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ギリシア、月氏、新羅 投稿者:管理人 投稿日: 9月20日(水)15時51分6秒   引用
新羅の元の秦韓にいた辰王のもとでのローマ的なガラス遺物、樹木冠、ケルト剣、合議制を考える上で、やはり新羅への秦人の流入の伝承と、月支国を辰王がおさめていたという2点を考慮すべきと感じます。
右記HP http://www.geocities.jp/tokikazu8/syoki16.html
のように、月氏(月支国)は、漢の時代に匈奴に攻撃され、西方へ逃れたものは、TOMBOさんご指摘のギリシア文化と融合して、クシャーナ朝の元となった大月氏となり、とどまったものは小月氏となり、雲南へ逃れたものはテン王国の銅文化をきづいていったようです。
この月支国が、新羅にも見えること、これが下記HPのように月氏の東進移動説となってゆくのですが、新羅の秦人の流入、東ローマ文化の流入、そして月支国の同一性という3要素は、偶然的にたまたま3つ同様な東ローマ方面からの民族の流入という要素が現れたわけではなく、確率論的にはそれはありえないので、やはり必然的にそれらの要素が出てくる基盤があったものと考えるべきと感じています。

関連して、下記HPにあるように秦氏の月読伝承、弓月君伝承、新羅の首都慶州での月城の名称、秦氏の秦始皇帝移民伝承、秦氏と新羅系、銅文化伝承・・という要素、についても、偶然的にそのような新羅のそれと同様な用語が飛び交っているわけではなく、確率論でもあり得ないということを証明した上で、必然的な土台があったことを想定できるのではと感じています。

月氏は西進のうちに後々ギリシア文化とも融合していきますが、もともとコーカソイドで、ギリシア、ローマ文化とは交流の要地にいたことを考慮しても、かならず触れていただろうと感じますね。雲南はテン王国に入った銅文化と新羅や秦氏のそれとを比較してみるのもどうでしょう。どうような工法がでてきたりすると逆算して月支国の技術がわかるかもしれません。三角縁神獣鏡の三角紋・・・などもひとつの要素でしょう。

また高句麗が、新羅とは違ってローマ文化を受け入れず、中国文化によっていた理由、なぜかですが、紀氏さんの投稿も気になるところですが、新羅ローマ間の交易は、ひとつには、急な民族移動で新羅へ直接文化が大量に流入した可能性、しかし、北魏などからもガラス遺物がでているように、ローマとの交易もその後も続いており、帯方郡、高句麗のステップルートの経路とは別に、弓月国があったステップルートから、ウラジオストク方面へ一度向かい、高句麗東海岸を海路や速度の速い騎馬など?で高句麗の影響を受けずに、新羅へローマ遺物を持ち込んだ可能性なども考慮していくべきかと感じます。

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2系統の樹木冠! 投稿者:tombo 投稿日: 9月20日(水)11時42分53秒   引用  編集済
エキドナは、ギリシア神話に登場する魔神で上半身は美女で下半身は蛇だという。


ギリシャ神話でZeusの息子にTargitausがいますが、伝説上のスキタイの祖はTargitaiで下の画像の馬具飾りのように、「降臨するとスキタイ人に信じられていた半蛇半女神」です。
原初のスキタイには、エナレスと呼ばれるシャーマンがいた。
スキタイのエナレスは女装した占い師として柳の枝をつかった特別の卜占術をしていたという。
紀元前4世紀頃には、すでにギリシャがスキタイの地に植民地をおいていたという。

このギリシャの影響(混血?)を受けてスキタイは巨大化したのでしょう。

樹木冠は、蛇を土台とし女神を表にしたギリシャ系と鳥を土台とし表に「山」を置いた2系統があったであろう。

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高句麗と新羅、騎馬民族 投稿者:管理人 投稿日: 9月20日(水)02時42分53秒   引用
姫さん、みなさん高句麗の壁画等についてお教えありがとうございます。また、皇子の古墳の十二支の絵も興味深いですね。おおたさんご紹介の六角墳、八角墳同様、皇子や皇族の墓の形とされていましたね。関東の多胡郡にも八角墳があるのですが、藤原、元明の伝承と関係しているのではとされています。でも7世紀中ごろで、積石式というのは、ちょっとそれとは違うようですね。やはり渡来系との線も積石を考慮するとありえなくもないですね。工法が地元式で、思想だけ別系統とか、その辺は過去例でどうなっているんでしょうね。

さて高句麗、由水氏の新羅ーローマ文化王国をさらに読んでいますが、新羅に多くみられる樹木冠は、カヤにはみられ、百済ではほとんどなく、高句麗では見つからないそうです。新羅が多くの南ロシア、ローマ方面の遺物を出土しているのに対し、高句麗はまったくローマ文化を受け入れた気配がないそうでなぞがあるようです。新羅と高句麗の関係では、高句麗、百済が新羅に比べてはるかに大国であったため、常に新羅は皇族や上級官人などを人質として高句麗に出していたそうで、新羅王陵の墓主と目される人質に出された実聖王も、高句麗に人質とされていたそうです。倭人が399年に新羅の首都を取り囲んだときに、高句麗が追い払ったらしく、そのときから高句麗人は新羅の首都に常駐していたそうで、その辺の関係からも、新羅王陵から、高句麗系の冠帽を模した銀冠を出土している意味を由水氏が考察しています。
この樹木冠の変形版は、松本の渡来人まつりでも展示されていたように桜ヶ丘古墳から出土しているそうですが、金銅冠だったと思います。新羅では、王族や上級は金や銀、それ以下の官人は金銅冠だったそうです。松本のそれは臣下のそれでしょう。
由水氏によると、新羅は弱小であるがゆえ、奇策やゲリラ戦法をよく用いて、さらにローマのそれと類似する特殊な武器やローマ的な騎馬戦法をもって対抗していたそうです。
また秦韓の辰王国の合議制や十二国の制度なども、ローマ的だそうですが、新羅系の積石塚というのは、前に書き込みくださっていたと思いますがはてさてどうでしたか。由水氏によると積石木かく墓は、TOMBOさん、とみたさん注目のご指摘のフン族の匈奴やスキタイ系と関係するそうです。

そこで、ステップルートを見ると、高句麗を経由することは間違いないのですが、西海岸のピョンヤン経由と、東海岸経由があり、もしピョンヤン経由ならば、高句麗がなぜローマ文化を受け入れず、四神などの古墳壁画などの中国的な文化を残したかが気になるところです。ただ、ご指摘あった初期は人物像だったというのは、また中国文化の流入との視点で面白いと感じます。由水氏によると東トルキスタンのキジール石窟や、くむとぅら石窟の壁画の人物列像画に見える人が佩いている剣は、ケルト黄金剣の形の系統であり、南ロシアのカザフのボロウオエ剣と、新羅のそれは酷似しており・・・同系統の作者が複数いて、ユーラシア東西を結んで流行った儀礼権だったとのことです。なにかヒントがあるような気もしますがどうでしょう。

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六角形の積石塚 投稿者:おおた 投稿日: 9月19日(火)21時19分15秒   引用
今日の信濃毎日新聞にこんあ記事が出ていました。
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 千曲市倉科の杉山古墳群で積石塚古墳の一つが珍しい六角形だったと確認された。発掘に携わった東京学芸大学の木下正史教授によると、六角形の古墳は奈良県明日香村に盛り土式のマルコ山古墳が確認されているだけで積石塚としては全国で初めてという。
 確認された六角形の積石塚古墳は南北に最大約10M、東西に約9.5M、山の南側斜面
に石を約1.5M積み上げてある。南側の石垣は崩れている。一緒に出土した土器などから、7世紀の中ごろの築造と見られる。
 杉山古墳群には20基ほどの古墳があり、同教授らが2004年から調査。昨年までに六角形墳の一部を発掘した。今年さらに発掘を進め、石室の位置や石積み場所の角度から六角形と断定した。積石塚古墳は朝鮮半島に多い。県内でも長野市松代町の大室古墳群など各地で見つかっており、渡来人の墓とも言われている。一方、畿内にある八角形や六角形の古墳は天皇や皇太子など高い身分の人の墓とされる。木下教授は「大和政権と関係の深い渡来系有力豪族が畿内の墓をまねて造るなどしたのではないかと推測している。
 大塚初重・明大名誉教授は「畿内だけと思われていた八角形や上円下方墳のような特殊な墳墓が最近、関東でも見つかっている。これを機に、六角形古墳も東日本で見つかりだすのではないか」と話している。
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千曲倉科は先の信州オフ会で訪れた森将軍塚古墳の近くです。

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古墳壁画 投稿者:おおた 投稿日: 9月19日(火)11時02分30秒   引用
姫様やtomboさんから貴重な画像を見せていただき、ありがとうございました。信州の古墳には今までに画像壁画が無いので、参考になります。
高句麗は私達が想像している以上に高度な文化国家だったようですね。
何しろ、面積が広かったですし、東北アジアのいろいろな民族が混じった
国家だったので、こういう場所には文化が発達します。
信州にもかなり早い時期から、日本海を経由した直接渡来があったのでは
ないかと思います。

とみたさんも持っているようですが、いま、大和岩雄の「信濃古代史考」を読んでいます。古本屋で買ったのですが、たいへん良い本です。
認識を新たにした面が多いので、また紹介いたします。

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今日の画像! 投稿者:tombo 投稿日: 9月19日(火)10時00分33秒   引用  編集済
『安岳3号墳の築造時にはまだ人物風俗画が壁画の主流でしたので、四神の写真は無かったように思います。』・・・・

江西大墓の玄武は7世紀頃のようですね。tomboの早とちりでした。^^;

今日の画像は、スキタイの鞍カバーとアルタイの刺青です。

スキタイの鞍カバーは、
グリフィンと 野生のヤギがデザインされた鞍カバー。
『鷲と虎と野生の羊』が騎馬系の象徴か?

アルタイの刺青・・・
手首からの肩への右腕は、6匹動物。膝蓋骨からの足首への右の足は魚。
背中には虎がいます。2頭の雄鹿と野生の羊が、左腕にいます。

『6匹の動物の6は「アッカド系」。魚は海人。虎と雄鹿と野生の羊。』
から、混血の種族が読み取れますね。魚が刺青されているということから南方海人の血も入っている、だから刺青があるのでしょう。

どちらも、紀元前5世紀の時間軸。

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ブログ再開しました 投稿者:管理人 投稿日: 9月19日(火)04時04分51秒   引用
ひさしぶりに、ブログに書きたいことができたので、書いてみました。遠方への情報と物の伝達について考えてみました。
http://sun.ap.teacup.com/toraijin/

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キトラと高松塚の四神 投稿者:姫 投稿日: 9月18日(月)21時49分21秒   引用
こんばんは。
tomboさん、玄武の図像をご紹介くださってありがとうございました。 講演でのスライドは、徳島大学の東湖氏が撮られたもので、あんまり鮮明ではありませんでした。  従ってそれを写した私の写真もはっきりしていません。  鮮明な写真をありがとうございました。 それから、安岳3号墳の築造時にはまだ人物風俗画が壁画の主流でしたので、四神の写真は無かったように思います。

今日のグリフィンの映像は面白いですね。   万能の力を持った魔法使いのように見えます。


昨日、有史会という考古好きの会のウオーキングがありまして、奈富山墓(なほやま・聖武天皇と光明皇后の唯一の皇子の墓)へ行きました。  ここに、隼人石があって、十二支図が刻まれていると言うことでしたので、楽しみに行ったのですが、全然見えませんでした。  雨ざらしで線刻が非常に薄くなったのだと思います。 拓本を撮った写真が資料に載っていましたので、添付します。


ところで、件名に関して面白い一致が見られましたので、ご紹介します。
二つの古墳の四神について、日本画家の烏頭尾精氏の談話を読みました。 烏頭尾氏は最初、鳥の写生ばかり十年間もやっておられたそうです。  後に飛鳥の風景に魅せられて風景画に作風が変わったそうですが、キトラの壁画が発見されて直ぐ、キトラ古墳発掘現場へ行ったのだそうです。
朱雀はまだ半分土の中でしたが、あまりの素晴らしさに「これは只ならぬ絵だ」と思ったのだそうです。  紛本があったにしても、描いた工人はそれを単に写し取るのではなく、写生を元に独自の絵画を描いたのだろうということです。  キトラの四神は実に写実的で、大胆な繊細さ、太細の線のきっぱりした描き分け、生き生きした躍動的な動きは写生から生まれたものと、確信したとのことでした。
ところが高松塚になると、この躍動感が見られないのだそうです。 烏頭尾氏の画家としての分析では、キトラの画を、高松塚の工人が写したのではないかと言うことです。
高句麗の壁画古墳の図像学という講義で、二つの古墳壁画を分析した結果は、星宿図はまった違うのに、四神は同じ紛本であると言うことでした。  これは烏頭尾氏の仰るように、高松塚がキトラの画を写したので、紛本が期せずして同じになったということではないかと思われます。
また、キトラの画は、わざわざ渡来した画工が描いたものではなく、飛鳥か、藤原京の工房の手によるものという、分析結果も出ていることから、烏頭尾氏の写実的で、独自の画風だとの言葉とも一致します。

画家の眼から見た四神の分析と、図像の研究解析の結果が一致したわけで、専門家として書をご覧になるおおたさんのことも思い合わせ、一つの道を究めた方は凄いなぁと感嘆いたしました。

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Griffin(グリフィン) 投稿者:tombo 投稿日: 9月18日(月)18時50分42秒   引用  編集済
鷲とライオンと耳と羽根。

Kostenky遺跡からは、23,000年〜21,000年前の石灰岩の女性小像が出土している。

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Re: パジリク古墳群 投稿者:とみた 投稿日: 9月18日(月)10時35分43秒   引用
> 下記紀氏さんご紹介のパジリク古墳群
> というのはおもしろいですね。シベリアアルタイ方面の積石塚なんですね。墓質に木材を使用しているのが興味深いですね。
> ただ、紀元前2世紀となると、やや新羅やスキタイの積石木かく墓と年代が相違するのでその辺が課題ですね。


日本人のルーツは諸説あり、南方系の探求と同時に北方系の探求も不可欠ですね。

中国東北の扶余由来があり、江上波夫さんの北方騎馬民族征服説も征服まで行かなくても高句麗に南下など日本への影響は大きいものと考えられます。

草原ルートは確かに一考を要しましょう。ローランの小河墓の遺跡でコーカソイドの女性のミイラが気になります。
5000年前に黒海近辺のインド・ヨーロッパ(アーリア)語族が南シベリヤに移動し、4000年前に南下して西域のローランにたどり着いた。

この民は、トカラ語を話す。

南シベリヤは正にアルタイ山中です。

アルタイから、モンゴルへ5000m級の山脈が連なっています。
パジリク古墳群、確かに注目ポイントです。

歴史の父、ヘロドトスヶ紀元前5世紀に書いた〔歴史〕の中で・・・

スキタイ王の極めて特殊な埋葬風習を述べています。

遺体は全身に蝋を塗り腹腔を裂いて臓腑を出した後香り草をつぶしたものをつめて再び縫い合わせる(腐食しやすい臓物を捨ててミイラ化した)・・・

これは遺跡発掘により事実であることが確かめられました。

パジリカ古墳の王の遺体の右足の脛に、鯰とグリフィンの嘴の刺青が権威と護符の験として彫られている。

スキタイ人のシンボルはグリフィン(頭は鷲で体がライオンという想像上の怪獣)。

スキタイ人は紀元前7世紀〜紀元前4世紀ごろまで活躍した民族。これがアフガニスタンに南下して大夏国(パクトリア)でギリシャ人を追い出した。その後月氏が匈奴に追われて精西へ移動しサカ人を追い出しパクトリアへ、追い出されたサカ人はイランのペルシャのパルティアへ逃れる。これが大国化してペルシャ アルサケス朝(中国では発音の似ている安息国という)となりローマと戦う。
しかし一説では、サカ人と月氏は同族という。いずれもイラン系の遊牧民族でしょう。


スキタイ人は騎馬戦術に長け、アッシリア人や匈奴に戦法を教えて、両国は強くなり、秦や漢を脅かせた。

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前秦 投稿者:管理人 投稿日: 9月18日(月)01時19分20秒   引用
秦の用語について、ご意見いろいろですね。
紀元前2世紀から紀元4世紀の秦韓についてでは、6世紀の梁書によると秦人の流入、養蚕と稲作の説明があるようで興味深いところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
秦というと、下記ご説明いただた中の前秦ですが、苻健(317−355)の次の大秦天王を名乗った苻堅の墓は彬県大仏寺にあるそうです。http://www.iijnet.or.jp/xipec/sight/meisho/haka02.htm
いまいちまとまりませんが、参考まで。

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パジリク古墳群 投稿者:管理人 投稿日: 9月18日(月)01時05分35秒   引用
下記紀氏さんご紹介のパジリク古墳群
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%82%AF%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

というのはおもしろいですね。シベリアアルタイ方面の積石塚なんですね。墓質に木材を使用しているのが興味深いですね。
ただ、紀元前2世紀となると、やや新羅やスキタイの積石木かく墓と年代が相違するのでその辺が課題ですね。

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禺豆麻佐 投稿者:tombo 投稿日: 9月17日(日)14時16分49秒   引用  編集済
1. 「日本書紀」によると、雄略天皇15年(471年)、秦酒公(はたのさけきみ)が百八十種の勝(すぐり)(部)を率いて絹嫌(きぬかとり)を献上し、朝廷に一杯に積み上げた。それで「禺豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜わったといい、また「禺豆母利麻佐(うずもりまさ)」といへるは、皆盈(み)て積める貌(かたち)なり、と書いてある。

最近では雄略紀の秦氏=機織技術氏族説はほかに根拠がないということでこれを真っ向から否定している者もいる。

2.「日本書紀」皇極天皇三年七月条に富士川のほとりの「大生部の多」というものが、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と壽とを致す」と、虫を常世神として祭ったという記事があり、、常世の虫祭りで世間をあざむいた大生部の多という人を打ちこらしめた秦河勝は、
  太秦は神とも神と聞え来る、常世の神を打ち懲(きた)ますも
と、人民から讃仰されている。

秦は ha-ta で ha は魚で倭人、ta は多で鮮卑の穢人。
つまり、秦(はた)は倭人と穢人の混血。

「多という者」が「虫は常世の神なり」とした虫とは、eh =昆虫 を捻じ曲げた「穢人=eh」のことでしょう。

「禺豆麻佐(うずまさ)」の禺豆(うず)がuzuなら、
易者・占い師・水脈の予測者・鉱脈の予測者ということで、
麻佐(まさ)は、ma-sa で篭・籠(かご)のことか。

篭・籠(かご)は、箕や笊の類でもあり、minu(シュメール語) zaru(アッカド語) は選別するという動詞でもある。

秦河勝の膨大な財は何処から捻出したか?
奈良から京都に都を移した時の、資金源は秦氏のようですが?

「禺豆麻佐(うずまさ)」とは、鉱脈の予測者と鉱石の選別者との意であると思われる。

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ついでに 投稿者:おおた 投稿日: 9月17日(日)11時45分53秒   引用
私の姓、は太秦からきたのではないかと密かに思っています。どう考えても「太秦」をうずまさと読むのは当て字です。氏族名としては「おおはた」と読む場合もあり、文字はどんどん変化して「太畑」→「太田」と変わったのではないかと思います。日本語でも朝鮮語でも文章中のh音は消えやすい傾向にあります。多氏も鉄剣銘では「意富」と書く場合もあることから元の発音は「おほ」oho だったでしょう。つまり「太秦」は本来はohohata と発音していた。やがて文中のh音はが消えていってooata →oota になり、その発音にあった文字として「田」に文字を変えられたというわけです。
 ただしとみたさんに怒られそうですが、これは全くの私見です。多氏・秦氏連合が実証されれば現実味を帯びてはきます。

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「□と×」紋は・・・・・? 投稿者:tombo 投稿日: 9月17日(日)11時42分48秒   引用  編集済
「都祁氏は多氏です。

大和を支配するのは都祁氏→倭氏→大三輪氏と変わることと関係があるのでしょうか」・・・・

列島の氏系を三大別すると、穢人系・倭人系・漢人系になるでしょう。
穢人系は陸路を侵攻した「鳥系」、倭人系は海路を侵攻した「魚系」でしょう。

「都祁氏→倭氏→大三輪氏」は、「穢人系と倭人系」の混血を意味しているでしょう。

穢人は鮮卑です、「卑=pi」 と「倭=wa」 のシュメール文字は同一文字です。

「鮮卑も倭も」、ある時間軸に置ける混血種族に対しての中華帝国の呼び名に過ぎない。
漢人とは、黄河流域の農耕民族と他族との混血族が肥大化したとみるべきでしょう。
黄河流域の血を継承しているかいないかで、混血族を区別しているのに過ぎない。

混血種族が歩んで来た道は彼等の遺品に見出す事ができる。

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さすがとみたさん 投稿者:おおた 投稿日: 9月17日(日)11時13分9秒   引用
ですね。確実に勉強を積み上げられていっています。すばらしい。
私も見習わなければ・・

@に関して私見を述べます。「太」の字は私の名前にも使われていますが、中の点は繰り返しの「々」の篆書形を省略したもので、印などでは2点で表されます。「大」の強調で、「泰」と同じ意味でもあるとされます。大西洋と太平洋では、太平洋の方が大きい意味があります。多氏が後にこの字でも姓を表すようになりますが、やはり「大」よりは「太」を使うことが多くなりました。「秦」が中国の大国、「大秦」がローマを表し、五胡十六国時代にはチベット系の符健によって建てられた「前秦」(352〜394年)、羌の姚萇によって建てられた「後秦」(384〜417年)、鮮卑乞伏部の乞伏国仁によって建てられた西秦(385- 431年)というのもあります。これら。前・後・西は後の歴史上区別するためにつけた文字で、当時は普通に「秦」と名乗っていたはずです。十六国中では前秦の書道は高句麗にも流入し、好太王碑や後の新羅書法にも大きな影響を与えています。高句麗にとっては漢民族国家よりはチベット・トルコ・モンゴルなどの系統の方が自分たちの文化に近く、交流しやすかったというのはあるでしょう。北魏の文化の影響を受けやすかたというのも同じ理由です。
 秦氏の出自に関してはこの研究会でもいろいろと研究が進んでいますが、やはりチャイナが秦の音から来たという説の通り、中国に初めて誕生した本格的な大国家で、近隣諸国に与えたイメージは強烈だったと思います。それに対する憧れから、周りの民族が新興国家や自分たちの出自をそこに求めたがったのは当然だったと思います。秦氏が本当に秦の遺民だったか、あるいは十六国の3つの秦の遺民だったか、その両方が交じっていたかも知れないし、実際に秦の文化は伝播していたのかもしれない。それがやがて朝鮮半島の新羅に根付き、やがて日本に渡来してくる。そして自分たちの氏族名に「大秦」よりも大きい意味の「太秦」をつけたというところでしょうか。
 そしてもう一つ、気になるのが多氏の存在。秦氏と多氏はイメージがけっこうダブる部分も多いのですが、二つの氏族が提携していて、多氏の別字「太」を使ったというのも一つの説ではあるように思います。

Aで、科野国造はやはり多氏の系統の金刺氏であると言われていますので、森将軍塚古墳の主が多氏と同族というのはおっしゃるとおりです。

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確実情報の積み上げ 投稿者:とみた 投稿日: 9月17日(日)10時04分28秒   引用
最近読んだ本で、2−3確実と思われる説をご紹介しておきます。飛んでも説に惑わされないために確実な情報を積み上げています。急がば回れ!歴史を紐解くには確かな情報を積み上げるのが早いと考えています。

@太秦と大秦
 太秦と書いてウズマサと呼びますね。秦氏の族長という意味(秦氏と鴨氏の著者中村修 也)
 大秦はローマですね。大秦という国名は大きい秦という意味。秦はすでに滅んだが西域の人々は中国を秦と呼び続けた。秦からチャイナの起源になっている(これは皆さんの常識です)西域人にとって秦(中国)に匹敵する大国のローマを大秦となづけた(中国の歴史:鶴間
和幸)

A森将軍塚古墳の主は、大和の都祁と関係
信州の千曲川畔の有明山の先端部の森将軍塚古墳(前方後円墳)は、科野国造が4世紀中葉に建造したことになっていますが、この人は奈良県の北方の都祁の同族と語っているそうです。都祁氏は多氏です。

大和を支配するのは都祁氏→倭氏→大三輪氏と変わることと関係があるのでしょうか

Bローマと中国との海のルート
中国の後漢時代、初めて漢の人は々はローマの存在を知った。後漢書に大秦王安敦(ダイシンオウアントン)つまりローマ帝国のアントニヌス(紀元後161から180年)が使節を中国に送ったことが書かれています。今のベトナム当時は後漢に属していた日南が外交の窓口であった。そこを介して中国とローマは接触していた。ローマ時代には海のシルクロードが存在していた。

紀元前92年にイランの大国パルティア(安息国)とローマは戦います。すると内陸のシルクロードが危ないので海のルートに切り替わります。ローマが395年ゲルマンの進行によって東西分裂し衰えると、海のシルクロードは一旦衰えます。
シルクロードは草原ルート、オアシスルート、海のルートとありますが自ずと消長があり民族の興亡が絡まります。

その辺を確かめて

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オフ会報告 投稿者:おおた 投稿日: 9月17日(日)07時59分30秒   引用
管理人さんの作って下さったオフ会報告読みました。いつも思いますが、管理人さんの資料活用能力というのはすごいですね。本の編集者などにはぴったりだと思いますが、やはり頭がよい人なのだと感心しています。私や李さんが属す「信州渡来人倶楽部」のメーリングリストにも報告がてら流しました。
なお、来年も渡来人まつりは浅間温泉で6月の1週目に開かれます。皆さん、予定しておいてぜひご参加くださいね。浅間温泉に浸かって、韓国料理、韓国芸能を楽しんでください。

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長野オフ会ページアップ 投稿者:管理人 投稿日: 9月17日(日)05時29分26秒   引用
ここ数週間多忙につき、アップが遅れていましたが、ようやく時間が取れましたので、先日の長野オフ会の探索日記ページを作成してアップいたしました。写真、ビデオも掲載しましたので、ぜひごらんになってみてください。以下のアドレスです。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/0608nagano.htm

p.s
姫さん、tomboさん高句麗の壁画についてお知らせありがとうございます。
先の由水氏の本によると、新羅王陵の中から高句麗の冠帽を模した銀冠があり、それをもとに高句麗と縁が深かった王の墓との推定をしています。実聖王というのが、高句麗に人質として出されていた時代があったそうです。その由水氏の本の中にあるステップルートには、ウラジオストク経由と、ピョンヤン経由とがあり枝分かれしているそうですが参考まで。
tomboさんが画像掲示板に五胡十六国時代の国の変遷図をご紹介くださりありがとうございます。その図によると先の新羅との関係で出てきた北燕は、高句麗と常に接していたようですね。新羅ローマ交易でも高句麗東海岸を掠めて交易していたルートが浮かんできますが、北燕が仮に新羅へ流れたとすると、やはり高句麗東海岸経由となるでしょうか。あるいは高句麗領内をそのまま通過したとか、北燕に限らず、王族の領土通過という古代観念を理解したいところです。

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玄武! 投稿者:tombo 投稿日: 9月16日(土)21時54分35秒   引用  編集済
「添付は講演の資料の表紙です。  平壌の南西、大同江沿いにある双エイ塚の、奥室の八角柱と天井を映したものです。  (エイと言う字は木偏に盈と書きます。)」

二本の八角柱は神を意味している、八角柱の梁に描かれている鳥は
高句麗の象徴の「三足烏・やたのからす」でしょうか?

安岳3号古墳・高句麗の玄武はみましたか?

玄武とは「人間のDNA(亀の甲羅)と螺旋(蛇)の染色体」のようですね。
玄武の意は「完全に恒久的」


キトラの玄武と高句麗・安岳3号古墳の玄武

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高句麗壁画 投稿者:姫 投稿日: 9月16日(土)01時23分19秒   引用
こんばんは。
高句麗の壁画について、よくご存知の方も多いでしょうから、講演の内容を極く大雑把に説明させていただきます。

スライドによる壁画の紹介があり、描かれた絵の内容から時代を考察する話と、
広開土王の碑から考えられる高句麗の南方認識や諸国との関係、国際的地位などについて講演されました。

今回は壁画に関して書かせていただきます。
高句麗に壁画のある古墳が築造されたのは、ほぼ4世紀から7世紀にかけてのころだそうです。  全部横穴式石室ですが、果たして積石墓であるかどうか、私にはよくわかりませんでした。   何故なら、壁画が発見されたのは日本統治時代のことで、調査は始め日本の手で行われました。 勿論地元の研究機関もある時期から共同だったのでしょうが、北朝鮮としての国家が本格的に調査を始めたのは1949年くらいだそうです。   その間に、古墳のある村の人たちが、見苦しくないようにとの配慮から、古墳の上に土を盛り整備してしまったために、元の形がよくわからなくなったのだそうです。  勿論発掘して調査すれば判明することですが、何しろ殆どが北朝鮮にありますので、今回も壁画の写真を撮影するだけが精いっぱいだったようです。 (写真は全て共同通信社が撮ったものです。 世界遺産に登録されたことを機会に、調査、研究、保存を目的とした事業。)
壁画の劣化を防ぐため、石室内部の温度と湿度が変化すれば直ちに外に出され、状態が元に戻るまで待って、再び撮影開始となったそうで、一日に一つの古墳撮影がやっとだったそうです。
高句麗の古墳は現在のところ104基が知られています。  今回橿原の博物館でパネル写真の展示がなされたのは、集安近辺からの3基と、平壌近辺からの10基、計13基の壁画です。
今のところ多くの古墳について、はっきりした年代は不明だとのことです。  墓誌があり、年号がはっきり判るのは、平壌にある安岳3号墳の357年と、徳興里古墳の408年(409年)だけです。

私にとって始めて見る高句麗の壁画は、細密で非常に美しいものでした。 石の上にそのまま描かれている古墳もありますが、多くは厚さcm〜5cmもの漆喰の上に描かれていますので状態が良いのでしょう。
高句麗の古墳は規模が大きいですね。  古墳全体(大体60m〜70m四方)はそう大きいものではありませんが、玄室が大きいのですね。  単室という場合もありますが、二室墓、多室墓が多く、それらの通路にも壁から天井まで一面に様々な画が描かれています。  墨、そして顔料(赤、黄、緑、白)で描かれているとのことでした。

古墳の時代の変遷は画の内容で辿ることが出来るようです。
墓主夫婦や従人、また美人や武人などの人物、厨房や行列などの風俗に比重が大きく置かれているものから始まって、やがて四神が下の方に現れるようになります。  次に人物風俗の比重が小さくなり、四神の方が大きく描かれるようになり、やがて壁画には四神と山岳、樹木、日、月などの図像ばかりが描かれるようになります。  この時期がおよそ5世紀末葉から6世紀初葉と見られます。

さて、ここで日本のキトラ古墳と高松塚古墳を比較した場合、四神図の粉本は共通していますが、天文図の表現、星宿と日月の位置は、異なるそうです。

高松塚の星宿と日月の方形配置は、高句麗壁画とは共通せず、また四神の図像からは、7〜8世紀の唐の様式との一致が見られるそうです。
一方キトラの天文図は、7世紀の高句麗のものだそうです。

江西大墓や中墓の四神、日月、山岳などの図像は、法隆寺の玉虫厨子や、中宮寺の天寿国繍帳などの図像に繋がるとのことでした。


百済、新羅、渤海、高句麗、唐などの図像は複雑に絡み合い、互いに関連しながら独自のものを編み出して、それぞれの時代の表現や自国の主張をしているのだと思いました。
これらの中にあって、日本にも多様な文化が何度にも分かれて移入されたのでしょう。  どんどん新しい文化文物を取り入れ、国際的に遅れまいと一生懸命だったろう祖先の人たちを想像すると、なにかとても微笑ましい、またいとおしいような、そんな気持がいたしました。

添付は講演の資料の表紙です。  平壌の南西、大同江沿いにある双エイ塚の、奥室の八角柱と天井を映したものです。  (エイと言う字は木偏に盈と書きます。)

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Re: 森将軍塚古墳 投稿者:姫 投稿日: 9月15日(金)18時40分51秒   引用
皆様、   こんにちは。

書き込みをしようと思いましても時間が掛かりまして、なかなか思うに任せませんので躊躇ってしまいます。
遅くなりましたが、かわかつさん、穂高神社の鳥居の形、両部鳥居だとのこと、早速お調べいただいて、ありがとうございました。  神社と一口に言いましても、いつも見慣れているものが普通の形だと思い勝ちですけど、ところが変れば色々な形があるものですね。

おおたさん、有明山神社の狛犬の写真をありがとうございました。  何時見ても躍動感溢れる狛犬ですね!  大和あたりの神社では、狛犬の足に紐を巻きつけてあることが多いのですが、きっと走り出さないように、おまじないにそうしてあるのだと思います。  信州の狛犬にこそ、紐が必要かもしれませんね。
森将軍塚のお写真も拝見しました。  広陵町のナガレ山古墳に非常に良く似ていると思いました。  ナガレ山の場合は墳丘部ではなく、中腹と裾にずらりと埴輪が並べられていました。  良く似ていると思ったのは、前方部と、後円部の高さの差の著しいことです。 前方部は舞台、後円部の頂からそれを眺めていたのでしょうか。

タックンの積石式の古墳のお話も面白かった。
なるほど、意図せずにドーム形になる場合もあるのですね。
あちこちの古墳に詳しくて、私など、読んでいてうろうろしてしまいますよ。

おおたさんの書を見ての分析は大変興味深く読ませていただきました。  漢字を共有する国民だからこその文化の交流の軌跡で、それが現代にまで書に残されているということが、
何だかぞくぞくするほど素晴らしいと思いました。

日本と朝鮮半島の繋がり、また中国との関連、シルクロードを通じての西域との交易へと話は広がって興味は尽きません。  古代を知る上で、日本国内だけでは本当の歴史はわからないと思っていました矢先、橿原考古学研究所では高句麗壁画の特別展を開催され、10日には、大阪の阿倍野区民センターで、高句麗壁画展に関するシンポジウムが開かれました。  良い機会ですので、早速講演を聴きに行きましたが、博物館に展示中の壁画のパネル写真を、見るより先に講演を聴きに行きましたことと、高句麗の歴史に無智なこともあって、なかなか講演の中味を十分理解することは出来ませんでした。

けれども、講演の内容につきましては、またページを改めましてお話させていただきます。

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積石木槨墓 投稿者:管理人 投稿日: 9月15日(金)05時15分52秒   引用
さて、由水氏が述べる新羅の積石木槨墓と、それと南ロシア方面のスキタイ系のそれとのそれとの関係性についてですが、ここも重要な視点と思います。
新羅王陵の積石木槨墓というのは、どうも出口がないので、盗掘されていなかったようですが、その木棺が、後に石の重みでつぶれていくようです。楽浪系の積石木槨墓とは、またすこし違うそうです。

新羅斧を出した石川かどこかで同様な積石木槨墓を最近みたような気がしているのですが・・。

由水氏によると、ローマと新羅とのガラスの工法における類似性は、ローマ文化を受容していた時期と、それをやめた6世紀以降の新羅・中国独自の工法との差があるそうです。奈良のガラスは後者だそうです。
そのほか、新羅とローマとの間には、ケルト方面の民族の工法そのままのものと、稚拙化して模造されたものがあるそうで、そもそも、ガラスの工法などからは、工人の移住が確認できるわけです。

またおおたさんご紹介の書の伝播には、技術の伝播とともに、精神性の移動があるようですね。その辺は、またおおたさんの専門とお聞きしています。とみたさんの見てこられた仏像の流れは芸術性の視点も重要ですね。正距方位図法は知的な視点。

そして、先ほどの積石木槨墓などの類似性は、単に工人が移住したという視点から一歩進んで、葬送観念や宗教性の受容と深くかかわっていると思います。そして、一説では、確かにTOMBOさんご紹介の説のように、東ローマ、スキタイ方面、北魏、北燕から新羅への王族の移動という可能性も視野に入れておく必要があるのかもしれません。そういう意味でも最近の日本海側でのタックンさんからご紹介いただいている積石塚の分析から派生して、積石木槨墓の分析も重要ではないかと感じますね。

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書・ガラス・仏像・・・ 投稿者:管理人 投稿日: 9月14日(木)21時21分59秒   引用
おおたさん、さっそく北魏と新羅との書に関するご意見ありがとうございました。
そうすると、北魏と新羅との間には、やはり文化的にも書やガラス・・と、深い交流があったようですね。とみたさんは、北魏や唐の仏像などを見てきており、その辺大変強みですね。私は北魏とTOMBOさんのご紹介北燕との地理関係や位置関係などもよく理解できていないので、ぜひ系統的に分類して理解していきたいところです。いずれも新羅へ北魏、北燕の文化が、流れ込んでいるという説になっているあたりに、何か重要さを感じます。

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RE 北魏と三国 投稿者:とみた 投稿日: 9月14日(木)11時46分2秒   引用
太田さん、書の専門家としての示唆は勉強になります。

北魏は、山西の大同から、河南の洛陽に494年都を遷しますね。

いずれも都に近いところに仏像の石窟を造っています。雲崗石窟と龍門石窟です。

龍門は昨年見ましたが、北魏の色濃いものと唐時代の則天武后時代の仏像が多いですね。

蘭州のへい霊寺石窟は北周あたりの仏像もありました。

日本古代で謎の4世紀といわれます。

この時代は、中国は五胡16国の大乱で、そのあたりをもっと研究しないと日本の古代は見え

てこないというのは確かでしょう。その意味で確実な情報を積み上げることの大切さを感じ

ています。書の研究、ガラスの研究、仏教・道教伝播の研究など方法はいろいろあるのでし

ょうね。群馬県高崎の綿貫観音山古墳から出た銅製水瓶は山西省の北斉の墓のものと似てい

たり、八幡観音塚古墳出土の銅椀は百済の武寧王王妃のそばから出たものと類似しているそ

うです。いずれも百済などを媒介にして入ってきたとされていますね。

都を遷すときに、宮都建設のために民族を移動させます。徒民政策です。

この時代は、それが激しかったと考えるようになりました。

もちろん戦争のための捕虜の移動もあるでしょうね。

これも手がかりとして、考慮すべきかと考えています。

> 北魏と新羅の書道にした質問がありましたので、お答えします。ちょっと昔呼んだ本を調べました。
>
> 北魏はモンゴル系の鮮卑族の一部である拓抜部から出た拓抜珪が398年に建国、今の山西省の大同にあたる平城に都を置くに及んで統一の気運が出てきて、孫の大武帝に至って華北の統一を成し遂げ(439年)、江南の宋と対峙し南北朝時代となる。第6代の孝文帝の時に都を洛陽に移し(494年)、国勢の隆盛に達したが、やがて東西魏に分裂し(534年)、またそれぞれが北斉(550年)、北周に引き継がれた。(556年)
> その後、北周は北斉を併せ(577年)、やがて外戚の楊堅、すなわち隋の文帝に滅ぼされた。(581年)
>
> 北魏は騎馬民族国家であったが、漢民族の学者や官僚を上手に取り込んで、独自に発展させた。孝文帝はかなりの漢化政策を実施し、また仏教を重視し、敦煌、龍門などの石窟寺院は極めて有名である。書道では楷書の黄金時代と言ってもよく、この時代の、質朴で力強い楷書が清以後、現在に至るまでの書道の芸術志向に大きく影響を与えた。
>
> 当時としては北方の非漢人系の強国で、朝鮮諸国や日本にとっては、漢民族系の国家よりも親近感を持てる兄弟国家的な感覚が強かったと思われる。
> 書道では、北魏から最も強い影響を受けたのはやはり高句麗で、新興国、新羅はまずは高句麗から間接的影響を受けた後、本格的な直接交流もあったと考えられる。百済ももちろん北魏の影響は受けたが、どちらかといえば南朝の方に志向が向いていて、優雅で優しい漢民族系の文字が多く残されている。最後の三国決戦で最終的に百済が新羅に敗れた一つの原因は実はここにあって、質実剛健、実用主義の新羅が、優雅洗練、理想主義の百済を精神面で圧倒したと考えられている。
>
> 新羅の書風は北魏と高句麗をミックスさせ、それに、より韓民族臭を強めたような、一種の国粋主義的な表現をもち、強く癖がある。新羅系の渡来人が多いと思われる現在の群馬県に残る上野三碑・・多胡郡碑、山上碑、金井沢碑のうち、山上碑、金井沢碑は新羅書法そのものといってよい。

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北魏と三国 投稿者:おおた 投稿日: 9月14日(木)07時34分50秒   引用
北魏と新羅の書道にした質問がありましたので、お答えします。ちょっと昔呼んだ本を調べました。

北魏はモンゴル系の鮮卑族の一部である拓抜部から出た拓抜珪が398年に建国、今の山西省の大同にあたる平城に都を置くに及んで統一の気運が出てきて、孫の大武帝に至って華北の統一を成し遂げ(439年)、江南の宋と対峙し南北朝時代となる。第6代の孝文帝の時に都を洛陽に移し(494年)、国勢の隆盛に達したが、やがて東西魏に分裂し(534年)、またそれぞれが北斉(550年)、北周に引き継がれた。(556年)
その後、北周は北斉を併せ(577年)、やがて外戚の楊堅、すなわち隋の文帝に滅ぼされた。(581年)

北魏は騎馬民族国家であったが、漢民族の学者や官僚を上手に取り込んで、独自に発展させた。孝文帝はかなりの漢化政策を実施し、また仏教を重視し、敦煌、龍門などの石窟寺院は極めて有名である。書道では楷書の黄金時代と言ってもよく、この時代の、質朴で力強い楷書が清以後、現在に至るまでの書道の芸術志向に大きく影響を与えた。

当時としては北方の非漢人系の強国で、朝鮮諸国や日本にとっては、漢民族系の国家よりも親近感を持てる兄弟国家的な感覚が強かったと思われる。
書道では、北魏から最も強い影響を受けたのはやはり高句麗で、新興国、新羅はまずは高句麗から間接的影響を受けた後、本格的な直接交流もあったと考えられる。百済ももちろん北魏の影響は受けたが、どちらかといえば南朝の方に志向が向いていて、優雅で優しい漢民族系の文字が多く残されている。最後の三国決戦で最終的に百済が新羅に敗れた一つの原因は実はここにあって、質実剛健、実用主義の新羅が、優雅洗練、理想主義の百済を精神面で圧倒したと考えられている。

新羅の書風は北魏と高句麗をミックスさせ、それに、より韓民族臭を強めたような、一種の国粋主義的な表現をもち、強く癖がある。新羅系の渡来人が多いと思われる現在の群馬県に残る上野三碑・・多胡郡碑、山上碑、金井沢碑のうち、山上碑、金井沢碑は新羅書法そのものといってよい。

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北魏と新羅、ステップロード 投稿者:管理人 投稿日: 9月14日(木)01時02分37秒   引用
TOMBOさん貴重なご意見ありがとうございます。ローマングラスの出土等から、北燕国の馮弘氏→継体天皇を想定されているのですね。由水氏によると、新羅同様にローマングラスを出土する関連として、逆に北魏とそのもととなった遊牧民族を指摘していますね。また新羅へは、シルクロードよりさらに北方を経由するステップロードをガラスの伝播において想定しておられます。ステップロードについては、先日紀氏さんからご意見あった、正距方位図法を思い出しているのですが、由水氏が想定する新羅古墳出土のトンボ玉やローマングラス、ケルト黄金剣の大本としての、黒海西岸のケルト族的でありながらローマ文化を受け入れた地域から、ステップロードを経由して、ウラジオストック、新羅への伝播経路は、正距方位図法では、日本への最短距離だったわけですね。たとえれば、日本からアメリカ東海岸へ行くのに、アラスカを経由したほうが近いのと同様な北曲がりの経路です。かれらがなぜシルクロードを使用せず、ステップロードを使用したのか、天文台を新羅に作るだけの地図知識はありますから、もしかすると、南ロシアから新羅までの貿易ルートにおいて、敵地もすくない最短距離を狙ったというのは妄想ですかね?こちらも地理的に2ルートです。
紀氏さん、正距方位図法の投稿はどこにありましたっけ、こちらでご紹介くだされ助かります。北魏と新羅の関連は、神武、フケン・書道・・でおもしろいところですが、私にはよくわかりません・・・。ではでは。

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ローマンガラスは2ライン! 投稿者:tombo 投稿日: 9月13日(水)20時46分11秒   引用  編集済
7〜9世紀の列島(日本)からの中国・半島への使節は、


607〜614年の遣隋使が2回、630〜838年の遣唐使が16回、対中国遣使の合計18回。
(豐御食炊屋比賣/推古33  AD536〜628・息長帶広額命/舒明34 AD593〜641・
宝王天皇/皇極35、37 AD594〜661・軽王命/孝徳天皇36 AD596〜654・
中大兄天皇/天智38 AD614〜671 ・伊賀皇子/弘文39AD648〜672)


668〜779年の遣新羅使が31回、728〜811年の遣渤海使が15回、対半島遣使の合計46回。
と、対半島遣使が圧倒している。

大海人天皇/天武40 AD622〜686

遣新羅使は、
668年 使者・道守麻呂。新羅使金東厳の帰国に同行。670年 使者・安曇頬垂。
675年使者・大伴国麻呂。676年使者・物部麻呂。681年使者・釆女竹羅。684年使者・高向玄理。685年に観常を伴い帰国。

687年使者・田中法麻呂。天武天皇の喪を新羅に伝達。


671年に天智天皇の急死(『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階ク 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中での狩の途中に行方不明になったという記事を根拠にする暗殺説あり)すると、息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立。翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに大海人皇子は勝利して天武天皇(生年不詳〜686年)として即位する。・・・・wikipedia

天武天皇10年(681年)年4月17日、高句麗から外交使節が来朝卯問が筑紫に来朝。 5月26日、帰国。
天武天皇10年(681年)年6月5新羅から外交使節が来朝。若弼が筑紫に来朝。 9月20日、帰国。
天武天皇10年(681年)年7月4日外交使節団を派遣。遣新羅使として、 大使に采女竹羅、小使に当麻公楯を起用。
 遣高麗使(遣高句麗使)には、 大使に佐伯広足、小使に小墾田麻呂が、 それぞれ起用された。
 9月3日に帰朝する。


ローマンガラスは、北燕馮 弘から継体天皇〜天智天皇と、
天武から新羅交流の2ラインがあったのではないでしょうか?


「南の鶏林新羅」は穢人国でも倭人国でもないような。・・・・!

シュメールのイシュタル(イナンナ)の母のニンフルサグ神・nin-hu-lu-sag の huは鳥。
『huは鳥』→『鶏林』・・・・

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ローマンガラス! 投稿者:tombo 投稿日: 9月13日(水)09時53分55秒   引用  編集済
4-6世紀の中国におけるローマンガラス・ササンガラスの発見された場所を見ると、
北燕馮素弗墓からローマンガラス杯など4点が出土しています。

( 中国におけるローマンガラス・ササンガラスの出土地は下記表の通り、出自は
http://www1.odn.ne.jp/~museum/gulas.html )

北燕国は穢人の地に建国されましたが、その王家・馮氏は漢人です。

北燕国の最後の天王・馮 弘氏は北魏国との戦闘をさけ高句麗・旧新羅を経由して出雲に辿り着いたようだ。仏教を携えて。

馮 弘氏を擁護したのは、大友氏のようですが、百済の大親分の大友氏が何故馮 弘氏を擁護したが不思議ですが、仏教と係わっているのでしょう。
馮 弘氏の血は、継体天皇に繋がっている。


『大国主神=継体天王説始めます』の

第3章 明日香・馮 弘の墓と斑鳩・藤ノ木古墳

http://www2.odn.ne.jp/~cbm51320/index.html

・・・・・・・・・・・・・・・

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下記追記 投稿者:管理人 投稿日: 9月13日(水)03時03分53秒   引用
由水氏のローマ文化と新羅とのつながりの深さを示す論拠として、下記の7つのほかに、

8、新羅王陵出土の取っ手付土器と、ローマで日常的に使用されていた取っ手付きの器

9、新羅王陵出土の動物等のさまざまな形状をした角杯と、ローマの同様な形状をしたリュトン(角杯)との類似

10、王陵出土の多数の指輪の工法と、ローマの中指以外の指に指輪をはめる習慣

11、王陵出土の銀の足甲と、ローマのそれ。

12、王陵出土の黄金剣の形状と、黒海周辺から出土のケルト黄金剣の規格を含めた酷似。

13、王陵近くの石造の天文台・石氷庫と、ローマの天文台・石氷庫の文化の類似、日本の氷室

その他多数の出土遺物や記録等から、新羅文化がローマ文化圏から多大な影響を受けていたとしておられるわけです。模造の関係からみて、工人や商人が新羅に来ていることも確かで、かれらはローマの宗教であったキリスト教に影響されていたのは、まず間違いないでしょうから、当然新羅の隣国であり、もっとも交流が深かった日本、ローマングラスを出土した仁徳天皇陵、新羅系の神功皇后・応神天皇記紀伝承に、ローマ文化圏のキリスト教伝承や聖書が、そのまま引用されていても、特に珍しいことではなく、かえって新羅と深く交流してきた時期の記紀伝承、新羅系伝承の数々の中にローマ文化圏の伝承が入らなかったとすると、その不自然性に問題がおきてくるでしょう。

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ガラス・樹木冠・ローマ文化と新羅 投稿者:管理人 投稿日: 9月12日(火)20時23分1秒   引用
さきほど改めて、由水氏の「新羅ーローマ文化王国」を読み直していたのですが、やはりまとめてみなさんに報告しておく必要があると感じました。

1、新羅の樹木冠と ゲルマンの樹木冠への神聖視(王のみが神聖な森の枝を取ることができるという思想)信仰、ローマ文化圏のそれとの比較。樹木冠は中国では見られず。

2、新羅の金の指輪→多くの指にはめる。中国にはみられず。ローマ文化圏で流行した指に多くの指輪をはめる習慣

3、新羅・日本のローマングラス 工法が南ロシア方面や、シリア、ローマ文化圏のそれと同類。やや稚拙化して新羅でも造作。仁徳陵・新塚千塚で同様なものが出土。

4、新羅軍の武器の中に、中国にはないがローマ的な武具・甲などがある。

5、新羅古墳の積石木かく墓。シルクロードにはみえず、南ロシアスキタイ系のそれに類似

6、新羅王墓のトンボ玉。似顔絵。ローマのトンボ玉に似顔絵、白鳥・・モチーフ

7、記紀にみられる新羅の宝石・美女美男の国としての伝承。新羅の皇子である天の日矛のもたらした珍しい玉など神宝と、新羅のそれとの関連

この辺から、由水氏は3〜7世紀の新羅では、5世紀ころからの仏教を含めた中国文化の影響を受ける以前から、ローマ文化に強く影響をうけていたこと、ガラス工人の新羅への渡来、日本とのかかわりを論じておられます。

研究会でも創刊号で、神功皇后・応神伝承、同系統の伝承とみられるヤマトタケル伝承と聖書との比較、伝承元である新羅との関連、新羅庭園と類似する飛鳥池でのトカラ人やローマ技術の痕跡等から新羅・ローマ文化と聖書・日本書紀伝承について、論じておりますが、今後の渡来人研究において、特に新羅からの渡来人を考えるうえでは、ローマ文化を抜きにして考察することはできないだろうと感じています。ぜひみなさんもこちらの由水氏の本を拝読されることを強くお勧めいたします。以下由水さんの本の購入先ですが、ご参照ください。http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30851760

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ガラス玉も赤の文化の継承か! 投稿者:tombo 投稿日: 9月12日(火)09時31分6秒   引用  編集済
ガラスの起源は現在でも不明ですが、紀元前24世紀頃のエジプトやメソポタミアの遺跡から出土したガラス玉やガラス棒が世界最古のものと言われているようです。

  紀元前16世紀頃、メソポタミアでは、粘土で作られた型にガラスを巻いていく成形法が考え出され、エジプト、シリアなどにもその技法は伝播しました。

『吹きガラス技法』はシリアであるという説もあるようです。

インド・Harappa紀元前1700年頃のビーズのネックレスは、「カーネリアン・ファヤンス焼き・Red-brown glass bead」で作られていた。

ファヤンス焼きはイタリアやスペインが発祥といわれています。
カーネリアンの主成分はガラスと同じ二酸化珪素で、色的には「赤」・・・・赤の文化
Red-brown glass beadも色的には「赤系」・・・・・・・・・・赤の文化

玉(bead)の歴史は、インド・Harappaでは紀元前2500年前には現れておりこれが玉(bead)の先史ではないかと思われ、色系は赤系であるようです。

【彩文土器はトルコが赤系・イランは黒系で、トルコにはヒッタイトの「行進する12神像(トゥトゥハリヤ4世・紀元前1250年頃〜紀元前1220年頃)」のヤズルカヤがあり、
インドには「8(方形2個)を積んだ船・紀元前2500年〜紀元前2000年」がある。】


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Re: 新羅古墳とローマングラス 投稿者:とみた 投稿日: 9月11日(月)22時28分48秒   引用
> 紀氏さんご紹介のHpからですが、新羅の王陵出土のガラス瓶と、ローマ・イスラエル等から流れについて以下記載が気になります。

紀氏さんは怪しげなサイトも紹介しますが、貴重なサイトも送ってくれます。

玉石混淆です。

でもこの記事は貴重です。

中央アジアと新羅との接点、草原やオアシスのシルクロードの道はガラスの道でもあります。

山東半島の周の都では、紀元前500年前ドイツ人、フィンランド人、アイルランド人と同じ人種が住んでおり、紀元前後には中央アジアのウィグル人やキルギス人と同じ人種が住んでいたという人骨のミトコンドリアDNA分析があります。

紀元前7世紀から紀元前3世紀に活躍するスキタイ人は、匈奴やアッシリアに騎馬戦法を教えて強国にしたといわれています。スキタイ人もアーリア人の一派でしょう。スキタイの民でアフガニスタン北部に南下したのがサカ人です。

月氏は紀元前2世紀ごろ、黄河の西の河西回廊仁いたのを、匈奴が侵攻して来て、西へ逃げて大夏国に入った大月氏と、河西ヤ南にいたチベット族と合流した小月氏と分かれます。  或いはアレキサンダーに侵入されてアラル海近辺から追い出されシルクロードの中継交易を業としたソグド人が関係しているかもしれません。

いずれもイラン系、アーリア系の民ですね。日本の古代もシルクロードの民を無視できないと思います。


>
> また皇南大塚で発見された金糸で取っ手を直した水瓶と同じ形をしているガラスの瓶が、今もイスラエルで作られており、その製作法などに違いがないことから、当時新羅にローマからのガラスの輸入が実際行われていたと推定できる。
>
> http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/12-1.htm
>
> 同じく紀氏さん紹介のHpからガラスの道についての図に注目
> http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.html
>
> 新羅の皇南大塚は私も慶州で見てきたところですが、その積石木槨墳という積石のあり方がここ数日の積石塚の話題とあわさって研究課題となりそうですね。以下Hpご参照ください。
>
> http://zaiwakan.hp.infoseek.co.jp/hanguku-2.htm
>
> 「積石木槨墳は、5世紀初めごろに登場し、三国時代の新羅の代表的な墓制であったが、新羅が統一したころ、本来の墓制であった積石木槨墳は消え、あたらしく受容された横穴式石室墳が中心となったという。」
>
> http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-2/tenma_zuka.htmから引用

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中能登は中島町のDVD到着 投稿者:管理人 投稿日: 9月11日(月)13時21分14秒   引用
能登の話が出てきていますが、先月25日に探索で行った中能登は中島町から、巨大旗竿を立てるお祭りなどのDVDが今届きました!柱を縄で引っ張って立てて、舟に乗せたバージョンとか、神輿バージョンとか、すごい迫力ですが、諏訪のそれと似ている感じもしますし、関係しないのですかな?10月はぜひ、能登のお祭りどなたか行ってみてくださいね!
それにしても、まだあれから半月ですか、オフ会からはまだ10日余り、時の流れは早いものですね。まだ余韻が残っていて、旅はいいものですね!

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鹿児島〜京都〜長野←関東地方・堀の内2式の系統 投稿者:tombo 投稿日: 9月11日(月)12時25分12秒   引用
円筒埴輪は、初期の物は「台と冠」が別々に作られていたとか。

下の画像は・・・・・

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方墳や四隅突出墳! 投稿者:tombo 投稿日: 9月11日(月)09時55分39秒   引用  編集済
方墳や四隅突出墳は、シュメール文字の ki であると推測。
シュメール文字の kiは 「□(方形)とその内部ある4本の楔」がその構図です。
Kiを日本語に置き換えると「世界・場所」。

Kiのルーツを彩文土器にみいだすなら、下の画像のようになる。

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弥生墓 投稿者:タックン 投稿日: 9月10日(日)20時14分49秒   引用
とみたさんが言われているように、能登半島に限らず北陸の各地から、四隅突出墓が発見されています。
特に富山県側からは、顕著な突出墓が多く発見されていて、今後数が増える傾向があり注目です。
氷見市史が編纂中で、最近これの考古篇が刊行されて、これに伴って市域の遺跡の踏査が徹底的に行われました。
その結果、かなりの丘陵上などにこれまで判らなかった遺跡の存在が徐々に明らかになってきて、この中にかなりの数の弥生に遡る墳丘墓の可能性がありそうなのが判ってきたんです。
踏査だけで本格的な調査はあまり行われていませんが、ここの分布図を眺めていると前方後円墳の数が少ない、小規模の円・方墳が尾根上に並んで分布している、特に方墳状の古墳が多くかなり怪しい場所が多いように見受けられました。
ただこれらの中には、古墳時代後期のものも交じっている可能性もあるので、一概に決め付けるわけには行きません。
ただ尾根状に小規模墳が並んで築造されているのは、同じ日本海側の但馬に古墳時代初頭の古墳群などがある例もありますので、ここもこういう古墳群が眠っている可能性が多いように思います。
古墳時代初期・弥生の墳丘墓などはこの能登半島東側、現在の七尾市・氷見市周辺にかなり集中して築造されているように感じ、このあたりの天然の良好な湾を介して、早くから居住しやすかったし交易の面でも都合が良かったのではないか?とも思います。
然し七尾市周辺は他とは違い、後世には能登の中心部的な位置になって、国衙や国分寺が建立されていき次第に中心部的な役割の地になっていきました。
院内勅旨塚などは、能登国造の墓とも言われているように大型の切石積の方墳が築造されていきますが、これ一墳が孤立的に築造されていて、周辺にはこれに続く規模の大型の終末期古墳は見当たりません。
これなども特異な存在で、院内勅旨塚は畿内から派遣された人の墳墓ではなかろうか?規模形式などから在地の墳墓とはかけ離れた古墳であるからです。
伝承では、勅旨塚の近くにも大型の古墳の存在が古文書に書かれていますが、現在はその存在をうかがうのは不可能すが、ひょっとすると勅旨塚と同じ規模の古墳が、二基並んで計画的に築造されていたんではないか?と思います。
話がちょっと脱線しましたが、ともかくこの能登半島東側の弥生〜古墳時代初頭は注目に値します。
前にも書きましたが、氷見市の柳田布尾山は古墳時代初頭の前方後方墳、この前方後方墳というところに意味があって、東海との関連性が取りざたされています、今後注目していい地域と思います。

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山陰の弥生人 投稿者:とみた 投稿日: 9月10日(日)16時45分3秒   引用
北九州から日本海そして越の国の弥生時代の姿が、考古学的な発見で大分つかめてきたような気がします。

北九州は、有明海の近くの吉野ヶ里。これは紀元前3世紀から紀元後3世紀ぐらいでしょうか。博多湾の方は、早良国、奴国、伊都国が弥生時代ですね。

そして、日本海に目を転ずる。

山口県の土井が浜、ここには故郷の大陸に向って頭を向けている。鵜を抱いたシャーマンに私は注目しています。

骨の分析では、中国の呉から(朝鮮を経由したかも)きた民でしょうか。島根県に入れば銅剣358本出土の荒神谷と、39個も銅鐸が発見された加茂岩倉ですね。

そして最近注目されている、西谷墳墓群ガあります。
ここは2世紀の倭国大乱の前の出雲王国で、四隅突出型墳墓がでています。出土土器が多く、北近畿、北陸、山口西部、吉備の土器が見つかっております。各地と交流があり葬儀には集まってきた証拠です。もちろん中国とも交易がありガラス製品が出ています。

朱が墓に厚く敷き詰められていました。これがなんと、中国陝西省の鉱山で採取されたものと分析されています。

陝西省は昔の秦の国、今の長安あたりです。

さらに、鳥取県に入りますと、米子市淀江には稲吉角田遺跡があります。土器に、銅鐸を吊り下げた樹木、稲籾貯蔵の高床倉庫、太陽のもと鳥装の漕ぎ手の乗る舟が描かれている。

これは、中国の奥地、雲南のテン(シ真)国や苗族の風習とかなり重なっていると思われる。
鳥取市の青谷上寺遺跡では、漁民だったらしく、サメの絵が土器に描かれている。船団を描いた板も出土。弥生人の脳まで見つかっている。中国製の鉄斧も出る。
特に注目すべきは、卜骨の数は日本一で227本出ている。この遺跡は吉野ヶ里と同じ時代のようだ。

卜骨は遊牧民の風習で、それを殷(商)の時代に取り込んだとされている。日本でもフトマニの風習がある。

兵庫県に進めば、出石、丹後でこれは管理人さんの探訪記に書かれてある。

そしてタックンさんが興味のある若狭と能登につながる。

能登気多神社は羽くい市ですね。2000年前の古社といわれています。古い伝承では七尾の能登生国玉比古神社が気多本宮とされている。オオナムチが平定したのでしょうか。

この地方には出雲の四隅突出古墳がありますね。

遺跡がドンドン掘り出され、新しい事実が出てくると神話伝承の世界を越えて新しい古代の世界が描けますね。


いつも思っていることですが、今の風土を前提に古代を見ると間違うのではないか。
たとえば弥生時代は鳥取砂丘は草原であり、山口の土井が浜も緑が多かったかもしれません。青谷遺跡あたりも入り江が深く入り込んでいました。

こんなことを思いながら皆さんの投稿を眺めております

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有明山神社の狛犬 投稿者:おおた 投稿日: 9月10日(日)13時11分26秒   引用
写真はあまりしっかり撮らなかったのですが、姫さんがいたく感心していた有明山神社の狛犬(唖)の写真、投稿します。

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森将軍塚古墳 投稿者:おおた 投稿日: 9月10日(日)13時02分51秒   引用
この掲示板は勉強になるので、私も大事にしたいと思っている者の一人です。政治的なことは古代史と違って生々しいので議論が難しい方向に行ってしまうので、管理人さんの判断に賛成です。
森将軍塚古墳を先日訪れたとき、管理人さんがカメラを車の中に忘れたので写真がないと思いますので投稿します。この日は天気が良すぎたので、手前の木陰が強く出てしまいましたが、遠景もよく映っているので感じは出ていると思います。

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歴史問題掲示板 投稿者:管理人 投稿日: 9月10日(日)11時00分48秒   引用
管理人です。いろいろ考えたのですが、皇族・靖国など現代の政治情勢に関する話題は、歴史問題掲示板を用意しておりますので、今後はこちらでよろしくお願いいたします。管理人のほうで、そして、今後上記の話題が書き込まれた場合は自動的にこちらの掲示板に移行させていただきますのでご了承よろしくお願いします。

歴史問題掲示板
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/

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互恵互譲で行きましょう 投稿者:とみた 投稿日: 9月10日(日)09時09分54秒   引用
世の中、いろいろ漣が立ちます。

解決方法は、結局は信念を持って、時間をかけるしかないようです。

でも一番大切なのは、メンバーの互恵互譲の精神ではないでしょうか。

人に対する敬意と、自分が謙虚であるかどうかを確かめること。これに尽きますね。

折角、掲示板は、管理人さんが窓を開いてくれて集まった仲間です。

古代史素人の私が、知恵を借り、刺激を受け、自分の考えを問うことの出来る貴重な場で

す。

これからもめげず弛まず、行きましょう。

これって、小泉さんの台詞かな、失礼しました。

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古墳の構造 投稿者:おおた 投稿日: 9月10日(日)08時36分52秒   引用
新羅ですか。歴史では新興国ほど近隣の最先端の文化を必死で取り入れて発展が著しく、結局はその地域でいつのまにかトップに踊りでる。かつての日本がそうでしたし、少し前の韓国、今なら中国がそんな状態です。新羅は日本海を経由するなら長野県からは最も近い国でしたから、積石塚が新羅の影響だということも考えられなくはありません。秦氏の出身地の一つと推測されている波旦(パタン)も新羅の地でした。

 少し前に、TVでグリーンランドに暮らす現代のエスキモー(今は違う言い方をするのでしょうが、忘れました)の人々の家が紹介されましたが、石の細かく積んで壁や空間を作る積み方や家の構造など、本当に日本や韓国の古墳の中枢部を思わせる物で驚きました。
 古墳が多く築かれた時代には、一般の人々はどんな住居に住んでいたのでしょうね?日本だと竪穴式住居で、土の上にわらの屋根を置いたようなものですよね。石は基礎ぐらいにしか使っていない。やはり木とわらの家と言って良いと思う。
 なぜ、先祖の眠る場所には石を多用したのでしょうか?特に積石塚にはです。確かに石だと後世までしっかり残るという利点があったと思いますが、それだけではない。先祖が石を多様する文化を持っていたからなのではないかと思うのです。
 その辺から渡来の場所を特定できたりしないものかと思えるのですが、いかがでしょう。

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新羅古墳とローマングラス 投稿者:管理人 投稿日: 9月10日(日)03時40分17秒   引用
紀氏さんご紹介のHpからですが、新羅の王陵出土のガラス瓶と、ローマ・イスラエル等から流れについて以下記載が気になります。

また皇南大塚で発見された金糸で取っ手を直した水瓶と同じ形をしているガラスの瓶が、今もイスラエルで作られており、その製作法などに違いがないことから、当時新羅にローマからのガラスの輸入が実際行われていたと推定できる。

http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/12-1.htm

同じく紀氏さん紹介のHpからガラスの道についての図に注目
http://inoues.net/ruins/niizawasenduka_museum.html

新羅の皇南大塚は私も慶州で見てきたところですが、その積石木槨墳という積石のあり方がここ数日の積石塚の話題とあわさって研究課題となりそうですね。以下Hpご参照ください。

http://zaiwakan.hp.infoseek.co.jp/hanguku-2.htm

「積石木槨墳は、5世紀初めごろに登場し、三国時代の新羅の代表的な墓制であったが、新羅が統一したころ、本来の墓制であった積石木槨墳は消え、あたらしく受容された横穴式石室墳が中心となったという。」

http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-2/tenma_zuka.htmから引用

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ドーム型 投稿者:管理人 投稿日: 9月10日(日)02時17分1秒   引用
シルクロードというと、言語版で紀氏さんが、新疆ウイグル自治区方面でのドーム型のそれについての情報掘り出していますよ。百済のドーム型とか・・・。ドーム型の起源はどこにあるのでしょうね。
タックンさんご指摘の、院内勅旨塚などの切石積の横穴式石室を持った方墳、能登島の須曾蝦夷穴古墳などの、扁平な石を積んで一墳二石室の特異な形式の後期古墳などの終末期古墳と、新羅系の七尾から中島町にかけての渡来人の流れ、どこかつながるとおもしろそうですね。終末期というのが、やはり新羅系の例の信仰を考える上でみそでしょうか。大室も5世紀末だし・・・。紀氏三調べている鹿嶋と蚕信仰と諏訪との関連は、いつごろでしょうね。あそこの10月の旗竿祀り、どなたか行く方いらっしゃいませんか?

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能登 投稿者:タックン 投稿日: 9月 9日(土)22時24分15秒   引用
最近日本海側、特に能登半島の古代遺跡に注目しています。
特に古墳文化ですが、前期の初めの前方後方墳が能登中央部の、邑地地溝帯に多く存在しており(雨宮・鹿島親王塚)古い古墳が多く確認されています。

しかもこの二つの前方後方墳、恰も地溝帯を挟んで対峙するように、北側と南側の丘陵地に存在していて、北側の雨宮のほうはかなりの高い丘陵上に築造されていて、能登初期の王墓にふさわしい古墳で領地を見下ろすかのごとく築造されています。
鹿島の親王塚は、低い丘陵地に築造されていますが、これは現在宮内庁の陵墓参考地になっていて詳しい実態は判っていませんが、墳形などから前期に遡ると考えられています。

然し海岸部の、羽咋や七尾地域になると古墳時代終末期の有名な、院内勅旨塚などの切石積の横穴式石室を持った方墳や、近くの能登島に存在する須曾蝦夷穴古墳などの、扁平な石を積んで一墳二石室の特異な形式の後期古墳などが現れてきます。
西側の海岸部の、羽咋市内には能登一ノ宮といわれる、気多大社などもあってこの周辺にも後期の古墳が点在しています。
能登の古墳にはある一定の地域の古墳集中地があるようで、初め邑地地溝帯周辺に築造され出し、後の時代には海岸部周辺に移っていっているようで、この当たりも開発の関連と絡み合わせて考えていかないと考えています。
特に前方後方墳は、富山県側の氷見市から最近柳田布尾山古墳が発見されていて、能登半島中央部と東側基部の関連性もあって、どのように伝播して行ったかが問題となってきます。

特に私が注目しているのは、能登半島先端近くの珠洲市域に多数存在している横穴墓で、「珠洲市史」編纂の時にかなりの横穴の所在が確認されています。
この地域は丘陵地が海岸部に迫っている地域が多く、高塚古墳が築造しにくかった地域もあるのですが、かといって築造できなかった?ともいえません、築造可能な平地も多く見受けられますが何故か横穴墓が多く築造されています。
横穴墓内部には、船の線刻画が描かれている横穴もあるようなので、海洋民の墓所?或は渡来系の墓所がここに集中して築かれているのではないか?この半島先端の辺境の地に渡来系の人たちが住まわされていたのではないか?とも考えています。
然しこの地域にも、縄文の頃から連綿と人々が居住していたのも事実で、真脇遺跡のように大規模な遺跡が発見されている事から見て、決して辺境の地ではなかったと思います。
何故なら、当時からの交通手段交易は、海を介して行き来できたからです。

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狛犬の謎 投稿者:とみた 投稿日: 9月 9日(土)10時12分33秒   引用
信州オフ会も、懐かしい思い出です。道中に姫さん得意の狛犬が散見できました。

信州の狛犬は形相逞しく、大和路のそれと趣が違います。

NHKテレビで、見ていたら、チベットの都のラサのチベット仏教の寺の狛犬とそっくりでし

た。

モンゴルはチベット仏教を信じているしラサにはモンゴル人が入っている。

シルクロードには東西をつなぐオアシスルートと草原ルートがあります。それらを南北につなぐルートがいくつかあります。

モンゴルとチベットはシルクロードの南北ルートでつながっているというのが私の読みで

す。信州といえば・・・

高句麗と信濃、安曇族と信濃、尾張族の信濃進出・・・

どこに信州の狛犬と接点がるのかなあ。

今朝、新羅の掛陵が気になって、調べたらオヤ、また変わった狛犬が現れました。(貼り付けます)

掛陵・・・なぜ気になるって?石の十二支神像が墓を守り、その中に

胡人つまりペルシャの武人がいるんです。

なぜペルシャ人が?これが気になっているんです。


飛鳥寺の造営に、瓦博士と画工が関与します。これは胡人つまりペルシャ人だというのが京

大の伊藤義教名誉教授の研究成果です。

伎楽の楽人も胡人です。トカラ人が日向に漂着して、皇極時代に明日香で饗応されますね。
これはアーリア人、つまりイラン系の民です。トカラ人は楽人のようですが・・・

アーリアは、イランの語源です。高貴な人の意味です。

新羅や百済を経由地にして日本に入ってきたのではないか。


狛犬からいろいろ連想しております。中国の狛犬は上海で見ましたが、犬が鞠=地球を抱えていますね。

靖国神社の参道に日清戦争で奪った狛犬があるそうです。

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縄文海進 投稿者:タックン 投稿日: 9月 8日(金)22時48分12秒   引用
おおたさんの言われているように、近い将来このままだと大昔の縄文海進のような状況になってくると思います。
先ず関東平野は、殆どに海水が入り込んで入江状以上の広い海になって、近畿の大阪・河内平野はこれまた大きな大阪湾になってしまいます。
淀川は、枚方辺りまで海水が入り込み、京都盆地南部辺りには昔の巨椋池のような天然の遊水池が出来上がるようになるでしょう。
瀬戸内も同様で、岡山平野の現在の岡山市や倉敷市辺りの平地も、海が入りこんで島が今よりも増え、大型前方後円墳が築造されている、標高の高い地域以外は殆どが海になってしまいます。
まぁ、しいて言えば古墳時代の海岸線に逆戻りした状態に戻ってしまい、人間の居住できる地域は限られてしまい、今よりずぅ〜と山奥?に住まなければいけなくなってしまうでしょう。
ただ信州の地は、標高がかなり他とは違い高いので、他の地域よりは影響が少ないと思いますが、それでもこの海面上昇の影響で、かなりの海水が遡ってきてしまい、汽水域が広がってくる影響で気候にかなりの激変が襲ってくるでしょう。
特に信州の夏における影響は深刻になりそうで、気温の上昇・降水量の変化などによって、旱魃や洪水などの自然災害の被害が増えると思います。
これによって、アルプスなどにある万年雪などは完全に消えてしまい、溶け出した水が川に流れ込んで膨大な土砂崩れを起こして、完全に麓の地形を変えてしまう恐れがあります。
特に冬場の気温上昇は深刻で、作物なども特産のものは完全に育たなくなり、新たな作物を作らなければならなくなってしまうでしょう。
縄文時代の頃と比べて、今迫りつつある温暖化は、それ以上の海進が進むと予想されます、となれば河内平野や、岡山平野などに点在している大前方後円墳群などの土地も、完全に海の中!?になってしまう可能性大の気がいたします、群馬県内の前方後円墳のある土地は、辛うじて陸地?かな。

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ペルシャ展 投稿者:とみた 投稿日: 9月 8日(金)11時56分32秒   引用
昨日は上野の東京都美術館で、ペルシャ展を観てきました。

10月1日で終了です。

アッシリア、エラム、メディア、などtomboさんが話題提供されています。

私も少なからず、以前から興味を持っていますので、大変勉強になりました。

イラン高原は乾燥地で、食糧が取れず、土地が肥沃で河水の豊富なメソポタミヤから食糧を得ていた。代わりに鉱物金属資源が豊富でこれを加工してメソポタミヤに供給していた。

エラム人、アモリ人、グテ人などメソポタミヤに侵入します。

古代のイラン高原で発掘された彩文土器は現代人の感覚と遜色なく見事ですね。こんなのが

紀元前4000-5000年に出来るなんて想像も出来ないくらいです。

青銅器も紀元前2500年ごろに剣が出ているし、金細工の優れていることも驚きです。

鉄器時代がイラン北部で紀元前15世紀に始まっているようです。

ヒッタイト王国が紀元前20世紀に鉄を使い出した。地中海の海の民が紀元前13世紀に現

れてヒッタイトを滅ぼし鉄の技術が広がったといわれています。

アーリア人が紀元前2000年にイラン高原に侵入したんでしょう。

ペルシャ人とメディア人はそんなアーリア人の一派。

これがアッシリアを滅ぼしバビロニアからアケメネ ペルシャへ紀元前550年。

マケドニヤのアレキサンダー大王が紀元前333年にペルシャの首都ペルセポリスを燃やした。

紀元後3世紀から7世紀までサザーン朝ペルシャの時代。

シルクロードを経由して日本に多くの品々や宗教をもたらせた。

こぶ牛やライオンや山羊や怪獣グリフィン(鷲の頭とライオンの胴体)の土器、青銅器、金

細工などが多く見られました。

インダス文明との接点、シュメール文明との係わり合いなどもっと勉強が必要です。

私はアーリア人を追っかけていますので、そちらも興味があります。スキタイ人は金の細工も得意です。メディア人は金細工の名人。

アッシリアや匈奴はスキタイ人から騎馬戦術を学んで強くなったともいわれています。

サカ人これはスキタイ人が南下した民でパルティア、パクトリアに進出します。

これが独立したのは紀元前250年。

パクトリアには大月氏が流れてきます。

パルティアは大国となってローマ軍と戦います。

いろいろと古代はつながって面白いです。

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オフ会探索日記アップ 投稿者:管理人 投稿日: 9月 8日(金)03時04分22秒   引用
先日の長野オフ会の探索日記を少しづつアップしています。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/0608nagano.htm
いろいろ資料を見ながら書いているのですが、やはり確かに、タックンさん、TOMBOさんご指摘のとおり、九州に起源をもつとされる安曇族の進出と、この地域の積石塚などの古墳・遺跡の実態がきになりますね。また、おおたさんご指摘の海水面の上昇と、信州での縄文時代での出土遺物が大変多いことについての関係、大変重要な視点ですね。もちろん邪馬台国以来の海運の歴史、渡来人研究でも重要ですね。

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ヤミ族(雅美:Yami) 投稿者:tombo 投稿日: 9月 7日(木)23時03分53秒   引用  編集済
現在の民族名は、タオ族(達悟:Tao)ですね。
タオは、ヤミ語(タオ語)で、人という意味。ヤミは、北の村という意味。

フィリピン・タガログ語の tao も人と言う言葉です。
「タオ族=ヤミ族」と「フィリピンのイバタン族」は同族のようです。
台湾・タオ族=ヤミ族は1998年の調査での推定人口は約4000人。
比国・イバタン族(イヴァタン族)は1995年の調査での推定人口は約1万5000人。


ヤミ族、南の「故郷」に帰る
フィリピン・バタン諸島に歴史的訪・・・台北『聯合報』
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1855/112.html

「フィリピンのイバタン族」は「タガログ族」と同じ時間軸・紀元前500年頃の新マレー族に分類されています。

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安曇族の信州入り 投稿者:おおた 投稿日: 9月 7日(木)23時01分46秒   引用
海人である安曇族がなぜ山国の信州にわざわざ入っていったのか、というのも、このような気候変化が一つの原因だったのではないでしょうか。気候変化の確かなデータと、安曇族が信州に入ってきた時期とのデータを持っていないので、あくまでも推測ではありますが。

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2050年 投稿者:おおた 投稿日: 9月 7日(木)22時43分3秒   引用  編集済
 先日、NHKの深夜番組で、温暖化の科学番組をやってまして、このまま温暖化が進行すると、2050年ごろには平均気温が5度ぐらい上がるそうです。そうすると、次のような変化が起きるそうです。

1.北アメリカ、南アメリカ、ロシアの穀倉地帯が砂漠化して小麦・とうもろこし・大豆などの穀物がほとんどとれなくなり、世界中で家畜の飼料が不足し、日本の食卓に肉が上ることはほとんどなくなり、戦前の食生活に逆戻りする。
2.両極の氷や氷河が融けて、海水面が最低で1m、最大では5m上昇し、海岸沿いの都市はほとんど水没する。この幅は、南極の氷がいったん解け出すと、四国や九州ぐらいの大きさの氷山として海に落ち込み、しかもそれがなだれ現象のように続いていく現象が起きるかもしれないためだそうです。この現象が始まってしまったら、海水面は一気に増えて、しかもそれを誰も止められないそうです。

つまり、44年後には縄文海進の時代に戻るような地勢になりそうなのです。海岸沿いの都市といったら、日本や世界の中枢を担う部分がほとんどだめになりますから、現代文明は大いに後退し変質していかざるをえないことになる。また水没を免れても、マラリアなどの南方風土病が低地には蔓延するでしょうから、西日本は人が住めない状況となり、この時、日本の首都は標高の高い長野県に移っているかもしれません。
 縄文時代に信州が日本の中枢に近いところだったと思われるほど遺跡が密集しているのはこれに近い状況があったからなのではないかと思います。

人間が賢ければ、こんな風になる前に、新しいクリーンエネルギーを開発するか、あるいは意識的に文明を逆行させて、石油以前の生活に戻るかするのだろうと思います。でも、賢くなければこのまま、上記のようなシナリオの状況になだれ込んでいくでしょう。もうレミングの集団自殺のように後戻りのきかないところにさしかかっているように思えてしかたありません。古代史を学ぶことは実は近未来を知ることなのかもしれないと思います。
 古代の日本で海人が中枢を握っていたというのも当然なのかもしれません。
http://www.joho-iwate.or.jp/info/tatara/index.html

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間接的に 投稿者:タックン 投稿日: 9月 7日(木)22時06分47秒   引用
ヤミ族の船なんかの、文様などが九州地方の装飾古墳の文様などに渡ってヘキ邪との関連から、一種の魔除け的な思想が採用された?とも考えます。
九州の装飾古墳などの研究から、この古墳の被葬者たちは大和朝廷内において、海運に携わっていた集団?という説なんかも出されているくらいで、私も海に関係した一族或は広域に九州の地において、大和朝廷を海からバックアップしていたんではないでしょうか?

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邪馬台国論争ここはありなんですか? 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 7日(木)00時42分34秒   引用
邪馬台国については色んな説がありすぎて、どこなのか見当もつかないのですが、熊本地方の大陸からの玄関口というと、どういうわけか県南部の八代港が伝統的です。不知火、松橋よりやや南ですね。

八代港は今でも中国との航路があるようですが、戦前は横浜と比較されたほどの港だったと聞きます。

八代妙見社で行われる九州三大祭りの一つ「妙見祭」は、天武帝白鳳9年(689年)中国の寧波から妙見神が亀蛇の背に乗って海を渡り、八代郡上北郷八千把村竹原津に上陸したのが始まりとされています。

熊本、宇土方面にも熊本港、三角港がありますがいずれも近代に入ってからの港です。
古代に交流があったとしたら八代の方が可能性が高いかと思えます。

福岡平野、筑紫平野がかつて海底だったというのは勉強になりました。島原は噴火を何度も繰り返してますから大規模な地殻変動があったのかもしれませんね。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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アマサさん 大変参考に成りました。 投稿者:tombo 投稿日: 9月 6日(水)22時21分46秒   引用  編集済
不知火、松橋は現在の宇土市 宇城市 辺りでしょうか?

一海を渡ること千余里にして末廬國に至る。・・・魏志倭人伝

末廬國が宇土市 宇城市・熊本ではないかとtomboの推測です。
末廬國から山鹿→八女→伊都國→奴国
と押し返した。
一方、南の倭国・日向(宮崎)は、不弥國(tomboの宇佐)→奴国(博多)へと攻め入った。

「畿内邪馬国と九州倭国」連合。

九州大学工学部の真鍋大覚助教授が発表された、各地のボ−リングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定よって解明、作成された古代九州の詳細な地形図によると、紀元前3000年頃まで遡ると、
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。
という、資料があるようです。

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景行天皇追加 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 6日(水)21時29分10秒   引用
他に景行天皇がからむ地域というと福岡の八女市があります。
八女の地名発祥といわれる「八女津媛」を祀った八女津媛神社のいわれが景行天皇がらみです。日本書紀に景行天皇がこの地に巡幸の際、水沼の県主猿大海が「この地に女神あり。八女津姫といい、常 に山中にいる」と奉上したのがはじまりとされています。

となると少なくともこの辺は陸地だったということでしょうね。八女津媛神社は結構な山の中なので当然かもしれませんが。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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景行天皇ですか・・ 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 6日(水)20時44分6秒   引用
すいません、学問的なデータは持っていません。ただ景行天皇の伝説が残るのは熊本県内では不知火、松橋、山鹿等の有明海沿岸近くで、伝説にあるような人吉・球磨地方では聞かないですね。宮崎の西都方面も何度か行ってますが、景行伝説は資料館にもなかったと思います。いわゆる景行遠征ルートがどの程度正しいか自分には判定できません。

有明海と博多湾が繋がっていたかどうかはなんとも言えないです。佐賀県が現在一面の平野であることを考えるとありそうな気はしますが、学問的な証明となるとまた別の話です。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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何故、あやまるの! 投稿者:tombo 投稿日: 9月 6日(水)18時28分52秒   引用  編集済
「武が二人いた?話をこじらせるばかりですね。」
と、
蹴りを入れたのは、かわかつさんですよ。

晉の安帝(403年・晉安帝元興二年)  の時、倭王賛有り。
賛死して弟の彌立つ。 彌死して、子の濟立つ。 濟死して、子の興立つ。 興死して、弟の武立つ。・・・@の倭王武

齊の建元中 (315-316年)   、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除す。 高祖即位し、武の號を征東大將軍に進む。・・・・Aの倭王武
とあるのは、中国の史書ですよ。
それを、「武が二人いた?話をこじらせるばかりですね。」
とは、とんでもない書き込みです。
先ず、反省しなければならないのは、かわかつさんのほうです。

アマサさんなら知っているとおもいますが、
かわかつさんが指定した景行の道の出発点は海浜ではなかったでしょう。
天武の時代に3郡が有明海に水没している。
倭建命は夜を選んで船で現熊本に上陸しています。

何故、夜を選んだか?
それは、難升米の目を逃れる為に、博多湾から有明海に直接侵攻したからでしょう。

おそらく、景行の時代はまだ、有明海と博多湾は直接繋がっていた。
つまり、佐賀の一部と長崎は一つの島であった。
ということです。

難升米の勢力圏は、
対海【馬】國に至る。副を卑奴母離という。
千余里(名を瀚海という)にして一大國に至る。副を卑奴母離という。
東南、奴國に至るには百里。副を卑奴母離という。
不弥國に至るには百里。副を卑奴母離という。
でしょう。

鉄の道なら、その根拠を書き込めば済むことでしょう。
何でも有りを嫌うかわかつさんならバックデーターも揃っているでしょうから。

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右翼の書き込みかと思って削除しました 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 6日(水)17時31分55秒   引用
右翼かと思ったらあやまりもしないTOMboだったのか?
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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削除 投稿者:tombo 投稿日: 9月 6日(水)15時49分7秒   引用  編集済
歴史の真実に目をつぶる卑劣な者が削除したのでしょう。

「霧わたる 今帰仁村の あかときに 時告げの鶏 高らかに鳴く」
・・・・宮中歌会始めの秋篠宮殿下の歌


\(^o^)/ (*^^*) (*^_^*) \!(^o^)/

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あれ 投稿者:管理人 投稿日: 9月 6日(水)15時41分31秒   引用
tomboさんの皇室男子誕生についてのご意見どこへ行きましたか?

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戦力、王権 投稿者:管理人 投稿日: 9月 6日(水)15時38分31秒   引用
tomboさんお知らせありがとうございます。
帝王切開ながらも無事出産なされたことは、ひとりのかけがえない生命が出産されたことでよかったですね。

古代史では、最近は女帝論が盛んでしたが、今後の行方が気になりますね。
個人的に思うこととしましては、天皇家は祭祀家であることは間違いなく、今後も何もなければ祭祀家としては男系で続いていくであろうとは思うのですが、王家であるかどうかという視点が、今後の憲法改正でどうなるかというところが気になりますね。
今の憲法というのは、自衛隊が戦力ではないということになっておりながら、実質上戦力でありまして、ただ未だ戦力を発動しておらず、仮戦力となっているのと同様、天皇家は、支配権力を持たない象徴という点で仮王家なのですが、実質的にはそれ以外は王家でありまして、未だ支配権を発動しておらず、仮王家となっている、という状況ではないかと思います。これが、将来的に災害や戦争などの圧迫により、自衛隊は戦力を、天皇家は権力を、発揮するようになる可能性がある点で、いろいろ論議がなされているのではないでしょうか。
もっとも、戦力と権力者が出てくることは、民衆についての深層の心理学面では、おそらく古代からの必然的な動きではなかったかと感じますが、現代の特にキリスト教思想から思想体系が作り上げられてきた隣人愛平和実現、人種平等社会の世界観において、やや時代遅れのものとなりつつあるといえるでしょう。しかし、また民族固有の島国感情とか、人種観、王政と共和制への考え方というのは、やはり民族感情としての視点からも考慮しないと、ただ西洋的な論理を導入するだけではうまくいかないというのもありまして、そこで現在日本人のDNAの大部分が大陸系という実態が浮き彫りにされてきた時期に、渡来人の価値観、考え方というのが今も重要な視点となってくるのであろうと感じます。そこには、近代日本の戦力や王政、人種への価値観とは、またまったく違った価値観があり、本来的に日本人の心情の根本的な部分を構成するのにかかわっていることでしょう。そういう視点から、今後の憲法改正にともなう戦力の是非、王政の是非を捉えてみてはどうかなとふと今感じますね。

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第6回 たたらサミットin岩手 投稿者:おおた 投稿日: 9月 6日(水)06時03分19秒   引用
先般の百瀬高子さんから私のところにファクシミリが来ました。
第6回 たたらサミットin岩手 10月7〜10日 の案内です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先日は熱心な皆さんのお話が聞けて楽しく過ごさせていただきました。ところで製鉄サミットの連絡がありましたので案内いたします。ご興味がありましたらと思いましたので。
私は同じ考え(古代史)の若い方を探しています。若い方に大いに勉強していただきたく存じます。皆様のご活躍、お祈りいたします。
    松本市中山 百瀬高子
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「たたらサミット」は、たたら製鉄に携わる人々の交流の場として、2年ごとに開催されています。今までに東京、名古屋、高知、新見、室蘭で開催され、今回盛岡市で開催されることになりました。講演会や競演会、講習会などを通して、たたら製鉄の発展の一助になれればと考えております。また、同時に岩手特産の南部鉄器に関連するイベントとして、「茶の湯釜作品展・茶道実演&南部鉄器フェア」「南部鉄器展示会」「南部鉄器まつり」も開催されます。多くの皆様のご参加をお待ちしております。
・・・・・・・・・・・・・・・・
サイト、詳しい日程や申し込みは以下に。
http://www.joho-iwate.or.jp/info/tatara/index.html

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装飾古墳 投稿者:管理人 投稿日: 9月 6日(水)02時13分3秒   引用
かわかつさんご紹介の装飾古墳と、天井石が狭くなっていくのは興味深いですね。ヤミ族の舟、これですよね!10年前、学生時代にこの舟のこの図紋にある、三角紋と、マガマゴグとよばれる蕨手紋を頭にかざした人物像が、この舟に描かれており、その人物像が装飾壁画古墳にそのまま描かれているのに、驚きました。これから、装飾古墳を残したオオ氏は間違いなく、南方海人系であることは言えますね。画像の類似性の精度があまりに高すぎるのですね。古代史はある意味、知識量も重要ですが、精度の高さをいかに高めるかが最重要な課題だと感じます。逆にいえばあまり知識がなくても精度が高い1文があれば、通用するともいえるでしょう。数十年学者をやっていても本当に精度が高い1文を出せる機会は、なかなかないでしょうね。百瀬直子さんの本は、そういう意味では、地動説みたいなところもありますが、その地道な遺跡の数字統計の精度の高さから、知られざる東日本と信州の豪族の動きを明らかにしてきている点は、相当面白く感じてきました。それで話はもどって合掌型の石室ですが、タックンさんの努力もあって、だんだん時代や地域、比較、分布度などが明らかにされてきましたね。あとは、角度とか、a+B+Cの出土遺物=Dみたいな決定打がでてこないでしょうか。

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Re:上に行くほど狭くなるとは 投稿者:タックン 投稿日: 9月 5日(火)20時16分2秒   引用
そうですね!弘花谷古墳や、井寺古墳などは窮椀状石室といって、所謂ドーム状の形式をしています。
どうも調べていったところ、この手の石室地域によっては新しい時代まで築造されているようで、前回書いた横穴式石室初頭頃だけではなさそうで、一つの特徴的な石室の形態のようです。
ただ与穴式石室の導入時期の頃には、窮椀状の形式が多く築造されていて、この辺をもうちょっと調べておきます。
ただ工法的には、ドーム状の石室の方が造りやすい、石材も小ぶりな材料で造りやすい、天井石なども上が狭いので、大型の石材も用意しなくて済む、ただドーム状なので石室の面積がかなり制限されるといったところでしょうか。
古墳時代終末期の切り石の石室などとはまた違った系譜で、石室の伝播が違ったところから伝わってきたのでしょうか?
ただ朝鮮半島域の古墳には、このドーム状の石室が多いように見受けられ、寿命大塚古墳などの装飾古墳なども、朝鮮半島の臭いがぷんぷんしてきます。

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Re: 竪穴式石室 北白川 投稿者:とみた 投稿日: 9月 5日(火)09時47分58秒   引用
タックンさん 解説ありがとう。

地元の京都野古代についても通じておられますね。

京都の北白川というのは、京大の吉田山、(♪紅燃ゆる丘の上・・・吉田山=三校寮歌)修学院の筋ですね。

さらに北上すると、比叡山とか鞍馬とか、若狭街道にでも通ずるのでしょうか。

> とみたさん、こんばんわ。
> 縄文中期の土器の形式の一つに、北白川式土器と命名された軽視の土器があることは、周知されています。
> これは今までに無い土器の、初出土地からそれぞれ考古学者が編年の都合上に名ずけられている名前で、有名なところでは晩期の亀ヶ岡式なんていうのが代表的です。
> ともかく考古学者の都合のいいように、これらの出土地の名前を編年上に分けて、自分たちの研究の対象にしているのです。
> 北白川の縄文遺跡は、北白川扇状地上に立地しており、当時の京都盆地の中でも標高が高く、高燥の土地であって背後の東山山麓には、獲物が多く狩猟できたので縄文人にとっては絶好の場所であったと思います。
> 特に有名なのは、京大農学部構内の遺跡で昭和初期から調査が行われて、ここの周辺から発見された土器が地名の名前を取って、北白川式土器なんていう名前を付けられたのです。
> 京大構内だけに限らず、ここから北のほうにも遺跡が広がっていて、北白川小倉町とか町名をつけての遺跡がありますが、本来は幾つかの集落がこの周辺に点在していたと考えられます。
> ただ前期から晩期まで、連綿と集落が続いていたか?といえば少し問題がありますが、ほぼ全期間を通じて遺跡があることが最近判ってきました。
> 京都盆地周辺には、この他岩倉盆地などにも遺跡の所在がわかっているのですが、まだ本格的には調査があまり行われていないので、今のところこの北白川周辺に集住していたのかも?しれませんね!

北白川には縄文遺跡の北白川扇状地がある。縄文の早期から晩期までほぼ全盛期にわたって遺物が確認できるとあります(京大の考古学で、先史の北白川を扱っているようですね)。塩尻の平出博物館の
土器野展示に、北白川下層式土器・・・近畿地方一円に及び東限は福井県、滋賀県、三重県にいたる京都市北白川小倉町遺跡。

この土器と同タイプの土器が6000年前の縄文前期に、塩尻市鼠(白に男かも?)屋敷遺跡
で出土と書かれていました。

塩尻から京都に移住したのか、その逆か、或いは塩尻と京都の民の交易があったかです。

縄文時代は平和な時代だとされていますので、征服ではないと思われます。

塩尻は分水嶺ですから、飯田線でも中央線で名古屋から、東京から来れますね。鉄道マニアのタックンなら、承知の介。

今の線路は、昔の古道沿いでしょうから、いろんなルートがあったと思っているわけです。

この頃は縄文海進の時代だから温暖な時代でしょう。
いろいろ想像しております。

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ピンぼけで申し訳ない 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 5日(火)02時05分23秒   引用
で、その弘化谷の解説にはこんな船との関連に言及しております。
台湾のヤミ族の船(ランショ)ですが、海人系の準構造線と同じ構造です。
家型石棺が屋根のように上へ行くほど狭くなるのと、このような石室自体が狭くなるのとで、因果関係はあるのかどうかちょいと不明です?石室のことか石棺のことか、大室の場合もあれが石室なのか石棺そのものなのか理解するに至っていません。その辺よろしく。

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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上に行くほど狭くなるとは 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 5日(火)02時00分13秒   引用
タックンの仰る上に行くほど狭くなる、というのは例えばこのようなことかと思いました。
これは福岡の弘化谷古墳石室ですが、装飾のある古墳で、筑紫国造磐井の祖先のものとされるものです。

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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大室古墳の石材 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 5日(火)01時41分16秒   引用
長野の大室古墳群の合掌式石室と今回の大和の闘鶏山(つげやま)古墳の関連はタックンもご指摘のようにやや疑問点が多すぎますので、早計に判断されない方がいいように思いました。
大室の石室に使われた石材は、叩くと雲母状に割れるものだと感じました。
そこで大室古墳群のすぐそばにあるこの崖の画像を貼り付けます。
こういう柱状列石は全国の古墳周辺にけっこうあったように思いますが、いかがでしょう?

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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合掌型 投稿者:管理人 投稿日: 9月 5日(火)01時26分12秒   引用
タックンさんこんばんは!そうなんです、長野の例の合掌型石室の近くに点在する古墳は、みんな積石が天上に向かうに従い狭くなっていく不思議な形をしておりました。やはり初期古墳の未熟さを含んでいるのでしょうか。後で写真、探索日記で掲載いたしますね。百済起源で馬の飼育と関係するとなると、馬を連れてはるばる百済方面から、任那新羅の壁をこえて陸路海路でやってきたとなりますと、またおもしろいですね。漢氏関連とも感じますが、百済からの馬を連れての渡来、政治的?・・・。確かに百済の武寧王陵の複合古墳の中には細かい積み石塚でしかも天上部が合掌型みたいなものもありましたね。実は長野のそれも、横穴墓の積石が割と平べったく薄い感じのものもあったんですよ・・。こちらももうすこし調べてみます。

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オフ会報告 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 4日(月)23時42分23秒   引用  編集済
かわかつWorldの方に歴史報告を
http://white.ap.teacup.com/soudasui/188.html#comment
またスナップを40過ぎての方へ掲載しております。
http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/
もっとよく検証してHPにアップする所存です。おおたさん、有明山の画像お借りしました。
また穂高神社にあった提灯の六つ星は松本の戸田氏の家紋と判明しました。

タックンお久しぶり。姫さんの報告にある闘鶏山古墳の詳細ありがとうございました。
しかしまだ合掌型という石棺の全貌写真に出会っていないので比較するまでには至っていません。
この古墳名が「つげやま」というのはよほど姫さんとご縁があるのかと思います。まさか子孫だったりして・・・^^;
それから姫さん、穂高神社の鳥居の形式は「両部鳥居」だそうです。
http://www2.csc.ne.jp/~gosyuin/torii-ryoubu.htm

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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竪穴式石室 投稿者:タックン 投稿日: 9月 4日(月)20時45分49秒   引用
皆さん、久々です。
闘鶏山古墳、凄いですねぇ〜新聞発表の写真を見て思わず、繁々と眺めてしまいました。
この時の竪穴式石室は、大体こういう形態が多いのも一つの特徴で、有名な奈良県中山茶臼山なんかもよく似た形です。
土木的な工法がまだ未熟だったのか?上方にせり出して行く所謂合掌型という自然にそういう工法になってしまいます。
横穴式石室の初期なども、このように上に行くほど幅が狭くなっていく形態の石室が多いものです。
特に奈良県の、椿井宮山古墳などの初期の横穴式石室などが、こういった形体をしていて一般にはまだ完全に土木技術が発達していなかった時期の古墳に多く見受けられます。
ところで信濃との関係ですが、私は直接的にはあまり関係はないと思っています。
信濃に多く点在している合掌型石室は、殆どが古墳時代後期の群集墳のなかに築造されていて、これ以前に遡る石室が確認されていない、特に合掌型石室に使われている石材は、横穴式石室に採用されているような、切石の大型の石材が使われていて、前期の闘鶏山古墳のような細かく裁断されたセン状の石材とは工法が違う、信濃の合掌式は当初から完全に意図的に合掌式に石室を組んで築造されている、前期の竪穴式石室の未熟な工法で自然的になった状況とは明らかに築造の仕方が違うと言う事です。
合掌式の形式をみますと、百済などの古墳に入り口近くに意図的に石材の中に、この合掌式をモチーフした古墳があると聞いており、やはり彼の地からの伝統が、ここ信濃の地に根付いた?と思われます。
とみたさん、こんばんわ。
縄文中期の土器の形式の一つに、北白川式土器と命名された軽視の土器があることは、周知されています。
これは今までに無い土器の、初出土地からそれぞれ考古学者が編年の都合上に名ずけられている名前で、有名なところでは晩期の亀ヶ岡式なんていうのが代表的です。
ともかく考古学者の都合のいいように、これらの出土地の名前を編年上に分けて、自分たちの研究の対象にしているのです。
北白川の縄文遺跡は、北白川扇状地上に立地しており、当時の京都盆地の中でも標高が高く、高燥の土地であって背後の東山山麓には、獲物が多く狩猟できたので縄文人にとっては絶好の場所であったと思います。
特に有名なのは、京大農学部構内の遺跡で昭和初期から調査が行われて、ここの周辺から発見された土器が地名の名前を取って、北白川式土器なんていう名前を付けられたのです。
京大構内だけに限らず、ここから北のほうにも遺跡が広がっていて、北白川小倉町とか町名をつけての遺跡がありますが、本来は幾つかの集落がこの周辺に点在していたと考えられます。
ただ前期から晩期まで、連綿と集落が続いていたか?といえば少し問題がありますが、ほぼ全期間を通じて遺跡があることが最近判ってきました。
京都盆地周辺には、この他岩倉盆地などにも遺跡の所在がわかっているのですが、まだ本格的には調査があまり行われていないので、今のところこの北白川周辺に集住していたのかも?しれませんね!

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鉄の道か攻撃の道か 投稿者:管理人 投稿日: 9月 4日(月)20時12分25秒   引用
そうですね、かわかつさんのおっしゃるとおり、相手の意見の部分だけを論じるのはよくないですね。百瀬さんの本を読んでいて、最初は部分部分読んでは、疑問を感じたものですが、最初からじっくり読むと、それなりの考え方がわかってくる。部分的には弱いところも多いですが、総体としては立派な意見となりたってくるわけですね。そういう意味で本というのはおもしろいですね。とみたさんの本も感想お聞かせください。
ともあれ、tomboさんがつつかれた景教ラインについては、わたしも大変興味深いですね。
なぜ西都原から宇佐までラインが延びたのか、途中にかわかつさんご指摘の諸神社を結ぶラインが出てくるのか、鉄の道か、はてさて攻略の道か。確かに時代によっては、修験道者のように隠れてラインを作ったかもしれず、あるいはヤマトタケルのように攻撃交えて作った支配領域を示すものかもしれず、いろいろ意見を集めたいところですね。

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とみたさんご紹介の本 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 4日(月)18時49分50秒   引用
取り寄せて読んでみます。
かなり秦氏の本質に迫るものなのかと。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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どうせ大人じゃないですよ^^ 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 4日(月)17時58分15秒   引用
そういうことを書くんだろうなあとは思ってましたよ。
あたしはどうせ大人じゃないですからね^^
しかし、理屈のこねかたを間違った場合はちゃんと指摘してあげるのも大人の仕事でしてね。
今回の下のとんぼさんの書きようには、本気で怒ってますから。そこそこに謝罪はしていただきたいですね。大儀をつかれて小儀で返すようでは人格を疑われても仕方ありませんよ。
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任那  投稿者:管理人 投稿日: 9月 4日(月)17時23分44秒   引用
tomboさん、特にうちの研究会は、身元を明らかにするという規定はありませんし、そういう方も多いので気にしないでください。1、2年たって、「実は私はかわかつだったんです。」とおっしゃっていただければ、「そうですかやはりかわかつさんでしたか。わかってましたよ」と、それだけでよいのだろうと思います。大人のつきあいというのはそういうものですからね(笑)。

さて、下記の武の倭王の主権域希望は、百済を含んでいたが、百済は主権域としては承認されなかったとの点ですが、やはり百済と中国との関係は密接でそれは認められない要求だったのに対し、新羅と中国との関係は希薄だったという前提があったのではないかと感じます。

ガラスの大家・由水常雄氏の「ローマ文化王国ー新羅」によれば、ガラス遺物の分析などから、3−7世紀の間、新羅はシルクロード・ローマ方面との交流があったため、無理に中国と交流する必要がなかったとの新説をだされています。

確かに新羅から百済へ横断してみるとわかるのですが、相当な距離があり、新羅が中国へ使節を送るには、百済や高句麗に頭を下げるか、海岸沿いをそうとうな距離航海する必要があったでしょう。そういう意味でも中国との交流は難しかったのではと感じます。

日本から中国への交易も同様で、新羅へは極めて近いのに対し、百済へ行くには、そうとうな距離があります。その間にカヤ諸国もあり、おおよそ記紀にも記されているように百済というのは、当初はうわさで聞く国だったわけです。

ところがある時期から、密接な交流を持つようになり、百済経由での渡来人なども現れ始めるわけです。そこには壬申の乱の時に任那経由で百済方面へ軍を派遣したように、任那という地域が土台になってはじめて、百済との密接な交流、人的な移動ができてきたであろうと感じます。

ただ、任那支配については、日本側で造られた伝説上の領土という説も根強いのですが、その辺はカヤ地域での前方後円墳をどう捉えるかというあたりから研究がなされてきていますね。

倭王の百済への支配権を要求したという背後には、やはり相当な自信があったと思われます。全国を統一し、大規模な軍隊を手に入れ、カヤ諸国を脅して、ある部分は割譲、傀儡政権の樹立を試みているような状況との可能性も感じます。

ただ任那から倭全体を支配した政権だったと仮定すると、任那と倭がどうしてひとつの領土として中国に主張しなかったのかが疑問となります。中国側からみて、任那という国は、倭、百済、新羅の次に来る国でありまして、加羅、秦韓、慕韓より、上位?おそらくは中国との関係上で上位にたっているものと感じます。あくまで任那が倭の上位、新羅、百済の上位にくることはないのですが。

ともかく、渡来人の歴史において、初期は秦氏や天日矛集団のように新羅色の強い、精銅関連の技術をもった渡来人が来て、その後漢氏、イマキなどの百済、中国色の強い製鉄関連の技術をもった渡来人がやってくる。はるか遠くはなれた国百済からやってくるには、カヤ地域へ友好関係や支配関係があったはじめて交流ができてくる。そのカヤ地域と倭国が密接につながるのが、500年前後か、もっと古いのか、そして任那と目される鶏林国王の王冠が日本で出土したり、松本でカヤ方面の天冠が出土する、合掌型石室と馬飼育の文化が突如長野に現れる、というあたりにちょっとしたヒントがあるような気がしますね。

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そもそも 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 4日(月)15時14分29秒   引用  編集済
ここへお邪魔してなにかを言いたい方は自分がどんな者であるかを先ず、既存の投稿者に理解させる義務がありますね。そうじゃないと安心して会話はできません。この時間帯に書き込んでくるのは自営業でしょうか?
サイトの提示もなく、連絡先もなく、自説を聞いて欲しいというのでは先ず、人として信憑性がないかと思えます。そこから始めて見ませんか?
あるいはML会員になってもらいたいのですが、いかが?

総体的にご注意申しあげたことに対して、かわかつの意見の部分を蜂のようにつつく行為は、好ましくないと申しあげておきます。それは男子のすることとは思えません。謝罪がないようなら、下の投稿は削除します。

(と申しますのはね、今回のオフ会でも「tomboは誰だ?」が結構話題でしてね。ある方はMNさんではないか?とか、またある方はいやあれはKさんの変名だとか・・???いろいろ沸騰したのでした。それはそれで面白かったけれど、ちょっと不気味です。)
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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意見交換! 投稿者:tombo 投稿日: 9月 4日(月)13時21分0秒   引用  編集済
張政の列島滞在は20年間にも及び、最終的帰国は晋王朝になってからのようですよ。

壱与が即位したのが248年。
魏の滅亡は265年。
264年には、司馬昭 が魏の相国・晋王となり,いよいよ西晋王朝成立が目前となる。

晋書によると
義熙九年
冬十二月 安平王球之薨
 是歳 高句麗・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物
とある。
倭國及西南夷銅頭大師並獻方物と二国のように記述しているのが曲者。
これは、「壱与」と「齊の建元中 (315-316年) 倭王武」を併記しているのではないか。
倭王武は梁書で初めて現れるているので、九州倭の最も強力だった王に与えたのでしょう。

「壱与」の時代は38年程度で自然消滅している。

卑弥呼の事件から「壱与」即位までの時間軸で起こったことは、今一スッキリしない。何かが隠されていると疑わざるをえない。

かわかつさんの大帶日子命・景行K(AD213〜298)の鉄の道は,
tombo的にはとても信じられない思考です。
1000人からの死者を出した卑弥呼事件その後には「壱与」と強力な倭の王がいる九州で鉄探しですか。そんな事をしたら仲哀と同じ目にあったんじゃないですかね。
あの道は、
黄幢を持った難升米(魏軍もいたかもね^^;)が倭国に攻撃をかけた道なのではないかと思われる。。
若し、
倭建命が北上した道ならそれは卑弥呼共立の九州倭国と倭奴国・難升米への戦いの道でしょう。


何れにせよ、難升米は単なるクーデターの失敗で処理された。

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ちゃんとわかっていますよ 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 4日(月)11時18分58秒   引用  編集済
アマサさん、そういう経過があることはちゃんと知っています。かわかつWorldに穂高神社の祭神でないと書いたのも、「ではどこの穂高神社だろう?」という疑問からです。
異本阿蘇氏系図がある特定の二人の人物が造ったとされ、その正統性が疑問視されて検証されてきたことも存じています。
ですが、こういう問題は「竹内文書」や「先代旧事本紀」「津軽外三郡史」などと同じで、部分的に信憑性あるなしは分析されるべきことです。すべてが偽書ではない。
ひとつ武五百建が科野国造として阿蘇氏と関係あると書かれた理由をいちど検証してみてください。それにしても間違いに気づき、すぐに訂正されるアマサさんの態度には好感を持ちます。

この問題はレイラインという観念でとらえるのも結構ですが、それは個人的にやってほしいものです。サイトが際物になるい可能性があるでしょうから。阿蘇や豊後の地域特性として、そういう一本の道があるのは楽しいことだとは思います。しかし、それはあくまで同系の神社仏閣に限って考えられはするものの、伊勢と宇佐などというまったく系統も時代も違うものを考え始めたらもう、荒唐無稽でしょう。
福井の遠敷〜東大寺などのように明らかに「閼伽」の道がある・・・といった裏付けが必要ではないでしょうか?

tomboさんはいろいろな知識を持っておられるようですが、それをどう体系化し処理するかはどうなんでしょうか?その切り取った知識は自分自身の中で違う形として分析、止揚されていますか。
まず、どうしてもあなた自身のサイトと所在をあきらかにし、白日のもとで世に問うという真摯な態度が見えないのですが・・・。面白いのはいいが、言いたいことが見えません。

武が二人いた?話をこじらせるばかりですね。
管理人さんも、レイラインなどいろいろ結構ですが、それが歴史学という範疇で認められて行くための努力を、サイト内で行っていくという気概を持ってやられているのかどうか、かわかつには見えません。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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頭が痛くなるかも! 投稿者:tombo 投稿日: 9月 4日(月)11時17分57秒   引用
宋書によると

興死して、弟、武立つ。自ら使持節、都督、倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王と稱す。・・・@

詔して武を使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に除す。・・・・・A

武の倭王の主権域希望は、百済を含んでいたが、百済は主権域としては承認されなかった。

梁書によると
卑彌呼死し、更に男王を立てしも國中服さず、更に相誅殺し復た卑彌呼の宗女臺與を立てて王と爲す。

其後復た男王立ちて、並びに中國の爵命を受く。
晉の安帝(403年・晉安帝元興二年)  の時、倭王賛有り。 賛死して弟の彌立つ。 彌死して、子の濟立つ。 濟死して、子の興立つ。 興死して、弟の武立つ。・・・@の倭王武

齊の建元中 (315-316年)   、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除す。 高祖即位し、武の號を征東大將軍に進む。・・・・Aの倭王武

と、二人の倭王武の存在が見て取れる。
Aの倭王武の時間軸から、それに比定出来そうな人物に帶中日子命・仲哀M(AD268〜319)がいるが仲哀は九州で殺されているようだ。

今一人は、小碓命・倭建命 (AD235〜273)の家臣の建内宿禰(AD266〜371)がいる。

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お詫びと訂正 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 4日(月)02時24分40秒   引用
すいません。武五百健命が穂高神社の祭神というのは私の勘違いだったようです。
いいかげんな記事を書いたつもりはなかったのですが、どこかで思い込みがあったようです。
穂高神社のHPを見ても祭神に武五百健命の名はありませんし、参考にした「新・阿蘇学」という本でも『健磐龍命は「武五百建命」の別名』とはありますが、どこに祀られているかの記述はないようです。
以下「新・阿蘇学」の記事

異本阿蘇氏系図:多氏の系譜   新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
 阿蘇神社に五十七年春、長野県の信越放送からスペシャル番組「我は海の子」の制作スタッフがやってきた。海のない長野県に安曇郡というのがあり、そこにはワタッミ(海洋神)を祖神に祀る穂高神社がある。古代の海人族といわれる安曇族。いったい、どこからこの信州の山奥深く入り込んできたのか。そのルーツをたずねていくうちに、阿蘇神社の健磐龍命に出会ったというわけである。宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、なんと科野(しなの)の国造と阿蘇国造とは「同根」の関係にあるという。というのも、健磐龍命は「武五百建命」の別名であり、その異本系図の説明書には、崇神天皇の代に今の長野県の北部に当たる科野国の国造に任命され、肥後国の阿蘇神社に祀られているとあるからだ。武五百建命の二人の子供のうち兄が速瓶玉命で、阿蘇の地にくだり、同じく崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。肥後国阿蘇郡手野に祀ってある国造神社はこれである。一方の弟の健稲背命は科野国造を賜っている。この弟の系図には、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という長野県の名門へとつながっていく。つまり、この異本系図によると、武五百建命はむしろ科野の地により深い関係があり、「健磐龍命(武五百建命)は阿蘇には来なかった」ともなりかねない。『和名類聚抄』には、長野県の小郡部の郷名に安宗(阿蘇)というのがあり、大化改新後の信濃国造族といわれた金刺氏、他田氏の祖である多氏は阿蘇氏と同祖であるといわれている。

どうもお騒がせしました。申し訳ありません。以後気をつけます。
m(_ _)m
http://yanenoueno.seesaa.net/

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レイライン大会? 投稿者:管理人 投稿日: 9月 3日(日)23時45分34秒   引用
姫さん、さっそく貴重な情報、ご写真ありがとうございます!合掌型石室というのは、ほんとに珍しく、またその石室が闘鶏山古墳にみえるということは、長野に入り込んだ馬牧をする渡来形集団のルーツを考える上でも大変貴重な情報だと感じます。高句麗系といえば、狛犬、姫さんの狛犬や神社知識の豊富さには、驚かされましたね。神社を見る視点はみなさん違っていて勉強になります。

とみたさん、ご指摘の縄文時代の全国規模での縄文人の移動、不思議ですが新鮮ですね。百瀬直子さんの本を私も今読んでいますが、縄文時代でも気候にともなう、東日本や長野方面から西日本への移動展開は、とても興味深く感じました。

tomboさん、後新羅?のほうですが、ご紹介の倭王武への記載「武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除す。」に確かに新羅・任那・・が入っているとの点はいささか気になりますね。百済は逆に入っていないし。秦氏の移動はやはり6世紀初頭になるでしょうかね。

人の移動といえば、レイライン(仮称)ですが、アマサさんやかわかつさんご指摘の地域独特の遺跡拠点を結んだラインについて、結局のところ、ラインの意味を見出す作業が必要になってきて、またその意味を見出すには、その地域の習俗をよく知っている方が研究していかないと、よく理解できないだろうと思います。ラインはそれぞれ、方角や角度など、氏族集団や地域の信仰などによって微妙な相違をしめしており、その微妙な相違を理解していくには、古代から中世近代までの、その地域の集団の意思を理解していくことが大切と思われます。創刊号でも、おおむね全国的なレイラインの指標を示しましたが、その意味については、また今後その出てきたラインに、ラインがある全国各地域の研究家さんの努力が必要になってきます。そういう意味でも、年に何度か全国規模でレイラインの研究家さんを招いて、古代史面、民俗学面、信仰面・・・、で分科会なども設けて、大会を開いてみてはどうかと感じますね。今はプロジェクターもそろってきているので、より電子的な正確な地図に基づき、講義やライン説明もできてくると思いますし、みなさんはどう思われますか。

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竹田ー宇佐ライン 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 3日(日)21時07分42秒   引用
かわかつさん、竹田ー宇佐ラインは知りませんでした。面白いですね。
時代的には阿蘇のものより少し新しいイメージですが、神社ができる以前に聖地になっていた可能性もあるので分かりませんね。

水銀に関する神社というと丹生都姫神社ですが、九州ではどうなんでしょうね?熊野神社が結構あるくらいだからあるのかも知れないですね。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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一歩前へ 投稿者:とみた 投稿日: 9月 3日(日)19時19分51秒   引用
信州オフ会の収穫を得て、次のラウンドへ前進。

いろいろな本を読んでいると、時々オヤと思うことに遭遇します。

塩尻の平出遺跡の博物館の展示にあった縄文中期の土器の一つに、京都北白川の土器があった。

昨日購入した本のなかに、縄文時代に早期から晩期まで北白川扇状地には集落があったと書かれていました。
京都盆地で遺跡が減少する時期には、近接する近畿地方の日本海側や瀬戸内海東部では遺跡が増加するそうです。集落の移動なんでしょうね。

その本の参考文献に、東アジアの古代文化第21号(1979年)があり、

◎秦氏の「ハタ」は多・大の意味(上)−秦氏語源についての一考察− 梁重海

◎諏訪信仰における南方系の要素ー隼人の流入ー金井典美

ちょっと面白いのでご参考までに紹介します。

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闘鶏山古墳 投稿者:姫 投稿日: 9月 3日(日)18時40分12秒   引用
新聞に、大阪府高槻市の闘鶏山古墳の内部が、ファイバースコープで撮影され、一部公開されていました。  今城塚古墳のある三島古墳群に含まれているそうです。 石室の床には、朱色が鮮やかに拡がっていました。  ところでこの古墳は、石積みの合掌形石室だと言うではありませんか!  信州の大室古墳群と同じですよね。  闘鶏山古墳の石は、四国の徳島県吉野川流域の石だそうで、わざわざ運んできたらしく、どうやらこの古墳の被葬者は徳島のあたりと深い交流があったらしいと書いてありました。 古墳の形についての言及はなくて、この点少し物足りなく、残念に思いました。 信州との関わりが気になります。

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信州の狛犬 投稿者:姫 投稿日: 9月 3日(日)18時28分9秒   引用
こんにちは。
皆さん、殊におおたさんにはすっかりお世話になりまして、ありがとうございました。 短い時間でしたけど、大変楽しい時間でした。

ところで、私が一番驚いたのは神社の狛犬です。  今回訪問したのは穂高神社と有明山神社、それに八面大王の山葵園に祀ってあった神社だけでしたけど、狛犬が近畿のものとまったく違う形をしていますね。  かわかつさんは何も違和感を感じないと仰っていましたので、九州の狛犬も同じような形なのでしょうか。

今までに一回だけ、信州の形に似た狛犬を見たことがあります。 都祁水分神社の本殿前にある狛犬です。  添付は右側の狛犬で、雄の方です。
写真ではわかりませんが、雄と雌がはっきり区別できます。 宮司さんのお話では、鎌倉時代の作と伝わっているそうです。  鎌倉時代に、元の古い形に沿って作られたのか、或いは関東からの石工が刻んだのか、いずれにしてもこちらでは非常に変った形として有名です。

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国造神社の銘水 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 3日(日)17時29分14秒   引用
手野の国造神社の背後には銘水が涌く場所がありますね。大分から先の中央構造線については不明のようですが、阿蘇と久住を結ぶ大地溝帯を堺にして水銀の道が発見されないかと期待しています。というのは竹田市〜宇佐へ東北東よりにやはりラインがあるからです。
七つ森古墳〜禰儀野神社〜籾山物部神社〜中臣神社〜大伴氏道臣命蹴裂権現〜宇佐神宮です。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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二つの新羅 投稿者:tombo 投稿日: 9月 3日(日)17時27分9秒   引用  編集済
「北の新羅」
(隋書に新羅として見える国で沃沮・穢・秦韓地方にあつた国)で、いまの元山付近に都がある高句麗の属国でした。・・・・穢人の国の新羅。 
五世紀の中頃には高句麗に吸収されて国名もなくなります。

「南の鶏林新羅」
六世紀に新羅の国号を襲名した南の鶏林国(慶州を都とする国・
鶏林新羅)・・・・・倭人の国の新羅。 

韓国歴史学者李鐘恒氏によれば、
「南の鶏林国は任那の一国で、503年に任那から独立して新羅を襲名した」という。
倭国の敵となつたり、ときには人質を倭国に送ってきたこともある北の新羅は高句麗の勢力に吸収され、国がなくなつてしまいました。

---------------倭人Z氏のホームページより

鶏林国王の王冠とソックリの王冠が夜須から出土しているようです。
その王冠は、ウガヤ王の王冠とよんでいるようです。
只、出土地は夜須であるということですが、盗品なので所有者は明確にされていませんし、現物が現在何処に有るかも不明ですが、安本氏や古田氏も現物を確認したとされています。
下にウガヤ王の王冠の画像を貼り付け置きます。
提供者は、夜須の児島宮の児島氏です。
児島氏によると、児島家は壱与の末裔であり桓武の末裔であると。
又、
児島氏によると、16菊花紋と五三の桐紋は児島家の家紋である。
東北阿部家のそれとは論争しているようです。

桓武が新羅(鶏林国)の血の影響下にある事はよく知られていますよね。

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阿蘇の聖線について 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 3日(日)09時51分2秒   引用
管理人さんお世話になります。リンクありがとうございます。

かわかつさん、阿蘇の聖線は地元の新聞などで何度か取り上げられたものです。阿蘇の外輪山内部に、東北東にやや傾いていますが、ほぼ南北方向に並んでいる寺社群があります。

北から国造神社(北宮)ー阿蘇神社ー高岳山頂ー白川吉見神社ー清水寺です。

国造神社は阿蘇神社の本宮と言われていますが、地元の人以外にはあまり知られていません。
阿蘇神社は火炊き神事等で知られる阿蘇12神を祀った神社です。
高岳は阿蘇の最高峰
白川吉見神社は白川水源という湧水地に隣接しています。
清水寺は南阿蘇の山中にあるひなびたお寺です。聖武天皇の時代僧行基の創建だそうです。
ここにも湧水があります。

ただ季節や太陽の方向との関連性が不明ですので、レイラインといえるかどうか自分には分かりません。どちらかというと水脈と関係しているといわれているようです。

参考文献としては「一の宮町史8 阿蘇山と水 九州の水のふるさと」という本に地図付きで出ています。

直線とみなすと20キロ以上になると思えるので、どうやって測量したのか不思議です。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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長野・九州 投稿者:管理人 投稿日: 9月 3日(日)02時33分21秒   引用
アマサさんはじめまして。HP拝見しました。古代史から社会問題まで、幅広い視点で捉えていらっしゃるのですね。さっそくリンクさせていただきます。阿蘇や九州のラインの成り立ちは気になりますね。

今掲示板読むとそうですか、長野の有明山から転じて、九州の有明、阿蘇までいろいろ話題が出てきたわけですね。九州と長野のつながりはオオ氏でしょうかね。tomboさんの前新羅とカヤ・倭系?後新羅との分類は初耳ですが、興味深いですね。

今回は、百瀬さんの本にありますように、長野では積石塚のほか、いろいろ縄文時代の勉強をすることになったのは予想外でした。平出の博物館でも縄文時代の長野の盛況を伺いましたし、縄文の大拠点としての長野と、その後4,5世紀に流入した新拠点としての長野とのつながりを、どうレイラインとして捉えられるか、そこが個人的には課題となってきています。楽しみですね。

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阿蘇の聖線? 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 3日(日)00時10分24秒   引用
それもすこし教えて下さい!
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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蹴裂伝説について 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 2日(土)21時46分48秒   引用
色々とありがとうございます。皆様よろしくお願いいたします。マニアというほどの知識もありませんが、神話や神社が好きで一時はよく巡っていました。

大分にも阿蘇神話そっくりの蹴裂伝説があるのですね。知りませんでした。熊本の方では龍の変りにエイとかナマズとかが流された伝説があり、地名になったり神社が建っていたりします。蹴破ったのは建磐龍となっています。

多氏はレイライン技術者だったという説をよんだことがありますが、かわかつさんの多氏=建磐龍という説があたっていれば、阿蘇の聖線といわれる直線状に並ぶ神社群の存在も納得いきます。

阿蘇家と皇室は遠い遠い親戚ということになっているらしく、地元の人しか知らないような神社に皇族が参拝した記録があって驚かされたことがよくありました。

今後もよろしくお願いいたします。
http://yanenoueno.seesaa.net/

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倭国と日本国(漢系ホアカリ)のデスマッチ! 投稿者:tombo 投稿日: 9月 2日(土)17時31分33秒   引用
「新羅は前新羅、後新羅と別けなければならない。

前新羅は魏の時代に建国し、後に高句麗に吸収されました。
倭国に人質を出していた北の方にあつた国。

後新羅は503年に任那から独立した元の鶏林国で倭人の王の系譜を持ち、倭国の中心的
役割を果たした南の国でした。天日矛命や葛城氏に所属した秦の民はこちらの出身。」・・・倭人Z氏

「武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に除す。」

だから、倭王は半島も含んでの倭王です。

「賛』は列島だけの王であるから倭王とは呼べない。

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なお、アマサさんのアドレス 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 2日(土)15時49分48秒   引用
httpがダブっていて飛べませんので正しいものを貼り付けておきます。

http://yanenoueno.seesaa.net/
ついでにチャーリーくんとうちのじゅんじゅんもリンクしたいと言ってます!

それからリンクはここ渡来人研究会もよろしく!
かわかつのサイトの名前は A Magical Mystery Collection渡来と海人  です。
HPとブログIt`s KAWAKATU World!!ブログにリンクしておきます。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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で、湯布院に行ってきました。 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 2日(土)15時26分5秒   引用
由布市湯布院町中川なべくら〈川西加工場裏山〉から高尾山をのぞむ小社でした。蹴裂権現は社がなく、廟だけがありました。廟は北東の由布岳〈その向こうが宇佐市です〉と修験に関わる名前の高尾山を臨む小山の上にあります。
宇奈岐日女神社の六摂社のひとつで、大伴氏の祖である道臣命(蹴裂権現)を祭っていますが、宇奈岐日女は彼の支配者で、湯布院の阿蘇川開闢の神ですから、ちょうど天照大神と手力男の命のような関係です。
そういえば長野の有明山神社の神も手力男でしたね!
これでわかるのは大伴氏が朝廷の兵部のひとつの氏族であったこと。
そして物部氏とともに遠征しているのにもかかわらず、天孫とともに同行した一族で、多氏であった可能性。宮崎の手力男が実はこの道臣の命である可能性があること。さらに阿蘇の建磐龍こそが多氏であり、手力男であり、大伴氏が管理した一族だったという可能性です。

http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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アマサさん、ようこそ! 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 2日(土)15時12分38秒   引用
管理人さん、皆様、この方はかわかつがブログで知り合ったばかりの知識おおせいなサイトの方です。かわかつもリンクしておこうと思っています。アマサさんよろしくお願いします!
ここの管理人さんは史学のマイスターですが、頭が柔らかいのでなんでもありです。^^
古代史にかかわらず通史、アジア、世界史まで広がってOKですし、時代も中世、近世、明治など、古代に少しでも関連すればOK。室町〜江戸期の芸能などもOK!!
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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武五百建命についての参考文献 投稿者:アマサ 投稿日: 9月 2日(土)14時50分32秒   引用
コメントありがとうございます。参考文献をということで取り上げてくださった記事のネタ本から1冊紹介します。ブログに書いたものの、実のところ武五百建命についてはこれぐらいしか分かりません。(笑)

新・阿蘇学
(地域学シリーズ1)

編者 熊日新聞社編集局
出版 熊本日日新聞社

阿蘇火山博物館のサイトで購入可能なようです。
http://www9.ocn.ne.jp/~tanibito/shop01.html

現在手元に無いのですが、長野のTV局が熊本まで調査にやってきたというエピソードがあったのをよくおぼえています。

阿蘇神話に関しては「自然と文化阿蘇選書シリーズ」の11巻「神々と祭りの姿」が参考になりました。このシリーズも面白いです。

しばらくこの手の世界から離れていましたが、時々見に来ますね。
http://http://yanenoueno.seesaa.net/

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道臣命と久米部と大伴氏 投稿者:かわかつ 投稿日: 9月 2日(土)12時53分45秒   引用
これはどうやら姫さんのテリトリーである桜井の忍阪に関係してきました。

湯布院町宇奈岐日女神社六所宮御神号記によれば六摂社のひとつ、湯布院町大字中川なべくらにある蹴裂権現〈けさきごんげん〉の神は道臣命です!
道臣の命と言えば大伴氏の祖神です。

大伴氏の祖。天忍日命の曾孫。最初、日臣命(ひのおみのみこと)と名乗ったが、神武天皇東征の時、大久米を率いて熊野山中を踏み分け、宇陀までの道を通した功により道臣(みちのおみ)の名を賜わった。菟田県の首長兄滑(えうかし)を滅ぼし、さらに国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐した。和歌山市片岡町の刺田比古神社などに祭られている。

忍坂(おさか)の 大室屋(おほむろや)に 人多(さは)に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 久米の子等が 頭槌(くぶつつい) 石槌(いしつつい)もち 撃ちてし止(や)まむ(日本書紀)

【由来】忍坂の大室にいた土蜘蛛八十建(やそたける)に、八十人の膳夫(かしわで)をあて、各人に大刀を佩かせて、歌を合図に斬りかかるよう命じた時の歌という。日本書紀によれば道臣命の歌。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

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武五百健命 の出自は『阿蘇氏系図』 投稿者:tombo 投稿日: 9月 2日(土)12時40分46秒   引用  編集済
熊本の阿蘇神社に伝わる『阿蘇氏系図』によると

神武皇子・神八井耳の流れに,多氏・阿蘇氏・金刺氏がありますが,阿蘇氏系図によると。

崇神10のとき武五百建命(別名:健磐竜命)が日向から阿蘇に入ったと伝わり,亦科野国造も賜る

とあるようですが。・・・・・

『阿蘇氏系図』に興味のある方は・・・・

信濃古代の通史叙述をめぐって
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/yamakawa.htm

阿蘇氏系図を論ず−宝賀寿男
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/murasaki/murasaki1.htm


『その後,欽明29金刺宮の時,金弓君が金刺舎人直姓を受け,その子・麻背君が科野国造に復帰する。
麻背の子・倉足は諏訪評督にその後裔は金刺姓を称する、倉足の弟・乙頴(おつえい)は諏訪大祝になる。
乙頴の別名は熊子・神子(くまこ)といい8才の時,夢に建御名方が現れ,これが御衣木の式となる。
(麻背の兄・目古君は池田直姓となり系統は伊那郡の支配をする)』
は、
高句麗と係わっていると思われる。

高句麗を呼び込んだのは、継体と大伴氏でしょう。
倭国滅亡前の話。

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HP更新
2006年8月6日 19:14:42 かわかつ WEB
なんとも久しぶりにHP映像の古代史に「出石・気比・若狭」を追加しました。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/izusi,kehi,kono.html

行ったのはこの五月なのにやっと・・・
次は「隼人・高千穂・景行天皇の鉄の道」をアップする予定です。


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追加更新
2006年8月8日 2:41:34 かわかつ WEB
隼人と天孫降臨と景行天皇の鉄の道をアップしました。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/hayato.html
次は遠賀川と壱岐の予定です。


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九州
2006年8月9日 7:59:00 管理人
いろいろ懐かしく??、勉強になりますね。西都原はやはり襲の国だったのでしょうね。そこで日本最古の前方後円墳が生まれて、同時期にすぐ畿内にも造営されたとすると、襲国の王とかその古墳造営の技術者ってなにものだったのでしょう。
隼人の伝承に、呉からの起源伝承があるというのはまた興味深いですね。


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今のところ
2006年8月10日 13:53:36 かわかつ WEB
熊襲が狗奴国の人だった可能性が高いなと思います。
南九州が呉の傘下にあったとすると、がぜん面白くなりますね。


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2006年8月11日 2:15:38 管理人
というのは、やはり南九州から南西諸島を考える上でおもしろい説だとかんじてきました。なんといいますか、南九州からの東征の話は、とんでもない異質な武力の海からの出現から遠征を物語っているように感じますね。
そういう意味でも呉の軍隊というのは、ひとつ気になりはしますが、はてさて詳しい論説はしらないので、考えすぎですかね??



日本人の起源ー遺伝と言語
2006年8月2日 7:38:47 とみた
工藤進先生は比較言語学が専門です。

ベスト新書で出されている本で新しい見解を出されています。

スタンフォード大学のCAVALLI-SFORZA(カヴァリ=スフォルツァ)という集団遺伝学の先生の人類移動の新説も引用されています。

要旨は下の対談から窺うことが出来ます。

日本語の起源を考える
工藤進・談(高橋宏彰・編集)
「日本語はどこから来たのか ...」この問いは 私たちのロマンを掻き立てるものだ。
時とともに変化してゆく言葉の起源をたどる試みに迫る。
ヨーロッパには大まかに40 ほどの言語が現存しますが、その系統を探る方法
として発達したのが比較言語学です。18 世紀末、インドの古語を基にしたサン
スクリット語がヨーロッパ言語に連なることが分かり、まとめて印欧語(イン
ド・ヨーロッパ語)と呼ばれるようになりました。サンスクリットと、古代ギ
リシャ語の祖先に当たるヒッタイト語、ラテン語、ほかに英語やドイツ語の祖
先のゴート語などの共通点を比較すると、文字として残されていないものの、
より古い言語「印欧祖語」を想定することができます。
興味深いことに、最近の遺伝子研究では、日本人を含む極東アジア人は遺伝
子的な観点では中国南部や東南アジア系よりも、ヨーロッパ人に近いことが分
かっています。人類学的起源と言語の起源が同じものだとは言えませんが、あ
る程度関連する可能性はあると想像してもよいのではないでしょうか。印欧祖
語と日本語の起源がつながっている可能性も十分に考えられます。むしろ、日
本ははずれに位置しているので、現代の印欧語よりも印欧祖語の特質を残して
いるのではないかと思っています。
日本語は、ほかの言語とのつながりが分かっていないとされますが、まった
く何もないところから生まれたとは考えられません。私は日本語に欧州祖語の
要素が残っていると考えるのと同様に、アイヌ語には縄文時代に日本で話され
ていた言葉のある部分が残っているだろう、方言にも古い日本語が残っている
だろうと考えています。
(『理想の詩』2006 年 5・6 月号。特集「言葉ってなんだ」理想科学工業・広
報室)


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言語とDNA
2006年8月3日 0:42:14 管理人
この掲示板、文字数オーバーすると消えてしまうんですね。まいったなー。

たぶん、その先生がおっしゃる印欧語と日本語との類似点は、名詞とかの話でしょうね。

語順のほうですが、アイヌ語、朝鮮語は、主語→目的語→述語だそうです。

フィリピン語、インドネシア語は、主語→述語→目的語で、印欧語もそうですね。

それは、語順の違う文化圏の少数の支配者が、多数の被支配者を、言語統制するのに、語順を変えるには、教育にかける労力がとても追いつかないので、名詞だけ変化させるということとも関連してくるのではないかと思います。

名詞などは、それで印欧語に近い祖語をもっているとすると、そちらは支配などをとおしての教育統制なりで変化させることは可能だったのかもしれませんね。

被支配者の言語の語順を変化させるのは難しく、おそらく長く続いた習慣、祭祀なども、変化させるのは相当な労力が必要となるのではないでしょうか。

DAN的な側面が、言語に影響してくるとすると、語順とは別に、そのDNAの人種が持つ気質が、言葉のどこに影響するか具体的に調べてみたいですね。

先ほどの名古屋とんかつのお店の宣伝紙にあったのですが、捨てる→ほかる、疲れた→えらい、とか相違するそうで、その辺は支配者のそれとも関係してくるかもしれませんが、語尾などは気質がもろに出てきて、DNA的な影響と対応してこないかと思いますね。

DNAというと、韓国に行ってみると、やはり日本に同じ顔の人が多くいて、韓国で出会った顔の人は、ほとんど日本にも同じ顔の人がいると思いましたね。渡来人や弥生人の大量流入を考慮すると当然の結果だと思います。ただし、日本で見て、韓国ではみなかった顔が、数種類あったことも確かです。ひとつは、いわゆる日本の原住民とされる縄文人的、アイヌ人的なタイプの人で、これはやはり韓国では大変すくなかったと感じます。DNAの分析でもその辺の相違ははっきり出てきていますから、縄文人が韓国に逆に流入していかなかったのはなぜか、という問いがあります。船の技術の相違はどうかとも思うのですが、はてさて。

ともかくDNAと言語の対応、かならず日常的な外部にもあらわれてくるはずで、興味深いですね。




いいか悪いか世界遺産
2006年8月1日 18:30:32 かわかつ WEB
宗像の沖の島が世界遺産運動を始めてしまいました。
今のままなら、誰も知らずにいるでしょうのに・・・


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世界遺産
2006年8月2日 2:53:10 管理人
屋久島の方も、同じようなことおっしゃっていましたね。世界遺産になったがために・・という側面もいろいろ多いようです。



台湾
2006年7月30日 6:04:41 管理人
いろいろ九州、屋久島、韓国の海洋ルートを見てきましたが、台湾の文化、歴史が次の課題になりそうな気がします。以下台湾原住民のページで、特に船の構造から伝播についてが気になります。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf09.html


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川上さんのサイトは確かに
2006年7月30日 11:39:24 かわかつ WEB
示唆されることが多くて、紀氏さんも、かわかつも以前からご紹介してきましたが、この間の北九州の方に行ったとき準構造舟の模型なんかもありましたよね。
丸木船に壁をつけた隼人型の舟。
おそらくこれが天の鳥舟の原型なのかと言いますが、トリガースタイルの舟が、今まったく残っていないのがかわかつには不思議なんです。
双胴船の形を思い浮かべると、どうも鳥が羽を広げた形に思えてしょうがない。


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2006年7月30日 13:57:56 管理人
そうですね、こちらのサイト、きわめて重要な課題を背負っていると感じます。天孫神話における船の名称が、現実の船と共通性をもっていて、しかもかなり古い伝承を語として残している、船の種類とその語の記載については、もっとも日本神話で信憑性がある部分といっても過言でないでしょう。この船の語の分析で、神話の創作の時代と文化と起源地がわかる、間違いないですね。神話の発祥が畿内だったのか、九州海洋方面だったのか、南西諸島方面だったのか、この語の解析ににかかっていると思います。そういう意味でも、かわかつさんが続けられている海人の民俗学と歴史の研究は、先のソウルの博物館のインド、マレーシア、新羅・・南方航路での流れの分析ともかかわりながら、最重要だと感じます。ただ、上のき込みのWEBのリンクがどうもうまくいっていないようであります。と、もうひとつ、かわかつさんのトップページから、その民俗学関係の辞典とか、掲示板とかブログとか、ダイレクトにいけるようにしていただけると、かなり毎回訪問するのに助かります。


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ははあ、なるほど
2006年7月30日 17:48:32 かわかつ WEB
大変ありがたいお申し出です。
そうですね、管理人さんがもしお気に入りバーを左側に持っておられるなら、そこへリンクしてもらうのが一番簡単ですが。
あるいは二ページ目のティブレイクページにはそれぞれのブログへのリンクがありますから、そこへ掲示板もリンクさせましょう。


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2ページ目に掲示板リンク作成
2006年7月30日 17:58:03 かわかつ WEB
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/teabrake.html

じゃあここにリンクしてください。
なお、トップページは今、10秒後に自動的に2ページに飛ぶようになっています。


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そうですね、
2006年7月30日 23:33:26 管理人
こちらがいいですね!こちらからだと、掲示板にも、辞典、ブログ、行けますね。私もかつてフラッシュで動画が長時間動くトップページをつけていたのですが、毎回開くたびにそれを待つのがだんだん面倒になってきて、結局今の形になりました。ワンクリックの法則というのがありまして、ワンクリックで行きたいところにいけないと、おおよそ多くの視聴者はそこであきらめてしまうらしいです。可能な限りワンクリックでいけるよう改造していきたいですね。


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Yahoo!ブログは排他的
2006年7月31日 19:01:31 かわかつ WEB
あそこだけはこのルールは通用しません。
なにしろリンクできるのはブログだけ。HPへのリターンリンクが作れない。
おまけにページリンクでも、ティカップのURLなんかはリンクできない。
あんな手前勝手なブログソフトは他にありません。

私はね、ワンクリックでしかこれないような忍耐力のない人には別に来て欲しいと思っていません。^^そういう人は大概礼儀知らずでしょうから。年取るとめんどいんですよね、そういう「奴」。


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リターンが
2006年8月1日 0:00:16 管理人
作れないとは、ちょっとおかしいシステムですね。利益を独占したいのでしょうね。

ははは、お客も数より質、かわかつさんてきですね!頑固ラーメン店のおやじを思い出しますね!

それで話は戻って、台湾ですが、今上海から台湾に行く方法とか、探しはじめました。こちらも巡ってみたいところです。マレーシア→上海→台湾→沖縄→屋久島→鹿児島、この辺の流れを具体的に検証してみたいところですね。


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それで思い出した
2006年8月1日 3:00:18 かわかつ WEB
鹿児島にはnickさんという隼人に詳しい方がいるんですわ。
あの方に一度お会いしたいものだと常々あなたと一緒にまたいかなくちゃと思ってたんだっけ。
やっぱり上海ですね。
上海からインドシナ、どうしても最後はインドパンジャブ。これでっせ。
宿曜教や仏教、バラモン教・・・遺伝子はさておいても、文化は絶対ここ。あとはチベットとタクラマカン砂漠だけど、例の不思議発見!ではかなりいいとこまで行くんだけど、肝心要のところでやっぱり民放。NHKのシルクロードもやはり上っ面。しかし、あなたお金あるんだねえ、ついに海外へと雄飛ですか?
いいねえ若いやもめは。けどねえ、たまには女性にお金使いなさいよ。^^
人生は短いのよ。あなたといい、京都の彼といい、生活感ないねえ今の人は。
@。@


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インドシナまで
2006年8月2日 2:52:26 管理人
行きたいものです。上海までも意外と安いもので、4万で2泊3日、1日自由行動ありというツアーがありました。ちょっと貯めれば上海もいける時代なんですね。2日くらい自由行動あるといいのですが・・。秋あたりいいですね。



阿多
2006年7月8日 11:38:52 管理人
そうですか、西都原と阿多隼人がそんなに関係深いとは、勉強になりますね。


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隼人研究に期待
2006年7月9日 9:29:16 とみた
かわかつさんの隼人研究に期待しています。

鹿児島のnickさんの隼人研究も地道な研究を積み上げて居られますので、草の根、隼人サークルを作るといいかもしれませんね。

西都原と笠沙は昨年行きました。
西都原にはコノサクヤ姫の墓と称するのがありますね。真実は謎ですが。今年は吉野ヶ里、奴国、伊都国、早良国を訪れました。北九州は

弥生の匂いを感じましたね。筑後川と那珂川の川、

有明海と博多湾(奴の津)が絡んだ平野、環濠集落に古代の民は生活していたようです。

考古学掲示板に登場した作家はこのあたりにも隼人の翳を見ているようですが・・・



隼人とアジア
2006年7月3日 12:54:00 とみた
アジア視点ですので本掲示板からアジア史掲示板に移します。

管理人さん、本掲示板からこの件を削除願います

隼人の謎を多面的に追っかけています。まだ脈略が捉えられません
@神話における立場・・・海の幸・山の幸で屈した海の幸が隼人といわれています。
A隼人とは何か 隼人と熊襲は一致するかどうか
B隼人と蝦夷
C隼人の根拠地は
D隼人のルーツ
E隼人の生業
F隼人の活躍した時代
G隼人と他の海族〔宗像、住吉、安曇など)とのつながり

などに整理して論ずるのも良いかなと考えています。
Eについて沖縄のゴホウラ貝、イモ貝の運搬人

かわかつさんは、Dに関心を持っておられますので私見を述べます
早大の名誉教授、古賀登先生の長江と隼人族の関係を、参考にしました。

長江の上流は南は金沙江、北は四川省岷江が支流です。岷山の南麓を流れています。ここは蜀の国で、紀元前から鵜飼が行われていた
(昨夜のNHK世界遺産=楽山大仏で明確に述べていました。これが弥生時代に稲作と共に鵜飼も来た)楽山は岷江の岩に掘られた世界最大の摩崖仏です。

秦始皇帝は岷江を二分して成都に軍事物資を水運で運び難敵、楚を滅ぼしました。蜀国は、それ以前の三星堆を都として紀元前1500年ごろの王に柏灌=河鵜という名の王様がいました。是も鵜飼が遠い昔からのこの地の生業であることを示唆しています。

このあたりは3世紀まで道教の本場です。楚が秦に破れる前は長江中流域を支配していましたが紀元前334年に長江下流の江南の越を滅ぼします。

是によって、楚国は江南まで支配していました。

鵜飼の民は長江の上流だけでなく下流域にも来ていたでしょう。

多分3国時代五とう米運動という道教が流行ります。是の江南の民が日本へ流れてきたのではと考えています。

五島列島あたりが隼人の基地ではないでしょうか。

当然阿多や大隅にも基地を広げます。

塩土爺のアドバイスで東征した神武軍が着いた吉野川にも阿多という入植地がありこの鵜飼民が神武を宇陀で援けます。

司馬遼太郎のビン越(中国福建省)の道によればビン越には百越といって南方民族のいろいろな越人が居り、隼人もその一つとも考えています。

前漢武帝の前まではビン越からベトナム南部も含めて南越という独立国がありました。



隼人
2006年7月2日 5:15:53 管理人
そこでですね、下に引き続き、隼人についてですが、こちらのケイコウ天皇の熊襲遠征についてのHPがあるのですが、こちらについて、かわかつさんやみなさんのご意見を、聞きたいのですね。よろしくお願いします。
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-hyuga.htm


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景行遠征について
2006年7月2日 9:50:26 管理人
これは失礼しました。このHPの景行天皇の遠征について図があるのですが、今度九州に行く際に、鹿児島の隼人から、日向に向かい、そこからその図に描いてあるように、高千穂経由で、大分方面へ抜ける経路について、行ってみたいとその図を見ていて感じた次第です。そこで、早めにみなさんからの、その遠征経路における遺跡などをお知らせいただけないかなと思い書き込みました。特に大分周辺については、かわかつさんにご案内いただくと思いますので、早めに計画を練っていければと感じます。


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了解です。
2006年7月2日 12:53:47 管理人
お聞きして安心しました。九州の件はよろしくお願いします。
とりあえず後で、また連絡します。



隼人
2006年7月2日 4:20:29 管理人
やはり隼人は南方中国系ですか。犬の話は古いですからね。犬種のDNAも調べてみないといけませんね。鹿児島に隼人というところがありますが、この辺みておかねばなりませんな。



なるほど
2006年6月29日 12:22:12 おおた
古代史は謎が多いからこそ、想像する部分が多く、そこから文学も生まれてくるわけですね。「文学的歴史解釈」・・奥が深いです。
大きなヒントを頂いたので、またゆっくりと考えていきたいと思います。

鹿が「志賀」ですか。確かに、長野県にもありますね。有名なのは諏訪の四賀。電鉄会社の社長がそこの出身で、故郷を懐かしんで、自分が観光開発した北信濃の高原に「志賀高原」という名前をつけてしまったそうです。昨年松本と合併した四賀村は、四つの地域が合わさってできたのでついた名前だと聞いたことがあります。
鹿は山の中で出会うと神々しさを感じる動物ですね。奈良公園の鹿はせんべいを持っていると襲ってくるので怖いですが・・


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正史でないもの
2006年7月1日 1:31:15 おおた
地方史を研究し出すと、正史と呼ばれるものは支配者の側から書かれているものが多く、残されていなかったり、意識的に隠されていることが多いことを感じます。学校教育の中の歴史教育は余計にそういう面がある。まともに渡来人のことや戦争のことを扱ってないですね。
日本が単一民族だという幻想を抱かせることが国の安定につながると考える人々がいるからなのだと思います。でも、今の日本の行き詰まりはきっとそのやり方に限界が来ているからで、それを打開するひとつの方法が、違った歴史観でこの国を見直してみること。
つまりは例えば「渡来人歴史観」で日本を見直すことがこの国を活性化することにつながるだろうと考えています。
だから、かわかつさんとはきっと賛同する部分が多いと思います。



鹿
2006年6月28日 15:45:41 おおた
こちらの掲示板を見たら、かわかつさんの詳細な説明がありましたので、二つ質問させてください。

安曇磯良は神功皇后に従って制韓の戦いに行き、功績が認められて筑紫の国に粕谷郡と安曇郡を開いて朝鮮半島との交流の役目を果たします。かわかつさんの話では磯良が宗像族の祖にもなっているというわけですね。それは宗像族が安曇族を懐柔するか、手中に収めたから?そして諏訪の建御名方命が宗像族であるというわけですね。
宗像族・出雲族・諏訪族・安曇族の関係というのはどう整理したらいいのか混乱してきます。
安曇野には諏訪神社もいくつかあり、大黒信仰もあるんです。ちなみ私の勤務先は大町市の大黒町にあり、この町では大きな大黒の石碑を囲んだ祭りが今でも行なわれています。安曇野には「大黒」の文字を刻んだ石碑もあちこちに見ます。スサノオ(出雲)・・大国主=大黒(出雲)・・建御名方(諏訪)・・宗像族・・安曇族
このような系統図を考えていっていいものなのでしょうか?

また鹿は銅鐸にも登場するように、毎年角が抜け変わるので、稲作民のトーテムだと聞きました。銅鐸の画像には射手が鹿を狙っているのと、鹿の角を片手で握ってなにやら言い聞かせているようなのがありますね。これは稲作における何らかの伝説や儀式を表していると思うのです。確かに日本の神社には鹿が飼われていたり、鹿の像が置かれているところが何箇所かあります。「海を渡る鹿」とは何を表わしているのでしょうか?なぜ鹿が海人のトーテムでもあるのか、2番目にはその辺を教えてください。



三星堆
2006年6月22日 13:34:54 荊の記し
三星堆の参考HPです。
三星堆(さんせいたい)は中国四川省成都盆地にある。
三星堆の名前は、土盛りが3つ星のように並んでいたから付けられた。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/china/sanseitai.htm

天水は北緯34度05分から35度10分の間に存在しています。この位置は日本では、かつて「太陽の道」と呼ばれ、北緯34度32分、すなわち、東から伊勢斎宮遺跡、三輪山、檜原神社、箸墓、大鳥大社、伊勢久留麻神社など日本の歴史上になくてはならない重要な意味を持つ遺跡が並んでいる位置でもあります。
 これらの現象をただの偶然であると一言で片付けてしまうのがあまりにも乱暴すぎると思います。
 秦の始皇帝の先祖の発祥の地と、日本の歴史の中で欠かせない存在である秦氏のつながりを考えると、数千キロ離れているにもかかわらず、同じ緯度に位置することはあまりにも奇妙なことであると思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/folder/900440.html
 話が「魚紋盆」に戻るが、要するに「魚紋盆」は身近な存在、あるいは日常用品として造られたのではなく、創造主にまつわるシンボルとして造られたと思われます。その裏づけとなるのがキリスト教の「洗礼盤」であります。
 「洗礼盤」はラテン語でpiscinaという、直訳すれば「魚の池」を意味する言葉であります 。キリスト教における「洗礼」を、キリスト教徒が魚と同化しようとする儀式とみなす解釈もあります。
 
 (お薦め したかったので。)


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同緯度
2006年6月23日 2:08:48 管理人
紀氏さんこんばんは。同緯度の話はおもしろいですね!確かに彼らは日本に着てから、同緯度を結ぶような習慣をつくりだしたわけではなく、きっと日本以外のところでも、同様な習慣があったと考えたほうが自然なような気もしますね。韓国での遺跡の緯度はどうでしょうね。興味深いですね。



南方のモンゴロイド?#1
2006年6月17日 10:13:50 とみた
平成17年の新聞記事があります。
3000年前のフィジー諸島で発見された頭蓋骨。骨は南太平洋の島々に住む人々の祖先とされるラピタ人です。南太平洋の島々に最初に住みついた民です。複雑な模様のある土器の文化を持ち、発見された土器の年代からラピタ文化は紀元前1350年〜紀元前650年ごろまで続いたと見られています。現在の台湾や中国南部からパプアニューギニア周辺の島々にやってきたという説があります。ソロモン諸島やニューカレドニア、バヌアツ、フィジー諸島、トンガ、サモアに広がった。

TVの世界不思議発見ーー2006年5月3日で太平洋の民のことをやっていました。

南中国や南アジアのモンゴロイドが紀元前1000年古代ポリネシア人としてタヒチにやってきた。

紀元前後にハワイ諸島やイースター島に移った。紀元後1000年にはニュージーランドに移る。海亀を神と崇めた。


ポリネシア文化の原点はマルケナス諸島にあり今から2000年前から永住して、大航海をしてタヒチなどに向かった。

カヌーを操り、石像(神官/妊婦/敵)を持つ。イースターのモアイ像のルーツやハワイのフラダンスの原型もあるようです。

別の資料--WONDER−−沖縄によりますと・・・

オーストロネシア語族の人の東への移動は大きく分けて二つの波があった。二回目の大移動はアジアのモンゴロイドたちが琉球列島を含む台湾あたりから東へと移動を始めたのは、今から6000年前といわれる。

仮にバヌアツで発見された5000年前の縄文時代土器がこの流れに乗って到着したのであれば、縄文人とオーストロネシア語族は同じルーツかもしれない。

この謎を解明する鍵はラピタ人。今から3600年前インドネシアのビスマルク諸島に突如姿を現しバヌアツ、ニューカレドニア、を経てついには
西ポリネシアのトンガ、サモアに居住を始める。2000年前ごろには再び
拡散シ、クック諸島ソシエテ諸島、マルケサス諸島など東ポリネシアに到着。
高度な土器文化と栽培植物を運んだ海のモンゴロイド集団です。

昨日南アジア史を読みました。インダス文明が衰退し始めたのは4000年前で消滅したのは3700年前です。この地域にはドラビダ人とオーストロ・アジア人が居ました。ひょっとするとその難民かも知れません。

日本の縄文時代の大火山爆発で逃げ出した民かもしれません。


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東南アジア人
2006年6月18日 6:10:26 管理人
先にメイン掲示板でもお知らせしたんですが、以下の2チャンネルの遺伝子学者?の話は、かなり興味深いものがあります。(ただし2チャンネルというのは言葉が荒くて好きになれないんですがね)
http://ton.2ch.net/geo/kako/1000/10000/1000063598.html

どうもこの掲示板の話によると、東南アジア人というのは、黒人から分岐してきたらしく、モンゴロイドの一派ではないというんですね。確かに、GM遺伝子のDNA構造的にも、モンゴロイドよりは、白人のそれにもちかい配列ですし、外見的にもなんとなく北方のモンゴルにいるモンゴロイドとは似ても似つかない感じがありますね。それで、その南方系モンゴロイドが九州にきていたものの、そのカルデラ大爆発で絶滅したってその掲示板の人は言っていますね。それははじめて聞くんですが。

もっとも南方系の文化の大きなながれがあることは否定できず、そういう意味では、やはり5世紀代のごく最近?の流れに乗ってきた可能性があるのでは ないかと感じます。縄文系のそれではないのではないのかもしれませんが、どうでしょうね。というのも、その掲示板の人によると、南方の住んだランド起源のモンゴロイドが、日本列島の沖縄人、縄文人になって、北上してアイヌになったとの説を全面的に否定しているんですね。縄文人は北方系モンゴロイドだというんです。その辺も気になるところですね。
ともかく、ずいぶん遺伝子学も揺れ動いているようで、起源前後以降の流れのみが、今のところ当てになる解析なのかなと思いますがどうなのでしょうね。


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このHPの
2006年6月21日 6:43:39 管理人
遺伝子のルート・時間軸のデータ図はかなり貴重ですね。じっくりこちら研究させていただきます。たしかに東南アジア系と縄文アイヌ系はこちらの図でもダイレクトにはつながらず、一度北上した南方モンゴロイドが再度くだってきて北方モンゴロイドに変化して、縄文になっているようですね。ま、それは通説どおりの見解ということになるのでしょうか。
弥生人はこの図だとやはり、北方モンゴロイドつまりバイカルと同じ系統のそれの分派ということになりそうですね。
それで、この図にはない、4,5世紀の南方中国・朝鮮南部系の民族の流れが、渡来人にかかわってくるとおもうのですが、新撰姓氏録などをみると、結構高句麗系の民族も入ってきていて、4,5世紀というのは、多数の南方系の渡来人と、少数で畿内に入った北方高句麗系の渡来人とが、融合した文化を花開いたのでしょうかね。言語とDNA、似たもの同士ですが、どのくらい相関性があるのかなー。


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私の今のテーマ
2006年6月21日 8:21:39 とみた
一気呵成、ミトコンドリアDNA・・・このテーマでかわかつさんが猛烈に取

り組んでいますね。

江南由来の倭人で決着していた観方に、DNAとかGm遺伝子から見た民族移動

を織り込むとどう修正したらよいか。

私も、いろいろ探っています。

現代は考古学的な知見も増えて、従来の考え方を修正せざるを得ず、

これが古代史の真相を究めるのを一層難しくしています。

私は橿原考研の関川尚功の講義を聴いて目から鱗です。楽浪の漢人のことを

もっと勉強して欲しいと言われました。これが大和朝の武官、文官として

大きな働きをしている。

私はシルクロードからさらに南へ、いま南アジア史でインドも勉強していま

す。仏教の成り立ちと海上シルクロードでの民族の交易がどの程度あったか

を探っています。

総合的な視点で、古代史を捉えてみようとしています。

管理人さんが学生時代に学ばれた基礎的な知識、たとえば新撰姓氏録などの

知識を教えていただければ何かが掴まえられそうな気がします。

怪しげな偽書や偽hpを排除して正統な本を本格的にヒトツずつ積み上げる方

が、古代史の謎を探るには早いという姿勢で追求しています。

タックンさんもこの勉強態度だから大いに参考にしております。


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本掲示板へ
2006年6月21日 10:44:35 とみた
関川先生の主張を本掲示板へ投稿します。題して大和における渡来人



ナスカの地上絵
2006年6月16日 14:38:53 ota
先般、上野の科学博物館にナスカ展を見に行き、感激して帰ってきました。
観客が一杯で、今、この時代にナスカがなぜこんなにも人々の心を捉えるのだろうかと不思議に思いました。
日本人とナスカ人は結構血のつながりが濃いのですね。ナスカから発見されたミイラのDNA鑑定をしたところ、日本の縄文人のDNAに極めて近かったそうです。
そういえば、ペルーのお隣のエクアドル(サッカーWC決勝進出しましたね)
には、四国の縄文土器と同じ模様の土器が出土するそうです。
今から4000年前に鬼界が島の大噴火があって、九州・四国一円が火山灰に覆われたときに、命からがら川をいかだで下った縄文人はそのまま黒潮に乗って新天地を探して南米まで逃げていった。
その人たちの末裔が作ったのが、ナスカの地上絵であり、ひいてはインカ帝国だったわけで、
われわれがナスカに対して抱く親近感は
先祖の縄文人に対して抱く親近感に近い。
だからころこんなにひきつけられるのだと思います。
商売上、甲骨文や金文も書くのですが、やはりナスカや銅鐸の画像との共通性を感じます。汎アジア文化のなせる業という感じです。そんなわけで、書道の授業でナスカの地上絵を生徒に書かせています。


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遺伝子
2006年6月16日 18:02:55 管理人
otaさんこんにちは。上野でナスカ展やっているのですか!私もさっそく行ってみます。
そうなんですね、DNA的には、4000年前?に白人、北方系モンゴロイド、黒人、南方系モンゴロイドが分岐する以前の、アジアから大陸を越えてアメリカ世界にまで広がっていた人種のDNAが、どうも縄文人やアメリカ大陸の原住民とのことを読んだことがあります。
とみたさんもその辺のDNAは、きっとご興味しんしんだと思いますね。
甲骨文字まで書かれるんですか!すごいですね。紀氏さんも、その辺勉強され始めていますね。銅鐸とナスカの画像、どうつながるのか楽しみですね。



古代瞑想/迷走
2006年6月11日 6:08:16 とみた

皆さん、わたしは最近は瞑想し迷走しております。


岳は山の上に羊・・・を象形した文字。これは紛れもない甲骨文字です。殷(商)時代の王様の占いの言葉です。

夏は二里頭文化、殷は二里岡文明。いずれも、いろいろな文明から良いとこ取りして黄河中流域文明を作り上げた。

山東半島の龍山文明からは酒器の鼎を採用し、長江下流の良渚文明からは玉と神獣面像と太陽神を取り上げてトウテツ紋をつくりあげ、山西からは楽=鐘や太鼓を取り上げた。

西北の遊牧民からは、牧畜のト骨、とレキ〔三本足土器)を採用した。儀礼や楽を重んじ、鼎の数で臣下の身分差を縛り身分社会を徹底させてその秩序維持を図った。

周は西族である。西域から来たかもしれない。チベット民族は紀元前の中国に跋扈していた。
羌はチベット系であり、姫姓である。殷は羌=羊族を人狩りして犠牲にした。周は羌の応援を得て殷を滅ぼした。

紀元後も黄河、長江の水源に近い青海省の吐谷渾とか吐蕃として生き残っている。
吐蕃は唐を困らせるほどの強勢であった。

トカラ語は、ローランのコーカサイド女性の ミイラが生きていた時代紀元前2000年ごろから紀元前200年ごろは月氏が匈奴に滅ぼされるまではトカラ語を話し、前漢の植民地のゼンゼン国になってもトカラ語を話していたらしい。


シュメールは今のイラク戦争の自衛隊のいるサマワに近い。ウル、ウルク、ラガシュなど古代文明が栄えたところ、ウルクの王様ギルガメシュ王の物語、ノアの方舟のルーツの大洪水や不老長寿の薬草が蛇に盗まれたことで記憶がある。

蛇はチグリス、ユーフラテス合流する流域には一杯いたらしい。

牛の信仰はどうかは不明。でも鹿とか山羊とか鷲とかライオンの合成獣が気になる。合成獣が都市国家のシンボル神になる。

中国の北東部の龍は鹿と牛と・・の合成獣です。

脱線ついでに、ヒンズー教の崇拝する牛はコブ牛です。水牛ではありません。

中国の雲南やベトナムで崇拝され神の犠牲になるのは水牛です。

水牛、太陽心、心柱、銅鼓でお祭りし神に願う。銅鼓や銅鐸を鳴らして神に祈る




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