種の三角形から導き出されているだろう。

と、
書いてみるテスト〜;


◎ 魏・晋の“ものさし”は一尺、 約24p(1里は432m)だったと言われています。
(故に、tomboの魏志の距離の1里は432mを使用しています)

正三角形の一辺が8cm、三辺の合計は24cm。・・・1尺=1歩。
24cm×360度÷2×10=432m  ・・・・・1里

日本書紀は8神の構成神に成っていますがエジプトのOgdoadも8神構成です。

宗教が異なれば測定の方法も異なるでしょう。が、測量の基本は三角形と円以外はないのでは。

現在の日本であっても、建築上の1間は関東と九州では大きな違いがあります。
一般的には1間は1800mmですが九州本間は1900mmを越えるはずです。
ですから、1間=1800mmとして45坪の家と1間=1900mmで建てた45坪の家は平方メートルで換算すると1間=1800mmが45坪とするなら1軒=1900mmの家は50坪に相当する場合がある。使用する柱の太さで差が出ますがね。

1尺=約24p(1里=432m)は8を神の数字とした人たちの宗教色が濃いのではないでしょうか?

1里=435m(1尺=33.33cm)は夏の禹の時代からあり殷・周までの測量・計測の主力だったと思われる。
10を3で割り3.333を導き出す為の数字の10は、禹(ウ)と言う音でもある。 (シュメール語の10は u です)
禹は30度60度の直角三角形と正三角形を借用して里・尺を決定した。

漢・魏は正三角形と円を借用して里・尺を決定した。
これは、4ツイン神の8神(エジプトのOgdoad)とも係わって大変宗教的です。
宗教と測量の関係性を模索する方法は此処にしかない。
これを明らかにすれば、『紀記』の神代紀を解明するための大きな手がかりとなるでしょう。

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【里】から 1:3 ? 投稿者:茨の紀氏 投稿日:2007年 5月17日(木)14時41分6秒   返信・引用
「田」を連想 1:2:3  三平方の定理 1:3・・・・関係ないかも?

「方四千里とは一辺が四千里の正方形をいいます。」

邪馬台国ってどこ
それは南行と東行の距離から三平方の定理によって計算で求めた郡庁(ケーソン)・狗邪韓国 ... すると円周率3として余里を考慮して直径は1700余里 ... 短里は、1里を古田武彦説(75-90m)や谷本茂説(76-77m)とするもので、 ...
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/kodai/17rongi.html

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丁 投稿者:縄文種渡来者 投稿日:2007年 5月17日(木)12時39分3秒   返信・引用
>・・【壱】【伊】【伎】【岐】は、「杭」(十字)を打(T・丁)形。

>・・イエスが磔になった十字架は丁形をした十字架だった。丁形十字架の上に罪状板を掲げた為、全体で十字のような姿になったのが真相である。

・・沖縄でよくみるT字路には「石敢當」が祀られてある。魔除けです。T字路は沖縄では魔物が降りてくるところらしい。

http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syoko/sozai/machinami/ishigantou_02.jpg

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皆さんこんばんは 投稿者:PIKKI 投稿日:2007年 5月17日(木)11時14分3秒   返信・引用
以前僕の掲示板でも話題になったのですが、沖縄犬やアイヌ犬や甲斐犬や韓国の何とか犬等はDNAが一致しているそうです。
それと、先日も日記でもともとアイヌのユーカラは動物に変装してシャーマン的霊能者が踊る起源だとするアイヌ人言語学者知里真志帆の説を紹介したのですが・・
これがヨーロッパのクロマニオン人の洞窟壁画や、新大陸やアボリジニの動物壁画の起源でもあり・・人類最古の宗教意識ではないかと思えるのですが。
それを現在でも伝えてきたのが、アメリカ先住民やアイヌの一部日本人の動物守護霊というトーテム等ではないのでしょうか?
そこから分化してきたのが、シベリアのシャーマンであったり、沖縄のユタやノロや東北のイタコや歩き巫女や天皇即位儀式でもないのでしょうか?
アイヌ民族のイオマンテという熊祭で、熊の頭部を尊いあの世から恵みをもたらす客人として飾ったり村落のはずれに骨を飾ったり、沖縄でも戸口に動物の血を塗ったりも・・それらの名残なのかも?
http://www.runbal-fc2web.com/test/100865889/

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複数視点 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月16日(水)23時13分19秒   返信・引用  編集済
キシさん、TOMBOさん、縄文渡来種さんこんばんは。
宣長の説によると、すると伎も岐もキ音であり、最初は伎だったものが、後代書写などの問題で、岐と混同したということになるのでしょうか。

キシさん、壱は中国語でもイチ(イツ)なんですね。

でももともとが「伊岐」とすると最初の時点で「イキ」ですが、後代律令制下では「壱岐」としるされ、「イチキ」の音が再現されたのでしょうか。

つまり魏志の一支国がありますが、これをイチキ(イツキ・シ)とすると、

イチキ⇒イキ⇒イチキという変換で、後代にもとに戻ったということかな?

これは故意でしょうか、あるいは島のもともとの習俗などにのこった発音「イツキ」に戻したのでしょうか。

対馬国の南千余里に、一支国にありといいますから、なんと、壱岐の発音は魏志の時代までさかのぼれるわけですね。

では、やはり高句麗、渡来系?とされた日置(ヘキ・ヒキ)と壱岐(イチキ)は、ぜんぜん関係ないことになるでしょうか。

ある物事を論証するには、方程式ではないので、推論に推論を重ねるわけにはいかず、できるだけ多くの別の視点からも、論証できることが重要です。

たとえば、

○文献面

魏志⇒一支⇒イチキ
古事記⇒イキ?
書紀・・・


魏志倭人伝では

又南渡一海千余里 名曰瀚海 至一支国。官亦曰卑狗 副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴。

また南に瀚海(かんかい)と呼ばれる一つの海を渡り、千余里を行くと一支(いき、いちし、一大)国に至る。また長官を卑狗(ひく)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。広さは約三百里四方ばかり。竹や木のしげみが多い。三千ばかりの家がある。田畑が少しあり、農耕だけでは食料には足らず、また、南や北に海を渡って穀物を買い入れている。

○魏志

島の面積;三百里四方⇒円形の島⇒1里⇒単位を77〜400メートル
⇒最大で120KM、最小で24キロ四方

対馬国から南に千余里⇒一支国の直径の3.3倍〜3.3+余里の距離あるいは、それ以上。


○現実

対馬南端⇒壱岐北端=50KM(方角は南東)
対馬北端⇒壱岐北端=100KM(方角は南)

壱岐の場合、15キロ四方ですね。


○推論

対馬の南あたりから出ると、ちょうど壱岐島の直径の3倍〜で、魏志と対応するのではないでしょうか。

ちなみに、対馬には行ってみるとわかるのですが、北と南に港があります。北端は豊という地名が残っていますね。メインの港はでも、北端からやや南に下ります。

対馬の各港から壱岐を見たときの、その方角の違いも、魏志の例の南東方角への相違になにか関係しないですか?この辺の正確さを追求できれば、測量の正確さもでるわけですね。


○書紀

崇神記⇒任那は筑紫の国を去ること二千余里という記載⇒1里;100メートル⇒短里とのこと。参照http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page003.html


○考古面;三千ばかりの住居跡がある可能性。農作物は十分に取れない??

おそらく上記の数個の視点が証明されれば、壱岐が一支国であるという可能性が高まるのではと感じます。

でも一支の支は、「シ」と読ませているようですね。これもどうなんでしょう。「キ」ではないのでしょうか。

そこで日置の発音

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宣長etc 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月16日(水)18時11分7秒   返信・引用  編集済
「キ」伎紀貴幾吉 [清濁通用]岐 [濁音]藝疑棄
宣長は「此ノ中に、伎ノ字と岐ノ字との間(アヒダ)に、疑はしきことあり。」と「伎と岐」の相関関係を模索していた様にもとれますね。
宣長は記紀が中華の孫引きで記述されたことに気付いていない。ましてや16,000年前に海中に沈んだ北緯24度の文明が存在したことなど知るすべもない。それ故に、伎は頭の無い亀を本質とし、岐は頭のある亀がその本質であることに気付かない。
その上で、伎は清濁通用で岐は濁音と言う分析次元なのです。
だから彼の見解は「本は清音の處は、終リまでみな伎ノ字なりけむを、字ノ形の似たるから、後に誤リて、みな岐に混(マギ)れつるにやあらむ。[又伊邪那岐ノ命の岐字を、伎と作(カケ)る處もあり。是レはたまぎれつるなり。] されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ。」
と結んでいる。

記紀から受け取れる「伎と岐」の関係は「伎」は徹底的に排除され、「Q系とW系」王朝を持って律令国家建設へ向かったことです。
それはたとえば、後漢や魏の時間軸では、伊都国が北緯39度の邪馬壹國の女王を引っ張り込んで「「Q系とW系」王朝の形態を維持した。
邪馬壹國の前身は委奴国であり、委はwei ですからW系です。
次の時間軸は磐井です。磐井はwu系です。同じW系は不必要ですから壹與(yi yu)の夷系を引き込んだのです。
夷系は頭のある亀のQ系と同じです。これで磐井のwu系が土台で飾りが壹與のQ系です。
次の時間軸である推古紀には
その後王都に入京するにあたって、額田部比羅夫が飾り馬75匹を揃えて出迎えたのがここ海石榴市(つばいち)である。
と言う裴世清に関する項がある。
馬75匹の「七はqui で五はwu」です。wuの土台でQの飾りで入京したのは推古の御爺さんの蘇我稲目でしょう。

邪馬壹國崩壊の時、男王を立てたら大乱に発展し1,000人からの死者が出ている。
Q系+wei(委)対wu(磐井と奴国の九州物部)の戦いでしょう。Q系の女王を立てることで和睦した。
が、委weiは和睦していないでしょう。福岡等には「隈」の付く地名が可也あります。此処は卑弥呼か伊都に来たときに一緒に移住してきた人達の居住地だった。
何故なら、 「隈」と言う字の読みはwei だからです。和睦しなかった委weiは九州の南端鹿児島まで追い込まれた。中部九州で捕獲された委(wei)も鹿児島に強制移住させられた。これが後の隼人でしょう。
隼人の真の出自は北緯39度の邪馬壹國です。

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伎 投稿者:縄文種渡来者 投稿日:2007年 5月16日(水)11時03分34秒   返信・引用
>・・「伎はji で岐はqi」です。

・・tomboさんの説だと宣長のいうのは↓おかしいですか?

>・・キ・・此ノ中に、伎ノ字と岐ノ字との間(アヒダ)に、疑はしきことあり。上卷の初(ハジメ)つかたしばしがほどは、清音には伎ノ字を用ひ、岐ノ字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、伎を用ひたるはたゞ、

http://kstn.fc2web.com/1798_kananokoto.html

>・・爾伊邪那岐命告桃子 汝如助吾 於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬而 患惚時

>・・「葦原中國の宇都志伎(うつしき=現存する=写し伎=写し記=伝染気)、 『青草人(セイソウニン ・・

>・・一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故号其伊邪那美神命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯.

・・「伎」のあらわれかたは、なにか意味があるようにも思われますが…

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【壱は伊】【伎は岐】では? 投稿者:茨の紀氏 投稿日:2007年 5月16日(水)01時26分40秒   返信・引用
【壱】(壹)イチ イツ ひとつ
古文字では、「壷」つぼの中に【吉】「口」(墳)の上に「杭」(十字)を打(T・丁)った形。
イエスが磔になった十字架は丁形をした十字架だった。丁形十字架の上に罪状板を掲げた為、全体で十字のような姿になったのが真相である。
http://www.cpa-togo.jp/3.htm

【伊】イ これ
古文字では、「人」の背丈を「杖」(物指し?)で計る形。
出エジプト記4章 ? Tottori Bible Church
ペテロの手紙第1 (1123) ペテロの手紙第2 (1123) ヨハネの手紙第1 (1123) ... 神はエジプトはおろか、全地を支配しておられます。 杖はその神が彼とともにおられることの象徴でした。 ...
nagosui.org/Toseisho/daily-words/55 -キャッシュ
権力や力を意味するヒエログリフの形をしている杖。 ... エジプトのトトが似たような杖を持っていた、という説もある。 ... ウアス杖と似ているが、微妙に違う。
アンク (T・丁)型【↑】?
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/bekkan/illust/soubi-wapons.htm

【伎】キ ギ わざ
古文字で【支】は、【↑】(十字)を支える形。

【岐】キ ギ えだみち
【岐】〔山+】〕は、【支】は、【↑】(十字)を支える形。

【壱】【伊】【伎】【岐】は、「杭」(十字)を打(T・丁)形。 【↑】(十字)形。
「杖」(物指し?)
観測ポール.
http://homepage2.nifty.com/post-s/postpole.htm
http://www.at-imai.co.jp/products/s_pole.html
古代に正確に垂直にポールを立てられれば、かつ、熟練した観測者が繰り返し観測すれば、こうした方法で平安京の精度で南北を決めることは、十分可能だと考えられます(古代のポールの垂直の精度については、 ...
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Project1.htm
「古代には太陽の南中時刻や方位角を知ることは出来なかったので、このような方法は使えませんでした。」・・・・? 参考になれば幸いです。

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失礼! 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月16日(水)01時16分17秒   返信・引用  編集済
先に私が引用した古事記の「壱伎」、書紀の「壱岐」記載は、それぞれ「伊伎」、「壹岐」の間違いです。

古事記はTOMBOさんご紹介のHPと同じ岩波・倉野校注です。
版か転写かどこかにミスがあるかもしれませんね。

ただ、確かにTOMBOさん引用の真福寺本もふくめて「伊岐」ですね。

なお、隠伎、伊豫、讃岐は、こちらも同じです。

もう少し調べてみます。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月16日(水)00時01分9秒   返信・引用  編集済
『真福寺本古事記』影印 は 【伊岐嶋】と記述
http://www.neonet.to/kojiki/seikai/jokan/jokan.htm
岩波文庫 「古事記」 倉野憲司校注より は 【伊岐嶋】と記述
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page252.html
古代史獺祭 は 【伊岐嶋】と記述
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/kojiki_kami/frame/kojiki_kami_frame.htm


>古事記では壱伎、書紀では壱岐ですね。

【古事記では壱伎】【壱伎】と記述された古事記があるのですか?
出展を教えてください。

【壱は伊】【伎は岐】では。
これはとても重要なことなのです。

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壱岐島 白日別 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月15日(火)22時08分50秒   返信・引用  編集済
TOMBOさん、こんばんは。

壱岐島の表記は、ご指摘のとおり、古事記では壱伎、書紀では壱岐ですね。
伎はクレ人のクレとも読みますが、確かに、呉あるいは半島と関係しますね。
古事記でもイザナギのギは岐ですね。

先の大年神系譜の、白日神ですが、同じく古事記の国生み神話の中で、筑紫国の別名を白日別と表記しています。

とすると、大年神系譜の、大国魂神、韓神、ソフリ神、白日神、聖神の、白日は筑紫になりますね。やはり国名・地名の同格の列記です。

筑紫国と同じく豊国は、豊日別と呼ぶとあります。

そこでこの「日」が製鉄の火を意味するのか、否かは、豊火と表記できるかどうかにかかってきますね。ちなみに日向、熊襲国の別名で建日別という名称もでてきますね。

書紀では、筑紫の別名は表記されていません。筑紫洲ですね。その代わりに、「大日本」という用語が出てきます。でも大日本は本州のことで、筑紫国(九州)のことでなはいですからはてさて・・・。

古事記の大八嶋国より進化して、大日本になっていますが、つまり日の大本という意味で統合されたという形の名称で日本が出てくるのでしょうか。

確かにご指摘のとおり、推古紀は重要ですね。

そこで、先題にもどって、日置、日下のヘ・ヒ音と、壱岐島のイ音と、日と火と鏡の関連。

アマテラス(大日売貴)と白銅鏡の記載も重要ですね。大日の部分。

この点ももうすこし整理してみましょう。

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月14日(月)13時54分3秒   返信・引用  編集済
「古事記」に伊伎島と一支国、壱岐国 こちらは完全にイですね。

「伊伎島」と言う島は何処に有りますか?
古事記は「伊岐嶋」、日本書紀は「壹岐嶋」です。現在も壱岐島です。

「伎はji で岐はqi」です。

「岐に伎」を置換させて騒いで居るのは、越中富山の丸薬服用者の○○症候群である半島派の連中ですYO。
「御免なさい!御免なさい!」の大和は、そのことに対して対決も出来ないで居た。
大和の諸々の不満は臨界点に達した結果が憲法改正となって現れている。

半島の将軍の姓は金でしょう。金はjin と読むのです。
半島の檀君神話は20世紀に書かれて物だったと言うのが通説になりつつある。
箕子朝鮮の箕子の姓は姫氏です。箕も姫も読みは ji なのです。
故に、半島は頭のない亀のJ系で、インド系といっても差し支えはないでしょう。

岐のqi は頭のある亀の居住地なのです。
それを○○症候群の半島派は岐を伎に捻じ曲げて種子島に与えられた島名を壱岐に引き込んで伊伎島とやっている。
憲法が改正されたならいずれ○○症候群の半島派は「御免なさい!」と言わざるをえなくなるだろう。
最近の壱岐には半島からの観光客が多く壱岐では彼らの粗行に眉がへの字になっているとの噂がある。

魏の時代に於いて、インド系は可也の力を持っていた、だから一大国のインド系は3000家とする、と制限を加えたのです。
一大国の頭領は一で、一はyiでありyiとは頭のある亀Q系なのです。
それが、梁や隋の時代には一支国の状態になった。支とはzhiと読むのです。
zhiは頭のある亀系、頭のない亀系とティダ系の共立です。が、一支国の頭領は一のyiで頭のある亀のQ系です。

中国史書は概ね真実が記述されているから国際的に通用するが、記紀は中華の孫引きをし且つ紀に於いてはその主だから許されると言う芸術作品もある。その最たる記述が裴世清に関する推古紀でしょう。

白日神、聖神 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月14日(月)06時14分28秒   返信・引用  編集済
tomboさんこんにちは。ううん、ほとんど9割くらいは理解できないのですが、以下の2行は面白いと思います。

「其の大年(おおどし)の~、~活須毘(かむいくすび)の~の女(むすめ) 伊怒比賣(いのひめ)を娶(めと)りて生みし子は、・・・
大國御魂~( da guo yu hun)・韓~(Han)・曾富理~(ceng fu li)・白日~(bai ri)聖~(sheng)。】

白日ですると中国音だとバ+イリとなるわけですね。日の音について、イリと読ますか、ヒと読ますか、へと読ますか、朝鮮。中国だとイリでしょうか。セブリというのもおもしろいですね。セブリは、例のセンプウリの矢板の別名、セン吹里、で製鉄関連でした。

聖神いついては、一般的に訓読で、ヒジリの神といいますが、日知神のこととされます。
しかし、TOMBOさんの読み方だと、シェン神でしょうか・・。

この日という字の意味について、火を意味すると考え方があるそうですが、白日神の場合、白火って意味が通らない感じがします。大国魂、韓神、ソオリ神、白日ですから、国名で同格とすると、新羅の当て字かとも感じますが、聖神の聖の意味がわかりませんね。聖徳太子の聖で、書記の神功皇后記紀の聖王の聖なのですが・・・はてさて。

あと、TOMBOさん、やはりMLで追伸しておくべきでした。清談掲示板は、連続投稿禁止ルールは今後も継続しております。連投はいろいろな意味でみなさんの理解が追いつかないので、お控えください。

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大年(おおどし)の~ 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月13日(日)16時46分47秒   返信・引用  編集済
【速須佐之男の命
大山津見の~の女、名は~大市比賣(かむおおいちひめ)を娶(めと)りて生みし子は大年(おおどし)の~。】

速須佐之男の中国語読みは su xu zuo zhi nan です。X子音はエジプト系でZ子音はJ系・Q系・W系の集合体です。
速須佐之男はY系・古へブライの血の継承は無いようです。
速須佐之男にはエジプトの血が入っての渡来人です。ですから列島の主権を獲得するためには土着との混血が必須です。
その選択が頭のない亀の大山津見であったということになります。

大山津見の中国語読みは da shan jin jian です。J子音が2個と純な頭のない亀の土着神です。

【其の大年(おおどし)の~、~活須毘(かむいくすび)の~の女(むすめ) 伊怒比賣(いのひめ)を娶(めと)りて生みし子は、・・・
大國御魂~( da guo yu hun)・韓~(Han)・曾富理~(ceng fu li)・白日~(bai ri)聖~(sheng)。】

大年(おおどし)の~には、XJQWの質量は全くありません。が、速須佐之男の子ですからXJQWを継承(遺伝)しています。

~活須毘の中国語読みは shen huo xu pi でエジプトのX系とpiのW系の混血ですね。
~活須毘神の娘伊怒比賣の中国語読みは yi nu bi mai です。biはW系ですが、 yi の伊とは何か?
又、yiの音の漢字には、【一】 【壹】 もあります。 結論は yi とはQ系の頭のある亀です。
(伊伎島と一支国、壱岐国のyiはQ系頭のある亀です)
伊怒比賣(いのひめ)の子は5柱、その中の大國御魂~( da guo yu hun)には yu(禹)がいる。
此処では、伊yiがyu(禹)を生みだしたことになる。 yu(禹)を生み出せるのはエジプトのX系か頭のある亀いがいにない。

頭のある亀は神としてのシンボルですが、伊yi・yu(禹)とするときは頭のある亀をシンボルとする人です。
伊yiもyu(禹)も原初はQ系です。yu(禹)は特別な存在として亀を捨てて魚を選択した。

アジア史の縦糸は、頭のある亀(Q系)と頭のない亀(J系)それとティダ石(W系)の3本です。
其れに、横糸のX系、Y系、C系、F系、si系とで歴史という織物が織られている。


【天知迦流美豆比賣(あまちかるみづひめ)【天を訓(よ)むこと天(あま)の如し。また知より下の六字は音を以ちてす】を娶りて生みし子は、・・・波比岐(はひき)の~【此の~の名は音を以ちてす】。】

天知迦流美豆比賣(あまちかるみづひめ)の中国語の読みは tian zhi ? liu mei  dou です
その子の波比岐の中国語読みはbo bi qi です。W系2分の1とQ系2分の1の混血です。
天知迦流美豆比賣の文字の中には具体的にW系もQ系も見つかりません。
波比岐の bi(W系)、 qi(Q系)はzhi(JQW系の集合体)から吸い出したということでしょう。

大年(おおどし)の~には今一人の妃がいます。
香用比賣(かぐよひめ)【此の~の名は音を以ちてす】を娶りて生みし子は、大香山戸臣(おおかぐやまとおみ)の~。 次に御年(みとし)の~【二柱(ふたはしら)】。

香用比賣の用はyongと読みます。

甬も Yong とよみます。 浙江省寧波の別称です。
浙江省の歴史は古く、中国古代文明発祥の地の一つである。 .
7000年前の河姆渡文化(かぼと 現在の浙江省余姚市河姆渡)は、中国でも最古の稲作地帯として名高い。

余談!
魏志倭人伝の卑弥呼は漢委奴国の委奴国が出自で委はwieですからW系です。
倭国大乱の時に、北緯39度の委奴国から列島東夷(Q系)の核地・前原平原に卑弥呼を盗んでいった奴がいる。
卑弥呼には子はいません。宗祖卑弥呼壹與はQ系です。

卑弥呼宗女のQ系壹與を盗んで東夷(Q系)の核地を移動させた者がいる、それは磐井です。

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波比岐神を祭神とする疋野神社の話。 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月13日(日)00時47分15秒   返信・引用  編集済
波比岐の中国読みは bo bi qi です。
bo は ba+buの合成音です。 ba は半分 bu はパーフェクトというシュメール語です。
bi はW系でqi はQ系(頭のある亀・アッカド系)。

波比岐とはW系とQ系が2分1づつの配分神である。

疋野の中国読みは pi ye です。
PiはW系 ye は東夷(アッカド系)。
(中華は、邪をxieと読みX子音はエジプト系とし、邪・xieは耶・ye(古ヘブライ)と同格として耶・yeを西夷と置いている、そして東夷とは頭のある亀のQ系です。)

疋野はW系と東夷(アッカド系)の共立です。

波比岐神と疋野神社は 文字が違ってもW系と東夷(アッカド系)の同一構成ですね。

挿話では小五郎と姫と白鷺が出ています。小五郎は金塊を持った金持ちでした。
小五郎の中国読みは xiao wu lang  です。 エジプトのX系と呉・武のW系ですね。
此処にW系の血が有ります。

姫の中国読みは ji ですからインドのJ系になります。 可笑しいですね、アッカドが居ません。^^;
ですが、アッカドにはヒメという適合文字がないのです。ですからアッカド系はヒメの名前の中にQ子音を置きます。
伊 yi 須 xu  気 qi 余 yu  理  li 比 bi 賣 mai (イスキヨリヒメ)の様にです。

如何もアッカドは倭系との共立に苦労したようです。
小五郎にはエジプトの血が入っていますからそれが原因でしょうか?

倭系小五郎の組織の半分だけはアッカドと共立した。それを白鷺が明確にしています。

白鷺の中国読みは bai lu です。
ba は半分というシュメール語で iはye、 lu は補強する、というシュメール語です。
白鷺が怪我をしていますからアッカドのW系への交渉は苦労したのでしょう。

アッカドは何とか半分だけは獲得したようです。


姫が日置氏の系列であったとするなら、
このW系との共立でJ系(インド系)が消沈してW系が代頭し、
壁置he-ki が壁置(bi zhi)に移行した可能性を伝えているかも知れませんね。

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ヒキ 新羅 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月12日(土)22時50分24秒   返信・引用
TOMBOさん、Mさん、みなさんこんにちは。

九州で一文字姓の方から以前投稿があったことがありましたね。その方は余姓といい、百済亡命渡来人の余姓と関係するのではという感じでしたが・・。寿、揮はわかりません。


TOMBOさん、日置氏についてですが、すると日置の中国音は ri zhi となるわけですね。でもヘキがヒキの元音だということなのですね。

下記HPに、日置氏とその祭神の読み方が記されています。

日置氏との関連で、熊本に疋野神社というのがあるらしく、波比岐神という、灰を吹く⇒ハヒキといういわゆる製鉄伝承と関係するそうです。この神は古事記に出てきますね。
この神は、和歌山にも見えるとのこと。

TOMBOさんの熊襲と日置と国生み神話はこの辺と下記の件でさらに考察してみてはいかがでしょう。


日置姓の分布は、和歌山と富山立山に多いそうです。立山もレイラインや新羅と関係深いですね。

http://www.genbu.net/data/higo/hikino_title.htm
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~heki/documents/heki.htm

ヒキの語が古いのではないでしょうか。

「古事記」に伊伎島と一支国、壱岐国 こちらは完全にイですね。

朝鮮語で日はイルというそうですが・・・。

渡来系の大年神の子がその波比岐神であることは有名です。

系図
http://www.dai3gen.net/izumo2.htm

つまり、この系図の大年神の子供たち

(妻:伊怒比賣)韓神、白日神、聖神、奥津日子神
(妻:宇迦之御魂神)庭津日神、波比岐神、庭高津日神、大山咋神亦名山末之大主神⇒秦氏の松尾大社の氏神

における、日の意味が、日置の日の意味と関連するのではないでしょうか。

ついでに、伊怒比賣は出雲に見えると書いてありますね。

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hi(ヒ)とhe(へ)!大幅に修正しました。 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月11日(金)15時14分6秒   返信・引用  編集済
hi(ヒ)とhe(へ)!2.

シュメール文字のPIはwaともwuともbi とも読み使われている。
(例を画像にして下に貼り付けました)

日置の中国音は ri zhi です。
古事記はZを伊邪那岐(いざなき)の命・伊邪那美(いざなみ)の命のZaとしている。

古事記の主張の邪はZなのです。それは「亀(J系とQ系)とティダ石(W系)」を一括りにしてZ系としている。
J系の亀とは頭のない亀でインド系でもあります。又、Q系というのは頭のある亀でアッカド系でもあります。
中華がZ子音を用いた場合も「亀とティダ石」を一括りにしてあると解釈していいのではないかと。
ティダ石を信仰の対象としたのがW系の倭(wa)・武(wu)・呉(wu)です。


日置のri zhi をシュメール語で解釈すると、
zhi を z+hi 複合語としますと 「hi は混ぜる」という言葉ですからZ系の「亀(J系とQ系)とティダ石(W系)」の混血ということになります。そして ri は集めるです。
日置のri zhi はZ系の「J系とQ系の亀」と「ティダ系」の混血集団ということに成ります。

壁置の中国音は、bi zhi です。
biは画像を参考にしていただけると解りますが、W系(倭・wa 武・wu・呉wu等)なのです。
Z系(亀とティダ石)の集団の頭主をW系が取ったのが壁置・bi zhiということになります。

壁置をヘキhe-kiとするなら、このキ・kiはインド系の頭のない亀、紀氏を指すことになります。
he というシュメール語は「○○であってください」という言葉です。
壁置・he-ki・ヘキは「J系の亀であってください」という意になります。

日置の出自は 歴史的時間軸の背景から壁置・he-ki・ヘキにあるのではないでしょうか?

日置のri zhi(Q系、J系、W系の集合体)の環境下でJ系の亀主導で壁置he-kiを組織した。
が、壁置he-kiの組織内部にはQ系、W系も合流していた。
次の時間軸でW系が抜け出して壁置(bi zhi) ではないか。

複雑なので時間軸をおって証拠をさがさなければならないが。

国生み神話で肥後の国が出てきますが、日置・ヒオキ又ヘキの用法に類似しているように思えます。
肥後の意はhi-呉ではないか。呉は沖縄にヘゴの木がありますがこのへゴはhe-呉では。
へゴの木は長江に大密林があります。この長江のヘゴを知っている呉が沖縄から肥後と侵攻した。
また、ヘゴの木の小判状の外皮文は東北の石器に現れています。呉によって押し出されら人達が東北に非難したからか。 東北は紀元前5000年頃で沖縄は紀元前3000年頃だろうか?熊本肥後は紀元前2000年頃ではないかと推測。

日下の中国語読みは、ri xia です。
中華は、邪をxieと読みX子音はエジプト系とし、邪・xieは耶・ye(古ヘブライ)と同格として耶・yeを西夷と置いている、
そして東夷とは頭のある亀のQ系です。
日下とはX系つまりエジプト系の集団です。
(熊襲の中国読みは、xiong  xi ですから日下とは同系統になるでしょう)

草香の中国読みは、cao xiang です。 X子音がありますからエジプト系が居る事は確かです。
cao のC子音は「インド系と古ペルシャ系」の混血ではないかと。(C子音の分析が充分でないのであしからず。)

純度の高いエジプト系の「日下や熊襲」に「インド系と古ペルシャ系の混血」の集団が草香ではないでしょうか。

日下部となると、エジプト系とW系の集団になりますね。




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輝と寿 投稿者:M 投稿日:2007年 5月11日(金)02時08分22秒   返信・引用
検索してみました。商品名、人名の多いこと・・・。
ホテルの日本料理のコース名や、女子プロレスの選手まで(本名じゃなかったです、残念)
ファンタジー小説系の登場人物に、二つの字はよく使われていることがわかりました。
興味深いのは、中国・台湾の人名にこの二文字が多いことです。
しかし、姓はなく、名前のほうで使われていました。

地名としては、鹿児島県鹿屋市というところに、寿町と、輝北地区という地名があります。
霧島周辺の地域のようです。
父は鹿児島県出身なので、おおいに関係ありと見ています。
歴史や、主たる産業を調べてみたのですが、特に成果はありませんでした・・・。
地域周辺を調べてみれば、何かわかるかもしれません。

そしてこちらの掲示板に、茨の紀氏さん筆のトピックを発見しました。
「アマテラスを漢字で」考。
これを入れるとアマテラス信仰の話も入り、ロマンあふれる話になるのですが。
アマテラス信仰が中国あたりを祖として、日本の地に持ち込まれ、
それに関して地名が名付けられた。その地名にあやかって輝と名前がつけられる。
ちょっと夢見すぎでしょうか?

貝はお金を表すもので、商人として海を渡ってきた・・・。
と考えるのが素直な線なのでしょうか。
寿も同じ流れのような気がします。

あと戒名とか、お坊さん、尼さんの名前に多かったです。
仏教からくるものなのでしょうが、なにかお寺に携わっていた。
どちらにせよ、職人系ではなさそうな、そんな気がします。

いずれにしろ、チャイニーズ系であるような気がします。

渡来の時期としては、貝がお金の時代に渡来した!?
くらいしか、今は想像つきません。

蜀の時代に海を渡ってきた、となればすてきなのですが。

以上、調べた感想でした。
地名、苗字の由来を調べたWEBは多く、興味深いです。
なんだか、はまりそうです。

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ご回答ありがとうごさいます。 投稿者:M 投稿日:2007年 5月11日(金)00時17分38秒   返信・引用
茨の紀氏さん、はじめまして。
なるほど・・・。歴史や漢字、地理に疎い私ですが、いただいたレスが美しく
大変面白く感じました。ありがとうごさいます。
調べたり、本を読む楽しみが増えました。
引き続きWEBを見て勉強させていただきます。

ちなみに、私は輝、寿は親戚です。
輝の遠い親戚には貝原がいます。

ただ単純な疑問が、深いお話になるとは思いませんでした。
がんばってみます!

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RE 渡来系の苗字について 投稿者:茨の紀氏 投稿日:2007年 5月10日(木)19時35分43秒   返信・引用
投稿者:M さん 初めまして、
「【輝】 という苗字と、【寿】 という苗字」ですが、古文字では、似ています。
【寿】ジュ ことぶき (てらす)の古文字は蛇行する「川」に「口」(指摘に測量のポイント)が縦のラインを形成し枝が伸びようとしている字形です。
【輝】 の【寿】との違いは、【寿】が霊的(甘)ですが、【輝】は「貝」(お金)(火)です、相違の判断は委ねます。

「どちらも渡来系なのでしょうか。
そうだとしたら、いつ頃渡ってきたのでしょうか。」

・・・・・【寿】【輝】 で検索してみてください、ヒントに気づく感性は貴方しだいです。
追求する拘りが新たなる発展に繋がります 励んで下さい 期待しています。(^_-)-☆

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渡来系の苗字について 投稿者:M 投稿日:2007年 5月10日(木)06時09分37秒   返信・引用
みなさま、管理人さま、はじめまして。
検索エンジンよりこちらのサイトを知り、拝見しています。
今、苗字のことについて調べています。
九州の 輝 という苗字と、寿 という苗字です。
どちらも渡来系なのでしょうか。
そうだとしたら、いつ頃渡ってきたのでしょうか。
ご存知のかたおられましたら、教えていただけますでしょうか。
検索してみたのですが、よくわかりませんでした。
よろしくお願いいたします。

歴史番組アップ 草壁氏 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月10日(木)05時16分6秒   返信・引用  編集済
管理人です。このたび、歴史番組「古代史解説・7〜群馬方面古墳群〜」をアップしました。

歴史番組
http://www.michaelbroadcast.net/rekisichannel.htm

今回は、群馬の100メートル級の大型前方後円墳である保渡田古墳群、観音塚古墳、綿貫観音山古墳を迫力の大画面で放送しています。ぜひごらんになってみてください。

さて、とみたさん、TOMBOさんこんばんは。

とみたさんご指摘の日置氏と日下部・草香部氏との関係ですが、草香部氏はキシ集団の一族ですね。

ご指摘の新羅・壱岐・対馬・出雲と日月神信仰、日下氏のお話を聞くと、その航海能力と太陽信仰が気になりますね。

鏡を木の枝に掲げる信仰は、船の上にその木を掲げて、鏡をそれにかけて、戦勝を??する記載がありますね。

このアマテラス信仰関連と、その船の航海能力と、レイライン測量の関連が気になりますね。伊勢、鹿島へもそれらの信仰がきていますから、鹿島から利根川をさかのぼって、埼玉古墳群あたりの時代と、それらの日神、渡来系遺物の解析が課題です。

つまりその関東への進出は、その埼玉の稲荷山古墳というのは、実は利根川が昔、内陸まで入り込んでいたころ、埼玉沼という港湾沿いにあり、ここまで船で入り込めたというんですね。比企郡吉見は、荒川沿いでしょうか。稲荷山と渡来系遺物の関係も重要ですね。

さて、TOMBOさん、ご指摘の日下部のクサカベの語の解釈、草香部としても、草壁とも書き、明らかに当て字であることは確かですね。日下の語事態は、日の意味をつけている感じがしますね。

でも日置は、つまり壁でして、ヘキと読みますが、TOMBOさん的には、ヘ+ウキとなるわけですね。

草壁の日は当て字で、語音と関係ないですが、日置も、意味をつけていますね。
もともと日置は、別の当て字があるのではないでしょうか。ヘキ氏・・・ヒキ、比企。ヒキが正解の発音でないでしょうかね。ヒキ→イキ 壱岐のイはもともとなんでしょうね。

そのヘキがたとえば、ご指摘のとおり、アッカド系としまして、問題が、その語音がどこかに残っているとおもうわけです。アッカド→新羅→日本なら、新羅に。

でも、TOMBOさんのお話だと、クサカなどの語音は縄文時代にはすでに入っているように聞こえます。

その縄文時代における、シベリアの民族の南下と、漢民族の成立と、圧迫された華南地域の民族の日本への流入については、歴史問題掲示板に、三大丸山遺跡の関係で書き込みがきていますね。

歴史問題掲示板
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/

でも、TOMBOさんとこの方のいうのが違うのは、シベリアの民族の南下と縄文人が、DNA的につながることは証明していますが、北海道から入ったとする点ですね。

クサカやヘキの語は、はたしていつごろどこから入ったのでしょうね。新羅方面の語音研究も知りたいところです。ご指摘の新羅の迎日湾はなんと読むのでしょう。

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呉と漢 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 9日(水)19時50分14秒   返信・引用  編集済
周の始祖は文王、初代は武王、前漢第七代は武帝、後漢王朝の創始者で初代皇帝は光武帝です。
この武はwu と読みますそして呉もWuなのです。倭はwaと読みやはりW子音系です。
tombo的には、漢人と呉人の血は同じだったのではないかと。

今から8000年以上前に中華北部で紅山文化が起こった。ここで7800年前に竜が誕生しているようです。
この竜は蛇ではありません、猪なのです。此処が漢人のルーツらしいという。

異常寒冷は紀元前5000年と紀元前3500年に起こっている。
最初の寒冷化の時、彼らは長江へ南下した。圧迫された長江の民は列島にも来島した。
三内丸山の長江との共通性はそこにあるのではないかといわれ始めている。

紀元前3500年の寒冷は前期を上回ったようです。
この時に、紅山文化人達が一気に南下して漢王朝を起こした。

大一派が呉、第二派が漢ではないでしょうか?
Waは列島に渡った漢人系ではないか。


人名地名の言語分析は、アッカド語、シュメール語を借用します。
例えば、日置 hi u ki
uは禹 kiは武内宿禰の子の紀角宿禰(きのつねのすくね)を始祖とする紀氏の紀.

禹の読みは Yu  紀の読みは ji です。 Jiは頭のない亀(インド系に同じ)
Hi はシュメール語で「混ぜる」。

日置の血族は、禹系とインド系の混血。

日下は kus-aka というシュメール2語が重なってkusaka日下、草香。
Kusは噛み付き亀でakaは羊の毛。亀はインド系、アッカド系の二系統あり。
羊は古へブライでエホバ系、ヤハウエ系。

日下、草香は古ヘブライと亀系(インド系、アッカド系)の混血。

もし、日置と日下・草香が共立していたなら共通項でインド系亀の可能性が高い。

というのがtomboの言語音の分析なので、今井さんとは可也遠いのではないでしょうか。

さて、鏡についてですが、
これは、公孫氏をあぶりださないと答えが得られないでしょう。
何故、呉の赤烏元年銘対置式神獣鏡が列島にあるのか?
全ての鍵は公孫氏が握っている。

公孫氏滅亡でその証拠になるものは全て処分されているが、後漢書と魏志倭人伝からも公孫氏を臭わせる記述はあります。
とにかく、公孫度は倭国大乱終結後からの活躍であること。
このあたりから始めるのも面白いでしょう。

公孫氏滅亡と同時に邪馬壱国は崩壊すると高を括っていた魯系の垂仁系は頭を抱えて景初3年のLTVを作ったんでしょう。シツコイ奴は景初4年なってのも作っている。^^;

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Re: 日置氏 投稿者:とみた 投稿日:2007年 5月 9日(水)11時24分31秒   返信・引用
> No.933[元記事へ]

管理人さん

日置のことで、すばらしいHPのご紹介ありがとうございます。

> 日置氏の動きについてはこちらのHPがおもしろいです。
> 出雲と日置の関係、伊勢と奈良のレイラインなど、レイラインの中間点と日置氏の存在について述べておられます。日置がどうやってラインを作成したかも気になりますね。確かに測量関連の感じがします。


> とりとめないですが、日置は鏡の信仰とかかわるそうですね。日を置くと書いて日置というのは、意味がありそうな氏族名であります。日と鏡とレイライン、この辺から解けそうですね。日置氏ちょっともうすこし調べてから報告します。

日下=草香も日置氏の本拠の一つらしい。ナガスネヒコに神武東征郡が負けたところ。

日神に関係がありそうですね。

測量技術集団なのでしょうか。

対馬・壱岐の亀卜の占いや阿麻テルや月神の信仰が大和に取り込まれたというのは説得力があります。

日置氏が太陽の出る伊勢と太陽が沈む出雲の日御崎のレーラインを測ったとしたら面白いですね。

日御崎神社の宮司は日置氏であります。

出雲の日御崎は、新羅の迎日湾と古代の海上航路でつながっているというのも何か謂れがありそうです。

殷の時代は周辺の文明からいろいろなものをパクリました。

龍山文明から儀礼や鼎を良渚文明から玉や神人獣画像を取り入れトウテツ紋を作りました。

西北の遊牧文明から卜骨を取り入れ亀卜、骨卜を行いました。

シャーマンは中国の東北部のツングース系の呪術を使います。この巫術や卜術が高句麗に伝わり高句麗出身の日置氏は対馬・壱岐経由で入ってきたのでしょうか。鏡は府術の道具でしょうか。

どうも中臣氏も絡んでいそうですね。

かなり怪しいのですが、もっと調べてみる必要がありそうです。

以上は

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日置氏、語音系統 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月 9日(水)05時18分9秒   返信・引用  編集済
とみたさん、TOMBOさん、みなさんこんにちは。

日置氏については、そうですか、関東へも埼玉比企郡などで地名を残しているわけですね。比企郡というとそうですか吉見横穴で渡来系とも深いつながりですね。6世紀ですね。

埼玉というと、先ほど、保渡田古墳群について調べていましたが、この古墳は6世紀の榛名山の噴火で埋もれていたそうで、古墳自体は5世紀後半以降のものだそうです。

上毛野氏系の車持氏と史料面から推定されているそうで、渡来系の遺物が周辺から出ているそうです。そしてその噴火以降は別の地域に、豪族が移住しており、ご指摘の横穴式石室が見つかっていないらしいです。

つまり、火山があった6世紀以降に、横穴式の技術をもった集団が関東に移住しているかもしれないわけですね。531年の稲荷山縦穴式でしたが、埼玉北部への横穴式石室の技術伝播を、471年にもってくるか、531年にもってくるかご指摘のとおり重要ですね。ただ、考古は専門ではないので・・・。

日置氏の関東への移動はいつごろでしょうね。高句麗と系図で祖先の系統を残すのは、かなり新しい渡来人の特徴ですね。6世紀以降の渡来でしょう。日置氏にも数系統ありますので、なんともいえませんが・・。

日置氏の動きについてはこちらのHPがおもしろいです。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/4875/sinto.html
のページがおもしろいですね。

出雲と日置の関係、伊勢と奈良のレイラインなど、レイラインの中間点と日置氏の存在について述べておられます。日置がどうやってラインを作成したかも気になりますね。確かに測量関連の感じがします。

すると、ご指摘のように、日置氏と同じくレイラインに関係するオオ氏はするとセットなわけですね。

確かに全国にキシ集団が展開する6,7世紀、仏教ともかかわりながら、関東や東北の神社の展開およびラインの設置と、キシ集団の痕跡をたどるのはおもしろいです。

相模からのキシ集団の進出は、武井さんのほうにお聞きしたいところです。

とりとめないですが、日置は鏡の信仰とかかわるそうですね。日を置くと書いて日置というのは、意味がありそうな氏族名であります。日と鏡とレイライン、この辺から解けそうですね。日置氏ちょっともうすこし調べてから報告します。


TOMBOさん、改めて丁寧にご説明いただき、ようやくなんとなくTOMBOさんの漢字をインド系の語音とアッカド系の語音にわけて、その背後に民族集団の移動を考える説について、お考えが理解できてきたような気がします。

漢字には呉音と漢音があり、それぞれ中国の地域でその成立が異なるのでしょうね。
その呉音はするとどうなるんでしょう。インド系なのですか?アッカド系は西域遊牧民族系でしょうか??

ただ、これを日本古代史に当てはめるには、古事記だと、たとえば、編者のオオ氏は、中国南方呉系で、あるいは北方魏系で、その呉音なり漢音を保持・仲介しながら、もともとは、北方遊牧民あるいは南方民族の地域を経由して、これらの語音を、日本に継承したという、語音とは別の民族移動に関する実証的な証明が付随しないといけませんね。

たしかに、その古事記ならオオ氏の用語系統と、たとえばオオ氏が残した遺物に刻まれた文字の系統とか、それが雲南の青銅遺物とどの辺でつながるとか、高句麗の壁画とこうつながるとか、日本書紀の朝鮮百済系亡命渡来人や中国人の用語系統とこう違うとか、比較論ができてくると、おもしろいかもしれません。

そうそう、日本の古代の地名を、その「A・V・・・」音で、数系系統に分類なされた渡来人研究会の会員の今井さんのHPはMLでお知らせしましたが、拝見されましたか?どこか今井さんの語系統の分析とTOMBOさんの語系統分析はつながるとおもしろいと感じるわけですが、その辺いかがだったでしょう。

こちらは、今井さんのHPです。
http://www.imaken.biz/

追記:先ほど歴史番組「古代史解説・7〜群馬方面古墳群〜」をアップしました。
迫力の群馬・高崎の巨大古墳の映像を、大画面で放送しています。

歴史番組
http://www.michaelbroadcast.net/rekisichannel.htm

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芸術作品 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 8日(火)12時34分41秒   返信・引用  編集済
刀幣を素材として銅鐸や358本の銅剣が作られた。
と、今から3〜4年前に複数の掲示板に書き込んだ。刀幣は沖縄から2〜3枚出土している、半島では1000枚単位で出土した所が3ヶ所ある。所が沖縄を除く列島からは只の1枚も出土していない。
というのが、その理由であった。現在に至って銅鐸・銅剣の定性分析で中国産の銅が使われていることが明確になったきた。

孔子を生んだ「魯」という国は銅幣が作られていたかどうか危ぶまれるほど貨幣の流通が少なかった国でしたから、「魯銭」も数が限られていたと考えられる。

今から54年ほど前にジェームズ・ワトソン氏がDNAを発見した。
これによって医学的に血族関係が明確に出来る様になった。
古代中華は異民族が共存する中で、複雑化によって引き起こる混乱を解消するために漢字は完成した。
この漢字に種族ごとの文化を明確にする為の方法が考慮されったのでないか?(現在で言う所の著作権や特許にあたるでしょう。)
と、
いう理由から8ヶ月をかけ「WXYZQJ」という子音の漢字とその熟語、約2,500語を拾い出し、どの語が記紀や漢籍の何処に使われ、どの様な意味で使われているかを分析してみた。・・・・・

その分析結果の一つとして、
一文字で2種の読み方がある漢字はあるが、一文字で3種の読み方がある漢字は「亀」だけであった。
「亀」は gui 、 jun  、qiu と読み、インド特有の子音のJ、アッカド特有の子音Qがあることを見つけた。
世界最古の亀は与那国島の海底遺跡にある。
此処には頭がある亀と頭のない亀の2匹の石で作った亀のモニュメントがる。
頭のない甲羅だけの亀、これがインド系の亀、なぜなら、甲羅の「甲はjia」と読みJ子音を持つからです。
与名国は3種族の共立斎場であったであろう。頭のある亀と頭のない亀、いま一つの種族の象徴はティダ石です。

ニニギは大山津見の血を入れるが「津はjin」と読み頭のない亀の血を混ぜたことになる。
ニギハヤヒが混ぜた血はティダの血です。
ニニギもニギハヤヒもティダ族と同じ血を引く人でした。

ニニギもニギハヤヒも渡来ですから、列島の先住の血を混ぜないと列島の王権は獲得できない。
スサノヲも然りです。

芸術作品の古事記はその様に伝えています。


追!
魏の国で「魯銭」を回収することは不可能に近い。
青龍三年のLTVは「魯系」の儀式的要素の比重が大きいだろう。
「魯の銅銭」を素材とし、「魯系」の顔氏を製作者として作られた「青龍三年のLTV」であるから「魯系」の人達へのインパクトは強烈です。

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日置氏 投稿者:とみた 投稿日:2007年 5月 8日(火)11時22分47秒   返信・引用
最近、日置氏にこだわっています。

門脇禎二さんの古代出雲という本で、欽明天皇時代に蘇我系の伴部日置氏が西出雲に進出し、新興の神門氏と一緒に出雲を制覇したとしています。

出雲風土記、神門郡日置郷の条に、日置の伴部などがここに遣わされたとされていることが根拠でしょう。

東出雲の松江の南は、出雲国造意宇氏の本拠で、ここにも神戸があり出雲の熊野大社と出雲大社(=杵築大社)の部民として日置氏です。杵築に意宇氏が移ると日置氏も着いてゆきます。日御崎神社の宮司は日置氏です。

この民は、武蔵にも流れています。

比企も日置なんでしょう。

大和の阿部の引田、三輪の引田も日置氏だと思います。元々は御所にいましたし、日下も日置氏の本拠らしい。

阿部系の吉志が畿内から関東に移ります。横穴式石室を武蔵で作っていますね。

埼玉古墳群の稲荷山鉄剣の銘にある辛亥も471年説と531年説があります。

私は531年説を採ります。すると継体から欽明に移る時代になくなった豪族。

これも阿部氏とつながりのある丈部という見方もあるようです。

日置氏は高句麗の出というのが新撰姓氏録です。

測量、祭祀、神社建設などを得意にしているかもしれません。ひょっとすると巫女・男系かなと思っています。

吉志は調布や狛江などに足を残し、武蔵野高麗川当たりも足跡を残しているのでしょう。大磯?平塚あたりから上陸したのでしょうか。

このあたりは管理人さんがお得意でしょう。

少し教えてください。

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製品の模造 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月 8日(火)06時44分29秒   返信・引用
芸術作品というのは、そうですね。作者や人によってまったく見方も違うし、どう解釈しようと、それはそれで自由ではありますね。

とりあえず、三角縁のリサイクルの可能性と、日本でリサイクルしてまで製作しなければならない理由が、やはりまだ説としては弱いですね。どうみても中国で作ったほうが、資源も豊富で善いものができるような気がします。

仮に原料分析から、三角縁のリサイクル説が証明された場合、いよいよおもしろいですね。
先のとみたさんご紹介の出雲の銅鐸と中国原料のリサイクルの説の延長で、三角縁もなんらかの素材のリサイクルとすると、はてさて。

日本に計画的に銅鏡を製作するために渡来したならば、渡来する時点で原料と輸入先も合わせてセットで持ってきそうなものですが、実際はその技術職人の渡来は、どうも計画的ではないのではないかという気もしますがどうでしょう。

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凄いね 投稿者:亀旨峰 投稿日:2007年 5月 7日(月)16時51分5秒   返信・引用  編集済
tomboさんのは、芸術作品だなあ・・http:8305.teacup.com/kasaburanka15/bbs世間話掲示板の追加してある奴も凄いけど・・とみたさんは?出てこないね?

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(無題) 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 7日(月)15時49分47秒   返信・引用  編集済
垂仁天皇   【垂】chui 【仁】ren
伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)の命
《伊》 yi 【久】 jiu 【米】 mi 《伊》 yi 【理】 li 《毘)》 pi 【古】gu 《伊》 yi 《佐》 zuo 《知》 zhi
で、【久】は jiu と読みJ子音はインド系です。
さて、顔氏は魯の周公旦の血筋で、姓は姫です。 姫はjiと読み同じインド系です。

伊都国内であったと思われる前原の平原遺跡は北緯33度33分です。
中国の江蘇省は北緯33度16分にあり、此処は斉の国でした。斉の読みはqiですQ子音はアッカドを意味します。
前漢の武王は太公望を斉に封じます。 斉は徐氏の国でした。 徐氏は斉の国を追われます。
徐氏は中華の東夷の元祖です。


徐氏の流れに斉の国の人の徐福がいます。
斉の国の琅邪は現在の江蘇省連雲港市かん楡(ゆい)県金山郷でここに徐阜村(徐福村)があります。


伊都国内であったと思われる北緯33度33分の前原の平原はアッカドです。

垂仁天皇はアッカドの血を入れます。
だから、子の景行は
景行天皇  【景】jing 【行】hang
大帯日子○斯呂和気(おおたらしひこおしろわけ)の天皇
【大】 da 【帯】dai 【日】ri【子】zi 【○】yu 【斯】si【呂】lu【和】 he 【気】 qi
と、
【気】 qiとQ子音のアッカド印がある。

アッカドの血が入っているから他のアッカドを滅亡させてもアッカド内の問題として解決されアッカドを継承できるのです。
垂仁天皇は用意周到にして邪馬壹國を転覆させた、伊聲耆(垂仁)の命を受けて邪馬壹國と難升米を騙したのが磐井です。垂仁は畿内をとり磐井は九州の半分を手に入れた。垂仁と磐井の交差点は日向(宮崎)です。

青龍三年のLTV鏡はより完璧な態で製作された。
その為には、魯の血を引く顔氏は製作者として不可欠だった。
何故、青龍三年鏡が3枚しか存在しないか?
それは、3枚分の製作素材しか用意できなかったからではないか。
製作素材は、列島に持ち込まれていた魯の貝銅銭のリサイクルではないかと思う。

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公孫氏鏡 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月 6日(日)21時41分56秒   返信・引用
TOMBOさんこんばんは。下記ご指摘の件は重要ですね。

以下引用

青龍三年のLTV鏡には
「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」
と、銘文が刻まれている。
顔氏は魯の周公旦の血筋です。
そして、『斉王紀』には、
『斉王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事秘、莫有知其所由来者。
青龍三年、立為斉王。
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。
是日、即皇帝位、大赦。』
とあり、青龍三年は「斉王誕生年」です。」
青龍三年(235年)には、公孫淵への明帝の圧力は臨界に達していたでしょう。
その状況の中で、公孫淵が「斉王誕生祝い」とも言えるLTV鏡を作ることはありえないのではないか。
青龍三年(235年)鏡は、魏が列島に顔氏を送り込んで製作された「斉王誕生祝い」の魏鏡でしょう。
青龍三年(235年)の魏鏡を賜ったのは伊声耆こと垂仁で、垂仁こそ魏が認める倭国の王でしょう。

以上

さて、顔氏を日本に送り込んで鏡を作らせる必要がどうしてあったのか、ここが問題です。
呉の職人が日本に渡り三角縁をつくったという説は有名ですが、なぜ鏡職人を送り
なぜ日本で作る必要があったのか。何も魏で作ればよいのではないかという気がしますね。

そこで、送り込んだのか?技術職人を送り込むなら、武器職人のほうが優遇されるのではないでしょうか。しかし武器よりも鏡が最重要とするならば、それはまた日本文化を考える上でおもしろいでしょう。支配と鏡の関係ももっと追及せねばなりませんね。

本当に送り込んだのか?贈呈したのか?あるいは渡来人の渡来のもうひとつのパターン、つまり、移住したのか?

あと、TOMBOさん、古代史掲示板は、将棋だと考えてみてください。自分が駒を動かしたら、相手が数十分考え続けても、相手の手順を抜かすわけにはいきません。ルール違反になります。相手の考察時間が長くて、数十手先まで推論できるかもしれませんが、あくまで相手の返事を待ってから書き込んだほうが、TOMBOさんのせっかくの考察が生かされますよ。ではでは。

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赤鳥とLTV 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 4日(金)14時54分26秒   返信・引用  編集済
赤烏元年(二三八年)
赤烏元年銘対置式神獣鏡. 山梨県三珠町大塚 狐塚古墳 明治27年(1894)発見.
http://inoues.net/enjoy/mirror17.html

赤烏元年五月廿五日丙午造作明竟百錬清銅 服者君候宣子孫寿万年 (画文帯神獣鏡)

赤烏七年(二四四年)、
赤烏七年(二四四)、陸遜は、顧雍の後を継いで丞相となった。
兵庫県宝塚市 安倉古墳出土 赤烏七年銘対置式神獣鏡 発見年不詳 兵庫県立歴史博物館蔵【103k】
http://inoues.net/enjoy/mirror18.html

赤烏七年五月廿五日丙午時加日中 造作明竟百□幽□服者富貴長楽未央
子孫富昌□□□□陽□□□・・・

赤烏銘文鏡は松浦経由で列島入りしているだろう。
魏志倭人伝の末廬國です。末廬國だけが官、副の記述がないのは呉系が入り込んでいる国だったからでしょう。
赤烏七年(二四四)は、陸遜が顧雍の後を継いで丞相となった年です。
末廬國が瀬戸内海経由で兵庫、日本海経由で山梨と侵攻していた。

青龍三年銘 方格規矩鏡のルートは魏が、徐福と同じ様に山東半島から船出すれば海流の関係で沖縄に到着する。
沖縄から黒潮に乗り伊豆諸島で引っかかり木更津に到着。このルートを持っていたのは孟達系ではないか。
魏からの青龍三年銘 方格規矩鏡は2枚。
一枚は沖縄、今一枚は木更津に到着した。(3枚出土しているが3枚目のルートは不明。)

至對海【馬】國 其大官曰狗 副曰卑奴母離・・・至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離・・・ 東南至奴國百里 官曰si馬gu 副曰卑奴母離奴母離・・・東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離
の連合に青龍三年銘 方格規矩鏡を流し込んだ。だから方格規矩鏡は九州から出土するのです。
(至對海【馬】國=沖縄、一大國=種子島、奴國=北九州、不彌國=大分です。)

狗の連合なのです。
狗の連合は垂仁と連合する。垂仁の子・景行こと掖邪狗には狗の一字を置いてある。

魏志倭人伝は、国は狗邪韓國(北緯24度)の与那国島と狗奴國(北緯39度)と狗で括られ、人は沖縄(對海【馬】國)、種子島(一大國)の官の狗と掖邪狗(景行)でやはり狗で括られている。

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建内宿禰が・・・・・・! 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 3日(木)16時48分12秒   返信・引用
青龍3年銘の方格規矩鏡が、出土地不明を含めて日本で3枚出ている。

大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命(孝元天皇)の孫達の大集合!

御眞木入日子印惠命と大毘古命之女 御眞津比賣命の子が伊久米伊理毘古伊佐知命
伊久米伊理毘古伊佐知命は、【阿倍臣】と連合、比古布都押之信命の尾張連並びに建内宿禰系と連合、並びに建波邇夜須毘古命系と連合。

青龍3年(235年)の年が入った二枚の方格規矩四神鏡は、大阪府・高槻市の安満宮山古墳と京都府弥生町の大田南5号墳。
もう一つは出土地不明であるが、所有者は茨城県那珂郡の方らしい。椿井大塚山古墳へ再葬した時に青龍3年(235年)の年が入った方格規矩四神鏡を外したのでしょう。椿井大塚山古墳は建波邇夜須毘古命系の古墳だと思います。
青龍3年(235年)鏡を副葬しなかった理由は不明ですが、古事記でも「又娶河内青玉之女 名波邇夜須毘賣 生御子 建波邇夜須毘古命【一柱】」と此処でたちきれている。

安満宮山古墳と大田南5号墳は【阿倍臣】と尾張連の関連でしょう。
建内宿禰系は九州へ方格規矩四神鏡を伝播させた。
【阿倍臣】と尾張連は畿内で三角縁神獣鏡を製作した。


大倭根子日子國玖琉命 坐輕之堺原宮 治天下也
 此天皇 娶穗積臣等之祖 内色許男命【色許二字以音 下效此】妹 内色許賣命 生御子 大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命 【三柱】 又娶内色許男命之女 伊迦賀色許賣命 生御子 比古布都押之信命【自比至都以音】 又娶河内青玉之女 名波邇夜須毘賣 生御子 建波邇夜須毘古命【一柱】 此天皇之御子等并五柱 故若倭根子日子大毘毘命者 治天下也 其兄大毘古命之子 建沼河別命者【阿倍臣等之祖】 次比古伊那許志別命【自比至志六字以音 此者膳臣之祖也】・・・・・・建内宿禰・・・古事記

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青龍三年etc・・・ 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 2日(水)13時37分56秒   返信・引用  編集済
公孫淵は魏の曹叡と通じながら、密かに呉の孫権とも通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から、233年、孫権から燕王に任じられた。しかし、心変わりして呉の使者を殺害し、その首を曹叡に差し出した。この功績により、公孫淵は大司馬・楽浪公に任じられている。・・・ wikipedia
明帝に公孫淵が呉の孫権と通じていたことが判明した。
一応、公孫淵に大司馬・楽浪公を与えた上で公孫淵に圧力を加えていった。

青龍三年のLTV鏡には
「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」
と、銘文が刻まれている。
顔氏は魯の周公旦の血筋です。
そして、『斉王紀』には、
『斉王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事秘、莫有知其所由来者。
青龍三年、立為斉王。
景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。
是日、即皇帝位、大赦。』
とあり、青龍三年は「斉王誕生年」です。

青龍三年(235年)には、公孫淵への明帝の圧力は臨界に達していたでしょう。
その状況の中で、公孫淵が「斉王誕生祝い」とも言えるLTV鏡を作ることはありえないのではないか。
青龍三年(235年)鏡は、魏が列島に顔氏を送り込んで製作された「斉王誕生祝い」の魏鏡でしょう。
青龍三年(235年)の魏鏡を賜ったのは伊声耆こと垂仁で、垂仁こそ魏が認める倭国の王でしょう。

「正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王○齎詔賜金帛錦?刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩」
の、「詔書印綬」は伊声耆こと垂仁の為の物です。これを持って伊声耆こと垂仁は爵をうけたことになる。
だから、
 「其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳?緜衣帛布丹木○短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」
と、大夫伊聲耆と「大夫」が冠されている。
伊声耆こと垂仁は60歳以上の高齢だったので「耆」の一字を置いてある。
この朝貢は垂仁(伊聲耆)の後継者を景行(掖邪狗)とすることの許可を受けにいっている。
が、垂仁(伊聲耆)と卑弥呼は同格といえども倭国の最高位は卑弥呼であった。

最高位の卑弥呼は半島問題でその責任をとらされることになる。
「卑彌呼以死」と。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
の、卑彌弓呼が狗奴國男の名とする者もいれば、卑弥呼の弟とする者もいる。がおそらく間違いでしょう。

卑彌弓呼は 「bei mi gong hu」と読める、左記の4文字を「背迷公乎」と置き換えて  「bei mi gong hu」
「国家間の公正な判断を失った責任をとらされるさせることになるだろう。 残念なことである!」

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同格 投稿者:管理人 投稿日:2007年 5月 2日(水)04時43分37秒   返信・引用
TOMBOさんこんにちは。

後漢書と魏志とで、倭・倭人、韓・帯方の相違があることはおもしろいですね。

倭と韓は確かに同格ですね。

後漢書より、魏志のほうが、全体的に地理記載が詳細になっている、いやそうさせているのでしょうか。

ご指摘のように、魏が楽浪・帯方を公孫氏を討って支配したということと、帯方への魏志のこだわりを考えていくことも重要ですね。

「海東」の概念と、「東南海中」の概念を考えることは、三角縁神獣鏡を考えていく上で避けては通れないですね。

ご指摘235年の鏡は、そうですか、すると公孫氏が滅ぶ前のものですね。
日本から出土するとなると、まだ公孫氏が製作した可能性は残っているわけですね。

238年以降の銘文の鏡とは分離すべきですが、238年以降の銘文の鏡はどうなんでしょうね。

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「東夷」とは! 投稿者:tombo 投稿日:2007年 5月 1日(火)11時28分7秒   返信・引用  編集済
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人・・・掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

難升米も『難升米為率善中郎將』と掖邪狗と同格です。
それでは、伊聲耆は爵位を受けていないのか? 否、受けています。
『正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王』
の『印綬』は『伊聲耆』の為の物です。そしてこの印綬はおそらく卑弥呼の印綬と同格でしょう。
『伊聲耆』とは垂仁(?)で掖邪狗は景行のことでしょう。

而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏・・・三國志 魏書 卷三十 東夷伝
と、
魏は東夷を探していた。

『孝元天皇の第一皇子は大毘古命、大毘古命の娘は御間城姫命(みまきひめのみこと)、御間城姫命の子が伊久米伊理毘古伊佐知(いくめいりびこいさち)の命・垂仁天皇』、この流れが「東夷」です。

「《耶》 ye 」は文語における疑問の助詞で、その同語に ‘邪’がありこの時の‘邪’の読みはyeです。
通常‘邪’の読みxei です。孝元の「孝」はxieです。
つまり、欠史八代の4人の「孝」つく天皇は東夷であったということです。「孝」付く天皇は前漢と係わっている。
[東夷の出自は与那国島で亀と係わっている。(今回は割愛)]。

卑弥呼は邪馬壹國を母体とし、邪馬壹國の前身は「委奴国」です。
「委奴国」の「委はwie」と読みます。魏の読みも「Wie」です。
「委奴国」は後漢と係わっていることは周知のことです。

魏は倭国に前漢・後漢という2本の柱を立てた。

邪馬壹國と卑弥呼に過度な執着があり、伊聲耆掖邪狗が蔑ろにされているのは遺憾なことです。
その為に崇神の即位が卑弥呼の後という説が飛び交うのです。

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魏の挟み撃ち策! 投稿者:tombo 投稿日:2007年 4月30日(月)10時48分44秒   返信・引用
 『王遣使詣京都帶方郡諸韓國』・・・魏志倭人伝
と「京都」とあるので上記の時間軸は景初元年以後の事でしょうか?

而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏・・・三國志 魏書 卷三十 東夷伝
『公孫淵 が父祖三代にわたって遼東を支配したため、東夷との接触は断たれた』
とあるからです。
それは公孫淵が東夷を握っていたためで東夷以外の王は京都に詣でることができたということなのか。

青龍3年(235年)の年が入った方格規矩四神鏡が、大阪府・高槻市の安満宮山古墳と京都府弥生町の大田南5号墳からも出土している。
この方格規矩四神鏡が公孫氏それとも魏製作の鏡かがその答えを出してくれそうですね。
青龍3年(235年)の方格規矩四神鏡が魏鏡であるなら魏は青龍3年(235年)には倭の内に一石を投じていたことになる。
この一石によって魏が公孫淵討伐において倭国の半島侵攻を止めることができる。
この一石は大変重要です、倭国を騒がせることによって半島への出兵余裕を失わせる。
魏の公孫淵討伐は帶方と樂浪を落として公孫淵を東西から挟み撃ちにする策であった。

 三國志 魏書 卷三十 東夷伝 韓
景初中 明帝密遣 帶方太守劉マ 樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
『景初中、明帝、密かに帯方太守劉○(○=日+斤)と楽浪太守の鮮于嗣を遣わし、海を越え二郡を定めしむ。』
と、有り公孫淵は魏の挟み撃ちによって滅亡した。

帶方太守劉マ、樂浪太守鮮于嗣による帶方・樂浪攻撃の時に倭国が公孫淵援軍として半島に出兵したら挟み撃ちになるのは帶方太守劉マ、樂浪太守鮮于嗣だからです。

tombo的には青龍3年(235年)の方格規矩四神鏡は魏鏡だと思われる。

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後漢書と魏志倭人伝 投稿者:tombo 投稿日:2007年 4月28日(土)16時39分41秒   返信・引用  編集済
後漢書の『倭在韓東南大海中 依山島爲居』と魏志倭人伝の『倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑』と言う記述内容は全く異なる。

後漢書の倭の基点は北緯30度の7000年前の中国新石器時代の良渚文化の発祥地である杭州市30度19分・シャオシン30度15分です。
所謂、夏后を建国した禹の出自の韓国です。
倭は国を意味しているので東南は東北と反転して読まなければならない。

『倭在韓東南大海中 依山島爲居』の時間軸は前漢ないし後漢の初期でしょう。

半島ではBC108年前漢の武帝が楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の4郡をおきいずれも郡県制をしいた。

帯方郡の南に馬韓・辰韓・弁韓があった。魏の時間軸に於いても三韓は存在していたが魏志倭人伝では『倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑』と漢と係わっている帶方を基点として倭人の位置を明確にしています。
後漢書が倭の位置の記述を半島を基点とするなら漢と係わる4郡のいずれかであったはずです。
故に、『倭在韓東南大海中 依山島爲居』の『韓』は半島の3韓の韓ということは有り得ない。


魏志倭人伝の基点は半島の北緯39度の帶方郡です。
『倭人在』と国が支点ではなく人が支点に成っているので南北の反転はできない、のでそのまま東南と解釈する。

後漢書と魏志倭人伝の『東南』を地図で示すと下の画像となる。

歴史学者が北限北緯39度、南限北緯30度と言う概念を無視してるので誤読となってしまうのです。

後漢書は中華南限の北緯30度を基点とし、魏志倭人伝は中華北限の北緯39度を基点として倭の位置を記述してある。
漢も魏も都は北緯30度と北緯39度の中央の北緯34.5度にある。


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以北 投稿者:管理人 投稿日:2007年 4月28日(土)01時14分36秒   返信・引用
TOMBOさんご紹介の、「自女王國以北特置一大率檢察諸國」の一文はおもしろいですね。

九州に邪馬台国があったとすると、なぜ「以北」に管理する「一大率」という官職をおいて以南にはおかなかったのか、置けなかったのか、この点が重要ですね。

以北は、畿内説だと、以西となるのでしょうか?

普通に考えると、進出限界の方角を示しているのであろうと感じますが、どういう説がでているのでしょうか。例えば、中国の北東の進出限界は、ご意見によると楽浪だったそうですね。倭国の進出限界は、東?南?

でも南の南西諸島方面から倭人が渡来したとすると南方角に進出限界をおくのはどうなのでしょう。

確かに関東の前方後方墳を残した勢力も強い勢力をもっていたことでしょう。
一般的に進出があると、敗北した集団の逃避ということも考えられ、関東・東北方面へ集団が移動したケースも予測はされていますね。

そこでカヤ諸国のそれはどうだったのか、彼らの進出限界はどの方角か、おもしろい感じがします。なぜ限界ができるのかも重要ですね・

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若し 投稿者:亀旨峰 投稿日:2007年 4月26日(木)22時35分8秒   返信・引用
若し神武が、金首露としても神武の子等は七人で行方不明の七人と同じですね。

マガマゴグ  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月18日(水)20時23分57秒   引用  編集済
  こちらはマガマゴグとよばれる頭から丸いものがたくさんついている人(神?)の像です。日本の横穴墓の壁画にもどうような人物が描かれてあるのは有名です。腹に鏡のような丸いものを皆つけていますね。
 

石賽山の青銅の人像  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月18日(水)20時21分57秒   引用  編集済
  こちら石賽山の青銅の人像ですが、服装や人種に注目すべきでしょう。どこの文化なのか?手を広げる挨拶はローマのキリスト者の手を広げた挨拶ポーズににていますね。
 

こちら神殿  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月18日(水)20時17分59秒   引用  編集済
  こちら石賽山遺跡の貯貝器の神殿です。神社のつくりとの比較が重要。
 

下記銅鐸  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月18日(水)20時16分37秒   引用
  下記銅鐸のような青銅器です。
 

牛と海  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月18日(水)19時27分7秒   引用  編集済
  TOMBOさん、キシさん、みなさんこんばんは。

TOMBOさんご指摘の銅鼓の紋様が24時間??などに分割できるという視点がおもしろいですね。ただ25だったり、微妙なずれがあるようなので、その辺をどう解決していくか、もうすこし練っていく必要があるでしょう。25とか歳差の関連は、そうですね、閏月とか、太陰暦とか・・・。銅鼓の意味がわかってきそうですね。

キシさんの海東については、山東からみての東で朝鮮半島の説が有力ですが、渤海というのはおもしろいですね。当時も楽浪からみれば渤海でしょう。楽浪の銅鏡はどうでしたか。

こちらは、石賽山遺跡出土品に、銅鐸のようなものを複数みつけました。後で画像お知らせします。あと、牛が4頭外向きに銅鼓から突き出ている形もののがあり、これは、旧約聖書ソロモン神殿条文にもある12の牛が外向きに円形に並んで、その上の青銅の「海」を背負うような構図と、似たようなものを感じます。いわゆる遊牧民族系もしくは、インド・ペルシア系のそれと関係してくるのかと感じますが、文化的な流れの解析が期待されますね。
 

「海東」とは渤海のことであった。  投稿者:茨の紀氏  投稿日:2007年 4月17日(火)19時35分1秒   引用
  渤海は大同江以北から黒龍江に至るまで版図を広げ、一時は「海東盛国」と称されるほどに栄えた
「海東」とは一般に中国から見て東の朝鮮半島を指すが、9世紀には渤海のことであった。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.nihonkaigaku.org%2F04f%2Fi041001%2Ft8.html
 

歳差  投稿者:tombo  投稿日:2007年 4月17日(火)11時06分22秒   引用  編集済
  天動説歳差の12星座による東の移動委細と仏教歳差の基本図を15日に画像掲示板に貼り付けた。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fadam.olug.gr.jp%2F%7Enesu%2Fimg-box%2F%2Fimg20070415122155.jpg

仏教は縦軸に時間を横軸に空間を据えて基本としている。
それ故に、仏教歳差は『1日24時間と言う時間が基本となって歳差が展開された』を結論とした。

苗族の『銅鼓』は、仏教歳差を4段階に分けて歳差の委細を克明に記している。
(下の画像参照)
第一段階では
縦に時間軸をとり一日を24時間と置き、横軸空間の接合点であることを表している。24時間の延長線上に26,000年があります。この26,000年を24時間に圧縮して説明しています。
(24時間は24星座・12星座の歳差を引き受けている可能性は捨てきれない。)
『横軸空間の接合点』は歳差運動により26,000年を経て初めて原初の位置に戻る事を意味する。それは『1―◎―24』で『◎=0』として1と24が『◎=0』で重なるということ。


『苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していた。』
日本民族起源の新説より
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fshinjuku.cool.ne.jp%2Fjiangnanke%2Flunwen%2Fjp_lunwen06.htm
伏羲は黄河で『先天八卦』を手に入れている。
『先天八卦』は太極を核として8本の枝が広がっている状態と同義であるから、それは苗族の『銅鼓』の中心部の八芒星と全く同じものですね。

第二段階では
先ず、全体を24で把握してある。
青字の@からGの数字の人は右手で錘の付いた羽を持っている。
赤字の@からMの数字の人は左手で羽を持っている。
その交点には人が描かれている。この人は交点であるから2である。
8+14+2=24
で、第一段階の24を引きずっていることが理解できる。
その上で、
右手で羽を持った人8人と交点の人=2で10と言う数字が露出する。
(委細は第3段階にある)
右手の羽は左手で羽を持った者に委譲された。
左手で羽を持った者は14人交点の人=2で16。
16は8の繰り返し、そして交点の人を核として第四段階の八芒星となっている。

第三段階の、
『○―◎―○』で@の出発点とGの到着点(9)が◎で重なることを表している。


苗族の『銅鼓』は、
苗族と隼人#12006年3月11日 15:16:54 とみた
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.asahi-net.or.jp%2F%7Erg1h-smed%2Fkeijiban13.htm
で、とみたさんも紹介していたが、苗族の『銅鼓』の画像は初めてみました。

苗族の『銅鼓』に歳差が刻まれていたのには驚きました。
と同時に
tomboの仏教歳差基本形にブレがないことも改めて確信した。

管理人さんに深謝。
 

羽人と連続三角紋  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月17日(火)05時05分3秒   引用
  こちら下記指摘した羽人と連続三角紋の描かれた銅鼓です。
 

貯貝器3  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月17日(火)05時00分54秒   引用
  こちら神殿の前の二つの大型銅鼓の間に、先の須弥山のような石段があるのがわかります。
 

貯貝器2  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月17日(火)04時54分55秒   引用
  こちらは下記指摘した須彌山に似た石段の周りで踊る人々を描いた貯貝器です。
 

TVL紋様  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月17日(火)00時12分40秒   引用  編集済
  TOMBOさん、キシさんお疲れ様?です。ううん・・・。
三角縁の仏像紋様の起源には、当時の中国に流れ込んだ仏教の影響があるのは確かですね。

須弥山世界を中心にとした四つの島と星曼荼羅というのも興味深いですね。大日如来はすると鏡と関係するのでしょうか。

TOMBOさんご紹介、王氏の方格規矩四神鏡が卑弥呼の鏡であるというのは、また大胆な説ですね。「海東」の銘文と日本との関係をどう捉えるか、この辺も課題でしょう。

TOMBOさんのTVLの解釈はちょっと難しい感じですが、TVLの紋様がなぜできたのかは、逆にTVLがなかったらその鏡の紋様はどう変化したかを推測してみるとおもしろいですよ。とりあえず、彼らにとって、TVLはどれもなくてはならなかったのでしょう。

たとえば、TとLはともに同じ長さで向かい合っている。Vは内部の四角形の各部に向かいあっている。

なぜ内部の四角に向かい合っているのは、Vでなければならないのか?TやLではだめだったのか。

内部の四角形の中には、12個の円乳がある。なぜ12なのか。12星座なのか?

四角形の各辺の中点から伸びるT紋様には2つの一回り大きな乳がある。なぜ一回り大きいのか。

やはり連続三角紋がTVL鏡にもあること考慮すると、雲南の文化が気になりますね。

方格規矩鏡そのものは、雲南石賽山遺跡からも出土していますね。それは初期のものでしょうか。V字の部分が、別の四角形?で表されているようにもみえ、まだ三角紋が入っていないものです。小さな乳の数は・・・。簡略化したものもあるので、逆に簡略化できる部分とそうでない部分を見極めれば、どういうところに重要性をもった思想かが理解できますね。

雲南の銅鼓や貯貝器には、三角連続紋のほか、動物紋様や、L字??の羽をつけた羽人、18個の小さい円形銅鼓を並べた四角い高床式神殿、その神殿の前方に2つの4メートル四方の大型の円形銅鼓。

旧約聖書のソロモン神殿の神殿内部の12の小型洗盤と、神殿前の2つの大型洗盤(4メートルの銅製の海)に似ていることは先に指摘したとおりですが、インド、中東系の思想と、雲南の思想の背景と、方格規矩四神鏡の関係、何かやはり関係しないでしょうか。

貯貝器の中には、祭祀の様子として、須弥山のような丸い数段の石を重ねたものを、中心において、何か祭祀をしているものもありますね。

また貯貝器には、銅鼓としての太鼓のようなものとは別に、銅鐸のように舌が内部についているものがあるようです。銅鐸の船紋様と、雲南の船紋様が類似することは有名ですね。

確かにインド・中東・中国華南への思想の流れを理解することは、おそらくこれらの鏡分析には欠かせない要素になりそうな予感がしますね。もうすこし追ってみましょう。
 

方格規矩四神鏡  投稿者:tombo  投稿日:2007年 4月16日(月)12時27分29秒   引用
  http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww-ku.magma.ne.jp%2F%7Eark%2Fg010-houkakukikusisin.htm
(ほうかくきくししんきょう)1〜2世紀 後漢前期
Mirror with TLV pattern and four sacred animales design
「邪馬台国卑弥呼が持っていたのは間違いなく方格規矩四神鏡、
しかも尚方(当時の官営工場)の作である。」と、
中国の歴史学の大家王仲殊氏が発表しています。
この鏡、『尚方作鏡真大好・・・・・・・』とはっきりと銘が入っています。
展示番号010

鹿島昇はC・J・ball著「Chinese and Sumerian」を読んでたようだ。
今回はC・J・ball著「Chinese and Sumerian」。1913年刊の英文で、邦訳はないようだ。濱田耕作先生は「東洋学報」(4-2)で同書に触れてらっしゃるが、文末で慎重に考えるべき旨述べ、C・J・ballは牛津(オックスフォード)大学の講師で、中国古代とシュメールの言語・文字等諸項目の比較結果をまとめたのが同書だという。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fosouji60%2Farchives%2F2007-02.html

方格規矩四神鏡
のLTVをシュメール語とインドBrahmi文字でその意味を解釈すると、
T+M(小乳はM子音)、L+Mでnamumと解釈できる。
Namum-maは老女の地位。・・・・卑弥呼。
Maは凹面鏡。

V+M(大乳はM子音)V+MでGAMGAM
GAMGAMは芳香族。・・・卑弥呼一族・夷系。
Vの文字が4個ありますから、gamgam-kuで魚、gamgam-musenで鳥。
魚系と鳥系の共立王朝の頂点に卑弥呼が座している。
勿論、鈕の周りの12個の小乳は歳差を刻みこんである。

下記画像参照。

http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fadam.olug.gr.jp%2F%7Enesu%2Fimg-box%2F%2Fimg20070416113217.jpg
 

追伸  投稿者:茨の紀氏  投稿日:2007年 4月14日(土)13時20分31秒   引用
  阿弥陀如来とはエジプトのアミー、アーメン、観世音菩薩はギリシャのアポロン、ギリシャでは覚醒したものをシュバラーというそうです。アポロキテーシュバラー(観世音菩薩)、エジプトもギリシャもメソポタミアもインドから見れば西方です。まさに不可  

仏教と天文の関係  投稿者:茨の紀氏  投稿日:2007年 4月14日(土)11時32分57秒   引用
  みなさん、今日は 参考HPになれば幸いです。
星曼荼羅(宿曜道)
天の北極が宗派や法脈により妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、尊星王(そんじょうおう)、熾盛光仏(しじょうこうぶつ)など、さまざまな名前で呼ばれるのも、天の北極に対する解釈の違いを表しているように思われます。 星曼荼羅の成立も歳差を考慮する必要があるでしょう。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.sakai.zaq.ne.jp%2Fpiicats%2Fsetsubunn.htm

仏教と星-星曼荼羅
須弥山を囲む海には四方に四つの島があり、南側の島がわれわれの住む贍部洲(せんぶしゅう)と呼ばれる世界です。 ... 天の北極が宗派や法脈により妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、尊星王(そんじょうおう)、熾盛光仏(しじょうこうぶつ)など、 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fhomepage3.nifty.com%2Fsilver-moon%2Fmeguri%2FAug.htm

両界曼荼羅
是れ皆大日如來より流出して四方 ... 大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、 ... 仏教の勉強室. 曼荼羅. 両界曼荼羅 羯磨曼荼羅 倶舎論 須弥山 五智・五仏 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.sakai.zaq.ne.jp%2Fpiicats%2Fmandara2.htm

また、日本のかなり多くの遺跡から三世紀頃の「三角縁神獣鏡」が発掘され、耶馬台国の卑弥呼が魏から頂戴した銅鏡と推定されてきたが、 ... 日本の縄文文化の基層になり、日本の古事記にも、「舟の文化」の特徴をもった道教の影響がみられるようになった。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww2.ocn.ne.jp%2F%7Ebunmei54%2Fkuroshio.htm
 

組み合わせ論か  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月14日(土)07時05分56秒   引用  編集済
  TOMBOさんこんにちは。
三角縁神獣鏡の乳と環列のほうは、単に製造の際に鏡の種別を増やすために、組み合わせ論で、獣や神像などを配置したという意見があるようですが、TOMBOさんのご意見では、その乳なり、配列にもひとつひとつ意味があったとお考えのようですね。歳差関連で考えていくとすると、天文図との関連になりますでしょうか。
問題は、どうそれを証明するかですね。どうも道教と天文の関係はすぐ話題にあがるものの、仏教と天文の関係は聞いたことがないのですが、仏獣鏡の仏像と天文は何か関係するのでしょうか。
 

三角縁の仏  投稿者:tombo  投稿日:2007年 4月13日(金)11時55分55秒   引用
  三角縁神獣鏡の復元
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.mahoron.fks.ed.jp%2Fkiyou%2Fpdf%2F2002_1.pdf

会津大塚山鏡は10個の小さな乳が2環列あります。
外の10個の乳環列は十界(地獄・餓鬼・畜生・・・・菩薩・仏)で、内の10個の乳環列は十如是(如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等文)を刻み込んだものだとおもいます。だから仏がいる。十如是は歳差の応用です。
4個の中乳は12星座の省略形で西から伝播した歳差の確認形態です。

会津大塚山鏡は『西の歳差』と『仏教の歳差』が融合した証にみえます。

宇佐市大字高森 赤塚古墳出土の三角縁神獣鏡
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.e-obs.com%2Frekisi%2Fkodai%2Fkokogaku%2Fimages%2Fsankakukyo-1l.jpg
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.e-obs.com%2Frekisi%2Fkodai%2Fkokogaku%2Fimages%2Fsankakukyo-6l.jpg

小さな6個の乳が2環列あります。やはり西から伝播の歳差を表しています。
仏が居ますから西から伝播の歳差と仏教の融合を意味するでしょう。

仏教は徐福が持ち込んだと思っています。
徐福はインドを3度訪れており、その滞在年数は18年間に及ぶそうです。

紀元前200年に既に列島には仏教が渡来していた。
 

鏡の用法、精銅技術・DNA流入  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月11日(水)06時01分41秒   引用  編集済
  キシさんPIKKIさんこんにちは。

そうですか、キシさんのおっしゃるように三角縁神獣鏡の大型化は、遠方まで光が届き目立つようにとの結論になりますでしょうか。すると凸面鏡である意味も、遠方へ光を拡散させるためでしょうか。
今までの定説では、銅鐸の事例のように、大型化する原因は、権力の増大に関係して論じられてきました。銅はとみたさんご指摘のように、朝鮮や中国からの流入とすると、それを買い取るだけの富と権力が必要になりますね。この論理の延長線上に、古墳の大型化もありますね。ただ、箸墓は前方後円墳のはじめなのに、最初から大きかった。

はたしてその権力と富の論理は本当に信用できるのか。課題ですね。案外測量目的も面白い線で考慮すべきかなと感じます。

さて、PIKKIさんご指摘の氷河期から縄文日本での他民族の交流の問題、銅生産の可能性ですが、やはりDNAの移動解析が、キーを握ると思います。
下記HPには、PIKKIさんのご興味ある琉球とアイヌ、中国人の遺伝的距離の最新論説が出ています。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.dai3gen.net%2Fmt06.htm

このHPによるとようやく琉球人とアイヌ人との間の遺伝子につながりを示す塩基配列がでてきているとのこと。本州縄文人は3種に分類され、琉球、アイヌ系、両者混合の3種であること。琉球人の遺伝子が中国、本土から独立してみえるのは、母系しか遺伝しないミトコンドリア系の塩基解析では、男性が主にわたってきた琉球には、うまく通用しないこと。そのひとつの塩基配列が変わる1周期として1万2000年が確率として計算され0ており、最低琉球人とアイヌ人の間にはその期間以上の隔離期間があるといわれるものの、あくまでパーセンテージ論で、必ずしも1万2000年とは断定できないこと。
など、興味深い論説が述べられていますので、ぜひご参照ください。

東南アジア、華南からの精銅文化の流入を考えていく上で、やはりこの遺伝子の塩基の流入経路を、伏線において、論じてみたいものでありますね。

またその1万2000年というのは、PIKKIさんご指摘のアトランティスとかムーとかいう文明の滅んだ時代といわれますが、また地球の回転軸がまわる周期の12分の1で、古代文明では12宮と関連して重要な指標なのはあまりに有名ですね。

とすると縄文人と琉球人は、そのアトランティス?文明以前に分岐したのかもしれないわけですね。その1万2000年以前のご指摘の時代に、ある種の文明が発達していたとすると、PIKKIさんご指摘のように、縄文人と琉球人の間にある種の共通の技術なり文化があった証拠がでてくれば、逆に古代の高度文明の可能性も追求できるのではないでしょうか。
 

時間が無く日記のコピーで申し訳ありません!  投稿者:気まぐれPIKKI  投稿日:2007年 4月11日(水)02時34分52秒   引用
  生き抜くための知恵ー「魔鏡」 (2)砂糖・塩・調味料の代わりにレモン・酢が多かった病院食を見習って、レモンを多用してる。

愛知県産のひいかの煮物にレモンを垂らしたら・・なんともいえない深い味わいだ。

フライパン一つがあれば、燻製でもピザでも簡単に作れる。
納豆・キムチチャーハンと粕汁(味噌汁に酒粕をいれるだけでも美味い!)ときた日には・・
超安価な完全栄養食だ。

日本は、一万数千年前の氷河期・縄文時代以来ー四方の交易路のターミナル的な世界一豊かな列島だったと思う。

大陸北方からは、現在の日本文化の基礎になったヨーロッパ先住民のケルトや新大陸先住民やシベリア先住民とも共通項の多いアイヌ民族に代表される縄文文明・文化直系の古モンゴロイドの文明・文化。
そして、その後日本文化の母体となった高句麗・渤海等の騎馬民族の文明・文化。
それらと、東南アジアとも共通項の多い大陸からの呉・越の文明・文化が出会ったのが日本海の中心だった出雲ーその鉄器文明だったのかもしれない。

それ以前に、華南から東南アジア、そして太平洋へと押し出されたポリネシアの文明・文化はそれ以前の日本列島や太平洋全域や南アメリカとも共通するものに違いない。
それ以前の氷河期の一大文明圏ー「ムー大陸」とも呼ぶべき「スンダ大陸」とも。

世界最古の青銅器は東南アジアとシベリアだったのでは?
その中間の日本列島でも、世界最古の土器ばかりではなくて・・青銅器文明も古いのでは?

「魔鏡」という小説が谷崎潤一郎だかにあったが・・水銀で磨いた銅鏡は、今日の鏡とほとんどかわらない輝きだという。
銅も水銀も豊富だった日本列島だったが・・
銅の鉱脈は、夜になると光輝くのだとか・・

http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fmembers.goo.ne.jp%2Fhome%2Fpikkibikki

 

位置を目視し易くする為と思います。  投稿者:茨の紀氏  投稿日:2007年 4月10日(火)19時08分30秒   引用
  RE「巨大化の過程は、キシさん的には測量面でなにか原因をお考えですか? 」
スミマセン (T▽T)
単純な回答以外、思い浮びませんでした。
位置を目視し易くする為と思います。
小型の銅鏡などは、平地での土木・建築などに使われたのではと思います。

大型は、山間地や海上などで使う為ではないかと思われます。

(ナイル氾濫季節の人々の生活保障のためのピラミッド建設、公共事業) ... 青銅器生産技術が定着し自家製の鏡生産も開始(実用品としての小銅鐸の生産も) ... 鏡は呉系渡来者が重視し、秦系渡来者は「穀璧」を重視した可能性もあります。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.max.hi-ho.ne.jp%2Fstan%2Fl_bbs%2Fbbsold09.htm

1.鏡でチェックしながら磨く.
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww1.kamakuranet.ne.jp%2Fkenhai%2Feuuiem.html

鏡を利用して外光を導 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww007.upp.so-net.ne.jp%2Fkemekun%2Fzakking%2Fposkemet%2Ftrip_diary%2Ftrip_egypt.htm
 

凸面jは3ミリ  投稿者:管理人  投稿日:2007年 4月 8日(日)16時42分1秒   引用
  先ほどの三角縁神獣鏡の凸面は3ミリ程度だそうです。下記福島県の文化財センターの紀要のHPに出ています。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.mahoron.fks.ed.jp%2Fkiyou%2Fpdf%2F2002_1.pdf

このHPでは三角縁神獣鏡の製造実験を検証しているのですが、それによると、凸面は、踏み返しを行うごとに、凸面の率が減少するとのこと。同はん鏡でも確認できるそうです。また背面はおそらく凹面ですね。縁は45度より低く、30度前後ではないでしょうか。
このHPによると、鏡の鋳型が、陶器製の場合と鉄製の場合があり、陶器製の場合は、踏み返しの際にヒビができること、踏み返すごとにヒビが成長するとの意見があるがそうではないこと。踏み返すごとに、型の大きさが変化することもあるそうです。それらの具合で、技術系統などがわかってくるそうです。この辺を見ると、日本製の鏡かそれとも中国製かどうかは、実験成果で確認できそうな感じがしますね。そのほか、研究史から、実験細部データまで極めて貴重なHPなので、ぜひごらんになっておいてください。

凹面鏡多鈕細紋鏡と銅鐸の関係は、別HPで前3〜前1世紀に、鏡と鈴を埋葬する習慣が朝鮮から日本に伝わったとのこと。この弥生時代に銅鐸は巨大化し、その後鏡に移り変わりそれも巨大化する。銅原料は、それぞれ朝鮮・中国から??巨大化の過程は、キシさん的には測量面でなにか原因をお考えですか?