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渡来人研究会掲示板ログ12

 

常陸の首長
2006年1月26日 21:45:40 タックン

鰹木のかたどった家型埴輪は、大型のものが近畿大阪の有名な、今城塚古墳から出ています。
船塚古墳は、中規模の古墳ですがこの埴輪の出土によって、かなりの脚光を浴びておりますが、関東地方の中でも特に茨城県内の古墳は、他の地方の古墳とは様相が少し違うようで、注目をしています。
特に古墳時代後期の頃になってくると、横穴と呼ばれている墳墓が、太平洋側の地方に多く見受けられることで、横穴式石室とこの横穴が同じ地域に散在して、同時に墳墓を築造されていた事です。
ただ内陸部の方面には、顕著な古墳があまりなく海岸線側に沿って古墳が存在しているのも、これから考えなければいけない問題です。
ともあれ私は、この地方の古墳築造者たちは、海洋に依存していた民族?と考えています。


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舟形埴輪も気になる
2006年1月27日 0:50:49 かわかつ WEB
私の知るところでは舟形埴輪は宮崎県、大分県国東、茨城県?などみな太平洋側だったと認識していますが、日本海側では出てないのでしょうか?



リンク集のサイト名
2006年1月25日 0:06:30 かわかつ WEB
以前も書いたのですが、管理人さんHPのリンク集内の私とこのサイト名をA Magical・・・か、ロゴマークに変えていただけないでしょうか?


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バナー
2006年1月25日 12:22:50 管理人
了解です、さっそくかわかつさんHPのバナーでリンクさせていただきました。ついでにうちのバナーも作ったので、そちらに変えておいてくださいね。


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こっちもOK
2006年1月25日 18:22:05 かわかつ WEB
対応感謝、こっちもすぐやります。


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紀氏さん
2006年1月26日 7:10:36 かわかつ WEB
>「風」の甲骨文字に四角の各隅に角(ツノ)を付けたような文字「」があり、四隅突出型墳丘墓や伊勢神宮では正殿はじめ各社殿四隅に石で丸く囲まれ設えられたものがある。また乞巧奠(七夕祭)に飾器として用いられる角盥の形など、これらは風の甲骨文字「」を彷彿させられるものがある。

http://kaze.world.coocan.jp/2fuusetu.htm

ご一報まで。


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雷神?・・・・よろしく
2006年1月26日 9:56:06 いばらの紀氏
かわかつさん、有難う御座います。
風神が旗と繋がり、
雷神?・・・・よろしく御願いします。(^.^)(-.-)(_ _) 

 やはり 秦氏(ハタの漢字には・・・・あります。)は、兎 羽 卯
胡 鵜 芋 右 雨 烏 禹 宇 でした。



近隣の古代情報
2006年1月24日 22:48:53 いばらの紀氏
 
 タックンさん今晩は、御存知かも知りませんが今度合併する 玉里村 の遺跡からの情報をお伝えします。
玉里村 船塚古墳出土の家型埴輪は高さが103cmの大型のものだそうで、入母屋造りで千木がみえ棟には手で丸めた不揃いの太い鰹木が10本載ってます。
「古事記」に、雄略天皇が河内に行幸した折 鰹木を上げた大県主の家をみて天皇の御舎に似せて造ったと怒り、その邸宅を焼かせようとしたとあります。
古代の常陸の国 玉里村(国府 石岡の南隣り 霞ヶ浦沿い)の首長層は、鰹木を上げた天皇の御舎並みの居館に住んでいたのでしょう。
関東が関西に海で繋がっていた・・・・・・・常陸風土記のツチグモの話はプロカバンダではhttp://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/tutigumo.htm
玉里の首長と河内の大県主との繋がりに妄想を膨らませます。

口訳・常陸国風土記
http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm
「常陸の国は、国広く、山も遥かに、田畑は肥え、広野の拓けた良き国である。海山の幸にも恵まれ、人々は安らぎ、家々は満ち足りてゐる。田を耕し、糸を紡ぐ者たちには、貧しき者はない。左方の山では塩が取れ、右方の海では魚が取れる。また、後方の野には桑原が広がり、前方の原には麻が栽培されてゐる。海川山野の幸の豊かなところである。ただし(湿地が多く)水田は上質のものが少ないので、長雨が続くと、苗が育たないことがある。程よい日照りがあれば、穀物の実りは充分豊かである。」
「中臣幡織田(はとり だ)連(むらじ)」・・・中臣と幡 織田 ハトリ(羽鳥?)繋がり!・・・(お隣りの小川町 に「幡谷」の姓の有力者一族が・・・・


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坂東は「出雲国」だった?
2006年1月25日 12:46:18 いばらの紀氏
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/band/ban-101.htm

。『常陸国風土記』にも、古は足柄の岳坂より東の諸県のすべてを「我姫(あずま) の国」 といったとある。景行紀のヤマトタケルは場所を上野国の西の碓日坂とし、山の東の諸国をアズマの国と号したとある。
□ この坂東の東の国は、もしかして「出雲国」だったのではないか、という妄想をぬぐいきれない。それはあの卑弥呼の邪馬台国を、何が何でも自分の生まれ故郷に引っ張り込む主知的な発想と異なり、いささか証拠がないわけでもない。
             坂東千年王国


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出雲→紀伊→毛野
2006年1月26日 1:43:41 管理人
紀氏さんご紹介の出雲→紀伊→毛野の流れ、大変興味深いです。二荒神社の件、なるほどと感じます。出雲臣=先住渡来系とすると、毛野臣は皇室系ですが実際はどちらに。毛野領域にある多胡の八角墳がやはり誰のもののか気になります。



ヘルプ
2006年1月23日 19:11:10 いばらの紀氏
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/

120.Re: ・・二位で由。
360度の景観が得られ、非常に見通しの利く山頂ですが、この習慣は、途切れることなく何百年も或いは千年近く続いてきたもので、これは凄いと思います。  
山頂近くには神野寺(こうのじ)があり、行基が勧進して建てたといわれています。 聖武天皇、嵯峨天皇などの勅願寺です。
因みに、神野寺の元の名前は「髪野寺」でした。 嵯峨天皇の皇子の時の名前が神野皇子ですので、或いはこの名前を貰って、神野寺にしたのかもしれませんが、最初に「髪野」と名づけられたことにはどのような意味があったのでしょうね。
「石には、赤道と子午線が刻まれています。  」
・・・・古代人の地球儀・・ダワ!。
如何でしょうか・・・地球規模の測量では、ありませんか?_
古代、日本に世界地図作製目的の測量士が存在していたのです。
・・・・・・どうすれば、社会に理解されるのでしょうか?
      たすけてください・・・私は・・・・どうすれば・・いいのですか?


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地球儀
2006年1月24日 0:41:37 管理人
確か沖縄方面の島の海底に、ピラミッドみたいに整形された土台がありますね。1万2千年前に滅んだとかいうスンダランドのそれでしょうか。その地球儀もその時代のそれですか?遺伝子的には、確かに白人やモンゴロイド分岐以前の遺伝子が、アラスカを越えて、アメリカまで行ってインディアンの祖となっていることは有名ですが、問題は未開文明人とわれわれがその移動民をみなしていることでしょうね。ほんとに未開人だったのか、あるいは地球の果てまで測量しにいくそこそこの知能の人類だったのか?なぞですね。地動説か、天動説かという問題とにていますが。



参考HP
2006年1月23日 18:12:08 いばらの紀氏
http://kamnavi.jp/log/ugainu.htm
・・・・・・・・参考・・?


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秘密 地図 利益・・・権利収入・・・裏社会・・・生き残り。
2006年1月24日 4:07:55 いばらの紀氏

http://home.catv.ne.jp/hh/quan/am1.htm
参考資料
「フリーメイソン」講談社現代新書
吉村正和著

http://elbaal.hp.infoseek.co.jp/iluminaty.htm#satan
「イルミナティ」
小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、
すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、
物を買うことも売ることもできないようにした
ローマ法王庁に潜入したメーソン・メンバーは、この長老会議に属していると言われています。もしそれが真実であれば、ニューエイジ運動の指導部は、裏ではバチカン内部のメーソンと通じているということになります。
超独裁世界共和国の実現です
人間を完全に無智化させ、動物化させ、そして国家そのものが成立しないような状態をあちこちにつくり、それを一部のものがコントロールし、そして、この地上が完全に動物的自由、あるいは動物的な平等というものを与えることを目的として動いている

http://www.tomaatlas.com/lib118.htm
人間の骨の数、「365本」、人間の平均体温、「36.5度」、人間の1年、「365日」。面白いですね。誰が、考えたんでしょうね、この数字?(笑)

古墳の石棺を樋管に転用したものが7点出土
http://www.skao.net/rack/ike/ike10.html
天平3年(731)に行基が狭山池を改修したことが記されている
南河内考古学研究所

[11月14日 いい石の日]
山梨県石材加工業協同組合が1999(平成11)年に制定。
「いい(11)石(14)」の語呂合わせと、石工職人が尊ぶ聖徳太子の命日であるこの日を「太子講」としていたことから11月14日に決まりました。

日本国憲法制定、自民党結党の陰に秘密結社あり
       坂本龍馬はフリーメーソンに操られていた
http://homepage3.nifty.com/jwil-helpcult/karuto/karuto200409.html
週刊現代 9/11号


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秘密
2006年1月24日 9:12:09 管理人
そうそう、昨日はたしか例の地震掲示板の方が、紀氏さんの興味ありそうな秘密結社のこと書いてましたよ。
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm
昨日読んでた本は「ブッシュ終わりなき世界戦争」という単行本をちょうど借りたところだったので、読んでますが、いろいろ考えさせられますね。表面的な救済目的の戦争で名声と一緒に利益もあげたい、一石二鳥の論理で国家運営していく姿勢、最近はもとより、古代から為政者は考えそうなことですが、日本古代史の場合もそういうケースあるでしょうか。個人的には一石二鳥論は好きでないですね。愛のある救済はもともと利益を求めてするものではないですし、逆に不利益に基づくものですよね。一石二鳥のいい話でやっていく結果はTVでもやってるけどどうなるのですかね。



ブログ
2006年1月23日 0:22:46 管理人
さっそくブログ作ってみました。トップページから行けます。
http://sun.ap.teacup.com/toraijin/
さて、どう使おうか迷うところですが、すこし頭ひねってみますね。ではでは。


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さすがに早い!
2006年1月23日 3:11:56 かわかつ WEB
私も昨日新しいブログを作り、さらに店子も入りました。ペットサイトですけどね。http://white.ap.teacup.com/soudasui/
http://pink.ap.teacup.com/kinngyotomick/
「古代で遊ぼ」サイトの画像全部見たら、あるわあるわですね。
すごいのがあります。しかも動画で!参考になりますよ。


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古代図
2006年1月23日 3:13:58 かわかつ WEB
これなんかもすごいことになっています。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/kkg12.html
画像掲示板に少し他のも入れときますわ。


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動画
2006年1月23日 4:14:13 管理人
おお、動く地図分布図すごいですね!そうかフラッシュで簡単に動画が作れるんでした。どうやってやるのかちょっと研究してみます。子犬ちゃんもかわいい。


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作画掲示板
2006年1月23日 6:01:47 管理人
先のブログを作画掲示板にしました。自由に絵画しながら、持論を展開してください。写真やフラッシュ動画も掲載可能です。会員登録された方に、パスワードをお教えいたしますので、最下部の投稿ボタンからパスワードを入れて、投稿してみてください。



カゴメ 仙台に!
2006年1月22日 20:44:42 いばらの紀氏
仙台の神社のふしぎ
仙台城本丸を基点として、時計回りに
大崎八幡宮 青葉神社 東照宮 榴ヶ岡天満宮
愛宕神社を線で結ぶと見事な風景が浮かび上がります。

これはカゴメ紋、または六芒星と呼ばれるもので、
仙台の中心街はこの六芒星をなぞって街づくりされていたようなのです。

こんな視点からの神社めぐり、楽しくなりそう・・・・・・

  東北の地にも カゴメ 測量が・・・・


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愛宕(あたご)の地に都を定め平安京と名づけた。
2006年1月22日 21:05:23 いばらの紀氏
キトラ古墳のある飛鳥の都の真北、東経約135度50分上の櫻井市にはニギハヤヒの神体山、三輪山があるのだ。  ニギハヤヒが亡くなって籠もった三輪山から真北に北辰、北極星まで伸ばした経線上のレイライン。 遷都は常にそのライン上で行われたのである。
http://homepage1.nifty.com/fumio-y/tuki30.htm


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ニギハヤヒのもうひとつのトーテム、亀が登場した。
2006年1月22日 21:11:53 いばらの紀氏

「甕(ミカ)」が酒などを醸(かも)すカメのことで賀茂(かも)の大神と呼ばれたり同音の動物、亀のことになる。そしてこの亀が四神相応図の玄亀のことであり、色は黒で方角は大神の存在する北。預言歌、カゴメ唄に歌われるカゴメの封印の中の鶴と亀のカメなのである。鶴は鳥のことばかりではなく弓神楽の弓の弦(つる)の意味も含む。というわけでだんだんニギハヤヒの匂いが強くなってきた。
http://homepage1.nifty.com/fumio-y/tuki29.htm

八上媛は出雲簸川郡で、安産して、生井、福井、綱長井の三つの井戸を産湯に使った。そのことから、御井(三井)神と呼ばれることになったいう。これでまず「御井(三井)神」という名前のいわれが明らかになった。


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日本全体を埋め尽くして
2006年1月22日 21:25:39 いばらの紀氏
 日本の鳥居に似た形の巨石文化で有名なものには、イギリス、
Wiltshire(ウィルシャー)州Salisbury(ソールズベリ)平原の
Stonehenge(ストーンヘンジ)がある。
http://homepage1.nifty.com/fumio-y/tuki03.htm
鈎三股四弦五の各辺に神社、祠その他の呪法装置を日本中に
配置して、龍の形の日本全体を籠目に縛り上げてしまった。

 かれらは各辺が四と三、すなわち四三(黄泉)の
四角い結界を張って正神を黄泉に閉じこめた。三平方の定理、によって計算すると、この直角三角形の斜辺は√16+√9=√25となる。
それで下に示したように斜辺、√25=五の方形の結界を張れる。


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桔梗 秩父神社 ・・・高麗川?  籠目
2006年1月22日 21:44:07 いばらの紀氏

家康ゆかりの久能山、幕府直轄地で経済の源とも言える佐渡金山、明智一族が移動した福井、そして江戸、日光を結ぶと六角形、つまり籠目になる。
光秀も 「愛宕山 」で歌会を開き、次のような歌を詠んでいる。
「時は今 あめが下しる 五月哉」
「時」は「土岐」、「あめ(雨)が下しる」は「天下」を表わし、土岐氏が天下をとることを暗示しているのだ。光秀の心はこの時に決まっていたと思われる。既に何者かとの打ち合わせは完了していたのではないだろうか。
 事件の背後関係を考える場合、事件によって最も良い思いをした者があやしいと考える。本能寺の変で最も良い思いをしたのは・・・?
http://www.johokan.net/history/Rekishi/Kagome/

天皇家
 昔から天皇家はその権力が危うくなると、陰謀を企てている。古くは長屋王の事件があり、源頼朝に対し義経を操ったり、足利尊氏に対し新田義貞を操ったりしている。江戸時代幕末にも似たようなことがあった。天皇家の陰謀の場合は、それが陰謀とならずに認められてしまうところが怖い。光秀は天皇家の陰謀にはめられ、見捨てられたという線も考えられる。皇太子の誠仁親王はなぜか変後に自害している。光秀と結託していたのだろうか。


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カゴメ 愛宕 ライン
2006年1月22日 22:17:17 いばらの紀氏
http://www.geocities.jp/jihyoutei/k040111-1.htm
説では、日本全国に愛宕神社が800余社あると言われています
平将門が関東地方に勢力を張り、京都政権に対抗して、この守谷の地に東国政権を樹立しようとしました。
愛宕
http://www.city.moriya.ibaraki.jp/section/0820/bunkazai/koushoubunka.html
  「愛宕」の地名にラインのポイントと権力の集会所を感じます。・・(現代の企業 に 古代から篭目のラインが・・・・)


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ターミネーターかこいつ
2006年1月22日 22:56:02 かわかつ WEB
俺がねじをまくことになったらしい。制御不能のスチームローラーだわい
ーー;sayonara,
当分さよならしますわ、またね


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収集癖が・・・・また、
2006年1月22日 23:21:58 いばらの紀氏
 情報の収集癖が・・・・また、・・
整理する時間がまどろ こしく 進歩の無さに我ながら痛み入ってます。
出雲・・・先住渡来連立都市国家との考えです。(秦の徐福系も含む。)
秦氏も二系列かと?(秦の徐福系とジャコウ系?)
(徐福は禹系?始皇帝系?)
(ジッコウは商人系)
 大和体制=2系統(出雲系分裂国家)+天孫=初期大和。
始皇帝はロスチャイルド系?
紀氏は反秦の始皇帝系で 禹の末裔と考えます。
源氏は騎馬系?とするとモンゴル・・・夫系?
始皇帝は西域の商人系
物部も二系列かと?(秦の徐福系とジッコウ系?メイソン系?)
蘇我(文字からすると魚キリスト+禹 母系)
天皇は証人系???
・・・紀氏の妄想デス。


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陰謀史観
2006年1月23日 2:31:03 管理人
上記本能寺の変のHPでの、陰謀の主役がだれかについての諸説、なかなか面白かったです。見えない糸、結び目だけが文字に残る可能性があるのでしょうか。レイラインは隠す必要あったのかな?軍事目標とすると、地図同様表に出ないかもしれないのですが。東北は、蝦夷との関係等で、渡来人もいろいろ移住させられていますね。秋田から出ている漆紙文書あたりはなかなかその辺おもしろい資料ですよ。


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さよならはうそよ
2006年1月23日 3:02:24 かわかつ WEB
紀氏さん気にしないでね、冗談よ。復帰おめれとう。


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4段
2006年1月23日 12:23:47 いばらの紀氏
かわかつさんもお元気になられた様で良ろしゅおました。
紀氏もおかげさんで・・・・
ところで
「紀氏は反秦の始皇帝系で 禹の末裔と考えます。」ですが
紀氏(箕氏)は 始皇帝に対し 反対勢力と言おうとしました、
誤解のない様 よろしゅうに。
出雲系の紀氏が「香取神宮」フッ主と考え「古墳のこころ」を描きました。(余談)


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参考HPです。
2006年1月26日 20:50:36 いばらの紀氏
http://homepage2.nifty.com/ikd/tenson2.htm



こういう風に
2006年1月22日 13:36:02 かわかつ WEB
抜粋してくれると紋切り型にならないと思うのですが。


紀氏さん紹介のはた地名の分布抜粋


スサノオ引退後の子等が活動し大国主が国譲りするまでを古出雲、それ以後を新出雲としておきます。

畑作、できれば水田も可能な場所。
福岡は除いておきます。遺跡から見ても天之忍穂耳系の地域だと思います。

遠賀川流域、基本的に出雲領土だと思いますが、立岩遺跡は出土物から天之忍穂耳系の遺跡でしょう。
遠賀川を境界線として東側が出雲とみておきます。
大分がなぜ豊の国とされているのか。
ひとつは遠賀川流域でしょう。
適当な起伏のある地形の中に網の目のような小河川がたくさんあります。灌漑技術が未熟な段階では福岡平野よりずっと効率よく土地を利用できたのではないかと思います。
その隣の周防灘に面する中津なども同様です。

もうひとつは阿蘇山の大野川流域です。現在の状況をみても説明するまでもないと思います。阿蘇山麓は狩りの場所としても絶好だったのではないかと思います。

筑後川下流域は現在では水田地帯ですが、当時は灌漑技術未熟で利用できなかったと思います。
利用できたのは背振山南麓のゆるやかな段丘地帯。
吉野ケ里などの遺跡がその段丘部にならんでいるのは当然というわけです。
ここがアマテラス族の領土となっていた可能性はありますが、遺跡の状況から半島勢力が強いですから出雲の地とみておきます。

伝承とは無関係に必要条件だけでほとんど決まりそうです。
下図はハタの地名の分布図です(地図で見る日本地名索引/ABOC社による)

地名には羽田、波田、半田、秦などが含まれますがほとんどが畑で非常にくっきりした偏差があります(なお、秦は2カ所しかありません)。
あまりにもきれいに遠賀川と日向耳川あたりを境にしているので、笑ってしまうほど・・(^^;
この分布がずばりと古出雲と新出雲の勢力範囲にあった地域を示していると思います。
だとすると東北に散在しているのはなにか理由が・・これは後ほど。

スサノオ引退直後BC130頃の古出雲の支配地は遠賀川東岸〜周防灘沿岸(山口側も含む)、阿蘇山東山麓から別府湾沿岸、加えて背振山南麓に飛び地があった。
国名でゆけば豊前、豊後と長門、周防の沿岸部です。

ふたつの出雲

分布図は画像掲示板に別記載しています。


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分布地図は
2006年1月22日 13:40:30 かわかつ
以下のURLでこのサイトの画像掲示板へ飛びます。
http://8811.teacup.com/toraijin/bbs


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秦字のこと
2006年1月22日 13:56:41 かわかつ WEB
ここは私自身のコメントです。

秦地名は二カ所・・・つまりこのサイト運営者はそれ以外の地域はなぜそうなったかのコメントはしていないようです。私が思うに理由は3つあるかと思われます。
1 出自を怪しまれるのは困るので秦字を嫌った。あるいは良い文字に改めた。
2 全く秦氏とは関係なかった。畑作地帯からの命名。

3 秦氏とは別に波多、畑、などの氏族があった。
それ以外にあれば誰か書き込んで下さい。

「遠賀川と耳川を境にして」・・・おそらくこれが豊の国すなわち海人が秦氏を運んでいけた、あるいは秦氏自身が根拠とした領域。または押しやられた場所でしょうか?できれば吉備の秦原村ともうひとつ?の場所も明記して欲しかったところです。

しかしこういう図が最も役立ちますね。紀氏さんお手柄ですね!


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ブログに作ってみました
2006年1月22日 15:03:19 かわかつ WEB
やはり自分なりに一度消化してから一覧性のある記事を作ってから紹介した方が理解しやすいだろうと思います。

http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/2006/01/post_06e0.html

ブログは実に簡単でしかも無料で、その上自分のネット上の名刺代わりになるものです。自分の考えを正確にわかりやすく理解してもらうには根無し草の投稿者より、相手が安心するですよ。持っていた方が絶対いいです。紀氏さんをより深く理解してもらえるはずです。

私のブログトップページは投稿者名横のWEBマークからです。
これはニフティですが、tea cupの方が使いやすく、機能も充実しています。

ブログを作ろう!
http://autopage.teacup.com/


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正直言って
2006年1月22日 15:32:54 かわかつ WEB
こういう部分的な情報に集中的にコメントして片づけていくのがここの管理人さんの望む「研究会」だとも思います。今のレスは総花的に過ぎるのですね。オフ会というのも「オフ」なのですから、そうした重厚な研究会のあとの慰安会ですから、気軽に飲もうでいいわけ。
だけど肝心のここはまず研究会になってないですから、極力そっちに向かって努力してげたい。とは思う。
それには今のような自由書き込みでなく、管理者が自分の目的とテーマをはっきり提示していかなければならないのです。BBSの管理とは実はそんなものではないのでしょうか?少なくとも゜「研究会」「文献史学者」だと自負して運営しておられるなら。
投稿者は気軽に気ままにノーテーマで、書いてきます。最初からテーマを計画して書いてゆくような掲示板にすれば、私のような門外漢ははなからこなくなると思います。
同人にしたいのか、お気軽世間話でいいのかを決めるのも大事では?その辺どうなのかしら?管理人氏は。このままではただ混乱してゆくだけだと思いますが。心の中で無理をする必要はないと思いますよ。
根本的にそこら辺をまとめる方が大事ではないかなと思います。
公開している限り、お客さんである投稿者を選べないわけですからね。
いかがでしょうか。以前から気になっていたことを書きました。


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しかし無理ですね
2006年1月22日 15:41:06 かわかつ WEB
やはりインターネットの限界ですかねえ。
ま、私がこなければ安定するのか。


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ブログ
2006年1月22日 16:37:34 管理人
カワカツさんこんにちは。秦の地名分布と地理的考察にて新区別が出てきてびっくりです。分布図も皆さんよく利用していきましょう。そうですね管理人からその時々でテーマだすのもいいですね。その辺キシさんはテーマもって来るのが素早くお得意ですね。ブログについて最近私もしりましたが、カワカツさんの見てると、確かにテーマと返事が整理できそうでいいですね。早速後で作ってみます(^-^)


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そりゃ嫌みですな
2006年1月22日 17:19:13 かわかつ WEB
うちはダメの見本です。


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秦氏とは別に波多、畑、などの氏族があった。
2006年1月23日 11:37:25 いばらの紀氏
私の最寄の駅は、羽鳥(はとり)と言います。
ハトリ 服部 機織り 「羽」 「鳥」は甲骨文字に多い形です。
今度、合併する隣り町「小川」古くから商業が栄えた町です。
中世 霞ヶ浦や利根川などでの水運が盛んで消費地 江戸で栄えた様です。
利根川流域には、銚子 野田 ・・・上流 (渡来系が多いのでは?。)
野田 愛宕神社(篭目歌)〜高麗川(万年橋)〜・・・ライン。
「秦字のこと」データは現在の? 古代 全国の地名を名付け巡りし 神々・・
・・・秦氏・幡多?・・・八幡神?    果たして? 


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はた 「方+人」古文字
2006年1月23日 12:10:23 いばらの紀氏
はた 「方+人」古文字などでは、「Ψ Υ」などの矛に旗(はた)らしき〜が「靡く」形です。ハタ・・「方+人」・・「靡」ナビ・・・
「靡」ナビ  の意味 奥が深いです。
「秦」が「旗」なら禹の軍隊では「風向きを調査する(諜報部員?)」
禹の測量士では 鉾(ポール)持ち鴨?。
「風向きを調査する(諜報部員?)」・・・日本での間者・スパイ・・・
服部・・・(伊賀周辺にラインのポイントが存在!)
   またまた まとまりの無い カバラの紀氏でした。



参考HP 
2006年1月22日 10:49:21 いばらの紀氏

『古事記』は中国古代史、特に「舜禹」に関する知識を前提に書かれている。
中村啓信『新・古事記物語』批判
http://www.kojiki.org/x1-00s2001/02-ronkou.htm

隠された「物」は「口」だった。
これは、「物(物部)の口(言い分)」と解釈することもできる。
■という漢字は、「一口では、ゆきなやむ」(一口では、言えない)という意味だった。
天を治めよ、と矛に言依し賜うなり。
「矛」という武器は、現実からの連想から、国生みの道具として比喩的に使われたのである。

「二柱神」・・・・・・三角測量での二点(ポイント)
「天」は嶋シマ=縄張りの隠語・・・・「天」=日本。
「矛」・・・・簡易測表 Υ Ψ Т ⊥ △ ‡ † ・・・(銅剣)
「一口」(禹の父の塚・台)X2=「二柱神」・・・・・・三角測量での二点(ポイント)
「治」=川(黄河)+台(禹の父の塚・酒甕・甕棺・銅鐸・「口」・・・・測量・支配
「臣」は「見」・・・測量士。
・・・・だれかファイナル を 宣言してください。
 「忍」 不足 甘えの紀氏でした。


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ツングース
2006年1月22日 11:20:45 いばらの紀氏
大物主神の妻、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の伝説の概要である。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-3-ka.htm


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参考HP
2006年1月22日 11:47:49 いばらの紀氏
天孫降臨と国譲り神話の原事実
http://homepage2.nifty.com/ikd/tenson2.htm


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参考HP
2006年1月22日 12:05:48 いばらの紀氏
物理的な石でもあるが元来の字義は崖岸(がいがん)をさす”厂”と祝詞を収める器”口”からなり、祭祀の場所であることを示す
岩倉紙芝居館 古典館 日本書紀 1-1 上田 啓之
http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki1.htm


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ハタの地名の分布図
2006年1月22日 12:12:51 いばらの紀氏
琵琶湖沿岸開発は出雲臣族がおこなっていた。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk10.html


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相も変わらぬ速射砲!
2006年1月22日 13:06:22 かわかつ WEB
紀氏さん生きてましたか^^
お互い精神病に気をつけて今年もがんばりましょう。
はたの地図は役立ちそうな案配です。ただあまりにも大量の情報は記事の引用に納めていただきたい。
いちいち探すのも大変ですし、またすべて読んでいてはいくら時間があっても足りないわけですから、要領よくまとめて記載していただくと見やすくなると感じます。なにか効率のよい方法でお願いします。あんまり情報が多すぎても頭が混乱します。
それとネットサイトをやってるモノはたいがいが少し精神分裂気味なので、やはり本のようにずっと残ってゆくプリント化された情報を見てゆくのが正当だと考えます。
お互い本当に冗談抜きでいやがられてるかもよ。^^;


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結局我々の世代は
2006年1月22日 13:13:36 かわかつ WEB
まだネット経験が浅すぎるのでしょう、もっと他人行儀にやっていかなとだめなんだろうね。都会の生活のように・・・深く入っていこうとする癖があるのが「うざい」のだろうね。


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葦船
2006年1月22日 16:21:54 管理人
キシさんお久しぶりです。そうですね、カワカツさんおっしゃるとおり、少しまとめてもらうと助かります。引用先と持論だけはルールとして区別表記して下さいね。古事記はホントに古いですね。昨日読んでいた先に紹介した本に葦船というもっとも原始的な船の記載が仁徳記に見えるとのこと。出雲族の流れなど、この書が重要そうです。取り急ぎ。



物部と海部
2006年1月22日 2:26:14 管理人
下のかわかつさんのご指摘を受けてですが、やはりどういうわけか、海部と物部はぜんぜん系譜も違うのに、接点が多いですね。先のユダヤ本では、伊勢伊雑宮の蛇神信仰・・六ボウ紋は伊勢のアマがいまだに身に着けているとか。原稿で触れた尾張の真神田神社は竜神信仰で、紋章は六角形です。両者は南北ラインにビタリと位置し、真神田氏は物部と海部の系譜が混合していますね。結局、海を駆け巡ったライン族なのでは・・・。そんな気がします。あと、その本にあったようにユダヤと日本で双方「ひー、ふー、みー」と数えるときに、ユダヤでは真っ暗なところで、女神を呼び寄せる儀式でその詩を唱えたそうです。それが日本の伊勢から南方民族の太陽女神信仰だと言っていますが、この辺はどう思いますか?


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天香語山命は
2006年1月22日 6:22:35 かわかつ WEB
ニギハヤヒの後裔だとされていたと思いますが。



その2
2006年1月21日 22:38:33 タックン
しかも前者の、岩屋山は方墳の可能性、ムネサカは円墳の形態で石室はほぼ同じ、築造部族間が違っても同じ設計図を使用して造られていると考えています。(或いは、皇族でも血筋が違う系統か?)
現在の平田梅山(現欽明陵)は、幕末の修陵以前は双円墳といわれている意見があり、本来の墳丘は不明といわざるをえません。
ただ一度欽明が、この陵に葬られてその後見瀬丸山の築造に伴って、改葬されたというのも強ち否定できないかも?しれませんが・・・・
ただこの天皇の後、多くの構造の墓が方・円墳に切り替えられていったというのも途中入ってきた仏教の影響が、墓造りに大木な影響力を与えた事は重要な事だと思います。
然し翻ってみても、奈良県内の後期の前方後円墳に限ってみても、全長300mの前方後円墳は、殆ど見当たりませんし他の近畿の地域でもこれだけの大古墳は、そうざらには存在していません。
危機の記載を見ても、キタシ姫改葬の際見瀬の地において、他の豪族が大柱を立てるという記事があり、この見瀬の地域にこれだけの墓といえば、丸山以外には考えられないのです。
平田梅山と、身瀬丸山古墳の墳形がほぼ一致するという事は、同じ設計図で築造されている事、平田梅山古墳は改葬前の欽明の墓?が俄然強まってきていると考えています。
過去の記録が双円墳として正しいとしたら、一墳二石室の可能性が強まってくるのです。
となれば、もう一つの被葬者は誰か?となってきますね。



前方後円墳の廃絶時期
2006年1月21日 22:17:07 タックン
近畿の前方後円墳の廃絶時期は、以前書いた欽明以後だと大体言われてきていますが、遠く関東の現在の群馬県・栃木県といわれている、北関東の地域では近畿や、東海での築造が終わってもまだ延々と前方後円墳が、7世紀近くになっても大型のものが造られています。
これも関東の地域でも廃絶時期の差があって、地域によっては前方後円墳の築造をやめて、大型の方墳・円墳の築造されている古墳もあります。
特に遅くまで、大型の前方後円墳を築造している地域は、広義の毛の国と言われてきた、下野・上野と呼ばれている群馬県内に集中して築かれているということです。
この中にあって、総社市などに存在している大型方墳の、宝塔山/蛇穴山古墳などは近畿などの終末期古墳などと同じ、切石組の盛行な石室で築造されていてこれ以後、このタイプの古墳がこの地域にも造られていきます。
この頃にはもう、近畿の土地では古墳築造がほぼ終わってきており、関東と近畿との築造年代が若干違う事が判ってきます。
後期から終末期までの、横穴式石室の石室築造パターンは切石組の石室(阿部文朱院西など)と自然石加工の石室(石舞台など)の古墳が二種類同時進行で築造されていって、途中いろいろな試行錯誤?で枝分かれしていき発展していったと考えられています。
特に姫さんが言われている石室の石の積み方は重要で、各古墳によって様々なバリエーションがあります。
特に終末期古墳の場合は、どう見ても同じ設計図で築造されたとしか思えない(岩屋山・ムネサカなど)古墳も幾つか見受けられております。


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廃止
2006年1月22日 2:12:18 管理人
いろいろ地方には7世紀代まで大型前方後円墳が残っていたりと、案外一斉に王権によって古墳造営が停止したわけではないのですね。制度的に墳墓の製作が停止させられたのは、もっと後の時代で、それ以前は各自の豪族の自由意志や、その製作集団の関連に左右されていたということになるでしょうか。もっと考古の学説も勉強せねば・・。



石室  3
2006年1月21日 15:03:39 姫 MAIL
石室 1と2に続けてレスを書きましたが、スレッドがどうとかで、載せられません。
ここに、続きの 3 を書かせていただきます。
ややこしくてすみません。


さて、そこで、この石室に使われた石の数ですが、これがどうやら時代測定に関わっているそうで、使われた数が多いほど、時代は古いと考えられるようになったようです。

赤坂天王山古墳の石の数は、23個、越塚古墳は22個、丸山古墳も22個、谷首古墳は21個、石舞台は20個、打上古墳は15個、岩屋山古墳は13個、クサハカ古墳は7個という具合です。

この順に古いと考えられるようになりました。


赤坂天王山古墳の石室の特徴は、下から一段目が石3個二段目も3個、そして一番上の三段目には大きな石が三個と、他に小さい石が4〜5個も使われていることです。
これより後の古墳にはこういった形のものはありませんので、この赤坂天王山古墳が古い形であると考えられるのだそうです。
赤坂天王山古墳は方形で崇峻天皇陵とされています。592年崩御だそうです。 丸山古墳がこれ以前とは考えられないそうです。


私は皆さんのように古墳に詳しくはありませんので、どうもあやふやですみません。
それで、考古学研究所の方たちの意見を皆さんの参考の為に、少し書かせていただきました。



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皇室専用
2006年1月21日 17:27:05 管理人
姫さん、いろいろ情報ありがとうございます。なるほど、地方の豪族の前方後円墳製造を中止させたとしても、皇室自身の前方後円墳製造を中止する理由は特にないということですね。かえって継続したほうが、独占イメージが強調されたということに。まったく発想の転換ですね。



12月31日の質問について
2006年1月21日 8:25:57 かわかつ WEB
紀氏さん、年末に質問されておられたのですね。
秦と秦氏の関係?まず先代旧事本紀に書かれたこの出自の記事は「自らすすんで書く経歴に真実のあったためしはない」ということだろうと思います。日本においてまだ地位の確立しない時代に秦の文字を当てただけでしょう。武士もみなそうです。秦の文字には「はた」と読む必然性もなければ前例もなかった。こういう偽称というものは出自怪しきものほど多用するものではないでしょうか。私のご先祖にしても「藤原秀郷流」を名乗ったり、「大友家7代孫」などと書かれていますが私は全然信じていないし、信憑性もありません。武士の多くは公家との対等関係を必要としたのです。松平家と源氏の間にも全くえにしはなかったのです。成金主義ほどではないにせよ権威主義であろうと思いますよ。
実際には婿養子に入ったり、嫁の姓を名乗った例が山ほどあるんです。地位の高い家柄の方の姓を使う例は枚挙にいとまがありません。

私は針の先をつつくように検証することにもうあまり興味がないのです。
いったいこんな研究をして学者にでもなるつもりか、ていう感じなのです。それほど行き着いてしまったので、細部のことは気にならなくなりました。あとは発掘が証明する日が生きているうちにくるかどうかだけですね。
ですからもうあまり書き込むことがありません。たまに覗いてみて、変わった意見、誰もきいたことがない珍意見をまっているだけです。部分の検証や証明は個人個人でまちまちです。学者の意見も西と東でまったく違っています。こんなことを何十年、何百年やってもきりがないので、作家のほうがよほどいいと思っています。
梅原猛でさえ学者はまったく相手にしません。これはこの国の史学、文学が白い巨塔のままだからです。考古学の文献にさえいまだに古い権威史学者のカビのはえたようなご意見がいまだに反映されているような世界です。いくら書いてもむだだと思います。それならみんなが読んでくれる娯楽作品のほうがよっぽど人を幸せにします。人を幸せにしないものはただの自己満足に終わってしまうと思えます。
これはいわば私自身の30年間の全否定でもあります。


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およそ信仰とは
2006年1月21日 8:54:23 かわかつ WEB
原初、その始まりは畏怖から始まっています。つまりそれは自然崇拝であったりしたとともに我が身に雷や地震がふりかからぬように祈ったことからはじまるのではないでしょうか。
霊魂の祟りを畏れるというのも、これらの畏怖・畏敬の念とまったく同じ観念です。対象が霊魂という目に見えぬものであるために、オカルティズムという不名誉なレッテルを貼られたりしますが、ようく考えればどこに違いがありましょうや。日本の神とはGODではない。spiritであるのです。神は同時に、いやむしろ神よりも早くからspiritとは鬼、モノであったのです。差別とはすなわちこの国では怨霊への隔離、神社とは鬼の入れ物、檻であったのです。
それは人種の差別から始まっています。それが世界の信仰の始まりではないでしょうか。新約キリスト教だけが特殊にアップグレードされていると思います。イスラムもユダヤも仏教もバラモンもみな、信仰の基礎は神は鬼でもある。イエスも鬼とされたから磔刑にされたのではないのでしょうか。イエスの死までは確かに鬼はそこにあった。彼はscapegoatにされたのです。だから聖徳太子もイエスとよく似ています。イエスをモデルにして創り出された虚像だからです。少なくとも創った書き手は「これは鬼だ」と感じたからモデルにしたと考えられます。


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海辺にいるから海人ではない
2006年1月21日 9:51:07 かわかつ WEB
沖縄人は自らを「うみんちゅ」と言います。これは海辺にいるからではありません。まして漁師のことでもありません。「うみんちゅ」とは「島人」ということなのです。
しかるに山の民もまた海から来た。
われわれは皆、どこかの時代、どこかの場所で彼らの血を受け継いだと思われます。その中から不幸にも差別されたものたちがでたのだということ。それに大きく関わるのが出雲であり、藤原氏であり、秦氏であったとうことは「絶対」に間違いありません。私はまさに「海人はどこにでもいけたのだ」ということを言いたいのです。
ある時期、平安遷都ですが、東国へ移っていった京都の渡来、海人たち。
おそらく天武天皇の御代のみが彼らの平安の時代だったのでしょう。
技術と意匠が急激に発展する白鳳時代はまさに天武天皇から始まります。
壬申の乱は彼らの檜舞台だったに違いありません。
称徳天皇が物部守屋の居城があった大阪弓削の道鏡を寵愛したのはなぜか。
その弓削には行基、良弁といううばそくが住んでいた。彼らは物部氏となにも関係がなかったのだろうか?
尾張氏は物部氏の一族だったというのは本当だろうか。それがなぜ神武に協力したと書かれたのだろうか。尾張氏の祭る火明命が外宮の元伊勢や天照御霊神社に祭られているのはなぜなのだろうか?
疑問を持たないですか?皆さんは。本当に?


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呉音
2006年1月21日 18:33:50 管理人
かわかつさんこんばんは。秦の語音の期限についてなど、なかなかきりがないものがありますね。私もあまり深くタッチしないことにしています。ただ、漢の語音については、昨日たまたま見ていた本『日本の古代3』中公新書のほうに(かわかつさん確か電車で読んでましたよね?)、呉音と漢音の使用が、記紀の時代からかなり区別されて使用されており、漢は「カラ」、呉は「クレ」と読み、それぞれ前者は朝鮮経由でのルート、後者は中国からのかわかつさんお得意の南方海上ルートからのものを示しているそうです。その辺についての語音のこだわりはちょっと考慮してみる必要ありかなと感じます。関連して呉橋はアーチ型で下を船がとおり抜けることができるように設計されており、漢橋は平坦な橋だそうです。飛鳥の庭園で例のトカラ人が作ったのは呉橋でした。彼らに代表される南方ルートの流れは、きっとかわかつさんにとっても、いろいろ考察しておられるところではないかと感じます。今年の研究会は南方のどこから来たのか?とか、つまりアジア視点に移っていくような予感がしていますが、その辺は紀氏さんのお得意分野でもありますね。そう、昨日読んだ『ユダヤ人と日本人の秘密』水上涼著に、開封のユダヤ人について載っていました。開封というと、中国は南のほうだったと思いますが、腰の筋の肉を食べない風習があり、ユダヤ人の間でも注目されていたそうです。12世紀ごろまで遡れるそうですが、例の原稿に書いたべヌエル条と雄略一言主条との関連でも、太ももの肉を食べない旧約聖書の話と、腕の肉を噛まれることに由来した日本の習慣についていろいろ取りあげたところだったので、ちょっと注目しています。そろそろ今年はアジア視点ですね。



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そうですね
2006年1月21日 19:18:40 かわかつ WEB
まったく仰るとおりだと思います。^^


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ひとりに一個の掲示板か?
2006年1月21日 19:21:57 かわかつ WEB
私もそんなことを考えていたことがあって、画像の方へ勝手に自分だけの投稿しちゃおうかなと考えたりしましたが、紀氏さん、もうちゃんとそうしてるみたいですね^^
見ましたか?


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あかる比売情報
2006年1月21日 19:27:41 かわかつ WEB
この方のサイトにあかる比売の専門家が来ておられます。少し神懸かり的?ですが、りんごという方です。

http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/joyful.cgi?


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そうですね。
2006年1月22日 2:07:31 管理人
ひとりひとつ掲示板あってもいいかもしれません。分野別にとか・・・。紀氏さんの書き込みは前から気づいてます。
それにしても、先の本の船の話、帆船か丸木船か・・・、かなりおもしろいですね。東南アジアの帆つきの丸木船、かなり性能よかったそうです。北極星との角度で目的地の方角をと到達点を決めていたとか、海の道、陸の道、移動に必要な指標の正確さが生死を左右したのでしょうね。勉強になります。
あかる姫のサイト、奥が深くて面白いんですが、シャーマン病について、私も昨日はいろいろ考えていました。ある種遺伝タイプの日本人(女性が多い?)にはシャーマン体質の人がいて、原始人的なすこし「浮いた」意識をもっているような気がしてました。日本からあまり海外に進出していかなかった縄文人の自我意識と思考形態、呪術的な側面からシャーマニズムまで、弥生人や海人、渡来人のそれとは、まったく別の意識の中に生きていたようにも感じます。その辺の民族間の意識の相違まで追及できると、ひとつわかってくることも多々あるのではと感じますね。



ローマ文化王国‐新羅
2006年1月21日 0:34:57 管理人
ローマ文化王国‐新羅 由水 常雄氏が最近書いた本について、ある方にお教えいただきました。内容は

目次

なぜこの本を書くことになったか
新羅はどのような国であったか
新羅はなぜ中国と国交をもたなかったか
新羅王の王冠の謎
天馬塚の遺構と遺物が示しているもの
衝撃の皇南洞九八号双墳の発掘
微笑するトンボ玉
ケルトの黄金剣の謎
新羅出土のローマン・グラス
圧倒的な陶製リュトン群
新羅はローマ文化の国だった
ローマから新羅への道

とのことです。まだ読んでないのですが、新羅の庭園池の遺跡と、飛鳥池のそれとが、亀石も含めて、大変類似していることは有名です。その新羅文化とローマとの交流、3〜5世紀代のその様子について書かれているそうなので、ぜひみなさんも読んだらご意見お聞かせください。私もさっそく購入してみようと思います。アマゾンで売ってます。以下アマゾンサイト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4104476013/contents/ref=cm_toc_more/250-7071051-5142646



再び丸山古墳
2006年1月20日 21:54:41 タックン
姫さんの聞いてこられた、丸山古墳推古説についてもう一つ。
確かに講演の内容では、的を得ている部分がありますが、推古の時代すでに前方後円墳築造の時代は、終わってしまっている?と考えます。
皇族の前方後円墳埋葬は、これより遥か以前の夫になるびたつ天皇からですが、これとて母石姫の以前あった陵に合葬されたという事で、これも実態が今ひとつ確証に欠けるので、びたつの陵は他にあったのではないか?と考えられています。
私自身も、びたつの墓は大型の方墳?であった可能性があると思い、同じ河内飛鳥の地域にある葉室の、越前塚古墳が最も可能性があるのではないか?と思います。
事実この大型方墳は横長の長方形墳で、現推古陵と同じ形態で合葬することを目的とした、二つの横穴式石室を築造されていたと思われ、一つの墳丘は大きく盗掘孔が開けられて大きく墳丘が抉られた状態で残っています。

事実、記紀にも書かれているように、以前からあった竹田皇子の陵に追葬されたわけです。

近年宮内庁の推古陵の調査では、墳丘内の盛り土内でそれぞれ距離を置いて、大型の石室の部材が確認されており、一墳丘内に二石室の可能性があるとの指摘がされて話題になっていました。
越前塚・現推古陵・推古陵近くの二子塚も、ほぼ同じ長方形墳で築造されていて、墳丘築造当初から合葬を主とした目的で築造されていたとしか考えられないのです。
ただ、びたつの場合は時期的な考察で、前方後円墳の可能性も考えておかなければいけませんが、この後の用明になると大型の方墳に埋葬主体が切り替えられていきます。
ただ皇族の陵がどの辺りから、方墳を採用した時期というのが問題となってきますが・・・・
欽明の崩御年からいって、これまでの考えではまだ群集墳が作られていた時代、前方後円墳も規模は小さいながらまだ各地で築造されていた時代です。
ただ畿内の地域では、前方後円墳は限られた地域に築造箇所が限定されてきている時代、しかも欽明が崩御するまでこの陵はすでに築造されていたと考えられるのです。
これだけの古墳を、天皇が崩御してからすぐ造りだしたとは、到底考えられません。
しかもこの古墳は、キタシ姫が亡くなった後、合葬するためにかなりの改変・修陵が行われているはずで、後円部の修陵は横穴式石室の改造と相俟って、大きく土木工事が行われているはずです。
以上で私の結論は、記紀の記載ともあわせて、森先生が言われている欽明=丸山古墳説と考えております。


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陵墓と道の年代
2006年1月21日 0:27:30 管理人
タックンさん貴重なご指摘ありがとうございます。推古陵というと、数年前話題になったころに見に行った覚えがあります。
50年〜くらいの年代差がここでも出てきているようですね。
飛鳥・奈良での道の思想・文化ができた時代を基準にすると、陵墓は推古時代のもの、逆に前方後円墳の思想・文化の時代に基準を合わせると欽明時代以前のそれとなってくるのでしょうか。
この50年の差についてですが、秦氏の渡来伝承では、秦氏が当初来たのは雄略朝ですが、実際欽明朝になって再び一族を朝鮮から呼び寄せている記載があります。つまり後者の記載をもとに、雄略記紀の記載ができた可能性も考慮しなければならないかもしれません。秦氏の土木技術をもってしての巨大前方後円墳の築造となってくると、当初の5世紀末の巨大古墳築造年代が、50年繰り上がって6世紀中葉くらいまで持ってくる可能性もあるのでしょうか。あるいは、秦氏の初期渡来集団が4世紀末にきて、その中に高度な古墳築造技術をもった人がいて、巨大古墳造営につながったのか、あるいは6世紀中葉にきた秦氏の残りの集団がきてその中に高度な土木技術者がいたのか、その辺も課題ではないかとも感じます。そこで古墳の築造技術と秦氏はなんの関係もないか、あるいは大いに関係あるのかという視点も出てきます。またタックンさんのお話聞いていると、蘇我氏の古墳に対する観念・思想、それが気になりますね。


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推古古墳だとすると
2006年1月21日 10:33:59 かわかつ WEB
私的には、以前からあった前方後円墳を転用したという見方になりますが、しかし根本的に推古天皇に墓があるはずがない^^という奇説も考えています。
最も優等生なのはタックンの意見ですが。
墳丘が小さくなるのは大化改心以前ですから当時中央であった大和では’7世紀の前半でもちょっと厳しいと考えるのが普通。やはり50年のtime-lagが生ずるのはかわかつ的には「偽証された」との奇説の裏付けになってしまいます。


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石室について
2006年1月21日 14:00:22 姫 MAIL
見瀬丸山古墳について、いろいろ意見をありがとうございました。  実に謎だらけで面白いですね。 
昨日良い天気でしたし、思い立って藤原京へ出かけました。 少し前から大宮土壇の北西の部分の発掘がなされていて、ここは内裏跡にあたりますけれども、是非写真を撮らなければと思っていました。
見たところで、これが掘っ立て柱跡だと言われても、それがどの程度の規模の建物か、どのように使われていたか、全くわかるわけではありませんが、一応覗いてみたいと思ったのです。
ところが、残念なことに、もう三分の二ほど埋め戻されてしまったあとでした。
私が行く一日前なら丁度よかったのにと言われてしまいましたが、作業していた方が、あちらの方でまた発掘が始まったから、あちらへ行けばどうかと、言ってくれましたので、その、アチラの方へ見学に行ってみました。
アチラとは、朝堂院の東の塀外の部分で、恐らく役所が建っていたであろう部分です。  目下U字溝を伏せるための工事に先立って、1,5mくらいの狭い幅で、150mに渡って発掘調査されていました。  ここに、奈良文化財研究所の技師の方がおられて、少しお話を伺いましたが、内裏跡にしろ、朝堂院東側にしろ、範囲が非常に狭いので、建物全体がみつけるということは無理だと言うことでした。  所々掘ってみて、それを総合してからの結論となりますので、なかなか直ぐにわかると言うことは無さそうです。

ついでに、丸山古墳の被葬者について尋ねてみましたところ、やはり被葬者は不明だとのことでした。 
推古天皇は、植山古墳の竹田皇子の墓に一旦入れられましたが、後に今の磯長谷に移葬されたのだそうです。

欽明天皇ではないということでしたが、何故そうなるのかどうもよくわかりません。
ただ、前回橿原考古学研究所の関川さんのお話では、丸山古墳と、欽明陵は大きさは全く違いますが、姿形が非常に良く似ているということでした。
参考図を見せてもらいましたが、タックンがご指摘のように、横から見たとき、両陵とも、こんもりとした形ではなく、平板です。 丸山古墳は大きい分かなり背が低くなっていますが、それでも全体としての線が全く同じ弧を描いています。  それと、上から見た二つの陵の図を重ね合わせたとき、ほとんどぴたりと一致します。
これは何を意味しているのでしょうか。
同じ時代に、同じ設計者が造ったということなのでしょうか。



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石室について 2
2006年1月21日 14:29:35 姫 MAIL
それから、前方後円墳が大和周辺で造られなくなったのは、他の地域で造営中止されてから、かなり経ってからだということもどこかで読みました。  大陸では既に前方後円墳は造られなくなったという情報は、北陸あたりではかなり早く入手できていましたので、前方後円墳はもう時代遅れとばかりに、造られなくなったのであろうと書かれていました。

北朝鮮の高句麗、雲坪里古墳でも、中央ではとっくに捨てられた前方後円墳が、延々とつくられつづけていたと、書いてありました。 (森浩一著) 但し、雲坪里古墳の辺りは相当の僻地であったようで、だから情報が伝わらなかったということもあったと思いますが、一面から考えると、この古墳は大きな川沿いにあるということです。
従って川を行き来する船から、古墳がよく見えたという点で、やはりある程度のPRを狙ったものではなかったかとも考えられます。
日本においても、古墳、また古墳群は必ず道路に沿う場所であったそうです。
磯長谷の古墳群も竹内街道があったからだと考えられますし、島の山古墳(ここも昨日、発掘の見学に行きました)も現在の川西町役場の直ぐ傍にあります。
役場というのは、ほぼその地域の中央に建つものですから、やはり古代においても島の山古墳の辺りが道路や川の行き交う場所であったのでしょう。

ヤマト周辺で、大陸の前方後円墳中止の動向はわからなかったのでしょうか。  恐らくそうではなく、前方後円墳は現在の欽明陵のように、シンボリックなもの、見せるためのものとして、造られ続けたのではないかと、思います。

それから、飛鳥塾で話されたことに、石室のことがあります。
私はまったく気がつきませんでしたけれども、石室の石の
数は、左右の壁が対象になっているそうです。
形は少し違いますが、必ず同じで、下段が三個の石、二段目が、二個か三個、三段目も、二個か三個になっているそうです。 これ以上高くならないのは、上に置く石の大きさに寄るもので、そんなに大きな石が都合よく無かったであろうこと、またあまり大きかったら崩れてしまう危険性があっただろうとのことでした。

側壁に大きな石を並べれば、当然石室は大きくなります。もっとも石室が大きくなったのは、飛鳥時代なのだそうです。




旧HPは
2006年1月19日 23:44:35 かわかつ WEB
完全に消去されましたので、私のA Magical Mystery CollectionサイトへのリンクURLの変更をお願い申し上げます。URLは下記のものでお願いいたします。


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変更用URL
2006年1月19日 23:52:27 かわかつ WEB
完全に消去されましたので、私のA Magical Mystery CollectionサイトへのリンクURLの変更をお願い申し上げます。URLは下記のものでお願いいたします。 これにともないMagical掲示板BBSの使用も中止いたしました。書き込みなどは「画像が送れる掲示板」へお書き込みくださいませ。

新URL  http://2004mmc-kawakatu.cool.coocan.jp/
画像が送れる掲示板URL  http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs

なお旧来よりTOPページの容量過重のためページの表示が遅くなりご迷惑をおかけしておりましたが、今回、壁紙を軽いものに変えてみました。飛び方の早さはいかがでしょうか。
ご意見などお寄せ下さいませ。


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了解です。
2006年1月19日 23:52:41 管理人
リンクの件了解です。かわかつさん新HPのトップページも重いところなくちゃんとスムーズに動いてました。イメージ一新ですね。


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題名も
2006年1月20日 2:21:27 かわかつ WEB
ひとつA Magical・・・でお願いします。

ところで紀氏さんはどうしてガーンなのですか?
私は長いスランプ状態が続いてレスしていませんでしたが、それと関係あるのでしょうか?そういえばとみたさんも久しく書き込んでいませんね。
心配。


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そうそう
2006年1月20日 4:51:55 管理人
管理人、悪い癖でたまに余計なこと言いますが、今までどおり紀氏スタイルで、またみなさんのスタイルで気楽に書き込んでくださいね。野球選手でもそうですが、無理に各自のスタイルを規制したり目的化したりすると、スランプになってしまったりするそうです。無理な規制や目的化は結果として、研究へ道の流れを閉ざしてしまうことも多々ありますから、自己流で良いところを生かしつつ、気楽にちょっとづつ修正していくのが長く続ける秘訣なのかなと最近感じます。研究もそうですが、曲がった流れに気楽にそって漕いだほうが、かえって早く着いたりするものですし。
あと、会報第1号の試作版をアップしました。トップページのフラッシュに出てくる会報をクリックするとPDF版が出てきますので、ご参照ください。また会報に掲載する原稿やエッセイなども、まだまだ募集しています。


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いろんな意見で
2006年1月20日 21:07:20 タックン
紀氏さんの言われている事も、全部鵜呑みにはできませんが、なるほどと思うところも幾つかあり、参考にしてもらっておりますので、これからも宜しく御願いします。
研究というのは幾つかの意見の積み重ねであって、それを真っ向から批判してはいけないと思います。
人それぞれ顔も違うし?考え方も違いものの見方価値観も違いますので、それをどう処理して総合的に纏めていくかが鍵となっていくと思っております。
ただ間違って言って折られる事は、そのときに素早く指摘しなければいけない、時間が過ぎてしまうとその間違った事を指摘しなかったのでそのまま研究全体の中に埋もれてきてしまい、かなり過ぎ去った時に発見されてまた一からやり直しという事態にもなりかねないから事は慎重に場合によっては運ばねばならないと思います。
考古学に限らず他の学問でも、いろいろな意見の上で吟味されて今の研究に繋がってきており、先人の研究の積み重ねで成り立って今に至っております。
紀氏さんの研究も、私は全然批判はいたしません。
何故ならば、私はこういう方向の歴史研究もあっていいのではないか?と考えており、逆にこういう研究からまた通常の見方よりも、新たな視点や発見が生まれてくるからです。
私自身は、考古学の手法に則ってやっているだけで、他の方の手法をあれこれ批判するつもりはありませんが、指摘しなければいけない部分は指摘しますのでその際はご容赦下さい。


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ずっと下まで読んでみましたが
2006年1月21日 7:25:17 かわかつ WEB
今年に入ってまったく記事を読んでいなかったので改めて読み返したところです。
しかし何がガーンなのかはやはりよくわかりませんでした。
タックンの言われていることと管理人さんの「悪い癖でたまによけいなことをいいますが」というのがどうもつながりませんね?記事を見る限りではそんなところはないですしね。
ということはどこかで管理人さんが紀氏さんになにかメールでもしてということなの?まあ追求する訳じゃないのだけれど、紀氏さんは私にとって盟友ですからね。

まあ私も父の世話に時間をとられ自分の時間がなかったことから間が開きすぎて正月ボケしていましたからね。半月ほどなにもやる気が出なかったけれどいい休養でした。マンツーマンの老人介護というものはものすごく疲れるのです。紀氏さんもこのさいのんびり静養するのがいいですね。

というようなことでいいんでしょうか。
タックンの書かれていることは誰かが批判をしたような響きですが、私たちはすでに1年以上ここでやりあってきています。管理人さんや私がしょうしょうのことを書いてもあの方はへこたれたりしません。^^
おそらく誰もコメントをしてあげなかったのが、孤独な作業者の紀氏さんには一番こたえたのでしょう。あの方の性格は私と根っこでにていますからね。こないだのオフ会でもとみたさんと二人で「そのやり方はちょっと無理がある」という話になりましたが、紀氏さんはがんとして記事を投稿していましたから、意見の食い違いなどは関係ありません。彼は寂しがりやなのです。人間紀氏さんよ、ゆっくりしたら帰っておいで。「俺はまってるぜ。」
この件はこれでおしまい。



明日香塾
2006年1月18日 15:25:53 姫 MAIL
皆様、新しい年ももう半月が過ぎてしまいました。 遅まきながら、今年もよろしくお願いいたします。
去年のオフ会が楽しくて、(失敗もありましたけど!)また皆さんにお眼にかかってお話を伺いたいと思っております。

去る14日に明日香塾が開催されましたので、その内容を少しご紹介します。
講師は橿考研資料室の室長、関川氏でした。
演題は「飛鳥の前方後円墳」でした。 飛鳥は厳密に言うと川原寺の周辺の狭い地域を指すそうですが、広い意味では藤原京までも含まれます。 この飛鳥に前方後円墳はほんとに数が少なくて、見瀬町にある見瀬丸山古墳とオフ会で行った、欽明陵だけでしょうか。
オフ会のときも、タックンは欽明天皇陵は謎が多いとお話になっていました。
関川氏は、この欽明稜の南に広がる遺構について話されました。  
ちなみに、欽明陵の東には金塚古墳(方形)があり、続いて鬼の俎板・雪隠古墳があり、またその東には天武・持統陵(八角)が続いていますので、何か意味があるのかなと、仰っていましたよ。

欽明陵は江戸時代にも比定が紛糾し、少し北に位置する見瀬丸山古墳が欽明陵だとの見方もあったようですが、幕末になってようやく現在の稜が欽明のものだと決定されたのだそうです。
理由は、奈良時代に書かれた文献複数が、欽明稜はこちらだと、現在の稜を比定してあるのが根拠になったようです。
因みにオフ会で見た欽明稜は全長が140m、丸山古墳の
それは320mにも及びます。


(続きが長すぎて、一度には載せられないようですので、ここで区切って、続きは次に載せるようにします。)


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飛鳥塾 2
2006年1月18日 15:34:43 姫 MAIL
欽明天皇崩御が570年で、丸山古墳が、考えられている古墳時代の最後、つまり6世紀半ばであればちょうど欽明天皇崩御の時と重なって都合が良いのですけれども、実はこの古墳は推古天皇の時代のものだと考えられるようになりました。 7世紀に入ってからだと言うことです。

まず、何故丸山古墳が推古天皇時代であるとされるのかを書きます。

ご存知のように、藤原京から発する下ッ道、中ッ道、上ッ道がありますが、これはどうやら推古天皇の時代に作られたらしいということがわかってきました。 また、上中下の呼び方も、私は東から順に上中下と決められたのかと思っていましたが、全然見当違いで、最初に決められた道路が「上」と名づけられたようなのです。
何を規準に一番先にこの道路が決められたかと言いますと、どうやら箸墓古墳が基点であったらしいのです。その南北の道路から西へきっちり昔の4里(2127m)の、二倍の場所に下ツ道が造られ、中心に中ツ道が造られたことになります。
この4里の意味がよくわかりませんけれども、何かの意味があるのでしょう。

そして、上ツ道の基点が、大和で最初、最大規模の箸墓古墳であるのと対応して、下ツ道の基点は、恐らく前方後円墳としては最後のものとなる丸山古墳であると考えられるようになりました。
また、そう都合よくその地点に丸山古墳があったわけではないでしょうから、下ツ道基点とするべく、この丸山古墳が築かれたと見るべきだろう、と言うお話でした。
従って、丸山古墳は推古時代のものだと言うことになります。
現在この丸山古墳の被葬者はまだ不明です。

続きは欽明稜についてです。 次回になります。


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飛鳥塾  3
2006年1月18日 16:19:02 姫 MAIL
欽明天皇崩御が570年だとすると、当然6世紀の終わりにこの陵が築かれていなければなりませんが、実はこの陵もやはり推古天皇の時代であろうと推定されています。
また、欽明天皇の宮は三輪山の西、海石榴市の辺りであったらしいので、何故この忍坂の土地に、崩御後かなり遅れて陵が築かれたのか謎とされています。

欽明陵は後と左右をぐるりと山に囲まれていて、こういう形を周壁を伴う陵というのだそうです。  また普通であれば古墳は、山の尾根を利用し、尾根の形通りに造られますが、欽明陵に限っては尾根をちょん切り、そこへ横になる形で陵が築かれています。
大変手間隙を掛けているわけですね。 

発掘によって、その理由が判明しました。
陵の直ぐ南には、濠に沿う形で、長さ100m、幅30mもの土壇が造られていたことがわかりました。 土壇の南側はどうやら池があったらしく、池の幅は約60mで、この池を挟んで更に南には、道路が作られていました。  ここは現在も道路が走って居ます。  掘削してみた結果、かなりの深さまでずっと綺麗な砂が続き、一番底は泥沼地盤であることがわかりましたので、沼に土を盛り、道路にしたことがわかります。 更に、この道路の南側には、平田キタガワ遺跡が広がっているそうですが、この当たり一帯はまだ少ししか発掘が済んでいません。
発掘が進めば、年代などはっきりするかもしれません。

これらの遺構からわかったことは、欽明陵は明らかに人に見せるため、或いは祭祀の対象とするために作られたということです。  道路は紀路から飛鳥へ来る時にどうしても通らなければならない道筋で、ここを通る人は嫌でも欽明陵を見ながら飛鳥にはいることになります。


 


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飛鳥塾 4
2006年1月18日 16:37:40 姫 MAIL
また吉備姫墓にあった猿石は、池の底からみつかったのだそうです。  土壇に飾られていたものではないかと考えられていますが今後発掘が進めば、もっとこういう石が見つかるのではないかと、期待されるところです。

欽明陵はかなり大掛かりな舞台装置を伴う陵で大工事であった筈ですのに、日本書紀には一言も触れてありませんので、関川氏はこれがどういうことを意味するのか、大変悩んでいるのだと話しておられました。

また日本書紀に書かれていることは概ね事実だけれども、近年発掘によって明らかになる事柄でも、書いてあることと、書いていないことがあるので、それが不思議だとも仰っていました。   
蘇我系がらみのことが抜けているのでしょうか。

それから、平城京の朱雀門、大極殿跡を発掘してみますと、そこには、はっきりと下ツ道の跡があるそうです。
平城京の中心建物は、下ツ道の真上に建てられていたことがはっきりしました。


以上講義の大体を書きました。
字が、例によって、ちょっと違う個所もありますけど、失礼しました。


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欽明陵
2006年1月18日 18:44:58 管理人
姫さん、今年もよろしくお願いします。欽明陵、先日はじめてみてきましたが、姫さんの情報を読みながら、陵墓周辺の風景を思い浮かべていました。欽明陵の前の道路、確かにあそこを通って飛鳥に入ったのでしょうね。道とライン視点が、古代史の時代設定解明の役割を荷いはじめていること、とても興味深いです。そして古代の陵墓と道には時代時代でさまざまな意味が付加していったのですね。猿石が水田にあったこと、まだ出てくる可能性があること、興味深いです。多くの猿石はもともと飛鳥池にあったのでしょうか。7世紀の大型古墳、年々古墳論も進化していっているのですね。いろいろ勉強になります。


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なるほど
2006年1月18日 20:36:02 タックン
丸山古墳の中に納められていた、2個の家型石棺は当初の報道では、欽明とキタシ姫の石棺といわれていましたが、姫さんの聞かれた講演の内容では、推古と竹田皇子という事になるのでしょう。

これまでの見解では、欽明の陵にキタシ姫を改葬した際に、大規模な石室の改造が行われているのが、だいぶん前の新聞報道で話題になり、その後石室内を宮内庁が報告された結果からもわかっております。
その理由は、横穴式石室の羨道が異常に長く、羨道上の途中の部分から段があり継ぎ足しているという事、後円部にある石室の出口が、墳丘の中腹やや下側に歪な形で出口があること、その際に本来の墳丘がかなりの規模で修陵・改変されている事(この規模の前方後円墳にしては、前方部が全くなフラット状態)古代の道路が、この古墳の前方部に意図的に、ぶち当たるように設計しなおされている?ような気がいたします。
石室内にある家型石棺も、普通の配置では羨道上から見て、縦に配置されているが、此処のは奥壁に横向き、もう一方のは右端の縦向き、この石棺の配置からしてもどちらかの石棺が後から入れており、当初あった石棺を無理矢理端寄せているということです。
しかもこの石棺の形式から見て、私は推古時代の家型石棺よりも、古式の石棺と写真を見て考えております。
推古とするならば、皇子の竹田と仲良く縦向きに配置されて、(実の親子だから)埋葬されていると思いますが、この埋葬の配置状態はちょっと異常です。
結論から言って、私は欽明とキタシ姫の合葬陵、即ち蘇我の一大デモンストレーションの事業の一環、強大な蘇我の血を引く、キタシ姫のそれまであった欽明の陵を新しく蘇我のために造り直した、政治的策略の一環であったと思います。



HPURL移行
2006年1月17日 19:02:03 かわかつ WEB
HPをこのたびNiftyの大容量HPラクーカンに移行いたしました。
http://2004mmc-kawakatu.cool.coocan.jp/
なんと2MGの巨大空間が月額600円台で!しかも年間契約すると月額470円!
http://lacoocan.nifty.com/

それでURL移行のお知らせページを旧URLにリンクさせたいのですがジャンプさせる方法教えていただけないでしょうか?
YmmY


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たとえば
2006年1月17日 19:58:53 管理人
かわかつさん、おひさしぶりです。前に旧ページから新ページに移す際に以下のタグを使いましたのでご紹介します。
古いページに以下のタグを打ち込み、飛ばしたい新アドを下記に書き込みます。すると0.1秒ですぐに新アドに飛ぶようにできるはずです。試してみてください。あと、かわかつさんの新ページ何かひとつファイル(たぶんフラッシュ関係)が重すぎて、開かないので再度確認してみてください。

<html>

<head>
<title>渡来人研究会</title></head>

<BODY onload="setTimeout(&quot;location.href='http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/'&quot;,100*1)">

</body>
</html>


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うちのHPも
2006年1月17日 20:35:37 管理人
2Gで600円は相当安いですね。動画を載せるとすると、そのくらいあると大変助かりますね。うちもサブや枝部ページでそのサーバを利用してみたいですね。うちもそろそろデザイン更新の時期かな。硬いイメージから、聖霊の流れに乗っていくフレキシブルな雰囲気で。


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表示されないのは
2006年1月17日 23:02:28 かわかつ WEB
おそらくHPビルダーの転送設定の転送先フォルダーが未記入のせいでしょうが、ちょっといまのところわからないので明日以降改善します。今は旧URLでご覧下さい。申し訳なく。転送ができれば閲覧できるかと。
しかし、うちのには出ているのですが。???
TOPページは確かに大きな動画ですので最初のコンタクトで時間がかかりすぎています。一度届けばあとは早いのですが。
確かに初めての時はかなり画像が来るのが遅いようです。

長いことスランプなのに閉めきりだけはやってきます。
雪解けを待って若狭〜気比〜新潟弥彦神社・・・ここは重要です。なんといっても拝礼方式が四拍手なのです。祭神は天の香具山命です。例の物部氏の一派・高倉下の別名があり、尾張氏の祖とされます。弥彦は鹿児島の弥五郎どんをご存じなら同様の系列かもってやつです。・・・まで出雲日本海ルートを探索するつもりです。
どうもこのルートの始点が筑後の君のいた有明海ではなかったかと考えています。神武東征の日向ライン出発がどうも信じられない。なにしろ日向の海岸線にはまったく大きな港がないのです。しかも太平洋の黒潮は小舟を外界へ引っ張り込む流れらしい。むしろ裏側の東シナ海からあがって、玄界灘へ抜ける縄文航海ラインの方が整合性があるのでは?
なにしろ岡本の宮へわざわざゆくには宇佐からでは無理。穴門の海峡は逆向きに海流が入ってくるので古代の構造船では抜けらrなかった可能性が高いのですよ。うへうへうへへへへ・・・


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天照御霊神社
2006年1月17日 23:15:35 かわかつ WEB
千田稔が調査していますが、これらの神社の祭神はすべて尾張氏に関係ある。つまり天照国照彦天の火明命ですよ。
こりゃあ伊勢神宮外宮の豊受大神と大いに関わっています。また、大和の物部氏の傍流としての香具山命も重大なこと。例の東征の時熊野悪霊に魅入られてしまった神武を、高倉下が剣によって覚醒させる。

豊前海岸には屯倉がなくてね
作れなかったらしい。遠賀川から東側には縄文からの伝統が根を張っていて、新しい文化を受け入れなかった・・・森浩一がそう書いてます。とりあえず宗像の一派・安曇の磯羅があやしいです。ここは企救物部と秦氏がある時期同居するんです。おっかしいですねえ。

そういえば蘇我入鹿神社ご存じ?妙なところにありますよ。
舒明天皇からこっち天武系の時代に八角の古墳に埋葬されてますが、八角とはまるで夢殿みたいですなあ。怪しいねえ。
蘇我氏の系譜をいくら探してもなんにも資料がないね。蘇我氏って本当にいたのかな?うふふ・・・


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海流
2006年1月18日 0:33:18 管理人
よく見てみるとどうもかわかつさんのHPってフラッシュでないんですよね。ソース拝見していますが、恐ろしく複雑なことに・・。ビルダーもずいぶんいろいろできるように発展してきたようですね。と、それを使いこなしているかわかつさんもすごいかも・・・。フラッシュ動画などは、使用する写真のファイル画像を最初からサイズを小さく、軽くしてから使用すると、仕上がっても軽くなるようです。
海流の件、なかなか九州は九州でいろいろあるみたいですね。先ほど床屋のおじさんが誰かからもらったという古本に、「日本の古代3〜海を越えての交流」中公新書があったので、貸してもらってきました。前にもこの本話題になりましたが、東アジアの海流についていろいろ詳しく載っていますね。ちょっとその辺もあわせて勉強してみます。ともかく、やはりかわかつさんお得意のヒメコソ神、これですよね。かわかつさんの著作読み返して勉強しています。海辺との関連、ぜひ敦賀のオフ会でお聞かせください。ま、オフ会も掲示板も流れに任せて気楽にやりましょう。ではでは。


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フラッシュ
2006年1月18日 2:08:47 かわかつ WEB
それはテンプレートのこと?既製品がきらいなのですべてどこでも配置モードでつくってますが。そういえばどなたもソースを見るとJavaのようなややこしいスクリプトじゃなく、ちゃんと日本語ですねえ・・・どうするの?


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動画ソフト
2006年1月18日 2:45:55 管理人
フラッシュは、動画ソフトの一種です。しかもプログラムなしで画像を張りあわせていくだけなので、とても簡単です。きっとかわかつさんなら、使いこなせるようになられたら、かなり面白いアニメや動画作品をHPに掲載されるのではと感じます。以下30日間の体験版がありますので、フラッシュ関連のHPを参考にされながら、お時間あるときチャレンジされてみてはどうでしょう。
http://www.macromedia.com/jp/downloads/studio8_trial.html
また学生が近くにおられたら学割でかなり安く購入もできます。ぜひお勧めです。



参考HP 巨石
2006年1月17日 8:14:11 いばらの紀氏

 おはようございます。
御尊敬申しあげます かたばみさんのHPです。
感動のあまり御紹介致します。

http://homepage3.nifty.com/megalith/


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縄文列石
2006年1月17日 20:28:40 管理人
かたばみさんのHP、すごいですね。わかりやすいし、新たな視点も盛りだくさん、勉強になります。このページのラインが特におもしろいです。http://homepage3.nifty.com/megalith/kyoseki1.htm縄文人はどうやってあんな丘陵に石を運んだのでしょう。磐船社の岩を思い出しますね。


石人像
2006年1月16日 16:20:09 管理人
それにしても、交流掲示板
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/
をひさしぶりに見ていて、姫さんご紹介の飛鳥の石人像、噴水を出す仕組みと、外来系の彫りの濃い顔立ちの像や、猿のような像、二面石、突然日本で湧き上がったモチーフというよりは、どこかにモデルがありそうな感じですね。画像掲示板のほうにもかわかつさんがご紹介の備中国分寺に石人像がありますが、やはり飛鳥のそれと似ています。飛鳥の猿石のうち4つは、欽明陵そばの吉備姫墓にありました。吉備とはいったい??http://8811.teacup.com/toraijin/bbs



原稿に新ラインを追加
2006年1月16日 8:05:26 管理人
白根神社(草津)→酒折宮→浅間大社:南北138度35分ライン(草津、酒折宮、浅間に残る日本武尊伝承拠点を結んだライン)
を原稿に追加しました。この辺、いつごろの時代のものかが課題です。原稿集はこちらです。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/



(゜◇゜)~ ガーン反省 目たる状態でした。m(..)m 
2006年1月15日 10:13:31 いばらの紀氏

 情報の渦の中に真実が見え隠れ知への探求にのめり込み感激のドーパミンが覚せい状態でした。 (^o^)V 
紀氏の手法、結論(仮説)の証明に無作為のデータ収集・・・溺れ欠けていた自分に気付きませんでした  \(^^\)(/^^)/ 
甘えていました、これまでに論文の作成などに縁が無かったので(学ぼうとしなかった。)管理人さん情報処理 理解 分析・・・能力の高さに                            (^^;ゞ 
情報の収集が管理人さんのお役に立っているとの妄想( ̄- ̄) ・・・陳謝申しあげます。 <(_ _)>
遺跡ラインでの古代・古代史解明 そろそろクライマックスかと・・・・・・冷静になり今後必要と思える情報の収集にあたりたいと思います。
古墳のオオソリティー タックンさん、古墳の上の神社や祠(とくに稲荷など) 秦氏関連と考えますので豊富の知識とデータで解明のほどよろしく御願い致します。 (^.^)(-.-)<(_ _)>
秦氏ならかわかつさん、期待しています秦氏の日本国土開発と資本主義国家(帝国貴族主義?)形成のシナリオの解明を。 (^・^) 
とみたさん お元気でしょうか?古代イスラエル10プラス2部族の思想とユーラシヤへの拡散と影響、宗教・建築・科学・文化・・・そして 闇・・・世界の発展を加速させているメソポタミア系(アトランティス?)・・・・・分析のほど 楽しみです。  (^.^) 
ネットでの情報の共有での平和 共存への利用 ささいなローカル情報に解明の鍵が存在している鴨? これまでの権威の説が足かせだったり     (;_・) 
勝組み 負け組みの明確になる社会、貧富の差 貧民をつくり出し世界の頂点をめざすシステムを創りし物・・・・・・                             紀氏ドンキホーテは\(`o〃)

 今後とも皆様のご活躍をGo祈念いたします。  ヾ(^_^) 


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結論
2006年1月16日 2:40:04 管理人
紀氏さんこんばんは。いつも貴重な情報、管理人も大変助かっています。ドーパミン体質とのこと、私もどちらかというとそういうところあるので、よくわかります。やる気あるときは寝る間も惜しんで遠くまで出かけますが、ないときはほんとに寝る以外何もしたくないことも多いですから・・。とはいえ管理人、やる気あるときでも、なくても管理は継続しなければならないので、ある意味仕事的ではあります。
さて、紀氏さんの結論先にありきの手法、普通の方とちょっとちがいますね。普通はトンネルを地道に掘っていって、やっと出口に到達するんだ、それが結論というイメージが強いとも思います。でもほんとは歴史の事実は、ピラミッドの建築と違って、すでに結論が列記として存在しているわけですね。だから結論が最初に見えていて当然なわけです。研究でも結論がすでに存在している研究分野と、結論を自身で作り上げていく研究分野があります。前者は歴史とか、天体物理とか・・・正確に存在している事実を読み解くことが課題とされます。後者は、工学とか文学とか芸術とか作曲・・・最初から事実や解は存在せず、自分で新たに創造して試行錯誤していく能力が求められます。後者のほうが創造性もあり面白いし、ドーパミンもたくさん必要とされるし、私もそちらの分野のほうが正直いって好きですね。しかしそこで古代史は前者ですから、明らかに結論は先に存在しているのであってすでに結論は見えている人もいるわけですが、課題となるのは、それをどう証明するか、そこが悩みの種でありキーです。見えている結論までの道路を隙間なく舗装していくのに、時間と労力がかかります。その舗装の仕方を発想するのに、あらゆる創造性や試行錯誤が必要とされ、能力差が出てくるのではと感じます。もちろん結論が見えるという能力が前提となり、紀氏さんのその卓越さはすごいです。紀氏さんのライン測量論や漢字解析はその解明手法として新たな可能性を多くもっていると思いますし、ぜひぜひドーパミンで創造やってみてください。楽しみにしています。



古墳上の神社
2006年1月13日 22:47:24 タックン
大和に限らず、古墳の墳丘上にある神社が多いのに気になります。
これは神社が後から、創建されていったと考えるのが妥当ですが、中には神社と古墳の築造が、あまり時代が隔たっていない場所も、多々あるのではないか?とも最近考えるようになってきました。

最も大部分の古墳は、神社が後の時代に創建されていると考えますが、古墳を築造した集団が何らかの理由によって、神社を被葬者のために祀っていったと考えるのも強ち否定は出来ません。
大きな社を持っている神社も、古墳の墳丘上に建っている場所もありますが、ごく小さな祠?などもひっそり建てられている場所も、私が過去に行った古墳の中にも、数多くあり実見しております。

京都府の亀岡市に、出雲神社という神社がありますが、この境内にも裏山に横穴式石室を持った、かなり規模大きい古墳が幾つかあり、この周辺の古墳群の一部といわれております。
有名な岡山にある、吉備津神社の裏山にも、此処の祭神の墓所といわれている大型の前方後円墳の、中山茶臼山古墳があります。
近畿では、応神天皇陵(誉田山古墳)に接して誉田八幡宮があり、まさにこれこそ被葬者を特定?できうる好例という感じです。
こういう例を見てみると、古墳=神社なんらかの因果関係が、古墳築造の氏族、大和朝廷との関連から神社による、被葬者の祭祀的なよりどころとして発展していったと考えられるのです。


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神社視点と古墳視点
2006年1月14日 16:32:31 管理人
タックンサン情報ありがとうございます。古墳と神社の年代差がどうなのか、気になるところですね。おもしろいのは、考古学のたっくんさんは古墳になぜ神社がプラスしてくるのかという疑問をもち、文献史学の私はなぜ神社や神話に古墳がプラスしてくるのかと疑問をもっているようです。年代差というと、関係するかどうかわかりませんが、出雲大社などは、巨大な柱の高層神殿が建っていたそうで、柱など木製品関連の遺物に関しては、年輪年代法で年代が正確にでてくるそうですね、元興寺の木材が580年代と出ていていること探索で元興寺の資料館に行ったときに知ったのですが、確かどこだかの古墳からの木材は200年をくだらないとか、いろいろ木材からわかってきているそうです。木材の出土がキーでしょうか。


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年代決定
2006年1月14日 20:42:24 タックン
そうですね、出雲大社の巨大建築に使われていた木材は、年輪測定や炭素測定である程度の年代が発表されていて、巨大な社の建築年代・廃絶の時期もわかっています。
弥生の遺跡などでも、大型建築の存在が奈良県内や、遠く日本海側の金沢にある縄文時代の遺跡なども、こういった大型の建築物の存在が指摘されてきて話題になってきています。
ただ木材の年代というのは、かなり厄介な代物で、ある程度の木の伐採時期が判っても、その木が伐採された木の年齢がその時期にどれくらいに育っていたかがちょっと引っかかるところです。
出雲大社の場合、この周辺にはたぶん古代の時期は砂丘上にあって、木材の獲得が難しい場所であり、木材を求めるとなるとかなり遠くの奥出雲地域か、また別の山陰の地域から求めたと考えられます。
当時の山林は今とは違い、かなりの年代が経過して育った、巨木が中国山地内で求められたんでしょうね。


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神殿
2006年1月15日 5:24:59 管理人
ほんとに出雲の神殿の柱が発見されて年代年輪法で測定されているんですね。いろいろ難しそうですが、古墳と神社とのつながり、この辺の手法に期待ですね。あとは、神社特有の機器と年代測定との関連だと、何があるでしょう。紀氏さんご指摘の鏡とか、勾玉とか、諏訪系だと薙鎌の鉄物質の製作年代とか、地層のどの年代から出てくるとか、わかってくるといいのですが。諏訪神社のちかくのミシャクジ社のそばの神道山古墳群などは、なにか神道祭祀系のものがでてないでしょうか。ここもそういえばタックンの情報にあるように山から大きな柱を持ってくる習慣ありますね。



禹が旧約聖書に「ラビッ」(兎鷺)の名で・・・・
2006年1月13日 19:54:12 いばらの紀氏

『ユダヤ思想』 P-25
よく注意すると神が怒るカインに対して言った言葉の直訳文『おまえがよくすれば、「上げること」ではないか。しかし、おまえがよくしなければ、罪は戸口に伏しているものではないか。それ(伏しているもの)はおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない。』に出てくる、この"伏しているもの"は、アッカド人の考える悪鬼「ラビツ」であり、当時の人は、この悪魔をすきあらば家の中に入ろうとして戸口に伏しているものと考えていたようです。
http://www.e-maitri.com/m_journal/a_03.htm
古代インドのバラモン僧達は、今日の科学者のように宇宙の真理や秘密を知っているとされ、神々を強制し、宇宙の力を支配することができると考えられていたようです。――このような特権(バラモン)階級に対して釈尊のような在野の求道者が、反旗を翻し、人が本来生きるべき道を捜し求めていたわけです。――
 当時のバラモン僧達のやっていたことは、現代でいえばオカルト的秘儀といってもいいのでしょうが、ユダヤ教では、このようなオカルトは完全に禁止されていました。――ヘブライ語では「占い」と「蛇」は同語源といわれています。――

神は寧ろアベルをかたき役、斬られ役として登場させ、その視線は、殺人者カインを見つめていたというのです。


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ラビ ラブ ラビッ?禹
2006年1月14日 4:52:58 いばらの紀氏
米国人遺跡学者とユダヤ教ラビがイラクのバビロンで遺跡盗掘
http://www.geocities.jp/voiceofarab/04120916.htm
ラビ ヘブライ語ラッビー rabbi とはラブ rabh「師」の派生語であり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%93
八〇〇を超すテキストの書庫は、キリスト教とラビ・ユダヤ教双方が出現した二〇〇〇年以上前の重要な時期に解明の光を直接投げかけるのである。サドカイ派は重要な富裕階級と政治的有力者をおさえている祭司・貴族的集団である。軍事指導者であると同時に外交官の職務も果たした。サドカイ派は自分たちを唯一の正統的祭司であるとも主張し、多くの法的事項に対して明らかにパリサイ派よりも厳格なアプローチをとっていた。http://www.myrtos.co.jp/index.html?url=http://www.myrtos.co.jp/pub/mp_book/deadsea.html


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ユダヤ教はモーセが祖
2006年1月14日 5:32:19 いばらの紀氏
ユダヤ教は、唯一神が預言者モーセに神の教え(トーラー)を啓示し、イスラエルの民を選んで契約を結んだという信仰に基づいてその生活規範を実践する宗教である。
http://www.page.sannet.ne.jp/m-kensuke/rel4.htm

大国主の崩御と 空中神殿 − 中国に,AL3000年以前に、  .  .

夏王朝の開祖 聖王 禹が死の迫るを知って、河北黄河流域の 都 から、

長江流域の穀倉地帯江南の地に巡幸し、諸侯 を集め論考を行った後に

薨じ、その地の名が 会稽 となった故事があります。  

・・・・会稽 から ライン が 日本へ来たと考えている紀氏でした。


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ローマ帝国の国教???
2006年1月14日 5:42:11 いばらの紀氏
キリスト教は、ローマ帝国の国教になり、 ユダヤ教に悪様な印象 を植え付ける事にヤッキになり、 キリスト教徒を殺して血を啜るユダヤ とかシャイロックに代表される 強欲商人ユダヤ などの レッテル を貼り付けます。アメリカの neo con を悪し様 に言う元にもなっていますが、 インフォリオリティ コンプレックス です。 * この様は、日本の書記に於ける エミシの蝦夷呼ばわり と、良く似ていて、笑えないものであります。 *  正しい認識 が必要です。 

・・・・・「ローマ帝国の国教」以後の「メイソン的キリスト教」は、破壊と侵略(経済的にも)の拡大の歴史を刻み続けています。トホホ・・。


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聖母マリアと蛇
2006年1月14日 10:17:57 いばらの紀氏
http://www.e-maitri.com/t_experi/menufl.html
過去の歴史の中で、多くの霊的素質のある者が、天上界からのコンタクトを受けているのです。
現代でもカトリック教会では、ファティマを始めとして、歴史的な聖母やイエスの出現を公式に認めています。勿論、これらの出現や、霊的能力者は、かなりの期間の審査と所定の手続きを経て、それらが"奇跡"であると認定されるといいますが、面白いのは、これらの現象が、例えば、現在の聖母出現でも田舎の無知な子供が選ばれていて、恰も我々の合理的な判断に水を差すかのような、格好――合理性に偏った情報処理ばかりになっている人の生活に対して、警告を発し、バランスをとるべきだと、メッセージを与える夢の機能のようです。――になりがちだということです。
http://www.e-maitri.com/t_experi/desc_pas/com_underst3.htm


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占い 蛇 ラビッ 禹
2006年1月14日 10:41:23 いばらの紀氏
夏王朝の時代に全土に亘って行われた獣の肩甲骨を使った卜占は、殷代には益々洗練されたものに成り、殷中期からは亀甲を使った卜占も盛んに行われるように成り、共に前漢時代迄行われていたが、易も尊重され、夏の時代には連山易、殷の時代には帰蔵易が行われたが、今に伝わっていない。
http://www11.plala.or.jp/mtabuchi/page007.html
ヘブライ語では「占い」と「蛇」は同語源といわれています
だから 「悪鬼」キ=鬼 紀 木 箕 亀 几 黄 姫 伎 忌 起 埼 規
旗 槻 己・・・・・禹系の文字です。
(う系文字も多数・・・雨 菟 卯 羽 右 芋 宇 兎 烏 鵜 胡 禹・・・)


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ジャーマン
2006年1月14日 16:27:14 管理人
さんのところでまた震度4ですね。大丈夫でしたか?今日は沖縄のシャーマン?が東南海地震くるという話をしたといううわさが流れていて、何かくるかなとジーパンで寝ていました。今後も注意しましょう。占いというと石切神社の周辺、占い街になっていて驚きでしたが、何か関係が???



三種の神器に閃きが!
2006年1月13日 14:52:42 いばらの紀氏

八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の3種類の宝物。日本の歴代天皇が、皇位の標識としてうけついできた。
結論から言いますと
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、軍事力。測量を兼ねる。「薙」=「草」+「矢」+「鳥」(隼)  「くさなぎ」は草刈の道具(カマ)鎌倉?「矢」は方向を示す道具。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、お金 軍資金 (報奨金・お年玉?)

八咫鏡(やたのかがみ)は、太陽(主神)の代用「摂」兼ねる(ニの音ミミ・耳は主神の声を聞く「菊」・神官?)宗教で人々を収める(収拾?釣る・・・海彦の針)

皇位の標識 主神との対話できる「事での」(琴での・鼓とでの・孤とでの・戸とでの)「カリスマ性」。軍事力での「権力」。お金での養い。「玉・魂を奪う」

いかがでしょうか?


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はくちょう  漢和中辞典から
2006年1月13日 15:36:44 いばらの紀氏
はくちょう:「鴻・大鳥・鳳・鵬・おおとり」
【鴻号】こうごう(ガウ)天子の名・・・(ヤマトタケル?)
【鵬 魚+昆】ほうこん(魚+系 コン?禹の父?):想像上の大鳥と大魚。非情におおきい事物、または英雄にたとえる。
【鵬】おおとり(語源「凡」)・【鵬図】:ホウトおおとりが北から南へ一挙に九万里も飛んで行こうとする大きなもくろみ。大計画・壮志をたとえることば。

「はくちょう」には以上の意味が
おまけ
「咢+鳥」ガク みさご:魚(キリスト系)をとって食う。
「魚+&#22121;」ガク わに「鰐」・・・ワニ氏?は みさご?は 魚鷹・・・・いなばの白兎?はキリスト系・・・・?


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はたはた 「魚雷」国字
2006年1月13日 16:02:52 いばらの紀氏
「魚+雷」はたはた・・・秦幡旗機将旛・・・・秦氏は魚系?
「牙+鳥」ア 嘴ぶとガラス 【鴉片】あへん  けしの実からつくる麻薬。

酒・・・大蛇(おろち・出雲・禹系)に飲ませ 国を譲らせた?
(鴉片アヘン戦争の影に・・・牙 カラース系 キリスト教会?)


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魚=旧 鳥=新(秦)
2006年1月13日 16:20:48 いばらの紀氏
渡来人の新旧 ともにユダヤ教の影響を感じますが
旧 出雲・禹系には連立都市国家を感じます。
新 ・・・には・ピラミッド型カースト社会(一極集中)を感じました。
インドのバラモンは元 商人カナん。


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八咫
2006年1月14日 16:24:59 管理人
八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉、紀氏さんに字解してもらってはじめて、似たような感じが使われていることに気づきました。八尺と八咫どちらが正解ですか?


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咫・尺 氣が付きましたか
2006年1月14日 18:32:37 いばらの紀氏
咫・尺 共に「シ」の音
咫=尺+只シ[口(禹のちち)ハ(禹の足)ただ]・・田だ ヤタの「タ」
                 ただ一筋に田(測量)。
  尺しゃく:長さ
  咫   :長さと「ただ」
八ヤ(YHWH)のヤ ただ一筋に田タ(測量)+カラス(僧・測量士)

YHWHの測量 士(僧?)・・・毎度 おなじ 測量士です。


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救うの意
2006年1月14日 18:46:47 いばらの紀氏
尺 勺シャク ジャク 柄杓ひしゃく(北斗七星)規と救うの意 

笏コツ しゃく勿 コツが音をあらわす。聖徳太子がもつ板状の定規。
 長さの単位と救うの意味。  紀氏の解釈でした。


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もしかして・・・
2006年1月14日 18:59:59 いばらの紀氏
古代中国に短剣に救うの意味が有ります・
勺しゃくにも・・・・だとしたら
七星剣、天ムラ雲剣などに長さ 定規の役割が隠されているのでは? 


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この辺から
2006年1月15日 5:26:20 管理人
紀氏さんまたあらたな原稿書けそうですね。定規視点重要です。



日本武尊伝承ルート探索後半
2006年1月13日 7:39:35 管理人
日本武尊伝承ルート探索の後半部をアップいたしました。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/0601isenara.htm
探索後半では、奈良は元興寺から、飛鳥の亀型石造物、琴弾原の白鳥陵、羽曳野白鳥陵、石切神社などを巡ってきました。ぜひご覧になってみてくださいね。



日本武尊伝承ルート探索
2006年1月11日 21:24:23 管理人
日本武尊伝承ルート探索06.01.8〜10をアップしました。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/0601isenara.htm
富士浅間から焼津、伊勢から奈良、羽曳野と、白鳥陵から雄略陵まで見てきました。浅間神社では、見事な晴れ空の富士山全貌をみることができ、熱田神宮では、熱田本の日本書紀の展示の最中で、生でちょうど日本武尊の東征の部分を読んできました。原本に当たれるというのは、原稿書く上で貴重な機会です。まさに感謝!そのほかいろいろ感謝すること多くありました。感謝といれば、タックンさん、いろいろ情報ありがとうございました。確かに大和の白鳥陵は岡の斜面を削ったようで、ほんとに古墳かなという感じですね。雄略陵も小さく、大塚山のほうがかなり大きかったです。どこがホントの雄略墓か?日本武尊の墓か?なぞですね。やっとパソコンもWINDOWS認証も電話で問い合わせてログインできるようになり、今までどおり普通にアップできそうです。いろいろ発見も多いたびで感謝でした。探索日記執筆中ですが、よかったら呼んでみてください。ではでは、今後ともよろしくです。


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吉田 富士吉田?
2006年1月12日 8:57:24 いばらの紀氏
吉田神社には、変わったものが境内正面にありました。天然記念物「さざれ石」です。
下鴫神社にもありますが・・・。岐阜県春日村から運ばれたものです。

東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武石(亀石)と30cm位の石が置かれており、東北の朱雀石はお堂の申(内陣)にありました

少し行くと三等三角点があります。プレートに「標高105,12m 北緯35度1分18秒168・東経135度47分19秒724」とあり、その東に「紅萌ゆる丘の花」の碑があって、更に東少し離れた所に天満宮と竹中稲荷があります。
吉田神道はみずから唯一神道、元本宗源神道と名乗り、現在の吉田神社の南東100m程の所に、天之子矢根命の神祇で全国の800万の神が集まったとして、斎場所・太元宮を造り、併せて延喜式円社3132社も奉祀しました。
http://www.geocities.co.jp/Athlete/4001/yama12.htm


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吉田神道
2006年1月12日 10:24:36 管理人
吉田神道、HPあったのでご参照ください。いろいろ神道も知らないことばかりで勉強せねばなりませんね。
http://www.miyagawa.com/syuha/syu/sinto.html
さざれ石というと、今月の雑誌「ムー」で、幻の海に沈んだ大陸スンダランドの特集で、おもしろそうなので買ってみたのですが、縄文人のピラミッドや神社を、50キロ正三角形ネットワークでさざれ石状に網目をかけてラインを結んでいる渡辺氏の図が載っていました。これなどキシさんも必読のように感じます。古事記、書紀に現れた1万2千年前の文明の伝承や、その文明のライン拠点、これなども、どうしても日本古代史やる上で研究しておかねばなりませんね。DNAの問題も、アフリカ紀元説ではなく、スンダランド起源説や、世界各地での並行的な進化仮説など、いろいろ実証されてきているそうで、その辺も渡来人との対比ではっきり研究しておかねばならないでしょう。春日山も荒俣氏によると、藤原氏が支配する以前に、オオ氏系のピラミッド拠点だったのではと言ってますし、はてさてそのオオ氏とはいったい南方系の壁画を残していますが、スンダランド起源なのか、はてまたどこから来たのか?話題は尽きない感じですね。


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鷹視ようし:越王長頸烏啄--狼歩
2006年1月13日 11:28:54 いばらの紀氏
タカミムスヒノカミ、高見 結び
カムムスヒノカミ 夏 ム(私・現在地?)

上記の二神は夏カのム(禹)の測量士の渡来人・・・の妄想でした。
「結」ユイ 故ユエ 由 居  「由来」 ゆラい :梵語で距離の単位。「ラ」邏めぐる(しんにょう+羅)由羅位 置 ・・・を感じます。

    いかがでしょうか?「結」と「故」「居」には 「古」の文字が
 「古」は 口 (古墳?) 「+」(十字の目印)
 「古」コ・・・「胡」人?・・「估」コ・あきない・商人・・ユダヤ!


 鷹狩り・・【鷹犬】共に「狩」(測量の隠語)に使う。
      「狩」(狩らす・・烏・鴉・・「牙」:商人)・・ユダヤ?



兎に角、国歌にある「さざれ石」
2006年1月9日 14:17:20 いばらの紀氏
兎に角、国歌にある「さざれ石」
天然のコンクリートのような岩石
さざれ石の巌・石老山 
http://homepage3.nifty.com/nininsankyaku/yama/y047.htm
巌となるのは本当だった
滋賀・岐阜の県境にある伊吹山が 「さざれ石」 の産地であると知った。
春日村には、「君が代」にまつわる伝説があります。
 平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子に、惟喬親王(これたかしんのう)がおられました。天皇は親王を皇太子に推すつもりでした。しかし、事情により親王は、年下の第四皇子(後の清和天皇)に皇子の座を先んじられることとなりました。悲運の親王は一時、近江の小椋郷に隠れ住みました。やがて親王はその地で、お椀や鉢などを作る木地師(きじし)の祖神とされるようになったのです。
http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_021.htm

山から月が出てくるのを御覧になって、「今度、私が生れようとしている浄土は、お月さま、あなたです」と物思いに耽っておられました。そうしたら目の前に、金の冠を額にあてている一人の役人が空からやって来て、 "さざれ石の宮様"に瑠璃(宝石の一種)の壺をお渡しして、「私は薬師如来の御使い、金毘羅大将です」と申しました。
「から月が出てくる」は先住渡来人「月」陰うさぎ 菟 禹系の比喩と考えられます。
http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/topic/t009.htm

この蟾洲の意味ですが、蟾(せん、蟾蜍とも)は、ひきがえる(俗称ガマ)で、月にひきがえるがすむという伝説から、月の別名です。忠震は養父とともに築地中通りに住んでいたので、蟾(せん、ひきがえる)は月であり、月(つき)は築(つき)に通じ、洲は陸地の意味で、即ち、蟾洲(せんしゅう)は築地の言い換えです。
 月にウサギでなくて、カエルが住むという伝説とは、嫦娥(じょうが、古代中国の伝説上の人物)が、夫が西王母からもらいうけた不死の薬を盗み、月に逃げ込んで蟇(ガマ)に変わったと伝えられる話を指します。
http://www43.tok2.com/home/oshimamd/nagaoka/145.htm

土岐石 ・・・・・土居?
桔梗紋が結ぶ
清和源氏土岐氏一族・・・
http://www8.ocn.ne.jp/~masa1/page009.html

 


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芭蕉の暗号
2006年1月9日 14:17:53 いばらの紀氏

天王寺の、西冑山下の枯れ草深き池に、蛙其の數を知らず集 り、南北に分れ喫み合ひたるが、北の方皆負けて 死す、観る者怪んで朧月に蛙池中より發起する事 更に無き事也、北方の負るは是城方の敗るる兆な るべき旨口々に稱すと云々
http://www.geocities.jp/kitahiko501326/geodiary.html
萬葉集・・・・禹の枝葉・・禹系を集めた?
「卯(禹)の花に兼房見ゆる白毛かな」と詠じ、「多田神社」では斉藤実盛の遺品の兜に涙して「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠じている。


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さざれ石
2006年1月12日 1:51:14 管理人
確か吉備津彦神社で見かけました。伊吹山は行こうかどうか迷ったんですが・・・。さざれ石、探索中どこかで見てます。どこだったかな。あと、修正ですが、宇佐→吉備津→磐船ラインは30度でした。鹿島→伊勢ラインは23.4度で、違います。あと海部・尾張ラインも35度で修正しました。紀氏さんご指摘春日村って・・。


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さざれ石
2006年1月12日 8:02:45 いばらの紀氏
下鴨神社では?
http://www.yukai.jp/~hare_hare/teien/simogamojinjya/4602.html

 下妻(茨城)大宝八幡宮にも
http://www5b.biglobe.ne.jp/~miur/points/2/ib21.htm

伊勢神宮の内宮・外宮、熱田神宮、明治神宮、金刀比羅宮、出雲大社、霧島神宮、日枝神社、橿原神宮、乃木神社など、全国四〇以上の有名神社に奉納されている。
 県内でも多度神社、椿大神社、そして有り難いことに筆者の田舎の鎮守さま、飯高町・水屋神社でも実物を観ることが出来る。
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/kako/sazare.htm
  このへんの神社とライン 関連は?
指摘春日村って・・。???なんでしたッケ?(ボケが始まり カナ?)


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岐阜県春日村 !
2006年1月12日 8:12:50 いばらの紀氏
伊吹山(1377m)
(さざれ石公園→伊吹山→さざれ石公園)
http://www.geocities.co.jp/Beautycare-Venus/1191/climbing/20020803/20020803ibuki.html
 のことでした?鴨。
 伊吹は・・・・・風 系 カナ?

キリシタン大名小西行長の足跡
国歌の基になったさざれ石
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/yodo17.htm
この石にまつわる郷土の伝承として、平安時代文徳天皇(在位850〜858年)の皇子惟喬親王(木地師の祖神)に仕えた藤原朝臣石位左衛門(歌人)が、江州君ヶ畑から木地椀の良材を求めて春日村に移り住み、江州の君ヶ畑へ通う途中、自然に凝固、苔むして巨巌になっている珍しい石の状態を見て、ありのまま
わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
と詠ったのがこの石であり千代に栄えることを願っためでたい石であるという。


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以前に調べた結果ですが?忘れてしまいました。
2006年1月12日 8:28:23 いばらの紀氏
雨水で溶解され、その時に生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝結して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出し、苔むしたもの
粘着力の強い乳状液

いき[黒+弋]:黒・点の意  「點」テン:二線が交わるところ。(×)
黒くろ・・・玄ゲンケンくろ・・・それが見えるか見えないの幽遠、微妙幽玄
&#30337; ヨウ くろ どんぐり とちのみ くぬぎ ・・かいばおけ・・・キリスト
緇シ くろ・・・僧衣 クロー
あいまい を漢字 トラバー杭
モチ:勿 旗に3本の旗がついてるさま。昔、大夫や士が旗を立てて人々を集めたという。 餅 
モチ:物 雑からきている。雑色の牛禹氏の意味。(大物・・・被う・「大生」物?)
モチ:没 水の中に沈むことが原義。 シ 川 の辺りの酒甕に沈められた禹の父鯀コン・・・・モデルの文字。
もち:餅 は並ぶ  ならんで対をなす。偶
もちのき橿 樫
&#30074;キョウ 境の意味 には卯津木うつぎ 禹の「津」の木 「津」はポイントの「杭」杙 弋ヨク いぐるみ うばいとる矢に糸をつなぎ鳥を取る。狩り 矢 杭 区意 剣 鶴来 枝 画だ
堅かたい ケン堅実まちがいない。かた夏田カタ &#30030;みぞ ケン
餌ジ だんご 丸め込む 人を誘い出すためのあてがい物。
もちあわせ朮ジュツ おけら 古い字形だは米がべとついている様。
望 某 棒 坊 房 卯 牟 亡 冒
モチ黐 リ チ  はりつくの麗レイ うるわしいからきている。鳥もち 鳥を捕えるのに用いる。
【阜フ おか こざとへん 
古い字形では・・・なんと 旗に3本の旗がついてるさま
モチ:勿 旗に3本の旗がついてるさま。昔、大夫や士が旗を立てて人々を集めたという。 餅 
こけ苔

リン うろこ
セン 蘚
 以上 蘚[++魚羊]朝「鮮」が結果か?・・・さざれ石から???忘れました。


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多度神社
2006年1月13日 8:18:21 管理人
そうそう、さざれ石をみたのは多度神社でした。多度神社と北方養老郡を超えて、伊吹山との関係は、その辺から出てくるのかもしれませんね。多度神社も、磐船同様山奥の岩のところに清水が湧き出るところを選んで作られた感じでした。物部系?岩石信仰でしょうか。



いし 石考
2006年1月9日 9:37:30 いばらの紀氏
石には、「頤使」イシ:あごで指図する。人を自由に使う。・・・・・の意味があります。
 その他
お墓に石をのせるのも、死体が起き上がれなくするためだといわれている
http://www.wakasa-h.ed.jp/teijisei/H15sougou/tatemono/tatemono/akiyama/sekkijidaihaka.htm

支石墓は青銅器時代の代表的な墓でゴイン石とも呼ばれ、主に経済力があったり政治権力を持つ支配層の墓として知られています。
http://yeongam.go.kr/japan/culture/assets/content01-28.html

銅製釘隠は裏面が皿状にくぼんだ板状の六花形金具である。
http://www.asukamura.jp/asuka-wo-saguru/kitora-hozon02.htm

毎年朝鮮に行き、殿・宮・院・祠・寺・社・廟・塔・碑・礎・燈・古墳・陵墓などの古建築や古蹟を調査して報告書を出した。
まれに瓢形もある。
天井の一枚石は中央に蓮花、南北に鳳凰が描かれ、東に太陽、西に太陰の象徴がある[54]。太陽は円内に黒い三足鳥を、太陰は奇妙な蟾蜍を描き、さらに四隅に蓮花および忍冬文を描く。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/02/020200.html

美濃(岐阜県)に出て土岐氏に仕え一柳に改姓しています。
以後、羽柴(豊臣)秀吉、徳川家康に仕えて大名となり、小野藩を領することになりました。・・・・鬼 禹 瓦?
http://park7.wakwak.com/~tensi/uchiyama.html


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紀氏さんご紹介の
2006年1月9日 22:08:51 管理人
支石墓というと華南方面から朝鮮、北九州への流れがあるそうですね。積石塚は支石墓と関係あるんでしたか。高句麗と積石塚は関係ありましたね。確か日本の古墳とも繋がりが。支石墓についてのキシさんご指摘の意味と日本の古墳の本質的にもつ意味とがどう関係するか課題ですね!



レイ?ラインと旧約
2006年1月8日 10:35:12 管理人
ベヌエル条文の前の条文に石塚を持って信仰の違う集団が支配領域を分けた話が出てました。キシさんの古墳や神社のラインとその測量拠点としての古墳との主張と関係して来るのでは。詳細は私の原稿にキシさんの原稿にリンクしてかき加えたのでご参照くださいね。



陵墓の謎
2006年1月7日 17:16:54 タックン
伊勢には、亀山市周辺前にも書いた、能拇野王塚周辺にはこの地域でも、古墳の集中している地域の一つでもあります。
特にそのなもズバリ、白鳥塚古墳という古墳があり日本武尊陵の伝説がある小規模な後期の円墳があります。
然しこの古墳も、横穴式石室を持った後期の古墳、日本武尊の時代とはどう考えても時代が合いません。
亀山市周辺から、一志町・嬉野町周辺にかけても、古墳時代前期と思われる、東海地方特有に多い前方後方墳が幾つかあり、古墳時代の初め頃からこの地方が早くから開発されていっている背景が読み取れます。
この地方が早くから開発されたのは、やはり畿内からの道筋が容易にこの地方に出てこられる事、伊勢湾という海運を利用して上陸で着うる津があったことで、東日本や西日本との交流が容易に出来たことであると思われます。
ただこの北伊勢の地域は古墳時代後期頃の、群集墳といわれる古墳が多数で、日本武尊の時代頃の古墳となると、その存在はあまり発見されていないというのが現状です。
能拇野王塚の他にも、最近大型の準構造船を緻密に模した船形埴輪の出土で有名になった、宝塚一号墳が松坂市にありますが、能拇野王塚ほど大きな規模の古墳は、あまりありません。

この北伊勢地域の古墳は、北上した名古屋市周辺の、断夫山古墳などを築造したといわれている、尾張氏系統とはまた違った氏族の築造ではないか?と考えるのです。


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多度郡
2006年1月7日 18:08:09 管理人
タックンさん早速情報ありがとうございました。北伊勢は群集墳が多いのですね。すると白鳥陵を探すのは必然的にそのあたりの大型古墳になるんですね。さらに北上して多度郡があり尾津というヤマトタケルの伝承拠点が原稿でかいたようにあるんですが多度大社があります。このへんになると北伊勢というよりは尾張になるので古墳を伝承拠点に持ってきてもよさそうですが、神社ですね。今日は多度で六十年ぶりに白鳥が来て話題になってるそうです。寒気を避けて南下してきたとか。不思議ですね。


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神社が鍵
2006年1月7日 21:34:39 タックン
そうですね、やはりそこの古代探ろうと思ったら、神社が大きな鍵を握っていると考えます。
多度郡辺りには、日本武尊の伝承も残っており、興味深い地域の一つでもあり面白い地域ですね。
さらに北の岐阜県域の、養老辺りにも古墳時代初頭の築造といわれている、古墳も最近発掘されて話題になっており、このあたりも見逃せない地域の一つです。
然し圧倒的な数では、古墳時代後期の古墳の数が多いので、研究の目はこっちの方に向けられていて、前期の古墳などは対象とする遺跡が少ないのか?発見例が少ないのか?この地域ではあまり話題にはなっていません。
ただ鈴鹿市には、伊勢国分寺などが後世に建てられたりしているので、このあたりの中心地的だったのは間違いはないと思います。
古代の伊勢・伊賀・尾張などの境界がどこら辺りから、境だったのかは私の勉強不足から、あまり知る事ができませんが、管理人様知っておられたらご教示下さい。
ただ能拇野王塚以後、此処らへんから大型の前方後円墳があまり築造されなくなる事、古墳時代中期後半から突如として、北のほうの尾張の台地上に、断夫山・味美二子山古墳などの大型の前方後円墳が築造されだすことで、東海の古墳時代の系譜が勢力を持った地域に移譲していくのが見えてきます。
これらの古墳の築造時期は、継体の政権が作られた時代と前後するため、この辺りからこの地域も完全に大和朝廷に服属化していき、この地の氏族は大型の前方後円墳の築造を許されたと感じるのです。


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勢力変遷
2006年1月8日 9:56:29 管理人
タックンさん、詳細情報ありがとうございました。継体の時期というのは原稿でかいたように、雄略を考える上で興味深いです。北伊勢での古墳からみる支配勢力の変遷は信仰の変遷とともに重要ですね。今日はWINDOWSがなぜか期限切れになりログイン出来ずパソコンが使えないのでケイタイからです。舌足らずですいません。



2
2006年1月7日 14:28:45 いばらの紀氏
石の文明は外に進出する力、砂の文明はネットワークする力、そして泥の文明は内に蓄積する力という仕訳
http://ws.31rsm.ne.jp/~akamatsu/sinkansen2/sinkansen2-019.html

女カが五色の石を溶かして天の裂け目を塞ぐエピソード
http://www.town.nagi.okayama.jp/library/taroflame2-1-4.html

石には魂がこもっていると考えられている。
http://www.geocities.jp/marebit/gomu25.html

付近には守屋の首を洗った守屋池「鏑矢」塚、弓代塚などがある。・・・「鏑矢」かぶらやは古代測量での必需品。
この付近一帯でおよそ150基を数えるほど密集していて、すべて小型のものである
http://park16.wakwak.com/~yao/siseki_body4.html


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岩石ライン拠点
2006年1月7日 17:20:27 管理人
やはり紀氏さん著作のとおり、古墳・神社の領域指標論も相当重要な考え方だと思います。この辺私の原稿との兼ね合いの仕方で考察中です。



岩石祭祀
2006年1月7日 14:28:05 いばらの紀氏
源義経上陸の地・小松島
溜まった水がなぜか潮の干満にあわせて増減したといいます・・・ここにも在りましたョ!管理人さん。
勢合
(せいごう)
 元暦2年(1185年)、手勢150騎を従え嵐の中を強行した源義経が、ここ漂着し勢揃いしたということから、この名が付けられたそうです。
 この地の裏山の山頂付近の山道に、くぼんだ約4メートル四方の岩石があり(もう取り除かれましたが)、溜まった水がなぜか潮の干満にあわせて増減したといいます。
古墳の一種で、今から約一千数百年以前のこの地の豪族の墓。
http://www.geocities.jp/kinchodaiko/yo03.html

歴史時代の岩石祭祀
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/gaisetu5rekisi.html

山添村の聖石群・・・・・・・測量でのポイントでは?
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe1top.html

「岩石祭祀」という観点から、日本列島の歴史を時代順に概観します
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/gaisetu1top.html

神地が一辺約60メートルの正方形をなし、それが現在の春日大杜の本社南門を含む回廊で囲まれた部分大きさが一致するということだけは確かである。
http://boat.zero.ad.jp/~zbd85319/py4.shtml

日本列島における聖石の実例
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nihonkokunai4.html

中国古代の聖獣伝説─龍思想に関する研究─
http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nagai.html



「石」(オドロキ! 古文字字形デ なんと 差し金
2006年1月6日 22:59:23 いばらの紀氏
日本での「風神VS雷神」・・・・神は「塵」?じん・ちり(北斗七星は塵取り形でもある。古文字字形デ)
・ロク・鹿:しし・しか・いのししの総称。鹿は狩(測量士の生贄)香取・諏訪は測量士。
ロク(ロック?)「犖ラク まだらうし(ボウの音の漢字参照)(まだら禹氏)
「犖カク(石+角)らっかく:山に大きい石がたくさんあること。!!!
(山に巨石・・・測量のポイント!!!。)
「石」(オドロキ! 古文字字形デ なんと 差し金・矩尺(曲尺)L型
の「口」禹の父(霊)なのです。石=塚=測量でのポイントです。
鹿 ロク:四角な「※倉」・・・屯・丼倉? 
「六」ロク が重要・位が高いのは、六芒(のぎ・ノ木)星
ほし:・星・点(× 二つの線が交わるところ。)
・・・これで・謎がだいぶ解けたと喜ぶ 紀氏でした。

訂正
ウ(禹)によって殺された防風氏の臣下が主君の後を追って胸に穴をあけて死んだ・・・
円筒埴輪のモデル?
「ウ(禹)によって殺された防「風」氏・・・風神VS雷神(禹は雷系?)

「防風氏」・・・風 防ぐ 氏・・・・・だったら・(雷系?)
・・・・だったら(禹は風系?)


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差し金
2006年1月7日 10:26:05 管理人
確か、かわかつさんの本に方角キク鏡と九州の菊理姫とのことが書かれてましたよ。定規関連の中国思想の流入はその辺からが重要では??あと、古墳の乗せる石ってどういう意味が??石、すこし今気になることあります。


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風は鳥
2006年1月12日 0:03:24 いばらの紀氏
風 フウ フ かぜ かざ :形声 「鳳」ホウが一番に古く風の意に借用、ついで「U」を横にした形「凡」ハンのちに「凡」と「虫」からなる
風の字になる。「風馬牛」さかる。♂♀がさそいあう。(馬♂陽?牛牝陰!禹)他に 手足 体の一部がしびれて十にならない病気「痛風」(私は痛風で・・・・)
「風土記」フウドキ:地理書
「風水」フウスイ:風と水・山川水流をもて「墳墓」の土地を見定める術
「風教」フウキョウ:民を導いて善(蝉せみ・・禅・・・)する教え。
風(荊軻ケイカ・・・イバラ棘)は始皇帝と対立する。(始皇帝は雷・・・秦氏も雷デハ・・・・)



白鳥陵のある場所
2006年1月6日 22:50:36 タックン
現在、日本武尊陵とされている白鳥陵は、伊勢・大和・河内の三陵ですが、この中で特に様々な本に紹介されている、白鳥陵とされている古墳は、河内の白鳥陵が有名で、前方後円墳の中でももっとも均整の取れた古墳の一つです。
日本武尊が亡くなられた地に、現在もある能拇野王塚古墳は河内にある、白鳥陵に比べるとあまり知られていませんが、この古墳も中期〜後期にかけての大型の前方後円墳で、周囲にはかなりの数の陪塚が廻らされていて、河内の白鳥陵に劣らない大きさを持っとります。
然し両白鳥陵共、日本武尊の年代とはかなりかけ離れた築造年代で、考古学的にはこの二つの陵を肯定は殆ど科学的な根拠がないのでできません。
最も、一人の人物の墓を、古墳時代頃にわざわざ二つも造ること自体ありえない事ですし、若し伊勢で死んだのならば、畿内まで遺骸を持ってくることも考えられますが、私は亡くなった地で葬られたと思っています。
若し畿内で改葬?されたのであれば、伊勢・河内の両方に墓があってもおかしくはないと思いますが、この二古墳の年代はどう考えても、日本武尊の御陵とするならば古墳の年代は、考古学的には殆ど考えられません。
現在の大和にある白鳥陵とされる場所は、私も行って見学しましたが、どう考えても古墳時代頃の古墳?とは考えられませんし、これだけの人の墓か?と見まごう程、貧疎な陵域でこれは実態は古墳ではないと思っております。
むしろこの付近にある掖上カンス塚古墳が、この白鳥陵に過程してもおかしくはないのではないか?と思っており、この古墳は全長200m近くあるので、この古墳なら伝承上ですが比定してもおかしくはないかと思います。
ただあくまでも伝説上なので、王者にふさわしい古墳を当てただけですから、勘違いしないで下さい。
雄略=日本武尊は同一人物というのはいろんなところから囁かれていますが、私もこの説にはかなり肯定的で、英雄伝説の説話は古代に限らず、何時の時代にもある事で、記紀の編纂の折にこういった説話が形作られたというのがあったのではないか?雄略の武力と日本武尊との整合性を、朝廷の美学として生み出された説話であると思っています。
当時の河内王朝=雄略に結びつけた?というので、陵墓もこの河内の地にこの白鳥陵伝説を持ってきたという考え方もしておりますが、実際のところ古墳自体が宮内庁の厳重管理上にあるためになんともいえません。


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タックンさん今晩は。
2006年1月6日 23:14:51 いばらの紀氏
 大型の前方後円墳と陪塚とのラインを延長してみてください、謎が解けると思います。
いよいよ、 タックンさんの古墳の知識が活かされる解きが来たのです。
     期待しています。

                紀氏でした。


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古墳とライン
2006年1月7日 0:22:09 管理人
タックンさん、白鳥陵について詳細ありがとうございます。日本武尊の記紀推定の年代は、やはり当てにならなさそうですね。お話聞いていると、その推定年代は、雄略時期あたりで目安がつきそうです。3つも古墳があるというのは、なるほど、改葬などのまれなケースが以外は特殊のようですね。大和のが小さく古墳かどうかわからないというのもとても重要です。ライン関連に古墳が入るケース、詳細な考古視点は欠かせませんね。タックンさん今後ともよろしくお願いします。


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雄略墓
2006年1月7日 8:48:56 管理人
たっくんさんから以前情報ございました雄略陵と河内大塚山古墳、見てますが、なるほど考古の方は、羽曳野周辺で探していられるのですね。確かに現在の雄略墓、小さい円墳で、いささか物足りない感じがしました。ぜひ、日本武尊陵あたりとの関連でたっくんさん、いろいろ考察よろしくお願いします。
能拇野王塚古墳、それにしても、やはり大きさからいってもライン面でも交差点にありますし何か重要な感じがしますね。いったいあの墓はなんなのか?確かあの周辺で、亀山市にも日本武尊の最初の墓としての候補地があるのですが、ライン面では外れているので、こちらのほうを原稿で扱っています。もうひとつの方も本とは確認しなければならないですが・・・。いずれにせよ、考古は門外漢なので、何がなんだか・・・、たっくんさんの詳細考察頼りにしています。


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りょうを考える。
2006年1月8日 2:03:17 いばらの紀氏

陵 猟 漁 リョウの音の文字に捕える意味 「狩」(測量の隠語) と「乗る」の意 天使が乗る馬車・籠(神社名 捕えるの意) こもる(留まる)・・・・屯倉?   高い位置。岡 丘 山・・・陵はポイントの位置に自然の見晴台が無く「凌ぐ」しのぐ為の高見のための私設と考えられます。(逆に目印の為・・・)
「陵」の古文字は、階段・イナズマ・はしご?型の字形です、以前に地図のラインの件でお話ししました形です。
「陵」しのぐ   困難を乗り越える意・・・・陵を築くのはポイント間の測量での角度の正確性を高める為と考えられます。



氏族と角度
2006年1月6日 10:00:13 管理人
紀氏さんご指摘の氏族ごとの家紋と多角形の話とも関連しますが、先の原稿のラインの角度と氏族との関連判明してきました。
物部・穂積ラインは30度と60度を多様しており、30度のほうが古いようです。日本武尊伝承に出てくる海部・尾張・鴨?集団のラインは45度、3つ目の出雲・諏訪・鹿島・外宮・宇佐ラインを担当した中臣・出雲?・卜部・・・集団のラインは、おそらく23・4度ラインです。原稿はこちらです。http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/
氏族ごとに家紋ならぬ角度が違うようですが、信仰と技術の相違だと思います。問題は23.4度ライン、これ普通に考えると冬至・春分間の日の出角度の差なのですが、日本での冬至角度は明石で29度、つまり30度ラインになるわけで、23.4度をどうやって出したのか不明です。紀氏さんその辺アイデアおありのようですので、紀氏さんの原稿に私の原稿からリンクしておきました。測量方法とラインの信仰面での意味付け、原稿でよろしくお願いします。


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参考になるでしょうか?
2006年1月6日 16:59:21 いばらの紀氏
円環の中心は人によって違い、0を中心に、−5から+5の間で円を廻る人や、−1を中心に−6から+4の間で円を廻る人がいます。
人が他者を理解できるのは、その人の円が他者の円よりも、より内側にあるときに限られます。
人はより外にあるものしか理解できません。
人は円の中央ではなく円周上に居ます。
360日と365日の1年
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-05/513.htm
「歳差は天の春分点が毎年五十秒ほど西にずれていく
http://www.bao.go.jp/stardb/sky/data/sky0202.html


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2
2006年1月6日 17:12:36 いばらの紀氏
天文学年表 数学と天文学
http://www.bao.go.jp/stardb/dat/data/dat0046.html
天文学と占い・・・そして『古事記』

『二十八宿』を再検討すると・・・」
http://members.jcom.home.ne.jp/outo/tenmon/mandara.htm
「歳差は天の春分点が毎年五十秒ほど西にずれていく

平安京の東西南北はどうやって決めたのだろう?
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Heiankyo.htm

中国では歳差が4世紀の虞喜(ぐき)によって発見されているので、少し考えればこの方法は時間が経つと使えないことが分かったはず
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/Heiankyo/Pyramids.htm


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ラインとの関係をお調べください
2006年1月6日 17:14:07 いばらの紀氏
管理人さん、下記の神社が気になります、ラインとの関係をお調べください。

神功皇后の伝承の神社
http://kamnavi.jp/kinokuni/historyjinguu.htm


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双魚   キリスト
2006年1月6日 17:16:57 いばらの紀氏
双魚   キリスト
魚に姿を変えて逃げました。しかしその時、二人が流れの中ではぐれてしまわないように、その2匹の尾はしっかりとひもで結ばれていました。
 その姿が、そのまま天に上げられて星座になったのが「魚座」です。ですからこの星座のことを、「アフロディテとエロス」と呼ぶこともあるのです
木星・・・・?と土星・・・・?神話での星・・・・だれ?
「魚座」については、キリスト誕生の時太陽が「魚座」にあったという説や、木星と土星が合(2つの天体が赤経を同じくすること)になっていたときにキリストが生まれたとする説などがあって、キリスト教徒の間では古来神聖な星座とされてきました。キリスト教が迫害を受けたときも、信者同士で連絡を取り合うときに「魚座」の形が使われたこともあったそうです。



聖医王山不動尊院 
2006年1月5日 5:20:18 いばらの紀氏
 織田信長に恨みをいだく天台宗徒は明智光秀を救ったのか?
本能寺の変のうらに徳川家康が・・・?
http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/dasoku/tenkai.html
常陸の国 江戸崎に光秀が・・・・そして天海が・・・
「慈覚大師円仁」(壬生氏)が創建したと伝わる天台宗の古刹である(「江戸の陰陽師」)
http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/toujou.html
北関東不動尊三十番霊場 (旧関東天台八大談林寺) 聖医王山不動尊院 大僧正 瀧川眞榮には取材の折、行基図を元にした古墳・寺社の論説に感銘をいただき「古墳のこころ」の出版祝いにと身に余るほどの金子をお送りいただき感激いたしました。
聖医王山不動尊院には代々天台宗本山より優秀な僧侶が住職に成られるそうです。私は仏教を日本に招いたのには、大陸の最先端の智識の流入・(新しい土木・測量技術なども含まれる。)も目的だったとの考えです。天台宗大僧正 瀧川眞榮老師には私の論説が「天台密教の教え」に共鳴したのだと自負しております。(私事でスミマセンでした。)


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光秀不死伝説
2006年1月5日 5:21:03 いばらの紀氏

天海が駿府を訪れ家康と面会をしたのだが『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張った』と。結局この時は一刻ほども話し合ったという。これはそれこそ旧知だったからこそではないであろうか。
天海が来て「おう、川中島の合戦か。愚僧もあの頃は武田家に身を寄せていたゆえ良く覚えておる。この記述は武田方のが正しいわい。」と言ってこの問題を解決したという物である。とするとここで天海が「武田家に居た」と言ったというのは「方便」の可能性が強くないであろうか。問題の決着が容易につきそうにないのを見た天海が「自分の責任で」裁決した、と。幕府内でも隠然とした実力を持つ「天海様がそう言うなら・・・」と編纂者たちも言わば「責任」を天海に「転嫁できる」と。そして上杉方が何か言ってきても「天海様がそうおっしゃった」といえば上杉方も無茶は出来ないであろう、と安心して編纂を続けれると。そこまで見越しての「方便」だった、と・・・。とすれば天海が「武田家に居た」というのを本人が言ったとしても信用できないものと成る。それは自身の過去が公でない事を利用した「方便」だからである。
また、確かに慈眼寺にしても明智平や明智寺にしても一つ二つだけなら偶然と言う事も勿論あるだろう。寧ろその可能性の方が高いと思われる。しかしこれだけ重なっても偶然と言えるのであろうか。
「一つ一つは偶然でもそれが重なればそれは必然である。」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/nazo/legend.html


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光秀不死伝説
2006年1月5日 5:21:16 いばらの紀氏

天海が駿府を訪れ家康と面会をしたのだが『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張った』と。結局この時は一刻ほども話し合ったという。これはそれこそ旧知だったからこそではないであろうか。
天海が来て「おう、川中島の合戦か。愚僧もあの頃は武田家に身を寄せていたゆえ良く覚えておる。この記述は武田方のが正しいわい。」と言ってこの問題を解決したという物である。とするとここで天海が「武田家に居た」と言ったというのは「方便」の可能性が強くないであろうか。問題の決着が容易につきそうにないのを見た天海が「自分の責任で」裁決した、と。幕府内でも隠然とした実力を持つ「天海様がそう言うなら・・・」と編纂者たちも言わば「責任」を天海に「転嫁できる」と。そして上杉方が何か言ってきても「天海様がそうおっしゃった」といえば上杉方も無茶は出来ないであろう、と安心して編纂を続けれると。そこまで見越しての「方便」だった、と・・・。とすれば天海が「武田家に居た」というのを本人が言ったとしても信用できないものと成る。それは自身の過去が公でない事を利用した「方便」だからである。
また、確かに慈眼寺にしても明智平や明智寺にしても一つ二つだけなら偶然と言う事も勿論あるだろう。寧ろその可能性の方が高いと思われる。しかしこれだけ重なっても偶然と言えるのであろうか。
「一つ一つは偶然でもそれが重なればそれは必然である。」
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/nazo/legend.html


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すいません、またデス。
2006年1月5日 5:27:01 いばらの紀氏
 パソコンの容量がパンク寸前で調子が悪い様です、ご迷惑をおかけします。
      管理人さんよろしく御願い致します。

               夜明けの紀氏でした。


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明智光秀の家紋が!
2006年1月5日 6:00:12 いばらの紀氏
「桔梗紋のついた豪華な鎧を着しており光秀と推定された。」
「桔梗紋」は、五芒星 ☆ 安倍晴明の紋では?


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桔梗紋が結ぶ
2006年1月5日 7:28:17 いばらの紀氏

清和源氏土岐氏一族・・・
不動院にも摩多羅神が祀られていた
織田信長・・・・天台宗比叡山焼き討ち。・・・・天海・円仁(壬生氏)は天台僧
豊臣秀吉・・・土岐氏豊臣方の軍勢によって攻め落とされた。・・・・・土岐氏(桔梗紋)
徳川家康・・・・朝治の代に土岐に復し、その子朝澄は徳川吉宗に従って幕臣となった。
江戸崎(信太 しだ)郷・土岐氏(桔梗紋)・・・・・信太の狐(安倍晴明の母 ・桔梗紋)安倍晴明の伝承(常陸の国も有り。)
江戸崎(土岐氏領) 天台宗不動院・天海・・・円仁(壬生氏)開基・摩多羅神・・・天海・・・家康・・・・日光・壬生・明智平・摩多羅神
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/edo_toki.html

安倍晴明桔梗紋が「ペンタグラム」として西洋にあるように、巴紋も同様に各国にあり、解釈が異なる。
シベリア・ミニンスク スキタイ族、スペイン・バスク族、北エジプト・守護神ブト等にみられる「巴紋」は蛇のシンボリック。


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慈覚大師円仁
2006年1月5日 22:49:26 管理人
とは、壬生氏なんですな。確か山寺でも聞いたような。日光、マタラ神・・。宇都宮の近く国府よりやや北方に壬生の地名ありますね。陰陽・修験道と物部と壬生の関係は?昨日呼んでた関さんの本に、地方に拡散した物部と修験道の話が出てましたが。



常陸の国もおもしろい。
2006年1月5日 3:46:12 いばらの紀氏

「新治郡の駅の名を大神(おかみ)といふのは、大蛇(おかみ)が多かったためである。」・・・・
口訳・常陸国風土記
http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm
この地の人々は古来から半島とは呼びませんでした。ただ、水際に隔てられたそれぞれの陸地を鹿島、行方、出島、稲敷(古くは信太)、十六島などと呼んできたわけです。このうち、十六島は近世に入ってから出現してきた新しい陸地です
http://www.kasumigaura.net/mapping/page/kiwa-02-01.html
船団は伊豆から房総半島を回り、当時はまだ小さな半島だった鹿島を望みながら、浮島に上陸した。
最大の虐殺の記録は、海から上陸してきた建借間命( タケカシマノミコト:勇ましい鹿島の人 )の率いる軍団に行方郡一帯がたちまち焼き尽くされたときである。それはクズの王朝の滅亡を示すものである。
潮来の地名の由来も、この時の虐殺によるものである。
このとき初めて、関東に騎馬の軍団が姿を現したようだ。騎馬兵と剣さえ持たないクズでは、戦争になるわけがない。天皇の遣わした騎馬の軍隊は、常陸の各地で土地の人々を殺した。
美駒探険隊・その8 信太美駒古墳群
。 美浦トレセンの周辺には、縄文から各時代の遺跡が数多く存在する。 信太の地には、古代より勢力の ...
信太(しだ)・・・・・奈良時代に記された「常陸国風土記」によると、東北地方の蝦夷を平定した後、凱旋の途中に多賀郡十王町の黒前山で病死した将軍黒坂命(クロサカノミコト)の葬送の車が日高見の国にさしかかった時、飾りたてた葬列のさまは、赤や青の旗が入り乱れて風に翻って見事なものであり、雲は切れ、虹がかかって、野も道も明るく輝いたという。この様子から、人々はこの地を「幡垂(はたしで)の国」と名付け、のちに「信太(垂)(しで)の国」と改められた。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mikoma/tanken_mikomakohun_01.html
飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生(おほふ)の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。


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2
2006年1月5日 3:50:22 いばらの紀氏
潮来の近くの虐殺では、一つの部族がすべて焼き殺されるという悲惨な運命にあった。・・・(測量目的の焼畑?)
 鹿島神宮と香取神社は、出雲大社との不思議な親近性を感じさせる神社だが、多分この遠征の記念碑ともいえる。
                                            ( 『謎の古代王朝』 高橋洋著 )
紀氏の氏神である日前( ひのくま )神の御神体の鏡の由来について、天の岩戸開きの時に作られたものとする異伝( 『日本書紀』第一の一書・『古語拾遺』 )の存在をあげることができよう
(夏の禹はの星は・・・たしか 熊・・・赤熊だった? 緋色の熊( ひのくま )?)
常陸国では星神香々背男は悪者ではなく「星の神様」「目の神様」(メイソン?)として祀られています

http://homepage3.nifty.com/mw-web/favorite_area/suigou.html
浮島(うきしま)
「秋冴える海上潟を見渡せば 霞に浮かぶ信太の浮島」(頼政)と詠われたようにその歴史は古く、かつて霞ヶ浦がまだ大きな入江であったときには漁業と塩焼を生業とする人が住み着いていたという。そして島には、様々な伝説が残されており、例えば、ヤマトタケルの足跡を辿ったという景行天皇(12代)の行在所と伝えられる「戸張の宮」、そして保元の乱の時、島流しとなり浮島にわたった藤原教長との間で恋に落ち、彼が許され都に帰った後も彼の帰りを待ち続け、ついには入水してしまったという悲恋の伝説にちなんだ「姫宮神社」「袖ヶ浦」などいくつもの伝説がある。
続日本紀の養老七年三月には、物部国依が「信太連」を賜姓したことがあり、物部氏が信太の有力な豪族だったことがわかります  備考:安倍晴明の母「信太の狐」の伝説は
http://www.city.inashiki.lg.jp/old/sakuragawa/data/origin/001.htm


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3
2006年1月5日 3:50:48 いばらの紀氏
常陸国風土記に、天地のつくりはじめ、草木がものを言うことができたころ、天から降臨した普都(フツ)の大神は、葦原中国を巡り歩き、荒ぶる邪魔ものたちをやわらげ平らげました。
すっかり平定が終わったとき、天に帰ろうと思って、身に着けていた武器や玉類をすべてこの地に脱ぎすて留めて、白い雲に乗って昇天した、という話があります。
その地が高来の里です
http://mononobe.nobody.jp/sida/sida2.htm
最近の研究は、君山から飯倉に向かう一直線の古代官道の存在を立証しています
http://www.town.ami.ibaraki.jp/kankourekishi/kankoubunka/meishojiten/meishojiten_4.htm


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鹿島
2006年1月5日 3:58:06 管理人
やはり信太郡も物部ですか!浅間神社も日本武尊。鹿島はやはり小さい半島だったのですね。鹿島神宮の裏のほうに数キロいくと、断崖を川が削ったあとがいろいろ見えてきます。かつての海面上昇時代の名残でしょうが、それにしても6世紀の海面、まだすこし高かったような気がするのは考えすぎ・・・。海面上昇の伝承ないですかな。



参考hp
2006年1月5日 1:11:01 いばらの紀氏

吉志族」は武蔵国だけでは無く近隣の「下総・上総・常陸・陸奥国・上野国・下野国・相模」にまで至り、遠くは「讃岐国・摂津国」にも居ました。武蔵国に居た吉志族には「壬生吉志・壬生部公・飛鳥部吉志」が、「飛鳥部吉志」といわれたのは「飛鳥部・飛鳥」で「飛鳥部。百済国の人、国本木吉志の末なり」とあり、河内国安宿郡(あすかべぐん・現大阪府南河内郡)の地名に基づきます。この「国本木吉志」という人名は無く参考とする名として「木吉志・木貴公」と同じとする説があり「林連条」からの氏族かも知れません。飛鳥部氏族は「飛鳥部智万呂」などがおり、飛鳥部吉志「飛鳥部吉志五百国」が橘樹郡(横浜市・川崎市の一部)また隣接していた久良郡(横浜市金沢区辺り)も勢力範囲だったかも知れません。

関東における難波吉志族たち
http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/?%B5%AA%BB%E1
天皇と屯倉
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/c_tenno.htm
紀氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html
国造
http://www.dai3gen.net/kokuzo2.htm


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葛城直
2006年1月5日 9:10:25 管理人
はそうでした国造でしたね。剣根命を祖として、高魂命の子孫。
畿内国造と忌寸姓者は関係あります。ご紹介の難波忌寸も。紀氏も紀伊の国造でしたっけ。
大和忌寸も大和神社の家ですし、外宮・国造祭祀関連でしょうか。国造祭祀と、出雲→・・摂津→大和に入ってきた御影祭祀との関連は指摘されていますが・・・・ううむ・・・・。すると伊勢内宮系祭祀とは、ひとあじ違うはずだから、あれ??物部、蘇我と屯倉支配に使わされたのは葛城直で国造家。原稿の物部の磐船→真神田神社→諏訪ラインは、天神系物部氏の同族尾張氏がその祖神・天火明命・・・天火命の別名はニギハハヤヒ。物部と尾張氏って結局同族か。でもたぶん新旧があるのかな。両氏のラインが一緒になるわりに・・ずれている・・・。整理してみます。


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飛鳥部
2006年1月5日 9:21:26 管理人
というと聖徳太子ですが、関さんの新著がファミリーマートにおいてありました。北九州勢力の鉄封じから、転じて山陰日本海を通る鉄のの流れが特におもしろかったです。天智、天武の対立図式も図にするとわかりやすいですね。やはり図ですよ、紀氏さん。ウィンドウズのスタートボタンから「すべてのプログラム」→「アクセサリ」→「ペイント」があるので、これで図と文字入れてみてください。地図もかけますよ。


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尾張氏と物部氏
2006年1月5日 9:38:36 管理人
以下のページに物部氏の祖ニギハヤヒと、尾張氏の祖天火命が同族か別族かの諸説が載ってます。
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-8.html
原稿のライン的には,両者の角度は違うが、拠点は重なるし、でも伝承はちょっと支配非支配関連もあるし・・別族、同族??文化的には同じライン族??どっちなのかな・・・。今度のオフ会までに篭神社の例の海部氏系図調べないと駄目ですね。難しい。


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3種?
2006年1月5日 12:48:41 管理人
氏族系図を調べているんですが、感じとしては出雲は別として3種類あるでしょうか。ひとつは尾張・渡会・鴨・海部・忌部で内宮・屯倉関連、二つ目は物部・穂積、三つ目は中臣・三輪・鴨・卜部・鹿島・諏訪・宇佐・秦?で外宮関連?。原稿で2と3のラインを同じく図1で分類しなければなりません。角度がやや違うような気がします。拠点は1,2,3同じところもあるのですが、角度が違いますね。目印と信仰の相違でしょうか。外宮から2の物部ラインが作られるのは東北を視野に入れ始めたころで新しく、古い物部ラインは伊雑宮から出ているのでは。たぶん、その3種の歴史の整合性がラインで出てくると思います。


三輪 【三勾/みわ】考
2006年1月4日 20:10:35 いばらの紀氏
三輪 【三勾/みわ】考
姫がそのようにしたところ、翌朝になってみると糸は入口の戸の鈎穴から外に出ていたので、辿って行くと美和山の社まで来ていたので、男が神であることが分かった。麻糸の残りが家の中に【三勾/みわ】あったのでここを三輪と呼んだ」。
http://www.taka-aki.com/personal_note/tamil/tamil16.htm

i  端。箸。【嘴/はし】(鳥の口の細長く突き出て固くなっている部分)
ネコの名の王族が三輪にいた。
450年前後あたりから550年前後あたりは、いわゆるイリ王朝であり、その前はネコ王朝とでも言うべき
古代では、蛇と雷は類推同化されている。


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三勾(さんこう」の「勾」かおる  薫 芳 香  を考える。
2006年1月4日 20:11:43 いばらの紀氏
「勾」におう:「勹」ホウ:古い字形で人が前かがみで物を抱える形。+「ヒ」さじ 短剣 (紀氏的考・・・さじ(スプーン・柄杓・北斗七星・・・昂コウ・・・意味は救う 救済。「短剣」にも救いの意味が中国に有る。)字形から「北」玄武(祖先)を祀る形。
似ている漢字「&#21251;」カイ(「勹」ホウ+&#20838;ボウ):剣と人がおしととめているさま (祈る)(「乞」求める形)
かおる 【薫育】くんいく:人を導き育てる(伝道使?壬生氏?) えびす(匈奴)の呼び名
かおる 【芳流閣】ほうりゅうかく:物見やぐらの名
かおる 【香台】こうだい:香炉を置く台(八角形)・・・香取神宮も八角形の地形デス。

三勾(さんこう、三巻)程残ったので、その土地を「三輪」と名付られました。 ...
http://urano.org/kankou/kitayama/minaya055.html

神婚説話リスト 神婚のキーワードは 「夜」 「蛇」・「矢」・「剣」・「箸」 「厠」 「桑 ... 唯遺れる麻は三勾のみなりき。 爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、 ...
http://homepage1.nifty.com/moritaya/sinkon.html

禁足地である山中には巨石群、磐座等祭祀遺跡が散在するという
中世には、大和国一の宮として、また二二社の一に数えられ朝野の尊崇をうけた。
http://www.genbu.net/data/yamato/oomiwa_body.htm

ミワのミは巳、すなわちヘビで「巳の輪」説
諸国の兵主神社の祭神は、フツヌシノ神・タケミカツチノ神・天忍日命・天津久米命・宇摩志麻遅命で、いずれも武神としての性格を有している。特にフツヌシノ神は物部氏の祖神であり、
http://www2.begin.or.jp/sakura/sai03.htm#三輪



ライン地図
2006年1月4日 2:25:00 管理人
とりあえず、原稿のライン地図ですが、廃人さんご指摘のとおり、原稿に必要ない線は消し、紀氏さん、百瀬氏、荒俣氏のラインを色分けして記載しなおしました。
http://www.asahi-net.or.jp/%7Erg1h-smed/chizu1.htm
あとは拠点の推定年代を色分けする予定です。


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感想
2006年1月4日 6:35:15 いばらの紀氏
紀氏のラインが少ないのが悲しいです。


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紀氏のテーマ
2006年1月4日 10:04:49 いばらの紀氏
管理人さん、紀氏のラインにはテーマが隠れているのです。
1) 東西の3本のライン・・・・上筒 中筒 底筒と 穴を通す 3本のライン。(天体図を描く場合の基準ラインデス。)
2) ユダヤのかばら「生命の樹」と位置の移動による(10個の円形の「セフィロト(sephiroth, 単数形:sephirah)」)三角形の描く「角度」 の変化と各 「セフィロト」間の距離の変化デス。
3) 東西の3本のライン間に描く「稲妻」形(階段形)(30度・40度・90度と誤差の角度)
精度順では 1位 ・現在の三角点  2位・寺社・橋(渡し) 3位・古墳 4位 銅鐸 5位・巨石 その他(巨木・ 古代人の集落跡。・・・・・)
 江戸期の一里塚や庚申塚・富士塚なども関連性があります。

参考HP

ピラミッドは天空を強く意識し、オリオン星座と相似形に造られた?という説とその根拠を探る。
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/africa/egypt/eg-orion/eg-orion.html

「オリオン座の三つ星」を目当てとして、船を進めれば、方位を誤らないということが明記されている。そして、古くから航海の神とされる住吉三神(底筒、中筒、上筒之男命)は、この三つ星を神格化したものだともいわれている
http://www.makiko-doso.jp/tenmon/vol12.html

「箱を開けると空だった」そういえば賀茂川の辺りで急に軽くなった、などと言いながら、真如堂に問い合わせてお堂を調べると、不動像はもとの場所にあったが、向きが変わっていて、剣を膝に載せていた。天皇も驚いて、晴明の子孫の訴えを退け、不動像はそのまま真如堂に安置されることになった。
http://homepage3.nifty.com/silver-moon/aster/isk.htm


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なんと
2006年1月4日 10:21:35 管理人
隠されていたテーマがあったんですね。今回は、たまたま原稿に関係しそうな紀氏さんラインはあれだけだったようですが、ぜひ、紀氏さんの原稿集のほうで、ラインの精度論や、測量方法、ラインの意味についてなど、追記していただければ助かります。いつでも修正原稿掲載いたしますので、管理人までメール添付でお送りくださいね。


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生命の樹(せいめいのき)晴明?
2006年1月4日 10:22:05 いばらの紀氏
そのアイン・ゾフに到達する方法を繰り返すことでまた更に深い世界に行ける
http://forum.nifty.com/ffortune/genre/magic/qabalah.htm
「生命の樹(せいめいのき,tree of life)」とは、左図のような図形です。10個の円形の「セフィロト(sephiroth, 単数形:sephirah)」と、それらを結ぶ22本のパス(path)でできています。基本的には下の方が人間の領域に近く、上の方は神の領域に近くなります。


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大きさ
2006年1月4日 11:32:21 管理人
紀氏さんご紹介のピラミッドのHPですが、そろぞれ、星の大きさに比例してピラミッドを作ったそうですね。大きさのほうはどうでしょう。生命の木、確かにどこか全国ライン図に似ているのような・・・。3本平行線が通っているわけですね・・・。紀氏さんその辺証明お願いします。


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参考HP
2006年1月4日 12:03:34 いばらの紀氏
 オフ会の折り管理人さんに託した地図に東西3本のラインが描かれています。
それらのライン上のポイントから階段形(90度)に各ポイントが位置します。
雷形(ジグザグ・30度・45度)+-の処にもポイントが存在(数の多さに証明を委託しました。)
 
 話は変わりますが、
参考HP

七星剣という北斗七星が刻み込まれた直刀があり、その七星の横には河鼓三星(鷲座三星)と織女三星(琴座三星)らしきものが描かれている謎についてのお話です。
剣とタタラ師(刀鍛冶)に星座・・・剣には測量士の痕跡 星座が描かれています。

現存している有名な七星剣の種類
「太陽は最高の仙人である東王父」「月は最高の仙女である西王母」として表されている。
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ta77sitiseiken.htm


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七星剣
2006年1月5日 1:28:45 管理人
聖徳太子、正倉院、法隆寺・・と七星剣、重要ですね。確か天ムラ雲剣と関係あるのではなかったかな??それと紀氏ライン、つながるとおもしろいです。



景教経典
2006年1月3日 4:12:50 管理人
下で旧約が中国にあったかどうかが問題となりましたが、モーセ、ダビデあたりの経典は敦煌から出ているそうです。廃人さんのいうとおり、問題はそれらが現代の旧約聖書のようにひとつの本になっていない断片であることですね。書記に挿入されたと思われる旧約断片だった可能性ありえますね。下記7世紀の景教について以下HPでの紹介からの抜粋です。http://www.tabiken.com/history/doc/F/F222C100.HTM


【景教の経典】現在まで約10部の存在が知られている。これは長らく敦煌の石窟寺院に収蔵されていたものが,中央アジアの探険家であるスタインやペリオらによって発見されたものである。それらのうち,「序聴迷詩所経」は前半で神のいましめや教義を述べ,後半ではイエスの生涯を要約している。内容で注意すべきは,天子の尊崇とか孝道の重視というような儒教的道徳が強調されていることである。これは中国に入ったネストリウス派が,本来のものとはかなり異質な新しい教理を盛り込んだことを示している。次に「尊経」は礼拝式用の讃文であるが,注意すべきことの第1は,モーゼ,ダヴィデ,パウロをはじめとするキリスト教の聖者が,仏教的な法主の名で漢訳されていることであり,景教の仏教化の具体相を示している。また大秦寺の僧景浄によって翻訳された景教経典35部の名称が列記されていることも注目すべきである。彼はおそらく中国人信徒の協力を得て,中国の風俗習慣や伝統的宗教との調和を考えつつ,これらの経典の翻訳を進めたと考えられる。以上により,景教の宣教師が可能な限りにおいて中国に同化しようとした努力を知ることができる。


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関連部抜粋続き
2006年1月3日 4:13:17 管理人
【景教の発展と衰亡】景教に関する資料のうち,781年(建中2)に建設された「大秦景教流行中国碑」は最も簡潔に唐代の景教に関する教勢を伝えている。碑文によれば景教の宣教師団は635年(貞観9),長安(現在の西安)に到着し,太宗の公認を得て伝道の基礎をかためた。次の高宗も保護政策をとり,各州に景教寺院を建造させ,阿羅本を崇敬して鎖国大法主としたことは重要である。則天武后の時代に一時衰えた景教は玄宗の時代に再び勢力を回復し,長安の景教寺院である大秦寺には,唐朝皇帝の御真影が下賜された。安史の乱後も景教は唐朝の保護政策のもとに順調な発展を遂げていたが,武宗が即位するに及び845年(会昌5),有名な排仏の詔が出され,仏教だけではなく,景教も他の外来宗教とともに弾圧されることとなった。当時中国には4〜5万人ぐらいの景教徒がいたと推定されているが,大部分は改宗し,一部はトルキスタンに逃れ,一部は北方のモンゴル方面に逃れてほとんど四散してしまった。五代より宋にかけて,景教徒は中国本土にはほとんどそのあとをとどめなくなったが,元代になると再び勢力を回復した。元朝は景教徒に対し,仏教徒などと同様に租税免除の恩典を与えている。鎮江や揚州に教会が建設されたことは,景教の復興がかなりのものであったことを示している。


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原稿序文に
2006年1月3日 9:58:31 管理人
景教関連の件、加えさせていただきました。こちらのほうが旧約とのつながりがわかりやすいですね。いろいろご指摘ありがとうございます。



「孫」 「袁」 の文字に 孫悟空を 妄想します。
2006年1月2日 19:09:31 いばらの紀氏

「諸」に・・ショ・・・チョ?「猪」を 「曹」ソウに・・古字形の「屮」ソウと「屯」トンは同類(草冠系)・・・・「++」も草冠デス!
「屯」トンは豚トン・・・豕いのこ・・・猪子・・・・「諸」ショ・・・チョ 「猪」八戒・・・無理?
「孫」氏系図 「袁」氏系図 「諸」葛氏系図・・・ショ・・・チョ?「猪」 「曹」氏系図
http://www.asahi-net.or.jp/~np5k-mkn/sangokushi/siryou/keizu.html
三国王室系図
http://www.page.sannet.ne.jp/keitanaka/histories/keizu4.html


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三国時代 220〜280
2006年1月2日 19:10:22 いばらの紀氏

魏 蜀 呉
http://home.t02.itscom.net/izn/chu05.html

魏 220〜265
 開祖「曹操」は東漢末の群雄の一人で、自らの拠る許昌に「献帝」を迎え、「袁紹」を滅ぼし華北を制して丞相として全権を掌握し、後には関中も平定して魏王とされた。継いだ子の曹丕に至って献帝から禅譲され、洛陽を都として魏王朝を樹立し、明帝の代には「公孫」淵を滅ぼし、高句麗を大破して朝鮮北部にも威令を及ぼした。
 曹操は国力回復の為に大規模な屯田制を実施し、法学を原理に統治したが、同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操幕下にも多くの名流子弟が加わっており、文帝の時代に始められた九品官人制は後に貴族制の成長に大きく寄与した。朝臣の貴族化は明帝・斉王代に進展し、貴族文化の先鞭として清談が流行したが、実権は宗族の曹爽、ついで河内豪族の司馬懿に移った。斉王を継いだ高貴郷公は司馬氏に弑され、元帝に至って265年に司馬懿の孫の司馬炎に簒奪された。魏は一族を冷遇したために藩屏と呼べる存在が事実上存在せず、これが司馬氏の簒奪を容易にしたとされる。
「曹」操 「献」帝 「袁」紹 公「孫」淵

曹操 155〜220
 沛国[言焦](安徽)出身。字は孟徳。父の崇は宦官曹騰の養子で、霊帝の売官で太尉まで進んだ。曹操は175年に孝廉から郎となり、霊帝の西園八校尉の典軍校尉とされ、黄巾軍討伐には騎都尉として参戦した。後に袁紹ら関東諸将と董卓討伐に加わったが、同盟崩壊とともに東郡に拠り、青州黄巾軍の吸収によって自立化を強めた。
 長安から脱出した献帝を許昌に迎えたことで諸豪への発言力が飛躍的に強化され、「屯田を興して富強を図り」、200年には河北の大軍閥袁紹を官渡に大破して華北に覇権を確立したが、208年に赤壁で孫権・劉備連合に敗れてよりは西方経略に転じて雍州・涼州を征服した。漢の丞相として全権を掌握し、素行より才能を重視して人材を登用し、法術による統治によって綱紀を粛正して民政を安定させ、216年には魏王に封じられ、魏王朝成立後に太祖武皇帝の諡号を追贈された。
 統治・軍事だけでなく詩・文・音楽にも優れ、建安七子や曹丕・曹植とともに六朝文学の基を開いた。


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白水郎?
2006年1月2日 19:19:19 いばらの紀氏
白水干:(神主さんが着ている白い服) 甲府盆地は大きな湖

曹操は175年に孝廉から 「郎 」となり、

「献」帝 ・・・・犬戎  陝西省鳳翔・・・・犬  隼の祖?


      参考に?・・・妄想でした。


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三国
2006年1月3日 18:15:18 管理人
なるほど、三国時代に分裂した集団がありそうですね。蜀へは、華南方面へ、魏へは帯方郡へ、呉は。みな同じ文化を持っていたのかな。後から先から日本へ??隼人というと海部でなかったでしたか。物部というと製鉄集団。どちらが先に??私は詳しくは原稿では手を出さないつもりですが、それでも伝承面からどちらが先か、めぼしをつけねばなりませんね。ライン面は??考古面はどうでしょう。紀氏さんてきにはウ系と秦系??


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「贏」の姓から 祖先は「夏の禹帝」
2006年1月3日 22:38:56 いばらの紀氏
秦の始皇帝、本名 姓は「エイ 贏 (勝・葛?)」名は「 政・・・・「允」まさ?」
「允」ム=私=禹 + ル=禹の足
「贏」の姓から 祖先は「夏の禹帝」を感じます。
始皇帝系の秦氏も禹の末裔らしいです。
先祖を同じくしている・・・・人類皆兄弟でしたが、なぜか争う?
アベルとカイン(夏カ 殷イン)のように。


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水準測量?
2006年1月3日 22:41:34 いばらの紀氏
犬  隼の祖?
隼・・・・準・・・・・水準器


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「袁術」猿は、「猪」トンに滅ぼされた。
2006年1月4日 4:22:54 いばらの紀氏
楊修は「曹操」が滅ぼした「袁術」の親族であったそうです・・・・・・?
「楊修はものすごく才能があり、これまでにも曹操の考えていることを言い当ててきました。それを曹操は恐ろしく思っていました。そのため、
 曹操「そういう意味で鶏肋といったのではない」
 ってな感じで楊修を処刑しました。
 過ぎたるはなお及ばざるが如しってことです。才能は十分でもほどのよさをわかってはいなかったのですかね。
 でもまあこれだけで処刑したとは言い切れません。楊修は曹操が滅ぼした袁術の親族であったそうですし。その他にもいろいろあったのかもしれません。」    わかめ共和国さんの引用デス


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訂正 「始皇帝系の秦氏も禹の末裔らしいです。」
2006年1月4日 4:44:46 いばらの紀氏
漢字からの感じから始皇帝が禹系を嫌っているのに
「贏」の姓から 祖先は「夏の禹帝」を感じます。・・は・・おかしい!と思い調べました。

この子孫が&#23348;(えい)氏を名乗り秦に封じられ、春秋戦国時代の秦の祖になったといわれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%9D%A5

悪来
http://www.baobab.or.jp/~matumoto/sangokushi/gi/teni.html

夏候惇 は 「一つ目」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~flowkurage/up063.html

「贏」余る?・・・餘 ジョ・・・月に居る ひきがえる系 ジョカ


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中国神話の中で、人間を作ったとされる女神
2006年1月4日 6:12:17 いばらの紀氏
下記の妖怪は渡来人に関係しているカバラ的 
http://www.geocities.jp/ouroshinga2000/page057.html

蛇 鳥 犬
虎の身体に龍の頭、馬の尾
5人一組の鬼のグループ
人の頭に蛇の身体・・・黄色い土と水を混ぜて泥を作ると其処に縄をたらして引き上げた。

フッキは雷神の子で、八卦を定めたり
シユウは戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など全ての優れた武器も発明したと言う。
頭の天辺に目があるが・・・メイソン?
四本足で一本の角・・・・・ギリシャ神話?
顔を9個持つとも言われる。・・・・顔が8個並んだ姿・・・七芒星
火光獣 ・・・・アスベスト・・・YHWH?南の果ての火山の中に棲んでいるとされた

馬化・・・馬鹿のモデル・・・・「猿」に似た怪物
翼のある蛇・・・駄天使・・・顔は人面で身体は山犬、鳥の翼・・測量士
猪の毛が生えており・・・宮殿の建築や河川の改修など大きな人夫仕事が発生し、労役を課される
木の精なので水がないと生きられず、水を与えないと干乾びて死んでしまう。・・・・カッパ・・・木の精・・紀氏?

ウ(禹)によって殺された防風氏の臣下が主君の後を追って胸に穴をあけて死んだ・・・
円筒埴輪のモデル?
「ウ(禹)によって殺された防「風」氏・・・風神VS雷神(禹は雷系?)
キョウシ(キョンシー?)の一種・・・ウシ(牛)・・シュメール・・バール・・禹氏?
青い目を持つ牛の様な怪物・・・青い目を持つ牛(禹氏の末裔?)
九頭鳥・・・七芒星・・・・イスラム教徒
犬戎国・・・・モンゴル
一人だけが病気になる事がある・・・・・信者になる。
「ミサゴ」は鷲に似た鳥で、鳴き声は普通のミサゴと同じだった。
黒い模様があり、頭は白く、嘴は赤く、虎の爪を持っていたという。・・・メイソン?(ガク 鰐氏?)
独角鬼という一本角の鬼・・・・禹系?
細長い一枚の白布・・・・・・・秦氏?
鴨の妖怪・・・・・・・・・・・鴨氏?



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贏政の真の父親は呂不韋
2006年1月4日 6:21:29 いばらの紀氏
奇貨居くべし 天命篇
1月24日21時2分 コメント:呂不韋(りょふい)と言う豪商が、秦から人質として趙に来ている子、子楚(しそ)と知り合い(子楚は秦の昭王の皇太子、安国君の子)、「奇貨(きか)おくべし」とつぶやいたことに由来する話です。 
 その後秦に行った呂不韋はあらゆる手を打って、子楚を安国君の後継者にすることに成功し、安国君(孝文王)の後を継いで、子楚は秦王(荘襄王)となります。その子の贏政(えいせい)が3年後に13歳で即位するわけですが、実は、贏政の真の父親は呂不韋であった‥‥。贏政、後の始皇帝です。
 中国の歴史って、頭の中で繋がってくると、けっこう興味深いですよね。
http://www.alcblog.jp/item/4120031594.html


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禹系VS始皇帝系
2006年1月4日 6:30:29 いばらの紀氏
呂 不韋(りょ ふい [L&uuml; Buwei ] ? - 紀元前235年)は中国戦国時代の秦の政治家。始皇帝の父荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。始皇帝の本当の父親との説もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 目次 略歴 呂不韋は各国を渡り歩いて商売をし、富を築いた。 ... 呂 不韋(りょ ふい [L&uuml; Buwei ] ? - 紀元前235年)は中国戦国時代の秦の政治家。 ...

始皇帝は禹からの「漢字」の意味をプロカバンダした。
禹の人気にジェラシー・・・・禹系VS始皇帝系が古代日本デモ!。


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2006年1月5日 3:50:22 管理人
小子・サンクスです。



尾張氏追加原稿
2006年1月2日 8:44:02 管理人
とみたさん、松前さんの本から葛城尾張氏のことお教えいただきありがとうございました。そこで原稿に以下のように修正追加しました。はじめて葛城一言主社と尾張氏が結びつきました。ありがとうございます。

葛城一言主神社→白鳥陵→伊勢内宮内宮領域の南端(途中白鳥居の地名を通過):東西緯度34度26分32秒ライン(雄略天皇を祭る葛木一言主神社と日本武尊の白鳥陵(御所市)と伊勢を結ぶライン)ライン地図2

(秒)単位での正確さで3拠点が結ばれており、明らかに人為的なラインであると言える。葛城一言主神社には土蜘蛛石があるが、かつてこの地は葛城邑と呼ばれ、神武即位前期には「葛城邑 或本に云わく高尾張邑」とある。また「又高尾張邑に土蜘蛛有り」とも見え、この地が尾張氏系の高尾張氏の本拠であろう。ここで雄略を祀る葛木一言主社と、尾張氏が結びつく。雄略紀「一言主」条に続く「小子部スガル」条も尾張の小子部氏と関わる。そして日本武尊の妻の一人は尾張氏の娘宮簀(ス)であり、前述のとおり剣伝承に関係しているが、このように日本武尊と尾張氏は、尾張氏が熱田神宮家であることからしても、切っても切り離せない関係にあるといえるだろう。そのことを葛木一言主社→白鳥陵→伊勢内宮:東西緯度34度26分32秒ラインが物語っている。

原稿はこちらです。http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm



?見解をお聞かせください。
2006年1月2日 2:53:45 いばらの紀氏

栃木県の富士塚・浅間神社データ一覧
http://hp1.cyberstation.ne.jp/fyamap_tyf/tochigi_database/tochigi_database.htm

管理人さん今晩は、寺社でのライン 選択が難しいですね、現在が神社でも以前はお寺で古墳のにされていたなど宗派が変更されていたりして時代・年代での比較対照 私には・・・・・・。
以前に「鹿嶋信仰」が全国的だったと聞きましたがどれほどの広がりが有ったのでしょうか?教えて下さい。
鹿島測量士デーダラボッチの足跡(とりの足跡が漢字の祖だそうです、鳥とは「ヤタガラス系」だと良いですね。)日本地図の祖だったら・・・・嬉しいです。
日本の仏教「大乗仏教」もキリスト教や儒教 神仙 の影響を受けていると想います、秦氏の神道は中国系ですか?ユダヤ系でしょうか?見解をお聞かせください。


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図書館で
2006年1月2日 3:20:26 管理人
神道辞典とか神社関連の辞典、全国の地方史があるので、その辺で寺社の起源や発掘状況、古墳の時代あたりを調査できると思います。紀氏さんところは茨城なので、どの辺がちかいでしょうね。一度めぼしつけて行って一気に調べてしまうとか・・・。辞書関連だと、氏族については人名辞典が便利です。7冊くらい組で2万くらいで売ってたような・・・。記紀は岩波のが注釈詳細ついてるので、やや古いですがいいです。国史大系とか神道体系という本も大型図書館にはありますので、ぜひ紀氏さんのように細かく調べたい方は読んでみてください。きっと紀氏さんなら、永遠と図書館から離れられなくなること間違いなしです。もっともその辺もネットで購入できるのでは・・・。あと、鹿嶋信仰の広がりについてはあまりよくわかりません。


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アマゾンで
2006年1月2日 3:32:16 管理人
以下で辞典購入できます。
日本古代人名辞典
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642020012/qid=1136139918/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-8018714-6148753
国史大系
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642000054/qid=1136139961/sr=8-9/ref=sr_8_xs_ap_i9_xgl14/503-8018714-6148753
神道辞典
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4653013470/qid=1136140310/sr=8-6/ref=sr_8_xs_ap_i6_xgl14/503-8018714-6148753
古墳辞典
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4490102607/qid=1136140081/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-8018714-6148753
意外と安いなー。


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文献掲示板
2006年1月2日 5:08:08 管理人
文献を共有する会員制の非公開掲示板作りませんか?もちろん公開にすると著作権に引っかかるのでだめですので。スキャナか何かで写真にそのまま取り込み、重要な資料や論文を共有できれば、総じて、経費も安く済む出すし、調べる手間も省けます。いわゆる会員間で作るネット図書館ですね。うちには三国史記や漢書から唐書までありますし、ただ埋もれているのももったいないですから・・。


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大乗仏教
2006年1月2日 10:30:03 管理人
の歴史は重要ですね。物部や海部と仏教は?かわかつさんの領域ですね。



読書で目から鱗(続き)
2006年1月1日 20:50:01 とみた

日本の神々より引用しますと、
日本書紀の編集会議が行われています。
天武10年の条に・・・川島皇子、忍壁皇子、忌部連首,阿曇野稲敷、難波連大形、中臣連大島、平群臣子首、らに命じて帝紀および上古諸事を記し定める。持統5年の条に・・・大三輪、雀部、石上以下18氏に詔してその祖先の簒記を献上させた。

記紀はご存知のようにいくつものバージョンがあり変更されている。(専門家の研究では日本書紀は、12回も改ざんされているとのことです)。弁護士の藤井輝久氏の本より引用しますと以下です。


百済では呉音を使ったそうです。日本書紀は漢音です。

改竄の経過。

元正年代702年 、和銅年代711年元古事記、和銅年代714年 漢文に和訓を入れる 元明年代、養老年代、天平年代20年、天平年代746年、天平年代760年、天平年代766年、最後は承和834年

要するに藤原摂関家の都合のいいように改竄されたんですね。


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記紀のバージョン
2006年1月2日 2:40:10 管理人
とみたさん、記紀編纂に関わる氏族や、改ざん編集の問題について、お教えありがとうございます。古代史では一応720年のおおよそほぼ成立、修正なしとの考えで、扱っているケース多いですが、聖徳太子の伝承などには、奈良初期ならず中期、後期も視野に入れて研究が進んでいるようです。どのくらいまで信用できるのか、疑問がつきないですね。原稿集で霊異記の伝承と記紀伝承のどちらが元かを考える上でも、相当その辺悩んでいます。どうもおかしい。



新年の読書で目から鱗
2006年1月1日 20:31:36 とみた

皆様、新年明けましておめでとうございます。

今日は早速、近場の神社に詣でに行きましたが、人波でいっぱい、諦めて喫茶店をはしごして、松前健 さんの日本の神々(中公新書)を読み終わりました。目から鱗もありますので、気になったところを一部報告します。

イザナギ、イザナミの国産み神話は、もともと淡路島付近の海人の風土的な創造神話、天の磐戸神話は、もと伊勢地方の海人らの太陽神話、スサノヲの八岐大蛇神話は出雲の風土伝承、天孫降臨は宮廷の大嘗祭の縁起譚、というように記紀の説話はめいめい異なった出自・原素材はそれだけで完結していて、互いに無関係。これらの説話を操作し大和朝廷の政治的権威の淵源・由来を語る国家神話の形にした。

たとえばイザナギ・イザナミの二神は三代実緑によると貞観元年(859年)に無品から最高の1品に神階が特進したのはアマテラスの産みの親につなげるための作為。

尾張氏族の本拠(本貫)は今の愛知県の尾張国で5-6世紀の頃に、その一族の有力者が大和朝廷への連絡・出先機関として葛城地方に居宅を設け、后妃を出すような名門になった。

尾張氏の同族は、火明命を奉戴しこれを祖とする。津守、伊福、石作などの連、丹比宿禰、但馬海直、五百木部連なども同族であったことが新撰姓氏緑、旧事本紀などで知れる。

もっとも有力なのが、葛城の高尾張連(高尾張氏)と尾張国造家の二者である。

オホナムチは出雲の杵築地方で崇拝された地方神(大地の霊格)だ。

スサノヲは、原初的には、紀州の須佐地方の漁民に奉じられた海から来訪する豊穣霊格であった。須佐神社、熊野神社が出雲、紀伊と両方あるが、紀州のほうがずっと格が上だ。紀伊海人のスサノヲと五十猛神は韓土の新羅への交易や大陸侵攻の水先案内となって活躍したので大陸文化との接触やシャーマニズム風祭祀を瀬戸内や出雲に広めた。

いずれも神社の分布と格の高さより推定している。
いずれも朝廷の政策や理念で、アマテラスの親(イザナギ・イザナミ)になったり弟神(スサノヲにされた。

イザナミ・イザナギの国産みと同様な話はポリネシア創生譚にもある。

伊勢の海の民の地方神=太陽神も取り込まれる。鶏がなくと磐戸が開くという神話は南中国の苗族の太陽神話にもあるそうだ。

日本神話の中で、天孫降臨は北方系、天の磐戸は南方系、タカムスビは北方系、アマテラスは南方系である。


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苗族
2006年1月1日 22:05:19 いばらの紀氏
南中国の苗族の「苗」(++と田)ビョウ ベウ なえ (なわ)
「なわ」なら「長さの計測 結び目の対比で角度の作成」
「しめ縄」なら「結界 魔よけ」
意味には、移植用の小さな植物。
     稲の芽生えてまもないもの。
     たなつもの?(田夏物?)穀物。
     たくみさ  
     人民
     すじ(系)魚+系=禹の父親
     すえ(末)
     ちすじ
     子孫  
     かり (夏の狩り)
     
               猫? 根子? 田根子?
      十二支の一位をねずみ「鼠」に盗まれた。
      てん (鼠+召)=雷獣
         (鼠+由)=狼毫ロウコウ・・・いたち
  私は「禹」は苗族系と考えています。


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葛城系尾張氏
2006年1月2日 2:42:26 管理人
とみたさん、尾張氏関連、大変貴重な情報ありがとうございます。原稿集でも、尾張氏と葛城の土地、葛城の氏族との関係がわからないままでしたが、葛城系尾張氏の存在を知るに当たり、光が見えました。さっそくその辺調査してみます。今年もよろしくお願いします。


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神社の格
2006年1月3日 1:39:03 廃人
神社の格ですが、権力者の都合により意図的に操作しています。
現在では、多分神道庁辺りが握っている筈です。
その為、現在の神社の格ではなく、当時の神社の格にあたる資料
(例えば延喜式等)を元にして読み解いていく必要があります。
例えば、京都の下鴨神社近くの河合神社は、延喜式では、下鴨神社等と同じ格を持っていましたが、現在は式内社の扱いになっています。
(余談ですが、今年は、河合神社の21年に1回の式年遷宮が終わる年です)

又、紀伊と出雲で同じ名称の地名がありますが、ここには色々な意味付けがあると思います。(偶然同じ地名がつくとはあまり考えられないです)
そういえば、昔、出雲の語り部だかの話で、大社と熊野は繋がっているような内容を聞いたことがあります。確か、死者の道だったかな?
”死んでから黄泉の国へ行く為に、黄泉の国の門として大社をくぐり、熊野神社迄81日掛けて行くんだよ”だったかな?


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「宮」の付く所は測量での重要なポイントです。
2006年1月4日 12:18:18 いばらの紀氏
 廃人さん今日は、神社の格ですが一宮 二の宮 大宮 宮島・・・・・
など「宮」の付く所は測量での重要なポイントです。(誤差の修正により変った「格」の神社かも知れません 今後ともよろしく御願い致します。



世界遺産 スエーデンの墓地
2006年1月1日 17:27:42 いばらの紀氏
今、テレビ NHKで世界遺産 スエーデンの墓地が映りました。
なんと 上空から見ると、田の字は4つ田の字型に、(墓地の道路が田の形を描いていたのです。
世界遺産にはキリスト教関係が多いですね。
キリスト教のラインですね、ライン河沿いの城や教会が描く「三角鎖」は上空から見ると三角鱗の蛇の様でしょうね。
   また気がそれた!・・・・集中力に欠ける紀氏でした。


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生命の樹
2006年1月1日 21:23:39 いばらの紀氏
紀氏はカバラと生命の樹からユダヤの幾何学的思考を感じました。
生命の樹の3本 6段 (7段) 上下移動(成長)のおける他との角度・距離の変化と関係する数による方形の形と角度・距離の変化。
「田」系の(六芒星)は簡単ですが「☆」五芒星は難解ですが描けそうです。
http://forum.nifty.com/ffortune/genre/magic/qabalah.htm
3:4:5のアルキメデス立体
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para062.htm
生命の木のマカバ
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-12/53.htm
自然数・3角数・正4面体数・正5胞体数
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para063.htm
神戸の郵便番号は666
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para056.htm
1366560…パカル・ボタンの暗号数、もしくはマヤのハーモニック・ナンバー
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para055.htm
メートル法とキュービット
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para006.htm
地球周長と太古の計測単位
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para007.htm
数の多重性を立方体で見る
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-17/para001.htm
エジプトとシュメールの数の論理
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-8/(KIN240)-852.htm
数学は宇宙を貫く普遍の真理である
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-8/(KIN209)-800.htm


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七芒星
2006年1月2日 10:52:45 いばらの紀氏
七芒星
トランプは52枚。 でも、なんで52枚なのか? 
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/7647/coffee_vol_51.html

六芒星X八角形(天武の墓)
花札の変態の特徴に12スーツ各4枚合計48
http://members.at.infoseek.co.jp/stone2/hanafuda4.html
「大三」(おおざん)、「八」や「松桐坊主」の「一二三」などの出来役が「表菅原」と同じである
「梅に鴬」の札に特殊な役割があったことを想像させるが
7月の種札の猪も「道才カルタ」にある。読み札は「向かうシシに矢立たず」となっている。
蛇の目とは油紙のことでこれで肉を包んだ。五段目というのは前述した仮名手本忠臣蔵の、山崎街道の場のことである。おかるの父から金を盗んだ定九郎は猪に間違われて勘平に撃たれ果ててしまうが、そこから猪のことを五段目といったのである。それはおおっびらに肉食ができなかったことからできた隠語でもある。
鹿は格好の和歌の対象で、数々の歌に詠み込まれている。鹿は雌雄の結び付きが強く、独りの鹿に別離や悲恋の心を託したのだ。よって、この月の札はまさに新古今カルタといいたい所だが、ほとんど同じ意匠が「花鳥合わせカルタ」にある。
雨を降らし、その雨に似合いの柳を配し、後に最も柳に相応しい人物に入れ代わったという図式が思い浮かぶが、身を持ち崩して山賊になり下がり猪と間違われて撃たれ果ててしまう人物と歴史上の偉大な能書家を入れ替えてしまうのだから、ものすごいエネルギーである。


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花札 猪? 鹿? 蝶(秦氏) 
2006年1月2日 10:55:30 いばらの紀氏
雷神と稲妻の意匠であるが、それが「よみカルタ」の鬼札から来たものとするなら「鬼」=「雨」の概念がスーツを代表することとなって、実は雨が先で定九郎は雨に配された「風物」だったと考えることができる。現に「八八」などのゲームでは雨札をすべて素札にみなすことができ、「よみカルタ」でいう所の鬼札あるいは化け札としての性格が強いのである。
定九郎の姓が斧(おの)なので音が同じ所から小野道風に入れ替わったという説もありなかなかおもしろい。しかし、11月の札であるにもかかわらず蛙が跳んでいるのである。蛙を見る小野道風よりは、仮名手本忠臣蔵の山崎街道の場の方が季節としては合っている。この月は鬼が棲む如く興味の尽きない月である。
「鳳風」が登場する。鳳風は前が麒麟、後ろが鹿、首は蛇、顎は燕、口ばしは鶏、背は亀、雄は魚で羽に5色の模様がある鳥となっている。そして、梧桐(ごとう=あおぎりのこと)に宿る所から桐に配されたと思われる。鳳鳳には天下に正しい道が行われていると現われるという故事がある。正しく賭博をしろという意味では多分なく、金を賭けるなという意味かもしれないが、皮肉の効いたユーモアではある。地方札には「金銭無用」と書かれた物がありそれと同じ発想がもしれない。


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飛鳥と同じ石造? バリ
2006年1月2日 10:57:09 いばらの紀氏
トカラ人(飛鳥と同じ石造?) 風水?・・・・バリ
図16はあちこちで見られる石像ですが、 花を毎日飾っています。
花もお供えです。
「日の経」(ヒノタテ)とは東、 「日の緯」(ヒノヨコ)とは西のことです。
香具山は東、 畝傍は西、 耳梨の青菅山は背面、 つまり北にあり、 吉野は影面、 つまり南のかなたにあるという意味です。
牛は確かフリーメイソンのシンボルで、 神殿が牛の形をしていたというので、 単純に牛の形をした建物を設計したわけです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s9705/na003.htm


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日の経
2006年1月2日 22:29:54 管理人
紀氏さん、解説ありがとうございます。またバリ島での山と海と東西関連、かなり重要です。そのページに紹介されているこの万葉集、記紀編纂当時のライン理論を理解する上で貴重きわまりないです。さっそく原稿に生かさせていただきます。ありがとうございます。

*『万葉集』巻一、 「藤原京御井歌」
 大和の青(アオ)香具山(カグヤマ)は
 日の経(タテ)の大き御門(ミカド)に
 春山としみさび立てり
 畝傍のこの瑞山(ミヅヤマ)は
 日の緯の大き御門(ヨコ)に
 瑞山と山さびいます
 耳梨の青菅山(アオスガヤマ)は
 背面の大き御門に
 よろしなへ神さび立てり
 名ぐはしき吉野の山は
 影面(カゲトモ)の大き御門ゆ
 雲居(クモイ)にそ 遠くありける



謹賀新年
2006年1月1日 8:17:31 管理人
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
さて、正月そうそう、原稿集、ようやくレジュメ状態から修正、原稿を書き上げました。まだ総覧という形にちかいですが、アドバイスよろしくお願いします。
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm


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参考にしてください。
2006年1月1日 10:53:07 いばらの紀氏

 今年もよろしく御願いしますサテ、
古代の二大勢力「YHWH系」徐福系秦氏と「夏の禹系」出雲族が勢力・測量での戦い(測量での精度)で秦氏が勝利し出雲系鴨氏(虻)をM&A配下に加えた。・・・・(紀氏的日本史観。)

「紀・霊異記諸伝承の比較と屯倉支配伝承の分析を通して」
http://tokyo.cool.ne.jp/torai-jin/kyuyaku.htm
神と山で長く格闘(狩猟)する点
「狩猟」には、「測量」の意味も有ります。

「虻」が天皇の手のひじの上の肉を噛んでいる
「牟
「虻」ボウ・ム「私は禹)=亡:ほろびた禹系。【亡人】:他国に流浪したひと。
「卯」ボウ・う(禹):一二市では、4位 方位は東 月 2月 五行では「木」(木)紀氏?動物では「兎鷺」【卯花】うのはな(塩??)「空木」(境の木)の花。【卯杖】六衛府から朝廷に奉った桃・梅などの木で造った杖。(災いを払う)   「&#21356;」われ(私卯禹?)ギョウゴウ あお(青は東の色)
ボウ=牟 卯 房(里見八犬伝?)「 坊 」(後のお楽しみ?) 棒 某(それがし 私 禹?) 昴 牡 矛(測量の道具)・・・・沢山あります。
ボウ「&#34513;」(虫 ムシ ム=私は禹)+(「牟」=牛(禹氏の上の「ム」私 禹)   「かざめ」幼虫 蟹やサソリ かまきり(銅鐸の紋様)


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2
2006年1月1日 11:29:28 いばらの紀氏
「雀」が天皇に危険を注意する
「雀」・・・・小さい「鳥」(測量での下見役) 鈴目?・・鈴木=穂積氏=熊野の聖=「ヤタガラス」。
・・・(全国から神童を集め英才教育を目指したのデハ?)
蚕の代わりに「子供」を全国から集めてしまう失態談・・・

私の地域では、「蚕」サン(産?太陽? 3?・・・・)を「オコサマ」(御子様?)と言います。

天皇からその子供を自身で養うように命じられる。
養い役は「壬生氏」いよいよ関東・埼玉 「円仁」?千葉(香取神宮?の神 フッ主)

子供と家畜
子羊は家畜 人間の子も家畜?・・・・(どこかの神の宗教観?)

「田に水を引くときに、雨が降り出したので、木の下に隠れ鉄の杖を突きたてていた。ちょうどそのとき雷鳴がとどろき、農夫は何を思ったか杖を振り上げてしまった」
「田」(一里四方の土地)の「水引き」(色分けした紐)での「測量」のときに「雨」(う 禹は水神 バール 「出雲族」) 「降り出した」「山から下りてきた)「振」ふる (刀の数 ふり・・・切りつける?「木の下に隠れ」(「木」は紀氏?壬生氏?が護衛?)「雷鳴がとどろき」(援軍のドラの音)がとどろき、農夫(田夫「屯田兵」は何を思ったか「杖」(武器 鉾)を振り上げてしまった」(鉄の杖=金+矛=鉾)


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藤原氏は秦氏系
2006年1月1日 14:12:58 いばらの紀氏
「雷が落ち」(ライ「儡」 「イ」+「田」+「田」+「田」)・くぐつ 人形使い 葛 酒樽 ライ病?・・・(秦氏?軍門に下る・・・この時に「徐福系秦氏」が「YHWH」の配下になり、関東の鹿島に (「タケル」=武人の俗称?)
「小さな子供(小子)となった。」(小子部スガル?)
「楠の木で水槽をつくり」(酒樽を作り)「竹の葉」(ササ:酒)を「浮かべる」(ほろびた禹系。【亡人】:全国に流浪)ように指示した。

(疲れたのでアバウトに成ります。)
「蛇を頭に巻きつけた子供が生まれて落ちていた」・・・「孫悟空」と同族

「白猪」屯倉(白人の豚・・・・・「猪八戒」と同族

「鬼」は「髪の毛も抜け落ち」、さんざんな目にあって逃げていった・・・「鬼」は禹が測量の分析に没頭した時の文字。新の始皇帝の時に「悪」のイメージに変えた。「髪の毛も抜け落ち」・・・坊主・「仏教徒」(壬生氏の円仁など)

、「鹿」(東西南北上下・世界)の「狩り」(測量)をする。途中「アキツ」(蜻蛉 とんぼ 銅鐸の紋様 はたおり虫 秦氏?)に「噛」まれる。・・・カ「夏」ム「私」(禹)
「鹿」ロク 六 (東西南北上下・世界の権力者)になった山の「神」(山王)と戦う。そのとき蒜(ヒル 蛭子 胡 恵比須 ユダヤ)を「噛む」(かむ・・・カ「夏」ム「私」(禹)

伊吹山で蛇になった山の「神」と戦う・・・・「神」カミ 夏カ巳ミ 箕 魅 壬 彌鹿(弥勒) (申=猿 孫悟空系・・・秦の始皇帝と敵対関係・・・禹系)
尾張」氏の女・・・・?
三輪山の蛇「神」(夏カ巳ミ)と戦って捕らえてこさせる雄略。
「虻を加えて天皇を守ったアキツをほめて」・・・・「虻」壬生氏・・・「アキツ」秦氏(徐福系?)
「太」(さしはさむ?かも)「もも」(直角三角形)・・・・「ひじの上」・・・・「アキツ」・・・・(直角三角形)・・・「田」は直角三角形の習合。
穂(田)積(集)氏・・・・・・「田図」を集め(日本地図を作成する臣?)
景行天皇(日本武尊の父でもある)の「全国の屯倉と田部の設置」・・・・測量私設を全国に設置?


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2006年
2006年1月1日 23:06:58 廃人
今年も宜しくお願いします。
管理人氏へ、
総覧の中で気になった点があるので(出来れば)返答下さい。
比較対象として使用している”旧約聖書”は
今現在日本で手に入る普通の聖書の旧約部分を参考にしたのですね?
他の書籍(例えば、シリア・エチオピア語の旧約や偽書・外典等)は
参考にされてないのでしょうか?
現在の聖書は、色々な改竄の上で成り立っていますので、
出来れば、偽書・外典等もあったった方が精度の高いものになると思います。
又、レイラインに浅間社(しかも奥宮)が乗っているのは何か理由があるのでしょうか?(その時代に創設されていない筈なのに・・・)
あと、無駄なラインも多いように思いました。
このようなラインを論文等に盛り込む際には、番号や色を付けて、そのライン毎に概略を記載した方が良いのでは?
追記
橘って原産は伊豆の方ですよね?
色々と根が深いのですが、この辺で。


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ご指摘ありがとうございます。
2006年1月2日 2:35:13 管理人
紀氏さん、廃人さんさっそくお読みくださりありがとうございます。 特に「蛇を頭に巻きつけた子供が生まれて落ちていた」・・・「孫悟空」と同族 「白猪」屯倉(白人の豚・・・・・「猪八戒」と同族 「鬼」は「髪の毛も抜け落ち」、さんざんな目にあって逃げていった・・・「鬼」は禹が測量の分析に没頭した時の文字。新の始皇帝の時に「悪」のイメージに変えた。「髪の毛も抜け落ち」・・・坊主・「仏教徒」(壬生氏の円仁など)
とのご指摘、興味深く感じます。ある意味中国的な伝承なのかな??西遊記の作者玄奘とのかかわりについては、元興寺を建てた道昭関連の弟子あたりで、いろいろ日中でリンクがあった模様です。
廃人さん、ご指摘のどこの旧約聖書を使用したかについてですが、外典も目を通さねばなりませんね。また中国景教経典にあるはずの旧約についても想定したいですね。まだ景教関連だと新約関連しかでていませんが、彼らは旧約も持っていたはずです。
また、ラインの件、少なくても論文には無駄なラインが多いですね。筆者というのは、おかしいとうすうす気づいてはいるのですが、いいかげんに飛ばしてしまうことが多いものです。ほかにも、きっとあれっというようなミスや論理矛盾なんぼかあると思いますが、いろいろご指摘アドバイスいただければ幸いです。


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ラインわけ
2006年1月2日 2:45:36 管理人
そう早く色分けライン地図を作成しなければ・・・。
あと浅間神社、そう、今の位置ではなく、6キロ?ほど北方にあったとか、その辺も年代確定していかねばなりませんね。アドバイスありがとうございます。


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多分
2006年1月3日 1:15:27 廃人
旧約は必ず持っていたと思うよ。(編纂体系は別として)
現在の日本で手に入る聖書という形態は存在しないものとして、
調査を進めた方が良いと思いますよ。
(大学の図書館の6F奥に偽書・外典の書架があったから行ってごらん)
余談になりますが、
昔、ユダヤ民族の研究をしてた際に、口伝でしか伝えていない内容を
一部だけ13世紀位に文書(光輝の書)に記した、という内容を某ラビから聞いています。
聖書の編纂は、その当時の社会情勢を反映して行っているものなので、
気をつけて探索して下さい。


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口伝
2006年1月3日 4:09:20 管理人
廃人さん(廃人はちょっとやばすぎでは・・・いやその名前返事しにくい・・)、アドバイスありがとうございます。偽典外典あたりも調べてみます。
口伝の実態については、確かに口伝に詳しい人に聞いてみるのもいいですね。古代人の記憶力というのも例の古事記のケースのように卓越したケースもあり、理解を深めるためにも大事かなと感じます。社会情勢や教派の特色なども、見えてくるかどうか、その辺も考慮してみます。



新年のお奨めHPデス。
2005年12月31日 11:00:22 いばらの紀氏
不思議の国日本、身の回りのことから手を着けていきましょうか。きっとびっくりするような結末が待っていることでしょう。http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0000.html

  皆様の未来に幸多いことを祈念しております。

                  2005 12-31 晴れ 紀氏。



大田田根子は男 祭らせたは見張らせた?
2005年12月31日 2:32:52 いばらの紀氏
大田田根子の妻は出雲神門臣の子・美気 ...
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n2keh2.htm
呉の勝の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成
http://kamnavi.jp/ym/osaka/ibaragiai.htm
出雲の神裔の太田田根子命に出雲氏族の祖神を祀らせたというところが、要注意なのだ。
建御雷神と建御名方神の戦いは無かったとする説もある。
鹿島の地に建御雷神を祀った物部氏は、蘇我氏と争って敗れ、本宋が没落したので、代わって中臣氏が鹿島神宮と結びつくようになったといわれる
巨石も聖地の表徴にすぎないのではないか

http://boat.zero.ad.jp/~zbd85319/nazo5.shtml


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須佐之男スサノオ  考
2005年12月31日 4:15:31 いばらの紀氏

「須」(あごひげ・・・ユダヤ?「シン」の音 津(進む意味の語源)神 秦 申(猿 サルタヒコ?)辰(北極星) 臣 芯 
「佐」(助ける)
「之」(行く)
「男」(田夫)

素戔嗚尊
「素」は「シ」(主)の音 
「戔」サ(戈ホコ古字形では、戈ホコをたがいに打ち合う・・・食い違う・・・杭違う矩クアアー 嘆く さしがね計測?)
「嗚」烏(ヤアタガラス?) 鴉(牙は商人)  狩らす(「狩」は測量の隠語) 駆らす(軍隊の列)
「尊」古字形では、酒の壺と両手とうとい(禹の父は「口」酒甕に逆さに入れられ「河」辺の塚(古墳?)と鳴(なり)霊として祀られる。)

紀氏的スサノオ
「主を助け測量目的に進む軍隊の臣」・・・・いかがでしょうか?
(銅鐸での測量に失敗しアアー 嘆くヤアタ鴉)  
後に測量は古墳での秦氏に引き継がれた。

 「 漢字のこころ」 の紀氏でした。


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氏族の盛衰
2005年12月31日 4:54:26 管理人
測量技術を担当した氏族にも盛衰があったのでしょうか。
秦氏の銅に変わって鉄をもって進出してきたのが漢氏といわれ、またかれらは百済から献上されてきた伝承をもつ新漢氏に、とって変わられたとされます。航海民の吉士集団も、時代の変遷の中で、仏教や芸楽を取り入れていったとされ、はてさて技術の変遷は免れ得なかったのでしょう。測量をした臣は、はてさて秦氏に引き継がれたのか、なにかその辺の証拠がでてくると一大紀氏理論の発生ですが・・期待します。


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八幡(ヤアタガラス?)=胡人(ユダヤ)
2005年12月31日 9:14:48 いばらの紀氏
ああー「キョウ」=「羌」えびす=「嗚」アアー 嘆く 烏(ヤアタガラス?)=胡人(ユダヤ)
ああー「キョウ」=「羌」えびす たけ(武 長・・・) コウ(工 鴻 甲 公 高 興 候 講 考 広 梗・・・・桔梗紋は?晴明)
「羌」古い字形は羊と人(禹の足?)からなり、羊を牧している人の意(牧使・・・牧師?)
中国西部に住む族名。「胡人」 胡(えびす・ユダヤ)


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『狩猟の神』は「狩」測量の神?
2005年12月31日 10:17:04 いばらの紀氏
バフォメッド
サバトの山羊。サバトとは、魔女の集会のこと。
山羊の頭、女性の体、カラスの翼を持つとされているが
アラビアではアルファ星をハマル(羊の頭)と呼んでいました。
http://www.black-magic.jp/gisiki.htm

・立派な角をもち、急峻な断崖に住む山羊(ゴート)は、誇り高い賢者の象徴。また、山羊の上半身と魚の下半身という全く異質なものが混ざり合わさった「海羊」(カプリコーン)は、錬金術的なものを象徴しています。
・山羊は悪魔的なイメージを持っていますが(例えば、悪魔の角は山羊の角である)、これは一神教(キリスト教)以前の古い土着の神のイメージです。
・半魚のカプリコーンのイメージは古く、ギリシア・ローマ時代から存在します。更に古くは「占星術」「錬金術」を創始した古代バビロニアの知恵の神「オアンネス」にまでそのモチーフを遡ることができます。
・大きな角を持つ山羊は勇猛さを表す、非常に男性的なシンボルであると言えます。
  五方星 ☆  ・・・・晴明 !(キリスト教以前のギリシア・ローマの神々の名残です。五方星(ペンタグラム)は魔術や錬金術で用いられる結界のマーク)
山羊の頭と五方星の紋章
山羊と五方星という悪魔チックな組合わせ。悪魔はよく山羊の姿で描かれますが、それはキリスト教以前のギリシア・ローマの神々の名残です。五方星(ペンタグラム)は魔術や錬金術で用いられる結界のマークであり、五行を表すマークでもあります。この組合せは悪魔チックというよりは錬金術的な組合せと理解したほうがよいかもしれません。
http://www.va.rosenet.ne.jp/~hanoy2501shang/musi04.html


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一対の創造神
2005年12月31日 10:18:39 いばらの紀氏
伏羲{ふくぎ}と女ス(じょか)と一対の創造神
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0043.html
頭に注目すれば「Ψ」型の角がありどうやら光っているようにも見えます
(「主」:古い字形では「木」「大」らしき上に「牛」の古字形の上と同じ「Ψ」などと「・」「Ο」「陰部?」(「Ψが「山」なら「光」)紀氏の考 から。

現在のキリスト教の異端「駄天子・悪魔」は、豊穣神 (繁栄 繁殖 錬金術 =欲望 獣のこころ・・・平和の為「法」(トーラ)虎?「禹」は恐ろしがる。)
(規則正しく毎日現われる「太陽」は「法」バイブル? 日々、変らず 正しい 穏やかに暮す。進歩 発展を望まない。)
豊穣神 (繁栄 繁殖 錬金術 =欲望 獣)
(月や星座のように周期による変化が有る、「生〜死」・・・そして「再生」 遺伝子の変異 進化・・・・欲望の実現をめざす。)
 突然変異は彗星や隕石(変異の予兆 恐れる)・・・環境の破壊・・(ノアの大洪水など)

地球の歴史では私たちの知らない文明の崩壊が何度も繰り返されていたの鴨。


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Angles”とは“Angle”で「角度」、「陰謀」の意味
2005年12月31日 10:43:52 いばらの紀氏
 「測量をした臣は、はてさて秦氏に引き継がれたのか、なにかその辺の証拠がでてくると一大紀氏理論の発生ですが・」

 RE  「日本神話の「出雲の国譲り」です。神武東征の際に、多少の戦闘はありましたが、最終的には武力による簒奪ではなく、平和裡に王権が「譲渡=cede」されているのです。このポイントも将来大きく取り上げねばならない不思議の一つなのです。」
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0045.html
、「夏」とは中国をさす呼称にも用いられます。そして人類最古の文明と呼ばれる「シュメール」は「Sumer」と現在記されますが、英語の「summer=夏」にも通じると考えられませんでしょうか? 太田龍氏はシュメールの足跡は中国満州まで辿れると言ってます。
  獣の巣{洞穴}を「den=田」と呼ぶのです。
 “Angles”とは“Angle”で「角度」、「陰謀」の意味があり
 


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消えたイスラエル十部族
2005年12月31日 10:53:26 いばらの紀氏
田道間守の子孫である蘇我氏、そして蘇我の血を引く聖徳太子は秦氏により、その「幻の奥義」の内容を理解し、また仏典の教えに同一のものを見出し、神道派の物部氏を討ち滅ぼしてまでも仏教導入を推し進めています。
天皇が本来、神道における祭祀を行い、託宣を受ける存在として君臨してきたものであるならば、これは大いなる疑問と言わざるを得ません。渡来してきた書物が、どれほどありがたい物だったにせよ、今までの神道という宗教をそっちのけにしてまで夢中になるとはどういうことでしょうか? 

確かに太子にはイエスに重なる伝承がありますが、その実在に疑問を投げかける研究者も少なくありません。この問題はまたの機会に述べるとして、太子はどうも弥勒にこだわっていたようですね。

権謀術策の限りを尽くした藤原氏は、やがて他氏排斥の犠牲者たちの亡霊におびえるようになります。そこで陰陽師にすがるようになるのですが、この陰陽師とは何者だったのでしょうか?

http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0031.html

笑う門には福きたる

客人は異人か神か妖怪か
http://vimon.ld.infoseek.co.jp/Zipang/j-0032.html
笑う門にきたる福の神が見えてきたでしょうか?

 来年は犬歳 隼の年ですか。


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ヤギ
2006年1月1日 1:12:07 管理人
紀氏さん今年もよろしくです。「立派な角をもち、急峻な断崖に住む山羊(ゴート)は、誇り高い賢者の象徴。」この記載注目です。諏訪の鹿神信仰の起源はどこか?きになってます。


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香取も鹿・鴨の姿造り、
2006年1月2日 19:54:41 いばらの紀氏
「諏訪の鹿神信仰の起源はどこか?きになってます。」

・・・山羊の代用の鹿・・香取も鹿・鴨の姿造り、
鹿は鹿島に春日・・・・香取・諏訪は、鹿・鴨の姿造り、

香取・諏訪は鹿島と春日に恨みでも?

 山羊にYHWHを感じ 鹿に 夏の禹を感じるのですが????
徐福系は、始皇帝系なのか?夏の禹系なのか?鼠・・祖は同類…かも。